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2012-12-31

「年頭法語」(弁栄聖者より田中木叉上人が賜りたる御慈悲のたより)

 「大いなるミオヤは十劫正覚の暁より、
可愛き子を待ち詫び玉ふとは仮にちかきを示せしものゝ、
実には久遠劫の往昔より今時の今日に至るまで、
可憐き子の面の見たさまた子を思う親の心の知らせたさに
番々出世の仏たちを御使はしなされて、
苦心慇懃に子らに諭して、
ミオヤの大悲の御手に渡し玉はんとせし久遠劫来の思念がかゝり、
大悲召喚の御声に預かりし田中道士の、
至心信楽の心を注ぎて慕はしき吾が大ミオヤ
ナムアミダ仏と呼ぶ声を、
毫も遠からぬ道士の前に在ます大ミオヤ
さぞかぎりなき歓びを以て之に報答しますらんと信じられて候。

 道士よ、御名を呼べば現に聞玉ひ、
敬礼すればアナタは観そなはし玉ひ、
意に念ずれば、アナタは知り玉ひ、
こなたより憶念し奉れば、アナタは幾倍か深く憶念しくださるゝ
との導師の指導にして誤りなからば、
今現に念仏三昧を修しぬるに、
ミオヤの慈顔に接することを得られぬことゝとかくな思い玉いそ。
また今現に大慈悲の懐ろの裡に在ることをもゆめな疑ひ玉ひそ。

 此肉体に於いても分娩せられてまだ幾日の間は
母の懐に抱かれて居ながら
懐かしき母の容を見ることができぬことにて候。

 しからばいかにせば吾母の容を見ることを得るに至らんとならば、
啼く声に哺ませらるゝ乳を呑む外にはぐくまるゝみち之なきことにて候。

念々弥陀の恩寵に育まれ、声々大悲の霊養を被る。
十萬億土遥かなりと愁ふること勿れ、法眼開く処に弥陀現前す。

今宵は大晦日の夜である。
世人多くは債鬼をのがるゝに苦しみて居り、
道士は無始以来の債を除いて、
久遠劫来の親に逢ひたさに泣いている。

道士よ、今宵は無始以来迷ひじまいの大晦日にして明くれば、
本覚の無量寿にして無量光なる元旦に候へば、
萬歳を以て未だ足れりとせず、無量寿のみ名を称へて、
道士の聖なる元旦を祝し上げ候。」


(注)表記は、『こぼるるみひかり 菅野眞定上人追恩集』の巻末掲載の、
「御慈悲のたより 辨栄聖者」に拠り、
段落の形式は、読み易さを考慮し、若干変更しました。

(参考文献:弁栄聖者著『お慈悲のたより』 、田中木叉編『日本の光(弁栄上人伝)』 、
藤堂俊章編『田中木叉上人遺文集』、『こぼるるみひかり 菅野眞定上人追恩集』)
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2012-12-21

「仏を念ずる外に仏に成る道なし。 三世諸仏は念弥陀三昧によりて正覚を成ずと南無」(弁栄聖者)

【弁栄聖者御垂示】

「真理の終局に帰趣すれば仏界に入るなり。
仏界に帰するは真理なる故に自然なり。法然なり。故に易往といふ。
唯絶対無限光寿即ち弥陀の聖名を崇め聖意を仰ぎ帰し奉りて、
意に至尊をのみ憶念し、口に聖名を称え、身に聖意の実現に行動すべし。
一念弥陀なれば一念の仏。念々弥陀なれば念々の仏。
仏を念ずる外に仏に成る道なし。
三世諸仏は念弥陀三昧によりて正覚を成ずと南無」

