2012-08-25

「すべてを大ミオヤに御任せ申し上げて常に大ミオヤを念じ大ミオヤはいつも離れずあなたの真正面に在まして慈悲の面を向けて母の子をおもうごとくまします。・・・」(「弁栄聖者より大谷仙界上人に賜わりしお慈悲のたより」)

「すべてを大ミオヤに御任せ申し上げて常に大ミオヤを念じ
大ミオヤはいつも離れずあなたの真正面に在まして
慈悲の面を向けて母の子をおもうごとくまします。
あなたはそれのみをおもうて専らにしてまた専らなる時は、
だんだんと心が統一できて、
あなたの心はみだのお慈悲の面にうつり
お慈悲の面はあなたの心にうつり、
而するとそれがだんだん深く入るに随いてあなたのこころはなくなりて、
唯のこる処はお慈悲の如来さまばかりと成り候。」
(「弁栄聖者より大谷仙界上人に賜わりしお慈悲のたより」)


弁栄聖者の「起行の用心」の最大の特徴点は、

「真正面に如来様が在します」

という一貫した信念に尽きると思われます。

財団法人光明修養会上首で、宗教法人光明園の園主であられる河波昌上人の
論文等
、(例えば「山崎弁栄上人ーその生涯と宗教芸術ー」は、ネットで読むことができ、
聖者の特徴点が幅広い観点から論述されています)を読んでいますと、
特に最近の論文等においては、

〇「如来様の正面性」
〇「三相(諸根悦予、姿色清浄、光顔巍々)五徳」


の二点に焦点を絞られてきておられるように思われます。

また、最初に引用しました聖者の御言葉を、
特に修行実践上、ことのほか重要視しておられるように思われます。

「如来様の正面性」については、善導大師の金言がございます。

「仏身円満無背相(仏身円満にして無背の相なり)
十方来人皆対面(十方より来る人、皆対面す)」(善導大師「般舟讃」)


「平面に描かれた雲上の三昧仏様」

の有意味性について何点か考察してきました。

(参考)
「弁栄聖者が描かれた「三昧仏様(お絵像)」についての一考察」
「雲上半身の三昧仏様について」の考察
「弁栄聖者が三身四智の仏眼により三昧直観された、大ミオヤの御姿(霊相)の真相について」

まだ忘れてはならない点があります。
その一つが、修行実践に関わる重要な点です。

示唆に富む逸話を思い出しましたので、記します。
杉田善孝上人のお話しです。

伝統的な浄土宗のお寺のご住職で、光明主義に好意的な方が、
全てお任せしますのでどうぞご自由にお使いくださいと、
お別時用に本堂を貸してくださったことがあったそうです。

