FC2ブログ

2020-09-11

山崎弁栄聖者遷化後百年記念「遺墨展」等

2020年(令和2年)は、弁栄聖者遷化後百年となります。

コロナ感染状況等により開催が延期されていましたが、
弁栄聖者有縁の地、聖者に関心のある方々により、
「遺墨展」等が以下のとおり開催。
関係者の方々に感謝いたします。

なお、コロナ感染状況等により予定の変更がありえますので、
ご注意ください。

〇山崎弁栄上人没後百年顕彰事業企画展「弁栄展―柏が生んだ聖―」

1  開催期間
令和2年5月27日(水曜日)から令和2年9月30日(水曜日)まで

2  場所と時間
場所 柏市郷土資料展示室(柏市沼南庁舎2階) 柏駅からの行き方(バス)
時間 午前9時30分~午後5時
月曜日休館(祝日・振替休日は開館)

なお、「弁栄展―柏が生んだ聖―」に関しては、
「千葉県柏市教育委員会文化課」(@kashiwa_bunka)がツイッターにより、
魅力的な情報を随時発信されています。


〇博物館開館25周年・山崎弁栄上人没後100周年記念
「無量光寺文書・山崎弁栄遺墨展」


会 期  令和2年9月19日(土)から11月15日(日)まで
展示期間中に資料の入れ替えあり。

前期展示: 9月19日(土)〜10月18日(日)
後期展示:10月20日(火)〜11月15日(日)

会 場  神奈川県相模原市立博物館1階 特別展示室

展示内容
①山崎弁栄上人の遺墨(作品の展示)
②無量光寺に残る指定文化財等の展示
無量光寺文書全14点を本館初公開
※ ポスターPDFはこちら


〇「山崎辨榮記念館(川口市)」
詳細はこちら

埼玉県川口市の個人宅に併設オープン。
予約制。
※個人宅ですので、ご照会の際にはご配慮願います。


〇新潟県柏崎市若葉町「極楽寺」
弁栄聖者の遷化のお寺であり、
聖者とご因縁が深く、
聖者から「いもうと」と呼ばれた咲子夫人は、当寺のご内室。

例年、秋のお彼岸の頃に、虫干しをされている様です。


〇◆山崎弁栄没後100年記念◆
山崎弁栄と内村鑑三
ー彼らは如何にして神秘の探求者となりし乎 ー


「長良川画廊東京ギャラリー」
令和2年12月9日〜12月15日
午前11時~午後6時

「(一財)山崎弁栄記念館」
令和2年12月27日〜令和3年1月3日
午前11時~午後5時

両会場とも期間中無休、入場無料。
※コロナ感染状況により上記期間に延期。
スポンサーサイト



テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2020-06-01

『山崎弁栄 光明主義講話 大悲のことば』(山崎弁栄 述 中井常次郎 記)


20200525.jpg

令和2(2020)年3月下旬に、
『山崎弁栄 光明主義講話 大悲のことば』(山崎弁栄 述 中井常次郎 記)が、求龍堂選書として刊行されました。

弁栄聖者御遷化後百年記念の書として刊行当初は、ただ嬉しく有り難く拝読していました。
ところが、本書に記された聖者の御講話が、今から100年程前になされていることに気付き、昨今の世界的大流行の新型コロナウイルス感染状況禍にあって、その意味、意義を、その歴史的背景等をも考えあわせながら改めて読み進める様になりました。

歴史学者磯田道史氏の師、速水融氏の著書、『日本を襲った スペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』には、
前流行期 大正7(1918)年秋―大正8(1919)年春、
後流行期 大正8(1919)年暮―大正9(1920)年春

と区分され、日本各地の当時の感染状況が歴史的背景等とともに記されています。

参考文献としては他にも、
〇内務省衛生局編著『流行性感冒―「スペイン風邪」大流行の記録』東洋文庫778、
〇東京健安研セ年報56の369‐374.2005「日本におけるスペインかぜの精密分析」などの他、
〇「防災歳時記(15)―スペイン風邪、猛威を振るう― 宮澤清治」には、大阪市天王寺区逢坂「一心寺」の境内にある、大正11年建立の「大正八九年流行感冒病死者の慰霊碑」の写真が掲載。
この「一心寺」とは、弁栄聖者最晩年の直弟子の一人鈴木憲栄上人とご縁の深かったお寺。
大正6年10月に当寺で行われた聖者の講話、上人によるその講話録『弥陀教義』 には、
「三昧中所見の仏は、主観的客体である。」と。
この解釈には留意が必要と思われますが、極めて重要な聖者のご教示が明記されています。
大正8年に、中井師と同席されていた恒村師にご教示された聖者の同じ言葉が、既にこの時点で使用されている事実をも示す貴重な講話録でもあります。

また、
弁栄聖者『御慈悲のたより』と、中井常次郎『乳房のひととせ』( 『山崎弁栄 光明主義講話 大悲のことば』の底本)には、100年前の大正時代に大流行した「流行性感冒」に関する言及が幾つか記されています。

例えば、
弁栄聖者『御慈悲のたより 中』71(河波昌師による改定版は、昭和54年5月10日発行)には、「此度到処に猖獗(しょうけつ)を極めたる流行感冒に侵さるる処となり、遂に帰らぬ旅路に趣きなされしとの事、アゝいかに酷なる哉。」と認められています。
この便りは、山本空外編『弁栄上人書簡集』504頁以下にも掲載されており、大正7年3月に認められたものと記されています(書簡保有者からの伝聞か)。

100年程前の大正時代に大流行したいわゆる「スペイン風邪」のことが気になり、この度、この便りを詳しく調べてみたところ、興味深い事実が判明しました。
この『御慈悲のたより 中』71には掲載されていないのですが、山本空外編『弁栄上人書簡集』173(507頁)には、「先日御書簡によれば千葉浄光なる者甚だ御迷惑をかけ・・・知恩院三昧道場にて 二日」と記されています。
この便りは、前半と後半の二種類に分かれている様な形式ですが、この二つが同時期に認められたものと仮定しますと、この書簡が大正7年3月であることには、以下の幾つかの点から疑問が生じてきました。

推定根拠は、以下のとおりです。

〇前述の速水氏の書には、
「前流行期 大正7(1918)年秋―大正8(1919)年春
後流行期 大正8(1919)年暮―大正9(1920)年春」と明記。
日本では、大正8(1919)年11月に島村抱月が罹患して死去したこと等にもより世間的に注目。

〇「千葉浄光なるものの迷惑事」に関して。
この迷惑事とは、千葉なるものが布鎌教会堂との縁を利用した事件であり、布鎌教会堂の開堂は、大正8年4月。
また、中井常次郎『乳房のひととせ』には、中井師と当時親交のあった恒村師が、『ミオヤの光』の広告でその迷惑事を知ったと記されている。

〇『ミオヤの光』の創刊は、大正8年11月。

〇山本空外編『弁栄上人書簡集』173(『御慈悲のたより 中』71とほぼ同文)には、「故米子のきみには生年はわずか五々(『中巻』では五五)の盛なりし短きに以(『中巻』では、似)たれども、」、「就て残り玉いし御両親さま并に御妹子等の御かなしみのほどは、」と認められている。
「五々の盛なりし」、「短きに似たれども」と認められていることから、25歳との判読が可能か。
なお、この便りには、娘小式部の内侍に先立たれ悲嘆に暮れていた和泉式部にも言及。小式部の内侍は、20代半ば頃に逝去とも伝えられている。

この書簡の関連記事が、
金田昭教編『弁栄上人百回忌記念 墨跡仏画集』259頁に記載。その記載内容によると、芳子氏は、四女で、大正7年3月では3歳前後、大正9年3月では5歳前後と推定。
また、同書258頁には、この便りを受け取られた方の大正8年当時の写真が掲載。30代から40代半ば程の方か。
大正8月8月は、聖者ご指導の第一回唐沢山別時念仏会が開催。
なお、米子のきみに関する聖者の和歌が、同集40頁の⑪に掲載。

〇総本山知恩院勢至堂での別時念仏三昧会は、大正6年以降、3月1日からの開催が毎年恒例となっていた。ただし、大正9年は、3月と10月開催。

以上の点から総合的に判断し、この便りは、大正9年3月2日に認められたものと推定。

また、中井師自身も『乳房のひととせ』に、「あの恐ろしい世界的流感の横行した時、沢山人が死んだ。私共の友人や知人も多く死んだ。・・・どこの火葬場も棺桶の列をなしと云ふことであった。そのうち自分も感染し、頭痛が加わり、熱は上った。」と記されています。

他にも、大正時代の流感性感冒に関すると推定される便り等がありますが、今回は、この程度にとどめたいと思います。

ただし、弁栄聖者の最後の病態、症状に関しては、是非言及しておきたい事があります。
病死因は「尿毒症」とされているようですが、「愚衲発病後の経過は三十八度より九度の間を往復してやまず。じつは近頃覚えなき熱度に候ごとし。」とご遷化の10日程前の大正9月11月23日に認められています(代筆か)。
流行性感冒によるご持病の腎臓疾患悪化等の可能性が気になるところです。
「大正八九年は流行感冒で多くの人が斃れた。」ことが大変気になり急ぎ見舞いに行かれた鈴木憲栄青年は「急性肺炎」による呼吸器障害に似た症状を気にされていますが、聖者の「咳の症状」の記述は、どなたも不思議と記録されていないようです。
また、医学的にはせん妄等の様相とも受け取れる症状があったためか、治療にあたられた医師等の所見では「脳梗塞」との合併症との見方もあったようです。
「病気の苦しみは苦しみとして如来さまの有り難いお慈悲はいかなる場合にも輝いている。」と外見上の苦しい病相とは全く異なる「心中の安楽な有様」が、例えば臨死体験者の報告等でもなされています。
また、釈尊の示寂前の肉体的苦痛を三昧力によって制御されたご様子とも重ね合わせ、自然界における肉体と心霊界における現象との異次元の相違を考えました。


前置きが大変長くなりましたが、本題に入ります。

今回ご紹介します、
『山崎弁栄 光明主義講話 大悲のことば』(山崎弁栄 述 中井常次郎 記)は、
弁栄聖者御遷化までの最晩年、およそ一年間(ひととせ)にわたる京都帝国大学工学部機械科講師であった中井常次郎師による弁栄聖者御講話等記録。
弁常居士『乳房のひととせ』が底本(弁常とは中井常次郎師の法名)。
なお、中井師は、弁栄聖者と邂逅の後、数年後、30代で京都帝国大学での職を辞し、弁栄聖者の光明主義の為に生涯を尽くされた方。

先ず始めに、些細なことですが念のため。
中井常次郎師(弁常居士)の職歴ですが、「教授」との表記が時々見受けられますが、京都帝国大学工学部機械科の講師。
中井師創設の南葵光明会の後継者である池田常山氏は、本書の「『山崎弁栄 光明主義講話 大悲のことば』刊行によせて」に、「大正六年、京都帝国大学工学部機械科講師として奉職」と明記されています。
なお、『お慈悲のたより 中』149には、「京都の中井氏の如きは大学の教授を受持ちながら」と認められていますが、この「教授」とは、教え授ける、つまり、講義、授業の意。

弁栄聖者のご遺稿は、主に大正期に記されているため、言葉の表現、内容ともに読み難いと感じる方が多いのではと思われます。
二年前に岩波書店から出版された、山崎弁栄『人生の帰趣』を読まれている方には、本書の講話内容は比較的理解され易いかもしれませんが、
本書は、僧俗信者等を前にした講話等の記録であり、「中井常次郎の聖者随行記」も随所に挿入され、「一貫して宗教者」であられた弁栄聖者の御相が彷彿とされ「生身の聖者」と対面しているかの様な工夫が施されています。

本書に関して是非触れておきたい重要な事柄が幾つもありますが、今回は、何点かに絞ってご紹介させて頂きたいと思います。

本書は、近代自然科学の洗礼を受けた工学専攻者が、「ひじりとは、どんな顔の持ち主かと、それが見たさに」弁栄聖者を訪ねたことに始まります。

ところが、極めて印象的なことは、
「上人のお顔を拝むことができなかったが、お裙のすそのさばきいとしとやかに我等の前にお坐りになったのを見ただけで、はや霊感に打たれた。」と、光明主義の教義を「知解する前」に、既に弁栄聖者への「信が目覚め」かけていたという点です。
もちろん、自然科学者であった中井師は、聖者の幅広く深い知識・知見と、「聖意が体現された」三業四威儀に接しながら聖者への信をより深めていかれます。

また、ある時の御講話に、
〇「仰信は初歩であって終りである。・・・仰信から解信、証信に進むのであるが、証を得るのは一部である。一分の証を得てから初めの仰信に帰るのである。」と聖者は一見何気なくご教示されています。
「仰信→解信→証信」と直線的に信仰が深まっていくものと一般的には考えがちですが、聖者のこの御教示は、深い宗教体験に基く、実体験からのご発言だからでしょうか、まことに合理的で説得力があります。

中井師は、念仏中に一部ながら証を得、「それは、明相というものだ。今後は仰信によって励むように」と聖者から御教示を受けていますが、田中木叉『日本の光(弁栄上人伝)』には、
上人「綱島梁川の光映というのは、あれは明相です。」と聖者は指摘されています。
「明相」とは、「難思光」位の「五根五力」において心霊界への深甚なる証入への一歩手前に蒙る感覚的な啓示の一種と云われています。

〇「念仏三昧を宗とし、往生浄土を体とす」
光明主義の特徴が端的に表現され、解釈上特に留意すべき表現と思われますので、便宜的に二つに分けて考察してみたいと思います。

「念仏三昧を宗とし」について
弁栄聖者は、御講話の中で、
「称名の音声に功徳があるのではない。」、「口に仏名を称えても、心が仏を離れては念仏三昧ではない。念仏中に悪い思いを起こせば、悪人になる。良くないことを考えながら念仏のまねをしてはいけません。」と厳しく戒められています。
念仏を称える際の心構え(「起行の用心」)を誤りなく確りと伝えるための表現であり、決して「(唯信)口称の念仏」を貶める意味ではないと推察されます。
あるところでは、
「称名はこの関門を叩くの声、憶念はこの法蔵を開くの宝鑰なり」とご教示されています。 ※関門とは三昧証入のこと。

田中木叉『日本の光(弁栄上人伝)』には、弁栄聖者の便りの一部を引用され、「三昧発得の稀有人」と三河の貞善尼を評されています。
このもとになった便りには、
「法尼の如く深い三昧の境に入りし者は実に稀有なり」と高く評価されつつも、一方で聖者は「宗教者」としての法尼に、化他への期待をこめられています。

貞善尼は、徳本行者への信が篤く、立礼拝、「唯信口称」念仏をとても熱心にされていたので、その噂を耳にした聖者随行者が聖者にお伝えしたところ、「いくら熱心に念仏していても空念仏ではしかたない」と漏らされ、そのことを随行者が貞善尼に伝えてしまいました。貞善尼は「何と酷いことを云われる」と聖者をお恨みに思い、時に悔し涙を流しつつ一心に念仏精進をされていたところ、ある時、自分は今まで「空念仏をしていた」ことに気付かれ、聖者の真意「憶念口称」念仏の深意を悟られ、後に三昧発得されました。
なお、金田昭教編『弁栄上人百回忌記念 墨跡仏画集』274頁には、その三昧発得の貞善尼と因縁の深い武藤弁隆尼への、聖者の厳しい叱咤激励が記されており、尼僧をはじめ直弟子に対して、大変厳しい一面のあった聖者の有様がうかがえます。
「少しでもお叱りを頂けるようになればしめたものである。」と中井師は述べています。
「さようで。それでいいですね。」との慈愛の一面と、「神聖、正義」の厳しい一面も合わせ持っておられたようです。

