2017-03-20

山口県山口市古熊「善生寺」、弁栄聖者愛弟子、熊野好月(旧姓徳永あい子)女史

【山口市古熊 善生寺】

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前回は、全国光明会連合会 二代目総監 熊野宗純上人
について、記事にしました。

今回は、熊野上人のご令室、熊野好月(旧姓徳永あい子)女史。

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【熊野好月女史(行年八十歳 ~1975)】

弁栄聖者を「現代の釈尊」と仰がれておられた中川弘道上人とのご縁によって、
好月女史は、弁栄聖者にお逢いできました。

弁栄聖者五十回忌の際に結成された全国婦人部。
その初代会長が、好月女史。
弁栄聖者は、信仰教育上におけるご婦人の役割を大変重要視されていたようです。

二代目が、足利千枝女史。

また、好月女史は、岡潔博士の妻、みち氏のよき相談相手でもありました。


弁栄聖者の最晩年に聖者に御随行された熊野好月女史には、
幾つかの著作がありますが、
聖者の御教化の在り方、聖者の御人格を知るのに欠かすことのできない貴重な逸話が、
記されています。

示唆に富む逸話を幾つかご紹介したいと思います。

「世間の人は水の上を歩いたとか、お酒にかえたとか、手にふれて病気をなおしたとか、
こういう事を大へんな奇蹟として驚くがそれは大した事ではない、
それよりも悪の心を善心に立かえらせる。これ程大きな奇蹟は外にない。
と常々仰っていらっしゃいました。」


「お上人様を特別のお方、不思議なお方と見られておるようでした。
実際、常人のなし得ない事も何でもないもののように仕てしまわれます。
時々は両手に筆をもち同時に異なった歌を書かれたり、
お米ひと粒に般若心経一巻を書かれたり、
それは人を驚かせる為でなく、如来様のお慈悲を知らせたさに、
口でいうだけではよりつかないので
何とかしてとのやるせない心から方便としてお用いになった。


と、好月女史は、『さえらぬ光に遇いて』に記されていますが、
弁栄聖者の奇蹟に対する、この両面からの理解は、実に的確なご指摘だと思います。


「宗教家は奇蹟を現わさなくてはつまりません。
釈尊のお弟子でも多くの人が釈尊の教理に服して入道したのではなく、
釈尊の奇蹟に驚嘆してお弟子になっております」。


また「予言ができるとか、病気がなおるとか、
そんな奇蹟がなんの価値がありましょう。
凡夫が仏になる。これほど大きい奇蹟がまたとありましょう」。


と、 田中木叉上人も『日本の光(弁栄上人伝)』に、併記されています。


熊野好月女史が、弁栄聖者にご随行の汽車の中でのこと。

「歳は八十位の老爺。
眼が見えぬらしく、ただれつぶれ、
手の甲など鶏の脚のような色で見るも気味の悪い汚いなり。」

弁栄上人をはじめ私達が色々と世話をしていると、
乗客の一人がソッと女史に、

「あの人は梅毒の第三期で伝染するから気をつけなさい」とささやいた。

好月女史は、気が気ではなく、そのことを告げても、
弁栄上人は尚平気で何くれとなく世話をやいておられた。

その世話をやいてくれたことに対する謝意を込めて、
その老爺は、懐から餡パンを取出して、
その汚い手でわしづかみしたパンを弁栄上人と私達に差し上げた。

((注)時期は、大正時代のこと、
弁栄聖者には当時の医学的知識もおありになったようですが、
感染経路等について現在のように解明なされておらず、
ペニシリン普及前のこと。)

その老爺の側に座っておられた上人は、
相変わらず何の屈託もなさそうに小さいいびきをかいて寝ておられたが、

私は、そのパンの処理に、ほとほと困り果て、
とうとう、蟻や魚の餌食になって呉れるように念じつつ、
洗面所の窓から、投げてしまった。

明け方近くになって、

例の老爺も起き、懐から紙袋の口を開いて例のパンを取出して食べ始めた時、

それをご覧になっていた弁栄上人は、どこにしまっておられたのか、
昨夜貰ったパンをいとも敏速にそっと彼の懐にある紙袋の中に入れられた。


もちろん、眼の見えぬ彼は何も知らずパンをムシャムシャと食べていた。

そのさりげない所作を見られた好月女史は、
自分の行為を大変恥じ、後悔の念で、涙ぐんでいた時に、
弁栄上人が声をかけられました。

「時機を待つのですね。」

後年、好月女史は、この時のことを回想され、

「パンはおじいさんの心もきずつけず、袋にかえったのが一番生きるのです。
お上人様はふれる事もふれるものも大事も些事も、
丁度水が流れるように任運無作に事をさばかれ、
そのものは自由に生かされ、いのちを吹きこまれ、
何一つの無駄もありません。
事毎にねばりつき考えぬいた挙句が人をきずつけ物を殺し勝ちであります」
と。


田中木叉上人の熊野好月女史への御教化も、
とても示唆に富むと思われます。

「自分のようなものは・・・」と後悔ばかりしている好月女史に対し、

「あなたはいつも自分の悪い所ばかり見つめて
背負いきれない重荷と感じている、
それは卑下しているようで自力をたのみすぎている、
なぜ南無と如来様に背負い切れぬその荷(業)をささげて仕舞わないのですか、
自分で出来る事や自分の長所はお救いを求める必要はない、
どうにもならぬ点こそ、そのすべてをさし上げおあづけして、
如来様に清めていただく、ここが一番大切なところです。」


木叉上人は、
「本願ぼこり」はもちろん「凡夫ぼこり」も戒めておられます。

「凡夫ぼこり」とは、「凡夫を看板にしてなまけることの言い訳」とも。

「私のようなものは、とても・・・というのは、
如来様に対する不遜な態度である。

それは、謙遜ではなく、如来様の御力を見くびっているのだ」
と。

木叉上人は、、
「私ではなく、如来様に目を向けるように」
と、いつも注意されていたようです。

とてもありがたい木叉上人の御説法です。


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【清涼院弁誉好月普照大禅定尼】


【山口サビエル記念聖堂】

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山口の大内氏は、
文化を尊重された方としても知られていますが、
日本最初の教会があったこともとても興味深いです。

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2017-02-19

山口県山口市古熊「善生寺」、全国光明会連合会 二代目総監 熊野宗純上人


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山口市古熊にある「善生寺」

弁栄聖者の直弟子、故熊野宗純上人のお寺。

熊野上人は、山口県下の教育界へも影響力があり、
かつて、浄土宗第六・七連合教校の校長・山口教区学監を務められた御方で、
全国光明会連合会二代目総監

※ 全国光明会連合会初代総監は、笹本戒浄上人、
在団法人光明修養会三代目上首は、藤本浄本上人。


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少々きつめの階段を登りきった右側に、
熊野家のお墓があります。

熊野宗純上人のご令室、故熊野好月女史のお墓があります。

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本堂の奥には、
善生寺庭園(伝雪舟作)があります。

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本堂の右側に、
熊野宗純上人と善生寺歴代(熊野忠道)上人のお墓があります。

奥が、熊野宗純上人のお墓。

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熊野宗純上人(1878~1946年)

