2012-03-31

「殺すことなかれ 汝が霊格を  偸むことなかれ 努力の光陰を  婬することなかれ 天魔の使いと  酔ふことなかれ 肉と我とに  欺くなかれ 己が良心を  五戒(法語)」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

 不殺生戒(ふせっしょうかい)
 不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
 不邪淫戒(ふじゃいんかい)
 不妄語戒(ふもうごかい)
 不飲酒戒(ふおんじゅかい)


これは、仏教の在家信者が守るべき「五戒」として知られています。


弁栄聖者の五戒の独創性は、従来の仏教の五戒と比較しますと、
より一層明確になるように思われます。

 殺すことなかれ  汝が霊格を
 偸むことなかれ  努力の光陰を
 婬することなかれ 天魔の使いと
 酔ふことなかれ  肉と我とに
 欺くなかれ     己が良心を


特に感銘を受けたのが、「不殺生戒」に対する聖者の解釈です。

弁栄聖者創作の五戒のトップに、

「己が霊格を殺すことが罪である」

ことを掲げておられます。


「霊格形成」に、従来の「不殺生戒」が包含されているように思います。


「不殺生戒」は、表面的なものから深意に至るまで、多種多様に解釈可能で、


科学的知識のある私達現代人には、
「不殺生戒」を字義通り受け取ることは不可能です。


弁栄聖者は、大宇宙、生命現象の最大の謎の一つ「無明」に関しても、
ご自身の深三昧におけるご内証から独特の見解を示されました。

いづれ、この最大の謎の一つ「無明」についても記事を書きたいと思いますが、
今ここでは、ごく簡単に記します。

「無明とは、盲目的に唯だ生きんとする衝動である。」

この無明は、生命発達上不可欠な必要な衝動でもある、と。


そして、この「無明」の発現を、深三昧のご内証から、

「宇宙全体が物心の絶対心霊態である。
・・・如来蔵心の絶対より相対の自然界を現出するに、
二属性あり、一切能と一切知となり。
一切能に一切物質を運動生活々動せしむる用あり。

一切知の分賦たる知がまだ伏能にして、
一切能の分たる不識意志の運動のみ活動するを無明と云ひ。
無明とは衆生が有する生理衝動のことなり。」
(『弁栄聖者光明体系 炎王光』)


と聖者は認識されておられました。


ただ、この無明は、より高次の「霊格形成」において最大の障礙となります。


弁栄聖者のこれらの卓見は、驚くべきもので、
現代科学の最先端の知見にも合致するように思います。

例えば、それは、
動物の赤子における「吸引反射」と、
生体に自ずと備わっている「免疫反応」です。

特に、電子顕微鏡により可視化された「免疫反応」を見ていると、
「無明」は仏教の教えの一つではなく、
現代科学の重要な知見である、と真に実感されてきます。


また、弁栄聖者は、「無明」を、

「無始の無明」

と「始め無し」と表現され、
この表現から、聖者の三昧の深さを憶測できるように思われます。


最後に、とても重要なこととして、
「霊格形成」は、弁栄聖者が終生一貫して説かれたことでした。

聖者が「見仏三昧」を、「自利利他の至極の善行」として勧めて止まなかったのは、

「霊格形成」が、「憶念口称念仏」→「見仏三昧」と相即不二ゆえに。


「見仏の要は一切心意を仏化するにあり。」
(『弁栄聖者光明体系 難思光 無称光 超日月光』)


「見仏」という言葉から仏を「見ること」、
つまり、「視覚のみ」と誤解されかねない表現ですが、
真実には、

「如来の妙色相好身は、色心不二」の御身、ゆえに。
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2012-03-29

「善導大師と弁栄聖者」

『あつし@草莽 日記』はユニークなブログで、
善導大師の項目など、勉強させていただいています。


先日、「雑感 善導大師と弁栄上人」 という記事が掲載されました。

私は善導大師を論じる知識は持ち合わせていませんが、
この記事は、大変示唆に富むものでした。

趣旨は、次のようなことです。

「弁栄上人こそ、善導大師の精神を正当に引き継いでいる方である。」

その理由は次の二点である。

一つは、
善導大師の「観念法門」には、観仏、見仏が明記されているが、
日本の浄土教では長年無視されがちな傾向にあった。
善導大師のこの精神に立ち還り、宣揚されたのが弁栄上人であった。