次に、「往生浄土を体とす」について。
自由自在な無礙の「無余即無住処涅槃」の境界。自然規定である「肉の心」が霊化された、「心霊的自由」を得た無礙自在の境界。光明主義で云う「如来のお世嗣」。

〇「正見」について
一般に仏教では、成仏へと到る道として「八正道」(「正見」はその一つ)が説かれますが、光明主義における「八正道」とは、「お世嗣」となり初めて可能となる(獲得できる)行為と捉えています。

今回の新型コロナ感染症への重要な対策の一つである、「マスク」着用の効果に関して、当初から、専門家の見解に注目してきました。
5月の現時点では、直接・間接的に「マスク着用には、効果あり。」との見解が世界的に有力ですが、
新型コロナウイルス感染が世界的蔓延となる前、今年の2月頃には、「マスク着用には、科学的なエビデンス無し。」との見解が有力でした。ウイルスの粒子とマスクの穴の大きさとの関係、その一面のみの観点からの検証であったためでしょうか。

ここで「マスクの効用」の可否の見解を翻した事実を非難したいのではなく、「正見」を得ることの困難さを痛感しています。
と同時にそれに付随する「正当にこわがること」(「小爆発二件」寺田寅彦)の困難さも。

おそらく、現時点においても、新型コロナウイルスに関する科学的知見、その対処策における因果関係には、まだまだ不明な点が多いと思われます。
現在見聞している新型コロナウイルスに関する情報だけでも、このこのウイルスの実に巧妙な生存戦略は、驚異かつ脅威現代社会に暮らす地球上の人類に、顕在、潜在的に人類が直面していながら避け続けている人類の難題を次々と突き付けてくるように感じています。

そんな中にあって、例えば、ノーベル生理学・医学賞受賞者山中伸弥教授の発言等は、未知のウイルスの解明を模索する科学者の姿勢、その良心と責任、謙虚さを感じ、とても感銘深い行為と思われます。
「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ。」

宗教上の「正見」に、科学的知見をも含めることに違和感を感じる方がいるかもしれませんが、
光明主義における「如来のお世嗣」とは、三身即一の広義報身(自然界と心霊界を統御する大宇宙全一の根本仏)の真理、法則を認識、その知的側面をも悟った境界。数学者として名高い岡潔博士が、弁栄聖者『無辺光』を絶賛し、推奨されていたのは、聖者独自の「四大智慧」論のため。

本書には、弁栄聖者の印象的なエピソードが随所に挿入され、その一つに、パンを巡る聖者の行為が記されています。
その行為を目撃した中井師が感銘を受けたのは、聖者の「慈悲」の行為とその根底にある「智慧」の発露ゆえと推察されます。三身四智の聖者の行為においては、「慈悲と智慧とは、相即不離」。

光明主義文献刊行会編集部では、本書「まえがき」に、
「弁栄上人の教えの根幹にあるのは、宗教の目的は真理追及であって、正しい幸福は真理の本質的属性として真理に伴うものだということである。」と指摘されています。


〇「授戒会」について
田中木叉『日本の光(弁栄上人伝)』には、「いつものごとく道場に幕を張り廻して雲半身の尊像をかけ念仏のあいまにご説法。」この授戒会を評して、通常の別時念仏三昧会の形式であると。

ここも一見何気ない表現ですが、真の道徳は、光明獲得(宗教体験)によって実行可能となり、念仏(「他仏を念じて自仏を作る」)による霊化(霊育)、そのことを前提としなければ、真の道徳は成立しえず、理性的次元、すなわち、大脳前頭葉による意志的抑止に基づく道徳的行為は、実に脆く危ういとの示唆と受け止めます。

「正見」の智力同様、「正見」に基づく「正業」の実践力の前提となる、特に「自他弁別本能」、その無明の働きを抑制する「自由意志力」。

「真の自由」とは、自然規定である「肉の心」を離れて、「心霊的自由」を得ることに依る。 (「妙観察智」弁栄聖者『無辺光』の取意)

「肉の心」とは、聖者直弟子の笹本戒浄上人がよく用いられた表現ですが、本書には「肉の心」と表現が明記され、弁栄聖者ご自身の表現であることが判明。

なお、『如来光明礼拝儀』の「念仏七覚支 (五)定覚支」は、「初歩の仏眼」を得る境界とされ、「尽(すべ)ての障礙(さわり)も除(のぞ)こりぬ」と表されています。
一方で、 弁栄聖者『光明主義注解』11頁には、
「三身四智の仏眼、無生法忍を実現すると、一往浅いながらも大部分の無明滅して明が現前した自受用の境界となり、(無明が完全に滅するということができるのは認識的一切智の境界である)」と。極めて重要かつ貴重な御教示。
三身四智の聖者自内証からの厳密にして深甚微妙な境界が明記され、驚嘆します。

弁栄聖者のこの御教示はとても困難で極めて程度が高いものですが、現在の新型コロナウイルス感染禍での、不自由なストレスフルな持続的な生活状況下において、その方向性の正しさを、以前よりも実感できるようになりました。

上述の他、
〇弁栄聖者における「五戒の新解釈」
〇真宗との比較、中島上人・伝統的浄土宗乗との比較
・「阿弥陀仏」・「西方極楽浄土」・「法蔵菩薩」
・「第十八願」
・「五種正行」
・「安心」と「起行の用心」
〇「念仏三昧三十七道品」
〇「現世から来世への移行の仕方」
〇「人間の身体と大ミオヤの霊体との関係」
〇「『礼拝儀』無対光 「摂化せられし終局(おわり)には」への訂正指示」
〇「妙観察智 「今は、これを述べない。」」
〇聖者言及のポール・ケーラス『仏陀の福音』 。その緒言は、鎌倉円覚寺二百七世釈宗演師で、翻訳者は、鈴木貞太郎、即ち、鈴木大拙氏。
シカゴ万国博覧会開催は、明治26年。
本書の発行は、明治27年12月31日で、当時、弁栄聖者は、仏跡参拝のため印度へ渡航中。

などまだまだ言及したい点があります。
さらにはまた、
聖者の眼鏡姿といった興味深い意外な事実も。
最期に、是非とも触れておきたい点があります。

歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、今回の世界的な新型コロナウイルス感染症への対処策として、地球的な立場から、他者との連帯、共助、信頼等を挙げ、
「我々にとって最大の敵はウイルスではない。敵は心の内にある悪魔である。」
と鋭く指摘されています。

危機は往々にして、地下水面化にあった諸問題を露呈させます。このたびは、医療・福祉の問題が先ず危機に晒されました。様々な格差、経済、政治、教育制度、社会的インフラ、芸術文化面などの他方面に渡る諸課題、そして、心理的不安による人間性の負の面(利己性、差別、デマ等)の噴出。

何よりも課題の困難さの根底にあると思われるのが、何人も逃れることのできない生理的な自然規定無始の無明である「生きんとする意欲」と、自然界の生物である人間ゆえのその無明に付随する不可避の「自他弁別本能」。
この二点は、何人も逃れることができない自然規定ですので、具体的な方策を模索する際には、この自然規定から決して眼を離してはならない。まことに困難な道ですが、そのように痛感しています。

本書の終わりの方に、 大正3年に一枚刷りで頒布された「【資料】光明会趣意書」が掲載されています。
大正3年は、1914年にあたり、世界分断の象徴的事件である第一次世界大戦勃発の年。
この「光明会趣意書」には、伝統的な個別の聖名である「阿弥陀如来」の表記はなく、
「三身即一、無始無終の超在一神的汎神の根本仏」を、「大御親(ミオヤ)」聖者独自の新造語で表現されています。
「神仏の御名」が宗教対立の根幹にあると仮定すれば、聖者は100年以上前に、既に「人類対立の彼岸」に立たれていたといえましょうか。その慧眼に念いをはせています。

南無焔王光仏
「衆生無始の無明より 惑と業苦の極なきも
大焔王の光りにて 一切の障り徐こりぬ」


南無智慧光仏
「如来智慧の光明に 我等が無明は照(てら)されて
仏の智見を開示して 如来の真理(まこと)悟入(さとら)るれ」


南無無礙光仏
「如来無礙の光明は 神聖正義恩寵の
霊徳不思議の力にて 衆生を解脱し自由とす」

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2020-03-01

弁栄聖者遷化後100年記念事業、「展示会」及び「出版」予定について


2020年の本年は、
弁栄聖者遷化後100年記念事業
として、
以下の「展示会」及び「出版」が予定されていますので、
お知らせいたします。

〇「展示会」

2020022901.jpg

【開 催】山崎弁栄上人没後百年顕彰事業企画展
「弁栄展―柏が生んだ聖―」


1 開催期間
令和2年5月27日(水曜日)から令和2年9月30日(水曜日)まで
新型コロナウイルス肺炎感染拡大防止の措置として、
開催を延期していた企画。
社会情勢や感染拡大状況によっては、
開催期間内であっても予告なく、
展示室を閉鎖・企画展中止となる場合あり。

2 場所と時間
場所 柏市郷土史料展示室(柏市沼南庁舎2階)
時間 午前9時30分~午後5時
※月曜日休館(祝日・振替休日は開館)

3 入場料
無料

4 主催
柏市教育委員会

なお、来場の際の注意事項については、
HPをご覧ください。

2020022902.jpg


〇「記念出版物」

現在、amazon等でも予約受付中。
→3月末に発行。

以下、求龍堂のHPより転載。

求龍堂選書シリーズ《 山崎弁栄 》
『山崎弁栄 光明主義講話 大悲のことば』
刊行:2020年3月


暗黒に迷っている人々の心を明るい光明の中に導く、
弁栄上人の生のご法話
現代の釈尊と称された弁栄上人の法話の記録

本書は、浄土宗から出て「光明主義」という一派を起こされた
山崎弁栄上人(1859~1920)が
在家信者に向け平易に説かれた法話の記録を、
現代表記に改めて再編集したものである。
原文の記述者は上人の晩年の直弟子で、
上人滅後、京都大学講師の職を辞し
郷里和歌山において南葵(なんき)光明会を創設した
中井常次郎居士(法名中井弁常)、
原典は中井居士の著書『乳房のひととせ』(昭和18年、無憂園刊)に
記載された上人法話録である。
原著には弁栄上人に随行した思い出などが書かれているので、
その中から印象的な話を10話選び、コラムとして掲載。
弁栄上人が起こした「光明主義」とは何か。
死後に極楽に往生するという、
来世の救いのみを強調するのではなく、
この世から仏さまの光明に照らされ、
霊性(れいせい)が育まれていくこと、
そして仏さまをどこまでも深く畏敬し、
お慕い申す念仏の行、
これこそがお釈迦様・法然上人の遺志に適うこと
と確信し唱導したのが「光明主義」である。
今現在、暗黒に迷っている世の人々の心を明るい光明の中に導き、
この世から、仏さまの光明の中で生活ができるよう
に導くことを目的とした教えである。
「光明主義」を起こした弁栄上人は、
上人を知る人々によって現代の釈尊と仰がれ、
創設した「光明会」の内部では弁栄聖者と尊称されている。
その教えは修行者が相応の時間を有して覚るべきものであるが、
上人は伝道行脚の日々の中で、膨大な量の遺稿を書き残した。
しかし、弁栄上人の生の法話を直接記録したものは決して多くはない。
中井居士が書き留めたこの法話録は、
弁栄上人最後の一年間に記録された
「釈迦の口から直接説かれた教え」であり、
仏教信仰の勘所を伝授される思いがするとともに、
上人の話を直接聞くような臨場感を味わうことができる。
弁栄上人を身近に感じることができることこそ、
本書の最大の特長である。

<目次>
出会い           
【誌上問答】永遠の生命と生死解脱について
山崎弁栄上人法話録
【その一】横浜久保山の光明寺での法話
題「念仏三昧を宗となし、往生浄土を体となす。」
題「ほとけ念いの心について」
 中井常次郎の聖者随行記(1) 
【その二】当麻山無量光寺での授戒会の説教
 中井常次郎の聖者随行記(2) 
【その三】時々承った話を集む
【その四】京都知恩院山内勢至堂別時
 中井常次郎の聖者随行記(3)  
【その五】三月別時の夜のお話
 中井常次郎の聖者随行記(4)  
【その六】京都市中井宅での講話
講演 宗教の意義
 中井常次郎の聖者随行記(5)  
【その七】京都市恒村医院にて
 中井常次郎の聖者随行記(6)  
【その八】黒谷瑞泉院別時中の法話
 中井常次郎の聖者随行記(7)  
【その九】七月別時(瑞泉院・恒村医院でのお話し)
【その十】当麻山無量光寺別時での法話
題 十二光仏講義
○光化の心相(宗教心理論)
○宗教倫理
中井常次郎の聖者随行記(8)  
【その十一】信州唐沢山阿弥陀寺別時における説教
 中井常次郎の聖者随行記(9)  
【その十二】京都知恩院山内勢至堂別時
 中井常次郎の聖者随行記(10)  
【資料】光明会趣意書
如来光明会の趣意
弁栄聖者略伝
○後注
○文献案内
あとがき
『山崎弁栄上人法話録』刊行によせて

述/山崎弁栄
記/中井常次郎
企画・編集/光明主義文献刊行会、南葵光明会

四六判 並製本 272頁(図版8点)

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2020-01-18

吉水岳彦著『お袖をつかんで』を巡って


2020年(令和2)年1月17日は、
1995年(平成7)年1月17日の阪神淡路大震災発生から、
25年になります。

日本の大都市における未曾有の大災害として、
様々な課題を、現在にまで投げかけ続けています。

災害時の支援に奔走された浄土宗僧侶としては、
明治大正時代に活躍された颯田本真尼が知られています。
今回は深入りしませんが、以下の2冊があります。

〇藤吉慈海著『颯田本真尼の生涯』
〇金田昭教編集『山崎弁栄上人百回忌記念 墨跡仏画集』
340頁〈解説 颯田本真尼〉。


2008年10月に、
吉水岳彦氏が、大正大学へ提出した学位請求論文、
「霊芝元照の浄土教思想」

2009年4月に、
ホームレス状態の方へおにぎりを配る、
「ひとさじの会」が、
吉水氏により発足されています。
また同時に、
「為先会」の中心人物の一人でもあります。
この両面の併存、
このことは吉水氏の活動を考える際、
決して忘れてはならないことだと思われます。

その博士論文執筆から7年後、
2015年11月に出版されたのが、
吉水岳彦著『霊芝元照の研究ー宋代律僧の浄土教ー』

元照に関して、
山崎弁栄講述『宗祖の皮髄』には、
元照の「仏種」に対し、
弁栄聖者は、「聖種子」と表記され、

「人の本有の性は無定性にて、
しかも一切の種子を薫習する性能あり。」
と。

聖者は、
従来の「仏性」という表現から、
宗派宗教の枠を突破し、
より開かれた「霊性」という表現をされました。


20200118.jpg

今回取り上げます、
吉水岳彦著『お袖をつかんで』は、
『無量寿経』に説く四十八願に準拠し、
東日本大震災の翌年の、
2012年6月から2016年8月の四年間に渡り月一回、
光明会機関誌『ひかり』に掲載された記事の書籍化。
※ 発行所は、「光照寺」内。