熊野上人が、弁栄聖者に初めてお逢いになったのは、
大正8年の8月
佐々木為興上人の自坊、広島県心行寺でのこと。

「おかしがたき崇高の人格と、慈悲あふるる温容に接して、
一種いい知れぬ充実味を心の奥底に覚えた」


と、熊野上人は、その時の聖者の印象をご述懐されています。


(弁栄聖者)「あなたはこれまで如来様を親様と呼んだことがありますか。」
(熊野上人)「はい、いつもそう申しています」。
(弁栄聖者)「それでは、あなたは、如来様をあなたを生んで下さった母のように思いますか」。
(熊野上人)「いいえ、そうは思われません」。
(弁栄聖者)「それではなんにもなりません。真剣に念仏してご覧なさい、きっとそう思われるようになります。」


聖者のこのなんの理屈もない事実そのままの簡単なお言葉を伺った時、

「腹をえぐられたように感じ、長い眠りから目ざまされたように感じた。」
と熊野上人はご述懐されています。


達人の衆生済度には、小難しい屁理屈はなく
深三昧に証入され、真相を知った者のみが備え得る「威神力」が、
弁栄聖者には具足されておられた証左であるように思われます。


当時、熊野上人は、
経文上、宗乗上の「学解」に精通され、”布教界の雄将”でしたが、
「生きた信仰」は、まだ得られていませんでした。


「今まで熊野上人が名匠碩学について学んだ宗乗も、それは、空なる冷やな知識で、
如来様はガラス戸棚の中のお人形様のように血の気のない冷たいもので、
罪に泣いている者みづからを抱きしめて下さる温い親様とは実感されず、
醍醐味のはずの念仏は無味乾燥で、
微妙荘厳のお浄土も架空の空想のように感ぜられてならなかった」


が、この五日間の熱火のごとき提撕によりて、信心喚起し、

弁栄聖者を「如来の顕現と仰ぐ」ようになって念仏に精進し、
聖教に対する一隻眼も開かれて
特に「聖教の文々句々が文字通りうなづけるようになったことも、大なる喜び」で、
ますます仏道のあゆみを進めた。

と、熊野宗純上人の弁栄聖者とのご邂逅を、
田中木叉上人は、感動的に描写されています。


七日しんしんと降りしきる雪の柏崎、極楽手にてご密葬執行
お棺のお伴をする二百数十名の道俗の中には、
跣足で雪を踏みせめてもの心をのべし人もあった。」

と、田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に記されていますが、

”跣足で雪を踏みせめてもの心をのべし人”

とは、「弁栄聖者を如来の顕現と仰がれた」 熊野宗純上人

この事実を、杉田善孝上人のご教示によって初めて知ったのですが、
昭和二十七年刊の熊野宗純著『救いの宗教』に明記されています。

(参考文献) 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』


熊野宗純著『救いの宗教』には、
弁栄聖者の熊野上人へのご教化の有様が明記されていますが、
この逸話はあまり知られていない貴重な逸話でもありますので、
是非記しておきたいと思います。

熊野上人が弁栄上人の御説法を初めて聴かれた時のこと。

「(弁栄)上人の「神聖・正義・恩寵、霊界」、「心の曄瞳(あけ)」という表現が、
余りこれまで仏教で耳馴れない言葉でしたが、
当時読んでいた「ハルトマンの宗教哲学」の、
姉崎博士の翻訳にあったので、

「御上人様は実はハルトマンの宗教哲学をおやりになって居るのだろう。
これさへ見れば分る」
と思い、

ハルトマンの書を懐に入れて
弁栄上人にご挨拶申し上げ、一寸座って居ると、

「熊野さんは、ハルトマンの宗教哲学を懐へ入れ居るではありませんか」

「あれはまあ、法身と云う程度は解るかも知れませんが、
報身と云う方面のことは、少しも問題に触れて居られない。
姉崎さんも本当に解って訳したのではない
独逸に始めて留学される前に博文館から、百科全書の様なものが出て、
その宗教の所に訳されては居るが、難解の訳です。
姉崎さんは本当に解って居らない。」

と弁栄上人は言われました。

熊野上人は、弁栄上人の妙観察智による御教化と記されていますが、
大円鏡智も伴っていると思われます。


弁栄聖者の直弟子方の、聖者への尊崇する御態度には、
聖者の「霊格の崇高性」だけではなく、
聖者の「霊的実力(法力)」を目の当たりにされたことも決定的に重要であったことが、
この逸話からもうかがえるように思われます。


※ 熊野宗純上人のご著作は、
  熊野上人を尊崇された、菅野真定上人が中心となって、
  「熊野上人遺稿刊行会」から刊行されました。

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法名 大蓮社専誉上人光阿興隆泗水宗純大和尚 
昭和二十一年十一月九日、示寂。


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善生寺歴代上人之墓には、
第二十七世 熊野忠道上人、
熊野上人の養子で、 中川察道上人の実子の名も刻まれています。

平成二十六年二月十月、西化。

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2017-01-29

【追記】福岡県エリア、弁榮聖者御遺跡等探訪の際のご参考として


【北九州市若松 善念寺】

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大正2年9月、
波多野諦道上人の自坊、若松善念寺で、 弁栄聖者の送別会が催され、
それが、波多野上人と聖者との今生でのお別れとなりました。
大正4年7月、波多野上人西化。

その後、弁栄聖者は、幾度か九州入りされご伝道されていますが、
ごく短期間です。


【北九州市若松 安養寺】

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「若松教会」の右脇の小道をのぼって行きます。
道が狭いので、車でお出での場合には、ご注意を。

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波多野上人西化後は、
若松での弁栄聖者の活動拠点は、
「善念寺」から「安養寺」に移ったようです。
当時の「安養寺」住職、西山賢道上人の存在が大きかったようです。

そして、今生での、九州の地での弁栄聖者のご伝道は、
大正9年7月、安養寺でのお別時が最後となりました。

そのお別時に参加され、聖者を見送られた、
宮川粂次郎氏(大谷仙界上人の姉婿)の、
とても印象的な、聖者の逸話を記しておきたいと思います。

「(弁栄)上人のお念仏される時の様子は、
初めまともに木魚を叩いてられるが暫くすると、
木魚の上をバイでなでられるかと思うと、畳の上を叩いたりしていました。

私共では上人の心境を窺うことはできませんが、
多分木魚を叩いて称名することにより、
憶念に意を注がれる三昧に這入っていられたのだろうと思うようになりました。

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また、若松「安養寺」は、
芥川賞作家、火野葦平氏ゆかりのお寺でもあり、
『花と龍』に登場しているようです。

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【火野葦平記念館】

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「若松教会」の通り、教会から直ぐ、1~2分の場所にあります。

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【豊前博多 善導寺】

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長い白壁が目印。現代的な造り。

「豊前博多 善導寺」

最近リニューアルされたようです。

開基は、鎮西上人で、1212年。
1212年は、奇しくも、法然上人入寂の年。

『善導寺縁起』によりますと、
善導大師の霊夢によるお導きが基になっているようです。

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【博多区東公園 「日蓮聖人銅像」と「亀山上皇銅像」】

「日蓮聖人銅像」

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正面には、福岡県警察本部が、
付近には福岡県庁があります。