今一つは、
仏教の原点である「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」を生きられた
善導大師の潔癖で清潔な倫理観。
弁栄上人もこの点を勧められた。

この二つの指摘は、全くそのとおりだと思います。

後者も、現代の浄土教系では、重視されてこなかったように思われます。

弁栄聖者の最大の特徴点は、

「大ミオヤによる霊化」

を強調された点にあったと思われます。


さらに私が興味を惹かれるのは、
この重要な二点を指摘された著者が、
「日課念仏」を継続されていることです。

従来、念仏による「救済面」が強調されてきたように思いますが、
弁栄聖者は、今まであまり注目されてこなかった、
念仏による「智慧面」にも光を当てられました。


私の印象ですが、
弁栄聖者の修行論としては、むしろ、善導大師との共通点を感じます。


九州に中川察道上人という弁栄聖者のお弟子がおられましたが、
察道上人が聖者に最初に会われた時の印象が、とても興味深い。

「この方は、善導大師の再来である。」

という直観をお持ちになったとのことです。

「法然上人の再来」なら、分かるのですが、
善導大師と思われたことが妙に気になり、記憶に残っています。

中川察道上人は、大変機根の優れていた方で、
弁栄聖者から、「(お別時中)三日間で心の眼が開かれる」と言われ、
その後、大ミオヤの更なるお育てをいただかれ、
「慧眼」、「法眼」が開かれた方と伝えられ、
優れた歌も残されています。

この逸話は、全く学問的ではないのですが、
弁栄聖者にまつわる、妙に気になり記憶に残る逸話の一つです。

2012-03-28

「白は白黄は黄のままに野の小菊 とりかえられぬ尊さを咲く」(田中木叉作『じひの華つみうた』)


SMAPの「世界に一つだけの花」(作詞 作曲 槇原敬之)を想い出された方も、
いらっしゃったかもしれません。

あるいは、また、仏教に詳しい方は、

「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」(『阿弥陀経』)

を思い浮かべられたかもしれません。


田中木叉上人は、文才のあった方で、
歌も数多く残されていますが、
仏教経典が、その根底にあるように思われます。


また、「個性」ということですが、

弁栄聖者の信奉者でもあった数学者岡潔博士は、

「人には個性というものがある。
・・・そういう固有の色というものがある。
その個性は自己中心に考えられたものだと思っている。
本当はもっと深いところから来るものであることを知らない。

と、評論家小林秀雄氏との対談『人間の建設』の中で、
注目すべき発言をされています。

「個性」ということを考える時、
この岡氏の言葉を離れて考えることができません。


山本空外上人は、「各々性」と表現され、

「無二的人間形成」を説かれました。

2012-03-24

町田宗鳳著『法然・愚に還る喜び 死を超えて生きる』を読む

前回、松岡正剛著『法然の編集力』との出会いを、
町田宗鳳氏とのありがたい縁であったとして、記事を書きました

今回ご紹介する本は、NHK教育テレビ番組「こころの時代」、
ガイドブック「こころの時代『法然を語る』(上・下)」が、
元になっているとのことです。

この本は、ソフトカバーかつ値段も1,260円、
2010年11月の最近の刊行ということで、
町田氏の思想的円熟さを感じます。


私が町田宗鳳氏の法然上人理解の着眼点に最も敬意をいだくのは次の一貫した観点、

「法然を語る人の多くは、
念仏信仰の普及者としての「表」の法然しか見ていません。
彼の実力は、念仏の「裏」にあったのです。
「裏」とは深い宗教体験のことですが、
それこそが法然をして「思想の革命家」ならしめたのです。」


