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2012-08-13

「弁栄聖者は若い頃立像を主にお描きになった。注意を集中するには雲上半身の方がよい。弁栄聖者に私がおたづねしたら「私には両方共、同じです。始めてのお方には半身の方が良いようです。」(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)

前回、「弁栄聖者が描かれた「三昧仏様(お絵像)」についての一考察」という記事を書きましたが、
まだまだ大事なことを書ききれていなかったので、追記します。


弁栄聖者が描かれたご本尊様、

三昧仏様(お絵像)の大きな特徴は、「雲上半身」

にあろうかと思われます。

この聖者の三昧仏様の特徴点に対し、
三昧発得の達人のお慈悲をお感じになり、この点を強調されたのが、
聖者の高弟、笹本戒浄上人でした。

田中木叉上人もご指摘されておられるように、

「注意を集中するには雲上半身の方がよい」(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)

からで、立像よりも「妄念妄像が起こりにくい」点を、
杉田善孝上人もご指摘になっています。

(参考文献:『杉田善孝上人 唐沢山別時御法話 ー弁栄聖者のみ教え 第一編』

興味深い点は、木叉上人は続けて、

「私には両方共、同じです。始めてのお方には半身の方が良いようです。」

との弁栄聖者の御言葉を言われていることで、
聖者ほどに念仏三昧が深まられると、これらは問題にならないのでしょう。

私は、笹本戒浄上人だけがこの点に気づかれていたのだろうかと思っていたので、
この木叉上人の御法話は別の意味でありがたかったです。

といいますのも、
現在、聖者の直弟子の中で、戒浄上人の御教えのみが『笹本戒浄上人全集』等により、
まとまった著作として、後世に伝わっているので、
私のような誤解が時に生じることがあります。
この点、光明主義研究の際には、注意を要すると思われます。

ただ逆に、このような事実により、
戒浄上人への信が深まっていくことがあります。

さらに、戒浄上人は、この「雲上半身」の三昧仏様について大事な点をご指摘になっています。

それは、この「雲上半身」の三昧仏様が、

「平面に描かれている」

という点です。

念仏三昧修行上、「意識の集中」、「妄念妄像が起こりにくい」ことは、
とても重要でありますが、それだけではないようで、

この三昧仏様の平面性ゆえに、

「美感がやがて、実感となる」(『弁栄聖者光明体系 無辺光』)

ことが、はっきりと実感される点で、
戒浄上人がよく引用された聖者のとても大事な御言葉の一つです。

つまり、

平面で描かれた如来様が、
生きた如来様として立体的に拝まれてくるので、
念仏三昧による霊育程度が自覚的に判別できやすい。


立像の場合にはその点、判然としにくいということかと推察しています。

木叉上人も、冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』のなかで、

「お掛け軸をジッと見詰めていると、
「お掛け軸ではなかった、生きてまします如来様であった。」
と実感することは万人が実感する事実である」


といわれています。

さらに、戒浄上人は、念仏三昧修行において、

横道にそれること、「魔」がつけ入ることなどの防止上の観点

からも、三昧仏様を念じることの効用としてのご指摘もあります。

木叉上人は、また、

「「如来様が前にまします」と思えないから本尊をおまつりしてある。」(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)

ともご指摘されています。

私達は、通常、ご本尊様、お仏像の御前では拝む心が起こりやすいですが、

「在まさざる処無き、御霊体であられる如来様(親様)」

であるにもかかわらず、

「今現に此処に、真正面に在します」

とは、いつでも何処でも、そのようにはなかなか心底思えないので、
その習慣付けのためにも、やはり、
ご本尊様を特定の場所にお祀りし、特定の時間を定めて拝むことは必要ではありますが、
そのまつられた「物質的なご本尊様」そのものが、真に尊いのではない。

とも言われているようで、
この木叉上人のご指摘は、とても腑に落ち、ありがたかったのです。

戒浄上人の、

「勿体ないことですが、お絵像を利用させていただく」

とのご指南も重要です。

何故か。

「如来是法界身、入一切衆生心想中」(『観無量寿経』)
「弥陀身心遍法界、影現衆生心想中」(善導大師)


如来様は、衆生の「念」に感応し、報(応、答)いる身

であり、この「念」が起こることが要となるからです。

これらの戒浄上人、木叉上人のご指摘から、

光明主義念仏の特徴である「憶念口称念仏」の形式が、「偶像崇拝」ではない。

ことは明瞭かと思われます。


ただ、弁栄聖者が描かれた三昧仏様が、

「一定の御姿(定相)ではない」こと。

また、この点は念仏三昧の実践上、困難な想いを生じさせることがあります。

光明主義の特徴として、お別時といって、
何日間か集中して、お念仏に専念(集注)するという修行実践があります。

お別時では、その場所によって、
お掛けしてある弁栄聖者が描かれた三昧仏様が異なることが多く、
自分が日頃念じている三昧仏様(念持仏)と違う場合が多いです。

笹本戒浄上人は、

「三昧仏様(念持仏)を一定せよ」

とのご指導をされていましたので、
芦屋聖堂系の方々はこのことを厳格に遵守されており、
そのことがかえって、光明修養会系等の方々に誤解を与えているような印象もあります。

大変長くなりましたので、今回はこれくらいにしまして、

〇聖者が描かれた三昧仏様が「一定の御姿(定相)ではない」こと。
〇戒浄上人のご指南であった「三昧仏様を一定せよ」。


この点は、念仏三昧の実践上、また弁栄教学の理解の上からも極めて重要なことと思われますので、
次回に記したいと思います。
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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