先ず始めに、よくご覧になって頂きたいのが、
この本のブックカバーのデザインです。

「月かげのいたらぬさとはなけれども
ながむる人の 心にぞすむ」


有名な浄土宗歌ですが、

このブックデザインは、
如来様側と衆生との両方の目線から、
具体的に描かれている点に大きな特徴があると思われます。

輝く月の光に照らされる元、
お地蔵さんの様なお坊さん達が一緒に歩まれています。
注意深く見ますと、一人として同じ所作はありません。
輝く月の元、皆と行動を共にしながら、
各人がそれぞれなりの祈り方をしています。
一番後ろの者は、何かに話しかけている様です。
表ではなく裏のブックカバーを見ますと、
一人木陰で、月に念じています。
また、
挿絵にはお地蔵さんのような僧侶の姿が描かれています。
上から人を導くのではなく、
辻道にひっそりと立ち、
ささやかではあるけど、目立たないけれども、
人々の日常の生活こころの拠り所となる、
そんなお地蔵さんの姿。

このデザイン、挿絵は、
山﨑まどか氏によるもので、
支援活動の現場等で吉水氏の活動をご覧になり、
吉水氏の立ち居振る舞い、考え、人柄等をよくご存知の方、
更に言えば、
吉水氏の「理想の信仰の在り方」を描かれたのではないかと推察されました。

ちなみに、
批評家の小林秀雄氏、弁栄聖者ともご縁の深い河波定昌師を、
「月の人」と評されたのは、批評家の若松英輔氏。
太陽の様に自らの力によって輝くのではなく、
太陽の光を受けて、自づと自らも輝き、人をも照らす「月の人」。
「一隅を照らす」
伝教大師最澄の言葉を思い出しました。

また、博士論文の執筆後、論文の書籍化までの数年間、
この記事が書かれていること、
吉水氏の関心が律僧にあること、
この二つを頭の片隅に置いて本書を読まれると、
また違った味わいが感じ取れるかもしれません。

『法然 イエスの面影をしのばせる人』の著者、
井上洋治神父が信奉された「法然上人像」に通底するものを、
吉水氏も感じ取っておられるのかもしれません。

浄土宗僧侶の吉水氏の活動に、早期から注目され続けている一人に、
批評家の若松英輔氏がいます。

若松氏ご自身はカトリックの信者で、
最近、社会問題への発言も積極的になされていますが、
若松氏の師匠が井上洋治神父であることは知られています。

なお、令和2年2月27日に、
若松英輔、吉水岳彦両氏により、
「貧困への無関心を越えて」
というテーマで、
対談が行われます。

上述しました『お袖をつかんで』の本が出来上がる経緯から、
吉水氏は、始めから弁栄聖者、光明主義の信奉者で、
この本も、光明主義の立場から書かれていると思われるかもしれませんが、
「第三十歩 いのちがけ」に率直に記されていますが、
弁栄聖者への「かなり強い偏見」からは解き放たれつつある過程上で、
この本は書かれている様に思われます。

吉水氏のお寺「光照院」は、
漫画「あしたのジョー」の舞台としても知られる、
浅草山谷にあります。

山谷近辺の歴史を調べている過程で、
福田行誡上人、弁栄聖者との関係に関心を深くされ、
『行誡と弁栄展』図録において、
吉水氏は、行誡上人を担当されています。

浄土宗僧侶である吉水岳彦氏の諸活動は、
現在の光明会の在り方に、
ある課題を投げかけている様に思われます。

法然上人における「一枚起請文」ともいうべき、
弁栄聖者の最重要のご教示である、

【弁栄聖者御垂示】

「真理の終局に帰趣すれば仏界に入るなり。
仏界に帰するは真理なる故に自然なり。
法然なり。故に易往といふ。
唯絶対無限光寿即ち
弥陀の聖名を崇め聖意を仰ぎ帰し奉りて、
意に至尊をのみ憶念し、
口に聖名を称え、
身に聖意の実現に行動すべし。
一念弥陀なれば一念の仏。念々弥陀なれば念々の仏。
仏を念ずる外に仏に成る道なし。
三世諸仏は念弥陀三昧によりて正覚を成ずと南無」


において、
「身に聖意の実現に行動すべし。」
と、積極的な行為へのご教示をされています。

『如来光明礼拝儀』の「昏暮の礼拝」、
その「至心に懺悔す」
には、

〇「作す可からざる罪を造り」
〇「作すべき事を怠るの罪に陥いれり」

と、罪に、積極・消極の二面の罪を含めています。

『お袖をつかんで』には、
吉水氏の「友情物語」と、「専修念仏体験」が、
その基底を貫かれている様に思われ、
ご自身の体験から紡ぎ出された生きた言葉、
教学的な学説を消化されたご自身の思索に基づく生きた言葉、
その迷いながらも一歩一歩歩まれている姿が、
感動を呼び起こします。

例えば、
「支援」ではなく「支縁」と表記されています。
そうとはいえ、時に、
「親身になることから時折逃げたくなることもあります。」
と正直にご自身の気持ちを吐露されています。
そんな時、
人気のない温泉に招く吉水氏の親友の思い遣りに、ほっとします。

被災地における、
暖かい食事と暖かい風呂の重要性。
阪神・淡路大震災時に、
中井久夫氏が認識され、実践されていた事。
支援には、深い人間洞察に基づく、智慧と実践力が、
必要であることを教えて頂けます。
※ 参考図書は、文末。

「支援者を支える支援者(エネルギーの供給源)は、
支援活動における必須条件」
とは、
災害支援の実践から得られた極めて重要な智慧の一つかと思われます。

後述します、阪神・淡路大震災時とその後も、
正に身を粉にして献身された精神科医の安克昌氏。
安医師は、震災の6年後の2000年12月2日、肝細胞がんのため、
39歳の生涯を閉じられました。

「自分の体を通して他者の毒を濾過する。
このことは、神ならぬ人がしてはならないことだった。」

とは、安医師の悲痛なる遺言でしょうか。

※ 肝細胞の働きとは、
「たんぱく質の合成と貯蔵」、「解毒作用」、
「胆汁の生成と分泌の促進作用」と言われています。

なお、阪神・淡路大震災、東日本大震災において、
正に献身的な働きをされた方のその後の余命が短い様な気がしています。
いまだに、その意味、意義はわかっていません。
「溺れる者を助けるためには、先ず自分が溺れない事だ」
との教訓と同時に、宮沢賢治の思想も念頭に置きながら。

弁栄聖者の「全分度生の在り方」は、
理性的次元における堅固な道徳的意志力ではありません。
その行為を在らしめている根源は、
三身四智の仏眼による、
大ミオヤとの形式・内容全面での三昧合一

その「内霊応に満ち給う」状態における、
豊かな四大智慧(無辺光)と内発的な霊的意志力(不断光)の発現

と拝察します。

また、本書には、
「霊妙の力」に戸惑う吉水氏の姿が率直に記されています。

ただし、2019年5月刊の『行誡と弁栄展』図録の20頁
若くして愛娘を亡くされ悲嘆のどん底にいる母親に、
弁栄聖者が染筆された観音様の逸話に、
吉水氏は素直に感嘆されています。
(金田昭教編集『山崎弁栄上人百回忌記念 墨跡仏画集』)163頁にも記載。

「如実知見」

常識的には信じ難い事ですが、
「肉眼特殊、五眼一般」の立場は、
三身四智の聖、弁栄聖者には常識であったようです。
※ 「五眼」とは、肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼のこと。

東日本大震災を契機に、
「臨床宗教師」に注目が集まっています。

あくまで私見ですが、
「臨床宗教師」に求められている重要な事は次の3点、

〇「被災者のこころに寄り添うこと」
〇「現存者、亡くなった者の人生の意味」
〇「亡くなった後のこと」

最後の項目以外は、
こころに関心を寄せる専門家を含む全ての人が、
覚悟すべき実存的な問いですが、
最後の項目は、特に宗教者に求められている切実な問い。

「臨床宗教師」は、
原則として、特定の宗教の信条を押し付けない、
ことが大前提だと思われますが、
それゆえに、
特に最後の項目に関して、
「臨床宗教師」の実際的な関わりに関心があります。

奥野修司著『魂でもいいから、そばにいて
3・11後の霊体験を聞く』


なお、著者の講話が、YouTube、
「第18回 現代仏教塾」、
「魂でもいいからそぼにいて」

にアップされています。

この切実な悲痛な魂の叫びに、
宗派宗教の教義、あるいは、個人の信条に基づかずに、
「臨床宗教師」はいかに応え得るか、にです。


さて、吉水岳彦著『お袖をつかんで』には、
内省に向かわせる力があり、
考えさせられた事も多々ありましたが、
「第四十歩 美しさの徳」には、
ご自身の体験から、
「美の働き」に関する極めて重要な洞察が述べられています。

批評家の若松英輔氏が、
柳宗悦氏に見出されたものと同種の、
真、善では為し難い「美の功徳」。
調和と一致・同化の働き、真の平和の源泉。

ただし、吉水氏の場合は、
「人格的な聖容」への憧憬がある様に思われます。


最後になりましたが、
冒頭に関しまして、お知らせしたいことがあります。
阪神淡路大震災時に「心のケア」の第一線で活躍された、
安克昌精神科医師の著書、
『心の傷を癒すということ』原作がドラマ化。

NHK総合、土曜ドラマ全四回、
「心の傷を癒すということ」
の第一回は、
令和2年1月18日(土)21時~21時49分。

安和隆(安克昌医師)役は、柄本佑氏、
永野良夫役は、近藤正臣氏で、
『心の傷を癒すということ』に序を寄せられている、
神戸大学名誉教授中井久夫氏がモデル。

NHKのドラマを知り、あるいは、ドラマを見て、
安克昌氏に興味関心を持たれ方には、
〇「安克昌先生と私」(中井久夫著『「昭和」を送る』)
をお勧めします。

安医師の友人からの貴重な記録としては、
〇「友人・安克昌医師の死 精神科医 名越康文」
(藤井誠二著『「壁」を超えていく力』)


専門的にはなりますが、
〇「二 安克昌の臨床」(杉林 稔著『精神科臨床の星影』)
〇「[特集] 安克昌の臨床世界」(『治療の聲』第9巻第1号 2009年2月)

また、東日本大震災時においても影響があったと思われます、
中井久夫氏の次の本も是非ご紹介したいと思います。

中井久夫著『災害がほんとうに襲った時』

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2019-10-16

『辨榮聖者 光明主義玄談 巻四』笹本戒浄上人述 泉虎一記の発刊!


2019101501.jpg

『辨榮聖者 光明主義玄談 巻四』笹本戒浄上人述 泉虎一記が、
2019(令和元)年7月下旬に刊行されました。

この巻四の刊行をもって、
『辨榮聖者 光明主義玄談』笹本戒浄上人述 泉虎一記
全四巻
が揃いました。

hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp
平澤伸一氏宛にメールでも、注文可。
各巻二千円(送料別)。

笹本戒浄上人による弁栄聖者及び光明主義解説は、
芦屋、聖堂発行の『笹本戒浄上人全集』、
『辨榮聖者 光明主義注解』等
により学ぶことができましたが、
この度の、
『辨榮聖者 光明主義玄談』笹本戒浄上人述 泉虎一記の発行によって、
比較的安価、しかも、携帯としても便利、
かつ、戒浄上人の御教示の真髄が、
戒浄上人の肉声に近い感覚でもって拝読できることは、
まことにありがたいことです。

「光明主義文献発行会」の方々、
また、本書の元となった原稿を準備された、
故小川純氏に感謝申し上げます。

2019101502.jpg

繰り返しになりますが、
本書を読む際に留意すべき点を、
やはり、強調しておきたいと思います。

先ず第一に挙げるべき点は、

「弁栄聖者の真髄は、
聖者の三身四智の仏眼から帰納的に説かれたもので、
『原始経典』」、『大乗仏教経典』等どこにも記されていない」

と強調されている点。

これでは「盲信」ではないかと、
疑義をいだかれる方がおられるかもしれません。
笹本戒浄上人による「偏依弁栄」の表明ですが、
もちろん、戒浄上人の「盲信」ではなく、明確な根拠があります。
巻四の「【付録三 『笹本戒浄上人偲び草』から】
をご一読下さい。

文献学における「大乗非仏説」
が大前提となっていると思われます。

また、「信」とは何か
という現実的な難題が含まれていますが、
ここでは立ち入りません。

なお、「大乗非仏説」に関しては、
大竹晋著『大乗非仏説をこえて
大乗仏教は何のためにあるのか』

が大変ご参考になると思われます。

大竹氏は、同書において、

「われわれは大乗経が仏説であることを論証することは
不可能であると率直に認めなければならない。」

と明言され、

「大乗経が仏説であることは、
推理によっては決して論証されるべきことではなく、
大乗経にもとづいて修行した者たちの悟りの体験によって
自内証("個人的に確証")されるべきことなのである。
悟りを齎す以上、大乗経はいつわりではない。」

と明言され、
その解決策、「体験的大乗仏説論」を提示されています。

また、大竹氏は、
「"現に修行して悟りを体験できる法なら、
誰が発見されたのでもよい。大乗非仏説でもよい。
わたしも大乗非仏説と思う。"
ー弁栄はそう言い切っている」
と。

この個所は、おそらく、
「又は大乗非仏説を主張する人に、
上人 「現に飲んで効能のある薬なら、
誰が発見してもよい。大乗非仏説でもよい。
私も大乗非仏説とおもふ。」

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)
によっていると思われます。

第二に特記すべき点は、

「私がこの世に居る間は言ってはいけません。
後日いうべき時が来ますから、
その時には将来の光明主義のために、
はっきり、笹本がこのように言っておったと発表して下さい。」
と、

弁栄聖者→戒浄上人への真髄が、泉虎一氏に口伝されたとされる点。

「笹本戒浄上人と戒浄上人主義とは、分けて考えるべきだ」。
と以前耳にしたことがあり、ずっと気になっていましたが、
今回の一連の書によって腑に落ちました。

戒浄上人の御教示には、
泉虎一氏を除いて、
他の方々が聴いていないものが含まれている

ようであるということがよくわかりました。

笹本戒浄上人の真髄は、
特に教義面においては、泉虎一氏を核として、
特に布教、度生面では、杉田善孝上人を核として、
それぞれ伝承された様に推察します。

今回発行された一連の書は、
「宗教の奥義書」とでもいうべき本ですが、
笹本戒浄上人、泉虎一氏への「信(頼)」が、
読解する上での大前提
となると思われます。

笹本戒浄上人に直伝されたとされる弁栄聖者の御教えは、
幾多の科学的発見が、
従来の「定説」を乗り越えた発見であったことと同様、
前人未到の発見的真理が含まれていることが想定されます。
弁栄教学は、
浄土宗乗、大乗仏教、または、原始仏典に適合するか、
更には、他宗教等との比較研究といった次元に留まらず、
大宇宙の真理に合致するか否かといった、
より高次元の解明
が求められているようさえ思われます。

また、
本書を拝読しながら、
数学者、岡潔博士の戒浄上人観を思い起こしました。

「(光明主義の弁栄聖者の跡を嗣がれた笹本戒浄)上人は又こうも言われた。
弁栄聖者が自ら実施踏査済の事実として切り開いて下さった
終局目的である認識的一切智を実現する過程において、
必ず達成しなければならない二次目的と
三十七道品で示される中心道の修行法の全体を信じて
お念仏する時現在の自分より一歩進んだ所に当座の目標を定め、
当念の念仏によって必ずその目標を達成するように努力せよ
」と。

