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2013-03-02

「真実の自己」について(笹本戒浄上人ご指南)

禅とも因縁の深かった、
弁栄聖者のご高弟笹本戒浄上人のご法話等には、
同じく聖者のご高弟田中木叉上人とはまた違った有難さがあります。

一般書として出版された笹本戒浄述『真実の自己』なる書があります。

戒浄上人は、東大で心理学を専攻し、
催眠術の研究を、元良勇次郎教授の元でされました。

その実験結果から、
催眠術における不思議な現象は、
仏教での「三昧」の状態での現象であることを確信されました。

そこから得られた有益な戒浄上人の知見があります。
現代の私達にとっても、役立つ情報だと思います。

①「催眠現象」は、「三昧」の状態であるが、
 五眼のうち「天眼」のレベル。
 したがって、広義の自然界(いわゆる「心霊現象」を含む)を認識できる。


②「天眼」であり、「我」が残っているため、
 精確に事象を認識できないことがある。
 また、極度の「精神集中」を要するため、
 いつもいつも「三昧」に入れるわけではないこと。


この2点はとても重要なご指摘で、
その適用範囲と留意点に言及していることになります。

つまり、

〇「催眠状態」で、大宇宙(自然界と心霊界両面)の全てが認識できるわけではないこと。

また、

〇「催眠現象」は、科学的実験の定義、再現可能性の点で、立証面で困難があること。
 これは、催眠術で有名になった方々の不正が明るみになり、
 非難を浴びる要因ともなっています。
 つまり、「精神集中」が持続できず、
 それに反し、周囲の期待が高まり、それに応えたい気持ちが昂じ、
 つい不正を行ってしまう。
 または、自我を通すため、事物の認識の精確さ欠くことが避けがたいこと。


以上が、「三昧」の一種である「催眠状態」の説明ですが、

仏教の理想とする「三昧」は、
「出世間の三昧」で、「慧眼」・「法眼」・「仏眼」です。


前置きが長くなりましたが、

「真実の自己」

笹本戒浄述『真実の自己』には、
「統一的主体に関する笹本上人の御教示」の章があります。

そこで、戒浄上人は、「真実の自己」にも深浅があることをご指摘されています。

戒浄上人は、ご生前、ご法話でよく「覚(わか)り」の話をされたようで、

「あなたの「覚(わか)り」は、よう「分からん」から、
他の話をしていただけないか」

と言われながらも、「これは私の病気ですから」
と平然と言ってのけておられたようです。

さらには、田中木叉上人の

「(弁栄聖者の)華厳絶対、(戒浄上人の)法相相対」

といった手厳しい批判(後日誤解であったことが判明)があったほどです。

これには、もちろん、戒浄上人の深意があったわけです。

一つは、
弁栄聖者から、
「笹本の「覚(わか)り」は、如来の平等性智を説いたものだ。よくぞやった。」
とお褒めの印可をいただかれた点。


二つめは、
修道論上からで、
五根五力の修行から択法覚支へ移る時の念仏が、
正しく容易にできるようにするために、
極めて大切なところで、

「自然界と心霊界をつなぐ唯一の橋渡し」

であるためとのこと。


「真実の自己」についての差別(深浅)に関する、
笹本戒浄上人のご教示をお示ししますと、

『臨済録』は、慧眼で体大法身と合一した時の如来の大我。
『瑜伽(ゆが)論』は、仏眼で体大法身と合一した時の如来の大我。


光明主義は、
三身四智の仏眼で法身の中心である絶対の報身と合一して、
その体大法身の最も深い部分、
法身の最も重要な面と合一した時の如来の大我。


「我といふは絶対無限の大我なる無量光寿の如来なりけり」(弁栄聖者)

「吾人の全身が絶対なる如来の妙身を形成す。」
(「平等性智」『弁栄聖者光明体系 無辺光』)