もしも町田氏が普通の学者、法然研究者なら、
このような物言いはしないはずと思います。

町田氏が法然理解に戸惑う難点は、

「法然理解の困難さは、法然の二面性にある」。

と一貫して認識されています。

一見すると、俗に言う

「言ってることとやっていることが異なっている」。

文献学的研究からは、そう言わざるをえない点がある、ということです。

しかも、思いますに、
その点こそが、決定的に法然上人の真髄理解に関わる大問題なのです。

文献学(表)的には、法然上人の一貫した主張は、

「ただ一向に念仏すべし」。

つまり、口称念仏です。

ところが、法然上人には脈脈と流れる深い宗教体験(裏)の世界があります。

裏の世界は霊性豊かな、

口称念仏→(見仏想に住する)憶念口称念仏→見仏三昧

の宗教体験の世界です。

ちなみに、「憶念」とは、お慕い申し、御念じ申すことで、
理知的意志的な「観仏」とは違い、
プラント的な霊的な情的発露です。


これらの観点から、法然上人の御道詠に着眼され
論じられている稀有で異色な法然研究書が、

山崎弁栄述『宗祖の皮髄』。


町田氏の炯眼は、法然上人の次の重要な二点に着眼されています。

〇「声名」、御名を称えること。声、発生という肉体性に着目。

〇「見仏三昧」の宗教体験を重要視する。


ここで興味深いのは、弁栄聖者の高弟たちの中でも特徴があり、

前者に対して、一貫してその重要性に着目されたのが、田中木叉上人。
後者をことの他最重要視されたのが、笹本戒浄上人。

であったと私は受け取っています。

この点については、いずれ考察すべき最重要点ですが、
今回はこの事実の指摘にとどめたいと思います。

私が注目し、深く感銘を受けているのが、法然上人の次の発言です。

「師匠の臨終にそなえて、
弟子たちが三尺の高さの阿弥陀像を上人の寝室に持ち込んで、
この仏を拝みになってくださいと言うと、
上人は何もないところを指して
「この仏以外に、どのような仏がおられるというのか」
とお答えになった。」(『御臨終日記』)

「この十年あまり、念仏修行の効果があったのか、
極楽浄土の光景に加えて、仏や菩薩の姿を、常日ごろからご覧になっていた。
しかし、ご本人のお考えで、
他人にはそのようなことを語られなかったので、
師の生前に人々はそのような事実は少しも知らなかった。
本当は真身の仏を幻視されることは、日常化されていた。」(『御臨終日記』)


ただし、「幻視」という訳は、注意を要するように思われます。


「善導大師、法然上人、徳本行者は、三身四智の仏眼を体得されていた。」

ただし、善導大師と法然上人はその内容を文章には明確には著述されず、
徳本行者は、わずかに御歌に残されている。

弁栄聖者が御自身の御内証から、そう言われたと伝えられています。


「また、弟子たちが、臨終にそなえて、
阿弥陀像と上人の指を五色の紐で結ぶことを申し出ると、
上人はそのようなことは一応のしきたりであって、
必ずしも実行する必要はないとおっしゃった。」(『御臨終日記』)


この法然上人の発言を、法然上人の「合理性」と現代流に受け取ってしまっては、
法然上人の真意をくみ取り損なうと思います。

「必ずしも・・・必要はない」という発言に、
法然上人の人間的洞察力の深さ、円熟した宗教家としての奥深さを感じます。

このことは、「必ずしも」を外して、
鎌倉時代のあの戦乱、飢饉、風習などの時代背景を想像しながら、
それらの文章から伝わる感触の差を味わっていただきますと、
宗教家法然上人の真面目が伝わるように思われます。


この町田宗鳳著『法然・愚に還る喜び 死を超えて生きる』には、
上述の観点の他、
親鸞聖人、道元禅師、日蓮聖人、明恵上人、ユング心理学の能動的想像法、
法然上人の両性具有性、法然上人と女性との関係・・・
などからの考察も盛り込まれ、知的好奇心も刺激します。