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とても大きな銅像ですが、
東大寺の大仏、鎌倉の大仏につぎ、
日本で三番目に大きい銅像とのこと。

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「日蓮聖人銅像」の完成は、明治37年。

この制作を引き受けたのは、岡倉天心氏

岡倉天心氏は、特に美術の分野で知られ、
『茶の本』でも知られていますが、
宗教に対する深い理解を示されていたことは、

若松英輔著『岡倉天心『茶の本』を読む』 (岩波現代文庫)で、
説かれており、大変興味深いことに、本書において、
「霊性の次元」における、岡倉天心氏と弁栄聖者との関係に触れておられます。


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【東郷平八郎胸像】は、意外な気がしましたが、
東郷氏は篤い法華信者でもあったようで、
日露戦争の日本海戦での戦勝のお礼の報告に、お参りされたようです。

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東郷平八郎氏といえば、

司馬遼太郎著『坂の上の雲』において、
とても印象的な記述がされています。

「佐藤が戦後、海軍大学校の教官をしていたとき、
梨羽時起という海軍少将があそびにきて、

「佐藤、どうしてあんなに勝ったのだろうか」

と、梨羽はかれ自身実戦に参加しているくせにそれがふしぎでならないようなことをいった。

「六分どおり運でしょう」と、佐藤はいった。

「しかしあとの四分は何だろう」と問いかさねた。

佐藤は、 「それも運でしょう」といった。

梨羽は笑い出して、
「六分も運、四分も運ならみな運ではないか」というと、

佐藤は、「前の六分は本当の運です、
しかしあとの四分は人間の力で開いた運です、」といった。

ただ佐藤はこの説明のつかない「六分の運」について海軍大学校の講義で、

「東郷長官はふしぎなほど運のいい人であった。」と。

「戦いというのは主将を選ぶのが大切である。
妙なことをいうようだが、主将がいかに天才でも運のわるい人ではどうにもならない。」
と述べたことが残っている。

「もしこの海戦において勝利をもたらして無数の人間のなかでただ一人の名をあげよといえば、
この海域にいない山本権兵衛であったであろう。
かれは、閑職にいて予備役を待つばかりの境涯にいた東郷を抜擢し、
明治帝がおどろいてその理由をきくと、

「東郷は運のいい男ですから」と、答えた。

山本は、
歴史を決定するものが、
佐藤の言う「四分の運」のほかに「六分の運」があるという機微
を、
それ自体異様なことだが、知っていたのである。」

”東郷平八郎観”を借りた、
司馬遼太郎氏の”人間観”・”人生観”ですが、
とても含蓄があり、印象深く記憶に残っています。


”運”というと、仏教的とはいえないと顔をしかめられそうですが、
”宗教的教義を抜きに、人生を達観”された方々には、
やはり、人生におけるこの”運”としか言いようのない、
”人生の不可思議な働き・作用”を認めざるをえないと認識されている方が多いという印象があります。


東郷平八郎氏には、”仏の御加護”もあったのかもしれません。

「仏の御加護「、「現世利益」というと眉をひそめる方もおられるかもしれませんが、
「現世利益」は、もちろん新興宗教のみのものではなく、

「神力演大光 普照無際土 消除三垢冥 広済衆厄難」
(「四誓偈」『無量寿経』)


と、浄土教において極めて重要な『無量寿経』というお経にも、確りと説かれています。

弁栄聖者も”十二光中”
特に、 『清浄光・歓喜光・智慧光・不断光』において、
如来光明の化益を、当時の科学的知見も取り入れて、具体的に説かれています。

弁栄聖者ご高弟のお一人田中木叉上人は、
「念仏は、心・身体・魂・霊性・身の上に働く。」
と強調されています。


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熊野好月様曰く
「聖者の前かがみの後姿は博多の東公園に建立してある日蓮上人の銅像の後姿とよく似ておられた」と。

(吉松喜久造編『辨栄聖者御写真帖』)

好月氏が、後姿に着目されたことを興味深く思います。

後ろ姿は、取り繕うことが困難で、
その人となりが計らずも現われ易いかとも思われます。

この日蓮聖人銅像の肩は丸みを帯びていて、意外な気もしたのですが、
法然上人の肖像画は肩が丸みを帯びていたと記憶しています。

最晩年の弁栄聖者に随行されていた熊野好月氏が、
日蓮上人の後ろ姿に聖者の前かがみの後姿を重ねられたのは、
あるいは、跡見学園の創設者、跡見花蹊氏の影響もあるかもしれません。

花蹊氏は、好月氏の師匠ともいえる方で、
竹内喜太郎氏のお導きによって、
笹本戒浄上人、田中木叉上人をとおして、光明主義に出逢われましたが、
それ以前は、熱心な法華信者でありました。

光明主義に出逢われ、熱心な念仏信者となりました。

念仏の功積り、とうとう、大正12年に如来様にお逢いになられた境地を、

「いともいとも大いなるかな天地に みち足らひたる大みすがたの」
と詠われています。

また、
山本空外上人は、法華信者の紀野一義氏に、

「辨榮聖者の信心は、一から十まで法華経に基づいておるのですよ」

と語れたようです。

その根拠、空外上人の真意は計り難いところですが、
とても気になる内容です。

「法華壽量品に明す所の釈迦の内面此弥陀無量光壽に外ならず。
名に迷ふて真理を失うなかれ。
若し此の理に於て疑ふ如き妄信者は論ずるに足らざるのみ。
又大乗非仏説の如きは今の所論にあらず。」
(弁栄聖者『ミオヤの光 光明の巻』)



弁栄聖者は、如来様を「大ミオヤ」と呼ばれましたが、
「一切衆生は 皆 これ吾が子なり」(『法華経 譬喩品 第三』)
と対応しますし、


南無智慧光佛
 
 如来智慧の光明に  我等が無明は照らされて
 佛の智見開示して
 如来の真理悟入(まことさとら)るれ」
(弁栄聖者『如来光明礼拝儀』)
は、『法華経 方便品 第二』に対応していますし、


『如来光明礼拝儀』は、
浄土教系の聖典とされる『無量寿経』の「如来光明歎徳章」を中心に作成されていますが、
初期の『礼拝儀』には、
『法華経壽量品』が併説されていました。


また、弁栄聖者の「三身即一の仏身観」は、
従来の浄土教系の経典からのみでは導き出すのは難しく、
『法華経』、『真言密教経典』、『キリスト教義』等との関連究明が、
今後待たれます。

もちろん、弁栄聖者にあっては、
ご自身の甚深なる三昧証入によって直観された仏身(神)観を表現するために、
帰納的に、経典等を引用された点は、忘れてはならない重要な点かと思われます。


↓ 「元寇資料館」は、通常閉館されているようですが、
  売店でお願いすると、入曜日、時間によって、入館できるようです。

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【亀山上皇銅像】

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東公園に、建っています。

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【大宰府天満宮】

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大宰府は、対外防衛の拠点でありました。
元寇後は、再襲来に備え、鎮西探題として、博多に移ったようです。

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豊後久留米 【坂本繁二郎記念館】

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JR久留米駅から、徒歩10分程度。

岡潔博士が、最も、親近感を覚え敬愛したと思われる画家。

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2017-01-10

筑前若松「善念寺」での弁栄聖者と波多野諦道上人とのお別れ

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↑  ○  ○  弁栄聖者    
     波多野諦道上人  ○ 
          大谷仙界上人


大正二年九月末、
一年半に渡る、筑紫筑後を中心とした初めての九州伝道をおえられ、
九州を去られる弁栄聖者の送別の集いが、
波多野諦道上人の自坊「善念寺」で開催されました。

道俗一同を代表して、住職の波多野上人がご挨拶をされました。

「(・・・略)今上人に会うことは、
七百年前の宗祖がさらに浄土からこの土に帰られたのにお目にかかる心地であります。」
とまごころこもる挨拶に涙こぼした。


と、田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、
さらりと記されています。

この元になったと思われるのは、
松岡行覺氏の「歓ひの涙」の記事。

洒脱な波多野諦道上人の印象とは違って、
波多野上人の弁栄聖者への篤(熱)き心情の吐露に、
名状しがたい感銘を覚え、胸を打たれます。


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大正二年九月二十七日、
東路さして若松から戸畑への渡し舟にお乗りになった。

「いよいよお帰りになるようになりまして」と申し上げられた方へ、
「私には帰るということはありません。」

とは、「念仏のすすめられるる所をわが家として、
別に定めたわが家とてなき一生行脚」
の慈光輝く弁栄上人。


この若松でのお別れが、
波多野諦道上人と弁栄聖者との、今生でのお別れとなりました。


この記事を書きながら、今更ながら気付いたことがありました。
波多野諦道上人から、命がけの覚悟を以て
「田中徹氏(木叉上人)を、弁栄聖者に引き合わせるように」との命を受け、
大谷仙界上人がそれを実行されたのは、大正七年でした。

波多野諦道上人が西化されたのは、大正四年
ということは、その数年後になります。


「ところが七月二十日頃、偶然の用事
波多野諦道上人が善導寺にきて
上人に謁見するや、帰依の思い禁じがたく、他の用事は捨ておいて、
上人に願いまず筑前各地に上人をお伴して歩くようになった。
・・・鎮西第一の法の器が、
器を求めて筑紫路にはるばるくだった上人に値遇した。


そしてひとり九州にもならず、波紋はそれからそれと大きくつたわる、
光明教海に投ぜられた一石となった
。」

と、(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)に記されています。

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↓ 「大正末期の若松港の風景」 

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2016-12-18

北九州地区における弁栄聖者のご伝道

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明治四十五年の春に九州入りされてから、
一年半近くに渡り、
弁栄聖者は、筑前、筑後地区を中心にご伝道をされました。

弁栄聖者のご足跡を辿りながら、
どうして、九州北部中心に、しかも、長期間に渡りこの地にご滞在されたのか、
この疑問が膨らみ始め、その理由を知りたくなってきました。

北九州の地理的特徴、歴史に関心を寄せるようになりました。

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JR若松駅は、筑豊本線の起点。

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「若松駅操車場跡」

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北九州に位置する若松港は、
筑豊炭田で採掘された石炭の積み出し港として、大変な賑わいであったようです。

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明治24年(1891年)、若松ー直方間に鉄道が敷設され、
それまで遠賀川等の水運によっていた石炭運搬が、
短期間の内に、鉄道輸送に移っていったようです。

※ 「直方」といえば、
弁栄聖者の直弟子で、九州光明会の生み・育ての中心人物
大谷仙界上人の「長安寺」があります。

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弁栄聖者の九州北部を中心としたご伝道は、
明治大正期の、この地域の炭鉱産業の繁栄とも関係が深いと思われました。


【大善寺】

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「大正二年二月」には、
筑前福間大善寺で開催された教学講習会にて、
初めて光明主義教学の組織的な講義(「浄土哲学」)をされました。

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【正願寺】

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「大正二年四月」には、
筑前折尾正願寺で『自覚の曙光』の題下で五日間の講説があり、
『自覚の曙光』という小冊子として、
筑前遠賀で印刷され、五月に公刊されました。

なお、筑前折尾とは、
大正八年八月に、
信州の唐沢山で勉強されていた柴武三氏達の様子を、
弁栄聖者が、大円鏡智でお知りになり
笹本戒浄上人、田中木叉上人に葉書を出された地。

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【善念寺】

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「大正二年六月」に、
京都知恩院での『宗祖の皮随』の御法話に先立つこと、
数年前に、「善念寺」にて、
『宗祖の皮随』の題下に、法然上人の道詠十二首についてのご講話がありました。

そのご講話をきかれ信心歓喜して、
「上人こそが如来のお使い」とその時の実感を吐露されたのは、
波多野諦道上人から、弁栄聖者を預かるように頼まれ、
最初はいやいやながら預かられた丹羽円浄上人でした。

※ 丹羽円浄上人については、以前記事にしましたが、
その後、丹羽上人に関する貴重な逸話を知りましたので、以下、追記します。

丹羽上人は、一切経を読破された「学の人」でもあられたようでしたが、
弁栄聖者のご内証の片鱗を知るに及んで、
自身の学解の至らなさに慚愧し、
念仏三昧にも大変な精進をされたようです。

「弁栄上人は、一宗の枠内に置くべきお上人ではない。
寧ろ世界宗教を止揚し尽くした第一の方である。」


とは、最晩年の丹羽円浄上人の弁栄聖者観。

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○「大正元年より、
もっぱら光明主義の名をもって新法門を弘通するようになられた。」


「・・・かくのごときはこれ精神的光明主義である。
仏陀禅那は光明主義の予言者である。」
大正元年栃木県家中村渡辺厚盛法尼宛の書簡)

と、田中木叉上人は、『日本の光(弁栄上人伝)』に記されています。

また、
「光明会の継承者と言い、その名称と言い、亦組織された教学の発表と言い、
すべてがこの北九州の地で行われたのであった。」


とは、『辨榮聖者』の著者、藤堂恭俊上人のご指摘。

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2016-11-28

福岡県福岡市城南区東油山 「鎮西上人霊蹟と鎮西国師学寮跡」と久留米市御井町「安養寺」


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「油山観音」

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「浄土宗第二祖 鎮西上人霊蹟」

鎮西上人は筑前の国香月の庄(北九州市)の出身で、
寿永2年(1183年)22才のときに
比叡山に登り8年間修学の後帰郷された。

その頃この油山の地は360からの僧坊があり、
九州第一の学問の道場であった。
30才の若さで油山学頭になられると、弟子たちが争ってその門に集まったといわれている。

建久8年(1197年)京都に登り、浄土宗を開かれた法然上人に出会われ、
8年間修行をし、正統を受け継ぎ、
浄土宗第二祖として、元久元年(1204年)43才の秋、
九州に帰り、筑後の国(久留米市)の浄土宗大本山善導寺(国指定重要文化財)をはじめ、
九州、四国、中国の各地に48ヶ寺を建て、大いに念仏の法を弘め、
嘉禎4年(1238年)2月現在の大本山善導寺の地で入滅された。
時に77才。

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入口から、数分ほど登ったところにあります。


「鎮西上人霊蹟」

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顕彰碑の完成は昭和4年で、

題字「鎮西上人霊蹟」は、
当時の知恩院門主 山下現有上人の筆。

裏面の銘文は、望月信亨博士の撰。

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「鎮西国師学寮跡」

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油山展望台から、福岡市街が一望できます。
特に夜景が綺麗のようです。


油山といえば、
本年6月に西化された、田中木叉上人のお弟子の一人、
工藤眞徹上人の油山如来光明園がある地。


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久留米市御井町にある、「安養寺」

浄土宗第二祖鎭西国師(聖光房弁阿弁長上人)による、
建久3年(1192)頃の開山。

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山門には、「鎭西国師千日別時念仏感應道場」の碑があります。

「千日別時念仏」の後に、
筑後の大本山「善導寺」を開山。

起行派として知られる鎮西上人ですが、
千日間の御別時とは、驚嘆です。

鎮西上人は、比叡山で学ばれ、
30才で油山の学頭を務められた程の大秀才でした。

鎮西上人が法然上人に邂逅されたのは、
法然上人65歳、鎮西上人36歳で、
法然上人の下で学ばれたのは、8年間ほど。

師匠と弟子との関係を考える場合、
お互いがいつ出逢われたのか、どのよう学ばれ方をされたのか、
ということは、とても大事なことだと思います。

『醍醐本法然上人伝記』「三昧発得記」には、
法然上人66歳時に、三昧を発得されていたことが記されています。

比叡山で天台教学を学ばれた大秀才鎮西上人が、
学行の円熟期の法然上人に、学行を学ばれたことになります。

『浄土仏教の思想』(講談社)のシリーズには、
『浄土仏教の思想 14 清沢満之 山崎弁栄」(脇本平也 河波昌 著』がありますが、

『浄土仏教の思想 10 弁長 隆寛』(梶村昇 福原隆善 著)には、
梶村氏の、鎮西上人(聖光房弁長)に関するとても興味深い記述があります。

教相判釈(略して教判)には、知的教判信仰的判断があると思われる。
法然、弁長の教判はまさにその後者であることは明らかである。
・・・弁長が法然に師事し、法然の教判を踏襲したのは、理としてのこともあったであろうが、
それよりも三十六年間の眼前の事実による判断があったと思う。」

弁長の『徹選択』で説かれる、

「念仏三昧とは、不離仏、値遇仏の義である。
・・・値遇仏の義とは、・・・刹那片時も仏を遠離すべからず。
喩へば嬰児の母を離れざるが如し。」


「仏を離れざるが故に仏を忘れず、
仏に値遇するが故に常に仏を念ずるなり。」


梶村氏は、弁長のこの論法を評して、

「たしかにこれは念仏の論理ではある。しかし、これは観念の論理ではない。
弁長が千日の別時を行い、四十八日の別時を行ったことと思いあわせると、
これはまさしくかれの体験から得た経験論理と言われるべきものであろう。」

鎮西上人が、三昧発得の聖者であられたことを思いあわせ、
大変興味深い、ご指摘だと感銘を受けました。


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「鎭西国師(聖光上人)御分骨の御廟」

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以下は、鎮西上人のご遷化近くのご様子です。

極楽の聖衆が来迎して空中に満ちている
恵心僧都の来迎讃に”念仏三昧現前す”という句があるが、
この句は肝要である」と看病の弟子に告げ、念仏の功徳を説いた。
それはまったく平常と変わることはなかった。」

今憶念すると、まったくお誓いどおりに実行してきた
善導堂の釈尊の霊像が光を放って私を照らして下さっている。」

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鎮西上人のご生涯も、「結帰一行三昧」のご一生でした。

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2016-10-31

福岡県八女市馬場「天福寺」、”鎮西上人と記主禅師 良忠上人”

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前回、 前々回の記事で取り上げた、
福岡県八女「浄源寺」中川察道上人の記事の際、
どうして、このような田舎の地に何故?
といった感想を漏らしましたが、

後ほどネットで調べ、
無知からの感想であったことを反省することになりました。


福岡県八女市馬場「天福寺」

浄土宗の、
”第三祖 記主禅師 良忠上人”が、
”第二祖 鎮西上人”に出逢われ、お弟子となられました。

良忠上人 三十八歳、鎮西上人 七十五歳。

浄土宗史にとっても、極めて重要なお寺。

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↑ 第二祖 鎮西上人分骨の墓所。

↓ 第三祖 記主禅師 良忠上人

杉田善孝上人がある時、

「鎮西上人は、三昧発得のお方であるだけに、
お言葉が、(わかり易く、しかも、内容が)とてもありがたい。」


一方、

「記主禅師は、頭脳明晰で、文章を拝読すると、
とても頭が整理されます。」


といった内容の御法話をされたことがありました。

これも、杉田上人の印章に残る御法話の一つ。

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2016-10-03

福岡県八女市星野村「浄源寺」、第二十六世 中川察道上人(後篇)


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風情のある、歴史を感じさせる由緒ある茅葺の山門

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山門を通り過ぎると、
直ぐ斜め左前方に、歴代上人のお墓があります。
その一番手前に、中川察道上人のお墓があります。

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「浄源寺」 第二十六世 中川察道上人(1885~1945)
昭和二十年九月二十九日 示寂  世寿六十歳
法名 仁蓮社義誉上人観阿弘徳察道大和尚



前回の記事でも、察道上人の逸話を幾つかご紹介しましたが、
今回も、察道上人に関するその他の逸話をご紹介したいと思います。


○「四十恰好の農夫風の人
醤油で煮しめた様な手拭いを頬冠りして、しきりに雑草を刈っている。
形振り構わぬ上人で、仏前奉仕、子守、蒔取り、庭の手入れ等と、
下男の如く黙黙と働き
其の上、憶念の念仏は申すに及ばず、十数年の間、一心専念、
念仏三昧の実修は驚くべき証人となったのである。」
堺静道上人談

「光明主義より念仏三昧という事に引かれて行った。
すると察道上人が第一線に座し、三昧仏様の御前で木魚を鳴らして
真剣に念仏三昧に入っていられる後姿に寸分の隙がない
剣道で言えば有段者か否名人に近い態度である。
これを見て念仏三昧に何かあると感じた
それから、初めて木魚を打った。」
(大庭伝蔵氏談ー氏は「知る人ぞ知る、念仏に徹した稀に見る妙好人( 菅野真定上人談)」)

※ 剣豪の白井亨が徳本行者と出逢った時の逸話を彷彿とさせます。


次は、「八女光明会」の生み、育ての親ともいうべき、
松延陽氏の察道上人の思い出。

○「亡くなられたお母さんが大層喜んでおられます」

察道上人のお別寺に何回か就かれた時に、上人からかく言われ、
松延氏は、その後、察道上人をご自宅に招かれ、
毎月のように松延家にご法話にお出ましであった
ようです。


ある時、察道上人のご法話がすみ、廊下を歩きながら、
「いつも察道上人のお話しばかりだから、
時には別の上人にお願いしようか」
思った途端
察道上人は、後を振向かれて、
「松延先生、この次はほかの上人をお願いしてあげましょうか」と言われた。
”お見通し”の察道上人に、度肝を抜かれた。