最後に、一言。

とはいうものの、
この笹本戒浄述『真実の自己』といえども、大ミオヤの真実説ではなく、
方便説(完全な説ではないということで、ウソという意味ではない)。

「真実の自己」、「統一的主体」が自己でありながら、
「不一不二」でありながら、
そこには、如来(大ミオヤ)と衆生との差別という、歴然とした事実がある。

この「差別」の事実、「無明」の発現については、

笹本戒浄上人によりますと、
三身四智の聖者がご自身のご内証から、そのことを文章に遺されたのは、
歴史上、弁栄上人が初めてである、

と言われています。

その検証は、私の力量を遥かに超えたものですので、
戒浄上人が云われた事実のみを、ここに記します。
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2012-07-29

「自作自受、他作他受」の解釈を巡って(試論)

現在、光明主義の教学を学ぼうとする者は、
大変ありがたいことに、田中木叉上人がご編纂された
弁栄聖者の御遺稿『弁栄聖者光明体系』が復刊されていますので、
それらを研究するわけでありますが、
御遺稿を読まれるとすぐ気づかれることかと思われますが、
独学で研究するのは、なかなか困難であります。

幸い笹本戒浄上人のお弟子、戒浄上人を尊崇される方々のご努力により、
『笹本戒浄上人全集』、『弁栄聖者 光明主義注解』などが刊行されており、

また、最近では、貴重な
冨川茂と重住茂両氏による『田中木叉上人 御法話聴書』も刊行されています。

さらに、比較思想学的観点から学術研究もされている
財団法人光明修養会上首東京練馬の宗教法人光明園主でもある、
河波昌氏の論文、著作等は、
弁栄聖者の光明主義研究には、欠かせないものとなっていると思います。

この他に光明主義の歴史上忘れてはならない方に、
「山本空外上人」という重要人物がいますが、
「空外上人の弁栄聖者観、念仏観」については、
まだ研究中で、今は、この指摘だけにとどめます。

前置きが長くなりましたが、

さて、「自作自受、他作他受」についてです。

このことは、笹本戒浄上人が強調されたことですが、
河波昌氏は、この点について、

「念仏とは、他作自受である」。

と定義されていますが、
つまり、「縁起」と「回向」の観点などから、論及されています。

私は、自分の経験、実感から、河波昌氏の定義に賛同しています。

笹本戒浄上人直系の方々、つまり、光明会本部聖堂では、
「自作自受、他作他受」の立場を取っている
ように思われます。

この点については、戒浄上人の御教えの中で、今だに疑問を持っている点です。

ただ、戒浄上人が強調された「直線道」の言葉についても、
最初はなかなか腑に落ちませんでしたが、
時間をかけてじっくりとその言葉の真意を研究していくと、

「直線道」とは、
弁栄聖者が三昧直観された如来の真相である三身即一の仏身論より、
必然的に導き出されていた


ことが理解でき、「直線道」の真意を受け入れることができたという経験がありました。

ただ、依然として、この「直線道」という言葉は、
誤解を生み易い言葉である
と思っています。

同様なことが、「自作自受、他作他受」の解釈にもいえるかもしれないと思い、
この問題にも、こだわり、関心をいだき続けてきました。

岡潔博士は、光明会本部聖堂、杉田善孝上人にも縁が深かったので当然かもしれませんが、
随筆の中で「自作自受」を自明なこととして述べられていることを、
最近、知りました。


まず、「自」と「他」の定義が一般の定義と違うのではないかとの疑問があります。

「我といふは絶対無限の大我なる 無量光壽の如来なりけり」

との弁栄聖者のご道詠に対して、

「この我は真我のことで、弁栄聖者の真精神の御教示では、

真我には、

”絶対の報身の最高最深のいつも変らぬあり通しの永遠の生命”と
”法身の粋である絶対の報身”

の二義がある」


と、戒浄上人は仰せられた。(『笹本戒浄上人伝』)

と御教示されています。

ついでながら、ここでご指摘されている「あり通しの永遠の生命」とは、
禅での「見性」体験、その「真実の自己」よりも深い「真実の自己」のようで、
「真実の自己」にも、深さが想定されているようです。

