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2018-11-08

大乗仏陀、弁栄聖者の真精神の開顕!!!『笹本戒浄上人述 泉虎一記 辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』発刊


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笹本戒浄上人述 泉虎一記『辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』が、
2018年(平成30年)9月に発刊されました。

この書は、 「弁栄教学」上、極めて重要な書であり、
同類の書である、『辨榮聖者 光明主義注解』が、
芦屋聖堂から発刊されていますが、
非常に高価で、とても重く、携帯には不向き。

hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。
一冊二千円(送料別)。

発行編纂者の一人、平澤伸一氏は、
笹本戒浄著『真実の自己』等の発刊者でもあります。
また、平澤氏は在家でありながら、自宅を解放され、
長年に渡り、定期的(毎月一回)に、念仏・勉強会を開催。
現在の光明会には幾つかの系譜がありますが、
平澤氏は、弁栄聖者→笹本戒浄上人→ 杉田善孝上人の系譜。

なお、今回は、巻一であり、
今後、順次、四巻発行の予定とのこと。


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【笹本戒浄上人(1874~1937)】

インド思想、仏教学者の中村元氏が、
弁栄聖者の高弟、笹本戒浄上人に出会った時の逸話。

「近年、弁栄という坊さんがおったが、これが偉かったで・・・」

と、第一高等学校在学当時、
ドイツ語教授が講義の途中に、
心の底から感嘆して語られたことがあり、
そのことが強く印象に残り、
弁栄聖者の『お慈悲のたより』を読まれました。

その後、光明会の本を求め、
田中木叉師のご自宅をお訪ねしました。

中村青年が笹本戒浄上人にうかがった御説法の内容等。

正面にかけて光り照らされている阿弥陀如来の御絵図を指しながら、

「よく阿弥陀さまを見つめてお念仏を唱えなさい。
阿弥陀さまがお姿を現してくださいますよ」
と。

「御説法の詳細は忘れてしまったけれども、
慈悲にみちた、温和で、柔和な笹本戒浄上人のお顔を忘れることができない。
・・・あのような方が、本当の宗教家ではないかと思う。」


「笹本上人に、お目にかかったのは、
その時、たった一度だけ。
それも御法話を伺った時だけ。
しかし、今なお忘れられぬ感銘を残しているのは、
ことばでは一々表現することのできない
御高徳のゆえであろう」

(「私が感銘を受けた宗教家ー戒浄上人の思い出ー」
(『「笹本戒浄上人伝」笹本戒浄上人全集 別巻』)

此処で注目すべきは、
中村元氏が、光明主義の教義内容ではなく、
「笹本戒浄上人の人格」が強く印象付けられたこと
特に、そのことに焦点をあてられている点です。

先ず初めに、中村元氏の笹本戒浄上人の思い出話を引用しましたのは、
中村元氏の記憶に刻印された戒浄上人の印象と、
泉虎一氏記のこの書から受ける戒浄上人の印象とが、
相当に異なっているであろうと懸念されるからです。

また、
この書の元となった電子データ作成者の故小川純氏、
編纂者の平澤氏方々は、
泉虎一氏の謦咳に長年接しておられた方々。

この点は、決定的に重要な点であり、
つまり、泉氏が語る内容とともに、
言外のメッセージ、泉氏の人柄等も伝わっているはずです。


難解な批評家として知られる小林秀雄氏が、
幅広い読者を獲得し続けているのは、
おそらく、小林秀雄講演、講義CD発売による、
小林秀雄氏の肉声を通して、
小林秀雄氏の人間性の一端に触れた影響が極めて大きい

と推察されます。

特に、この書の様な"癖の強い書"の場合には、
特に留意すべきコツのようなものであろうかと思います。

本書の編集後記に、
当時を知るある高弟は
「我々が質問に伺おうとしてもご事情により叶えれない場合があったが、
上人はいかなる時でも泉さんの謁見を断られることがないのに驚いた」
と。

とありますように、
笹本戒浄上人と泉虎一氏とは、そのような深い因縁の間柄。
戒浄上人の直弟子筋の中で、
泉氏は、「弁栄教学の奥義」の伝授を使命と生きられた御方。

また、
その為に、おそらく、意図的に人の心を揺さぶり、
印象付けるような強い言葉を選び、
何ら配慮を混じえず、繰り返し繰り返し、同じ内容のことを語っておられる、
そんな節も感じられなくもありません。

泉氏の口癖は、
「阿頼耶識の奥底から、(念仏により)大掃除をすること。」

なお、
泉氏が戒浄上人に出会われたのは、昭和3年で、
戒浄上人の御遷化は、昭和12年(1937年)でした。

戒浄上人の高弟、杉田善孝上人
ご述懐であったと記憶しますが、
真に興味深い逸話ですのでここに再掲します。

「笹本戒浄上人は、昭和3年(55歳)の頃には、
「仏眼については、
「まだ経験していないが、想像はできる」旨洩らされたが、
昭和4年春には
上記のお言葉は出さぬようになった。
そして、昭和8年から9年にかけて(60歳から61歳)
仏眼について次第に明了に、
昭和10年(62歳)からは
具体的に明了にご説示されるようになった」。

また、
田中木叉上人とご縁の深かった、
吉松喜久造氏が笹本戒浄上人にうかがった言葉。

昭和4年に、笹本戒浄上人が、
「田中木叉先生も仏眼が開かれました。」
と嬉しそうにおっしゃられました。


さて、
前置きが長くなりましたが、本題に入ります。

この書を読解するにあたり、

幾つかの留意点が必要かと思われます。

① "憶念口称念仏のみを直線道"とする根拠は何か。
そもそも、"直線道"とは何か。

② 弁栄聖者の笹本戒浄上人への口伝、
すなわち、"弁栄教学の真精神"の受け止め方。


大別すると、この二つになろうかと思われます。


① "憶念口称念仏のみを直線道"とする根拠は何か。
そもそも、"直線道"とは何か。


本書を読み解く際の最大の躓き、難関は、
笹本戒浄上人が再三強調される"直線道"という言葉だと思われます。

先ず、お断りしておきたいことは、
"直線道"という言葉は、
弁栄聖者の直接的な言葉ではなく、
弁栄聖者の真精神を表す言葉として、
「弁栄聖者から意を汲んでいる」という同意を得られた、
笹本戒浄上人の言葉です。

"直線の対が曲線である"とのイメージが、
我々には先入見として一般にあるため、
曲線道であったとしても、成仏に至る到達時間の相違があるだけで、
「成仏への道には多種多様な方法がある」と捉えがちです。
"直線道と曲線道"をそう捉えますと、
戒浄上人の真意から逸れることになると思われます。

戒浄上人の"直線道"とは、
"それあるのみ""それ以外はありえない"といった、
"唯一無二、絶対中心道"という意味かと推察いたします。

戒浄上人は、この点について分かりやすい喩えで説明されています。

よく仏道修行を山登りに譬えて
どの道から登っても同じ頂上に行ける、と申しますが、
この譬えは正しくありませんな。
世界の有名な高山の中に
途中の八、九合目までは道がいくつもありますが、
そこから頂上までは唯一つしか登る道がない
というのがありますな。
あれが正しい譬えであります。」 
(【〇一七】 曲線道を排して直線道へ (4))


"直線道"とは、"信念の変更を要せず"という意味内容ですが、
更に本質的に最重要なことは、その根拠にあり、
仏身論と不可分の関係にあるという点です。
即ち、"直線道とは、仏身論から必然的に導き出された修道論"。

ただし、
"直線道"とは、
仏道修行における「修道論」においてであり、
衆生済度における「度生論」においてではない。

このことは、十分な留意が必要であるように思われます。

弁栄聖者の御行状
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)は、
この推測を裏付けているように思われます。

「木叉先生はよく
「(弁栄)聖者の皮肉骨髄の髄を承けていられるのは戒浄上人だ。
しかし上人は髄ばかりを説かれる。
もっと応病与薬のご説法をして下さるとよいのだが」
昭和三十年代終わり頃までよく仰言った。」

ところが、

「後には先生は全くこれを口にされる事がなく、
晩年はしきりに上人の熱血溢れる
正法護持と破邪顕正の光明主義二祖としての行履に
随喜活仰せられた。」

(「戒浄上人と田中木叉先生」 (『「笹本戒浄上人伝」笹本戒浄上人全集 別巻』)

木叉上人の御遷化は、昭和49年(1974年)。

田中木叉上人御晩年の頃の逸話として、

「笹本上人が亡くなられ、やがて私も死ぬ。
すると光明会はやがて従来の宗乗の枠内に
引き入れられてしまうかも知れない、
いやきっとそうなる」と。


「それは困ります。そうなった時どうしたらよいのですか。」

すると、木叉上人は、
「また弁栄聖者が出て来て下さいます」と。


「後には先生は全くこれを口にされる事がなく」
との箇所は、若干の留保が必要であるようにも思われますが、
木叉上人は晩年、
"弁栄聖者の髄"が伝わらなくなることを、
大変心配されていたことは確かだと思われます。

衆生済度における方便智が発揮されるのは、
"仏眼"においてであり、
より厳密には、"三身四智の仏眼"においてであると云われています。

現実問題としては、この点に留意すべきかと思われます。

なお、同書にも、笹本戒浄上人が、驚くべきことに、
「先ず禅をして禅の悟りを開くよう勧められた」方があったという、
戒浄上人の衆生済度における対機説法(方便智)が記されています。
ただし、ここで留意すべきは、
禅の悟りの次には、法眼、仏眼へと、
念仏による悟りの深まりへと、
確りとご指南をされている点です。

戒浄上人の印象的な逸話をもう一つご紹介します。

光明主義の信奉者の在家、横山勝郎氏が、
「御顔は戒浄上人の慶運寺の、後光はまん円くはっきりとした」三昧仏様
を描いていただくように、
笹本戒浄上人の御子息の浄光氏に依頼され、
浄光氏が描かれていたところ、
「横山さんのために描くならば、
お顔は少し細面に描くように」

と戒浄上人が注意されました。

これらの逸話からも、
笹本戒浄上人の泉虎一氏への
一見、排他的、偏狭とも思える御教示は、
意図的にそうされたものであったことが推察できます。

"後世に、弁栄聖者の真精神を明確に伝えるため"
と推察いたします。


戒浄上人が再三強調される"直線道"を理解するためには、
弁栄聖者が開顕された"聖者独自の仏身論"を理解することが大前提となります。

【超在一神的汎神の大ミオヤ】

弁栄教学では、
「無量寿経の法蔵比丘の酬因感果の阿弥陀仏
汎神教的の三世諸仏の一仏」と捉らえ、
超在一神的汎神の大ミオヤとは厳密に区別し、
報身ではなく、応身と定義します。

「三身即一の本有法身は絶対、本有無作無始無終の根本仏。
活きた根本仏の同時同態の三方面
である
その体・相・用は皆、絶対で本有無作無始無終。」
したがって、
「如来様の妙色相好身も無生。
衆生の有無、念不念に関せず
本来、如来様に人格的の妙色相好身在しますのが事実。」


肉身と理性を持った我々人間には、
"人格的の妙色相好身"と云われると、
"一定の固定相"しか想像できませんが、
一即一切、事事無礙重々無尽の絶対的現象態、
衆生の信念に応じて、無量の定相を発現される、
絶対無規定、本有無作の霊的御姿(霊相)"


弁栄教学は、通仏教とは根本的に異なります。


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【弁栄聖者(1859年~1920年)】


ごく最近、大変興味深い論考に出会いました。

岩波書店発行『図書』(2018年11月号) 掲載の、

「鈴木大拙と山崎弁栄
ー近代仏教の中の『大乗起信論』 末木文美士」。


おそらく、末木氏が弁栄聖者について公けに触れるのは、
これが初めてではないかと思われます。

この時期に、
「鈴木大拙と山崎弁栄ー近代仏教の中の『大乗起信論』」の論考が、
岩波書店の月刊誌『図書』に掲載されたのは何故か。

この論考の記述等から推察しますと、

〇 山崎弁栄『人生の帰趣』が、
平成30年4月に、岩波書店から刊行。
本書の解説が、 若松英輔氏であること。

若松氏は、末木氏の"死者論"を大変評価され、言及されていること。

〇 安藤礼二著『大拙』が、
平成30年10月に刊行。
雑誌『群像』掲載は、平成28年6月号~平成30年5月号。
安藤氏ならではの詳細な調査等に基づく「鈴木大拙」論。

この書が、末木文美士氏の永年の大拙研究の成果等にも啓発されていること。
また、安藤氏の興味・関心と極めて共鳴度の高い
「鈴木大拙論」、「井筒俊彦論」を展開されている
若松英輔氏の論考とは異なり、
安藤氏の「大拙論」には、"山崎弁栄"との比較考察が無いこと。

ここでは、安藤氏の「大拙論」には深入りできませんので、
次の参考文献をご紹介しておきたいと思います。
安藤氏推奨の「鈴木大拙論」、
グレイス, ステファン P氏による博士論文。
『鈴木大拙の研究
現代「日本」仏教の自己認識とその「西洋」に対する表現』。



