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2013-03-23

「仏とは自覚ある大常識者である。(弁栄聖者)」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

弁栄聖者の伝記といえば、
聖者の高弟のお一人田中木叉上人の『日本の光(弁栄上人伝)』が、名著として知られ、
数学者の岡潔博士も生前、推奨してやみませんでした。

遠く釈尊、日本では根強い弘法大師空海などは、
伝説的要素が強く、史実との判別が困難であり、
また、『高僧伝』も同様であり、
禅者で高僧と言われる方には、超俗的な印象が強く、
「常識」とかけ離れているようにも思われます。

「仏とは自覚ある大常識者である。」

『日本に光(弁栄上人伝)』に記されている弁栄聖者の言葉です。

弁栄聖者を学んでいて、ありがたいと思われることの一つは、

「仏(応身仏)」の実像が、具体的にイメージし易くなる点です。

「仏(応身仏)」を考える場合、
「人格、霊格(慈悲)」と「認識力(智慧)」の両面から捉えると、
認識のブレが少なくなる
ように思われます。

以前、弁栄聖者のこの言葉を巡って、
「観念的一切智と認識的一切智」の記事にしましたが、

今回は、聖者の別の逸話について。

弁栄聖者ご在世中、
聖者の身近にいた者が、聖者のお金を勝手に使い込んでしまう
という事態が起こりました。

ちなみに、聖者はご自身を「一労働者」と自己規定され、
お寺の再興、現在の大正大学、光明学園のための設立資金を、
布教活動等による清財を充てられていました。

聖者は、お金を不浄とは捉えず、
「(お金に使われずに)頓着せずに、お金を使うことが大切である」
と語られたそうです。

また、ついでながら、いつか記事にしたいと思っているのですが、
弁栄聖者には、定住の地、寺といった処はありませんでした。
最晩年に神奈川の時宗当麻山無量光寺の住職になりましたが、
実情は、日本各地への布教の日々でした。

釈尊、イエスを彷彿とさせる所以でもあります。

話しを元に戻します。

当時、聖者が貯められたかなりのお金を使い込んでしまった者が、
なかなか非を認めようとしなかったので、

弁栄聖者は、「その者を、警察に訴えるように。」

と指示を出されたそうです。

聖者の信者達が、「聖者としてはあまりにも無慈悲である」と感じながらも、
その旨をその者に伝えると、
その者は涙を流して、反省の意を表したので、
かわいそうに思い、聖者の指示に反して、許してしまったそうです。

しばらくして、その者は、また同じ罪を続けたそうです。

後日、弁栄聖者は、

「その者が、その時、涙を流して反省の意を表わしたのは、嘘ではないであろう。
しかし、意志弱く、また、同じ罪を犯してしまう。
自分の力では矯正できない者のために(本人に代わって)、
監獄があるのである。」

との聖者の透徹した「大常識」の一喝を受け、
信者達は、深く納得し、反省されたそうです。

この逸話に関して、もう一つ示唆に富む逸話があります。

弁栄聖者の高弟のお一人笹本戒浄上人に関するものです。

聖者同様に自分の財産を使い込まれた(盗まれた)その信者は、
その者を「警察に訴える」と、戒浄上人に相談したところ、

予期に反し、戒浄上人は、「お止めない」と制止されたそうです。

弁栄聖者のこの逸話をご存じであったその者は、
大変承服し難い面もちで、笹本戒浄上人に、

「弁栄上人も、警察に訴えたではないですか」と。

それに対し、戒浄上人は、一言

「弁栄上人とあなたとでは、格が違います」と。

大変示唆に富む逸話として、長く記憶に残っています。

蛇足で恐縮ですが、
もちろん、戒浄上人は、この信者を貶しているのではありません。

聖者の行為は一見無慈悲とみえながらも、「大慈悲の発露」
それに反し、この信者(一般に私達)の行為は
聖者と表面的には似ていながらも、その発露は、「私憤」から

笹本戒浄上人は、
生前、ご自身を弟子をとれる器ではないと、思われていたそうです。
もちろん、弁栄聖者の力量に接しておられたからであり、
人の教育、指導には、
「大慈悲と大智慧」、「緩急の自在さ」が求められるからだと推察されます。