私が「自作自受、他作他受」にこだわるのは、
前者は、信仰における「信念」の問題に、
後者は、「回向」に関わる重要な問題を含んでいるためです。

戒浄上人が「直線道」を強調される理由の一つが、
「自作自受」の原理が、衆生の信念にもあてはまり、
信念「(自作」)→それに相応した結果。

となり、如来の真相と相違した「信念」では、
必然的に、如来の真相には達することができない、
ことになります。

この点こそが、最大かつ根本的な疑問で、
今となっては杉田善孝上人に直接お聞きできず、とても残念です。

ただ、ありがたいことに、
『弁栄聖者 光明主義注解』には、解明の手がかりが記されています。

「衆生がどのような信念で修行しても、
三身即一の報身の直接作用によって、大ミオヤの御力で
ミオヤのお育てを各人相応に受けることができて成仏の身となる」
というような事実はない。


この箇所は、私が疑問をいだき続けている、いわゆる「自作自受」の定義。

ところが、別の箇所には、これとは異なる説明がなされています。

「大ミオヤの理性と感性は共に能動的である」
と弁栄上人がご教示になっておられる。
・・・白隠禅師の場合のように、
大ミオヤに妙色相好身在ます事実を否定しながら
無相無色の平等の面に三昧心を注いでおられるにもかかわらず、
白隠禅師の信念に反して、
自分が求めないのに法眼が開けて
大ミオヤの御姿を見奉るようになった。
・・・これは絶対の根本仏に在ます三身即一の報身の
理性と感性が共に絶対円満な能動態で、
衆生の信念を絶対能動的に受け入れて
内的目的論的に衆生を仏化し、
衆生の信念の不完全、不明確の点を
能動的に光明化して下さる事実を示すものである。


と。

あるいは、あの有名なキリスト迫害時にパウロに生じた現象を思い出された方もいるかと思います。

笹本戒浄上人の御教示として記されている言葉、
例えば、「直線道」、「自作自受」は、
光明主義教学の研究のうえで、特に注意を要する重要語だと思われます。

まだ、試論の段階ですので、ご教示をいただければ大変ありがたいです。

2012-06-30

「よく仏道修行を山登りに譬えて「どの道から登っても同じ頂上に行ける」と申しますが、この譬えは正しくありませんナ。・・・」(『笹本戒浄上人全集下巻』)

「・・・世界の有名な高山の中に
途中の八、九合目までは道がいくつかありますが、
そこから頂上までは唯一つしか登る道がない、
というのがありますナ。
あれが正しい譬えであります。」 (『笹本戒浄上人全集下巻』)


一般に人が、宗派宗教に関わることを避ける傾向にあるのは、
一つには、宗派宗教の「排他性」、
つまり、自分の信じる宗教こそが正しく、最高のものである
との確信に基づく押し付け(と感じられること)によるものと思われます。

宗派宗教に関心のあるためでしょうか、
以前は宗派によらず、誘われるとお話しを聞きに行ったものでした。

もちろん、私なりに、書物での勉強もしていました。

ところが、やはり、疑問点が解消されない点が多いのです。


何かある事象があった場合に、その事象を説明出来る原理が、
その宗教の創始者の体験、あるいは、教義上にないと、
私にはその宗教を信じきることができません。


私の限られた経験から言っても、

宗教の究極的境地を、

「どの道から登っても同じ頂上に行ける」

とは言えないと思われます。



では、あなたの信奉している「弁栄聖者の光明主義」はどうなのか、
と聞かれれば、

今まで私が出会ってきた宗派宗教の中で、

私の疑問点が解消でき、
いまだ、完全には解消されない疑問も、
弁栄聖者を信頼し、
何処か安心して、ひとまず、括弧に入れて、
脇に置いて置くことが初めてできるようになりました。