~仏陀禅那 弁栄聖者~



弁栄聖者の御教えの核心を、
ここまで、簡潔にして端的に表現されている箇所は、
少ないように思われます。

法然上人の『一枚起請文』に相当する名句と云えるのではないでしょうか。

弁栄聖者の遺弟、柴武三氏は、
念仏修養の聖地、長野県諏訪の唐沢山阿弥陀寺の岩壁に、
この名句を刻まれたとのこと、遺言であったようです。

この弁栄聖者の御垂示は、音律もよく、名句のため、
さらっと唱えてしまいがちですが、よく読むと、

「なかなか凄味の効いたご指南」

ともなっています。

「仏を念ずる外に仏に成る道なし。
三世諸仏は念弥陀三昧によりて正覚を成ず」


仏と成るため、つまり、成仏するためには、

「仏を念ずる外に、仏に成る道は、無い」

すなわち、

「大ミオヤを念じることを措いて他に成仏の道は無い」

と、ご自身の甚深なる三身四智の仏眼の境涯から、
弁栄聖者は、そう断言されているのです。

ただし、「大ミオヤ」の定義を、ここで、繰り返し確認しておく必要があります。

「大ミオヤ」とは、阿弥陀仏=無量寿無量光仏のことですが、
諸仏諸菩薩の一仏である阿弥陀仏のことでは、もちろんありません。

諸仏諸菩薩を諸仏諸菩薩たらしめている、

「十方三世一切の法報応の本地なる」根本仏、
すなわち、「究極的一者」である「無始無終の三身即一の大ミオヤ」


のことを指しています。

弁栄教学を学ぶ難しさの一つは、
弁栄聖者が、通常使われている言葉を使いながら、
意味内容が全く異なっている、ということがある点です。


聖者は、他の箇所では、また、

「浄門の意は、他仏を念じて自仏を作る」

と表現されています。

主客の明確に分離された境界に馴染んでいる現代人である私達には、

「他仏を念じる」ことで「自仏を作る」、

この働きを理解することが、相当困難であるように思われます。

「念じる」とは「縁ずる」ことであり、「縁起の理法」に拠っている
とは、河波昌氏が著作等により、殊に強調されている点であり、
主客を一致せしめる「三昧」という不可思議な機能を離れてはありえません。

また、衆生と大ミオヤとの関係は、「不一不二」

であり、

「大ミオヤこそ、真実の自己でもある」

というのです。

「我といふは絶対無限の大我なる
無量光壽の如来なりけり」(弁栄聖者ご道詠)


弁栄聖者の「真実の自己」の定義は独特で、
広くして、また、奥が深いのです。

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2012-12-09

『法城寺住職斎藤乗願上人、今、生かされてありがとう -弁栄上人と井村和清医師-』

縁あって、この書と出会いました。

平成22年11月に、
愛知県碧南市にある法城寺の斎藤乗願住職が、
愛知県吉良町の徳雲寺でご法話されました。

そのご法話を聴かれた間瀬眞吾氏が大変興味を持たれ、
そのご法話を冊子にし、一粒書房から、

『法城寺住職斎藤乗願上人、今、生かされてありがとう-弁栄上人と井村和清医師-』

として、自費出版されたものです。

わずか60頁ほどの冊子で、二時間程度もあれば読める本ですが、
特に、弁栄聖者をご存じない方へ、是非お勧めしたい冊子です。

内容は、二部に分かれ、
前半は弁栄聖者のご紹介、
後半は、あの『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』と弁栄聖者とのご縁について、です。

私は、この冊子の後半部分に、特に感動しました。

『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』は、ドラマ化もされていますので、
ご存じの方も多いかと思います。

この著者である井村和清医師はクリスチャンであるにも関わらず、
二人の娘さんたちへ、手記の中で、
三十一年間の生涯で感銘を受けた五冊の本の最後に、

『無辺光』(講談社 山崎弁栄著)をあげられ、

しかも、

「(この本は)肺に肉腫が転移してから読みはじめた本です」と。

亡くなられる半年前のことです。

「『無辺光』は、内容が非常に難しい本ですが、
宇宙の真理について静かに語りかけてくれる本です」


とおっしゃられ、さらに驚くべきことに、

「棺の中に、この本を入れてください」

と遺言まで残されていた、というのです。

そして、

「お義母さまはその遺言通り、
棺の中の先生の胸の上にこの本をそっと置かれたそうです。」

この箇所を読んだ時、何とも言えぬ深い感動を覚えました。

実は、この冊子を推薦する理由はまだ何点かあります。

前半部で紹介されている、
『山崎弁栄展 宗教の彼方、新たなる地平』の図録は、
平成22年10月から11月に、
岐阜市の長良画廊で展示された弁栄聖者のご遺墨集で、
河波昌氏と若松英輔氏の記念対談も行われた際の記念図録です。