法然上人を知る格好の入門書としてお勧めする次第です。


なお、町田宗鳳ホームページはこちらです。

2012-03-20

松岡正剛著『法然の編集力』~町田宗鳳氏へのありがたき縁として


大きな本屋に行って、改めて驚くのは、
法然上人と親鸞聖人に関する本の量の圧倒的な差です。
もちろん、法然上人に関する本の圧倒的少なさです。


書名と著者に魅かれ、松岡正剛著『法然の編集力』を手に取りました。

ぱらぱらと頁をめくっていた時、

「特別対談 松岡正剛×町田宗鳳 3・11と法然」の中の、

町田氏の言葉が目に留まりました。

お恥ずかしながら、
私はそれまで町田氏のことをよく存じ上げていませんでした。

しかし、町田氏の発言に、大変惹きつけられました。

この人は「単なる学者、法然研究者じゃない」と。

法然上人を論じる知識人にはあまり見られぬ視点、
しかも、法然理解に欠くべからざる観点をお持ちの方だと直観しました。

実は、大変申し訳ないことに、直ぐにはこの本を買わずに、
町田宗鳳著『法然対明恵 (講談社選書メチエ)』を早速購入し、読み始めました。

私の直観は正しかった。

この町田宗鳳氏という方は、
今までほとんど注目されてこなかった法然上人の核心に触れている、と。

「特別対談 松岡正剛×町田宗鳳 3・11と法然」で、
町田氏は注目すべき発言をしています。

以下、特に感銘を受けた発言を列挙します。

「宗教のあらゆる要素ー禅と念仏、仏教とキリスト教、
一神教と多神教ーも法然さんにはあると考えた。
この人ひとりを学んだら、
世界のあらゆる宗教のことを論じられると確信したのです。」


「とりわけ法然と関連性があると私が思っているのは、
空海の三密加持です。」


「現在の日本仏教は、浄土、禅、日蓮という系統が表に出ていますから、
やはりイメージを重視する系譜にはないのです。」


「法然の偉大さが語られるとき、
たいていは専修念仏とかイデオロギーのレベルの話になってしまいますが、
じつのところ私はそっちにはあまり関心がない。
彼のイマジネーションを論じることには大きな意義があると思いますよ。」


「彼(法然)には、学問的にやるだけのことはやった、
読書量においてはだれにも負けない、という自負がありました。
もうひとつ、法然は定善観を通じた自信をもっていた。・・・
法然さんは、他人には「この修行はやる必要がない」と言っているけど、
自分は死ぬまで続けている。
そのたびに自分の内面的な自信を塗り替え、活性化していたと思います。」


「念仏に新しい注釈を加えるとしたら、あれは身体行動なんです。」

以上の引用を読んだだけでも、
町田宗鳳氏の炯眼の鋭さ、確かさが感じられることと思います。

さらに若干付け加えるならば、

町田宗鳳著『法然対明恵 (講談社選書メチエ)』において、
法然上人が生涯貫き通された「戒律堅固の在り方」に、
鋭く正確な考察をされています。

また、町田宗鳳著『法然―世紀末の革命者』において、
法然上人の二面性を論じ、

「法然上人の説得力の秘密」を、
法然上人がご生前口外されなかった深い宗教体験(三昧発得)
から捉えています


ただ町田氏は、法然上人の極楽浄土の荘厳の宗教体験を、
「五官」という感覚表現をされていますが、
これは「五官」といっても肉眼の感覚ではなく、
出世間の三昧の眼である法眼、仏眼における「五官」であります、
蛇足ながら。(参考「成所作智の五眼」 『弁栄聖者光明体系 無辺光』

また、町田氏は、法然上人の宗教体験における「実在感」に触れていますが、
町田氏の法然観に深みと確かさを覚える極めて重要な観点です。

「親鸞も、若い時にこそ夢告をしばしば体験しているが、その後、
法然のように能動的想像力による神秘体験をもつことが少なかったのは、
一念の念仏でもよいとする親鸞の立場では、
称名念仏の身体性が十分に発揮されなかったことが考えられる。」


「念仏と持戒が完全一体化して、
彼(法然上人)の宗教生活の骨格をなしていた。」


この指摘も極めて重要であり、
町田氏が「単なる学者、法然研究者でない」と、私に確信させた指摘です。


私は町田宗鳳氏に出遭って間もないのですが、
町田氏に関して是非知りたいと思っている点があります。

それは、町田氏は弁栄聖者をご存じないのであろうか、
という点です。

町田氏の直観、指摘には、
弁栄聖者の宗教体験に直結するまたは共通する観点がある。


と私には思えて仕方ないからです。

なお、町田宗鳳ホームページはこちらです。

2012-03-17

『吉本隆明が語る 親鸞』(吉本隆明講演音源収録DVD ROMつき)

