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2012-04-29

「仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す。」(龍樹『大智度論』)

有名な龍樹大菩薩の言葉ですが、
ネットで調べますと、
「仏法の大海は、信をもって能入と為し、智をもって能度と為す。」
と訳されているものもあります。

原文にあたっておらず、漢文の知識も乏しいため、
何ともいえません。
タイトルの訳の方が漢文上正しい読みかもしれませんが、

「仏法の大海は、信をもって能入と為し、智をもって能度と為す。」

の方が、現代人には、意味が通じやすいかなと思われます。


通常、「信じる」という言葉は、
正否の判断が明確でないものに対し、
主体的に選択する際に使う言葉かと思います。

「知と智の在り方」に対し生涯考察し続けられた、数学者の岡潔博士は、
大変鋭い指摘をしておられます。
確かこんな内容のことを書かれていました。

「科学も本当は信じているのである。
ただ、宗教の場合は、(科学と比較して)信じ易さが違うだけである。」


岡潔博士の言葉が光を放つのは、
自明と思い込んでいる思考に、疑問を投げかける視点だと思います。


「弁栄聖者の光明体系」を全て理解したから、私は弁栄聖者を信じたか?

事実は、全く逆です。

弁栄聖者への「信が先」です。

もちろん、聖者の御遺稿である「光明体系」及び
田中木叉上人著「日本の光」の読解は欠かせません。

しかし、弁栄聖者の御遺稿は、
聖者の「仏眼による境涯」から書かれておりますので、
理性による理解だけでは、「原理的に」理解不能です。


実際に、弁栄聖者に出逢われた方は、
先ず、聖者の霊格、霊気に触れ、聖者への信を自然といだかれ、
聖者のご指導等により信仰を深めていかれた方が多かったようです。


浄土真宗では、「善知識」との邂逅、仏縁を何よりも大切にしていたかと思います。


誰を「善知識」とするかは、縁としか言えない部分も多いかと思いますが、
こちらの眼力如何に拠るところもあり、
自身の眼力を鍛える修練も怠ってはならないと自戒を込めて思っています。
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2012-04-26

「光明会主要図書物品案内」(弁栄聖者御遺文集等)、光明会本部聖堂出版

光明会主要図書案内

現在、弁栄聖者に学ぼうとする者が大変困難を覚えるのは、
聖者の主要図書である『弁栄聖者光明体系』などが、
入手困難なことかと思われます。

「光明会本部聖堂」
 〒659-0011 兵庫県芦屋市六麓荘町20−20
 電話 0797-22−4901 FAX 0797-32-2140


は、残念ながら、現在HPを開設していません。

何か事情があろうかと思われますので、
この「光明会主要図書物品案内」をアップすることを躊躇していたのですが、
この貴重な人類の遺産を広く知っていただきたいとの切なる想いから、
ここにアップしました。

以前、弁栄聖者関連書籍購入先等をアップしましたが、
「光明会本部聖堂」ほど、
弁栄聖者の主要図書が入手できるところは現在ないと思われます。

2012-04-21

「大霊に体あれば必ず用あり法身は先にして報身は後にありと云うべからず」(弁栄聖者御遺文『大霊の光』)