〇 大竹晋著『大乗非仏説をこえて
大乗仏教は何のためにあるのか』

が、平成30年8月に刊行され、
末木文美士氏が、推奨文を寄せられていること。

大竹氏は、
この書において、仏教を専門とする学者としては大変珍しく、
弁栄聖者に大いなる関心を寄せられ、
弁栄聖者の文章等を、頻繁に引用、評価をされている
こと。

大竹晋氏は、
筑波大学在学中、竹村牧男氏の元で研鑽を積まれ、
『大乗起信論成立問題の研究
『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク』

を、平成29年11月に刊行。

「本書は、近年いちじるしく進展した、
漢文大蔵経の電子化と、
敦煌出土北朝仏教文献の翻刻出版との二大成果を活用しつつ、
同論が漢文仏教文献からの一種のパッチワークであることを明らかにし、
来中インド人撰述説を斥け、北朝人撰述説を確定する。」

と、千五百年間の『大乗起信論成立問題』にほぼ決着を付けたと評されています。

なお、石井公成氏による書評があります。ご参考までに。
書評 大竹晋 『大乗起信論成立問題の研究
: 『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク』


末木氏が、岩波書店の月刊誌『図書 11月号』の、
「鈴木大拙と山崎弁栄ー近代仏教の中の『大乗起信論』」において、

「起信論』は二世紀頃の馬鳴(アシュヴァゴーシャ)の著とされていて、
・・・大正期に望月信亨によって中国撰述説が主張されて大論争となり、
最近になってようやく中国撰述説で決着しそうである。」と。

これは、 大竹氏の同書を指していることはほぼ間違いありません。


末木文美士氏が、
この時期に、岩波書店の月刊誌『図書 11月号』に、
「鈴木大拙と山崎弁栄ー近代仏教の中の『大乗起信論』」の論考を投稿されたのは、
上述の理由が大きいと推察いたします。

この論考においては具体的に、
末木氏は、
「大我、「宇宙全一の心霊体とも云うべき如来蔵性」を、
「大御親」あるいは「大ミオヤ」とも呼ばれるようになると、
通常の仏教になじんでいる目には、いささか大胆過ぎて面食らう。
もはや『起信論』の枠組みどころか、
常識的な仏教の教学をも超えて、
独自の世界に入っていくことになる。
・・・むしろ仏教を核としながら諸宗教を統合する、
一種のシンクレティズムと見られるであろう。
その点では、大拙以上に大胆である。」


「学術的な枠組みを逸脱して、
一見奇妙な議論を示すところもある」

とされながらも、
「決まった枠組みの中では封印されてしまう
自由な発想が生き生きと展開される可能性も持っている。
・・・今日改めて見直しがなされなければならない。」


と、末木氏は結ばれています。

なお、
「もはや『起信論』の枠組みどころか、
常識的な仏教の教学をも超えて、
独自の世界に入っていくことになる。」

と指摘されていますが、

例えば、
『大乗起信論』ではいまだ未解明であった、
"無明"の発生根拠については、
弁栄聖者に依りますと、
「三身四智の仏眼」において初めて認識可能となる旨仰っられています。

弁栄聖者光明体系の『無量光寿』、『炎王光』等に記されています。


鈴木 大拙著 佐々木 閑訳『大乗仏教概論』の訳者後記において、
佐々木氏は、

「鈴木大拙の『大乗仏教概論』を訳してみて、
私はこの本が、現代において生み出された
新たな大乗経典である と感じるようになった。
・・・だがもし、本書を、仏教学という学問世界の中に含めず、
仏教という宗教の流れに置いてみるなら、
それは『般若経』や『法華経』などの経典と同じレベルに並ぶ
『大拙大乗経』とも呼ぶべき
新たな聖典の誕生を意味している
と思うのである。」と。


一方で、弁栄聖者は、

「私は経文に依って演繹的に説くのではない。
帰納的に説いておる。」
(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)

とは、
「経典に依るのでなく、
御自身の体験せられた如来様の事実※から
帰納的に光明主義の教学体系を組織せられた、
という意味である。」
(笹本戒浄上人のご教示)
※「御自身の体験せられた如来様の事実」とは、
「三身四智の仏眼」の境界における認識。

更に、
「真生同盟」提唱者土屋観道上人に対する弁栄聖者のご教示として、

「キリストが此の世に出て説いたものが新約聖書となって、
それ以前のユダヤ教経典が旧約聖書となったように、
今後の宗教は光明主義経典を以て新約聖書となし、
従来の一切経をもって旧約となすべきである」

と(弁栄上人が)おっしゃったことが、今尚私の心に遺っています。」
「弁栄上人の思い出」『大悲に生きる 観道法話』)


弁栄聖者は、「大乗非仏説」に対し、
「大乗経典とは、
三昧定中における、”永遠の生き通しの大乗仏陀釈尊”による、
出世間の三昧を開かれた聖方への直説法である。」

と、喝破されています。


鈴木大拙氏と弁栄聖者の両者に通底する
この"学術的な枠組みを逸脱した大乗仏教観"
を、
末木氏は、感知されたと推察されます。


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【弁栄聖者(1859年~1920)年】


〇 大竹晋著『大乗非仏説をこえて
大乗仏教は何のためにあるのか』


仏典に精通されている大竹晋氏は、

「われわれは大乗経が仏説であることを論証することは不可能である
と率直に認めなければならない。」


と明言され、

「大乗経が仏説であることは、
推理によっては決して論証されるべきことではなく、
大乗経にもとづいて修行した者たちの悟りの体験によって
自内証("個人的に確証")されるべきことなのである。
悟りを齎す以上、大乗経はいつわりではない。」


その解決策、「体験的大乗仏説論」を提示されています。


「又は大乗非仏説を主張する人に、
上人 「現に飲んで効能のある薬なら、
誰が発見してもよい。大乗非仏説でもよい。
私も大乗非仏説とおもふ。」

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

この箇所を、
大竹氏は、著作に、引用し、次のように解説されています。

"現に修行して悟りを体験できる法なら、
誰が発見されたのでもよい。大乗非仏説でもよい。
わたしも大乗非仏説と思う。"
ー弁栄はそう言い切っている」と。

また、
日本の近世から近代に限られているとはいえ、

「大乗経にもとづいて修行し、
大乗仏教の悟りを体験することに依って、
大乗仏教にみずから安心するに至った真摯な僧侶」

として、

〇 浄土宗・普寂徳門(1707-1781)
〇 真言宗・慈雲飲光(1718-1805)
〇 浄土宗・山崎弁栄(1859-1920)
〇 浄土宗・原 青民(1868-1906)


を挙げています。

「大乗非仏説をこえて」という究極の難題の解決策
を模索するにあたって、
弁栄聖者にかなりの頻度で言及されているのは、
必至であった
と思われます。


② 笹本戒浄上人に対する弁栄聖者の口伝、
すなわち、"弁栄教学の真精神"の受け止め方。

にも関わることですが、

"弁栄教学"は煎じ詰めると、
「大乗ブッダの真精神、つまり、宗教の根源とは何か。」に究極します。


笹本戒浄上人が、
「経典や宗乗、学者が何と言おうが、
弁栄上人が云うことを信じなさい」

と極言されているのは、
妄信、偏狭さの類では勿論なく、
実は大変合理的判断に基づくものであり、

「大乗非仏説」という事実が念頭にあったためと推察します。

更に、戒浄上人は、
「原始経典、大乗経典等、文字で記された文献によって、
釈尊の真精神を判別することは出来ない。」

といった御教示さえされています。

したがって、
笹本戒浄上人に対する弁栄聖者の口伝、
すなわち、"弁栄教学の真精神"を、
仏教諸経典等を根拠にして"釈尊の真精神"として、
論証することは不可能。

この弁栄聖者の口伝(弁栄教学の真精神)は、
唯々、弁栄聖者、笹本戒浄上人を信じ、
"釈尊の真精神"であると信ずるという域を出ない。
自身が"仏陀の悟り"を得るまでは。


ただし、このことは、
全ての信仰において、究極的にはそうとしかありえず、
平等、対等の前提
です。


大竹氏は、
「大乗仏教の本質は、歴史的ブッダへの回帰ではなく、
仏伝的ブッダの模倣(まねび)である。」

「仏伝的ブッダの模倣(まねび)とは、
具体的には、仏伝的ブッダと同じように福徳を積んでブッダとなること。」
と明言され、

「大乗仏教のアイデンティティーは、
歴史的ブッダの教えと異なるにせよ、
歴史的ブッダの教えを超える高貴な人間性こそが、
大乗仏教の最大の特質
なのである。」とさえ定義されています。

更に、
「大乗仏教のブッダの加護を得た体験」、
すなわち、「見仏体験」
に関して、

浄土宗の山崎弁栄、真言宗の金山穆韶(ぼくしょう)、曹洞宗の木村霊山尼
の「見仏体験」にふれ、

このような大乗仏教のブッダが
どのような仕組みによって現れるのかはわからないが、
大乗経にもとづいて福徳を積んだ者たちの前に
このような大乗仏教のブッダが現れるという事実を否定することはできない。

福徳を積まない者は
このような体験を愚かな大乗の妄想にすぎないと言うかもしれないが、
筆者としては、福徳を積まない者が言うことよりも、
弁栄、穆韶、霊山尼のように
福徳を積んだ者たちが言うことのほうがはるかに信じられる。」
と。

これは、
精緻に、実証的に経典研究されている学者の言葉としては、極めて異例。
大乗仏教と真摯に向き合う者の信仰告白

大変、感銘を受けました。

なお、
光明主義の弁栄聖者、真言宗の金山穆韶(ぼくしょう)師は共に、
法身を人格的に仰いでいることは、
注目すべきかと思われます。


弁栄聖者、笹本戒浄上人への信とは、
念仏実践、弁栄教学の研究、比較宗教学的研究等は、
当然の前提としましても、
究極には、
正に、この大乗仏教のブッダの加護による「見仏体験」、
その宗教体験により福徳を得た、
"仏のような人"弁栄聖者、
"福徳が備わった大菩薩"笹本戒浄上人、
その"霊徳"に対する信
に極まります。

なお、
公のブログで公表することに躊躇するものがありますが、
大変貴重な逸話ですので、
先ほど引用しました横山勝郎氏によります
戒浄上人のもう一つの逸話を記します。

「昭和一桁の時代に拝聴した御法話
戒浄上人はかく申されました。
「太陽系には地球以外に衆生はおらぬ」と。」


その他の若干の補足としまして、

普寂に関しては、力作があり、
〇 西村玲著『近世仏教思想の独創 僧侶普寂の思想と実践』

また、
「原青民氏と弁栄聖者」との関係については、
ここでは深入りしませんが、
大竹氏は、
青民の悟りと禅の悟りを、
最古の禅文献における禅の初祖、菩提達磨、
白隠禅師の言葉と対比させ考察されています。

光明主義においては、
禅で云われる悟りは、念仏の内に自ずと開かれてくる境界

と捉えています。

この点については、
弁栄聖者、笹本戒浄上人、田中木叉上人にとっては、
当然の事実として、
おそらくご自身の宗教体験、比較思想・文献研究等を通して、
一貫して説かれていた方が、東洋大学名誉教授、
「一般財団法人 光明会」の元上首
「光明園」前園主、
「山崎弁栄記念館」初代理事長の
河波定昌師。

以前一般に公開されていた河波師の講演録ですが、
真に残念ながら、
随分以前のもので、河波氏がご逝去されたため、
削除されてしまったようです。

それは、大変貴重な講演録であり、
信仰上、学問上においても、大変な遺産の損失と思われますので、
ご紹介させていただきます。

ただし、
リンクは既に削除されているため、
全文をここに記しますと大変長くなり、
文章の構成上煩雑になり、読みにくくなると思われます。
単独の記事にすべき程の大変貴重な講義録ではありますが、
今回は、文末に記します。
是非、お読み頂きたく存じます。

『念仏と空-大乗仏教の本質(第16期スクーリング)
2003年6月 6日 第16期開講式特別講義
河波昌 東大仏青でのご講義から』



大竹氏は、
「大乗非仏説」の前提に立つことにより、
浄土真宗系と日蓮宗系には甚大な影響がある
とされていますが、

浄土真宗の僧侶による、
とても興味深い論文がありますのでご紹介します。

〇 田中和夫博士論文『親鸞の念仏思想と見仏体験』


また、近著においては、
〇 平岡聡著『浄土思想入門 古代インドから現代日本まで』
があり、特に、
第八章 近代以降の浄土教家
  (一)浄土宗系──山崎弁栄・椎尾弁匡
終 章 浄土教が浄土教であるために

には、弁栄聖者の意義に言及されています。


なお、
現代においては、
データの電子化、情報の公開、知的財産としての共有化は、必至であります。
弁栄聖者の御遺稿集、十二光体系等が、PDF化され、
岐阜光明会のHPで公開されており、
また、
「弁栄上人百回忌記念事業」の一環として、
金田昭教氏を中心に、
弁栄聖者関連の資料等の調査、電子化、公開等が進められています。
平成30年11月に、
「山崎弁栄上人讃仰会」により、
「念仏三昧の聖者 山崎弁栄上人」のHPが開設。


