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2012-02-04

「能礼所礼性空寂 感応道交難思議 故我頂礼無上尊」

「座禅もここまで来なければ駄目である」と、

中国の座禅をよくした居士の言葉を引用して、
弁栄聖者は高弟の笹本戒浄上人にご説法されました。

当時、無相法身を所期とする禅宗流の念仏の癖から、
なかなか抜け出せずに苦心されていた戒浄上人でしたが、

聖者のこのご説法により、長年の疑問が晴れたという有名な逸話です。

また、「是が非でも永遠の生命を得たい。大我に目覚めたい」と、
念じながら念仏をしていた信者の内心を見抜かれたのか、

「永遠の生命も得てみますと何でもありませんよ」

と戒浄上人は言われたことがあったそうです。

人類の究極的願望とは、「不老不死」であろうかと思います。

もちろん、この「不老不死」とは肉体に関することであり、
「永遠の生命、大我の目覚め」は霊性上のことでありその相違はありますが、

その人類の究極的願望すら、究極的終局ではないと。

究極的終局である「憶念→見仏→成仏」の如来無対光の境涯


「絶対無比の妙境は、便わち諸仏の住所にて、
無住涅槃に在まして、常恒度生は自然なり」(弁栄聖者)


に至るためには、

「佗仏を念じて自仏を作る」(弁栄聖者『宗祖の皮髄』口絵裏)

以外にはない。

との聖者のご指南を戒浄上人は念頭においてのことと推察いたします。


また、これは、仏眼を頂かれていた笹本戒浄上人が明言されていたようですが、


「慧眼満位になると自ずと法眼が開ける。

禅でここまで行けるのは、例えば白隠禅師などの宗教的天才中の天才に限られる」と。

霊相等を否定してもそれが自ずと顕現してくるのは、
その現象が「魔」などでは決してなく、
それが、心霊差別現象を規定している大ミオヤの法則であるからとのこと。

仏眼を頂かれた方達の認識は一致しており、


慧眼と法眼とは、背面相翻の状態であり、

「仏眼は慧眼と法眼とを統一し双照す。」
(「成所作智」 『弁栄聖者光明体系 無辺光』


禅と念仏の関係については、「自力対他力」で長年論じられてきましたが、

大変興味深いことに、東大名誉教授故玉城康四郎氏は、

釈尊の悟りの原形を、


「ダンマ(法)が主体者たる業熟体に顕わになる」。

と指摘されています。

また、達磨大師は晩年、「南無と唱え合唱」されていたとも。

私達凡夫は自力修行が困難なので他力に拠らざるをえない、
というのが一般的な見解かと思いますが、
これは認識が間違っていると思います。


「悟りの構造上、絶対他力以外にありえない。
法界の真相が然るゆえに」と。


玉城康四郎氏の指摘は、とても腑に落ちます。

道元禅師を尊敬され、弁栄聖者を私淑された数学者の岡潔氏は、

「自性に目覚めることができるのは、
実は、如来平等性智に不識的に照らされているからだ」と。

弁栄聖者は、

「内因空にして外縁空を観ずるも、空を縁ずるにあらずや」と。
(『弁栄聖者光明体系 難思光・無称光・超日月光』)


私は、永年、今でも、煩悩、業について考え続けています。


「衆生無始の無明より 惑と業苦の極なきも
 大炎王の光にて すべての障り除こりぬ」


「炎王光」(『如来光明礼拝儀』)において、弁栄聖者は詠まれています。

これが真相だろうという気がしています。


「禅は念仏の中から必然的に生じてきた」。

この指摘は、一般に流布している常識とは大いに異なり、
意外に思われる方も多いと思いますが、

念仏行者であり、学者でもある河波昌氏は、学術的にも究明されています。

『浄土仏教思想論』等参照
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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