終り迄聞かす事は初めて入ろうとする人に話す時に必要である。
最後迄どうなるかを知らせて、人に取捨選択さす事と、
心構えをしっかりすること、のため
である。

これも光明主義の達人としての笹本上人の御意向の現われと思う。
私が上人において特に感心するお偉い点は、
お念仏がはっきりできるようになるまでに十一年
ごく初めのところに十分力を入れておられるのと、
弁栄聖者とその光明主義に無私であった点です。」
(「戒浄上人の偉大な点  奈良市 岡 潔」
『笹本戒浄上人(笹本戒浄上人全集 別巻)』)


数学者岡潔博士の慧眼を感じさせる「笹本戒浄上人観」ですが、
ここで、「選択」の意義に触れておられます。

今回の巻四には、
泉虎一居士直筆、「択法覚支」の色紙が掲載されています。

「択法覚支の心を詠みて
絶対の報身の慈悲の相好を
己が真の姿とぞ見る」


「択法覚支」の境界で、
「大ミオヤを真実の自己」と、
「三身四智の仏眼」とは程度の差こそあれ、
認識されている点は、極めて重要であり、
信念の如何に左右されるゆえ、
慎重な吟味が要請される「起行の用心」。

この色紙をよく見ますと、
薄い黒い跡が点在しています。
「泉氏が色紙を押さえながら、一字一字、丁寧に書き記されたため。」

この色紙の内容は、もちろん、

「弥陀の身色紫金にて
円光徹照したまへる 
端正無比の相好を
聖名を通して念ほえよ
総の雑念乱想をば
排きて一向如来に        
神を遷して念ずれば
便はち三昧成ずべし」
 

弁栄聖者の七覚支の第一、初めの「択法覚支」を踏まえたものです。

泉氏が、「択法覚支を最重要視」されたのは、
正に、弁栄聖者→笹本戒浄上人へ伝授された、
「光明主義の真髄」、すなわち、
"宗教の真髄"を意図されたためと推察されます。

『光明主義玄談』(巻一~巻四)には、
心情面を刺激する過激な表現が散見されますが、
この「選択」の意義の"泉氏流の表現"だとも受け取れます。

なお、
この「択法覚支」に関して、
是非触れて置きたいことがあります。

「仏眼が開けると一往正常健全ということができる。」

とは、弁栄聖者の笹本戒浄上人への御教示ですが、
ここで、聖者が「一往」と釘をさされていることに留意したいと思います。

「徳本行者の三昧は深くして深かった。」
と、弁栄聖者は、徳本行者を極めて高く評価されていますが、
徳本行者は、初歩の仏眼で、
大ミオヤの広義の報身の仏身論、
(妙色相好身は、独立自存の絶対的現象態)を直感

善導大師と法然上人は、
最晩年の三身四智の仏眼において初めて認識された
とのこと。
徳本行者は、伝統教学における拘束から比較的免れていたためと拝察されます。

なお、岡潔氏は、
お念仏がはっきりできるようになるまでに十一年
と戒浄上人が仰られたと指摘されています。

弁栄聖者は、「六年」(『日本の光(弁栄上人伝)』)、
田中木叉上人は、「十年」は(『田中木叉上人遺文集』)と、

とそれぞれ仰られたようです。
根拠は不明ですが、その理由を是非知りたいところです。

「択法覚支」に関して、
更に、重要な点は、

『光明主義玄談巻三』に、
「仏身論のコペルニクス的転換」と明記されている点。

「聖者は宇宙全体・一切の現象の本体である《法身》ではなく、
法身の粋・全法界(全宇宙)の中心である所の
《報身》が最高の統摂者であり根本仏である。
これが事実であり真相であるという事を解き明かされたからです。
従来の仏身論ではこれが逆になっていた。
従来の浄土教では法身が根本仏であり、
報身の妙色相好身は法身に規定せらるる
心霊差別の現象であるとされていた
からです。
三身即一本有無作の内的目的論的報身が法身の中心であり
最高の統一者であるという事実を明了に三昧体験する

事が出来なかった為に、
本来の関係を逆にして天動説に相当するものを説いていたのが
従来のいわゆる酬因感果の説であると。
光明主義の拠り所は経典ではなく、
聖者が三身四智の仏眼で三昧直感された内容
です。
これまで釈尊・善導大師・法然上人・徳本行者が
その境涯に到達しておられた
にも関わらず
その事実が明瞭に説かれる事はありませんでした。
これも聖者が三昧直感された事ですが、
ここに光明主義の意義がある
事は言うまでもありません。」

表記に留意しながら、丁寧に読み込みますと、
そこに込められた意図が読み取れるように感じられます。

例えば、
 「応身仏釈尊の仏眼は円満、弁栄聖者の仏眼は豊か」
と表記されています。
「三身四智の仏眼にも、深浅がある」
ことの留意のため。

「観念的一切智の間は、
慈悲の聖容を拝みたいと念じなければ
その御姿を拝む事が出来ません。
しかし認識的一切智を得ると、
慈悲の聖容を見奉りたいと念ずる意思活動を必要としないで、
意識活動をしている時には
常に自由に報身仏の御姿を見奉っている
自在の境涯が実現します。
(しかし)人間は肉体を、持っているので
認識的一切智が実現しても、
文字通り十方三世一切の差別の内容を
ことごとく詳しく具体的に識別出来る訳ではありません。
認識的一切智によって識別出来る
差別の現象の内容と範囲は(状況により)変化する
のであって
識別出来ない差別の現象については
その差別の内容を規定する大ミオヤの法則を
了々と認識する
という訳です。
それで誤解を防ぐ為に認識的一切《知》とするのが良いと思われる
と戒浄上人様はおっしゃっておられます。」
(『光明主義玄談巻三』 )

「観念的一切智と認識的一切智」との相違をある程度理解されている方でも、
この認識的一切智に関する戒浄上人の御教示には、
はっとされた方もおられるのではないでしょうか。

また、
「肉の心」に関する戒浄上人の丁寧なご教示などは、
戒浄上人の御教示なかりせば、
弁栄聖者の真髄が伝わらなかったであろうと、
推察される最重要の弁栄教学の特徴の一つ。

本書の巻四には、本書の編者の一人が、
「帰納法」、「内的目的論的」、「直線道」
に関する重要な解説を記載されています。

「周知の様に真理探究の方法としての「帰納法」は
いくつかの把握された事実から一般的結論を導くもので、
特に自然科学において重要な手段となっていますが、
厳密に言うとそれは常に「不完全帰納」なのであって、
「完全帰納」と言うものはありません。
何故なら実際に把握される事例は必ず有限個であり、
遂行可能な実験は必ず有限回数であるからです。
光明主義において「完全帰納」が成立する理由について
泉先生は
「三身四智の仏眼(光明主義に言う無生法忍)が実現すると、
諸仏中の一仏や根本仏の一面と(だけ)でなく、
絶対中心の『一』と合一する故に、
相対的一即一切が解消されて真の一即一切が成立する。
ここにおいて初めて不完全帰納を脱する事が出来、
有限回数の三昧体験が完全帰納となる」

と説明されました。

もう一つ、
「内的目的論的」については講義中に次の様に説明されました。
「最尊の仏(絶対者)が衆生を自己に帰せしめる目的で
衆生を誘引する場合は内的目的論的活動。
これに対して、
最尊でない諸仏が衆生を最尊の仏(絶対者)に帰せしめる目的で
衆生を誘引する場合、外的目的論的活動となります。」


蛇足ながら、強調しておきたい点があります。

光明主義中心道(直線道)とは、
「修行の途中で何ら報身論の根本と見仏論の核心を
変更する必要のない一番いい見仏の道」。

何故なら、この修道論が、
「三身即一の広義報身の仏身論から、
必然的に導き出された修道論である」
からであり、
「指方立相」を意図したものではない
という点は留意すべきと思われます。
また、
「直線道」とは、
修道論上における謂であり、
衆生済度における「度生論」においてではない。

という点も、留意すべき点と思われます。

弁栄聖者のご行状が、何よりもそのことをお示しくださっています。

最後に、
笹本戒浄上人の遺言ともいうべき金言を引用します。

「見仏が成仏の唯一の直線道で、
実に釈尊の真精神である、というのは
実に弁栄上人様の真精神で光明主義の生命とするところでありますから、
弁栄上人様の光明主義を信奉する私共と致しましては、
弁栄上人の真精神を述べなければならない場合には
何のためらうことなく、
見仏が成仏の唯一の直線道で実に釈尊、弁栄上人の真精神である、
といわなければなりません。」


「しかし、他の信念を持っていらしゃるお方に対して
少しでも不遜な態度をとるようなことがあってはなりません。」

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2019-06-24

「弁栄聖者と福田行誡上人」を巡って


2019062121.jpg

「弁栄上人百回忌記念慈業」の一つである、
「行誡と弁栄展」が、
先月、5月11日~5月19日に開催されました。

「行誡と弁栄展」という斬新な趣向、
「行誡上人と弁栄上人」に込められた主催者の篤き思い、
岐阜にある「山崎弁栄記念館」を彷彿とさせる展示方法、
また、「行誡上人と弁栄上人」関連の特別記念講演会、
更には、ツイッター、フェイスブックのSNS等の広報とも相まって、
開催期間中の来場者は、二千人以上という大盛況とのことでしたが、
惜しくも閉会となりました。

2019062122.jpg

残念ながらご覧になれなかった方で、関心のある方は、
会場には、「行誡と弁栄展」の図録、グッズ等がありましたので、
問い合わせてみてください。

「行誡と弁栄展」チラシHPは、こちら。

なお、
岐阜にある「山崎弁栄記念館」では、
通年で、弁栄聖者の遺墨等をご覧になれますが、
ご来館の際には、開館日、時間等に関して、
念のため、お問い合わを。


2019062101.jpg 2019062102.jpg

せっかくの機会ですので、
数年前に訪れた際に撮った写真を掲載します。

福田行誡上人が、
初の浄土宗管長として務められた京都の知恩院

2019062103.jpg

2019062104.jpg

見覚えのある方もおられるかもしれませんが、

『【百回忌記念】 墨跡仏画集 山崎弁栄 』の6頁~7頁掲載の、
大正9年10月知恩院勢至堂別時念仏会集合写真
京都恒村家旧蔵の写真

が撮影された場所。

 2019062105.jpg

こちらは、
「弁栄上人百回忌記念慈業」の一つ、
令和元年10月27日に開催予定の「別時念仏会」の会場、
知恩院の「勢至堂」

 2019062106.jpg 2019062107.jpg

弁栄聖者のお墓は、
「勢至堂」右の脇道を入っていきます。

道標がありますので、それに従って行きます。

2019062108.jpg 2019062109.jpg

2019062110.jpg
 
数分程登った、高台にあります。

2019062111.jpg

浄土宗の総本山、京都「知恩院」にある、
「仏陀禅那 弁栄聖者」のお墓。

「仏陀禅那」とは、
誤解を生じかねない表現ですが、
真意は、観世音菩薩がお示し下さっている、
「仏念いの一念になり切っている」状態、
すなわち、「念弥陀三昧」裡
の意。

【参考文献】
「行誡上人と弁栄上人」
(『【百回忌記念】 墨跡仏画集 山崎弁栄 』の22頁)。
なお、 抜粋が、HPでご覧になれます。


2019062112.jpg

福田行誡上人のお墓。

弁栄聖者のお墓のある墓域ではなく、
知恩院の歴代住職のお墓がある場所にあります。

2019062113.jpg


今回開催された「行誡と弁栄展」では、
お二人の傑僧のご縁、
直接的・間接的なご関係を、改めて学ばせて頂きました。

浄土宗史、いや、日本近代仏教史上においても、
主として、 金田昭教吉水岳彦両師によって、
大変貴重な資料の発見がありました。

会場には、
「行誡と弁栄展」図録(約60頁)がありました。
おそらく、行誡上人、弁栄聖者の遺墨等に関して、
これほど揃って拝観できる機会は、
まことに惜しいかな、二度と無いかもしれません。

紙面の都合等で割愛されたと推察される、
「行誡上人と弁栄上人」とのご縁に関して、
補足しておきたいことが幾つかあります。

1点目は、
「行誡上人御遷化の前
二十五条の袈裟を弁栄上人に附属し
態々送りし事を目撃せしが今いづこに在るものか、
行誡上人はその遺法伝持の任が弁栄上人にあることをしめしものにて
御墨付きも附き居たりしものなり。」

(「行誡上人の袈裟附属 館林善導寺主 塚田英亮師談」
『ミオヤの光』縮小版三巻249頁)

の記事です。


【東京都文京区 一行院】

2019062113-1.jpg

2019062113-2.jpg

2点目は、
「徳本行者とのご縁、接点」です。

以前、このブログで、
徳本行者、行誡上人、弁栄聖者との繋がりに関する考察を若干試みました。
ご関心のある方は、その記事をご覧ください。

徳本行者は、
「徳本名号塔」で知られていますが、
徳本行者の思想、境界に関する研究は、
未だ未開拓の領域が多く、
その解明には、弁栄聖者研究が大きく寄与すると推察され、
今後の課題であるように思われます。

いまは、以下に、事実のみを記すにとどめたいと思います。

徳本行者(1758~1818)
行誡上人(1809~1888)
弁栄聖者(1859~1920)


ご生誕が、ほぼ50年の違いであり、
徳本行者と弁栄聖者とは、
ご生涯が、ほぼ100年の違いです。

『徳本行者伝』三巻は、
福田行誡上人編纂で、
1867年、徳本行者の50回忌に刊行されました。

弁栄聖者は、徳本行者御遷化の地、「一行院」で、
行誡上人編纂の『徳本行者伝』三巻の基となった、
一行院蔵『徳本行者伝』をよくご覧になっていたそうです。
なお、行誡上人編纂の『徳本行者伝』には、
一行院蔵『徳本行者伝』にありながら、
編纂時の意向に基づき、除かれているものもあるとのことです。

2019062113-3.jpg


更に付け加えますと、
行誡上人の御遷化の地、知恩院塔頭信重院は、
京都光明会が盛んであった寺院。
当時のご住職は、藤堂恭俊上人の養父、藤堂祐範上人であり、
養母が、恒村慧月夫人、熊野好月夫人の友人の藤堂庫子夫人
ちなみに、
『【百回忌記念】 墨跡仏画集 山崎弁栄 』の6頁~7頁掲載の、
大正9年10月知恩院勢至堂別時念仏会集合写真
京都恒村家旧蔵の写真
の右端の、
幼児を抱えているご婦人が、庫子夫人であり、
その幼児が、後の藤堂恭俊上人
筑後善導寺ご法主であられた藤堂俊章上人の実弟。
藤堂恭俊上人のご令室は、
「筑後の聖者」中川察道上人のご息女と耳にしたことがあります。
(中川察道上人に関しては、『【百回忌記念】 墨跡仏画集 山崎弁栄 』の579頁に記載。)

また、
「真応身と霊応身」について。

『如来光明礼拝儀』」の「至心に勧請す」、
「如来の真応身(みからだ)は在さざる処無きが故に」
「真応身(みからだ)」に関しては、
佐々木有一氏が近著の、
『近代の念仏聖者 山崎弁栄』と、
『山崎弁栄 弥陀合一の念仏』において考察されていますが、

そもそもの発端は、
藤堂祐範上人の発せられた疑問から、
若き日の杉田善孝上人が笹本戒浄上人に確認されたことが機縁となっています。

弁栄聖者の「真応身」に関する直接の解説は、
現時点では、文献上確認できていない
ようですが、
佐々木氏は、「真応身」について考察され、

「真応身」を「霊応身」への可能態。

と解釈されています。

「「報身」には、
それ自らの御境界と衆生に感応する面とが在します。
その報身の衆生に感応する面を、
弁栄聖者は「真応身」とおっしゃいました。」

(『笹本戒浄上人全集 下巻』163~165頁)