お別時の準備が始まりますと、
本堂のご本尊である仏像の前に幕を張り、そのご本尊を隠し、
そこに、弁栄聖者が描かれた

「平面に描かれた雲上の三昧仏様」

をお掛けしたから、大変です。

その行為に驚かれたご住職は抗議的な行動に出られたそうですが、
「全てをお任せする」と言った以上、
気の毒なことに、ただ、黙ってみている他なかったそうです。

お別時が始まり、
その「平面に描かれた雲上の三昧仏様」を御本尊様として仰ぎ、
お念仏していたところ、その意味が腑に落ちたというのです。

お分かりになりますでしょうか。

立体的な仏像を、真正面以外から拝すると、
その拝む者にとってはその仏像を「真正面に拝することができない」のです。
しかも、立体的な仏像には「陰影」があります

そのどちらも、「生きた如来様」の実態に即さないことになりますし、

何よりも、光明主義念仏の特徴である

「真正面に如来様」をお慕い申しながらの「憶念口称念仏」

がなかなか容易にはでき難いのです。

ここでご注意していただきたいのは、
立体的な仏像の価値を低く見ているというのではありません。

実際に「実験」されてみられると合点がいかれると思います。

「平面に描かれた雲上の三昧仏様」

もさすがに、善導大師の金言のように、
四方八方から「真正面」には拝むことはできませんが、

「三昧仏様の大きさ」とその「三昧様との距離」にも左右されるとはいえ、
立体的仏像に比べると相当な範囲において、
その「三昧仏様」を拝む者がそれぞれに、

「如来様を真正面に拝する」ことができます。

このことは、弁栄聖者の実にお慈悲の配慮に満ちたものであったことが分ってきました。

最後に大事な点を少々。

「「凡てを大ミオヤに、おまかせ申し上げる」という気持は
よほど発達してからでないと出来ん。」
(『田中木叉上人御法話聴書』冨川茂 筆記)


「弁栄聖者より大谷仙界上人に賜わりしお慈悲のたより」の
「うつり」には、「写り」、「映り」、「移り」という意味がかけられている。
(河波昌上人)
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2012-08-18

弁栄聖者が三身四智の仏眼により三昧直観された、大ミオヤの御姿(霊相)の真相について


前回は、「弁栄聖者が描かれた「三昧仏様(お絵像)」の特徴である、

「雲上半身」の意義について、記事にしました。

今回は、聖者が描かれた三昧仏様が「一定の御姿(定相)ではない」

ことと、光明主義の特徴である「お別時」の際の留意点について、
考察してみたいと思います。

お別時では、その場所によって、
お掛けしてある弁栄聖者が描かれた三昧仏様が異なることが多く、
自分が日頃念じている三昧仏様(念持仏)と違う場合が多いのです。

三昧仏様が、「一定の御姿(定相)ではない」こと。

この点については、疑問をいだかれる方が自然かと思われます。

この点の解明のためには、
弁栄聖者が三身四智の仏眼により三昧直観された、

「大ミオヤ(如来)の仏身論」を理解することが不可欠です。

私達には一つの定相しか持ちえないため、

「大ミオヤが「絶対的現象態」であって、
無量の定相を、一即一切の状態で持ち給い、
衆生の信念に相応した人格的相を衆生の心想中に発現する
円満な大霊力を持っていられる。

或はキリスト教的、或は回教的な人格的神の相を発現して、
衆生をそれぞれの道に従って済度して下さる。」

この三昧中に拝する本尊の差別の相は
「主観的客体である」と弁栄聖者はおっしゃった。」
(『光明主義玄義(ワイド増訂版)』光明会本部聖堂出版)


この大ミオヤの真相を想像することが容易でない事情によるものかと思われます。

したがって、
この大ミオヤの御姿(霊相)の真相から、

三昧仏様が、「一定の御姿(定相)ではない」

ことがかえって、

心霊差別現象を規定する大ミオヤの理法に適っている

ことになり、各自が定めた三昧仏様でよいことになります。


ここまでご説明すれば蛇足かと思われますが、

大ミオヤの御姿(霊相)もまた、「無相即有相」である。

と戒浄上人はご指摘されましたが、

相「無し」とは、深甚なる大ミオヤの御姿(霊相)の真相をご指摘されたもので、
従来から言われてきた、無相法身の相無の意味でない、
このことは、弁栄教学上、聖者が三昧直観された仏身論上、極めて重要だ思います。

弁栄聖者がご指導された光明主義念仏、

三昧仏(如来)様を愛慕する「憶念口称念仏」の形式

を、笹本戒浄上人が「直線道」と名付けられたのは、
この深甚なる「大ミオヤの仏身論」に基づくゆえです。

「三昧仏様(念持仏)を一定せよ」

笹本戒浄上人が特に強調された、このご指南。

そのため、芦屋聖堂系の方々はこのことを厳格に遵守されており、
お別時の際に、ご自身の携帯用の「三昧仏様(念持仏)」を持参し、
お祀りしてある三昧仏様ではなく、ご自身のその三昧仏様を念じています。