戒浄上人は、衆生済度に不可欠な要素として、

「大円鏡智」と「妙観察智」が開けていること、と。


「大円鏡智」と「妙観察智」の詳細に関しては、
『弁栄聖者光明体系 無辺光』をご覧ください。

「大円鏡智」とは、「三世を当念に収める智慧」であり、
「妙観察智」とは、「方便智を生ぜしめる根源的察智力」でもあります。

こんな「智慧」が本当にあるのか、あるいは、本当に身に付くものなのであろうか、
と疑義をいだかれる方もいらっしゃるかと思いますが、

これが弁栄聖者ご出世のありがたさなのですが、
特に、田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』の伝記は、
慎重過ぎるくらいに、史実に忠実に基づいて収集されているようです。


弁栄聖者のこの逸話に関して、

「弁栄上人ともあろう方が、
どうして、身近に居るものの不正を見抜けなかったのか」

とのある信者の疑義に対し、聖者は、

「私はいつも聖らかな世界に関心があるので。」

という趣旨を語られたそうです。

ふと、思い出しましたので、付記します。
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2013-03-16

弁栄聖者の布教活動について

2011年3月11日に発生した東日本大震災から、2年が経過しましたが、
いまだに真の復興とはほど遠い状況のようです。

被災地復興支援活動として、音楽活動が継続的に行われています。

改めて、「音楽の力」を感じています。

以前、岩手出身の宮沢賢治の音楽特集番組を見ながら、
弁栄聖者の布教活動を思い出していました。

弁栄聖者は、「宗教思想家」としてももちろん傑出した人物でしたが、
同時に、「宗教家」としても他に類例を見い出せないと言っても過言ではないほどの、
釈尊を彷彿とさせるほどの「宗教布教家」でありました。


聖者は、「布教」に役立つことは、
その当時利用できるものは何でも利用された
ようです。

聖者は、キリスト教に縁も関心も深い方でしたので、
教会での「讃美歌」、宗教美術、例えば「イコン」、
また、幼い頃からの布教の在り方に注目されておられたと思われます。

聖者は、書、絵はもちろん、
音楽も利用され、詞を書き、作曲もしています。

絵に関しては、聖者の布教初期の頃、つまり、明治時代に、
『阿弥陀経図絵』を数十万部を印刷し、配布しています。
今でいう、「漫画教材」です。

また、音楽に関しては、いち早く、
オルガン、アコーディオンを利用されています。

齋藤乗願「弁栄上人と法城寺」『山崎弁栄展 宗教の彼方、新たなる地平』には、
聖者が伝道に用いられたアコーディオンのカラー写真が掲載されています。

その解説を引用します。

「弁栄が伝道に用いたザクセン(旧プロイセン)製のアコーディオン。
弁栄は、時に、自作の聖歌に節を付け、
アコーディオンやバイオリンやオルガンを自ら演奏し、教えを導いた、
岐阜県では、墨俣(現在の大垣市墨俣町)から穂積(現在の瑞穂市穂積)まで、
小学生多数をひきつれ、阿弥陀経を読み、
アコーディオンを演奏しながら行進したという。」

最近、NHKの大河ドラマ「八重の桜」の影響でしょうか、
「新島八重」特集番組がよく組まれ、
その中で、八重使用のオルガンを見ました。

八重の夫は、あの当時キリスト教の信者であった新島襄。

また、弁栄聖者は、
仏教は年寄りばかりでなく、どうして、
キリスト教のように、幼い時期から布教をしないのか、

と斬新な視点をお持ちでした。

なお、『阿弥陀経図絵』に関しては、
後年、確か、聖者の高弟の一人大谷仙界上人に対し、

「あの頃(『阿弥陀経図絵』を利用していた時期)から「歎徳章」(『無量寿経』)でやっていたら、
もっと布教の効果があがったであろう」


と語られていたと記憶します。


田中木叉上人の『弁栄聖者光明体系』の編纂は、
紛れもなく、人類にとって偉業でありますが、
それを読み解くのは、正直、大変困難かと思われます。

聖者の布教の方便として、よく結縁として活用されたのが、

「米粒に『南無阿弥陀仏』を書き、それを配ること」でした。

「米粒上人」として、ご存じの方もいらっしゃるかと思います。

「その米粒に書かれた『南無阿弥陀仏』を口に出して読む、
その一言が縁となって、大ミオヤのご縁にあずかる」と。

聖者は、衆生の「大ミオヤへの橋渡し役」、
その使いであると自己規定しておられたと思います。

一見常人では不可能なことを、普通にやってのけておられたようです。

奇蹟を示さないと衆生は宗教に関心を示さないからで、
弁栄聖者にとっては、その奇蹟は、あくまでも「方便」に過ぎませんでした。


弁栄聖者は、あらまほしき「真の宗教家」の理想像です。


最後に、音楽に関して、大切なことを思い出しましたので、記します。

聖者作成の音楽は、ゆっくりめで単調な調べの曲が多く、
オルガンと明治大正時代の特徴かな、
と思っていましたが、

「お浄土の旋律は娑婆の音楽とは違う。
『聖意の現はれ』はお浄土の旋律を表わしたものだ」


と、杉田善孝上人は、笹本戒浄上人からお聞きしたとのことです。

2013-03-10

「『精神集中』と『念仏三昧』との相違について」(杉田善孝上人のご法話から)

あくまでも私個人の印象ですが、

杉田善孝上人のご法話は、
弁栄聖者の核心を説かれながらも、
極めて具体的かつ実践可能であり、説得力のあるお話が多かった。

今回の「『精神集中』と『念仏三昧』との相違について」は、
杉田上人のご法話の中で、特に印象に残るものの一つで、
是非、記事にしておきたいと思っていました。

光明主義の念仏会に初めて参加された方は、
長時間のお念仏に対し、戸惑われるかと思います。

弁栄聖者がご提唱されたお念仏の核心は、
「お育て、霊的お育ての念仏」。
これに尽きるかと思われます。

浄土真宗の教義をご存じの方は、
「光明主義の念仏は、『自力の念仏』ではないか」
との疑念が生ずるかもしれません。

一見ごもっともな疑念ですが、
この疑念に対し、
「理屈で納得すること」は難しいかもしれません。

「念仏為先」(念仏を先と為す)。

親鸞聖人の師(よきひと)、法然上人の金言です。

何事もやってみて、初めて腑に落ちるということがあるようです。

弁栄聖者の「霊育」というお言葉からの連想ですが、

「赤ちゃんが、お乳を飲むのは、自力か? 他力か?」。

田中木叉上人は、

「弁栄聖者は、『他力』という言葉をあまりお使いにならなかった」と。

また、「自力となって働かぬ他力は、他力とは言はぬ」とも。

「真の絶対的受動からは、真の絶対的能動が出て来なければならない。」
(「場所的論理と宗教的世界観」『西田幾多郎哲学論集 Ⅲ』)


との対比から観ても、木叉上人のご指摘は、
大変興味深いものがあります。

絶対他力とは、自力他力を超越した「自他不二力」ということなのだと思われます。

前置きが長くなりました。

一見、光明主義の念仏は、
「自力の念仏」、高度の「精神集中」を要する念仏、
と思われがちかもしれません。

杉田善孝上人は、

お念仏する際の、「念の置き方」、「心構え」の重要性を、
繰り返し繰り返し説かれました。

その根幹は、
「人格的な親様(如来様)をお慕い申す情に導かれたお念仏」
でした。

田中木叉上人は、
「最初は『意志の念仏』でも仕方ないですが、・・・
親様のお育てによって、親様が恋しくなってくる」
と。

「お慕い申す情に導かれたお念仏」が何故重要かについて、
杉田上人は、ある時、こんなお話をされました。

「親様(如来様)をお慕い申す情に導かれたお念仏ではなく、
意志による精神集中によるお念仏ですと、
(世間の三昧である)天眼が開け(そちらに心がそれ)てしまうことがあります。
あくまでも、私たちの目的は出世間の三昧(慧眼、法眼、仏眼)です。」


また、 「精神集中のみでは、念仏三昧は開けない」とも。

何故なら、「衆生と親様(如来様)とは、質的相違があるから」ですが、

衆生の根底が、親様(如来様)の法身ですので、

「親様(如来様)にお遭いしたいという衆生の霊恋が法身に感応し、
霊応身の身をもって衆生にお遭いしてくださる。」と。


精神集中は、念仏三昧に入るための不可欠の契機で、必要条件ではあるが、
十分条件ではない。


「『念仏三昧』に入るためには、『精神集中』とは異なる、質的な霊的飛躍が必要である」と。

三昧発得の三身四智の聖者、善導大師は、

「見仏三昧増上縁」として、

如来の三力「大誓願力、三昧定力、本功徳力」が加被され、

衆生が「見仏を得る」
、と記されています。

以上が、杉田善孝上人の、
『念仏三昧』と『精神集中』の相違についての、
極めて重要なご教示です。

如来の三力「大誓願力、三昧定力、本功徳力」が加被されることによって、
精神集中とは異なる念仏三昧という霊的飛躍が成就される。


「三力の加被」が、決定的に重要なポイントですが、
もちろん、弁栄聖者も大変尊敬されていた弘法大師空海の真言密教との関連
例えば、「加持」も予想されます。


弁栄聖者も、重視された『法華経』にも、

「其心の恋慕するに因て乃ち出て為に説法す。」(『法華経』)と。

2013-03-02

「真実の自己」について(笹本戒浄上人ご指南)