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八女光明会の生み、育ての親、
松延陽氏の菩提寺、「無量壽院」。
「八女光明会」の発足は、昭和十六年とのこと。


実兄の中川弘道上人は、
事務的にも堪能で、説教も大変上手で、
「本山の名高い説教師、機関銃と称えられた能弁家」(中井常次郎氏談)
でしたが、
肉弟の中川察道上人は、大変機根の優れた方でしたが、
最初のうちのご法話の在り様は、

「汚いタオルを片手に握ってお話下手で、
涙ばかり流して、そのタオルで拭いておられました」が、

「中川察道上人は念仏三昧の内容は充分に出来ておられるから、
いっとき辛抱してやってください」

と、 大谷仙界上人が言われるので、お呼びしていました。

それが一年位すると、
”舌爽やかで立て板に水”の様に成られ、
中国、関西、近畿、関東と引張凧に成られ、
お話が大変感情的で特に婦人向きでありました。」(横尾熊彦氏談)

ある時、若手の僧侶が説法がうまくできず、悩んでいたのを見かけ、
「お念仏をしっかり申していれば、そのことを気にすることはない」と。
おそらく、”弁才智を得ておられた”察道上人のことを、
横尾氏は思い出しながら励まされたのではないかと推察いたします。


後年、察道上人は、「熱導師」として、尊崇を集められ、
”生き仏”とさえ囁かれるほどの、大導師となられました。

※「伝道とは饒舌に喋ることではない。
心の内にはたらくものが相手にはたらくこと。
故に弁栄聖者は「伝燈」とも云われた」(田中木叉上人)



○弁栄聖者の御教示を聞かれたある方で、
憶念口称念仏”はとても自分にはできそうもないので、
唯信口称念仏”の道で行こうと思われた方が、
数年後、中川察道上人に再会し、
人格があまりに立派になっていることを目の当たりにし
憶念口称念仏”をすべきであったと後悔されたとのこと。


○「中川察道上人は、以前は大変政治に関心がありましたが、
出世間の三昧が開けた後は、政治に淡泊になられました。」
(杉田善孝上人談)


「将来は在家の方々も伝道する様になるでしょう」
(察道上人の吉松喜久造氏へのご教示)
 


山口県善生寺の熊野宗純上人の後を継がれた、
熊野忠道上人は、中川察道上人の御子息ですが、

「おかしいと人は言うかもしれないが、
私が尊敬する恩師は、
弁栄聖者の弟子である、我が父、中川察道上人です。

と、ご述懐されていました。

これは、特に肉親に対しては、なかなか言えないことと思われますが、
察道上人に関しては、さもありなんと思えます。
察道上人の御霊格の高さに思いを馳せ、感銘深く、記憶に残る逸話。


○「大ミオヤの大慈悲を熱涙もて説き給いしあの御姿、
彷彿として眼前に在し、
深き御内証より湧き出でた御慈教、今尚心耳にひびきます。」


この”察道上人観”は、真に、簡にして要を得ているように思われます。
おそらく、杉田善孝上人によるものかと推察されます。


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第二十七世、第二十八世ご住職のお墓。

「南無阿弥陀仏」の御名号は、察道上人の筆になるものと思われます。


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中川察道上人の筆になる書が、拝見できます。

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『如来光明礼拝儀』もあり、
光明主義の伝統が続いていることが、嬉しく思われました。


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察道上人には、
念仏三昧による霊化の余光として、優れた、書・御道詠が遺っています。
その一部をご紹介したいと思います。

 「察道上人は、特に和歌の勉強はされていないが、
弁栄聖者が御遷化の後、大正十年頃から次々と多くの歌を詠まれています。
書は多少自分で勉強されたようですが、
弁栄聖者に値遇の後、急にいい字を書くようになりました。」
(「浄源寺」檀家の古老談)


○「色もなく香もなき智慧のみ光りは、
色香を添えて子等をまねきつ」

「色もまた」とも伝えられているようです。

この御道詠は、
田中木叉上人が、弁栄聖者の御道詠にあるはずと思われ、
調べられましたが見付けられなかったという逸話が残っている、
察道上人を代表する御道詠


○「なんのかんのとゆふひまおしみ
口のたへ間に南無阿弥陀佛」


○「あくがれて至心不断にいのりなば
いつしか匂ふオヤのうつり香」


○「世のちりにけがれそみにし我衣
しらずも今日は法(のり)のはれぎぬ」


○「朝な夕なおもひこがるゝ雲の上(へ)の
いとなつかしき慈悲のおもかげ」


○「法の水こころのおくにすみぬれば
いつもさやかに照す月影」


○「すみわたる無為泥恒の秋の空
有無をこへたる月ののどけさ」


○「古(いにしえ)に説かれし文(ふみ)と思ひしを
今示される法(のり)の尊さ」


○「御仏に捧げまつれる人の身は
生(せい)をつくして布施の行なり」


○「何時の世にか還来穢国とおもひしに
覚りてみれば今もそのとき」



最後に、
これも、是非ご紹介しておきたい察道上人に関する逸話があります。


○「信仰の進んでいる事を爪の垢ほども出してはいけない。」
これは、笹本戒浄上人の察道上人への真に厳しい戒め

おそらく、察道上人が、大導師として、信者方から尊崇され、人気がうなぎ上り、
”生き仏”とさえ囁かれ始めていた時分かと推察されますが、
察道上人は、「(あの戒めは)とてもこたえた」と、後年洩らされていたようです。
(横尾熊彦氏談)


報身阿弥陀仏に対し、
「この木偶の坊!」
という暴言が思いがけず口を突いて出てきて、
散々苦労されたのが、戒浄上人ご自身でした。

笹本戒浄上人は、とても謙虚な人格者で、しかも、ご霊格も高かったようです。
中村元博士が、
学生時代に戒浄上人に出逢われた時の興味深い逸話
が残っています。

戒浄上人ほど、”慢を戒められた”弁栄聖者の直弟子はいなかったように思われますが、
それは、戒浄上人ご自身が謙虚であられたから、というよりもむしろ、
「信仰上における”慢”の弊害、危険性」を、
戒浄上人が痛いほど熟知されていたからだと推察いたします。

笹本戒浄上人の中川察道上人に対する、
”不動明王的なお慈悲の、頂門の一針”

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2016-09-19

福岡県八女市星野村「浄源寺」、第二十六世 中川察道上人(前篇)


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福岡県の八女と言えば、
”良質なお茶の産地”としても知られていますが、
それにしても、随分と不便なところ、
と思いながら「浄源寺」へと向かいました。


前回記事
にしました、
福岡県糟屋郡篠栗町「珠林寺」の中川弘道上人は、
大正元年に、「浄源寺」の第二十五世として着任され、
大正六年に、肉弟の中川察道上人に住職を譲られ、
「珠林寺」第二十八世住職として就かれました。

弁栄聖者のご高弟の一人、中川察道上人は、
大変機根の優れた方で、
”三昧発得の「筑後の聖者」”として全国的にも知られ、
当時、交通が不便でありながら、関西はもちろん、関東までもご伝道されています。