昨日、このDVDを聞きながら寝てしまい、
ふと眼覚め、時計を見ると午前2時30分を回っており、
吉本隆明氏の声が。。。

親鸞聖人の「信」に関する箇所でありました。

朝再び目覚め、吉本氏が、3月16日の午前2時13分に亡くなられたことを知りました。


昨年開催された、
法然上人800回忌・親鸞聖人750回忌 特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」を見て、
親鸞聖人について久しぶりに考え始めていました。

「浄土真宗からは、「美」の世界、例えば芸術などは発展しないだろう」とも。

私が仏教に関心を持ち始めたきっかけは、親鸞聖人との出遭いであり、
親鸞聖人に心酔していた時期がありました。

ほどなくして、弁栄聖者と出遭い、
それ以降、聖者の御教えを核として、諸宗教にも関心を持ち続けてきました。

私は欲が深いのか、諸宗教に関する関心も比較的広く、
ある現象が生じる場合、それを説明できる教義(原理)が説かれていないと、
その御教えに納得できず、満足できない性質なのです。

私の関心は、主に祖師方の悟り、御教えの内容にあります。
遠くは、釈尊、キリスト、ムハンマド、孔子、神道、
空海、法然上人、親鸞聖人、道元禅師、日蓮聖人、明恵上人、
キリスト教神秘主義、イスラム教神秘主義・・・などです。

もちろん、あらゆる諸宗教の教義を極められるはずはなく、
あくまでも表面的な知識ではありますが。。。

全ての宗教の究極は一つ(同じ)なのだから、
どの宗教でも一緒、だから、どの宗教でもよい。


といわれることがありますが、
これは誤認識だと思われます。


この点を理性的に説明している名著が、
『意識の本質』(井筒俊彦著)であり、
同著者の『イスラーム哲学の原像』は入門書としてお勧めです。

また、井筒俊彦氏の優れた研究及び信仰の書として、
若松英輔氏の渾身の力作『井筒俊彦―叡知の哲学』があります。

井筒氏の炯眼に感動を覚えた洞察、

「我々の認識は、その意識状態に対応する」

という洞察でした。

その教えは「どの意識状態による認識か?」

この視点を身に付けるだけで、
各宗派の御教えの特徴が、随分と認識しやすくなるという実感がありました。


『光明主義玄義(ワイド増訂版) 弁栄聖者』(光明会本部聖堂)の「光明主義の主要特徴」に、

「光明主義に依って各宗各派の祖師の精神が生かされるというのも、
弁栄聖者の真精神の御教示が
三身四智の仏眼による完全帰納的な御教えであるからである。」

と記されています。

確かに、弁栄聖者の御教えを学んでおりますと、
お祖師方の御教えの特徴点がよくわかり、
しかも、それらの教えの違いに矛盾を感じません。


さて、親鸞聖人についてですが、
聖人の特徴は「信と救済を巡っての考察」にあると思われます。

親鸞聖人は、知識人に支持者が多いですが、
法然上人は残念ながらそうではありません。

知識人たちが信じているのは、
親鸞聖人の人間に対する洞察(特に哲学的、思想的側面)、
つまり、親鸞聖人自身に対する信であり、
親鸞聖人が信をおいた「無碍光如来」への信は稀である。

一方、法然上人に対する信には、「南無阿弥陀仏」への信が相即しており、
「南無阿弥陀仏」への信は、知識人にはなかなか困難なためである。

私は、こんな風に捉えています。

ただし、知識人でも深い信仰をお持ちになられているらしい方は、
宗派が違えども、法然上人への尊敬の念を深くいだくように思われます。

法然論としても異色の弁栄聖者著『宗祖の皮髄』には、
法然上人の宗教体験の深さ、霊格の高さが、
聖者ならではの卓越した着眼点、
法然上人のご内証を詠まれたご道詠の内実から説かれています。