この図録は大変素晴らしく、弁栄聖者の資料としても大変価値があり、
できるだけ多くの方に、ご覧になっていただきたいものです。

斎藤乗願住職の論稿もあり、
聖者と法城寺との深い縁がうかがわれ、
しかも、弁栄教学成立史を考察する上でも、大変貴重な論稿であり、
こちらも、是非一読をお勧めします。

興味深いことに、この画廊もクリスチャンで、
その方が言われるには、

「キリスト教の人が書いた本を読むよりも、
弁栄上人が書いたものを読むほうがキリスト教が深く分かる」と。


河波昌氏は、現在、財団法人光明修養会の上首で、東京練馬の宗教法人光明園の園主という立場の方ですが、
氏の博士論文は、確か、キリスト教(と仏教の比較思想)研究であったかと記憶しています。
特に、ニコラウス・クザーヌスを高く評価されておられるように思われます。

若松英輔氏は、自身クリスチャンで、イスラム神秘主義の権威井筒俊彦研究者。
昨年、力作『井筒俊彦 叡知の哲学』を世に問うた方。

また、若松氏は、最近、弁栄聖者を積極的に紹介されておられるようです。

ちなみに、聖者ご在世中から、「耶蘇くさい」との批判は、あったようです。

今後、弁栄聖者とキリスト教との関係、
特に、「ギリシャ正教との関係」がクローズアップされてくると思われます。

〇「三身即一」と「三位一体」、特に「聖霊」の役割
〇「三昧仏」と「イコン」との関係


等々。

事実、だんだんとその気運が高まっているような気がしています。

また、乗願住職は、弁栄聖者と明恵上人との関連についても指摘しておられ、
この点も、大変興味深いと思われます。


最後に、斎藤乗願住職について、私の印象を少々述べさせていただきます。

『法城寺住職斎藤乗願上人、今、生かされてありがとう -弁栄上人と井村和清医師-』
の題名にもあるとおり、

乗願住職は、「弁栄上人」と言われています。

乗願住職は、弁栄聖者と空外上人とを尊敬されているようです。

このご法話をされた時は、おそらく、
空外上人の方により傾倒されておられたのではないかと推察いたします。

空外上人同様に「弁栄上人」と表現され、
大ミオヤの「光」の側面に焦点を当てられているからです。

ただし、空外上人も、ごく初期の著作では、
『辨榮聖者の人格と宗教』となっており、

「弁栄聖者」と表記されていましたが、
後には、「弁栄上人」と表記が変化しています。

弁栄聖者ご在世中は、
聖者のお弟子方は、「弁栄上人」と言われていたようですが、
ただ、笹本戒浄上人は特に、聖者ご在世中から、

「弁栄上人は、仏に在します」

と言明されておられたようです。

空外上人は、光明会史上、偉大な大先達の一人で、
法然上人と弁栄聖者の新たな現代的な顕彰のために、
出られるべくしてこの世に出られた方だと思われますが、
空外上人には、独自性があるようにも思われます。

空外上人は、惜しくも、ぎりぎりのところで、
弁栄聖者に、実際にはお会いになっていません。

私の印象としては、

空外上人は、「口称念仏」の大行者で、
その一筋の念仏行で開かれる「いのちの根源ーおかげさま」の境涯を、
見事に、宗教哲学、芸術に展開し、お示し下さいました。

一方、弁栄聖者の最大の特徴は、

「大ミオヤへの愛慕」の「憶念口称念仏」で、
釈尊以来前人未踏とも思われる甚深なるお悟りに悟入され、
そのご境涯を著作に遺されるとともに、
その全分度生の、宗教家としてのご生涯を貫かれました。


斎藤乗願住職は、弁栄聖者と因縁の深い愛知県法城寺のご住職で、
聖者と空外上人の信奉者。

乗願住職は、まだ、五十歳前後の方で、
この冊子からは、率直な方で、柔軟な方であるように見受けられます。

今後の更なるご活躍を祈念いたします。
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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