最初、その姿を見た時、違和感を覚えましたが、
『起行の用心 笹本戒浄上人全集1』などを読み、
また、お念仏するうちに、その意義が分ってきました。

ただ、未だ違和感を完全には払拭しきれずにいたのですが、
杉田善孝上人が解決して下さいました。

「お祀りしてある如来様の上に念持仏様の聖容を憶い浮かべ、
ナムアミダブ、ナムアミダブとお念仏していると、
弁栄聖者がお描き下さったどんな三昧仏様も
全部自分の念持仏様の聖容となって下さる。」


「三昧仏様を一定せよ」には、このような深意があったのです。

これは、実体験者でないと決して言い得ないご指摘だと、
深い感銘を覚え、杉田上人への信を深めた大切な一話でした。

(参考文献:『杉田善孝上人 唐沢山別時御法話 ー弁栄聖者のみ教え 第一編』)

弁栄聖者が描かれた「三昧仏様(お絵像)」の特徴について、

「聖者が描かれた「三昧仏様のお顔」は、左右が非対称に描かれている」

と杉田上人がご指摘されたことがありました。

「人間の顔は、左右非対称であるので、
そのようにお描きになっていらっしゃるのである。
左右対称だと返って人間には不自然さを感じてしまう。」


確かに、どんなに美形の男、女でも、
じっくりと観察すると、決して左右対称にはなっていないことに気づきました。

弁栄聖者畏るべし、です。

また、杉田上人は、「お慕い申し易い三昧仏様を択ぶこと」についても、

「お念仏していると、自分の憶念し易い如来様が決まるというふうにちゃんとならして頂く」

とも。

この点について、笹本戒浄上人の三昧仏様について、大変興味深い逸話があります。

弁栄聖者が戒浄上人に描かれた三昧仏様は、
大変慈悲深いお優しい感じですが、

戒浄上人が、最初、その御姿を拝された時、

「もったいないが、御口元が気に入らないな」と内心思われたそうですが、

間髪を入れず、聖者は、

「その御口元のところから有難くなります」

と言われたそうです。 能見寿作著『光明主義入門講座』

聖者が田中木叉上人に描かれた三昧仏様は、とても厳しい感じがいたします。
( 「光明園のHP」に掲載されています。右側の三昧仏様です。)

弁栄聖者は「その人に最も適した」三昧仏様を描かれましたので、
聖者御遷化後の私達は念仏をしながら、
「自分に適した」聖者が描かれた三昧仏様にお遭いするための努力が必要になります。

最後に、木叉上人のご提案を記しておきたいと思います。

「将来は、如来様に心が集中しやすいように、
光線の具合や飾り付けを研究する人が出てほしい。」
(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)


「存さざる所なき如来様が御絵像の所に、
御絵像に即して、御絵像でない生きた如来様が、
物質的御絵像に即していらっしゃる。」
(『杉田善孝上人 唐沢山別時御法話 ー弁栄聖者のみ教え 第一編』)


偶像崇拝に陥らず、正しく三昧証入するためにも、
そのための雰囲気、環境作りも、大変重要であると思われます。

2012-08-13

「弁栄聖者は若い頃立像を主にお描きになった。注意を集中するには雲上半身の方がよい。弁栄聖者に私がおたづねしたら「私には両方共、同じです。始めてのお方には半身の方が良いようです。」(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)

前回、「弁栄聖者が描かれた「三昧仏様(お絵像)」についての一考察」という記事を書きましたが、
まだまだ大事なことを書ききれていなかったので、追記します。


弁栄聖者が描かれたご本尊様、

三昧仏様(お絵像)の大きな特徴は、「雲上半身」

にあろうかと思われます。

この聖者の三昧仏様の特徴点に対し、
三昧発得の達人のお慈悲をお感じになり、この点を強調されたのが、
聖者の高弟、笹本戒浄上人でした。

田中木叉上人もご指摘されておられるように、

「注意を集中するには雲上半身の方がよい」(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)

からで、立像よりも「妄念妄像が起こりにくい」点を、
杉田善孝上人もご指摘になっています。

(参考文献:『杉田善孝上人 唐沢山別時御法話 ー弁栄聖者のみ教え 第一編』

興味深い点は、木叉上人は続けて、

「私には両方共、同じです。始めてのお方には半身の方が良いようです。」

との弁栄聖者の御言葉を言われていることで、
聖者ほどに念仏三昧が深まられると、これらは問題にならないのでしょう。

私は、笹本戒浄上人だけがこの点に気づかれていたのだろうかと思っていたので、
この木叉上人の御法話は別の意味でありがたかったです。

といいますのも、
現在、聖者の直弟子の中で、戒浄上人の御教えのみが『笹本戒浄上人全集』等により、
まとまった著作として、後世に伝わっているので、
私のような誤解が時に生じることがあります。
この点、光明主義研究の際には、注意を要すると思われます。

ただ逆に、このような事実により、
戒浄上人への信が深まっていくことがあります。

さらに、戒浄上人は、この「雲上半身」の三昧仏様について大事な点をご指摘になっています。

それは、この「雲上半身」の三昧仏様が、

「平面に描かれている」

という点です。

念仏三昧修行上、「意識の集中」、「妄念妄像が起こりにくい」ことは、
とても重要でありますが、それだけではないようで、

この三昧仏様の平面性ゆえに、

「美感がやがて、実感となる」(『弁栄聖者光明体系 無辺光』)

ことが、はっきりと実感される点で、
戒浄上人がよく引用された聖者のとても大事な御言葉の一つです。

つまり、

平面で描かれた如来様が、
生きた如来様として立体的に拝まれてくるので、
念仏三昧による霊育程度が自覚的に判別できやすい。


立像の場合にはその点、判然としにくいということかと推察しています。

木叉上人も、冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』のなかで、

「お掛け軸をジッと見詰めていると、
「お掛け軸ではなかった、生きてまします如来様であった。」
と実感することは万人が実感する事実である」


といわれています。

さらに、戒浄上人は、念仏三昧修行において、

横道にそれること、「魔」がつけ入ることなどの防止上の観点

からも、三昧仏様を念じることの効用としてのご指摘もあります。

木叉上人は、また、

「「如来様が前にまします」と思えないから本尊をおまつりしてある。」(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)

ともご指摘されています。

私達は、通常、ご本尊様、お仏像の御前では拝む心が起こりやすいですが、

「在まさざる処無き、御霊体であられる如来様(親様)」

であるにもかかわらず、

「今現に此処に、真正面に在します」

とは、いつでも何処でも、そのようにはなかなか心底思えないので、
その習慣付けのためにも、やはり、
ご本尊様を特定の場所にお祀りし、特定の時間を定めて拝むことは必要ではありますが、
そのまつられた「物質的なご本尊様」そのものが、真に尊いのではない。

とも言われているようで、
この木叉上人のご指摘は、とても腑に落ち、ありがたかったのです。

戒浄上人の、

「勿体ないことですが、お絵像を利用させていただく」

とのご指南も重要です。

何故か。

「如来是法界身、入一切衆生心想中」(『観無量寿経』)
「弥陀身心遍法界、影現衆生心想中」(善導大師)


如来様は、衆生の「念」に感応し、報(応、答)いる身

であり、この「念」が起こることが要となるからです。

これらの戒浄上人、木叉上人のご指摘から、

光明主義念仏の特徴である「憶念口称念仏」の形式が、「偶像崇拝」ではない。

ことは明瞭かと思われます。


ただ、弁栄聖者が描かれた三昧仏様が、

「一定の御姿(定相)ではない」こと。

また、この点は念仏三昧の実践上、困難な想いを生じさせることがあります。

光明主義の特徴として、お別時といって、
何日間か集中して、お念仏に専念(集注)するという修行実践があります。

お別時では、その場所によって、
お掛けしてある弁栄聖者が描かれた三昧仏様が異なることが多く、
自分が日頃念じている三昧仏様(念持仏)と違う場合が多いです。

笹本戒浄上人は、

「三昧仏様(念持仏)を一定せよ」

とのご指導をされていましたので、
芦屋聖堂系の方々はこのことを厳格に遵守されており、
そのことがかえって、光明修養会系等の方々に誤解を与えているような印象もあります。

大変長くなりましたので、今回はこれくらいにしまして、

〇聖者が描かれた三昧仏様が「一定の御姿(定相)ではない」こと。
〇戒浄上人のご指南であった「三昧仏様を一定せよ」。


この点は、念仏三昧の実践上、また弁栄教学の理解の上からも極めて重要なことと思われますので、
次回に記したいと思います。

2012-08-10

弁栄聖者が描かれた「三昧仏様(お絵像)」についての一考察

弁栄聖者が提唱された光明主義念仏の特徴の一つは、
聖者が描かれた「三昧仏様」というお絵像をご本尊として、
お念仏を唱えるところにあると思います。

この形式のために、

「偶像崇拝」または、「観仏」ではないか、

などと誤解される向きもあるようですが、
これは全く違います。

「如来是法界身、入一切衆生心想中」(『観無量寿経』)

「弥陀身心遍法界、影現衆生心想中」(善導大師)


弁栄聖者のご高弟のお一人田中木叉上人は、
大変興味深いご指南をなされています。

「ひょっとすると、お絵像を拝んじゃおりませんか?
われわれはお絵像を拝んじゃおりませんぜ。
お絵像の処に、生きて在します親様を拝んでおります。」


と。

また、杉田善孝上人も、

「お絵像の処に、生きてまします親様が居てくださると想って、
親様をお慕い申して、親様を念じること」


を一貫して、ご指南くださいました。

木叉上人は、

最初のうちは、意志的な念仏でも仕方がないですが、
お念仏の中心は、あくまでも「親様をお慕い申す情」であることを強調されました。

杉田上人は、ある時、こんなことを言われました。

「親様をお慕い申すことがなかなか出来ない時は、
真正面に親様が在します、と言葉に出すこと」


と。

杉田上人のこの「言葉に出すこと」とのご指南は、
最初うかがった時は、「えっ!?」と思いましたが、
だんだんと、これは、

「念仏修行の実践者でないと言い得ないこと」

だと思うようになりました。

このように杉田上人のご指南は、
お念仏の実践に即した極めて具体的なことが特徴的
でした。


また、弁栄聖者が描かれた三昧仏様(お絵像)は、

「一定しておらず、信者それぞれに応じた御姿」でありました。

これは、如来様の衆生への顕現の在り方と一となっています。

杉田上人は、

「お慕い申し易い三昧仏様を択ぶこと」

をお勧めされました。

これも、重要なご指南だと思われます。

実験、実践をされるとよくご理解いただけるかと思われます。

終始一貫して「親様をお慕いする情を持続すること」は、容易ではないからです。

そして、何よりも、

この「お慕い申す情に導かれたお念仏」こそが、
人間性に最も即し、念仏三昧へと導き、成仏へと直結したものである、


からだと推察いたします。


「大原談義に曰く人をして欣慕(ごんも)せしむる法門は暫らく浅近に似たれども自然悟道の密意は極めて是深奥なりと。」
(『弁栄聖者光明体系 光明の生活』)