と戒浄上人はお答えになっておられます。

すなわち、
「報身」それ自らの御境界と衆生に感応する面、
その両側面は、「報身」の絶対同時態。

との解釈が可能かと思われます。

更に、
極めて重要な、戒浄上人のご教示があります。

「三身四智の仏眼を実現した後は
「絶対の報身仏を見奉る」
といい、
それ以前の三昧の場合には
「絶対の報身の御分身である霊応身を見奉る」
という。

何故ならば、
「肉の心が未だ残っておるので絶対の報身の全体と合一できない」
からであり、したがって、
「肉の心がなくなったといわれる三身四智の仏眼と区別する。」
(『笹本戒浄上人全集 下巻』161~162頁)

なお、
「九 報身と霊応身」所収の、
「第三篇 光明主義玄談」『笹本戒浄上人全集 下巻』は、
光明主義、否、宗教の奥義が説かれている極めて重要な箇所。

同名、同内容の書、
『辨榮聖者 光明主義玄談 笹本戒浄上人述 泉虎一記』
一巻~三巻までは既刊。二千円(送料別)。

hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。

ただし、
本書は、弁栄聖者、光明主義の「奥義書」とも言うべき内容を含む本ですが、
読解上、取扱上、"特別の注意を要する本"とも思われます。

2019062114.jpg

せっかくの機会ですので、
知恩院の歴代住職で、
弁栄聖者とご縁の深い御方のお墓もご紹介しておきたいと思います。

近代の高僧として知られた、
「知恩院七十九世 山下現有上人」。

大正5年、知恩院での弁栄聖者講述の『宗祖の皮髄』は、
山下現有大僧正ご在世時。

知恩院での弁栄聖者の講義『宗祖の皮髄』を巡る裏事情については、
『【百回忌記念】 墨跡仏画集 山崎弁栄 』
「松田貫了上人」関連記事(460頁~463頁、528頁~529頁)に詳しく記載されています。


田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、

「祖山別時 門跡猊下」に、
山下現有門跡猊下と弁栄聖者との特別なご関係の有様が記されていますが、
この記事を裏付ける資料ありますので、ご紹介します。

昭和九年、知恩院寺務所発行、
「第三編 御追悼 老猊下のお徳を慕ひ奉る 桑田寛随」
(『孝誉現有大僧正』)。


桑田師は、次の様に記されています。

「猊下が非常にお歓びなされたように私が感じました事を述べますと、
頃は大正八九年の頃かと存じますが・・・
次の一つは、
近年の或有徳の上人が山上に於ける別時の修行が終りて、
お暇乞ひに謁見せられたときの事です。
謙恭の猊下にはいつも我々が拝謁する時でも、
我々が次ぎの間へ伺候御挨拶せんとせば、
必ず同座せねば御承知ならず、
我々の不遜遠慮なる強て御辞退申しては却て御老懐を煩さんものと勝手に考えて、
奥に進むと初めて御辞があるのが例である、
此の上人も亦私が案内して、次の間まで伺候して居ると
猊下は自ら境の襖を開き、
例の如きご挨拶もなくて、早速に次の間へすべり出でられた、

面もいつもの如き謙譲の中に自ら持せらるゝ謹厳の御態度は無くて、
寧懐しき旧友を迎へて喜ぶという風に、
正座も少し崩して右手をつきて其上人の方へ倚り凭る様、
如何にも嬉しそうにして話しかけられた。

私が時々種々の階級の人をご案内した中で、誠に異様に感じた、
然し他の上人の方は矢張り尊者に対する礼儀を乱すことなく、
暫時対話せられたるは双璧の美とおもひたり、・・・」

次は、
柴武三氏の弁栄聖者に関する逸話です。

山下現有大僧上が、
弁栄聖者に「あとを頼みます」と仰られた
ことが2~3度あったそうですが、

「自分は、釈尊の御教えを皆さんにお伝えをする身でありますから。」 
と固辞されたとのことです。

弁栄聖者が深三昧定中において認識しておられた、
「超在一神的汎神」の仏身(神)観に基づく信念からのご発言で、
その認識に於いては、
「宗派宗教の各々の宗乗、組織は、狭い枠である」
と感じられていたからとのことです。

柴氏がご逝去されてから、早40年程が経過しており、
この山下現有大僧上と弁栄聖者とのやりとりのニュアンスを、
詳しく確かめる術がないのがまことに残念です。

福田行誡上人に対しても弁栄聖者の似た逸話があります。

「増上寺在住の砌に初めて対面しました。
上人は還来穢国の人で、一世の修行ではありますまい。
お話は常に尊く拝聴しました。」(山下現有上人)


(松戸のさとにて)
「御ほとけの光まつ戸の里人は
後の世までもたのもしきかな」(福田行誡上人)


行誡、現有の両上人の懐の深さと「見性の眼」の確かさには、
今更ながら、感銘を覚えます。


2019062115.jpg

大変な御長命で、
「生き仏」と多くの方に尊崇された御方。

2019062116.jpg 2019062117.jpg


2019062118.jpg
 
「知恩院八十五世 藤井實應上人」

「知恩院八十六世 中村康隆上人」

2019062119.jpg

「知恩院八十六世 中村康隆上人」は、
墓石にも彫られていますが、
中学生の頃、弁栄聖者にお会いして、
「僧侶になる決意」
をされたとのことです。


2019062120.jpg


以下は、今後の、
「弁栄上人百回忌記念慈業」の予定です。

〇 「念仏フェスティバル」
日時 2019年10月、増上寺にて開催予定
弁栄上人百回忌、観智国師四百回忌、聖冏上人六百回忌を併修

〇 「知恩院勢至堂別時念仏会」
日時 2019年10月27日予定

〇 「為先会十日間厳修別時念仏会」
日時 2019年11月26日~12月5日まで、愛知県法城寺にて

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2019-04-03

『辨榮聖者 光明主義玄談 巻二 笹本戒浄上人述 泉虎一記』について


201904031.jpg

『辨榮聖者 光明主義玄談 巻二 笹本戒浄上人述 泉虎一記』
2019年1月11日発行、二千円(送料別)。
順次、三巻~四巻を発行予定。
hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。

巻一については、以前ご紹介しました。

本書は、弁栄聖者、光明主義の「奥義書」とも言うべき内容の本ですが、
劇薬ともいうべき内容、表現が含まれているため、
「服薬の際の使用上の注意」が必要な、
"取扱注意の書"に類する本と云えるかもしれません。


201904032.jpg
【笹本戒浄上人(1874~1937)】

田中木叉上人は、

「華厳絶対法相相対」

と、戒浄上人を批判されたことがおありになったそうで、
このことが、心の片隅に引っかかっていましたが、
本書を読み、胸のつかえが取れた気がしました。

戒浄上人ご生前中のご説法は、
「真実の自己」を中心とした、
如来四大智慧の一面である「平等性智」を、
ご法話上ではよく説かれており、
その在り方が、
弁栄聖者の御遺稿を編纂されていた木叉上人の眼には、
「師匠と弟子との相違」と映られたと推察できました。

ちなみに、
戒浄上人は、自覚的にその様にされておられました。

一つは、
弁栄聖者から、
「笹本の「覚(わか)り」は、
如来の平等性智を説いたものだ。
よくぞやった。」
とお褒めの印可をいただかれたこと。

二つめは、
修道論上からで、
五根五力の修行から択法覚支へ移る時の念仏が、
正しく容易にできるようにするために、
極めて大切なところ、
「自然界と心霊界をつなぐ唯一の橋渡し」のため。

また、
泉虎一氏の執拗な確認、問いに答えられ、

「私も弁栄上人の真似をさして頂いて
適当に方便を用いております。」

と、戒浄上人ご自身仰られています。

蛇足で恐縮ですが、
「方便」とは、
「うそ」ということでは勿論なく、
"真理"に導く為の、
その導かれる方にとって、その時点における"最善の真実"の意。


ここで、思い出されることがあります。

弁栄聖者の御遺稿を編纂された木叉上人が、
「弁栄聖者の方便説を除き、真実説のみを残した方がよいか。」
とお尋ねになった際、
「両説を残しておかれるように」
と戒浄上人は御教示されたとのこと。

方便説、方便説と真実説の混合説、真実説のみ、
この三種類の説が混在して説かれている弁栄聖者の御遺稿
を拝読する際に、
「見性の眼」(真実説を選び取る択法の眼)を得る様に努めることにより、
真実説が末永く残ることになるからとのこと。


本書に記されている戒浄上人の泉虎一氏への口伝、直授
"戒浄教学"を学ぶ際には、
"戒浄上人ご在世中のご自身の在り方、在り様"と、
"純粋戒浄教学(主義)"

この両側面に留意して、学んでいく必要があると痛切に感じました。

戒浄上人御在世中の実際の御教化の在り方、
即ち、衆生済度の在り方は、
必ずしも、「直線道」一辺倒ではなかった。


つまり、
戒浄上人ご自身も、
弁栄聖者とご同様、"宗教家"の側面がおありであった、
と本書で詳しく知ることができました。

ここでいう"宗教家"とは、
自内証の"真理"を説くことを最重要視するのではなく、
衆生済度の為に、"方便"も説く在り方(在り様)。

このことは、
本書の読者には、特に強調し、ご留意して頂きたい点です。
本書における泉虎一氏の表現、その劇薬への懸念ゆえ。


更にまた、本書により、
杉田善孝上人の御法話から受ける戒浄上人の印象と、
泉虎一氏から受ける戒浄上人の印象との差、

この違和感の謎もとけた気もいたしました。

とはいえ、
戒浄上人には、
弁栄聖者の真精神を伝えるという使命がおありになったので、

「木叉先生はよく
「(弁栄)聖者の皮肉骨髄の髄を承けていられるのは戒浄上人だ。
しかし上人は髄ばかりを説かれる。
もっと応病与薬のご説法をして下さるとよいのだが」
と昭和三十年代終わり頃までよく仰言った。」
(「戒浄上人と田中木叉先生」『「笹本戒浄上人伝」笹本戒浄上人全集 別巻』)

という木叉上人の逸話からも、
戒浄上人は、「弁栄聖者の念仏の真髄(見仏」)を強調されていたことが推察されます。


本書の特徴として、
更に、興味深いことは、
光明主義を信じる困難さ、難点の理由が率直に述べられている点です。

「現代の原始仏教の学者が
誰一人として異存なく釈尊の直説法を正しく伝えたと信じております
成立の最も古い原始経典のどこにも、
弁栄上人の御教え通りの三昧を釈尊が得ておられた事実は
明記してありません。」
し、

また同様に、
「善導大師、法然上人が最晩年に三身四智の仏眼を得ておられた事実も、
御自身の著述、直弟子への直説法のどこにも明記されていません」。


「しかし真相は弁栄上人の御教え通りであります。
弁栄上人の真精神通りに念仏して仏眼を得れば、
一切の人々が、真相は弁栄上人の御教え通りであることを認識できます」
と。

この戒浄上人の御教示の真偽の判釈には、
判釈者が、「仏眼」を得ていることが大前提となります。

より厳密には、「三身四智の仏眼」です。


「私は経文によって演繹的に説くのではない、帰納的に説いておる。」

この言葉は、弁栄聖者の戒浄上人への、
光明主義の理解上、極めて重要な御教示ですが、
本書にはそのことを証する逸話が記されています。

専門家の歴史的研究によりますと、
『仏説無量寿仏名号利益大事因縁経』は後世の偽作である、
偽経である、といわれておりますが、弁栄上人は、
「偽経であっても如来様の御教えを正しく伝えておるものは用いる」
と申されて引用なさいました。」


また、本書には、
文献学的にはうかがい知る事の出来ない法然上人の御境界に関する記述もあります。

「法然上人が最晩年(御遷化の数年間)に三身四智の仏眼を得ておられた」。

このことは、
『選択集』及び『三昧発得記』を法然上人が執筆した当時は、
三身四智の仏眼の境界ではなかったことを意味し、
法然上人の二祖聖光(鎮西)上人への直授は、
法然上人が『選択集』、『三昧発得記』を記された時期とほぼ重なることになります。

したがいまして、
光明会内にも、
伝統的な浄土宗乗から、更には、原始経典等の研究者からも、
必然的に、戒浄上人への批判が起こったようです。

本書には、
光明会内の、原始経典を重要視する某(K)博士の批判が引用されています。

その某(K)博士は、
文献学的、学問的観点等から、
通仏教の「縁起」、「空」を最重要視され、
したがって、必然的に、無相法身を最終根底とするお立場から、
弁栄聖者が最重要視された「見仏」を相対化されたようです。

本書では、某(K)博士を批判されていますが、
某(K)博士のご見解は、
通仏教の知識を持つ、大方の現代人の常識的見解であるとも考えられます。

弁栄聖者は「見仏」を強調され、
また、その「見仏」の意義を深く悟られた戒浄上人

「見仏」とは、
通仏教で説かれる、
"無相法身を悟るための善巧方便"では全く無く、
大宇宙の真相である、"本有無作の三身即一の大ミオヤ"と三昧合一する為の、
三身四智の仏眼に於ける三昧上の認識から帰納的に導き出された、
即ち、最深の仏身仏土論から必然的に導き出された"絶対中心道"。

本書で説かれる「直線道」の真意と思われます。

"「直線」道"という誤解を与えかねない言語表現に関しては、
表層的な印象、理解にとどまることのなきよう、切に望みます。

木叉上人は、
「光明主義は忠実にさえ研究すれば、学問の上からだけでも信じられるが、
それには相当な学問が要る。」(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)

と仰っています。

木叉上人の云われる「相当の学問」とは、
自然科学、哲学、思想、宗教学等の最先端の領域の学問的知識であり、
大部分の者には大変困難であると思われます。

光明主義が信じうる宗教かを検証するための、
一般に接近可能な方法の一つは、
弁栄聖者の行状記等の研究が推奨できます。
幸い、聖者の伝記には、 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』があり、
御遷化が大正期であり、史実に基づくもので、
この事実だけでも、大変貴重な書だと思われます。

もちろん、「十二光体系」の研究は不可欠ですが、
大変奥が深く難しいものですので、
弁栄聖者がどれほど信じるに値する方であるかを確かめるには、
聖者の伝記を読まれることをお勧めします。


本書を読まれる際の留意点は、
まだある様に思われます。

本書を注意深く拝読しますと、
微妙な表現がなされていることに気づかされます。

例えば、
「開示悟入それぞれの満位」の項目において、
「慧眼、法眼。仏眼の無量無数の三昧世界に
便宜上一往の区切りをつけて、」

また、
「私共の信念に報いて目的論的に私共をお育て下さいます事実を、
私共の方から見て自作自受といいます。他作自受とは申しません。」
などの表現があります。

前者は、
「仏眼における開示悟入」と「七覚支」の関係について、
を、定覚支、感覚的啓示の満位、
を、捨覚支、写象的啓示の一往の満位、
を、念覚支、理想的啓示の満位、
を、三身四智の仏眼、その満位を認識的一切智。超日月光位。

と、大ミオヤによる霊育過程を説かれています。

ところが、
「示を捨覚支、写象的啓示の一往の満位」と表現されているように、
写象的啓示の一部は、喜覚支において明確に自覚できると推察されますが、
その満位は、厳密には捨覚支であるとは云えないということが、
この「一往」には含意されていると推察されます。

また、法眼と慧眼とは認識機能上、区別されており、
無称光位の七覚支における霊育の内、
主として、喜覚支と軽安覚支において顕在化される認識機能であり、
喜覚支と軽安覚支における法眼と慧眼の霊育過程は、厳密には判別し難いと推察されます。
喜覚支、軽安覚支それぞれにおいて、
法眼と慧眼が、それぞれ全く独立してお育てを頂くとは考え難いです。