あたたがそう確信できる理由を更に問いたい、と言われれば、

①弁栄聖者の「霊格」への揺らぐことのない信頼感、更にはその深まり。

②弁栄聖者の光明主義により、神、如来認識の深浅という観点から、
宗派宗教が矛盾無く、それぞれ位置付けられると思われる点。


が主要な点として挙げられるかと思われます。


弁栄聖者の特徴的伝道の在り方は、

「破邪無き顕正」

と言われていますが、それは、

「神、如来に対する深甚なる三昧認識あってこそ」

であり、聖者にあっては、

「ほとんどの宗派宗教が、究極へと向かう道程である」

と認識されていたからだと推察しております。

2012-06-23

「身体の更正。已に更正したる精神は如来大心光中に理想の浄土に逍遥(あそ)ぶものゝ、肉の有らん限りは自然の約束を全く脱する能はず。」(弁栄聖者著『如来光明歎徳章要解』)

前回は、 『笹本戒浄上人全集 中巻』に記されています、

驚嘆すべき弁栄聖者の「全分度生の完全な仏作仏行」の御教え

「完全な仏作仏行とは、
この地球上のみならず教化すべき衆生の住し得るあらゆる天体に
分身利物の霊的生活ができるようになって、
初めて全分度生の完全な仏作仏行といえます。」


をご紹介しました。


今回ご紹介します弁栄聖者の御教えは、
笹本戒浄上人なかりせば、
この世に言葉として残ることがなかったかもしれないと思われるにつけ、
戒浄上人のこの世への出現を大変ありがたく、
感謝の念を禁じえません。

「有余涅槃」とは、

「如来と精神的、観念的に合一し、
肉体をもって自然界に居る時に実現している境涯。」


と従来教えられてきたと思います。

しかし、弁栄聖者が笹本戒浄上人に開顕された御教示、

「弁栄上人が肉、または肉体といっておられる中には
肉の心と肉の身体の二つを含んでおる。」


と。

具体的には、

「この世を去って肉体は無くなったが、
未だ肉の心が残っておるので、
法身の中心である絶対の報身の全体と合一できておらないために
一時的に浄土に居る時」


があると、「有余涅槃」のもう一面の真相を開顕されました。

したがって、従来から言われてきたように、

「この世で如来に救われた方の肉体が無くなった後は、
往生し、お浄土で修行をするということではない」


というのです。

更に、後者の「有余涅槃」の真相を、

「大ミオヤの絶対理性と絶対感性の完全調和した光明摂化により、
六道輪廻によらないで、
大ミオヤの絶対無規定の大霊力によって衆生界に生まれて、
以前より更に高く深い三昧を実現する身として下さる。」


そして、

「遂に自然界で三身四智の仏眼を実現して、
肉の心がなくなって絶対の報身の全体と合一し後に死去して、
無余即無住処涅槃の境涯と
実在的、身体的に合一するようにして下さる。」


と。

参考文献は『笹本戒浄上人全集 下巻』 

これが正しい「有余涅槃」の真相である、
と確信をもって言うことは、私にはまだできません。

と言いますのも、余りに桁外れな境涯なので、
正直この真相を実感できるレベルには到底ないからです。

ただ、「肉の心」という概念は「眼から鱗」で、

「肉の心があらん限りは、お浄土に一時的にしか居られない」

何故なら、

未だ如来化されていない「肉の心」と「如来の自境涯」とは、異質なため

このことは、十分には分からないながらも、何か響くものがあります。


しかし、このことは、絶対に記事にし、
ご紹介したいと切願していたことの一つでした。

私の不勉強のために見落としていることも十分に考えられますので、
もしもこの種の教えを説いている方、文献がありましたら、
是非ともご教示願います。

2012-06-20

「完全な仏作仏行とは、この地球上のみならず教化すべき衆生の住し得るあらゆる天体に分身利物の霊的生活ができるようになって、初めて全分度生の完全な仏作仏行といえます。(弁栄聖者の御教え)」(笹本戒浄上人)

「・・・これは三身四智の三昧を得た八正道の境涯で、
正しくミオヤのお世嗣ぎとなったところ。
・・・これが弁栄聖者の御教えでございます。」


さらに続け、念押しして、

「この地球上の衆生ばかりが私共の化他の対象ではありません。
教化すべき衆生の住し得るあらゆる天体の衆生が、
私共の化他の対象であることをはっきり意識するように。」
(『笹本戒浄上人全集 中巻』)