聖者の次の逸話も記しておきたいと思います。

聖者に三昧仏様を描いていただいた信者が、

「開眼供養をしてください」と聖者にお願いしたところ、

「その必要はありません。
私は想像で描いているのではありません。」


とお答えになられたとのことです。

また、笹本戒浄上人に次のような興味深い逸話もございます。

腕に自信のある絵師が、戒浄上人に自分の描かれた絵を見せられた時のこと、

戒浄上人が一言、

「お眼が・・・お眼がお不動様の眼になっていません。」

と言われました。

「ではどうすれば、そのようなお不動様を描くことができますか?」

「はい、それには、生きたお不動様にお遭い申すことです」

と。

いかにも、戒浄上人らしいご指南だと思います。

また、聖者が他の信者に描かれた絵を、物欲しそうな眼で見ていた信者に、

「まだ、そんなおもちゃが欲しいですか」

とも。


三昧仏様(お絵像)は、衆生を念仏三昧へと導く弁栄聖者の「お慈悲の粋」
でもあったかと思われます。

この点については、まだまだ、考察すべきことがあると思いますので、
今後も、お念仏の実践の中で、考察を深めていきたいと思います。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2012-08-04

「聖者は弟子達に「私は光明主義の基礎と家丈けを建てゝおいた、各部屋の荘厳はお前達が力を合せて完成せよ」と仰せられた、との事であります。(恒村夏山)」(弁栄聖者著『弥陀教義』)

弁栄聖者の絶筆となった、会誌「光明」に掲載中であった『弥陀教義』

田中木叉上人が日本全国を回られて、聖者の草稿等を編纂された『弁栄聖者光明体系』

聖者には、御自身の深甚なる自内証を余すところ無く体系的に著作に残されるということはなく、
何よりも衆生済度に力点を置かれた偉大なる宗教家の御生涯
であったと思われます。

聖者の直弟子達の中で、
後世の私達が聖者の御教えのご指南とすべきお弟子の中の双璧は、
笹本戒浄上人と田中木叉上人であろうかと思われます。

特に戒浄上人には、兵庫県芦屋にある光明会本部聖堂系の戒浄上人のお弟子達による、
『笹本戒浄上人全集』、『弁栄聖者 光明主義注解』なる貴重な本が残されています。

ただし、これらの書は、人類の貴重な財産と呼ぶべき奇書だと私は信じていますが、
現段階では、学問的裏付けが難しいといった種類の本でもあろうかと思います。

多くの仏典が、釈尊の直接の御教えではないことは、
今は常識かと思います。

したがって、学際的な研究と理性的考察が不可欠ですが、
最終的にはどうしても、
その御教えを説いた者の「人徳」とでも呼ぶべきものが、
判断基準となるような気がしています。

そのような曖昧なことが判断基準であるのか、
と批判される方もいらっしゃるかもしれませんが、
私達の日常生活を省みますと、
今までの人生経験とある種の直感のようなもので、
その人が信頼できるか否かを判断しているようにも思われます。

笹本戒浄上人が弁栄聖者から口伝されたという御教え、
特に泉虎一氏の筆によるものは、
文体が独特で難解、同じことが繰り返し説かれており、
当初はなかなか馴染みにくい文章かと思われますが、
極めて重要な、驚嘆すべき内容が満載です。

ただ、この書の難しさは、

「あなたは、笹本戒浄上人を信じられますか?」

といった、究極の選択を私達に迫るといった類の書でもあるように思われます。


今まで弁栄聖者を学んできた者の私見となりますが、
以下、私の印象を記したいと思います。

弁栄聖者の御内証の最深の真相を直接伝えられているのは、
笹本戒浄上人とその直弟子、杉田善孝上人、泉虎一氏、能見寿作氏かと思われます。
弁栄教学を学ぶ上で、絶対に欠かせない方々です。
光明主義の念仏の仕方、教義の特徴点について、
明確かつ具体的に説かれています。
ただし、学者ではないため、最新の学際的研究の知見は少ないです。

また、芦屋の聖堂系の方達は、「笹本戒浄上人絶対主義」で、
残念ながら、他の光明主義信奉者の方々との交流があまりないような印象があります。

田中木叉上人は、戒浄上人(聖堂系)の「直線道」の説き方には、
終生賛同できなかったように見受けられます。

それは、弁栄聖者の自在な法便力による衆生済度の在り方を、
御自身も体験されていたからだと思われます。
戒浄上人が強調された「直線道」には、排他的な匂いが多分にあり、
戒浄上人が真に言わんとされた「直線道」の真意が伝わりにくいといった、
誤解を生じやすい言葉であるようにも思われます。