最後に自戒を込めて、
笹本戒浄上人の遺言とも受け取れる言葉を引用します。

「見仏が成仏の唯一の直線道で、実に釈尊の真精神である、というのは
実に弁栄上人様の真精神で光明主義の生命とするところでありますから、
弁栄上人様の光明主義を信奉する私共と致しましては、
弁栄上人の真精神を述べなければならない場合には
何のためらうことなく、
見仏が成仏の唯一の直線道で実に釈尊、弁栄上人の真精神である、
といわなければなりません。」

「しかし、他の信念を持っていらしゃるお方に対して
少しでも不遜な態度をとるようなことがあってはなりません。」




【河波昌師の講演録】

『念仏と空-大乗仏教の本質(第16期スクーリング)
2003年6月 6日 第16期開講式特別講義
河波昌 東大仏青でのご講義から』


仏塔崇拝から大乗仏教へ
仏像造られた念仏行法も

大乗仏教とは何かという問題をこれから 「念仏と空」と題して追求していきます。
実は大乗仏教の根幹を語るにはこの言葉でもう尽きていると思います。

普通、念仏といいますと、浄土宗とか浄土真宗、
ですから法然上人とか親鸞聖人の教えの中核をなすものです。
ところが 「空」 と申しますと、全然違いまして、
例えば禅宗などで、「空」 を説く経典は、『般若心経』なんかがその代表的なものです。
特に日本仏教は宗派仏教で、浄土宗は浄土宗、禅宗は禅宗と縦割りで説きますから、
お念仏はお念仏で、 「空」 は 「空」 ということになっていきます。
ですが、お念仏の中に般若波羅蜜の悟りが開いてこなければ、大乗仏教ではありません。
また、般若波羅蜜と 「空」の実践の中にお念仏が出てこなければ、それも嘘だと思います。
そういう二つの関係に論究しながら、
改めて大乗仏教とは何かという問題の本質をついていきたいと思います。

簡単に申しますと、
念仏が 「空」の世界を開き、
「空」 の世界が、またお念仏の世界を開いていった。

この二つは表裏一体のもので、一つのものです。
それがある段階で、二つに分かれていったんです。
これは大乗仏教にとっての悲劇で、
結果として大乗仏教の本質が見えなくなった
と断言してもいいくらいです。

大乗仏教はいつごろ起こってきたかという問題ですが、
大体、紀元前一世紀の後半だと考えてください。
それで最初の大乗仏教の経典は何かといいますと、
サンスクリットの経典の中に『八千頌般若経』というお経がありまして、
これが大乗仏教の出発点になります。
このお経の中に初めて「大乗」という言葉が登場します。
「マハーヤーナ」 という言葉です。
それ以前はなかった言葉ですからこの経典こそいわば大乗仏教宣言の書と言ってもいいです。
それから「空」という言葉が、また初めて出てくるんです。
ですからこの二つの言葉をもって、
この『八千頌般若経』というお経が大乗仏教の最初の経典ということになりました。
それからもう一つ、
漢訳に『小品般若経』というお経がございます。
これはほぼ『八千頌般若経』が漢文に訳された形です。
だからこの辺を押さえていきますと、大乗仏教の一番の原型が出てくるわけです。

「空」という言葉がどうして出てきたかが問題になります。
これは案外はっきりしているようで、はっきりしていないんです。
非常に難しい問題ですが、
大乗仏教が起こってくる一つのエレメント、契機として仏塔崇拝があります。
私は恐らくそれが関係していると思います。

仏塔崇拝が始まる前の仏教はどういう仏教かといいますと、僧院仏教なんです。
僧院の中にこもって、専門のお坊さんたちが難しい勉強をやる。
倶舎論などで、 阿毘達磨といいまして、
お釈迦様が説かれた法というもので分析していくんです。
でもそんな分析をしたって、一般大衆には関係ないですよね。
何百年間か、僧院仏教が続きますけれども、
一般大衆とは全く無関係だったとは言えませんが、
大体無関係なところで、今でいえば 「象牙の塔」です。
一般大衆はそんな難しいことはわからないけれども、
お釈迦様が亡くなられて、もちろんもう灰になって、どこにもおわしまさないけれども、
何とはなしにお釈迦様の本当の命というものが在すはずだという方向へ向いていきます。
歴史的な仏様はなくなっても、仏様の命は永遠だという思想が、一般大衆に出てきます。
それを一つの人格として拝むことができる、それが仏塔です。
ストゥーパと言いますが、仏塔と申しますのは、
実はお釈迦様の舎利、お骨が祀られているところです。
お骨が祀られているところにお釈迦様がましますというのは皆さんでもそうですね。
亡くなったご先祖様はもうわからないけれど、
例えば亡くなったお父様のお墓に参ると、
何とはなしにやっぱりお父さんと出会えそうな気になります。
仏塔崇拝を通して初めて、
目には見えないけれども人格的な如来様、
そこではまだ阿弥陀様という言葉はまだ出てきませんが、
お釈迦様とそこで出会う。
ストゥーパに参り、そこで一生懸命祈りを捧げる。
これはもう自然の情だと思います。
そういうわけで、一般大衆を中心にして、ストゥーパ即ち仏塔崇拝が起こってまいります。
これは僧院仏教とは一応別なもので、
ここで僧院仏教と一般大衆の仏教という、
質の異なる大きな二つの流れが出来始めたということが言えると思います。

仏塔への想念の集中ということは、
これはもう、実は念仏のことです。

お釈迦様は数百年前に亡くなったけれども、
お釈迦様の命が仏塔のところに現前している、そういう存在観念です。
そこで祈りが深まっていくことになります。
そして仏塔に即して仏様を拝むときに、「空」 になっている、
そういうお経の文章が 『華厳経』 などに出てきます。
これは後になってから出来た経典ですけれども、
それはまさに、その本質をついているわけです。

やがて仏像というものがギリシャから入ってきます。
それはどういうことかと言いますと、
アレキサンダー大王がインドにやってきたのは、紀元前三二七年です。
間もなく特にインドの西北部はギリシャ文化の支配下に置かれました。
そこを支配するのは、ギリシャの王様です。
当然、貨幣が必要です。
その表側はギリシャ語で書かれているんです。
裏側はカローシュティー文字といった、その当時のインドの言語が刻まれています。
貨幣の次元まで、ギリシャ語とインドの言葉が一つになっているということは、よくよくのことです。
少々の人数のギリシャ人だけでしたら、そんな必要はないのですが、
大人数のギリシャ人が本当にインドに入ってきて、
もちろん学問のレベルでもそうですが、生活のレベルでもコンタクトをし始めますと、
全面的に両者の文化の出合いが起こってきます。

ギリシャ人というのは、神像をつくるわけです。
例えばアポロンの神様で在す神像。
その神像のところにアポロンの神様が現に在す。
そういうのがギリシャ人の考え方です。
神様ご自身は目に見えないといえば目に見えないわけですが、
ギリシャ人は、神様は必ず目に見える形であらわれてくる
という、そういう文化です。
日本人は、神様の像を伝統的にあんまり重視しませんでした。
もちろん、仏教の影響を受けて神様の神像がどんどん出来てきますけれど、
本来は神道というのは、拝むときに神様という形がないんです。
西行法師の歌ですが、
「何事のおわしますかは知らねども、
ただありがたさに涙こぼるる」そういう歌があります。
「何事のおわしますかは知らねども」、
神様の名前もわからない。お姿もはっきりしない。
でも何かありがたくてしようがない。
こんなのを西洋人が聞いたら、変に思うでしょうね。
わけのわからないものに出会って、感激して涙を流している。
日本人って一体何だと思うかもしれませんが (笑)、
ギリシャ人ははっきりした形をつくって、その神像に対して拝むわけです。

インド人にもその習慣がありませんでした。
形あるもの (色) は壊れるという考え方があるんです。
形あるものは壊れるから、そんなものが仏様であったら困るのです。
だからインド人は決して仏様の像をつくらなかった。
そこにさきほどのようなギリシャ人がやってきて、
インド仏教に出合い、 無数のギリシャ人が仏教徒になっていきます。
そして肝心なのは、 出家するギリシャ人たちさえもが出てくるんです。
ギリシャのお坊さんです。
ギリシャ人が仏教を信仰するとどうなるかというと、仏様を拝むときに、
アポロン神像を拝んでいたようにやっぱり仏像を拝むようになるんです。
ギリシャ的なやり方で仏様を拝むようになります。
それが念仏三昧になっていきます。

すなわち、
仏塔崇拝から仏像崇拝へと転換していくその過程で、
念仏三昧という行法が一層明確に確立していきます。
そしてそれが一貫して現在まで続いているわけです。

法然上人でも専修念仏といってお念仏ばかりされていたわけです。
そしてそれは
二千年にもわたる一貫して行じられてきた念仏三昧の実践ともなっていたわけです。
後に禅とかができるもっと原始的な段階での念仏三昧でもあります。

ところでギリシャ人はどんな仏様を拝んでいたのでしょうね。
結局、アポロンの神様を拝んでいるのです。
アポロン仏という、アポロンの形をした仏様です。
「それはアポロンの神様じゃないか」 と言っても、
ご本人は、「いや、 それはあくまでお釈迦様だ」と言います。
これはもうしようがないんです。
自分たちの顔に似せて、仏様をつくるしかないのです。
それは宿命的でさえあります。
けれども、そういう形で、実は念仏三昧という行法が出てきたのです。

念仏こそ実践の原点

大乗仏教は紀元前一世紀の後半にできましたけれども、
突然出てきたわけではなくて、
まだ「空」とか 「大乗」という言葉を使う以前の段階で、
実は大乗仏教というのは始まっていたんです。
紀元前一世紀の前半で、「原始大乗仏教」という言葉を使います。
そこでは「大乗」 とか、「空」という言葉は使わないけれども、
既に大乗仏教的な雰囲気が漂っていたというんです。

『三品経』 というお経がありますけれど、これは実は現在ではもうありません。
『三品経』 というお経そのものは、早い時点でなくなっていたのですが、
三品とは何かといいますと、懺悔、 勧請、そしてもう一つは随喜ということです。
大乗仏教が起こってからもこの三つの要素は、展開されていくことになるのですが、
三品という言葉ができた段階では、まだ大乗仏教ではありません。
大乗仏教が起こってくる以前に、こういう行法があったのです。
一般の信者の人たちも、仏様の前に、まだ仏像はできていませんから
仏塔・ストゥーパの前で懺悔して勧請して随喜していたのです。
随喜というのは、例えば他人の喜びを自分が喜ぶ、仏様の功徳を我が事のように喜ぶ。
これはなんでもないようですが、やがて般若波羅蜜の実践へと展開していきます。
随喜というのは、対立がなくなっていくのです。
相手がいいことをすると、一緒になって喜ぶ。
隣に倉が建つと、こちらに腹が立つということではなくて、ともに喜ぶということです。
随喜の功徳は、そのご本人よりもすぐれるという言葉が 『般若経』 に出てきます。
例えば百万円を寄付するでしょう。
それを喜びますと、百万円を寄付したよりももっと功徳が大きいというので、
貧乏人の我々にとってはありがたい修行ということになります。
そういうことでそこで対立が超えられ、 般若波羅蜜の実践になっていきます。

仏塔の前で仏様に対して祈りを捧げていきますと、
仏様の不思議な力が私の中に入ってくる。
これは後になりますと加持という形でさらに展開していきます。
加持というのは、祈りの中で、何か不思議な力が加わってくることです。
加持といいますと、真言宗の専売特許のようですけれども、
紀元前一世紀からもう始まっていたのです。

そういう懺悔、 勧請、 随喜を通して、
一般の大衆は、おのずとお念仏の世界に入っていたんです。
それは、法をアカデミズムの中で分析するのではなくて、
実践を通して既に大乗仏教の世界、すなわち念仏の中に入っていたと思います。
むしろ、そういう大きな実践の中で、すでに大乗仏教というものができております。
それは大乗仏教以前の大乗仏教であって、
如来様が現実にましまして、それとかかわっていくということです。
念仏というのは、 そういうことです。
そういうものを土台にして、
やがてはっきりとした形で大乗仏教の修行が確立していきます。

それが 「般舟三昧」 です。

それと大月氏国という国があって、
それを背景に大乗仏教が広がっていくわけです。
「般舟」って、どういうことかといいますと、
サンスクリットで「プラティウトパンナ」、仏前現立、という意味です。
プラティとは、現前に相対して、あるいは、近くに、という意味です。
「ウットパンナ」は現前する、あるいは現前に立ちたもうということ。
訳すときは、「仏現前立三昧」と訳されたりもする。
いろんな訳があります。

これも如来様に心を集中していくということです。
それが大乗仏教の実践の原点となります。

本当に生きた仏様に出会うなんていうのはできない相談ですが、
でも、そこに仏様がいらっしゃるという気持ちが大切なんです。
『般舟三昧経』 というのは、そういう経典です。
文字だけを考えていますと、難しそうですけれども、私たちに非常に身近です。

仏様は我々を超越した方ですが、時間空間を超えた仏様としてある。
それがそこに現前するということです。
その構造も一貫しています。

例えばずっと後半になって、『観無量寿経』というお経ができてきますが、
宇宙全体が仏様で満ち満ちてましますけれども、
そんな宇宙全体を包含する仏様なんて、我々はとらえどころがないですよね。
でもそうでなくて、