仏教で説く「三身論」をご存じの方は、
疑問をもたれたと思います。

法身は、無始無終で、大日如来。
報身は、有始無終で、法蔵菩薩。
応身は、有始無終で、釈尊。


これが、従来の仏教における「三身論」の説であると思います。

「吾人は此三身は本来一体の三面にして不可離の関係を以て居れば通じて大ミオヤとして仰で居る」。

と弁栄聖者は明言されています。

つまり、
「大ミオヤは、三身即一、無始無終に在します。」

聖者は、「阿弥陀仏」を「大ミオヤ」と表現されました。

五存七欠十二訳として知られる『大無量寿経』。
その有名な法蔵菩薩の第十八願に、念仏による救済の保証が説かれています。

浄土三部経の中で、成立が最も遅いとされる『観無量寿経』において、
初めて、「南無阿弥陀仏」という聖名に結晶します。


弁栄教学を学ぶ難しさは、
御遺稿の中に、相矛盾する箇所があること、
従来の表現と同じでありながら、意味内容が異なること、
がある点です。

聖者の高弟の一人笹本戒浄上人は、この点は徹底しておられ、
聖者の御遺稿の中から、方便説と真実説を見抜く目を持たないといけない、
と強く主張されていたようです。

弁栄聖者が「阿弥陀仏」を「大ミオヤ」と表現されたのは、
今後のグローバル化、いやそれ以上に宇宙的な視点に立った、
大きな意味があるように思われます。

聖者が、

「念仏(仏を念じる)の他に成仏(仏と成る)の道なし」

「浄門の意は、他仏を念じて自仏を作る」

と言われる時、
それは、排他的なものでは決してなく、
聖者が「南無阿弥陀仏」と表現される時、
この聖名に、全宗教が包摂されているからだと思います。

私は、弁栄聖者の御説によって、
教学的に納得でき、安心してお念仏が称えられるようになりました。


蛇足かもしれませんが、
弁栄教学を学ぶ際に知っておかれるとお役に立つと思われることの一つ、

弁栄聖者の「漢字の振り仮名に注意を払うこと」

が挙げられると思います。

「大霊に体あれば必ず用あり
法身は先にして報身は後にありと云うべからず」
(弁栄聖者御遺文『大霊の光』)


においては、「用」は仏教では「ゆう」と読みますので、
これはそういうものとして覚えるだけですが、
「大霊」には、「みおや」と振り仮名をふっておられます。

聖者の独創的な「振り仮名」へ注意を払うこと、
知っておかれるときっとお役に立つと思われます。

2012-04-15

「目は見る器官というよりは、むしろ見せない器官。すなわち感覚を制限する機械である。・・・ 」(田中木叉先生法話録)

「目は見る器官というよりは、むしろ見せない器官。
すなわち感覚を制限する機械である。
視神経はある一定の波長の世界だけしか見ていない。
それ以外に無限の世界がある。」

(会報誌『めぐみ』2009年1月号
田中木叉先生法語録(その169)河波定昌)

「目とは、物を見せる器官である。」
これが、一般通念かと思います。

数学者の岡潔博士は、小さい頃から、

「物が見えるのが、不思議だ」

と疑問に思っていたそうです。

私たちは通常、科学の説くところを自明のこととし、
目と光と脳の働きにより感覚される、と思っています。

幼き岡潔少年の疑問は、驚くべき早期の「真智」の発動であり、
後年、『弁栄聖者光明体系 無辺光』に出遭い、
初めて解決できたとのことです。


仏教では、人間に開発可能な認識機能を五眼として説いています。

すなわち、「肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼」

通常私たちには、肉眼が開け、自然界の一部が認識されており、
天眼以上は三昧の眼であり、しかべき仏道修行により開発可能と言われています。

自然界の一部と言ったのには理由があり、
いわゆる「心霊現象」、「超能力」などは、
天眼により(認識)可能であり、
自然界でも、肉眼では認識できない領域で、「世間の三昧」の眼。

天眼でも十分に不思議な三昧の眼ですが、所詮は「世間の三昧」であり、
これに強く魅かれる者も現れるため、
釈尊もこれに魅かれることは、禁じられていたと伝えられています。

あくまで、仏道修行の目的は、「出世間の三昧」であり、
「慧眼、法眼、仏眼」が開けることであるため。

如来の光明は、大宇宙の両面、つまり自然界と心霊界に働いており、
弁栄聖者は、「法身の四大智慧」と「報身の四大智慧」とに分けて、
『弁栄聖者光明体系 無辺光』に詳述され、
五眼については、「成所作智」に説かれています。

宗派宗教では、五眼のどこか(一部)に焦点があてられており、
弁栄聖者のように実地体験上から、
五眼全面について詳細に説かれている教義は、希少だと思われます。


冨川茂氏と重住茂氏による筆記本『田中木叉上人御法話聴書』も、是非お勧めいたします。

2012-04-10

「仏、菩薩に性別なし。」(会報誌『めぐみ』2008年4月号田中木叉先生法語録(その160)河波定昌)

『田中木叉上人御法話聴書』は、冨川茂氏と重住茂氏による筆記本で、
素晴らしい御法話が多く、
今まで、何回かご紹介してきました。

木叉上人は、長崎のご出身ですので、
九州とのご縁が深かったようです。


今回は、東京の練馬にある光明園主の河波昌氏による
田中木叉先生法語録のご紹介。


「仏、菩薩に性別なし。
観音様が女性的に表現されているのは、愛と柔和の徳を表している。
性別があるのは人類など動物のみ。 」
(田中木叉先生法語録 河波定昌)


確かに、観音様は女性的ですが、
よく見ると性別が曖昧であるように見えます。

男女の身体的な性差は、生物学的な相違ですが、
心理的な差は、生得的なものである、
いや、社会的に身につけたものである、
等々、見解に相違があるようです。

数学者岡潔博士は、人の教育の関係上、「人のこころ」に強い関心を寄せ、
特に晩年は、あまり知られていないようですが、
「人のこころ」の研究に専念されていたようです。