仏の境涯がいかに超絶したものであるか
が、この御教えだけからでも推察できるかと思われます。

笹本戒浄上人の御説法には、
今まで聞いたこともない驚嘆すべき内容
が、
さらりと語られている箇所が所々にあります。

今回ご紹介しました箇所もその最重要の御説法の一つ。

もちろん、この御教えは、戒浄上人独自の見解ではなく、
弁栄聖者の三昧体験の深奥そのものであるようです。

聖者の御遺稿集を熟読すれば、
そこに書かれていることもあるかと思われますが、
なかなかそこまで読み取れないことも多いかと。


弁栄教学の卓越すべき点は、
御自身の深甚なる三昧体験から、

「如来による霊育過程」

を語られている点にあると思われます。

聖者は、如来による霊育過程を、
「念弥陀三昧の三十七道品」として開示されました。


具体的には、五根五力、七覚支、八正道として、
『弁栄聖者光明体系 難思光 無称光 超日月光』 
に詳しく説かれています。

この霊行過程(自行)と化他の関係について、
笹本戒浄上人は、弁栄聖者の真髄を具体的にお教えくださり、
大変ありがたいことです。


同様のことを田中木叉上人も、

「地球だけが文化の発達する所ではない。
人間は地球だけではない。
地球にお釈迦様が現れて下さったように、
他の世界にも現れて下さる。」

「「還来穢国」というのは、
肉身で、赤ちゃんになって生まれてくるのではない。
浄土に在って分身して他を導く。」
(冨川茂 筆記『田中木叉上人 御法話聴書』)
 

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2012-05-26

「御説法の詳細は忘れてしまったけれども、慈悲にみちた、温和で、柔和な笹本戒浄上人のお顔を忘れることができない。・・・あのような方が、本当の宗教家ではないかと思う。(中村元)]

「近年、弁栄という坊さんがおったが、これが偉かったで・・・」

と、中村元博士が第一高等学校時のドイツ語教授、
菅虎雄先生が講義の途中に語られたことがあり、

そのことに強く印象付けられ、
中村氏は、聖者の『お慈悲のたより』を読まれたとのこと。

その後、光明会の本を求め、
田中木叉上人のご自宅にも伺われたことがあったそうです。

中村氏が笹本戒浄上人にうかがった御説法。

正面にかけて光り照らされている阿弥陀如来の御絵図を指しながら、

「よく阿弥陀さまを見つめてお念仏を唱えなさい。
阿弥陀さまがお姿を現してくださいますよ」


と、また、

「笹本戒浄上人に、お目にかかったのは、その時、たった一度だけ。
それも御法話を伺った時だけ。
しかし、今なお忘れられぬ感銘を残しているのは、
ことばでは一々表現することのできない御高徳のゆえであろう」


とも。

時々意外なことに遭遇すると、
「縁の不可思議さ」に想いを馳せることがあります。

中村元博士が、笹本戒浄上人、田中木叉上人に出逢われていたことも、
印象深いそんな逸話の一つ。

さらに、付け加えますと、
中村博士は、周知のとおり、宗教特に仏教に大変造詣の深かった方。

そのような方が、光明主義の教義内容ではなく、
「笹本戒浄上人の御人格」に強く印象を残されていることに、
特に、そのことに焦点をあてられていることに、
私は、興味、関心をひかれました。


その宗教(家)の真偽を量る尺度は、

「教義内容以上に、その修行の結実である人格にある」

と、言われているようにも感じられる逸話です。

参考、 光明会本部聖堂刊『笹本戒浄上人伝』 。

2012-05-20

「いいえ、私どもの理想は阿弥陀仏の報身であります。」(弁栄聖者の笹本戒浄上人への初対面時のご説法)