大ミオヤの真相が、
無相即有相、有相即無相であり、
自然界と心霊界の両面を統摂する絶対中心である、
大宇宙全一の重々無尽の絶対的現象態
であるため、
心霊差別現象を認識する法眼のお育てを頂いている三昧状態においても、
慧眼のお育ても、同時に不識的に頂かれているからこそ、
光明主義の「起行の用心」に基づく念仏では、
心霊差別現象である「霊応身」をご勧請するという信念に基づく念仏により、
無差別平等を認識する慧眼が自ずと開かれ、
先ず、慧眼満位となり、次に法眼満位となり、
慧眼と法眼が一致融合し仏眼が開かれ、
更なる大ミオヤの霊育により、
大宇宙の終局目的である「大ミオヤのお世嗣」の境界、
認識的一切智を究めていくという、
極まりなき無限向上へと導かれる、
という自然法爾の仏道
がそこに展開されると、
光明主義では説かれます。

また、別の表現では、

釈尊が説かれた人生の終局目的は、
「完全円満な霊我実現主義」、
即ち、人間に開発可能な認識機能である五眼(肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼)を円満に開発・霊化し、
完全な霊的活動をする身と成ること、

にあると説かれます。


先ほどの後者に関しては、
「私共の方から見て、自作自受といいます。他作自受とは申しません。」
と、「私共の方から見て、」という表現をされています。

大ミオヤの「自発的、能動的」働きという側面から見た場合には、
「自作自受」との表現が適切であるかどうかは、検討の余地が大いにあり得ると思われます。


本書には、
弁栄聖者が戒浄上人に仰っられた、
弁栄聖者の遺言ともいうべき言葉が記されています。

「弁栄上人はこの完全な体系の中心真髄と骨格をはっきりとお教え下さいました。
そして、その肉と皮は私共が付けるように、と申されました。」

「弁栄教学」の中心真髄が説かれていると推察される、
「戒浄教学」において究明されるべき課題として、
不勉強、不遜であるとの誹りを覚悟の上で、
特に以下の点を挙げておきたいと思います。

〇「直線道」の厳密な定義と適切な表現について
〇「自作自受」の厳密な定義と表現及び、
「回向」との関係の究明について
〇「名体不離」の宗教哲学的究明について
〇「開示悟入」と七覚支及び
「度生論」との関係の究明について
〇「開示悟入」と「観念的一切智、認識的一切智」との厳密な関係について
〇弁栄聖者が三身四智の境界に到達された時期
(三十歳頃と想定されている)の解明について
〇「(浄土における)一時的な有余涅槃」の境界の究明について
〇三身即一の大ミオヤと「無明」との関係、特にその意義について



なお、念の為に追記しておきたいのですが、
今回の記事の雰囲気から、
本書に批判的であるのでは?
との印象を受けた方がおられたかもしれませんが、
全くそうではありません。

本書の価値は計り知れないものであると認識しているからこそ、
泉虎一氏のこの記述の表現形態が、
本書の熟読を妨げはしないかとの強い懸念から、
今回の様な書きぶりとなってしまいました。

掘り出し物の中から発見されたお宝の様な本書を、
熟読されることを切に願っています。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2019-01-31

2019年1月、弁栄聖者関連図書等の最新刊のご紹介


2019年、弁栄聖者100回忌を迎え、
一月早々に、弁栄聖者関連図書等が出版されました。

今回は、書名等のご紹介まで。


〇 『辨榮聖者 光明主義玄談 巻二
笹本戒浄上人述 泉虎一記』


2019013101.jpg

2019年1月11日発行、二千円(送料別)。
hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。
巻一既刊。
順次、三巻~四巻を発行予定。

弁栄聖者、光明主義の「奥義書」。


〇 佐々木有一著『山崎弁栄 弥陀合一の念仏』

2019013102.jpg

2019013102-2.jpg

2019年1月20日発行、春秋社刊。1月26日発売。

筆者佐々木有一氏による、
弁栄聖者の高弟、特に笹本戒浄上人のご指南を中心に、
弁栄聖者、光明主義の研究成果等を基とした、
念弥陀三昧の念仏実修に係る、具体的な解説書。

佐々木有一著『近代の念仏聖者 山崎弁栄』の姉妹編。


〇 若松英輔「霊性論 ー第6章 山崎弁栄と霊性の哲学ー」
(『思想 2019年 第二号』)


2019013103.jpg

2019年2月5日発行、岩波書店。1月29日発売。

「彼の霊的遺産というべきものには、
後世のキリスト教者によってこそ、
発見されるべきものも少なくない。」

( 若松英輔、山本芳久共著『キリスト教講義』
(2018年12月刊、文藝春秋)

の巻末、ブックリスト山崎弁栄著『人生の帰趣』に紹介)

カトリック信者で、批評家である若松英輔氏による、
「弁栄聖者の霊性論」。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2019-01-01

2019年は、山崎弁栄聖者の百回忌。各種記念事業等が企画されています。


20190101.jpg
【山崎弁栄聖者(1859年~1920年)】


「私は光明主義の基礎と家丈けを建てゝおいた、
各部屋の荘厳はお前達が力を合せて完成せよ。」


と、弁栄聖者は弟子達に仰せられたとの事です。(恒村夏山)」
(弁栄聖者著『弥陀教義』)

弁栄聖者の絶筆。
京都光明会誌「光明」に掲載中であった『弥陀教義』。
惜しくも、四大智慧の平等性智で絶筆。

したがって、
弁栄聖者提唱の光明主義、光明会は、
無限向上途上。

2019年は、
弁栄聖者百回忌を迎える年
にあたり、
聖者を信奉する者が、聖者の遺産を引き継いで行く覚悟
を新たにする契機となる年となりましょう。


2019年は、
百回忌関連記念事業等が、計画
されています。

弁栄聖者の信奉者、各組織等が、
統一的に実施するわけではありませんので、
現時点で知り得る限りの情報をまとめてみました。
ご参考になさって下さい。

【記念事業等】

〇 乃木坂オフィス開設記念企画展Ⅰ 弁栄上人の書画美術
【会期】: 平成30年12月18日(火)~12月27日(木)
午前10時~午後5時(最終日は午後3時終了)
【会場】 六彩居ギャラリー: 東京都港区六本木3-6-1 丹波谷六彩居ビルディング
企画は終了していますが、図録は販売中
岐阜県の「山崎弁栄記念館」を運営の「長良川画廊」乃木坂オフィス。


〇 「百回忌記念法要」
日時 2019年5月11日~13日
場所 神奈川県 光明学園相模原高等学校
詳細と申し込み開始は2019年1月頃にお知らせ予定。

〇 「行誡と弁栄」展
日時 2019年5月11日~19日
場所 東京都 両国回向院
全国の有縁の地に収蔵されている弁栄上人珠玉の作品を、
東京の名刹寺院、両国回向院に結集し展示。
当院は若き弁栄上人と縁の深い福田行誡上人が住持された寺院。
福田行誡上人の作品も合わせて展示予定。

〇 「念仏フェスティバル」
日時 2019年10月11日~20日
場所 東京都 大本山増上寺
念仏フェスティバルとして、
10日間の報恩別時念仏会を実施。
併せて、講演会や演奏会、落語会などを予定。

〇 「知恩院勢至堂別時念仏会」
日時 2019年10月27日
場所 京都府 総本山知恩院
知恩院勢至堂にて別時念仏会を厳修。
詳細と申し込みは2019年2月頃。

〇 「七日間別時念仏会」
日時 2019年11月28日~12月4日
場所 愛知県 三河法城寺
弁栄上人開山の愛知県三河法城寺にて、
上人ご正当別時に、
若手僧侶を中心とした「為先会」に協働。

以上,、「山崎弁栄上人讃仰会」HPより。


〇 「弁栄聖者百回忌記念 インド仏跡参拝」
日時 2019年12月27(金)~1月5(日) 
「岐阜光明会」主催。


【出版関係】

〇 山崎弁栄著『人生の帰趣』(2018年4月刊、岩波文庫)
(注解=藤堂俊英,解説=若松英輔,解題=大南龍昇)


※ 若松英輔、山本芳久共著『キリスト教講義』
(2018年12月刊、文藝春秋)

の巻末、ブックリストに『人生の帰趣』を紹介

「彼の霊的遺産というべきものには、
後世のキリスト教者によってこそ、
発見されるべきものも少なくない。」
と。

なお、
東京練馬光明園河波昌前園主ともご縁の深かった、
カトリック川越教会の加藤智神父

加藤神父は、現代の浄土宗ではあまり注目されていないように見受けられる、
法然上人の「三昧発得記」とミサとの関係に着目され、
2014年に、大変示唆に富む論文を執筆されています。

「加藤智「法然上人の念仏の相続における「三昧発得」
ーその必然性と意義/一カトリック司祭の視点からー」
(藤本淨彦先生古稀記念論文集刊行会『法然仏教の諸相』)



〇 『笹本戒浄上人述 泉虎一記 辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』
2018年刊、二千円(送料別)。

hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。
順次、二巻~四巻を発行予定。

〇 佐々木有一著『山崎弁栄 弥陀合一の念仏』
(2019年1月26日発売予定、春秋社刊)


〇 若松英輔「弁栄の霊性論」(『思想 2019年2月号』
2019年1月末発売、岩波書店)


〇 『山崎弁栄上人遺墨集』の出版予定
平成二十六年より行われている弁栄上人遺墨調査により、
千点以上の弁栄上人の掛軸・御手紙や遺品などを発見し調査。
その調査の集大成を『弁栄上人遺墨集』として出版予定。

〇 『山崎弁栄上人著作集』の出版予定
弁栄上人の印行されたものを中心に、
執筆年時が判明しているものを時系列に掲載。

上記2点は、「山崎弁栄上人讃仰会」HPより。


〇 『山崎弁栄上人 著作選』出版事業
遠藤喨及(りょうきゅう)氏による発願。
1000部の購入予定者があれば、法蔵館から出版可とのこと。

〇 「杉田善孝上人の御法話集刊行予定」
芦屋聖堂出版.。


【情報発信等】

〇 「山崎弁栄上人讃仰会」HP

〇 「香阿昭教氏のツイッター」

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-12-10

明恵上人と弁栄聖者に通底すること


2018120200-3.jpg
「明恵上人樹上座禅像」

明恵(みょうえ)上人の名は記憶に無いという方も、
この写真には見覚えのある方もいらっしゃると思います。


紀州和歌山。
弁栄聖者との関連で云えば、
徳本行者 が先ずは思い付きますが、
明恵上人も忘れることはできません。

明恵上人(1173年~1232年世寿60歳)は、
鎌倉時代に活躍された「華厳宗中興の祖」
として一般には知られています。
『摧邪輪(ざいじゃりん)』等で法然上人を批判され、
また、『夢記』を生涯書き記され、
「清僧」
としても知られています。

〇 白洲正子著『明恵上人』
〇 河合隼雄著『明恵 夢を生きる』
によって明恵上人に興味を持たれた方も多いかもしれません。


紀州和歌山有田市周辺には、
【明恵紀州遺跡卒塔婆】、別称「明恵上人紀州八所遺跡」があります。
明恵上人が没した後、
弟子の喜海が上人の修行した草庵跡7ヵ所と誕生の地に木製の塔婆を建立。

「明恵上人紀州八所遺跡」は、
目立たぬわかりにくい処にひっそりとあることが多く、
土地勘のある者でないと、なかなか辿り着けないことが想定され、
大事な時間を有意義に活用するためにも、
明恵上人関連の本、論文、ブログ(の記事、写真)、地図等で、
事前にしっかりと、確認し、計画を立ててから、
参拝されることを是非お勧めいたします。


今回は、明恵上人ゆかりの遺跡を訪れる機会を得ました。
時代がかなり隔たっていますが、
現地に来なければ、感じることのできない何かに触れた気がし、
明恵上人をもっと知りたいと思うようになりました。


〇 【吉原卒塔婆】

2018120211.jpg 2018120212.jpg

2018120213.jpg

平安時代後期、 1173年(承安3)に誕生した地に立つ卒塔婆。
紀州八所遺跡の一つ。
紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現在の有田郡有田川町歓喜寺字中越179)。

2018120212-1.jpg

【上人胎衣塚】
明恵上人誕生地の西側に隣接。
上人が生まれた時の胎盤を埋めたとのこと。

2018120214.jpg 2018120215.jpg


【歓喜寺】

2018120216.jpg 2018120217.jpg

明恵上人吉原遺跡に近接。上人ゆかりの寺院。
平安時代 986年(寛和二年)恵心僧都源信が創建したと伝える。
鎌倉時代中期 1249年(建長元年)
明恵上人の弟子 喜海が湯浅宗氏の協力を得て再興。

2018120218.jpg


【紀州和歌山 湯浅】

2018120200-1.jpg

明恵上人とゆかりの深い紀州和歌山湯浅は、
醤油で栄えた地として全国的に知られていますが、
また、熊野への街道が開けていた地でもありました。

2018120200-2.jpg


【施無畏寺】

2018120201.jpg 2018120202-1.jpg

和歌山県有田郡湯浅町栖原1465。 
JR 湯浅駅から、3キロ程。
駅近くにレンタル自転車がありますが、
結構きつい坂道もあるため、車でないと厳しいかもしれません。

明恵上人開創。
上人が修業をした白上山の中腹にあり、
境内からは、湯浅湾に浮かぶ明恵上人ゆかりの刈藻島、鷹島が見えます。
春には桜の名所としても有名なお寺。

2018120203.jpg

「施無畏寺」を左手に見ながら、数分程登ります。

2018120208.jpg

2018120209.jpg

明恵上人は、ここから更に登った、
白上山にこもり、修行をされました。

2018120210.jpg

〇 【西白上卒塔婆】
和歌山県有田郡湯浅町栖原。
西白上山頂上にあり、
1195年(建久六年)、23歳の時、
草庵を建て厳しい修行をした処。

〇 【東白上卒塔婆】
和歌山県有田郡湯浅町栖原。
明恵上人は、西白上が騒がしいため東白上に移り、
覚悟を新たにし、右の耳を自ら切った。
その翌日、眼前に文殊菩薩が顕現し、霊感を得

明恵上人は、武士の御子息ということもありましょうか、
とても激しく、潔癖な面があったようにも思われます。


この項目に関連し、ネットでも読むことができる示唆深い、
「参考文献」としては、
『明恵をめぐる奇瑞と信仰の磁場
― 白上峰の文殊顕現と春日明神の託宣 ―
平野 多恵』



2018120200-4.jpg
【仏眼仏母像】

明恵上人がとても大切にされた「念持仏」


明恵上人は、この事と関連した宗教体験時の心境を記録に残しています。

「虚空カガヤクコトカギリナシ、ソノ光明ノ中二、
大聖マナアタリ現ジタマフ、歓喜勝計スベカラズ」。


この時の宗教体験は、
明恵上人に大変な影響を及ぼしたらしく、

「皆に説法などできるのも、あの文殊顕現を見たおかげである」
と弟子たちに、この時の事を語られていたといわれています。


「仏を見る事(見仏)」が、何故それほど重要なのか
と疑念を抱かれれる方もいらっしゃるかもしれません。

弁栄聖者は、
「見仏三昧」を生涯強調
されました。

三昧定中における「見仏」においては、
「見る」ことが、五感の一機能である「視覚」のみならず他の感覚をも包含。
また同時に、
「大宇宙全一の大心霊態は、
大智慧態にして妙色相好身。
色心不二の大心霊態」
故に、
「見仏三昧」の宗教体験は、智慧の啓けが必然。

