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2013-01-26

「宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない。」(西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」)


先日放映された、
NHKの「日本人は何を考えてきたのか」シリーズの
「第11回 近代を超えて・西田幾多郎と京都学派」


を興味深く見ました。


”西田幾多郎”は、宗教論を考察する場合、避けては通れぬ思想家の一人です。

私には、 ”井筒俊彦”と双璧をなす宗教思想家です。

ただ残念なことに、西田幾多郎の文章は、
西田の代表的著作として知られる『善の研究』を読まれた方はご案内のとおり、
極めて読み難い文章です。

今年のセンター試験に、小林秀雄の文章が出題されたためか、
国語の点数が、過去最も低い平均点となるかもしれないとの
新聞報道を思い出しました。

その小林秀雄が、ある対談で、
日本の哲学者の文章に痛烈な批判を浴びせています。

なるほど、小林秀雄の文章も若い頃は悪文が見受けられますが、
特に最晩年の文章、例えば、『本居宣長』などは、
文章は比較的平易でありながら、
内容理解は、難しいものになっています。

それは、取り組む対象自体の難解さのためです。


私は、西田の愛読者ではありません。
あの文体には、どうしても、なかなか馴染めなかったからです。

ところが、今回のNHKの番組を見て、
「場所的論理と宗教的世界観」『西田幾多郎哲学論集 Ⅲ』を通読してみようと思い立ちました。

残念ながら、この番組では、この最重要の論文が取り上げられませんでしたが・・・

「場所的論理と宗教的世界観」は、西田幾多郎最後の完成論文で、
発表されたのは没年の翌昭和21年2月、とのこと。

この宗教論は、戦時中に執筆されました。

相変わらず、馴染み難い文章ではありましたが、
辛抱強く読み進むうちに、
この論文が孕む宗教論的な深く豊かな内容に驚きました。

西田幾多郎の哲学、思想の根底には、
「臨済禅」があると思われますが、
もし西田が、後10年生きていたらどうなっていたか、
西田の思想的展開を空想してしまいました。

以下の引用は、「場所的論理と宗教的世界観」からのものです。

是非、辛抱強く噛みしめて、味わってみてください。

〇「絶対矛盾的自己同一的場所の自己限定として、
場所的論理によってのみ、宗教的世界というものが考えらる。」


〇「内在即超越、超越即内在の絶対矛盾的自己同一の立場において、
宗教というものがあるのである。」


〇「周辺なくして到る所が中心となる、
無基底的に、矛盾的自己同一的なる球が、自己の中に自己を映す、
その無限に中心的なる方向が超越的なる神である。」


〇「中世哲学において神を無限球に喩えた人は、
周辺なくして到る所が中心となるといった。
これは正しく私のいわゆる絶対現在の自己限定である。」


〇「我々の自己は、周辺なくして、到る所が中心である無限球の
無数の中心と考えることができる。」


〇「我々の自己は、何処までも絶対的一者と即ち神と、
逆限定的に、逆対応的関係にあるのである。」


〇「真の絶対的受動からは、真の絶対的能動が出て来なければならない。」

〇「自然法爾ということは、創造的でなければならない。
我々の自己が創造的世界の創造的要素として、
絶対現在の自己限定として働くということでなければならない。」


〇「真に無私なる行為は行為的直観でなければならない。
道徳的行為も、此に基くのである。
故に道徳的行為も、その根底において宗教的である。」


〇「真の愛というのは、人格と人格との、
私と汝との矛盾的自己同一的関係でなければならない。」


〇「真の懺悔というものには、恥ということが含まれていなければならない。」

〇「国家とは、此土において浄土を映すものでなればならない。」 
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2013-01-19

「慧眼・法眼のどちらかが頂けても、我が子や店員がこちらの言う事を余程よく聞くようになる。」(冨川茂筆記『田中木叉上人 御法話聴書』)

この言葉の後には、

「・・・愛情を通して、もって行くと、
こちらの言う事をよく聞くようになる。
・・・普通は、相手を道具にしている。
相手に念が通じる。
自分と人とは、日本とアメリカが地底でつながっているように、
つながっている。それが、「同体」です。
相手の喜びをこちらが喜ぶのが「大悲」です。」
(冨川茂筆記『田中木叉上人 御法話聴書』)


と、木叉上人は、ご説法されています。

弁栄聖者は、「同体大悲」に「おもいやり」とルビを振っておられます。

田中木叉上人は「同体大悲(おもいやり)」の実行の前提として、

「慧眼・法眼のどちらかが頂けても、・・・」と前置きされていることは、
見落としてならない決定的に重要な点です。

「おもいやり」は、重要な徳目の一つですが、
私たちの理性的、意志的努力だけでは、
それを全うすることは、原理的に不可能だからです。

何故なら、

私達には、「自他弁別本能」(岡潔博士命名)という、
「根本無明」が自ずと備わっている
からです。

『法華経』に、「一切衆生は、皆我が子なり」という有名な句がありますが、
「同体大悲(おもいやり)」の実行の前提として、
このお悟り、認識を得ていることが必須
です。