例えば、以前、記事にしました、
”弁栄聖者遺髪塚”のある栃木県足利市「法玄寺」

更には、宮中にもでむかれ、海外では朝鮮にも伝道されています。


弁栄聖者のご高弟の中でも、特にお悟りの深かった御方としては、
笹本戒浄上人田中木叉上人は、
仏眼が開かれた大菩薩”としても、光明会内ではよく知られ、
特に、戒浄上人には、かなりまとまった全集などが編纂され、
木叉上人にも、『御遺文集』、『御法話聴書』などが遺されており、
写真も幾つも残っており、かなりの程度、人物等もうかがい知ることができます。

ところが、中川察道上人に関しては、
光明会史上においても、かなりの悟境の深さに達しておられ、
優れた、書とご道詠も遺されておられながら、
まとまったご著書等がなく、
昭和二十年にご遷化され、既に七十年以上が経過しておるために、
現在では、光明会内でも、察道上人を御存じの方がほとんどおられない現状、
あまりにも惜しいことであると常々感じておりました。

弁栄聖者ゆかりの九州のお寺参りにあたり、
この機会に、中川察道上人のことも、是非ともご紹介したいと念願しておりました。

今回も資料が少なく、時間が予想以上にかかり、苦労しましたが、
今回の記事が、中川察道上人のことを知り、関心を持たれるご機縁になればと切願しております。


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この茅葺の山門を一目見て、
このお寺は、由緒のあるお寺だと気付きました。

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中川察道上人が御遷化され、既に七十年以上が経過しているため、
察道上人のお墓を見付けるのに時間がかかりそう・・
と覚悟して訪れました。

が、杞憂に過ぎませんでした。

山門を過ぎ、階段を登った、すぐ左側に、歴代御住職のお墓があり、
察道上人のお墓は、
出迎えていただいたかのように、一番手前にあり、
直ぐに出会え、嬉しくもあり、ほっとしました。

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第二十六世 中川察道上人(1885~1945)
昭和二十年九月二十九日 示寂  世寿六十歳
法名 仁蓮社義誉上人観阿弘徳察道大和尚



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※ 察道上人のビリケン頭
仏様の三十二相の一つ、頂髻相(ちょうけいそう)
頭頂部の肉の隆起肉髻(にくけい)を、彷彿とさせます。


察道上人は、大変機根の優れていた御方でしたが、
縁とは、真に不思議なもの。

後には、「筑後の聖者」と云われた察道上人でさえ、
明治四十五年に、筑後善導寺で、初めて、弁栄聖者にお会いになっているのですが、
いまだ機縁熟さず、聖者の篤き信奉者となるには、
その後、数年の時間が必要でした。


察道上人の弁栄聖者の印象が、とても興味深く感じられます。

「(十二光の御法話は)分からないまでも何となく尊く感ぜられ、
じっと御顔を拝する度に
いつもこのお方は善導大師の御再来であるなという様な感じがして、
解らないが有難くて一週間のご講話を承わりました。」

弁栄聖者の印象として、当時、
「法然上人の御再来」と思われた方は、多かったかと思いますが、
「善導大師の御再来」と思われたことに、
察道上人に他の方とは違った何かを感じ、
このことが、何故か、妙に記憶に残っています。


弁栄聖者の御法話を聞かれた察道上人は、
「三昧入神」について疑問をいだき、聖者にお尋ねになりました。

察道上人:「私のようなものも三昧に入る事が出来ましょうか」
弁栄聖者:「出来ます」
察道上人:「それではどの位の時日を要することでありましょうか」
弁栄聖者:「三日間かかります」

聖者の余りに意外なこの御言葉に、吃驚された察道上人のご様子を察し、

「けれどもそれはあなたのみに言うことで、一般にはそんな事を勧めるものではない」
と聖者は、察道上人に念を押されました。

ここで、興味深いことは、
中川察道上人御自身にさえ自覚できていなかったことが、
弁栄聖者には「御見通し」であったことです。
もちろん、聖者の三身四智の仏眼、「大円鏡智と妙観察智」による衆生済度の一例。

その後、弁栄聖者の言われるとおり、
ほどなく、中川察道上人は、出世間の三昧の眼、「慧眼、法眼」が開かれたといわれ、
”三昧発得の「筑後の聖者」”として、全国的に知られるところとなりました。


参考文献:『辨栄上人の思い出』(山崎辨戒編集兼発行 霊鷲山 善光寺発 非売品)


更に、杉田善孝上人の察道上人の想い出も忘れがたく、とても有難いです。

まだ若かりし杉田青年に、
九州の自坊へ伝道に来るようにと、察道上人はお誘いになりました。

その当時、既に、三昧をいただかれ慧眼と法眼が開けており、

「自分の体を触るのと汽車の窓を触るのと同じ感じです。」
と、語られていたほどの御方。

恐縮のあまり、即座に断る杉田青年に、
察道上人は、「思い切っていらっしゃい」とお誘いくだり、
それ以上は断りきれず、杉田青年は察道上人のお寺へ行かれました。

察道上人のお寺に到着しましたが、
かくの如きご境界の御方との出逢いに、
杉田青年のガチガチに緊張していた様子を察し、

察道上人は、杉田青年の傍でごろんと横になって

「長旅で疲れたでしょう。あなたも、遠慮しないで、寝ころぶとよい。」
と言われ、言葉を続けられました。

「弁栄上人の一切の行為を知ってその真似をしようと思っても、
一朝一夕にできるものではない。
だんだんお育てを頂いて、段々と近づいていく。
難思光、無称光、超日月光と徐々にお育てを頂いた暁に、
ようやくあのようになることができるのだ。
だから、無理をすることはない」と。


理想に燃え、熱心な青年に特有の性急さによる、
「理想と修行のギャップに悩む」青年僧への、
先達からの、実にお慈悲に富んだご説法。

この杉田善孝上人の逸話は、
察道上人に関わる逸話の中でも、特別感銘深く、長く記憶に残っています。


この他にも、察道上人の御境界がうかがえる逸話が幾つか伝わっておりますので、
ご紹介いたします。

○「お線香の灰の音がしますよ」

「お線香の灰の音が聞こえる様に成ると相当深い境地だ」
と、笹本戒浄上人は申されたとのこと。
弁栄聖者や、心身の極限の修行ともされる「千日回峰行者」にも似たような逸話があります。


(吉松喜久造氏)「如来様はどんなに拝めますか」
(中川察道上人)「太陽よりもハッキリ拝めます」


九州光明会誌「めぐみ」編集長として長年務められた中川順一氏の若かりし頃のこと。
堺静道上人がお別時を主催され、
その導師であった中川察道上人のすぐ後ろで念仏をしていた時のこと。

「ふと察道上人のお頭(つむ)の後頭部を見ると、
髪の剃り跡もあざやかであったが、
丁度蚕(飼い子)のあがる時の様に透き通って
全身の血がそこへ集まって動いて
如来様のお光明に浄化されているのをまざまざと拝ませていただいた。」


中川順一氏は、察道上人念仏する後ろ姿を拝し
これは只人ではないと感じ光明会への入会を決意されたとのこと。


以下も、是非記しておきたい、
とても感銘深い、堺静道上人の中川察道上人に関する逸話
昭和五年十二月の年末、
察道上人が、直方新入の「長安寺」の大谷仙界上人のお見舞いに行かれた際に、お伴された時のこと。

霜の朝、真紅の太陽が輝き初めた美しい景色。
すると、察道上人は、合掌してこの太陽を拝まれ尊い物に接するかのように十念称名されました。
察道上人は、堺上人を顧みて、
「太陽も如来様ですよ。
又こうして歩いている地上は如来様の中を歩いているのですよ、
よく御念仏精進しますとハッキリ、ハッキリ実証出来ますよ」


○「堺さん、あそこも(長安寺)も野も山も川も皆私の心中ですよ、
自分の心の中に長安寺もあり、あの山もこの田畑もこの遠賀川もあるのですよ」


○「汽車の鎧戸を撫でて他人様がここに触れる、
それを堺さん自分が触れられた感じがしますか、
念仏によって育つと、そう感覚に頂きますよ」



※ 弁栄聖者を彷彿とさせる中川察道上人の逸話
おそらく、弁栄聖者の自内証を意識されていたはずですが、
もちろん、聖者の真似事では決してなく、
大ミオヤの霊育によって悟られてくると、
弁栄聖者の御言葉は、正に仰られたそのまま、そのとおりであった
との実感から発せられた御言葉かと推察されます。(※部分は、筆者)

○「宗教とは、実証なり。」
とは、中川察道上人が、常々仰られていた御言葉とのこと。


次が、堺静道上人の逸話の最後となります。

○「お浄土へ還る日の近い大谷仙界上人がニッコリ笑って、
察道上人に合掌し御十念を乞われ、
察道上人は合掌して仰臥された仙界上人を釈尊の涅槃像でも拝むような敬虔な態度で三礼された。
私は同称十念させて頂くつもりで合掌していたが、
この有様を見てビックリした。
聖者と聖者が互いに心底から尊敬し合って拝み合う真の平和な相を拝ませて頂いた。
実に神々しかった。
察道上人は三昧発得の大徳で在した。」



中川察道上人に関しては、
この他にも、是非ともご紹介したいことがまだ幾つかありますが、
今回は、長くなりましたので、次回にご紹介したいと思います。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2016-09-05

福岡県糟屋郡篠栗町「珠林寺」 第二十八世住職 中川弘道上人


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福岡県糟屋郡篠栗町にある「珠林寺」

前回記事にしました「西林寺」からもほど近い距離にあります。

弁栄聖者ご在世の大正期、
福岡県糟屋郡篠栗町
「西林寺」 橋爪実誠上人と、
「珠林寺」中川弘道上人のご住職当時の妙好人
前者が「荒巻くめ女」 、後者が「西島三十七」氏。

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門前の水路に、鯉が泳いでいたのが、印象的でした。


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  28090406.jpg

九州の光明会にご縁のあるお寺は、
山本空外上人ともご縁があるお寺が多い、
という印象があります。

この書体、空外上人の書ですね。

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中川弘道上人は、
大正元年に、
福岡県八女市星野村、「浄源寺」の第二十五代住職として着任。

大正六年に、
肉弟の中川察道上人に住職を譲られ、
「珠林寺」第二十八世住職に着かれました。

中川弘道上人といえば、
明治四十五年に、
弁栄聖者が筑後善導寺の広安真随僧正にご招待され、
初九州入りされた時、
久留米駅で、聖者に善導寺までのご案内をされた方。

特記すべきは、
大谷仙界上人とともに、
九州光明会の基盤を築かれた方。


更に、光明主義上、極めて重要な役割を果たされました。

光明主義の永遠の課題ともいうべき、
「見仏」を巡る問題提起を、

弁栄聖者ご在世中の最晩年の、
大正八年十二月発行の『みおやのひかり』に、中川弘道上人のご質問が、
大正九年一月発行の『みおやのひかり』に、聖者のご返答が掲載されました。


「私は今夏以来、一意専心御念仏に勇猛精進して来ましたが何等得る所がなく
見仏三昧の境地に進むことが出来ません、
私共の様な鈍機は一生かかっても達する事が出来ないものであると自覚しました。
見仏は一部上根の機に限定せられ万機普益でないと存ぜられます。
・・・何卒本誌上に之の見解の誤りであるか何うかをご教示頂きましたら有難く存じます」

中川弘道上人のご質問は、
念仏修行に邁進される真剣さからの発露で、
念仏修行上、後世の我々大多数の者が煩悶するであろう悩みを代表されたようなご質問で、
弘道上人御一人のご質問とは思えません。


弁栄聖者のご回答は、次の様な内容でした。

「みおやの光に清められたる中川上人よ、
吾人が主張する光明主義の御質疑に対して
安心の大意を陳べて主義を明かさんとす

と前置きをされ、

如来は見と不見とに係らず真正面に在すことを信じて
其照鑑の下に精神指導されつつあることを信ずべきである。
如来の慈悲心は我等が心に入り、我等が信念の心は如来の中に入り、
見と不見とに係らず一心に念仏して如来の慈悲に同化せられんことを要す
尚、号を追て明すべし

と。

詳しい事情はわかりませんが、
その後、この公開質疑に対する弁栄聖者の正式な御回答はなかったようです。

ただし、
極めて重要な御葉書が、
大正九年一月二十一日付で、笹本戒浄上人宛に届きました。

みおやの光の中川弘道氏に対する答は本月のには
只通じて光明主義の安心の要領をのべて
来月の起行の用心として
見仏は本宗の宗とする処結帰する処の見仏にある
ことをのぶることにいたし候」と。

参考文献: 『笹本戒浄上人全集 Ⅰ 起行の用心』


「頂は高く聳え、麓は広く一切を載(の)する富士山のごとく、
三昧証入の頂と、万機普益の麓とに、
いづれの一にも偏せず、二を含んで一に立つ中道に在りて、
随類応機の法輪を転じ
「普遍的に」定と散と利と鈍とのあらゆる機根の「すべてを摂取」するのが、
上人の光明主義であった。
それが伝道の普及とともに導かるる機類が多様となるにしたがって、
ますます鮮やか
になった。」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

「大宗教家」としての弁栄聖者の御精神を、
これ程見事に表現された言葉はないかと思われます。

したがいまして、
弁栄聖者御遷化後に、聖者を学ばんとする私達には、
「簡択」する眼、智慧が、必然的に求められます。


笹本戒浄上人が強調された「直線道」とは、
三身四智の仏眼を体得された弁栄聖者大ミオヤの真相を三昧直観された、
三身即一の大ミオヤの仏身論から、
必然的に導かれた聖者の修道論の真髄を表現
されたもので、
必然的ゆえに、修道論上、「成仏まで、信念の変更を要さない」という意味での、
「直線道」


衆生済度に不可欠な方便智の発露である「応病与薬」、「対機説法」
これらの度生論においては、「直線道」はありえません


「直線道」の定義には、慎重さが求められるように思われます。


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第二十八世住職 中川弘道上人(1881年~1939年)

法名 徳蓮社仁誉上人誠阿転法弘道大和尚

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山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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