2012-07-19
「仏教徒が、その瞑想的ヴィジョンにおいて、キリストやマドンナをみないのはなぜだろう、とカッバーラー学の権威ゲルショム・ショーレムが問うている。」(井筒俊彦著『意識と本質』)
この問いは、大変興味深く、また大変示唆にも富む。
続けて、
「そういえば、逆に、キリスト教徒の瞑想意識の中に、
真言マンダラの諸尊、如来や菩薩の姿が
絶えて現れてくることがないのはなぜだろう、
と問うこともできよう。」
「・・・このような強い「文化的枠組」の制約を受けていることが、
「元型」的「本質」の一つの大きな特徴なのであって、
・・・この意味では、全人類に共通する普遍性をもった「元型」
というようなものは存在しない。
・・・深層意識に生起する「元型」そのものが、
文化ごとに違うのである。」
井筒俊彦著『意識と本質』のこの指摘は、実に、鋭く的確です。
弁栄聖者は、三昧定中に顕現される心霊的差別現象である霊相を、
「主観的客体である」と明言されています。
井筒俊彦氏の指摘する「元型」及び「元型的本質」と驚くほど対応しています。
ユングのいう「元型」、「元型的イメージ」を、
弁栄聖者が詳述されている「成所作智」(弁栄聖者光明体系『無辺光』)
の働きと関連付けて考えてきました。
「報身の「報」は「答」と弁栄聖者のみ教えです。」
(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)
衆生の信念に応答し、報いる身。
続けて、
「そういえば、逆に、キリスト教徒の瞑想意識の中に、
真言マンダラの諸尊、如来や菩薩の姿が
絶えて現れてくることがないのはなぜだろう、
と問うこともできよう。」
「・・・このような強い「文化的枠組」の制約を受けていることが、
「元型」的「本質」の一つの大きな特徴なのであって、
・・・この意味では、全人類に共通する普遍性をもった「元型」
というようなものは存在しない。
・・・深層意識に生起する「元型」そのものが、
文化ごとに違うのである。」
井筒俊彦著『意識と本質』のこの指摘は、実に、鋭く的確です。
弁栄聖者は、三昧定中に顕現される心霊的差別現象である霊相を、
「主観的客体である」と明言されています。
井筒俊彦氏の指摘する「元型」及び「元型的本質」と驚くほど対応しています。
ユングのいう「元型」、「元型的イメージ」を、
弁栄聖者が詳述されている「成所作智」(弁栄聖者光明体系『無辺光』)
の働きと関連付けて考えてきました。
「報身の「報」は「答」と弁栄聖者のみ教えです。」
(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)
衆生の信念に応答し、報いる身。
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