2012-06-30
「よく仏道修行を山登りに譬えて「どの道から登っても同じ頂上に行ける」と申しますが、この譬えは正しくありませんナ。・・・」(『笹本戒浄上人全集下巻』)
「・・・世界の有名な高山の中に
途中の八、九合目までは道がいくつかありますが、
そこから頂上までは唯一つしか登る道がない、
というのがありますナ。
あれが正しい譬えであります。」 (『笹本戒浄上人全集下巻』)
一般に人が、宗派宗教に関わることを避ける傾向にあるのは、
一つには、宗派宗教の「排他性」、
つまり、自分の信じる宗教こそが正しく、最高のものである
との確信に基づく押し付け(と感じられること)によるものと思われます。
宗派宗教に関心のあるためでしょうか、
以前は宗派によらず、誘われるとお話しを聞きに行ったものでした。
もちろん、私なりに、書物での勉強もしていました。
ところが、やはり、疑問点が解消されない点が多いのです。
何かある事象があった場合に、その事象を説明出来る原理が、
その宗教の創始者の体験、あるいは、教義上にないと、
私にはその宗教を信じきることができません。
私の限られた経験から言っても、
宗教の究極的境地を、
「どの道から登っても同じ頂上に行ける」
とは言えないと思われます。
では、あなたの信奉している「弁栄聖者の光明主義」はどうなのか、
と聞かれれば、
今まで私が出会ってきた宗派宗教の中で、
私の疑問点が解消でき、
いまだ、完全には解消されない疑問も、
弁栄聖者を信頼し、
何処か安心して、ひとまず、括弧に入れて、
脇に置いて置くことが初めてできるようになりました。
あたたがそう確信できる理由を更に問いたい、と言われれば、
①弁栄聖者の「霊格」への揺らぐことのない信頼感、更にはその深まり。
②弁栄聖者の光明主義により、神、如来認識の深浅という観点から、
宗派宗教が矛盾無く、それぞれ位置付けられると思われる点。
が主要な点として挙げられるかと思われます。
弁栄聖者の特徴的伝道の在り方は、
「破邪無き顕正」
と言われていますが、それは、
「神、如来に対する深甚なる三昧認識あってこそ」
であり、聖者にあっては、
「ほとんどの宗派宗教が、究極へと向かう道程である」
と認識されていたからだと推察しております。
途中の八、九合目までは道がいくつかありますが、
そこから頂上までは唯一つしか登る道がない、
というのがありますナ。
あれが正しい譬えであります。」 (『笹本戒浄上人全集下巻』)
一般に人が、宗派宗教に関わることを避ける傾向にあるのは、
一つには、宗派宗教の「排他性」、
つまり、自分の信じる宗教こそが正しく、最高のものである
との確信に基づく押し付け(と感じられること)によるものと思われます。
宗派宗教に関心のあるためでしょうか、
以前は宗派によらず、誘われるとお話しを聞きに行ったものでした。
もちろん、私なりに、書物での勉強もしていました。
ところが、やはり、疑問点が解消されない点が多いのです。
何かある事象があった場合に、その事象を説明出来る原理が、
その宗教の創始者の体験、あるいは、教義上にないと、
私にはその宗教を信じきることができません。
私の限られた経験から言っても、
宗教の究極的境地を、
「どの道から登っても同じ頂上に行ける」
とは言えないと思われます。
では、あなたの信奉している「弁栄聖者の光明主義」はどうなのか、
と聞かれれば、
今まで私が出会ってきた宗派宗教の中で、
私の疑問点が解消でき、
いまだ、完全には解消されない疑問も、
弁栄聖者を信頼し、
何処か安心して、ひとまず、括弧に入れて、
脇に置いて置くことが初めてできるようになりました。
あたたがそう確信できる理由を更に問いたい、と言われれば、
①弁栄聖者の「霊格」への揺らぐことのない信頼感、更にはその深まり。
②弁栄聖者の光明主義により、神、如来認識の深浅という観点から、
宗派宗教が矛盾無く、それぞれ位置付けられると思われる点。
が主要な点として挙げられるかと思われます。
弁栄聖者の特徴的伝道の在り方は、
「破邪無き顕正」
と言われていますが、それは、
「神、如来に対する深甚なる三昧認識あってこそ」
であり、聖者にあっては、
「ほとんどの宗派宗教が、究極へと向かう道程である」
と認識されていたからだと推察しております。
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