岡博士の観察によると、

「ごく初期の頃から男女の性差が現れている」

とのことです。

この岡博士の観察は、大変興味深いと思います。


「仏、菩薩に性別なし。」

この木叉上人の御法話は大変興味深く、
様々な連想を刺激します。


この他にも素晴らしい御法話がありますが、
今回は、興味深い内容をご紹介しました。

2012-04-07

「(舌に)その五妙感が開けますと何とも言えぬ味いがあります。」『佐々木為興上人遺文集 藤堂俊章編』


弁栄聖者の伝記は、田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』が知られていますが、
『日本の光(弁栄上人伝)』に記されている以外にも、
大変ありがたい聖者の御説法が数多く残されています。

その一つが、
今回ご紹介する聖者の高弟の一人佐々木為興上人への御説法です。

為興上人は、聖者の晩年に出逢われ、聖者に随行をよくされたお方でした。

弁栄聖者には、特定のお住まいはなく、
生涯伝道されたこと、釈尊と同じでした。

東京の芝の多聞室には、聖者の室があり、
食事の世話もしていただけたとのことです。

ただし、食事は質素(大豆の煮たものばかり)で美味くなく、
しかも、毎日続く、というものでありました。

佐々木為興上人が、その食事に嫌気がさしていた時の聖者の御説法。

弁栄聖者「あなたはこのおかづおいしくありませんか」
為興上人「えゝその一寸」
弁栄聖者「あなたはまだ舌に五妙感が開けていませんねー。

     その五妙感が開けますと何とも言えぬ味いがあります。」
     
     又大豆ほど安くて滋養になるものはありません」

と仰せられたので、何とも返す言葉がなかった。(『佐々木為興上人遺文集 藤堂俊章編』)

このような時、私たちがとりうる道徳的あるいは思いやりの配慮とは、
美味くはなくても、不味そうな顔をせず、御礼を言うことくらいが、
せいぜいではないでしょうか。

この逸話が大変ありがたいのは、
聖者にとっては、
いわゆる「戒律」や「道徳」が、「自然な行為」となっておられることです。

念仏の功徳により、「五妙境界」が自ずと開かれ、
「道徳的行為」が自ずと行えること


が、弁栄聖者のご行為からうかがわれることです。

ちなみに、従来の浄土教系では、
「戒律」ということが全面的に説かれることはないですが、
明恵上人の批判とは逆に、
法然上人においても、念仏の功徳により、
自ずと「戒体発得」されておられました。

(注)『往生要集』には「五妙境界楽」として説かれ、お浄土における風光。

2012-04-05

「信念に生きておれば、同じ説教を何回聞いても、同じお経を何回読んでも、初音の思いがする。」(『田中木叉上人御法話聴書 重住茂 筆記』)


私たちの健康維持のためには、心身の自己管理が必要なように、
信仰にも、自己点検が必要であるように思います。

信仰の健全度を測るための最も確実な指標は、
「念仏が自然と称えられているか」かと思います。

次に確実で容易な指標が、田中木叉上人の御法話の内容かと思います。

木叉上人の御法話は、多彩で豊かで独創的な内容、
飽きさせず、しかも、ありがたいのが特徴でしたが、
例えば、笹本戒浄上人の御法話は、
基本的には同じことの繰り返しであり、
しかも、お聴きする度にありがたかったといいます。

弁栄聖者はどうであったかといいますと、
対機説法はもちろんですが、
「存在そのもの」がありがたく、身業説法そのものであったとのことです。

「念仏を称えるたび、御法話を聴くたび、お経を読むたびに、
その都度新鮮さを感じる」。


この「新鮮さの湧出」こそ、
信仰が健全であることの確実なバロメーターであろうかと思われます。

2012-04-01

「念仏三昧とは不離仏、値遇仏の義なり」(『大品般若経』)

「不離仏、値遇仏」といえば、
鎮西聖光上人の言葉として記憶されている方が多いかもしれません。


龍樹菩薩著『大智度論』は、『大品般若経』の注釈書であり、

「不離仏、値遇仏」

について龍樹菩薩も説かれていると聞いたことがあります。


『般若経』に念仏とは、これいかに?