宇宙を包含する仏様は今、ここに現前する。

これなら私たちも分かりますね。
それで大乗仏教の多くの経典に貫通しています。

例えば『華厳経』 というお経があります。
「仏身は法界に充満する」、大宇宙全体が仏様の御心である、あるいは御体である。
それが今、私の前に現前するという考え方ですね。
『華厳経』 は大乗仏教の中心的な経典ですが、
大乗仏教というのは、どの経典も、言葉は違ってもその繰り返しばかりです。
「仏身は法界に充満し」、もう宇宙全体が阿弥陀様に充たされてということです。
そして 「あまねく一切の群生」、 私たち衆生のことです。
一切群生というと、何か他人のことに思いますが、実は私たち一人一人の問題です。
一切群生の前にあらわれているということです。
ただ漠然と神様、仏様を拝んでいても、心が集中しないでしょう。

それが仏塔へ、さらには仏像へと転換していくのです。
これが、大乗仏教が展開していく、一つの決定的な要因となります。

現在は日本のお寺のどこに行っても、仏像があります。
それは飾りのようにさえなっていますが、
そこへ我々の心が集中していくということで、
それを「般舟三昧」といいます。
そうすると仏様が拝めてくる、仏様が見えてくる、あるいは顕現するという。
これは大乗仏教、特に初期の大乗仏教の決定的な契機となりました。

見仏ということ、
生きた如来様にお会いできるようになる、
そういうことです。

ところで、仏様を拝めるようになると、「空」の世界が開けてくるというのです。
『般舟三昧経』を読みますと、三昧を得ると 「空」 であることを知る。
そこから 「空三昧」 とか、「空定」 という言葉が出てきます。
大乗仏教の原初的段階で成立したお念仏を説く経典の中に、
最初から「空」 が出てくる
のです。
これが非常に大切なのです。

「空」 は一体どこから来たかといいますと、
実は念仏三昧の中から出てきたのです。

お経をずっと拝見していきますと、
ストゥーパ塔を拝んでいると「空」になっていくと言う人もありますが、
より積極的に、仏様の姿に心を集中していくときに、そこに「空」が経験されてくる。
「空三昧」が開けてくる。
この三昧を得れば、「空定」なることを得る、とか言われ、

念仏と 「空」 とがセットになっている。
ここが非常に大事です。

例えば 『般若心経』 というお経があります。
これはたくさんの訳がありますが、
一番最初に訳したのは、 鳩摩羅什三蔵 (くまらじゅうさんぞう) という方です。
それからもう一人は玄奘三蔵です。

二人の訳は最初が違っています。

鳩摩羅什訳「観世音菩薩」で、
玄奘訳「観自在菩薩」です。
だからこの菩薩様は全然違う人だと思うでしょう。

ところが、サンスクリットの原典からいえば、全く同じなのです。

元々の原語は 「アヴァローキテー・シュヴァラ」と言います。
これをアヴァローキタ、で切りますと、玄奘訳です。
イーシュヴァラというのは「自在」 という意味です。
アヴァローキタは「観」です。英語のルック(look)と似ているんです。
もともと英語もサンスクリットも、 もとは一つですから。
この 「イー」 を切り離した「シュヴァラ」 ですと、音です。
だから「観音」、鳩摩羅什の「観世音菩薩」 となります。
ですから 「観自在菩薩」 は 「空」 を説くし、
「観世音菩薩」は念仏を説くと決まっているようですけれども、
『般若心経』 に関していえば、
両方とも 「空」 を説いているのですが、
「観世音菩薩」という方は、そもそも念仏をしていた人なんです。
「観世音菩薩」が念仏をする主体でありながら、「空」 の主体であるということです。
それは例えば、中国に入っても全く同じです。
『般若経』 (これは無数の経典から出来ている)というと
「空」 しか説いていないと思われがちですが、
実は念仏ばかり説いていると言えるほどです。
また見仏ということを説いているので、
例えばサンスクリットの 『八千頌般若経』 を読んでみますと、
「空」 を悟って般若波羅蜜が実現していくと、
「十方一切の諸仏を見たてまつる」 という言葉が出てきます。
「般若空」 を体験すると仏様が見えてくるというのです。
我々には見えませんね。我々はエゴイズムが壁のごとくありますから。

その我々のエゴイズムから空へと解放されてきますと、
そこに仏様が見えてくる。
当然のことですね。

また 『般舟三昧経』 は、
三昧を得れば仏様とお会いし、
「見仏」するときには、そこで空が悟られていく。


だから一見、念仏と空は別々に思えますが、
実は表裏一体で、 一つのものです。

そこで、インド大乗仏教が中国に入ってきて、
そこからやがて禅というものができていきます。

縁起の構造下で実践を

インド大乗仏教は中国に入ってきて、
その一つとして禅が成立していきますが、
最初は禅宗なんて無いのです。

禅宗のお坊さんもみんなお念仏をしていたのです。

禅宗史でははじめの六人の祖師方が出て参ります。
その最初が達磨さんで、さらにその第四祖に道信という人がいました
禅宗はこの人から歴史的にはっきりと押さえることができるのですが、

実を言えば、この道信という方も念仏をして悟っていったのです。

中国の初期禅宗の歴史を調べる上で決定的に重要なものに、
楞伽師資記』 という本があります。
そこには、道信は一行三昧によって悟っていったということが書かれています。

一行三昧というのはどういう経典にあるかといいますと、
『文殊般若経』 という短い経典で、『七百頌般若経』とも言われたりもしますが、
それを読んでみますと、やっぱり念仏三昧が述べられているんです。
般舟三昧そのものです。
一行三昧 ekavyuha-samadhi というのは、
玄奘の訳によりますと一相荘厳三昧
すなわち如来のお姿に集中するということです。
そうすると、忽然として 「空」 の世界が開けてきたと書かれています。
姿も何もなくなっていくのです。

だからこの「空」という悟りが出てくる背景に、
やっぱり念仏がある
ということになります。

そして念仏ということは、
実は縁起の構造に基づいているということです。

皆さんは、 自分があって自分が仏様を念じていると思うでしょう。
自分の心があって、その自分の心が仏様を念じていると思うでしょう。
そう考えたら、マルクスに観念論だといって徹底的に批判されます。
でもそうではないですね。

念仏とは、
どこまでも仏様と私とが縁起の構造に立っての上でのこと です。

仏教は縁起だといいます。
でも縁起を考えるときに、
普通はまるで縁起を見る視点が切れたところで縁起を見ていますから、縁起にならないんです。

縁起とはどういうことかというと、
「これあるがゆえに、かれあり」でしょう。
また「彼あるがゆえに、 此れあり」 でしょう。
それが縁起の構造です。
英語で訳せば interdependence、 お互いが相手によって出てくるということです。
ただ一方的に出てくるのでは、 縁起ではありません。
圧倒的に存在して、 我々を支配するキリスト教の神様とは違います。
しかも 「これあるがゆえに、 かれあり」 という縁起の構造を考えるときに、
私がここにいて客観的に縁起を考察している間は、縁起にならないのです。
自分は固定して、ああだこうだ、というのは学問の世界です。
縁起とはそんなものではない。
そういう立場に立った途端に、 縁起という構造は消えてしまいます。
今の学問は全部そうです。

お念仏というのは、
私と仏とがましまし、その両者の縁起の構造に立つことをいいます。

そのことは、『般舟三昧経』という大乗仏教の最初の経典でもはっきり説いているんです。

「仏を縁ずることに心を向ける」。

仏を縁ずるということは、
仏を対象的にいろいろ考えるのではなくって、
自分を、仏を縁ずるという状況に置くということです。
最初は自分がお念仏をしている。自分が念仏をしていると思っている。
しかし本当はそうしているうちにいつのまにか縁起の構造に入っていくんです。
本来はそうなのですから。

それで道信という人は、
お念仏をしていると一切皆空になっていくということが、
『楞伽師資記』には書いてあります。
それからまた、こうも言っているんです。

「心を離れて別に仏あることなく、
仏を離れて別に心あることなし」。


お念仏が集中していきますと、 根源的な縁起の目覚めという状況になります。
私たちも念仏をするときは、心が働いています。
心を離れて別に仏様がいらっしゃるわけではない。
また念仏ですから仏様を念じているんですが、
「仏を離れて別に心あることなし」。
お念仏をしているうちに、いつのまにか仏様と私とが縁起の構造の中にあることになる。
そうして縁起の構造の中にあることで、実体としての自分がなくなっていることにもなる。
ただ 「空」 だ 「無」 だと言うのではなくて、

むしろ念仏のただ中で、「空」 の世界が開けていくということです。

私の古い友人で、 最初の 『般若経』 の 『八千頌般若経』 がどうしてできたかを追求している人がいます。
京大の仏教学出身の方で、 そこでしか考えようがないと論じていました。
すなわち如来を讃嘆し、 如来様と一体化し、 そして瞑想し、
そして法?していった人たちの中に、 般若波羅蜜の世界ができていった。

最古の般若経典である『八千頌般若経』 (漢訳では 『小品般若経』)というのは、
そこからできていったと言っています。

『八千頌般若経』 ができたのは紀元前一世紀頃です。
その後無数の 『般若経』 ができるんです。
『大品般若経』 『大般若経』 『文殊般若経』、それから何とか般若経、 何々般若経。
そして最後に『般若心経』 ができるのは、紀元四百年ころです。
ですから我々は、 最後の最後の 『般若経』 を読んでいるわけですが、

その最後の最後の 『般若経』 のしかも 「空」 のところだけを読んでいるから、
一見したところ念仏がないんです。

極端に簡略化されていますので念仏が出てこないのです。
でもずっと読んでみると、
本当は念仏の中の「空」 の世界なのです。

「空」 を離れて念仏はなく、念仏を離れて「空」 はない。

そこの処がわかるんです。
念仏を省略して 「空」 だけを説いているのが 『般若心経』 ですが、

四百数十年の『般若経』 の歴史を知らないものですから、
念仏と 『般若心経』 の空とは別々だと思っているんです。
しかし本当はお念仏をしている中に般若波羅蜜の世界が開けていくのです。

それからまた玄奘訳では「行深般若波羅蜜多時」とあって、
「般若波羅蜜多」が目的格になっているでしょう。
観自在菩薩が般若波羅蜜を行じたもうというところの漢訳では、目的格になっています。
ところがサンスクリット経典ではそうなっていないんです。

甚深なる般若波羅蜜の中で、
般若波羅蜜に包まれてその中で行ずる、

というのです。

サンスクリットには格が八つあり、場所の格 (於格) というのがあります。

それを玄奘三蔵がこの於格のところを目的格に解釈したために、
般若波羅蜜と空の実践とが分かれてしまった。
これは大問題です。

「心を離れて別に仏あることなく、仏を離れて別に心あることなし」。
これはまた縁起の構造でしょう。

ところが第四祖道信から心と仏とのこの二つが分かれていくんです。

「心を離れて別に仏あることなし」 と言っているから、
心が大切だということで心の面に集中していったのが禅宗です。

これに対して
「仏を離れて別に心あることなし」。これは念仏です。
仏を離れて別に心があるわけではないと言っているのに、
浄土宗の人たちにとっては、心がどこかに行っちゃったんです。

しかしこれは両方とも片手落ちです。

やっぱりお念仏をしているときに、
仏との縁起の関わりにおいて
我々自身の心が限りなく開けてくるところがあります。

西田幾多郎や京都大学の哲学科の人たち (京都学派) の多く
やはり禅宗的な傾向が強いので、
心のほうへ重点が行って、仏様がどこか浮き上がっていくんです。

逆に、「仏を離れて別に心あることなし」 と言われているのに、
浄土宗あるいは浄土真宗の人は、心の問題がどこかへ行ってしまい、
死んだら極楽へ行くということばかり言う。

道信という方は、 六世紀の終わりから七世紀にかけて、
ちょうど中国に禅宗ができるころにお出になって、
最初は念仏をして、 「空」 の悟りを開かれたけれども、
一旦、 「空」 の世界が開かれてきますと、
そこで 「空」 というか、心の立場が強調されていって、
他のほうが消えていきます。


禅宗と浄土宗との分岐点は、 私は道信にあったと思います。

それから禅宗と浄土宗とが分かれていく。
日本に来てもやっぱりそうです。

ここでもう一度、縁起という仏教の根源的な地平に戻って、
そこで考えることが必要です。


日本の仏教は宗派仏教といって、
浄土宗だ、真宗だ、禅宗だ、その宗派の中だけしか考えることができないでしょう。

どうしても部分的になって、全体が見えなくなっていきます。

そういう問題が、わかっている人はわかっているんですけれど......。

大乗仏教という一つの大きなつながりの中で、
一番肝心な問題が消えていきます。


『般若心経』 で「空」だ「空」 だと言って唱えることは大事ですけれども、

念仏によって、その「空」が体得されて、
その人の上に空が働き出してこないといけない。


お念仏をしていますと、般若波羅蜜の世界が開けていく。
また、「空」 の実践をしている中でお念仏が出てくる。
二つは一見、表面的に違うようですが、一つの事柄です。
お念仏をして「空」の世界が開けてきますと、解放されていくんです。
そのときに、実は皆さん一人ひとりが観自在菩薩になっていくわけです。
自在というのは解放という意味です。一人ひとりが解放されていく。
観自在菩薩というどこかに一人の特殊な偉い人がいて、
般若波羅蜜を行じていると書かれていますけれども、