親鸞聖人は、法然上人が選択された「浄土宗の真の弟子である」
との自覚を生涯貫かれた方だと私には思われます。


『吉本隆明が語る 親鸞』(吉本隆明講演音源収録DVD ROMつきを聞きながら、
こんなことを思いました。

ご冥福をお祈りいたします。

2012-03-15

稀有な書、『田中木叉上人御法話聴書』

@Hikari_edit さんが、『田中木叉上人御法話聴書』の内容をつぶやかれています。
とてもありがたい。

田中木叉上人の御法話の特徴は、
ご自身の深いお悟り(仏眼のご境涯)と博識に基づく、
生活から遊離しない実践的な内容がその大きな特徴だと思います。


「サンゲ(懺悔)とは後悔する事ではない。
誤っていることに気が付く事です。
急には改まらない。
それでよい、とは言えぬが、それしか出来ない。
気が付いただけで、人から大分好かれる。」(『田中木叉上人御法話聴書』 )


「「あれでは困ったものだ」と言われている事が、
ちっとも気付かぬ。気付いても直らない。
気付いて、お念仏しておれば、きっと直る。」(『田中木叉上人御法話聴書』)


仏教では、懺悔(サンゲ)を説きますが、
なかなか真の懺悔は、その気持ちが心底生じるものではないと思います。

なぜなら、懺悔が起こることと如来の光明に照らされていることとは、
表裏の関係にあるからです。

したがって、「懺悔即感謝、感謝即懺悔」が真相なのだと思われます。

木叉上人が、
「サンゲ(懺悔)とは後悔する事ではない。」
と言われていることは意味深長で、
懺悔には、「凡夫に安住する」または、「卑下慢」に陥る誘惑があるように思います。

「増上慢」は、誰の眼にも付きやすいですが、
「卑下慢」にも気を付けねばならないと思います。

この点に関して、
木叉上人のご説法に示唆に富むものがありますのでご紹介します。

「自分のようなものは・・・」と後悔ばかりしているご婦人に対し、
「あなたは、自分ではどうしようもないその自分を、
どうして如来様にお任せし、お頼りしようとしないのか。
自分をあてにしてるからではありませんか」と。

また、ある時、

「私のようなものは、とても・・・というのは、
如来様に対する不遜な態度である。
私の、凡夫の信念がどうというんですかね。
如来様の光明を反射するんですよ。」

木叉上人は、目を私ではなく、
如来様に向けるようにいつも注意されていたようです。


「増上慢」、「卑下慢」どちらの「慢」にも共通しているのは、
自己への自惚れだと思います。



「作仏度生」については、項を改めて記したいと思っています。

弁栄聖者は、ご自身の体験から、

「部分度生は菩薩、全分度生はこれ仏」。

と明言されています。

「作仏即度生」は、
光明主義でいう超日月光位において初めて可能となるといわれています。


それまでは、努力が足りないのではなく、
「原理的に不可能」ということです。

したがって、早くそれが実現できるように、
「大ミオヤを憶念し、霊養を蒙る」ことを、最優先します。

「南無超日月光仏

智悲の日月(ひつき)の照す下(もと)
光の中に生活(くら)す身は
聖意(みむね)を己が意(こころ)とし
三業四威儀(さんごうしいぎ)に行為(つとむ)なり」

2012-03-11

「回向について」~東日本大震災後1年を振り返り

今日、2012年3月11日で、あの未曾有の大震災から1年が経とうとしています。


今回の大震災には、阪神淡路大震災と異なる点があり、

何といっても、その規模と津波、
さらには、原発、放射能の問題。

こられの影響は予想外に大きく、
阪神淡路大震災時よりもはるかに広く深く、
人々の心のみか、生き方にまで、
広範囲に影響を及ぼしているように思われます。

阪神淡路大震災時には、「心のケア」に焦点があたりましたが、
今回の東日本大震災においては、
宗教性の次元つまり「魂の次元」にまで、
その影響が及んでいるようにも思われます。