「慧眼」・「法眼」の境涯では、
「同体大悲(おもいやり)」を全うすることは、まだ不可能
です。

「根本無明」が、まだ霊化しきれておらず、
「自他弁別本能」が残っているためです。

岡潔博士が、 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』を読まれて、
一番驚嘆するのは、
弁栄聖者の「無私、私心の無さのその徹底さ」です。

弁栄聖者が、「三身四智の仏眼」のご境涯におられていたことの証左の一つです。

「(弁栄)上人は
「知識(みちびくひと)は月を指す指です。
月さえ見れば指に要はない。
とかく月を忘れて指に眼をつける、月に目をつけねばなりませぬ」と。」
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』 )


この訓戒は、とても重要なご指南ですが、

また、同時に、忘れてはならない点は、

弁栄聖者に顕現されていた大ミオヤ(親様)の霊的風光です。

以前極めて大事なことですので、記事にもしましたが、
聖者は、ご説法が上手ではありませんでした
 。

つまり、巧みな話術によって、
相手を惹き付けたわけではなかったのだと推察されます。

聖者ご在世中の弟子、信者方は、
その聖者の霊気に触れ、
お慕いし、懐かしみ、畏敬し、また、憧憬したのだと思われます。

「法尊しと云えども、法は人に依りてこそ、伝わる。」

これも、厳然とした真理です。

2013-01-12

忰山紀一著『弁栄上人伝聞記』(別冊螺旋2号・千島学説研究会編)

大変便利な世の中になったと感謝します。

現在の様にネット環境が整備されていなかったならば、
一般には流通しない、このような本に出会うことは、
あるいは無かったかもしれません。

弁栄聖者の信奉者の著作は、もちろん、大変勉強になりますが、
この様な方が書かれた本も、大変参考になります。

弁栄聖者の伝記としては、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』が、名著として知られています。

ただし、伝記であるため、当然のこととして、
取捨選択がなされていることは、否めません。

忰山紀一著『弁栄上人伝聞記』には、
今まで知らなかったことが書かれていましたので、
興味深かったです。

田中木叉上人が、弁栄聖者に出遭うことができたのは、
ひとえに、木叉上人の同郷の友人であった大谷仙界上人にあったことは、
木叉上人をご存じの方なら、先刻ご承知のことと思いますし、
私も以前、記事にしたことがございます。

ただし、木叉上人を弁栄聖者に遇わせるための、
大谷仙界上人の命がけによるその説得に、
あの文豪の谷崎潤一郎が関わっていたことは、
知りませんでした。

「田中、お前は馬鹿だ。
その人に見込まれてのことだから、一度逢ったらいいじゃないか。
真に立派な上人であれば帰依したらよい。
そうでなければ、望む学問を続ければよい。
とにかく逢ってみたまえ。」

谷崎潤一郎のとりなしで、その場はおさまった。

と、忰山紀一著『弁栄上人伝聞記』には、記されています。

谷崎潤一郎が、木叉上人と東大の同窓生であり、
木叉上人を「徹ちゃん」(木叉上人の俗名)と呼んでいたことは、
以前お聞きしたことありましたが、
この光明主義形成史上の決定的重要な場に、
谷崎潤一郎が関わっていたことにある種の感慨を覚えます。

また、同時に田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に書かれていないことを、
どうして、忰山紀一氏はご存じであったのかとの疑問が生じました。

それも、しばらくして、解決しました。

藤堂恭俊著『辨榮聖者』に、
田中木叉上人の追憶談として、記されていました。

この伝記は、今からおよそ五十年ほど前の昭和三十四年に、
「弁栄聖者生誕百年記念出版」
として出されたもので、
現在では、入手が大変困難です。

ですが、この藤堂恭俊著『辨榮聖者』は、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』をもちろん参考にしていますが、
こちらの方が読み易いかもしれません。

ちなみに、ネットで調べてみますと、
常識的には考えられない、とんでもない値段が付けられています。

大きな図書館か、浄土宗関係の大学図書館には、
あるかもしれません。

または、運良くお近くに熱心な光明主義の信奉者であり、
七十歳台以上の方で、
その方またはその方の近親者が弁栄聖者に縁の深い方なら、
あるいは、お持ちかもしれません。

ご関心のある方は、是非、あたってみてください。


最後に、大事なことを一言。

忰山紀一著『弁栄上人伝聞記』(別冊螺旋2号・千島学説研究会編)も、
現在品切れのようで、
やはり、大きな図書館には、あるかもしれません。

是非、再版していただきたいと、関係者に希望いたします。
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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