2012-01-18
「栗のイガも中実が熟してくればひとりでに割れてくる。剃刀をもった子供にはこれをとりあげようとするとかえって危ない。良い玩具を与えると剃刀は離してしまう。煩悩と信仰もそんなものです」。(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)
「 身体、心、潜在意識、仏性が一致して働き出す処を南無阿弥陀仏というんですよ。浅く考えちゃいけませんぜ(田中木叉上人)」。
特に注目すべきは、木叉(もくしゃ)上人が身体、生理面への作用を前面に出し、強調されている点です。
弁栄聖者は、驚くべきことに明治・大正期に、
念仏による清浄光の働きを中心に、
光明による自律神経、ホルモンへの影響など、
現代の心身医学の先駆的なことを体験的に記されています。
この種の念仏の功徳は枚挙にいとまがないのですが、
ここに大変興味深い逸話があります。
九州光明会に菅野真定上人という方がおられました。
指が黄色くなるほど喫っていた煙草をぷっつりやめられたといいます。
知り合いがいぶかしがり、理由を尋ねると、
「念仏中、何ともいえぬ芳香が口中に満ちて、それから煙草が喫えなくなってしまった。
如来様がとりあげて下さったのでしょう。」
と答えられたといいます。
この話を聞かれた田中木叉上人は、
「ああ、それは如来様の清浄光を頂かれたのですね」
と喜んで下さったといいます。
また、弁栄聖者最晩年にご縁をいただかれ、随行された柴武三氏(後弁護士)が、
「念仏修行とお酒」との関係について聖者にお聞きしたところ、
「お酒を飲んでわるいということはありません。
ただ、お念仏をしているとだんだんとお酒が飲めなくなりますよ。」
といった内容を答えられたといいます。
この二つの話は極めて重要な点を示唆していると思われます。
「戒律とは、絶対他力の然らしむる内発的な力(自力)である」
という点です。
念仏とは、決して観念的なものではなく、
「身体、心、身の上、潜在意識、霊性」に現実的に働き、作用する。
2012-01-15
『弁栄聖者道詠集』の電子書籍版が、「近代デジタルライブラリー 国会図書館」http://t.co/c6VOJufEでご覧になれます。
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ジャンル : 学問・文化・芸術
2012-01-15
『弁栄聖者光明大系無辺光』の電子書籍版が、「近代デジタルライブラリー 国会図書館」http://t.co/c6VOJufEでご覧になれます。
テーマ : 宗教・信仰
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2012-01-14
「乱れざる一心凝りて感性も 理性も眠り光る霊性」(田中木叉上人『じひの華つみうた』)数学者岡潔博士は、講談社版『無辺光』の「まえがきー無辺光と人生」に、
「仏道の修行は五感を閉じてせよ」
との釈尊のご指南を紹介しています。
また、法然上人は、
『一枚起請文』に「知者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。」
と記されています。
ここでご紹介した釈尊、法然上人は言うに及ばず、
聖者のご遺稿を編集された高弟の一人田中木叉上人(1884~1974)も、
「私の頭脳には五万冊の本が蔵せられている」と述べられたことがあったといいます。
(河波定昌「まえがき」『田中木叉上人 御法話聴書 冨川茂 筆記』 )
「天皇陛下より銀時計を下賜された」東大文学部首席卒業の秀才中の秀才でした。
弁栄聖者は『宗祖の皮髄』の中で、
「智慧の法然房」と言われた法然上人でさえ、、
その真価は、三昧発得後の霊的人格にこそあるとご指摘されています。
「知者のふるまいをせず・・・」とはそんな法然上人の御言葉です。
ではなぜ、「一心凝る」、「ただ一向に」、でなければならないのでしょうか?
釈尊が指し示された月(心霊界、お浄土)とは、
感性、理性、つまり、肉眼で認識できる自然界とは次元が異なり、
肉眼では原理的に認識不可能であり、
そこには飛躍を要する超越的な境界であるからだと思います。
私が思い出すのは江戸時代に紀州に出られた徳本行者です。
「徳本行者のお悟りは、深くして深かった」
とは、弁栄聖者の徳本行者観です。
徳本行者は「学の人」ではなかったようですが、
その念仏修行は凄まじく、その念仏の功積もり、
そのご内証から発っせられる御言葉は、
経典の内容と不思議と符合していたと伝えられています。
浄土真宗には「妙好人」と言われる方が出られますが、
お浄土の悟り、救いが、
感性、理性的次元の事象ではなく、如来様から賜りしものである、
この事実を伝えていることの証左であると思われます。
もちろん、弁栄聖者にご指導を受けられた在家者の中にも、
他宗の中で指導的立場にある者が、
思わず襟を正すお悟りを得た方もおられたようです。
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2012-01-09
「教主(おしえぬし)世尊が六根常に清らかに光顔(みかお)永(とこ)しなえに麗わしく在(いま)ししは 内霊応(うちれいおう)に充(みち)給いければなり」(弁栄聖者『如来光明礼拝儀』の一部)「内霊応(うちれいおう)に充(みち)」とは、
弁栄聖者が三昧直観された「仏々相念の讃」で説かれた境涯であると思われます。
「人仏牟尼は一向(ひたすら)に 本仏弥陀を憶念し
本仏弥陀の霊徳は 牟尼の身意に顕現す
入我我入は神秘にて 三密正に冥合し
甚深不思議の感応は 是れ斯教の秘奥なり」
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2012-01-04
「月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ(法然上人)」「すむ」に深意あり、と弁栄聖者は注意を促された。
聖者の高弟の一人田中木叉上人は、「すむ」に掛けられた深意を、
「霊応身が心に住む」→「心が澄む」→「成仏へと済」んでいくと解釈された。
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