2012-12-21
「仏を念ずる外に仏に成る道なし。 三世諸仏は念弥陀三昧によりて正覚を成ずと南無」(弁栄聖者)
【弁栄聖者御垂示】
「真理の終局に帰趣すれば仏界に入るなり。
仏界に帰するは真理なる故に自然なり。法然なり。故に易往といふ。
唯絶対無限光寿即ち弥陀の聖名を崇め聖意を仰ぎ帰し奉りて、
意に至尊をのみ憶念し、口に聖名を称え、身に聖意の実現に行動すべし。
一念弥陀なれば一念の仏。念々弥陀なれば念々の仏。
仏を念ずる外に仏に成る道なし。
三世諸仏は念弥陀三昧によりて正覚を成ずと南無」
~仏陀禅那 弁栄聖者~
弁栄聖者の御教えの核心を、
ここまで、簡潔にして端的に表現されている箇所は、
少ないように思われます。
法然上人の『一枚起請文』に相当する名句と云えるのではないでしょうか。
弁栄聖者の遺弟、柴武三氏は、
念仏修養の聖地、長野県諏訪の唐沢山阿弥陀寺の岩壁に、
この名句を刻まれたとのこと、遺言であったようです。
この弁栄聖者の御垂示は、音律もよく、名句のため、
さらっと唱えてしまいがちですが、よく読むと、
「なかなか凄味の効いたご指南」
ともなっています。
「仏を念ずる外に仏に成る道なし。
三世諸仏は念弥陀三昧によりて正覚を成ず」
仏と成るため、つまり、成仏するためには、
「仏を念ずる外に、仏に成る道は、無い」
すなわち、
「大ミオヤを念じることを措いて他に成仏の道は無い」
と、ご自身の甚深なる三身四智の仏眼の境涯から、
弁栄聖者は、そう断言されているのです。
ただし、「大ミオヤ」の定義を、ここで、繰り返し確認しておく必要があります。
「大ミオヤ」とは、阿弥陀仏=無量寿無量光仏のことですが、
諸仏諸菩薩の一仏である阿弥陀仏のことでは、もちろんありません。
諸仏諸菩薩を諸仏諸菩薩たらしめている、
「十方三世一切の法報応の本地なる」根本仏、
すなわち、「究極的一者」である「無始無終の三身即一の大ミオヤ」
のことを指しています。
弁栄教学を学ぶ難しさの一つは、
弁栄聖者が、通常使われている言葉を使いながら、
意味内容が全く異なっている、ということがある点です。
聖者は、他の箇所では、また、
「浄門の意は、他仏を念じて自仏を作る」
と表現されています。
主客の明確に分離された境界に馴染んでいる現代人である私達には、
「他仏を念じる」ことで「自仏を作る」、
この働きを理解することが、相当困難であるように思われます。
「念じる」とは「縁ずる」ことであり、「縁起の理法」に拠っている、
とは、河波昌氏が著作等により、殊に強調されている点であり、
主客を一致せしめる「三昧」という不可思議な機能を離れてはありえません。
また、衆生と大ミオヤとの関係は、「不一不二」
であり、
「大ミオヤこそ、真実の自己でもある」
というのです。
「我といふは絶対無限の大我なる
無量光壽の如来なりけり」(弁栄聖者ご道詠)
弁栄聖者の「真実の自己」の定義は独特で、
広くして、また、奥が深いのです。
「真理の終局に帰趣すれば仏界に入るなり。
仏界に帰するは真理なる故に自然なり。法然なり。故に易往といふ。
唯絶対無限光寿即ち弥陀の聖名を崇め聖意を仰ぎ帰し奉りて、
意に至尊をのみ憶念し、口に聖名を称え、身に聖意の実現に行動すべし。
一念弥陀なれば一念の仏。念々弥陀なれば念々の仏。
仏を念ずる外に仏に成る道なし。
三世諸仏は念弥陀三昧によりて正覚を成ずと南無」
~仏陀禅那 弁栄聖者~
弁栄聖者の御教えの核心を、
ここまで、簡潔にして端的に表現されている箇所は、
少ないように思われます。
法然上人の『一枚起請文』に相当する名句と云えるのではないでしょうか。
弁栄聖者の遺弟、柴武三氏は、
念仏修養の聖地、長野県諏訪の唐沢山阿弥陀寺の岩壁に、
この名句を刻まれたとのこと、遺言であったようです。
この弁栄聖者の御垂示は、音律もよく、名句のため、
さらっと唱えてしまいがちですが、よく読むと、
「なかなか凄味の効いたご指南」
ともなっています。
「仏を念ずる外に仏に成る道なし。
三世諸仏は念弥陀三昧によりて正覚を成ず」
仏と成るため、つまり、成仏するためには、
「仏を念ずる外に、仏に成る道は、無い」
すなわち、
「大ミオヤを念じることを措いて他に成仏の道は無い」
と、ご自身の甚深なる三身四智の仏眼の境涯から、
弁栄聖者は、そう断言されているのです。
ただし、「大ミオヤ」の定義を、ここで、繰り返し確認しておく必要があります。
「大ミオヤ」とは、阿弥陀仏=無量寿無量光仏のことですが、
諸仏諸菩薩の一仏である阿弥陀仏のことでは、もちろんありません。
諸仏諸菩薩を諸仏諸菩薩たらしめている、
「十方三世一切の法報応の本地なる」根本仏、
すなわち、「究極的一者」である「無始無終の三身即一の大ミオヤ」
のことを指しています。
弁栄教学を学ぶ難しさの一つは、
弁栄聖者が、通常使われている言葉を使いながら、
意味内容が全く異なっている、ということがある点です。
聖者は、他の箇所では、また、
「浄門の意は、他仏を念じて自仏を作る」
と表現されています。
主客の明確に分離された境界に馴染んでいる現代人である私達には、
「他仏を念じる」ことで「自仏を作る」、
この働きを理解することが、相当困難であるように思われます。
「念じる」とは「縁ずる」ことであり、「縁起の理法」に拠っている、
とは、河波昌氏が著作等により、殊に強調されている点であり、
主客を一致せしめる「三昧」という不可思議な機能を離れてはありえません。
また、衆生と大ミオヤとの関係は、「不一不二」
であり、
「大ミオヤこそ、真実の自己でもある」
というのです。
「我といふは絶対無限の大我なる
無量光壽の如来なりけり」(弁栄聖者ご道詠)
弁栄聖者の「真実の自己」の定義は独特で、
広くして、また、奥が深いのです。
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