また、木叉上人には詩才、文才が豊かで、
深い宗教体験に基づく御教えが、
すっーと身体に入ってくることが多いという印象があります。
(泉虎一氏による戒浄上人の文体では、そうはいきません)

ただし、弁栄聖者の深甚なる三身四智の仏眼、
特に、観念的一切智と認識的一切智の境涯に関する御教示
は、
笹本戒浄上人の独断場かと思われます。


一方、光明修養会元上首であった山本空外上人は、
生涯「口称念仏」を貫かれ、「いのちの根源に直入」された稀な方であり、
同時に大学者、知る人ぞ知る「書の達人」でもありました。

ご自身の念仏体験と幅広い語学の知識を生かされた学問的著作もあり、
光明主義研究にも役立つと思われます。

私は、空外上人にはご生前に数回ほどしかお会いしていませんが、
弁栄聖者のような宗教家というよりも、
生涯「口称念仏」を貫かれた「脱俗の大学者」といった印象がありました。

特に、ニコラウス・クザーヌスの日本への紹介者であり、
昭和初期に、弁栄教学研究にも益すると思われるプロティノス研究の学位論文
『哲学體系構成の二途ープロティーノス解釈試論ー』を書かれています。

※ 「空外記念館」では、最近復刊れた『念仏の哲学』ともに4千円ですが、
東京練馬にある河波昌園主の「光明園」では、安価で入手可能のようです。


ちなみに、最近、慶応大学出版会から復刻された
井筒俊彦著『神秘哲学』が書かれたのは、昭和24年です。

現在ご在生中の中で、
弁栄聖者の精神を最もよく受け継がれ、
比較宗教学的にも、優れた学問的な考察をされていると思われる方は、
現在光明修養会上首でもあられる河波昌氏であろうかと思われます。

河波氏には、弁栄聖者→田中木叉上人に受け継がれた聖者の精神と、
山本空外上人から受け継がれた学際的精神を兼ね備えられ、
もちろん、学者でありながら、永年にわたり念仏修行もされています。

河波昌氏の御著書は、念仏修行上と知的な学びにおいても示唆に富むことが多いですが、
それはご自身の宗教体験に拠るところが大きいと思われます。

ただ、河波氏は大学の教授でもあるので、
笹本戒浄上人のように思い切った発言はあまり見受けられず、
学問的な領域外の知見については、慎重に発言されている印象があります。

また、お念仏に対するご指南は、大らかな印象があり、
聖堂系のような具体的で細かいご指導は少ないようです。

おそらく、
聖堂系は、お念仏の修行上における「自作自受」面を強調され、
河波氏は、大ミオヤの霊育における「他作自受」の「縁起」面に信を置かれているため、
と推察しております。

河波昌氏の御著書は弁栄聖者の入門書として最も入りやすく、お勧めです。

河波氏のご姿勢と似たような印象の方で想い出されるのは、
東大名誉教授でもあった玉城康四郎氏です。


芦屋の聖堂系では、弁栄聖者→戒浄上人の御教えが主で、
戒浄上人以外の聖者の直弟子方、また河波昌氏に関する発言はほとんど見受けられず、
また同様に、
河波昌氏も弁栄聖者→田中木叉上人の御教えが主で、
戒浄上人その直弟子方、芦屋の杉田善孝上人に関する発言はほとんど見受けられません。

大変残念なことですが、
私は、ただただ「弁栄聖者の真髄」を学びたい一心で今まで学んできました、
現在の光明会の現状の率直な印象です。

おそらく、弁栄聖者御遷化後、光明会の発展、歴史が関わっていると思われますが、
今ここでは、それには深入りしません。

私の私見、印象が、これから弁栄聖者を学ぼうとされる方にとって、
何らかのお役に立てば幸甚です。
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山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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