弁栄聖者は、
御自身の三昧体験による自内証の上から、
『華厳経』、『大乗起信論』等に基づき、各書に説かれています。


「道場に入る毎に生身の仏の御坐と思て、
正く生身の如来の御前に望む思を成べし。
木に刻み絵に書たるを生身と思へば、
やがて生身にて有なりと云々。」
(『栂尾明恵上人遺訓(『阿留辺畿夜宇和 あるべきようわ)』)


「彼の十住の菩薩、
如来の微妙の色身を愛して、菩提心を発(おこ)す。
これ即ち、親愛の菩提心なり。
況や、軽毛退位の凡夫有徳の人に於て、
愛心無きは、即ち法器に非ざる人なり」

とは、明恵上人の大変示唆に富む御教示。


明恵上人の『夢記』の第一人者の奥田勲氏が、
『明恵 遍歴と夢』において、
明恵上人の夢の特徴を分析されています。

ユング派の「能動的想像」を連想します。
芸術家の創造的作品とも共通するもので、
作品の自律性と作者とのある種の緊張関係、
多量の心的エネルギーが必要である点が、
空想とは決定的な相違点。

また、
「夢が個人のものではなく、集団の共有物」、
「夢の共有」という興味深い観点。


「四十歳代の明恵に弟子として近侍した隆弁は、
明恵は常に、坐したまま熟睡するのを見たという。
その時、印を結んだ手を右脇に当てて眼をふさいで眠りに入り、
それによって未来のことを知り、
他人の心中を透視することができた
という。」

と、同書の「夢を見る方法」において、
大変興味深く、貴重な記録が記されています。


「(弁栄)聖者はお念仏しておられる時に
よく木魚のバイが止まっていることがある。
・・・
私どもはそれが眠っておられるのではないかと思っていた。
・・・それは三昧に入ったことのない者には
眠っておられるようにみえる」

(鈴木憲栄著『ミオヤとのめぐり会い』)

笹本戒浄上人にも似たような逸話が、
身内である御子息の戒浄上人の念仏のご様子の描写にもあることから、

"明恵上人の眠り"とは、
三昧定中の御様子
と推察します。


明恵上人は、
「釈尊」を慈父、「仏眼仏母像」を慈母の如くに憶い、
三昧修行をされました。

この「釈尊」及び「人格的如来身」への一途な思(恋)慕は、
弁栄聖者とも共通し、注目すべき特徴であり、
明恵上人と弁栄聖者が「石化」しなかった理由とも思われます。

明恵上人は、
或る時期から「仏光観」に基づく修行法をされましたが、
この点に関しては、後ほど触れたいと思います。


また、
生涯禅定修行に精進された明恵上人には、
不可思議な力(法力)、いわゆる「超能力」がありました。

そんな上人を「権者」と、
人々が言っていると弟子たちが伝えると、

明恵上人は、慨嘆して次のように言われたと伝えられています。

「あら拙(つたな)の者共の云ひ事や。・・・
我は加様に成らんと思う事は努々(ゆめゆめ)無けれども、
法の如く行ずる事の年積るままに、
自然と知れずして具足せられたる也。

汝どもが水の欲しければ水を汲みて飲み、
火にあたりたければ火のそばへよるも同じ事也」。

弁栄聖者にも似た様な逸話が多数残っており、
その種の事は日常茶飯事
であったようです。

弁栄聖者が川べりを歩かれていた時、
急に立ち止まり、念仏をされたことがありました。

侍者がその理由を聞くと、
「水底に死体がある」と言われた。

村人の話しによると、水死体が上がらず困っていたので、
半信半疑でその場所を探したところ、
水死体が見つか
りました。
そのことを聖者にお伝えすると、
「そうですか」と特に気にされていないご様子でありました。


「五眼(※)明了に開き来て
始めて円満なる仏教を信ずることを得べし。」(弁栄聖者)


※ 五眼とは、肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼のこと。
仏教では古来より、人間に開発可能な一切の認識能力を五眼に分けて説く。
(参考文献:「成所作智」『弁栄聖者光明体系 無辺光』)


この明恵上人と弁栄聖者の逸話に通底する大切な御訓示は、
時に世間を騒がす"超・能力"と云われる現象に対するあるべき態度です。

"その種の能力は、修行により、自ずと具足されるものであり、
その能力それ自体には、真の価値は無い。
真に価値があり目指すべきは、
その法力を生かす大智慧と大慈悲を兼備した霊格"


真に尊崇出来得る尊者方に共通した顕著な特徴であり、
宗教現象と向き合う際の、極めて大切な心構えだと思われます。

なお、この「超・能力」に対する姿勢は、
とても重要なことだと思われますので、
ユング派の"共時性(シンクロニシティ)"・"布置(コンステレーション)"
の概念を通して、後ほど改めて考察したいと思います。


明恵上人は御臨終の間際に、
「我、戒ヲ護ル中ヨリ来ル」と告げられたといいます。

明恵上人が批判された法然上人は、
三昧発得された、明恵上人同様「生涯不犯の清僧」でもありました。

法然上人にとっては、
「戒ヲ護ルコト」が念仏三昧の中で、自ずと成就されていらっしゃいました。

「見仏の要は、一切心意を仏化するにあり。」
とは、弁栄聖者の御教示であり、

「見仏」による功徳には、戒体発得の力用(働き)もあります。

このことは、
法然上人の『御臨終日記』に、

法然上人が、御臨終時に、
「慈覚大師の九条袈裟を着し」

と、法然上人が念仏三昧発得に伴う霊化により、
「戒体発得」されていた
ことが、
象徴的に見事に記されています。

『御臨終日記』は、
(見仏)三昧発得による功徳とは何か
を具に知り得る大変貴重な資料
ともなっています。

なお、
「戒律」に関して、
明恵上人の示唆に富む逸話があります。

「上人常に語り給ひしは、
「幼少の時より、貴き僧に成らん事を恋ひ願ひしかば、
一生不犯にて清浄ならん事を思ひき。

然るに、何なる魔の託するにか有りけん、
度々に既に婬事を犯さんとする便りありしに、
不思議の妨ありて、
打ちさまし打ちさましして、

終に志を遂げざりき」と云々。」
(平泉洸全訳注『明惠上人伝記』)

ここで、留意すべきは、

"戒律を守ることができる"必須条件として、
"克己心の強さ(自力)"と、
"不思議の妨げありて(他力)"
という自力と他力の両面からの表記をされている点です。


明恵上人は、
アッシジの聖フランチェスコと比較されることがあります。
1986(昭和61)年
イタリアアッシジの聖フランシスコ教会とブラザーチャーチの約束を結ば
れました。


なお、
今回は、明恵上人の法然上人批判書である『摧邪輪(ざいじゃりん)』については、
深入りしませんが、
河合隼雄著『明恵 夢を生きる』に、とても気になる箇所がありますので、
その個所を是非引用しておきたいと思います。

明恵上人『夢記』で、建永元年(1206年)11月とされている夢。

「一、一つの檜皮屋(ひはだや)有り。
一人の長高(たけたか)き僧有り。
白衣なる心地す。笠を著たり。
心に思はく、法然房也。
我が仏事の導師すべし。
其の聴聞の為に來られ、我が房の中に入りて、饗応して二三日を過す。
明日の仏事を、使者を以て白さく。
「日来、仏事結構之間に、忩々(そうそう)に走り過ぎ了んぬ。
今夜見参加に入らむと欲す。
明日は時畢(をは)りなば仏事有るべし。
其の以前は又、忩々為(た)るべき」由をと云々。」

「一、南都の修学者筑前房等、侍従房に來る。
此の破邪見章を見せしむとて、又、上師、之を御覧ず。
心に思はく、よひに御覧ずべき由を申しき。
之に依りて御覧あり。
其の御前に人ありて、此の書を隨喜して哭すと云々。
上師云はく、「えもいはず貴き書也」と云々。」

この夢記の執筆の時期に、
河合氏ならではの関心を寄せています。

法然上人著『選択(本願念仏)集』の執筆は、
建久9年(1198年)、上人66歳の時に、
九条兼実の懇請により、
執筆されたとされるもの。
ところが、この書は、
誤解を招きかねない内容を含むものであるため、
最末尾に、

「庶幾こいねがわくは一たび高覧を経てのち、
壁底に埋めて窓前に遺すこと莫れ。
恐くは破法の人をして、悪道に堕せしめんことを」

と一部の者にしか書写を許されなかった書でした。

勿論、
このような思想が、突然出来あがるはずのものではなく、
しばらく前から、法然上人の言動等には、顕われていたはず。

明恵上人の『摧邪輪』は、
建暦2年(1212年)、
法然上人の御遷化(80歳)後に、書かれもの。
この書も、これほど短期間で書き上げられたかは疑問が残ります。

もしも、この夢が、建永元年(1206年)11月であれば、
明恵上人は、『選択集』を読んでおらず、
明恵上人は当時、法然上人を尊敬されていたので、
自分の導師に法然上人を、とはそれほど不自然ではありません。

ところが、
「破邪見章」を『摧邪輪』とすると、
前の夢も『摧邪輪』執筆後となります。
明恵上人の『夢記』には、
「記事に錯乱や順逆が考えられる」
と云われています。

とすると、
この夢の解釈は大いに変わり、
河合隼雄氏は、

「意識的には明恵は法然を烈しく非難しつつ、
無意識には法然を評価していたことになってくる」。


また、夢の中の、
「我が仏事の導師すべし」は、
原文では、
「我、仏事の導師すべし」とも読め、
後者とすると、明恵上人が導師となる。

真に興味深い仮説を提起されています。

なお、
「我、仏事の導師すべし」を、
明恵上人が法然上人の導師となります。

明恵上人が、
法然上人が『選択集』に込められた深意を受け取られ、
その深意を受け取られた夢の明恵上人(=最晩年の円熟された法然上人の思想等)が、
『選択集』執筆時の法然上人の導師となっている。
と解釈することが許されれば、
また、とても意味深い夢ともなります。


もう一点、
次の夢は、河合氏も注目されていますが、

明恵上人の『冥感伝』
承久二年八月の夢に、
「初夜の禅中に、
身心凝然として、存るが如く、亡きが如し。
・・・予、杖に懸りて速かに兜率天に至り、弥勒の楼閣の地上に着す。
その間、身清涼として心適悦す。」

三昧宗教体験の功徳が、
心のみなず身体性へも及ぶ
ことは、注目すべき点。

ここでも留意すべきは、
明恵上人にとっては、あるいはこの時代の常識では、
「夢と三昧定中との境界が混然一体」となっている点。


2018120205.jpg 2018120207.jpg

2018120204-01.jpg

2018120204.jpg

2018120204-02.jpg

西白上笠塔婆の近くから、
湯浅湾に浮かぶ鷹島と苅藻(かるも)島を眺められた
と思いますが、
お詣りできなかったため、「施無畏寺」付近から。

明恵上人が手紙を出された、島。

明恵上人は、
釈尊を慕う気持ちが殊の外強く、
度々、鷹島や苅藻島に渡り、天竺(インド)に向い礼拝されていたようです。

鷹島では、小石を拾い生涯大切にし、
「われさりて のちにしのばむ 人なくば
とびてかれね たかしまの石」(明恵上人)


川端康成氏が、
ノーベル文学賞授賞記念講演、
「美しい日本の私―その序説」で引用されたことでも知られる
「月の歌人」とも称される明恵上人作の、

「あかあかや あかあかあかや あかあかや
あかあかあかや あかあかや月」


「仏光三昧」定中のご道詠かと。

2018120206-01.jpg


〇 【筏立卒塔婆】

2018120219.jpg 2018120220.jpg

和歌山県有田郡有田川町歓喜寺字西原1103。
『華厳経』 修行の地。

2018120222.jpg

明恵上人、26歳~29歳、
1198年(建久九年)から三年間修行を重ねた所で、
ここで「唯心観行式」や「随意別願文」などを著す。
笠塔婆は破損の為、1802年(享和二年)に再建。

遺跡の西側(向って左)の平地は御厨平と呼ばれ、
華厳院建久寺があったと伝えられています。

2018120221.jpg


〇 【糸野卒塔婆】

2018120224.jpg

2018120223.jpg 2018120225.jpg

2018120226.jpg

和歌山県有田郡有田川町糸野字上人谷650-1。

明恵上人、29歳~30歳。
1202年(建仁二年)伯父 上覚上人から伝法灌頂受けた所に立つ卒塔婆。
紀州八所遺跡の一つ。
伯父の地頭職 湯浅宗光の招きにより、
ここ糸野 成道寺背後の草庵に移住。

2018120227.jpg


〇 【星尾卒塔婆】

2018120238.jpg 2018120240.jpg

和歌山県有田市星尾700和歌山県有田市星尾。

目印は、
「天台宗 星尾山 神光寺」(和歌山県有田市星尾700)へ行く少し手前の小高い処にあり。

2018120243.jpg

明恵上人が修行の為、草庵を結んだ跡で、
紀州八所遺跡の一つ。

1203年(建仁三年) 上人 31歳の時、
ここで春日大明神の託宣を受けました。
春日大明神の御託宣によりインドへ渡ることを思いとどまりました。
刻銘は、明恵上人の高弟 喜海が1236年(嘉禎二年)に建立した
木造卒塔婆の文面がそのまま刻まれています。
明恵上人の弟子の喜海が嘉禎年中に立てた木造卒塔婆が古くなり、
1334年(康永三年)弁迂が勧進し、石造卒塔婆に建替え。

2018120241.jpg

2018120242.jpg

2018120245.jpg 2018120244.jpg


〇 【神谷後峰卒塔婆】

2018120228.jpg 2018120229.jpg

和歌山県有田郡有田川町船坂字聖人793-1。

明恵上人、32歳。

神谷後峰遺跡は山深い所、
細い道路のさらに下、みかん畑の中にあります。

2018120230.jpg

2018120231.jpg

師 文覚の対馬配流に始まる一連の混乱を避ける為、
この地域の古刹 最勝寺の裏山に草庵を建て移住。
ここでは大仏頂法(敬愛・息災・増益の行法)を修す。

この地で、再び、天竺行を計画。

2018120232.jpg


〇 【内崎山卒塔婆】

2018120237.jpg

和歌山県有田郡有田川町井口22-2

明恵上人が、36歳から38歳頃まで修行を行った地とされています。
養母の崎山尼が夫の没後、当地に寺を建て明恵上人を招きました。
明恵上人は、その背後に草庵を建て修行を行いました。

ところが、
明恵上人紀州八所遺跡の中、
この崎山遺跡のみが、卒塔婆の所在が不明となっており、
遺跡の正確な位置が不明とのこと。

現在、法蔵寺の境内に復興された卒塔婆が立っています。

それで、町指定史跡。

2018120234.jpg

2018120235.jpg

2018120236.jpg


※ 特に、今回の参拝にあたり、下記のブログがとても参考になりました。
感謝いたします。
『明恵上人(みょうえしょうにん)紀州遺跡 笠塔婆』


この後、明恵上人の活動の中心は
京都栂尾高山寺に移られました。


先にも触れましが、
明恵上人の宗教性を知るには、
河合隼雄著『明恵 夢を生きる』が特にお勧めです。
ユング心理学をベースにした臨床心理学者であった河合氏の、
明恵上人の行状と明恵上人の夢の記録の解釈が、
とても興味深くかつ示唆にも富んでいます。

河合隼雄氏は、
「ユング心理学」の日本への紹介者として知られています。
現在、カウンセリングに係る資格問題を巡って、
議論の渦中にあるようですが、
日本に心理臨床の精神を根付かせた功労者として、
大方の合意は得ているように思われます。