前回は、

「(弁栄)聖者の皮肉骨髄の髄を承けていられるのは戒浄上人だ。
しかし上人は髄ばかりを説かれる。
もっと応病与薬のご説法をして下さるとよいのだが」


との田中木叉上人の笹本戒浄上人観をご紹介しました。

「応病与薬のご説法」とは、釈尊の「対機説法」であり、
弁栄聖者のお弟子、信者方への御説法は、
まさにそのとおりでありました。

田中木叉上人がよく言われていた「髄ばかりを説かれる」
その「髄」とは、

「見仏所期一点張りの念仏」

のことです。

弁栄聖者の田中木叉上人への導かれ方と、
笹本戒浄上人へのそれとは全く異なっていました。

三身四智の仏眼の豊かな大円鏡智と妙観察智により、
導かれる方それぞれの「阿頼耶識」を見て、
法を説かれていた
ようです。

戒浄上人が弁栄聖者との初対面時に、

「私は、阿弥陀仏の(無相)法身を理想としております」

と申し上げられたところ、

「いいえ、私どもの理想は阿弥陀仏の報身であります。
信仰の対象として報身を仰がなくてはなりません」


と導かれました。

それからは、木像の御本尊の前に座って、
阿弥陀仏の報身を念じるお念仏を唱えるようになりました。

ところが、お念仏を唱えていると、
そんな想いは意識的には全くないのに、

「この木偶の坊!」

という言葉が、口をついて出てきてしまい、
懺悔しまたお念仏を唱える、その繰り返しで、
それを乗り越えるのに、数年を要したと伝えられています。

といいますのも、
戒浄上人は、聖者に出逢われる前に、
禅宗流の念仏により、既に「見性」体験があり、
阿頼耶識が「無相」に縛られ、
「有相」の報身を念じることに相当な抵抗があった
のだと思われます。

戒浄上人の弟子の一人泉虎一氏は、

「(お念仏により)阿頼耶識から掃除しましょう」

とよく言われていたとのことです。

しかし、「易行」と言われている念仏ですが、
実践するとすぐ気付かれると思いますが、
実は、当初の予期ほど「易行」ではないと思われます。

笹本戒浄上人の場合は、
弁栄聖者のご指導にも関わらず、
なかなか「見仏(如来様にお遇いすること)」ができませんでした。

「能礼所礼性空寂 感応道交難思議 故我頂礼無上尊」

「座禅もここまで来なければ駄目である」


と、中国の座禅をよくした居士の言葉を引用して、
弁栄聖者は笹本戒浄上人にご説法されました。

当時、無相法身を所期とする禅宗流の念仏の癖から、
なかなか抜け出せずに苦心されていた戒浄上人でしたが、
聖者のこのご説法により、長年の疑問が晴れたという有名な逸話が残されています。


またある時、戒浄上人が弁栄聖者の後ろでお念仏をしている時、

「自分はお念仏に適していないかも知れない。
禅に戻ろうか」


との想いが内心起こったその瞬間に、

聖者が後ろを振り返られ、

「宗旨を変えてはいけません」

と釘を刺されました。

後年、戒浄上人は御説法中、

「弁栄上人のお陰で、ありがたいことに、
この業っつくばりの私が・・・」

と涙ながらに声を詰まらせたことがあったとのことです。

大ミオヤ、三身即一の本有無作の報身の光明に依らねば、
成仏が出来ない、それが如来の法則である


からのようです。

弁栄聖者のご指導によって、
笹本浄上人は仏眼まで開かれ、大菩薩となられました

弁栄聖者が笹本戒浄上人に口伝されたところによりますと、

仏眼にも段階があり、
三身四智の仏眼、その究極が認識的一切智であり、
それが釈尊のお悟りの境涯である
とのことです。

戒浄上人は、

「弁栄上人は、正に、現代の釈尊に存します」

と、聖者の衆生済度の御力、如来認識の深さ、御霊格を尊崇され、
また、戒浄上人の「偏依弁栄」は徹底しておられ、
聖者には無私であられました。


笹本戒浄上人により、
弁栄聖者の「髄」が伝わっていることは、
大変ありがたいことです。

2012-05-17

「木叉先生はよく「(弁栄)聖者の皮肉骨髄の髄を承けていられるのは戒浄上人だ。しかし上人は髄ばかりを説かれる。もっと応病与薬のご説法をして下さるとよいのだが」と昭和三十年代終わり頃までよく仰言った。」(「戒浄上人と田中木叉先生」『「笹本戒浄上人伝」笹本戒浄上人全集 別巻』)

弁栄聖者の光明体系を自力で学ぶのは、
大変困難であると思われます。

聖者直弟子の中では、笹本戒浄上人と田中木叉上人に関しては、
まとまった本も残されており、
聖者理解のためには、このお二人の御指南は欠かせません。

光明会本部聖堂からは、
二祖笹本戒浄上人に関する本として、
『笹本戒浄上人全集 全四巻』、『弁栄聖者 光明主義注解』

財団法人 光明修養会からは、
『弁栄聖者光明体系』の編者、田中木叉上人に関する本として、
『田中木叉上人御法話聴書』(重住茂記編、冨川茂記編)二冊
絶版本として、藤堂俊章編著『田中木叉上人遺文集』、

があります。

お二人とも、仏眼が開けておられた方で、しかも学者でもあられたので、
通常の説法とは「次元が異なる」ことは即座に実感されると思います。

田中木叉上人に関する本でも驚くに十分な内容ですが、
笹本戒浄上人に関する本は、
弁栄聖者から戒浄上人への口授口伝を、
戒浄上人のお弟子の一人泉虎一氏が記録されたもので、
驚嘆すべき内容が、さらに満載です。

私は「一切経」を読んでいないので、
断言はできませんが、
おそらく、どの経典にも記されていない内容、
今までのどの宗教家も書き記されていない内容、
奇跡的な書かと。

したがって、最終的には、
この本に記されている内容を信じるか否か、
となってくると思われます。

神仏観について、釈尊の覚りの内容、成仏の真相に関心のある方は、
是非、これらの本にあたってみてください。

2012-02-16

「三身即一、本有無作の報身全体と合一した境界が一切の宗教の中心真髄、一切の学問の核心であります。」(笹本戒浄上人)

光明主義で説かれる「開示悟入」の入の位、

「無生法忍の境界が、
一切の宗教の中心真髄、一切の学問の核心である。」


と言われています。

また、

無生法忍における真理認識を、
自然科学的真理の認識の基礎認識、根本認識とする。


この立場に立てば今後いかように自然科学が発達しても、
光明主義によって科学を統一総合することができます。
自然科学のみならず一切の学問、芸術等に就いても同様なことが言えます」と。

以上、 『笹本戒浄上人全集 中巻』 より引用。


弁栄聖者の甚深なる三昧直観による大宇宙の真相の開顕により、
宗教とは、救済的側面のみならず、
真理認識といった認識面での「正見」獲得
といった側面もあることがわかります。


数学者の岡潔氏が、弁栄聖者を「現代の釈尊」とこよなく尊崇されたのは、
聖者の全分度生の「無私の在り方」のみならず、
自然科学の前提条件、その根源を深く正確に直観されていた、
その実力においても驚嘆されたからだと思われます。

特に智慧の側面において、
岡氏は生前、 『弁栄聖者光明体系 無辺光』 を薦められていました。

2012-02-12

「認識的一切智と観念的一切智の相違について」(弁栄聖者から笹本戒浄上人へのご教示)

前回の記事で、釈尊と弁栄聖者のお悟りの相違として、

「認識的一切智」「観念的一切智」について、

弁栄聖者がもらされたご境涯について、
佐々木為興上人と笹本戒浄上人に語られた逸話をご紹介しました。

この点は極めて稀少な内容なので、若干の補足をしたいと思います。

弁栄聖者は「仏は何でも分かっている」と仰られたとのことですが、
ここに注意すべき点があり、
聖者の高弟戒浄上人が実に懇切丁寧な解説をされていますので、
書き記しておきたいと思います。

「仏の完全な大円鏡智は、特別に意志を働かさなくても、
肉眼といつも同一時に活動している。
認識的一切智を実現していられる仏は
大円鏡智で宇宙の一切を任運自在に感じていられる。」


ただし、「宇宙の一切のこと」と申しても、それは、

「成仏の中心道を直進する上で核心となり急所となるもの、
自行化他の道において尊く価値のあるもの、
一切の衆生を中心道に導く対機説法で有効適切なもの、
お互いの心を明るく清く楽しく豊かにするもの」。

もしも、そのような意義深いもの以外のものまでも朗々と感じているのであれば、
それは、真実の仏の円満な認識的一切智ではない、と。

以上、 『笹本戒浄上人伝』 からの引用。

実に尊くして尊いご教示と深く感じ入っております。

弁栄聖者の場合は、認識的一切智の一歩手前、観念的一切智の状態にあって、
全分度生のご生涯であられました。

私たちには奇蹟としか思えない聖者の力量を、
時に、大脳生理学的に解釈しようとする傾向が見受けられますが、
三昧の真相を、大脳の働きのみで解釈するのは限界があると思われます。

田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』で記されているもののほかに、
にわかには信じがたい聖者のご実力の片鱗を記したいと思います。

念仏修行がうまくいかず、
その苦悩のためにまさに自らの命を絶とうとした有縁のご婦人がいました。

その時、弁栄聖者はその時、上州高崎におられましたが、
如来様によりその危機を知らされ、
そのご夫人の前に現れ、

「仏憶いの光明を、胸に仏を種とせよ」
と七遍繰り返しご教示され、
その方を救われたことがあったとのことです。

これは、仏眼の大円鏡智と妙観察智による分身利物の働きといわれています。

このことは、数学者岡潔氏も著書で引用されていたと思います。

また、紀州の徳本行者にも似た逸話があるとのことです。

千手千眼観音、『法華経 観世音菩薩普門品第二十五』で説かれる三十三身などは、
空想上の夢物語では決してなく、
念弥陀三昧に入っておられる観音様(観音様のお頭には弥陀が在します)の、
分身利物の御働きということで理解できると思います。

ちなみに、このご婦人とは、越後柏崎の極楽寺の奥様、籠島咲子夫人のことで、
この極楽寺とは、そう、あの弁栄聖者のご入滅の地です。

咲子夫人と弁栄聖者とは心霊界での御因縁が甚だ深く、
聖者は、咲子夫人を「いもうと さきこ」と呼ばれておられたとのこと。
このあたりの消息は、山本空外上人が書き記されています。

咲子夫人は、聖者ご入滅後、仏眼を開かれ、
咲子夫人の逸話にもありがたい逸話が残されており、
後日ご紹介したいと思っています。

弁栄聖者の高弟の一人田中木叉上人も、
聖者ご入滅後に仏眼を開かれた方ですが、
木叉上人にご縁の深かった九州久留米の信者吉松喜久造氏が
記されている木叉上人の逸話が大変ありがたい。

木叉上人は晩年まで、
一日二~三時間の念仏三昧を念仏道場で継続されておられ、
朝の念仏三昧の後、
全国の有縁の信者に葉書き、手紙による便りを送られていたとのことです。

そのお慈悲のたよりで、

「私共が悩み、心痛しておりますと実に適切な時機に、適切な御言葉で警告されたり、
解決法を御示しになりました」。

以上、藤堂俊章編『田中木叉上人遺文集』(残念ながら現在品切れ中)。


笹本戒浄上人による弁栄聖者の御教示(御内証)は大変貴重であり、
ありがたいことに、
杉田善孝上人、泉虎一氏、能見寿作氏など戒浄上人のお弟子方によって、
『笹本戒浄上人全集 上・中・下巻』、『笹本戒浄上人伝』、
『弁栄聖者 光明主義注解』、 『真実の自己』 など、文章として残されています。

ただし、現在のところ、神戸芦屋にある光明会本部聖堂のみで入手可能です。
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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