禅とも因縁の深かった、
弁栄聖者のご高弟笹本戒浄上人のご法話等には、
同じく聖者のご高弟田中木叉上人とはまた違った有難さがあります。

一般書として出版された笹本戒浄述『真実の自己』なる書があります。

戒浄上人は、東大で心理学を専攻し、
催眠術の研究を、元良勇次郎教授の元でされました。

その実験結果から、
催眠術における不思議な現象は、
仏教での「三昧」の状態での現象であることを確信されました。

そこから得られた有益な戒浄上人の知見があります。
現代の私達にとっても、役立つ情報だと思います。

①「催眠現象」は、「三昧」の状態であるが、
 五眼のうち「天眼」のレベル。
 したがって、広義の自然界(いわゆる「心霊現象」を含む)を認識できる。


②「天眼」であり、「我」が残っているため、
 精確に事象を認識できないことがある。
 また、極度の「精神集中」を要するため、
 いつもいつも「三昧」に入れるわけではないこと。


この2点はとても重要なご指摘で、
その適用範囲と留意点に言及していることになります。

つまり、

〇「催眠状態」で、大宇宙(自然界と心霊界両面)の全てが認識できるわけではないこと。

また、

〇「催眠現象」は、科学的実験の定義、再現可能性の点で、立証面で困難があること。
 これは、催眠術で有名になった方々の不正が明るみになり、
 非難を浴びる要因ともなっています。
 つまり、「精神集中」が持続できず、
 それに反し、周囲の期待が高まり、それに応えたい気持ちが昂じ、
 つい不正を行ってしまう。
 または、自我を通すため、事物の認識の精確さ欠くことが避けがたいこと。


以上が、「三昧」の一種である「催眠状態」の説明ですが、

仏教の理想とする「三昧」は、
「出世間の三昧」で、「慧眼」・「法眼」・「仏眼」です。


前置きが長くなりましたが、

「真実の自己」

笹本戒浄述『真実の自己』には、
「統一的主体に関する笹本上人の御教示」の章があります。

そこで、戒浄上人は、「真実の自己」にも深浅があることをご指摘されています。

戒浄上人は、ご生前、ご法話でよく「覚(わか)り」の話をされたようで、

「あなたの「覚(わか)り」は、よう「分からん」から、
他の話をしていただけないか」

と言われながらも、「これは私の病気ですから」
と平然と言ってのけておられたようです。

さらには、田中木叉上人の

「(弁栄聖者の)華厳絶対、(戒浄上人の)法相相対」

といった手厳しい批判(後日誤解であったことが判明)があったほどです。

これには、もちろん、戒浄上人の深意があったわけです。

一つは、
弁栄聖者から、
「笹本の「覚(わか)り」は、如来の平等性智を説いたものだ。よくぞやった。」
とお褒めの印可をいただかれた点。


二つめは、
修道論上からで、
五根五力の修行から択法覚支へ移る時の念仏が、
正しく容易にできるようにするために、
極めて大切なところで、

「自然界と心霊界をつなぐ唯一の橋渡し」

であるためとのこと。


「真実の自己」についての差別(深浅)に関する、
笹本戒浄上人のご教示をお示ししますと、

『臨済録』は、慧眼で体大法身と合一した時の如来の大我。
『瑜伽(ゆが)論』は、仏眼で体大法身と合一した時の如来の大我。


光明主義は、
三身四智の仏眼で法身の中心である絶対の報身と合一して、
その体大法身の最も深い部分、
法身の最も重要な面と合一した時の如来の大我。


「我といふは絶対無限の大我なる無量光寿の如来なりけり」(弁栄聖者)

「吾人の全身が絶対なる如来の妙身を形成す。」
(「平等性智」『弁栄聖者光明体系 無辺光』)


最後に、一言。

とはいうものの、
この笹本戒浄述『真実の自己』といえども、大ミオヤの真実説ではなく、
方便説(完全な説ではないということで、ウソという意味ではない)。

「真実の自己」、「統一的主体」が自己でありながら、
「不一不二」でありながら、
そこには、如来(大ミオヤ)と衆生との差別という、歴然とした事実がある。

この「差別」の事実、「無明」の発現については、

笹本戒浄上人によりますと、
三身四智の聖者がご自身のご内証から、そのことを文章に遺されたのは、
歴史上、弁栄上人が初めてである、

と言われています。

その検証は、私の力量を遥かに超えたものですので、
戒浄上人が云われた事実のみを、ここに記します。
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syou_en

Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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