仏教の知識がある方には、当然の疑問かと思いますが、
『弁栄聖者光明体系 無辺光』に詳述されています。

「禅は、念仏行の内から、必然的に生じてきた。」

この点について現代、行学の面から解明されている第一人者が、
河波昌氏であるように思われます。

ここではこれ以上深入りしませんが、
関心のある方は、是非、河波昌氏の著作及び講演記録をお読みください。


「不離仏、値遇仏」に関しては、

「ただ一向に念仏すべし」

と念仏行の「形式」をお示し下さった法然上人でしたが、

その念仏行の「内容(内実)」は、歌に詠んでおられます。

「我はただ 仏にいつか あふい草 心のつまに かけぬ日ぞなき」(法然上人)

「不離仏」とは、「常時仏を憶念」と言えましょうか。


「真正面に、如来様在します。」

釈尊→善導大師→法然上人(の内実)→弁栄聖者の一貫した念仏修行のご指南で、
善導大師は、金言をもって表現されています。

「仏身円満無背相(仏身円満にして無背の相なり)
十方来人皆対面(十方より来る人、皆対面す)」


この最重要のご指南、しかし、その実践は、なかなか困難です。

私達の意識は通常、 「真正面に仏を念ずる」という念を保持しえず、
一般に、当初は相当意識的な努力を要するように思います。

この点に関して、
笹本戒浄上人と田中木叉上人のご指南がご参考になるように思います。

戒浄上人は、「一日3時間の念仏が必要である」と。

木叉上人は、「(〇〇し)ながら念仏」を勧められました。


木叉上人のお勧めは、せめて「ながら念仏」を、というご指南で、
「念仏しながら、〇〇する」がもちろん理想であります。

こんなことは可能であろうかと疑問に思われる方もあろうかと思います。

弁栄聖者の信奉者でもあり、念仏修行にも熱心であった数学者の岡潔博士は、

「論文の数字、文字に(如来様の)聖容を拝んでいた」

と聞いたことがあります。

また、徳本行者の伝記には、

「徳本は、聖徳太子には及ばないが、
念仏を称えながら、説法くらいはできる。
それをあやしむ者は、念仏が足らんのではないか」


と大説法をされたと記されています。


戒浄上人のご指南も、かなりショックな内容ではないでしょうか。

少し早めの念仏で、三時間で一万遍近く、
しかも、この実践が毎日となると、法然上人が勧められたように、
正に念仏中心の生活でないとかなり厳しいように思います。

もし仮に、常時「念死念仏(この瞬間に死ぬとの想いに徹しての念仏)」
の覚悟を持って念仏を称え続けられれば、
三時間という時間にこだわる必要はないとは思いますが、
この想いの持続はなかなか困難かと思われます。

また、念仏持続の難しさは、科学とは違い、
その効果が直ぐに実感しずらい点にもあるかと思います。

「単なる自分の思い込みに過ぎないのではなかろうか?
念仏は他力といいながら、これでは自力ではないか?」


これが、特に最初のうちの念仏修行における最大の煩悶ではないでしょうか。

「口先で南無阿弥陀仏といえばよい 心なくして申せるものか」(徳本行者)

「まごころはおこりかねても唯称え 称えておればおこるまごころ」(田中木叉上人)

こんな時、これらのお歌はとてもありがたく、励みになると思います。


「不離仏」の想いとは、木叉上人なら、

「如来様がいつも私を想っていることを、常に忘れないこと」

と言われるかもしれません。


戒浄上人、木叉上人のご指南とおりにはなかなか実践できませんが、
その方向に勤めて参りますと、
確かに何かが変わってくるように思います。

日常生活の中で、
「仏と離れていた」ことに、ふと気づく瞬間が生じやすくなる
ように思います。


「上人様あぶのうございます」と、
弁栄聖者のすれすれを走る車に「念(き)」をうばわれたお伴の恒村夫人がお袖を引くと、

「あなたは今、如来様を念(おも)うていますか。」

と、聖者は逆に説法をされました。

聖者からごらんになると、
「如来様から離れることが車にひかれる以上に危険である」
ということなのでしょうか。

また、弁栄聖者は人に念仏を勧めるのに、
ご自身では念仏を熱心に称えているようには見えないのを、
率直に意見した信者に対し、

「弁栄は、昔は一日十万遍、血尿が混じるほど念仏を称えたが、
今の方がよほど念仏している、と。
・・・行住座伏、寝息に至るまで念仏となっていた。」


と、田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に記されていたことが印象深く記憶に残っています。


まだまだ道遠し、ではありますが。。。


~平成24年度初めの4月1日、想いを新たに。
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syou_en

Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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