現在の心理臨床の世界は、
深層心理学的な療法よりも、認知行動療法が主流となりつつあるようです。
河合氏の臨床的英知には依然学ぶべき点は多いですが、
あるいは今後、「思想家 河合隼雄」の面が認識されていくのかもしれません。

「思想家 河合隼雄」に長年注目されている、批評家の若松英輔氏は、
「たましいを旅するひと──河合隼雄」を、
月刊誌『群像』に連載中。


明恵上人は、
河合隼雄氏にとって、日本人としての唯一の師でありました。

河合氏が、明恵上人に関心を深めていかれたのは、
「心理臨床の実践」を通してでした。

何故、「心理臨床の実践」を通してであったのか。

河合氏が心理臨床家であったということは、
面接室という「非日常的な空間」での事象であったことを意味します。
それ故にこそ、
「意識が特別な状態であり続けられた」ことになります。
そのことは、 「特別の意識状態を保ちながら」
「強烈にコミットして、関与した存在であった」ことも意味します。

往々にして、自身に関することは盲点となりますので、
信頼でき、関与しながら観察する他者の存在(視点)が不可欠

河合隼雄氏はユング派ですので、当然「夢分析」も用います。
もちろん、「夢分析」だけではなく、「箱庭療法」等も用いられました。

河合氏は、日常では、冗談を連発し、
おしゃべり好きの方とお見受けしましたが、
心理臨床場面においては、
意外なことに、
極めてストイックで、無口な面もあったようです。
天性の"臨床感覚"にも優れ、
極めて"リアリステイック"な方でもあったように思われます。
"リアリステイック"とは、
現実の真相(深層)を察知する「透見の明」の持ち主。


明恵上人は、「夢記」で知られていますが、
「夢」については、通常、あまり顧みられず軽視されがちです。

少なくとも数週間、出来得れば、数か月間に渡り、
夢を記録し、その夢についてしばらく思い巡らし、
その際に、現実との関連性をも注意深く観察出来れば、


「「夢」は、決して荒唐無稽の出鱈目な産物ではなく、
そこに、意味が有りそうだが、よく分からないことが多い。
また、夢は、夢見ての意識状態、実生活と密接に関連しながらも、
必ずしもそれと一対一対応の関係にあるとは限らず、
そこには多義、多層的な意味がありそうだ。」

ということにおそらく気づかれるでしょう。

また、同時に、
夢の不可解さを抱える困難さを実感し、
明恵上人が、何十年にも渡り「夢記」を記せたこと、
その長期間の継続それ自体に、驚嘆されるかと思われます。


「睡眠」、「夢の意義」は、
現代科学においても今だに定説が無いようです。


「仏は夢を見ない。」

と云われますが、
この言い伝えは、意味深長であり、
「夢とは何か」を考察する際の示唆を感じます。

あるいは、
「夢とは仏へと至る道でもある。」
とも言えるかもしれません。


河合隼雄氏の京都大学の最終講義は、
「布置(コンステレーション)」でした。

「コンステレーションー京都大学最終講義ー」(『こころの最終講義』)に、
真に幸いなことに、その記録が残されています。

河合隼雄著『明恵 夢を生きる』では、まだ遠慮気味であった、
心理臨床上、日常生活上にも、とても重要と思われる、
「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」について、
河合氏の経験と思索の深まりを感じます。

河合氏は、
「共時性(シンクロニシティ)」、「布置(コンステレーション)」の概念の紹介には、
極めて慎重
でありました。

河合氏の特異な特徴として、
鋭敏な"政治的感覚"とも呼ぶべき感覚があるように思われます。
賛否両論はあったようですが、
河合氏は、文化庁長官も務められました。


ご自身の心理臨床実践を通して、
「共時性(シンクロニシティ)」、「布置(コンステレーション)」の現象には、
「主体者と関与者の在り様(関係性)が重要な意味を持つ。」
ことを次第に認識されていかれました。

また、
「布置(コンステレーション)」に関して、
「気配を読み取る」態度、
つまり、「見えないものを感知する力」の重要性を指摘されています。

ここで河合氏が、
「気配」と表現していることに留意したいと思います。


「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」に対する、
河合隼雄氏の姿勢に関して、
是非触れておかねばならぬことがあります。

「コンステレーションー京都大学最終講義ー」
(『こころの最終講義』河合隼雄著)
において、

「「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」は、起こせるのか。」

と、河合氏自身にとって、極めて切実で重要な問いを発しています。

河合氏の師であるA・マイヤー先生の心理療法についての
シュピーゲルマンの論文に、

「マイヤーはその人の自己実現の過程をコンステレートするんだ。
そして、その人が自己実現の過程をコンステレートして自己実現の道を歩む限りにおいて、
その人とともについていくのだ」。

これは、河合氏にとって非常に衝撃でした。

「人間が何かをコンステレートするなんて他動詞として用いることなど
考えられないと思っていたんですね。」


これは、一面とても合理的な思考の持ち主であった河合隼雄氏らしい感想。

河合隼雄氏の心理臨床実践の真骨頂は、
「コンステレート」に関する、
その自動詞と他動詞を巡る真摯な対話の内にこそあった。

これこそ、「思想家 河合隼雄」の誕生の源泉でもあったと推察されます。

後年、河合氏が、
明恵上人と、イスラーム神秘哲学の権威でもあった井筒俊彦氏に導かれて、
『華厳哲学』に特別の関心を深めて行かれたのは、必然でありました。


「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」の現象への関心は、
特定の宗教を信じているか否かを問わず、
「人間を超えた働き」を感知する貴重な契機
また、現世での生活を意義深いものへと深化させる機会
ともなりうるものと思われます。

「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」という現象は、
実は、日常的にありふれた現象、出来事でありながら、
通常は、私たちの意識からこぼれ落ちていることが間々ある
ということなのかもしれません。

ただし、
「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」の読みには、
いわゆる「唯一の正解」はなく、
したがって、浅深の捉え方の差はありえます。
当事者本人に、その意義付けが、
「腑に落ちるといった感触が、一つの重要な手掛かり」
となるかもしれません。

『弁栄聖者御遺稿集 無辺光』で詳述されている
「大円鏡智」・「妙観観智」の如来無差別智の知見が、
有益な手掛かりとなる
ようにも思われます。


河合氏の著作の中から、
この「共時性(シンクロニシティ)、布置(コンステレーション)」に関して、
示唆に富む箇所を若干引用します。

〇 「要するにコンテレーションを見るというのは、
いいときに後ろを見ないとだめなんですね。

・・・心理学者は、後ろからいろんなのが来ているのに全然見ない。
時々、非常に上手に、何にもないときに後ろを見るんですね。
そして、言うんです。・・・
「後ろを見ました。完全に見ました。何にもありませんでした。
・・・私は実証的にやっております」と言うんだけれども、
一番大事なときには後ろを向いていない。」
(「コンステレーションー京都大学最終講義ー」『こころの最終講義』河合隼雄)

河合隼雄氏一流の、
"リアリティ"に触れようとしない実証主義を標榜する心理学者批判。


〇 「実際にぼくが遭遇している現実では偶然ということが多いんですよ。
ぼくはときどき冗談半分で「あなたは絶対に治らないだろう」と患者さんに言う。
しかし、偶然ということがあるから、ぼくはそれに賭けているからやりましょう」と言う。
そして実際にそうなるんです。
ぼくは何をしているかというと、偶然待ちの商売をしているんです。
みんな偶然を待つ力がないから、何か必然的な方法で治そうとして、全部失敗するのです。
ぼくは治そうとなんかせずに、ただずっと偶然を待っているんです。」
(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)

"何故、河合隼雄氏には、偶然が頻繁に起こったのか。"

この問いは、極めて重要な問い。
認知科学の知見だけでは、解きえない現象だと思われます。


「何もしないことに全力を傾注する。」
とは、河合隼雄氏の口癖でありました。

この"臨床的構え"を身に付けるには、
どれほどの修練と凄まじい心的エネルギーが必要であることでしょう。

村上春樹氏と云えば、
全世界的な読者層を獲得している大作家。
その村上氏をして、
「"自分が云う物語"ということを理解できる唯一の人物」と云わしめたのが、
河合隼雄氏でした。

「魂のいちばん深いところー河合隼雄先生の思い出」:村上春樹

全世界的な読者層を獲得する作家の洞察による、
真に鋭く、的確で、優れた「河合隼雄評」。


〇「小川 秘密を守らなくてはならないという先生のお仕事は、
すごく苦しくて大変でいらっしゃるのでしょうね。

河合 ・・・僕はこの頃よう言ってるんですけど、
「僕はアースされているから大丈夫」なんです。
・・・「うん、それで、最後は地球にお任せしてるってね(笑)。」
(小川洋子 河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』)

河合氏は冗談風に語られていますが、
特別な宗教的修行をせず、
心理臨床に真摯に取り組まれることによって、
この境地にまで至られたのかとの驚きを禁じえません。

精神分析では、「転移⇔逆転移」ということが大変重視されます。
濃密な人間関係に不可避のある種の強烈な相互作用に無自覚故に、
関係者双方、周囲にとっても不利益となる場面を見聞きしますが、
河合氏は、その困難さを克服されつつあったのでしょう。

なお、ユング派の、
A・グッゲンビュール=クレイグ著
『心理療法の光と影 援助専門家の《力》』

は優れた名著で、とてもお勧めです。
近日中に復刻とのことで、大変喜ばしいことです。


弁栄聖者が、
一所不住の布教活動がお出来になったのは、
"並々ならぬ克己的な自力的な精進力"だけではありえません。

「・・・教え主世尊が六根常に清らかに光顔(みかお)永(とこ)しなえに麗しく在ししは 
内霊応に充(みち)給いければなり」

『如来光明礼拝儀』にあります。

この箇所は、『無量寿経』の「三相五徳」として知られた箇所ですが、

「『内霊応に充(みち)給い』とは、
無住処涅槃の如来無対光の境界における
応身仏釈尊の三身四智の仏眼に依る自受用三昧を、
弁栄聖者が表現されたもの。」


と笹本戒浄上人はご教示されています。

「弁栄聖者の精力的な布教活動の源泉は、
こんこんとして湧出する"大ミオヤ"の神的エネルギーの供給。」



河合隼雄著『明恵 夢を生きる』には、
他にも、明恵上人の身体性、女性性、宗教と性の問題等、
とても興味深く示唆に富む考察がなされていますので、
是非お読みになってください。


なお、
明恵上人の宗教性に関しては、
河合隼雄著『明恵 夢を生きる』の他では、
町田宗鳳著『法然対明恵 (講談社選書メチエ)』を是非お勧めします。

「法然を語る人の多くは、
念仏信仰の普及者としての「表」の法然しか見ていません。
彼の実力は、念仏の「裏」にあったのです。
「裏」とは深い宗教体験のことですが、
それこそが法然をして「思想の革命家」ならしめたのです。」

この町田氏の慧眼に驚きと共感を覚えつつ、
町田氏の法然上人観と明恵上人観を、
一種興奮に似た感情が混じりながら読み進めて行く内に、
いつしか、法然上人と弁栄聖者が重なっていました。

弁栄聖者口述『宗祖の皮髄』のことが、
念頭から離れませんでした。

町田氏に興味を覚え、後日、
町田宗鳳著『法然・愚に還る喜び 死を超えて生きる』を拝読し、
町田氏御自身の臨済禅の修行中の体感は、
「無」・「無心」というよりも、
むしろ念仏三昧の境地の方が相応しいと
感じらるようになられたことを知りました。

その契機となったことが、
鞍馬の山奥にあった
京都修道院での集中的な別時念仏会への参加」でした。

「鞍馬の山奥にあった京都修道院」とは、
おそらく、
京都大原百井の山奥に開かれた、
日向美則氏主催の超宗派的な修道院。
似た名称の京都光明会の恒村夏山氏が主催されていた、
京都梅ケ畑の修道院ものとは別組織。
日向氏は、弁栄聖者の影響を強く受けながらも、
独自の宗教体験と比較思想研究等により、
超宗派的な教学と組織を築かれました。

日向氏の御逝去後、
現在この組織の動向については、よく分かりません。


町田氏の同書には、
数々の興味深く、示唆に富む知見がちりばめられています。
幾つかを引用します。

「宗教のあらゆる要素ー禅と念仏、仏教とキリスト教、
一神教と多神教ーも法然さんにはあると考えた。
この人ひとりを学んだら、
世界のあらゆる宗教のことを論じられると確信したのです。」

「とりわけ法然と関連性があると私が思っているのは、
空海の三密加持です。」

「現在の日本仏教は、浄土、禅、日蓮という系統が表に出ていますから、
やはりイメージを重視する系譜にはないのです。」

「法然の偉大さが語られるとき、
たいていは専修念仏とかイデオロギーのレベルの話になってしまいますが、
じつのところ私はそっちにはあまり関心がない。
彼のイマジネーションを論じることには大きな意義があると思いますよ。」

ただし、町田氏が使われる、
「幻視」という表現には、注意を要するように思われます。


更にもう一点、
ご遷化の年齢についてです。

法然上人のご遷化は八十歳の大変なご高齢でした。

弁栄聖者も六十代の前半という比較的若いご遷化でしたが、
明恵上人、道元禅師、日蓮上人が、
後、十年あるいは二十年長生きされたとしたら・・・

例えば、身体が不自由な高齢を迎えた際の、
明恵上人、道元禅師の修行方法とは。
日蓮上人の布教活動、浄土観は。

御無礼を顧みずに申せば、
宗教体験の内容、修行内容、教学上に変化があったかもしれない・・・
そんな想像をします。


最後に、
明恵上人と弁栄聖者に関して、
今後の究明が待たれる点について、記しておきたいと思います。

明恵上人は、後年、
「仏光観」を御自身の修行の中心に据えられました。

この「仏光観」による修行は、
朝鮮華厳の李通玄居士の影響によるもの。

法蔵系譜の「学問中心」の華厳教学ではなく、
「実践重視」の李通玄居士系譜の華厳による修行法でした。

元大正大学教授大南龍昇現光明園園主の、
「七覚支説の変遷」論文には、
弁栄聖者と李通玄居士の説が比較検討されています。

通常、「三十七道品」中「七覚支」は、
「念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支」
と説かれます。

ところが、
弁栄聖者と李通玄居士は、
「択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支・念覚支」
と、念覚支と択法覚支の順番を逆転されています。

なお、
『正法眼蔵』第六十 三十七品菩提分法には、
「択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支・念覚支」とあります。

今後の解明が待たれます。


「明恵上人と李通玄」については、

〇 「Ⅲ 明恵とその周辺」
(末木文美士著『鎌倉仏教形成論ー思想史の立場からー』)

〇 田中久夫著『明恵』
〇齊藤 紀夫著 『現代に生きる稀代の高僧「明恵上人」』
修士論文を元に、2017年6月刊行に書籍化。
〇 かなり専門的なところでは、小島岱山氏の諸論文等。


上述したもの以外で、明恵上人理解に有益と思われる、
幾つかの参考文献等を御紹介したいと思います。

〇奥田勲、 平野多恵、前川健一編著『明恵上人夢記 訳注』
明恵上人の夢記の第一人者の奥田氏研究グループによる労作、2015年2月刊。
〇「明恵上人夢記」『Blog鬼火~日々の迷走』
「明恵上人夢記」の私的読解記録。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

RSSリンクの表示
検索フォーム
カレンダー
08 | 2020/09 | 10
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -
アクセスカウンター
プロフィール

syou_en

Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
twitter
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR