--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2012-11-28

『田中木叉上人御法話聴書』に記された「弁栄聖者の奇譚」

冨川茂、重住茂筆記の『田中木叉上人御法話聴書』 。

こんな本を、よくぞ書き記しておいていただいた、
という驚嘆すべき御法話集です。

弁栄聖者はもちろんですが、木叉上人のことを知ると、
歴史って何だろう、と首を傾げたくなります。

歴史に埋もれた偉大な方が、まだまだいるに違いない、と思う。


冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』をじっくりと読んでいくと、
不思議なことが記されています。

「弁栄聖者の奇譚」を、いくつかご紹介します。

〇「柴武三さんが疑いが晴れなかったときに、
  弁栄聖者から、ほんのちょっと見せて頂いたので、
  理屈も何ももう要らなかった。」

  ※柴武三さんとは、学生の時、聖者最晩年に二年弱随行された方。
   後、弁護士。聖者の奇譚の生き証人のお一人。
   聖者の三身四智の仏眼による働きかけ。
   仏眼の境涯になると、他人にお浄土を垣間見せることができるとのこと。

〇「弁栄聖者がここに寝ていらっしゃって、
  浅草へ見舞に行って、羊羹を貰ってこられた。
  お釈迦様が山にいながら空を飛んでイダイケ夫人の所へ現れ給うた。
  「分身利物の極なけむ。」
  身体を分けて、如来様の済度のお手伝いをする。」

  ※聖者の三身四智の仏眼、妙観察智による意志活動。

〇「「還来穢国」というのは、
  肉身で、赤ちゃんになって、生まれてくるのではない。
  浄土に在って分身して他を導く。」

  ※「方便法身は光明主義の厳密な意味では根本仏の分身として、
    度すべき衆生の住する世界に出現して
    表面的には衆生身として十方三世に活動する諸仏をさす。」
   仏陀禅那弁栄聖者著『光明主義玄義(ワイド増訂版)』


大事なことを思い出しました。

かつて、笹本戒浄上人のお弟子の能見寿作氏は、
こんなことを語っておられたようです。

「仏眼というのは、そう簡単に得られるものではない。
歴史上名高い各宗派のお祖師様方でも、
なかなか仏眼を得られてはいない。
みんな軽々しく口にし過ぎますね。」と。

ところが、弁栄聖者の直弟子達の中には、
何人もの方が、現実に仏眼まで得られていたといいます。

これは、一体何を意味するのでしょうか?

私が真っ先に思い出されるのは、

『法華経』の「従地涌出品第十五」です。

この話は、別の機会に、また。
スポンサーサイト

2012-11-10

「仏眼が開けたら、一応、安心してよい。」(弁栄聖者)

以前、弁栄聖者作「念仏七覚支」の記事を書きました。

その中で、「定覚支」を仏眼の境涯、「不退転位」であると、記しましたが、
この点は、おそらく、弁栄聖者によって初めて明言された事実で、
極めて大切だと思われますので、もう少し詳しく追記したいと思います。

笹本戒浄上人のお弟子筋にあたる方に、能見寿作という方がおられました。

戒浄上人から、「能見さんなら構いませんよ」と『真実の自己』の筆記を特別に許され、
また、田中木叉上人から「般若道人」という号を与えられた方でもあり、
光明会本部聖堂出版の『光明主義入門講座』の筆者としても知られています。

その能見氏が、

「光明会の方は、弁栄聖者の御教えを軽く考えている方が多いように見受けられる。
例えば、七覚支の最初の『択法覚支』。
この境涯は、普通考えられている以上に、高い修行段階である。
多くの方々は、五根五力の修行を行きつ戻りつしていることがほとんどである。」


と、こんなことを語られたことがあったようです。

確かにこれは、弁栄聖者の御教えを学ぶ者にとって、
耳が痛い忠告であり、深く心に留め置くべき「訓戒」だと思われます。

といいますのは、弁栄聖者の御教えを学んでいきますと、
他の宗教で説かれている境涯の程度がよく見えてきて、
弁栄聖者の御教えの「絶対的優位性」を、早晩認識してしまうからです。

また、数学者の岡潔博士は、笹本戒浄上人の優れた点として、
何点かを挙げられていましたが、
(お悟りの深さは言うまでもありませんが)、
その内の一つは、成仏の暁まで霊育過程を明示した点を挙げられていました。

あるいは、この様な高い境涯は、自分にはまだ早過ぎる、
と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、
初めから最終目的を知ることはやはり必要不可欠であり、
また、「破邪」の点からも必要であると思われます。

前置きが長くなりましたが、
「定覚支」を仏眼の境涯、「不退転位」についてです。

法然門下でも鎮西派では、「三昧発得」を念仏の目的として掲げているようです。

笹本戒浄上人は、二祖鎮西上人が「三昧発得」と言われているご境涯を、
弁栄聖者の七覚支でいえば、「喜覚支」である、
と明言されています。

それはそれとして、何故、「定覚支」の仏眼の境涯を「不退転位」というのでしょうか。

私は、しばらく疑問に思っていました。

その疑問を晴らしていただいたのが、杉田善孝上人でした。

「定覚支以前の境涯では、まだ、慢心の心、天狗の心、その煩悩がとれていない。
したがって、退転する危険がある。
その慢心の根が断たれるのが、定覚支、初歩の仏眼の境涯である」
、と。

三身四智聖者であられた善導大師の金言に、

「所見の境界人に語るを得ざれ」

と、訓戒されています。

「慢の元」となるからです。

最後に一つ。

弁栄聖者のこの御言葉を注意して読みますと、

仏眼が開けたら、「一応、安心してよい」。

と仰られています。つまり、

この極めて高い「定覚支」の仏眼の境涯でさえ、「不退転位」ではありますが、
まだ、終局ではない、


ということです。

そこで、笹本戒浄上人は、より厳密に、「初歩の仏眼」とお示しになっていらっしゃいます。

遥か彼方な境涯である「仏眼」にも、まだ悟りの深まりの段階があるというのです。

弁栄聖者の「七覚支」とは、上述のような含蓄があるのです。

2012-11-04

「弁栄聖者の俤(おもかげ)」(藤本淨本上人談)

弁栄聖者の伝記といえば、
田中木叉上人著『日本の光』が知られています。

しかし、当然のこととして、
聖者の想い出話が全て網羅されているのではありません。

また、木叉上人は、伝記作成にあたり、
常識から考えて余りに逸脱していると思われるものは、
意図的に除かれたと云われています。

「三身四智の聖者」と弁栄聖者が認識された江戸時代の徳本行者には、
幾種類かの伝記がありますが、
「伝説の類」と思われる逸話で削除されているものがある、
とどこかで読んだ記憶があります。

とても残念なことです。

理性的に理解出来ないことは、
その様な事実が実際に無いということではない、
と、その事実に対して判断をかっこに入れるという謙虚な態度こそが、
真に科学的、理性的態度かと思われます。

弁栄聖者がご遷化されたのは、
今から百年前(1859~1920)という時代で、
実際に聖者に遇われた方が最近まで生きていました。

偉大なる宗教家には、奇蹟がつきものですが、
弁栄聖者に実際に遇われた方々は、
聖者の甚深なる念弥陀三昧の余光である奇蹟に、
頭が垂れ、聖者への信が自ずと芽生えた、としか私には考えられません。

田中木叉上人が編纂された『弁栄聖者光明体系』も、
私にとっては奇蹟としか思えません。

前置きが長くなりましたが、
今回は、聖者のお弟子の一人であった、
藤本淨本上人(1879~1971)の想い出話です。

淨本上人は、当時高名な浄土宗の宗乗学者でしたが、
41歳の秋、弁栄聖者に邂逅され、生きた信仰に眼覚められました。

博学が、霊性の開発に直結しないことは、
すでに、法然上人が実地体験済みであり、
今更申し上げるまでもなく、
皆様にも、周知の事実かと思われます。

〇「(弁栄)上人をお迎えしようとして、ホームに入って待っていると、
お上人は列車の一番後から降りて来られた。
見ればそのお体から光明が放たれている。
その霊気にうたれた時の気分は今も忘れない。」

〇浄本上人「お浄土はどのように拝めますか」
弁栄聖者「肉の目を開くと娑婆が見えますが、
お念仏するとみ仏の相(すがた)が拝まれる。
その相約一丈余り、それに沿って荘厳が拝まれる」

〇「お説教などで教壇に立っても一々その用意などはしてゆかぬ。
如来様が真正面に在してチャンとご指示下さるから」

〇浄本上人「(前もって送って下さった三昧仏様の)開眼供養をして下さい」
弁栄聖者「私は絵かきのように想像して書いたのではない。
事実在す如来様をそのまま画いたのだから開眼の必要はない」

~『阿弥陀佛の信仰 藤本淨本遺文集 上』より

「仰ぎ惟れば内証甚深く外用亦広大に、
全分度生の無我の力が無作の精進に顕れ給ふ弁栄聖者の御一生は、
如来光明のさながらの反映に在せば、
誰か大慈悲の霊応を仰がざらむ。
誰か光明の摂化を信ぜざらむ。」
(田中木叉上人作「弁栄聖者略伝」)

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

RSSリンクの表示
検索フォーム
カレンダー
10 | 2012/11 | 12
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
アクセスカウンター
プロフィール

syou_en

Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
twitter
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。