自然の驚異的な破壊力になすすべがなく、
恐怖感、無力感を味わわされ、
無常観、畏怖の念をも生じたと思われます。

今回の大震災の議論において決定的に欠けている視点は、
「死者論」である。


とは、評論家若松英輔氏の一貫した視点であり、
近著『魂にふれる 大震災と、生きている死者』において、
真正面から論じられています。

とても考えさせられる本です。


今回の大震災は、私に「回向」という問題を突き付けました。

間接的な位置にいる私にとって、
被災者とその「死者」に対する関わりの在り方です。

「どうして、この私にこのような事態が?」
「どうして、この私が助かり、あの人は亡くなってしまったのか?」
「亡くなったあの人は、一体、今何処に?」
「これらの事態をどう受け入れたらいいのか?」

「縁」、いわゆる「運」というものとは、
また、それと神仏への祈りとの関係とは。。。


そんな時、ふと思い出したのが、
杉田善孝上人がご紹介して下さった、
新潟県柏崎極楽寺の故籠島咲子夫人の逸話。

弁栄聖者との霊的因縁が深く、
聖者ご遷化(1920年)後、仏眼を開かれた方。

その咲子夫人が、関東大震災の1923年9月1日の前日、
念仏三昧定中に如来様(霊応身)から啓示を受けられました。

「明日、関東で焦熱地獄が起こる、
その被害が少なくなるように、ご回向をしなさい。」


仏教で回向というが、それはお坊さんのお決まりの仕事で、
果たして効果があるのか?

この種の疑問を持たれている方も多いと思います。

結論を言えば、 「回向は届く」といいます。

「位牌を拝みますか。それはまちがっていましょう。
位牌を拝むのではなく、
位牌の霊を如来様にお救い下さいとお願いするのです。」
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』


(笹本戒浄上人)「私は別回向を致しません」。
(弁栄聖者)「それは矢張りなさった方が宜しうございます」。
『笹本戒浄上人全集3 無我と輪廻と回向』光明会本部聖堂出版


(注)総回向に対し、別回向とは、特定の対象者に対する回向のこと。


私たちの根底は如来法身であり、
不二平等でありますので、
他者との感応道交が起こりうる、
といわれています。

私たちは、亡くなった方に対し「仏さん」、
または、「成仏してください」、
と言ったり、祈ったりします。

実際はどうかといいますと、

「亡くなった方への回向により、
その方がその回向の功徳によって成仏することはないが、
その回向の功徳によってその回向を受けた者が、
成仏へと歩みやすくなるのである」

と言われており、この回向の解明は、とても腑に落ちます。

「回向」とは、生存者の死者への恩返し、
また、生存者のおつとめ、義務でもありましょう。

「絆」は、死によって終わることは決してない。

なお「回向」は、より事実を正確にいえば、

「生きている者への回向の方が、より効果的である」

と弁栄聖者はいわれています。

「一心十界」。

生きている者の方が、心がより可動的であるからだと思います。


現代人は、実生活において、この世の生への関心が強すぎ、
死後、死者と向き合う時が疎かになってはいないでしょうか?

今回の大震災を契機に、考え続けています。

2012-03-09

「神力演大光 普照無際土 消除三垢冥 広済衆厄難」(『無量寿経』)

「現世利益」は、新興宗教の専売特許と考え、
その事実を特殊なことと思い、
あるいは軽視、または蔑視するのは、
間違いであると思います。

ただ、もしも「現世利益」のみを追求しているとしたら、
いかがなものでしょうか。
それでは煩悩の追求で、理想の質を問われはしませぬか。

一方、「現世利益」は低次の欲求で、もっと高尚の理想のみを追求すべきである。
というのは現実の人間性に対する洞察と、
宗教体験の事実に対する認識が足りはしませぬか。


「現世利益」について考え続けてきた結果、
真に宗教的な「現世利益」とは次のようなものである、
とわかってきました。

「其れ衆生有て斯光に遇うものは
 三垢消滅し身意柔軟に
 歓喜踊躍して善心生ぜん」


弁栄聖者作「如来光明歎徳章」( 『如来光明礼礼拝儀』 )の
この文言に尽きる気がしています。

田中木叉上人は、この箇所をことのほか重要視され、
「ここだけでも唱えてください」と言われていたとのこと。

如来の光明(神力演大光、神的エネルギー)によって、
煩悩業が浄化(霊化)され、消滅し、

「心が救われ、からだが救われ、
 身の上が救われ、身のまわりの者が救われる」(木叉上人)


最後の言葉の「善心生ぜん」

浄土教系ではあまり聞かれない教えですが、
弁栄聖者の特徴点の一つ。

「道徳は救いの条件にあらず、救いの結果なり。」(木叉上人)


~参考文献 『田中木叉上人御法話聴書 重住茂 筆記』

2012-03-07

「念仏に落第なし。念仏に卒業なし。」(『田中木叉上人御法話聴書 重住茂筆記』)

これほど平易な言葉で、念仏の奥義を説き得るのは、
木叉上人の達人技。

また、あるところでは、

「凡夫ぼこり/凡夫を看板にしてなまけることの言い訳。」

『田中木叉上人御法話聴書』は、
重住茂筆記編と冨川茂筆記編の二種類出版されており、

木叉上人の面目躍如!



2012-03-04

「川の流れも断えなくば 周囲九里を湿おすと ミオヤ離れぬ明け暮れに 聖きに業識入らんとや」(杉田善孝上人)


「念仏は、どこに働くのか?」

もっと率直に言えば、

「念仏は、本当に作用しているのか?」

信仰に入った者が突き当たる深刻な疑惑かと思います。


大ミオヤの慈悲の雨が、私どもの阿頼耶識を湿し続けると、
ついに時節到来し、
大ミオヤがお遇い(見仏)してくださる。

杉田善孝上人のこのお歌、実に味わい深いお歌だと思います。

杉田上人とは、弁栄聖者の高弟笹本戒浄上人のお弟子で、
惜しくも2年前、平成22年1月にご逝去されました。


次にご紹介します法然上人のご説法も、
念仏の支え、励みになり、実にありがたい。


「たとへば、葦の茂き池に、十五夜の月の宿りたるは、
よそには月宿りたりと見えねど、よくよく立ち寄りて見れば、
葦間をわけて宿るなる。
妄念の葦は繁けれど、三心の月は宿るなり。」(法然上人)



法然上人ご自身も大変気に入られていたご説法であったようですが、
私は言葉を変えて、次の歌として愛用しています。

「妄念の葦繁けれど、月宿るなり。」


「念仏為先」(法然上人)


信仰において「信」は、最重要な働きですが、
その「深心(信)」でさえ、
実は大ミオヤの御働きにより、
念仏のうちから自ずと生じてくるようです。

2012-03-01

『田中木叉上人 御法話聴書』(冨川茂筆記、重住茂筆記)

田中木叉(もくしゃ)上人は、弁栄聖者の高弟中の高弟のお一人で、
聖者の光明体系の編者にして、 『日本の光(弁栄上人伝)』の著者。

『田中木叉上人 御法話聴書』(冨川茂筆記と重住茂筆記の二冊)

は、弁栄聖者九十回忌の記念出版。

生前、木叉上人は、筆記することを禁じていたようですので、
この書は大変貴重です。

弁栄聖者のご著書は難解ですから、
木叉上人のご法話から、
聖者の御教えの真髄に触れるのもいいかもしれません。

お坊さんの説法というと、
説教臭いものという固定観念があるかもしれませんが、
木叉上人のものは、全く違います。


木叉上人は「仏眼」が開けていらっしゃったとのことですが、
この本を読みますと、
さもありなんときっと実感されると思います。

深い宗教体験をしていないと、
こんな言葉を実感をもっては言えないと思います。


お念仏、お念仏と言うけれど、
お念仏をすると、どんな功徳があるのか、
どんなことが体験されるのか、
疑問を持たれている方、興味を持たれている方、
この木叉上人の本には、今まであまり聞いたことのない話に溢れていると思います。

「私が如来様を念じる」のではない。
「如来様が私を念じて下さる。」(田中木叉上人)


一読をお勧めいたします。
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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