本当は皆さん一人ひとりが観自在菩薩になっていって、
初めて大乗仏教になっていく
のです。
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テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-10-13

「徳本行者の修行地を巡って」~弁栄教学等からの考察


 【誕生院】
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徳本行者は、幼き頃から道心深く、
誕生寺裏には、行者が幼少時に念仏した洞穴があります。

また、誕生寺には、『徳本行者絵伝』が残っており、
時々、絵解きも行われています。

徳本行者の伝記等は、
福田行誡編著『徳本行者伝』の他にも幾つかありますが、
今回も、定番のこの福田行誡編著『徳本行者伝』を中心に記していきたいと思います。

『徳本行者伝』は、現代人の目からは、
不可解さ、怪しさ、不信さえいだきかねない内容
も結構あると思われます。

今回は、弁栄聖者の行状、弁栄教学等と対比させて考察いたします。
この書の読解の一助になれば幸いです。

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 【往生寺】
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27歳の時、
大円大徳について得度、徳本と称す。

往生寺再建等のため、
大円大徳と共に、勧請等に精を出される。

その二年後、大円大徳逝去。

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 【月照寺】
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福田行誡編著『徳本行者伝』では、「月正寺」と表記。

徳本行者16歳の時に、
住持大良和尚について別時念仏、併せて水行も修す。

16歳~18歳頃、
廻国行者に「一枚起請文」を付属さる。

ここに既に、徳本行者の生涯に決定的な影響を与えた、
「一枚起請文」とのご縁が結ばれます。

ただし、徳本行者の行状等をおっていきますと、
"浄土宗捨世派"の系譜には収まりきらない実態
が徳本行者にはあるように思えてなりません。

徳本行者のご生誕地である紀州和歌山。
熊野詣でで、古来から全国的に知られる熊野三山、
高野聖の活躍した高野山もある、
そういった様々な宗教的風土の濃厚な地域
それらの地域性も十分考慮する必要があるように思われます。

28歳の時、
住持大良和尚と共に、念仏修行を修す。
徳本行者は、
昼は、「月照寺」付近の丸山を巡り念仏、夜は、堂内礼拝。
一日炒麦一合。30日間修す。

「何事も一道を貫通せんと思はんものは、
艱難苦行を経て練磨を重ねざれば
其妙処に到るものにあらず、
何事も初めはかたき事に思へども
漸くにしておのづから平易の場にいたるものなり」


と徳本行者は、この頃、人に語っておられます。

ここにて、千津川・須ヶ谷の苦行を発願。

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「月照寺」から数百m程行った山中に、
「徳本行者の初行の洞窟」があります。

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この辺りから、周囲の雰囲気が変わってきます。

ここは、
熊野古道、熊野神社、那智大社、高野山のある紀州和歌山。

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この場所にさしかかった時、
不思議な、妙な気分に襲われました。

「deja vu」、既視感!とでも云いましょうか?

何処かで、見たような光景・・・
あっ、そうだ!
弁栄聖者が二十代の半ば頃に籠って修行された、
”三昧発得の修行地”、茨城県「筑波山」!

古来から、
「西の富士、東の筑波」と並び称されてきた霊山。


「芝増上寺(時の東部管長)行誡和上は、
かねてこの青年沙門日頃の行持を聞き伝えて、
「東から名僧がでる」
とよくいっておられた」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

福田行誡上人にとって、
西の名僧が、徳本行者なら、
東の名僧は、弁栄聖者
であった、
のかもしれません。

※ 福田行誡上人と弁栄聖者には、 50歳程の開きがあり、
徳本行者と福田行誡上人も同様、50歳程の開きがありました。

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弁栄聖者、「浄土宗捨世派」、「木食」僧が、
籠って修行されたと伝えられる岩屋、洞窟等に実際に行ってみて、
ほぼ確信できた事実があります。

それは、籠られた修行地である、
「岩屋、洞窟等の近くには、湧水がある。」
という共通点です。

"肉体"といった「生理的制約」を持った人間には、
水は不可欠だからでありましょう。

また、例えば、 信州唐沢山阿弥陀寺に参詣されれば、
「霊山と云われる山中の湧き水には、何処か神秘性がある」
と自ずと感得される
かと思われます。

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【徳本行者初行洞窟】
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弁栄聖者の三昧発得の修行地、
筑波山の「立身石」、女体山の「護摩壇の岩屋」を彷彿とさせます。

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ここ数年の実地調査、文献等から、

弁栄聖者御遺稿の学問的研究書ともいうべき、
山本空外上人編『辨栄上人書簡集』において、

「その夏筑波山入山、
立身・北斗両石上各一ヶ月の三昧証入となり」と。

弁栄聖者の筑波山中での御修行場所を、
「立身・北斗両石上」とされた断定表記は、
後世に誤解を生む
と確信するに至り、
ここに信憑性のある推定を改めて記します。

弁栄聖者の篤信家、吉松喜久造氏は、
聖者の筑波山での御修行地について調査された結果、
次の如くに、結論されました。

「聖者が最初、男体山で寝泊り、雨宿りなさったのは、
男体山岩屋で、二、三人は入れる位のほら穴で、
立身石より約百米位下にある。
聖者は日中は人目を避けて男体山岩屋で念仏し、
登山者が帰ったあとで、百米上の立身石上の巌上で
一心専念に念仏三昧をされたという。
この岩屋から更に約百米位下に、
水の湧き出る御海(みうみ)が位置し、
この湧き水にて聖者は炊事をして居られたと伝えられる。

この立身石での御修行のあと一か月間は、
女体山岩屋、北斗石、護摩壇石付近かと推定される」。


弁栄聖者の筑波山での御修行場所を明確には断定できかねますが、
現時点では、吉松氏の説が最も信憑性が高い。


なお、徳本行者、「木食」僧、弁栄聖者においても、

「長期間籠られた「窟屋」は、
人里から全く閉ざされた山奥ではない。」


このことは、
肉体を持った人間、他者の存在を不可欠とする人間、
そうした「様々な心身の制約のある人間」の修行法を考察する場合、
決して見落とせない視点かと思われます。


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【尊光寺】
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「上人堂」とも呼ばれ、
徳本の水行跡に、その遺徳を偲んで建立したお寺。

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29歳時、
ここ、千津川落合谷にて、苦行6年間に及ぶ。

避穀断塩のうえ、近くの落合川で水垢離をとり、
五体投地高唱念仏の荒行を修す。

この「避穀断塩」の実施には、逸話あり。

徳本行者が修行中、この地に、
増上寺学侶が訪ねて来て、
「昔弾誓、澄禅の両大徳は木食草衣にて、
久しく山居修行されたとのこと。
行者の修行はこれに非常に似ている。」
と。
「我もその志しである」と徳本行者は答えられ、
それより、この「木食行」を行われた。
※ ちなみに、 「木食」とは、「木喰」の誤りではなく、修行方法。
一般には、「木喰」といえば、
木喰行道(木喰五行、木喰明満)上人を指すことが多いです。

なお、平成30年は、木喰生誕300年にあたり、
平成30年10月21日まで
山梨県身延町の「なかとみ現代工芸美術館」で、
「生誕三百年 木喰展 ~故郷に還る、微笑み。~」が開催中です。


福田行誡編著『徳本行者伝』には、

「避穀断塩の苦行は山居巌棲の際(あいだ)、
事の煩はしさを省くの方便なるのみ。」

と記されていますが、

この「木食」行の五穀断ち修行には、
"修行上における生理学的効用"といった観点からも、
考察する必要があるかと思われます。


後に、徳本行者は、弾誓・澄禅両上人の遺跡巡礼をされます。

徳本行者の行状等を考察する場合、
弾誓上人について知ることが不可欠
かと思われます。

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「徳本行者水行座石」

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光明会の『如来光明礼拝儀』が置かれています。

「上人堂」にある木魚。

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寺内にある「書継ぎ名号石」にまつわる逸話は、
よく知られた徳本行者の霊験譚の一つ。

村民が病難を防ぐため、村に名号塔を置こうと、
村の河原で探しましたが、
その石に疵があったのでそのままにしておいたところ、
ある朝、石屋の表にその石が置かれていました。
石屋は近くの寺の法師に名号を書いてもらい、南無の二字を彫刻。
今度はその石が、自分を慕って飛んできたことを聞いて、
この石に十念を授け、残りの「阿弥陀仏」を、
「書き継がれた」とのこと。

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この現象を見聞した村人達が、不思議がっていたところ、

「凡夫の極楽に往生するは、
石のおのずから飛び来るよりも不思議なり」

と徳本行者は仰られました。

真偽のほどは、暫く置くとしまして、

これと似た御教示は、弁栄聖者にもあります。

「宗教家は奇蹟を現わさなくてはつまりません。
釈尊のお弟子でも多くの人が
釈尊の教理に服して入道したのではなく、
釈尊の奇蹟に驚嘆してお弟子になっております。」

また、
「予言ができるとか、病気がなおるとか、
そんな奇蹟がなんの価値がありましょう。
凡夫が仏になる。
これほど大きい奇蹟がまたとありましょう。」

※ 熊野好月氏への御教示には、「水の上を歩く」ことも含む。

と 、(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)に、
木叉上人は、慧眼にも、併記されています。

"宗教者徳本行者の衆生済度の在り方"を考察する場合に、
不可欠な両つの観点。



笹本戒浄上人は、より具体的に、

「私共凡夫は、
神変不思議を目のあたり見せられますと驚いて、
その神変不思議に興味を感じ、
仏道修行上最も大切な成仏という事を忘れて仕舞います。

成仏とは涅槃と菩提とを完全円満に成就する事であります。
そしてその為には如来様の御力を信じ、
お慕い申して如来様に同化されて
完全円満な霊的人格を成就しなければなりません。
衆生済度の目的は実に其処に向かわせる事にあります。

ですからうかつに相手かまわず神変不思議を見せますと
必ずといってよい程仏道修行の道から脱線して仕舞います。

然し又、神変不思議を現ずる必要のあるものには時期を逸せず、
御力を発揮して見せるという事もできなくてはなりません。

弁栄上人様はそのような御心を以って
私共を成仏へとお導き下さいました。」と。


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【水垢離の行場】
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広懺悔誦して水垢離、五千~一万の礼拝。
寒風肌刺し全身ひびあかぎれ松皮の如し。
礼拝のたびに鮮血ほとばしる
までなりましたが、

かつて人に語りては、
「仏道修行は一旦艱難をしのぐが大事なり、
三ヶ年の後にいたりては、
いかなる難行の場にいたりても、
一身痛悩する程の事はなきものなり」

と、いよいよ修行に励まれました。

人目には荒行そのものでしたが、
徳本行者御自身の意識とは違っていたかもしれません。
仏の御加護(他力)の致す処と推察いたします。

その後、ある無言にて別行の折、
激しい下痢をされ、
或いは赤く或いは黄のものを多く下し、
十二三日過ぎて平癒。
その後、一しほ身のかろき事を覚えた」
と。

ここで、注目すべき点は、
身体の変容過程です。

修行とは、一般的に心、精神、魂の浄化と捉えられがちですが、
身体の浄化も必然的に伴うものである
ことは、通常、見落とされがちかもしれません。

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ここ、千津川周辺での約6ケ年に及ぶ苦行の後、
弾誓上人ゆかりの京都古知谷の阿弥陀寺に参詣された時、

「此ころまでは
頭髪肩にたれ錫杖を突きたるさまを見て、
弾誓上人の再来なるべし
など土人(ところのひと)は申合ひけり。」


徳本行者の修行形態、風貌等は、
奉行所からも怪しまれ、増上寺から弁明書を幾度か提出されています。

徳本行者は、「浄土宗捨世派」に属し、
生涯法然上人の「一枚起請文」を以て、
自行他化の鏡
とされたとは、通説ですが、
どうも腑に落ちないところがあります。

確かに、形式は、南無阿弥陀仏の高唱念仏ですが、
念仏の内容については、検証の余地があるように思われます。


ここで、徳本行者が尊崇された弾誓上人にふれておきたいと思います。

弾誓上人に関しては、
資料が著しく少なく、文献のみによる研究はかなり困難であると思われます。

『徳本行者全集』代表編者戸松啓真氏の論文、
「近世浄土宗における捨世派の成立
ー 称念と以八と弾誓について ー」

(『大正大学研究紀要 仏教学部・文学部 72号 1986.10』)に、

「近年信濃の宮島潤子氏が弾誓の遺跡ならびに遺品の調査をして、
弾誓にふれ「木食上人弾誓の生涯と思想」、「弾誓と徳本」の論作で
弾誓を広い立場から考察し
単に捨世派の人師としてみるだけではなく、
円空に先行する木食上人、作仏聖遊行聖
としても考えられることを述べ、
思想的には、天台系融通念仏、
さらに真言覚鑁の密教思想の影響
などについても
資料をあげて述べられている問題提起の力作である。」
注目されています。

「弾誓研究」といえば、
宮島潤子氏、五来重氏の研究を以て嚆矢とし、
不勉強の誹りを招きかねませんが、
現在のところ、
両人の研究成果を凌駕する著作、論文等にお目にかかれておりません。

特に、宮島潤子氏の「弾誓研究」姿勢、
力作『万治石仏の謎』等に通底しているのは、
いわゆる"研究者"のそれではなく、
弾誓上人への敬愛の情に基づく、
弾誓上人(人と思想)に肉薄せんとするその篤き情熱。

大きな感銘と感動さえ覚えます。

伊藤唯真氏は、
『五来重著作集第十巻 木食遊行聖の宗教活動と系譜』
解説「五来「ひじり」学のフロンティアー木食遊行聖の世界ー」において、

「木食聖の研究においては、
地元研究者の協力が何より必要である」


と期待を寄せられています。

弾誓上人との関係においていえば、管見では、
円空上人の郷土史研究家として知られる、
『[修験僧] 円空 研究成果と課題』の著者、
岐阜県美並村の池田勇次氏も挙げられるかと思われます。

郷土史研究家でもある、
「弾誓、木食研究者」宮島潤子氏と
「円空研究者」池田勇次氏両人の
弾誓上人への共通の関心事は、
「弾誓自筆譜脈」「宝冠の弥陀の弾誓」に象徴される、

「阿弥陀如来即大日如来、即身成仏という信仰」
にあります。

弾誓上人は、佐渡でのご修行中、
弥陀から直説法を給はれました。

「一夜清朗にして岩窟特に寂莫たれば
心もいとど澄みわたりて念仏もっとも勇猛なり。
その時岩窟変じて報土と成れり。
教主弥陀如来、大身を現じて微妙の法を説給ふ。

大日如来釈迦如来及び一切諸菩薩衆、
星のごとく列りて虚空界に充満せり。
時に弥陀尊、直に上人に授記して
十方西清王法国光明正弾誓阿弥陀仏と呼びたまふ。
その説法を書記して弾誓経と名く
説法既に終る時、
観音大士手づから白蓮所乗の仏頭をもって上人に授け給ふ。
是伝法の印璽なり。」
(『弾誓上人絵詞伝』)

弾誓上人が念仏により即身成仏を果たしたとされた時に、
大日如来と阿弥陀如来が共に描かれている点が、
真に興味深い点です。

弁栄聖者は、自内証の上から、
「大日と弥陀」及び「弥陀と久遠実成の仏」(法華経)」を、
同体異名
と明言されています。

また、
「弁栄聖者の光明体系の構想にあたり、
真言密教のある経典から示唆を受けた」
とも。
(弁栄聖者から藤本浄本上人への御教示)


弾誓上人に関する文献は、とても少なく、
特に、上述の宮島潤子、五来重両氏の文献は必読かと思われます。

○ 宮島潤子著『信濃の聖と木食行者』
〇 宮島潤子著『万治石仏の謎』
〇 宮島潤子著『謎の石仏ー作仏聖の足跡ー』

〇 五来重著 『五来重著作集第十巻 木食遊行聖の宗教活動と系譜』

〇 鈴木昭英著『越後・佐渡の山岳修験 修験道歴史民俗論集.3巻』

他にも次の方々の著作等も参考になります。


〇 西海賢二著『漂泊の聖たち―箱根周辺の木食僧』
〇 西海賢二著『江戸の漂泊聖たち』
〇 吉田幸平著『弾誓譚―ある修験僧の生涯』
〇 池田勇次著『[修験僧] 円空 研究成果と課題』
〇 「佐渡の木食上人」(田中圭一先生講演録 第八集)
〇 田中圭一著『地蔵の島・木食の島』(私家本)
〇 「41 それは佐渡から始まった
ー木食弾誓とその後継者たちー(1)」
(佐渡出身の方のブログ「石仏散歩」)



一方、徳本行者は、
平生のお言葉に、
我れ念仏する時は即ち阿弥陀仏なり。
説法する時は即ち釈迦なり、
とぞのたまひける。
聖道門にはかかる伝へもあれど、
浄土宗にてはかくまでには申さぬぞ教限なるべきを、
師の自得し玉へるさまおのづから経論の至理に符合せるを、
其まま仰せられし
もいとめずらしくなむ。」

と、増上寺法主の福田行誡上人は、
幾分懐疑的にも記されています。

「師の自得し玉へるさま
おのづから経論の至理に符合せる」


とは、真に、意味深長な表記。


「私は経文に依って演繹的に説くのではない。
帰納的に説いておる」

(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)

「経典に依るのでなく、
御自身の体験せられた如来様の事実※から
帰納的に光明主義の教学体系を組織せられた、
という意味である。」(笹本戒浄上人のご教示)

※「御自身の体験せられた如来様の事実」とは、
「三身四智の仏眼」の境界における認識。

更に、
「真生同盟」提唱者土屋観道上人への弁栄聖者のご教示として、

「キリストが此の世に出て説いたものが新約聖書となって、
それ以前のユダヤ教経典が旧約聖書となったように、
今後の宗教は光明主義経典を以て新約聖書となし、
従来の一切経をもって旧約となすべきである」

と(弁栄上人が)おっしゃったことが、今尚私の心に遺っています。」
「弁栄上人の思い出」『大悲に生きる 観道法話』)


徳本行者の御道詠には、
法然上人の御道詠同様、
浄土宗の伝統的な宗乗の枠を超えた
徳本行者の自内証が吐露されたお歌が幾つもあります。


〇 「口先で唯心己心をいふたとて
知らねば仏は十万奥土」


〇 「一心に南無阿弥陀仏をいふ時は
我が阿弥陀か阿弥陀が我か」


〇 「本地あらわす南無阿弥陀仏
いつも替らぬもとの姿を」


〇 「徳本は南無阿弥陀仏の異名にて
帰りて見れば主なりけり」



弁栄聖者の「仏々相念の讃」には、

「人仏牟尼は一向に 本仏弥陀を憶念し
本仏弥陀の霊徳は 牟尼の身意に顕現す
入我我入は神秘にて 三密正に冥合し
甚深不思議の感応は 是れ斯教の秘奥なり」

斯教とは、弁栄聖者提唱の光明主義


ここで、ふと思い出した逸話があります。

杉田善孝上人から、
この聖者の「仏々相念の讃」を聞かれた 数学者の岡潔博士

(岡潔博士) 「成仏しても他仏を拝むのですか?」
(杉田上人) 「はい、成仏しても、本仏大ミオヤを拝みます。」


一般に、浄土教において、
「真実の自己」とは、あまり耳にしませんが、
「真実の自己」の認識にも浅深があると云われています。

「 『臨済録』は、慧眼で体大法身と合一した時の如来の大我。
『瑜伽論』は、仏眼で体大法身と合一した時の如来の大我。
『光明主義』は、
三身四智の仏眼で法身の中心である絶対の報身と合一して、
その体大法身の最も深い部分、
法身の最も重要な面と合一した時の如来の大我。」

(『笹本戒浄上人全集 中巻』)


「我といふは絶対無限の大我なる
無量光寿の如来なりけり」(弁栄聖者)


「この我は真我のことで、
弁栄聖者の真精神の御教示では、
真我には、
"絶対の報身の最高最深の
いつも変わらぬあり通しの永遠の生命"と
"法身の粋である絶対の報身"の二義がある。」

戒浄上人は仰せられた。
(『「笹本戒浄上人伝」笹本戒浄上人全集 別巻』)


「絶対の報身が真実の自己でありながら、
お慕い申すと無限にお育て下さる。
故に唯一独尊の報身をお念じ申し、
お慕い申さざるを得ない。」

(『辨榮聖者 光明主義注解』)

弁栄聖者が三昧直観された、
釈尊、最晩年の善導大師、法然上人、徳本行者が、
外部には漏らされずに、
三昧証入され、示寂
された、
三身四智の仏眼の境界。
弁栄聖者の真精神、
"平等と差別に偏しない絶対中心の中道の念仏"。



 【西法寺】
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【須ヶ谷山 岩室山】
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それほど急な道ではありませんが、
麓から頂上までは、徒歩で二十分~三十分ほど登っていきます。
結構しんどいですから、
小型の車で、可能な限り登って行かれ、
そこから徒歩で行かれるることをお勧めします。

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徳本行者の弟子の尼僧、
「本名、本勇の墓」。

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徳本行者の或る尼僧救済に関する逸話。

「= 尼の色欲 =」(岡本鳳堂著『改訂再販 徳本行者』)によります。

徳本行者の弟子である尼が念仏修行中に、
色欲が頭をもたげ、念仏に集中できずに悩みに悩み、
とうとう意を決し、恥を忍んで師である徳本行者に相談されました。

徳本行者は、黙ってお聞きになり、
憐みのお顔をなさって、

「膝を、開きなされ。」といわれました。

よりによって師である徳本行者の前、
女の身、そんな恥ずかしことはできない。
ところが、徳本行者はしずかにお待ちになっています。
羞恥心と緊張のため膝が硬くなり、思うようになりません。
それでも徳本行者は威厳を整えお待ちになっています。
やっとのことで少し膝を開げることができました。
その時、徳本行者が、力のこもった「お十念」を授けられると、
電気のようにビリビリと肉体を走りました。
その後、尼には、再び色欲が起こりませんでした。


善導大師は言うに及ばず、
法然上人、弁栄聖者においても、
とでも想像出来ない生々しい徳本行者の御教化。

法然上人には、『一百四十五箇条問答』がありますが、
それはあくまで、言葉による問答。

弁栄聖者は、いわゆる"清僧"でありましたが、
私達が思い描きがちの"聖人"とは違っておりました。

笹本戒浄上人によりますと、

「 慧眼、法眼が開けた、三昧中に如来様を拝んだ。と申しましても、
温かい人間味の欠けた、
浮世の酸いも甘いも噛み分けないような三昧は雑念
であります。
弁栄上人は一生独身でいらっしゃいましたが、
夫婦の愛情の機微にも通じた
本当に人間味も豊かな大慈悲の聖者
でござんした。」
(笹本戒浄上人述 泉虎一記
『辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』)


また、杉田善孝上人は、
「弁栄聖者は、仲睦まじい夫婦関係の機微を、
大円鏡智によって、御存じでした。」

と、御教示されたことがありました。

なお、
(笹本戒浄上人述 泉虎一記
『辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』)は、
2018年(平成30年)9月に発刊
されました。

hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。
一冊二千円(送料別)。

この書は、「弁栄教学」の上からも極めて重要な書であり、
同じく極めて重要な書である
(『辨榮聖者 光明主義注解』)は、芦屋聖堂から発刊されていますが、
非常に高価で、とても重く、携帯には不向きです。


平澤伸一氏は、
笹本戒浄著『真実の自己』等の発刊者でもあります。
また、平澤氏は在家でありながら、自宅を解放され、
長年に渡り、定期的(毎月一回)に、念仏・勉強会を開催。
現在の光明会には幾つかの系譜がありますが、
平澤氏は、弁栄聖者→笹本戒浄上人→ 杉田善孝上人の系譜。

 
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同じく「蜜柑の産地」ということもありましょうか、
ふと、愛媛松山と似た風景を思い出しました。

この辺りの地域で、
徳本行者は、害虫退治のため、
また、古戦場の亡霊のための念仏廻向をされました。

もちろん、弁栄聖者も亡霊のための念仏廻向をされました。

なお、念仏廻向に関してですが、
田中木叉上人は、その働き方を、

〇 生者 → 死者
〇 生者 → 生者
〇 死者 → 生者
〇 死者 → 死者


と四通りに分けて御教示されています。


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『徳本行者行場跡』

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【徳本行者直筆之碑】
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「修行中における魔境」について、
徳本行者は次の如く御述懐されています。

「勇猛につとむるころは内外に魔鏡きそひ起りて、
こわいなるかな宿業にかと
身の毛もよだつばかり覚ゆる事屢ばなり、
この時更に心を動ぜずして
深く三宝に護念をこひ奉りて
いよいよ専心に勤修おこたる事なければ、
魔境次第に消滅してやがて安穏の場に至るなり。

さればすべての事一際の越えがたく忍び難き処にいたる時、
みずから励しいよいよつとむれば、
後々は任運にすすむものなりとぞ語られける。」



弁栄聖者も徳本行者同様の御教示があり、

「魔事といひ業相といひ、
三昧修養の不調より惹起すべき心的現象なり。」

(「三昧と魔事」『弁栄聖者光明体系 無対光』)
( 書籍はこちらで、 PDF版はこちら)

と喝破されております。

徳本行者の同郷紀州の明恵上人にも、
同様の御教示があります。


杉田善孝上人は、
「修行における魔境について」
次の如く御教示されています。

「如来様のお慈悲にもたれかかる修行をすると、
業相に耐える力がついた後に業相が出る、
というようにさせて頂く。
そうでないと、はじめから業相が出る、
または修行成就しかかると
自分の弱点に業相が出て修行が止まる、
というように魔境が起こる。」
と。

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だいぶ長くなりましたが、
もうしばしお願いいたします。


或人が「口先ばかりにて唱える念仏は益なし」
と言ったのを耳にされた徳本行者は、

「そな言ひそ。
人間にても業障深きものは決して念仏は申されず、
今口先ばかりにても念仏の申さるる人は
宿縁開発の人なりとぞの玉ひける。」


〇 「口先であみだ仏々いへばよい
心なくして言はれるものか」(徳本行者)


弁栄聖者は、
「米粒名号」を善巧方便として授け
られました。

「口があっても念仏が口に唱えられない。
米粒に書かれた南無阿弥陀仏を読み、口に出す、
その一言が仏縁となって、如来様のお救いにあずかる」
と。

また、
徳本行者の粉挽唄の一部に、

「極楽に望みなくとも南無あみだ仏
うわの空でも申しておきやれ
弥陀の大悲で三途におちぬ
遂にけまんにみちびくぞ
けまんつくれば浄土に往生」


「三生果遂の願」。

「一心にお念仏しておれば、
三代生れ変る間に必ず親様のお世継になれます。
これは事実でございます。
私は決してうそは申しません。」
(笹本戒浄上人の御教示)



小金の東漸寺、檀林寺院の貫首宣契大和尚が、
徳本行者自身の日課念仏の数を尋ねたのに対し、
「念々不捨に念仏昼夜しばしも間断なければ
日課を定むることなし」
と。

「念々不捨とは申せども
一食の間もなお間断あり、
況んや上人は平生念仏の御いとま、
説法に力を用ひ給うことなれば、
無間修の名は如何にや」
と重ねて問うと、

徳本行者は居住まいをあらためられ、
「吾は四才の時より無間修の行者なり。
たとへ聖徳太子には及ばずとも
念仏説法の両途を一時に勤むるに
何の難きことかあらん。
大和尚には未だ念仏の数の足らぬより、
かかる疑ひの生じ給えるなり」
と。
大和尚はその時、
徳本行者が実地の修行者であることに感服


弁栄聖者は人に念仏を勧めるのに、
ご自身では念仏を熱心に称えているようには見えない
のを、
率直に意見した信者に対し、

「弁栄は、昔は一日十万遍、
血尿が混じるほど念仏を称えたが、
今の方がよほど念仏している。
・・・行住座伏、寝息に至るまで念仏となっていた。」


また、
徳本行者には、病気平癒の念仏「服薬名号」の授与といった、
現世利益的側面があったことも、
当時"生き仏"として崇められた要因として、見逃せない点。

もっとも、"現世利益"には、多種多様な意味合いがあります。

ただし、医学、科学が現代ほど発達、普及もしておらず、
また、自然災害の影響が現代以上に甚大であった、
という江戸時代の状況も考慮する必要があると思われます。

弁栄聖者は、
「念仏に現世利益があるのは、当然である。」

とご自身の念仏体験上から、
当たり前の事実として、身近の者に漏らされたことがありました。

「産気づいた妊婦が、弁栄聖者の米粒名号を呑んだ後、
しばらくしてから生まれてきた赤ちゃんが、
聖者の米粒名号を握って生まれてきた。」


これは、明治、大正期の話。
何とも不可思議な現象ですが、このようなことが結構あったそうです。


福田行誡編著『徳本行者伝』に記されている、

〇 「内心慢心をいだき、徳本行者を見下しながら、
会いに来た者の心中を見抜き、度肝を抜かしたこと。」


〇 「翌日会いに来る者とその者の未来を予告されたこと。」


弁栄聖者においても、
この種の話は、日常茶飯事でした。

特に印象的な弁栄聖者随行者による逸話を一つ。

「笹本戒浄上人と田中木叉上人のお二人は、
弁栄聖者に面談される時、聖者のお部屋に入られず、
次の間で聖者に礼拝され、何も言わずに帰られました。


不思議に思い、その理由を木叉上人に聞かれましたが、
笑ってお答えになりませんでした※ので、
(※ おそらく、その理由を言っても信じてもらえないからと推察されます)
戒浄上人にお尋ねになると、
「覚者は、口に出して質問をしなくとも、
相手の質問をちゃんと分かっている。
口に出して質問せねば相手の考えていることが分からぬようでは、
覚者とは言えぬ。」と。


弁栄聖者の
三身四智の仏眼に依る大円鏡智の働き。

ただし、ここで、留意すべき大事な点があり、

「仏の完全な大円鏡智は、
特別に意志を働かさなくても、
肉眼といつも同一時に活動している。
認識的一切智を実現していられる仏は
大円鏡智で宇宙の一切を任運自在に感じていられる。

ただし、「宇宙の一切のこと」と申しても、それは、

成仏の中心道を直進する上で核心となり急所となるもの、
自行化他の道において尊く価値のあるもの、
一切の衆生を中心道に導く対機説法で有効適切なもの、
お互いの心を明るく清く楽しく豊かにするもの。

もしも、そのような意義深いもの以外のものまでも
朗々と感じているのであれば、
それは、真実の仏の円満な認識的一切智ではない」と。

( 『笹本戒浄上人伝』)

更に、
徳本行者の母堂がご覧になられた徳本行者の奇端。

「母堂ののたまひけるは、
まず謝し申すべきは上人は
毎朝時も違はで
御十念授け給はる事のうれしさよ。


朝毎に光明の中に
師の十念の姿を拝みまいらすなり。」


徳本行者の奇端話として、
さらっと読み飛ばしがちの箇所かもしれませんが、

弁栄聖者にも同種の逸話があり、
仏眼を得た聖者の自内証に依らねば、
理解の糸口が掴み難いかと思われます。

仏眼を体得されていた、
笹本戒浄上人によりますと、

「仏眼に依る"分身利物"の働きである」と。

"分身利物"とは、
『妙法蓮華経 観世音菩薩普門品 第二十五』に、
「観世音菩薩が三十三身を自由自在に示現する」
ことを説かれていますが、

これは、おとぎ話の類ではなく、

仏眼にも浅深があり、

「自得し玉へるさまおのづから経論の至理に符合せる」は、
仏眼、大円鏡智に依る認識力ですが、

大ミオヤにより、更に、霊育を頂きますと、
意志的方面が更に深く開発され、
如来妙観察智が分相応に応用可能となり、
分身利物の働きが分相応にできるようになる。

戒浄上人は御教示されています。

また、
同じく仏眼を体得されていた、
田中木叉上人は、

「人に如来様やお浄土を見せてやれる能力を得た人が仏眼である。」とも。
(冨川茂筆記『田中木叉上人 御法話聴書』)


浄土教においては、
伝統的に、阿弥陀如来の慈悲を全面に説きますが、
真実浄土門においては、
"三身即一の大ミオヤ"の慈悲と智慧の両面を説きます。

「師の自得し玉へるさまおのづから経論の至理に符合せるを」
と『徳本行者伝』に記されているように、
徳本行者が、生涯に渡り、一文不知のままであったかは、
疑問が残ります。


弁栄聖者が、よく本を読まれていたのを
随行者の佐々木為興上人が不思議に思われ、

「聖者は三昧発得していらっしゃって
何でも分かっていられるから、
本など読まれなくてもよいでしょうに」

と聖者に尋ねになったところ、

「いや、それはいけぬ。やはり本を読まぬといけぬ」
と言われたので、
「どういう訳ですか」
と重ねてお尋ねになると、

「それは、お念仏していれば
大宇宙の事柄が一切分かるようになる。
分かるけれどそれは観念的に分かるのだ。
書物を読むと書物に書いてある事柄と
自分の観念として得ている事とぴったりと合う。
認識にしようとすると思うと本を読まねばならぬ。
本を読む事によって認識となるのだ」

と聖者はお答えになられました。

笹本戒浄上人と弁栄聖者との間にも同様の問答があり、

「私も観念としては得ておるが、
認識的一切智では釈迦さんに及ばない。
この世界で認識的一切智を得ておられたのは
釈迦さんばかりだ」


とは、弁栄聖者の戒浄上人への御教示。

「肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼が円かでありませんと
円満な仏とは申されません。
弁栄上人様がそのようにお勉強なさいましたのは
肉眼※を得られるためであります。」

※ 肉眼には、五感と理性を含む。

また、

「認識的一切智のことをよく誤解しておられるようでござんすな。
一切智の代わりに法則の意味の知を用いて
認識的一切知として考えるとよろしゅうござんす。」
(笹本戒浄上人述 泉虎一記
『辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』)


とは、戒浄上人の極めて貴重な御教示。

(笹本戒浄上人述 泉虎一記
『辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』)
が、
2018年(平成30年)9月に発刊。

hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。
一冊二千円(送料別)。

また、
弁栄聖者は、
大ミオヤの「智慧と慈悲と威神」、
「神聖・正義・恩寵」を説かれていますが、

これも、従来の浄土教においてはあまり言わないことですが、
念仏による功徳として、自ずと具足されてくる威神力

徳本行者の念仏の姿を見て、
"剣の極意を悟った"剣豪白井亨の逸話も伝記に記されています。

これは、如来成所作智の働き。


如来四大智慧については、
三身四智の仏眼を体得された弁栄聖者の独自認識によるもので、
『弁栄聖者光明体系 無辺光』※に詳述されています。

(『弁栄聖者光明体系 無辺光』)。
( 書籍はこちらで、 PDF版はこちら)


「念仏に物憂き人は
無量の宝を失うべき人なり。
念仏にいさみある人は
無辺のさとりを開くべき人なり」(法然上人)



最後に、
徳本行者研究の必読書、福田行誡編著『徳本行者伝』についての留意点。

歴史書等一般に言えることですが、
それが書かれた動機、歴史的背景等の知識等の観点が不可欠。

「大基和尚略伝」(「浄土宗全書18」所収)によりますと、

同(文化)十一年の頃、
将軍文恭公日蓮宗を信し、浄風漸く振はす。
縁山典海大僧正深く之を憂ひ、
鸞洲上人に諮る。
上人答て曰、徳本行者盛徳非凡、今紀州に 在り。
宜しく當地に請して宗光の扇揚を図るへし」

典海による請待の背景には、
将軍家斉公の日蓮宗への傾倒があった
ようです。

なお、このことは、
福田行誡編著『徳本行者伝』には記されていません。

これは、
学術研究論考ともいうべきブログ

「徳本行者の生涯と思想」

に教えて頂きました。感謝いたします。

徳川政権の権力者の庇護下にあった浄土宗が、
"法然上人の純粋の精神のままに存続し得た"と考える方が無理があります。


なお、弾誓上人(1552~1613)と徳本行者(1758~1818)の
修行形態、権力者との関係等の違いには、
生まれ育った時代背景、すなわち、
江戸幕府による宗教政策等の影響も大きいと思われます。


弁栄聖者は、政治、伝統宗教の両権力を極力避けられました。

「信仰と宗教組織との関係」。

人類の永遠の課題かもしれません。


徳本行者の示寂後、200年経った現在においても、
徳本行者の信奉者がおられるのは、
弁栄聖者の場合も同様ですが、
念仏による"現当二世の利益"を民衆に感得せしめた、
念弥陀三昧力に依る奇端等が根幹にあることは確実です。

ただし、それだけではなく、
徳本行者においては、
「日課念仏の誓約」、「徳本名号札の授与」といった、
徳本行者ご自身との直接間接の関係があり、
「徳本講」という組織、
永年に朽ちることのない「徳本名号石」等も見落とせないと思われます。


長々とした拙文を最後までお読みいただき、
ありがとうございました。

この記事が、
徳本行者理解の一助になれば、ありがたく存じます。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-09-09

「法然上人以来、徳本行者ほど内感豊かな念仏者は無い」(弁栄聖者)


【誕生院】
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この石碑は、
知恩院門主山下現有大僧正の揮毫。


和歌山県日高町にある「誕生院」

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徳川治宝公の書による扁額。

徳本行者は、1758年~1818年、
江戸期後期に活躍された”浄土宗捨世派”に属すると云われます。

弁栄聖者が、1859年~1920年ですら、
徳本行者は、聖者の100年程前にご生誕され、
聖者が御遷化される100年程前に御遷化された聖。
世寿が、奇しくもほぼ同年齢。

○ 「徳本行者のような悟りをお開きになったお方は古来ない。
その三昧は、深くして深かった。」


○ 「古来、三身四智の仏眼を体得」されていたのは、
釈尊→善導大師→法然上人→徳本行者である。」

とは、弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示であり、
弁栄聖者の「徳本行者観」

ここで真に興味深いのは、
三身四智の仏眼を体得された聖方の内、
徳本行者だけが「学のある者ではなかった」
という点です。

此処に、”徳本行者御出世の因縁”
即ち、”大ミオヤの深意”
を強く感じます。

弁栄聖者は、「大乗非仏説」に対して、

「大乗経典とは、
三昧定中における、”永遠の生き通しの大乗釈尊”による、
出世間の三昧を開かれた聖方への直説法である。」


と喝破されています。

”その生き証人こそ、正に徳本行者であった”ということです。

悟りにも浅深があり、
悟りは、知・情・意・感覚全面に関わりますので、
知的面での認識力と、
意志的側面での実行力(法力)に、浅深が生じ
ます。

「悟りの浅深とは、
大ミオヤに依る霊育程度(霊化)の差(しゃ)別。」


念の為ですが、
弁栄聖者の(神)仏身観に依りますと、
”大ミオヤ”とは、「超在一神的汎神」であり、
聖者が提唱された「光明主義」とは、
「超在一神的汎神教」故、
その悟りの内容は、宗派諸宗教を包超しています。

徳本行者の行状を、
浄土宗乗の枠に捕われずに丹念に検証されれば、
自ずと頷かれると思われます。

なお、
法然浄土教は「易行道」と云われています。
徳本行者は、「浄土宗捨世派」と云われており、
激烈な苦行修行とも云い得る”浄土宗捨世派の念仏者”である、
称念、弾誓、澄禅、忍澂、無能、関通、法岸、法洲、法道、以八、学信、穏冏、徳本、徳住
の各上人に於いて、
反って、”法然上人の念仏精神が真に生かされている”という逆説は、
一考に値する
と思われます。

「徳本行者の真骨頂は、
行者の説法ではなく、
徳本行者の行状(行住坐臥)と
和歌にこそ顕現」
していると推察されます。

ここで、
この記事における表記について、
一言お断りしておきたいと思います。

この記事においては、
「徳本行者」との表記を主とし、
「徳本上人」との表記は特別の場合に限っています。

「徳本行者」との「行者表記」の方が、
相応しいとの感触
によるものです。

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「木魚 伝 徳本所用」
徳本行者の念仏修行により、”叩き抜かれた木魚”

この画像では分りにくいですが、反対側も穴が開いています。
六ヶ年に及ぶ千津川落合谷での苦行の際のものと伝えられています。

弁栄聖者にも同様の”穴の開いた木魚”が、
千葉県松戸五香「善光寺」に残っていたと記憶しています。


また、「誕生院」には、『徳本上人絵伝』があります。


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「徳本上人念仏行場」

少年の頃、
友人に手伝ってもらい洞窟を造り、念仏行場としました。

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「徳本上人十念名号塔」
徳本行者の熱心な信奉者、兵庫の吉田喜平次氏達が建立。

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誕生院近くの徳本行者の御生家は、
現在残っていません。


【一行院】
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東京都文京区千石にある「一行院」
徳本行者が示寂の地。

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「徳本行者墓」

1818年10月6日、
「一行院」にて、御遷化。
世寿61齢。

なお、
「徳本行者異聞 八木季生」
(戸松啓真編代表『徳本行者全集第六巻』)
には、
徳本行者のお墓に関する代々の口伝が、初披露されています。

「徳本行者在世中、
自分の亡きあと百年以上経ったら
遺骨を掘り起こしてほしいということを、
秘に側近の弟子に言い残された」
と。

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徳本行者に関する必読書としての筆頭に挙げられるのは、
福田行誡編著『徳本行者伝 上・中・下之巻
附録 法弟小伝総目』


福田行誡編著『徳本行者伝』の基となった、
小石川「一行院」に所蔵されていた徳本行者の伝記六十余巻を、
弁栄聖者は、この一行院で、お読みになっていたようです。

予期せぬ悲劇が起こりました。
蔵に入っていたにも関わらず、惜しくも、
昭和20年5月25日夜半の東京大空襲により焼失。

ところが、幸いなことに、その写本が、
愛知県岡崎の「荒井山九品院」に伝えられていました。
和歌山「無量光寺」にも同筆、同体裁の写本が現存。
また、九品院本を底本として昭和34年に書写されたのが、”大正大学本”
なお、この大正大学本の写本には、
椎尾弁匡増上寺法主のご尽力がありました。

昭和55年には、
戸松啓真大正大学教授を中心とする
『徳本行者全集 全六巻』がめでたく刊行され、
九品院所蔵『徳本行者伝』を含む大部の徳本行者に関する著作が収録されました。

詳細なる解説については、
田中祥雄「解題 徳本行者全集全五巻書誌解説」
(戸松啓真編集代表『徳本行者全集 第六巻』)

をご参照ください。

なお、この全集の第六巻は、研究編で、
大変興味深く示唆に富む論考が多数ありますが、
特に、”徳本行者の悟りの内容(深さ)”に関する論考としては、
○ 「徳本行者の禅的性格 藤吉慈海」
○ 「徳本行者の宗教体験と念仏思想 ー聖と俗の間ー 峰島旭雄」

の両論考を、特にお勧めいたします。


第六巻の「あとがき」に、戸松教授は、

昭和四十八年であったか南紀に調査に行った時、
不自由な体で案内の役をかっていたゞいた
松田良信氏も今は故人である。
手をにぎり「たのんます」といわれ、
合掌して別れた思い出は、
思い出としてだけではおさまらなかった。」


思わず目頭が熱くなりました。

松田良信氏は、
弁栄聖者の直弟子中井弁常居士とも親交のあった、
徳本行者の篤信者にして、
「徳本行者奉讃会」の中心人物。


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【福田行誡上人(1809年~1888年)】

「徳本行者 伝 例言 九条」『徳本行者伝』によりますと、
行誡上人は、
小石川一行院にあった徳本行者の伝記六十余巻を基に、
三巻本として編著。

その際の編著方針がこの九条ですが、
”行誡上人により取捨選択がなされている”点は留意すべきです。

徳本行者の行状を具に検証するに於いて、
特に留意すべき事項としては、

○ 「事奇怪に互りて常人の疑を生ずべきものあり。 
かくの如きものはおほよそこれを省く。

ひそかにおもんみれば、師の一世の行履上中下の三等あり。
今の伝は其上と下とを省いて、しばらく中等に就てこれを記録す。
人の不信と軽謗を防がんがためなり。」
とあります。

おおよそこれを省く」とありますが、
行誡上人編著『徳本行者伝』にも、
現代人の眼には奇怪と思われるものが数多く含まれています。

徳本行者の伝記は、
何処が伝説で、何処が史実であるか、
現代人には、その判別が甚だ困難です。


また、行誡上人は、この例言九条の最後に、

○ 「・・・昔は仏世尊弟子のために神通を現ずることを呵し、
また異を顕し衆を惑はすことを誡め玉へり。
本伝をよまんものすべからくまづこれを知るべし。」

と釘を刺されています。

徳本行者の全貌を捉えるためには、
徳本行者のこの”奇怪さ”から眼を逸らしてはならず、

徳本行者の「行者性」、
その神秘性、不可解さ、怪しさを、如何に読み解くか

が、読者側に問われているように思われます。

「徳本行者の魅惑は、
その多くを「行者性」(神秘性、不可解さ、怪しさ)におっており、
徳本行者に接した者に、
念仏に依る”現当二世の利益(功徳)”の顕現(体現)を、
まざまざと感得せしめた点にあった。」


ここでは、
この心象だけを指摘するに留めます。

とはいえ、
福田行誡編著『徳本行者伝』は、
「三身四智の仏眼を体得」された徳本行者ならではの、
とても興味深く、同時に示唆に富む行状

が記されている箇所が幾つもあります。
その箇所を、是非記して置きたいのですが、
記事が長くなり過ぎますので、
今回は一点だけ記しておきます。

徳本行者は、
京都獅子谷「法然院」とはご縁が深く、
此の地で、それまでの行者風の”長髪長爪の異相”を改め、
江戸、小石川伝通院にて、宗戒両脈を相承。

上京の際には、ここ「法然院」に泊まられていました。

その頃典寿律師と云う優れた学僧がおられ、
或る時、徳本行者に、『華厳経』の大旨を講じられた時、

「律師の学解やや大菩薩の悟道にせまれり、
栂尾の明恵上人の再来にやなど、師ものたまえり。」


徳本行者は、学問が達者ではありませんでしたが、
難解な「華厳哲学」を理解されていました。
真に不可思議なことではありますが、
「念仏三昧発得」により、”大ミオヤの四大智慧”を頂かれていた
と考えるのが自然かと思われます。

ここで、、
鈴木大拙著『日本的霊性』における「妙好人」を、
思い浮かべる方が居られるかもしれません。

『華厳経』とは、
”仏眼を体得された大菩薩”がお説きになった「大乗経典」と云われています。

徳本行者は或る時、
難解な華厳哲学である”重々無尽の縁起”
目の前に流れる小川に即して、さらさらとお説きになったので、
徳本行者のご境涯(認識力)の深さに、
華厳の大学者が驚嘆されたことがありました。

杉田善孝上人が、この逸話を思い出されたからでしょうか、
数学者岡潔博士に、
「小川の流れを、数学的に説明できますか?」
と問うたところ、
「ハイ出来ます」
と数学的に見事に説いて下さったそうですが、
その内容は、残念ながら残っていないようです。

徳本行者は、
現代の「流体力学」の原理を御存じだったことになります。


さて、
田中木叉上人も『日本の光(弁栄上人伝)』における著述方針について、

なおちなみに記す。 
全篇にわたり各個人のうろ覚えの口述による資料は、
全国蒐集材料綜合判断上甲乙矛盾し、あるいは不確かなること往々あり。
史学研究法に準じて検討取捨の結果怪しきものは記載せず。
むしろ記載せざれざりし事により、
丁寧なる調査吟味を費したることをここに付記す。」
と。

この点に関して、
弁栄聖者の信奉者でもあった岡潔博士は、ご生前、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に関して、
「現代人の理性に配慮し過ぎている処がある。」
と洩らされたことがあったそうです。


ついでながら、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』の初版は、
昭和11年9月で、
木叉上人編纂の弁栄聖者の御遺稿『ミオヤの光』の発刊が、
昭和9年までかかったとはいえ、
弁栄聖者御遷化後、十五年程かかっています。
奇しくも、山本幹夫(空外)著『弁栄聖者の人格と宗教』の初版が、
同年昭和11年10月に発刊されています。
また、
この翌年、昭和12年7月には、
笹本戒浄上人がご遷化されています。


ここで、
福田行誡上人と弁栄聖者の関係について触れて置きたいと思います。

行誡上人と弁栄聖者の関係については、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に数ヶ所記載されていますので、
「明治期の名僧として知られた福田行誡上人程の方は、
さすがに弁栄聖者の真価を御存じだったのだ」

という程度の認識でした。

ところが、
この記事を書くにあたり、
行誡上人編著『徳本行者伝』並びに行誡上人ご自身に関する伝記、
更には、徳本行者に関する論考等を拝読していた時、

「徳本行者→(福田行誡上人→)弁栄聖者」

の系譜がふと頭を過ぎりました。

行誡上人の強い信念であった、
八宗兼学の精神」、「僧侶の戒律復興」を、
弁栄聖者が生きられたからというだけでは、
大切な何かが抜け落ちているように思えてなりません。

「行誡上人にとって弁栄聖者とは、
幼き日に出逢った徳本行者の再来だった」
のではないか。

田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、

○ 「当時の増上寺法主は徳望古今に秀でたる行誡和上で、
疾(つと)にこの青年沙弥の比なき法器に嘱望し、
爾来ずっと推称しておかなかった。」


○ 「明治二十一年浄土門主行誡和上は遷化さるる前に、
知恩院よりわざわざ法門付属のお墨付きをそえて
二十五の大衣を上人に送られた。」


この箇所を読まれた読者の中には、
俄かには信じ難いと思われる方もおられると思いますが、
田中木叉上人の弁栄聖者の御伝記の記述は、
史実を調べれば調べるほど、
真実、事実であることが史料等から裏付けられ、
木叉上人の”冷静で淡々とした筆致”に、
かえって驚かされることが多い
という印象をいだきます。

逆に、徳本行者に関する学者の論考等に、
「徳本行者と弁栄聖者の関係の指摘、記述が皆無に等しい。」
この現象は、反って、訝しく、不思議
です。

管見するところ、
「徳本行者と弁栄聖者との関係」を明確に指摘されているのは、
東京芝増上寺ご法主、八木季生台下のみ。」
(参考:「徳本行者異聞 八木季生」(戸松啓真編代表『徳本行者全集第六巻』))

なお、八木台下は、「一行院」の前住職で、
「一行院」には、
徳本行者のお近くに、弁栄聖者のお墓
もあります。

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行誡上人と弁栄聖者に関する記述を続けます。

「行誡上人御遷化の前
二十五条の袈裟を弁栄上人に附属し
態々送りし事を目撃せしが今いづこに在るものか、

行誡上人はその遺法伝持の任が弁栄上人にあることをしめしものにて
御墨付きも附き居たりしものなり。」
(「行誡上人の袈裟附属 館林善導寺主 塚田英亮師談」
『ミオヤの光』縮小版三巻249頁)


※ 参考文献:「館林市善導寺調査報告 新発見光明資料 27 
ひかり編集室 金田照教」 『ひかり』2018年8月号


これは、
金田照教( 香阿昭教‏ @ganyosyoukyou)氏のご教示によるものですが、
史料発掘として、大変貴重な発見であり、ご指摘。

行誡上人が遷化に際し、
弱い三十歳に満たないまだ年若い青年僧山崎弁栄に、
わざわざ二十五条袈裟を贈られている事実は、
大方の『福田行誡上人伝』において、
殆んど看過されている史実

ただし、
この「行誡上人のその遺法伝持」には、
行誡上人の幼き心眼に焼付いた、

「威貌堂々士庶敬服す。
音声枯渇すれども響き林谷に徹す。
婆心丁重にして聴く人感涙するに至る。」

徳本行者の面影
が彷彿とされ、
青年沙弥山崎弁栄の将来像と徳本行者が重なって
おられたと推察いたします。

「徳本行者の自内証の真髄は、
弁栄聖者の研究を通してこそ信解可能である。」

とさえ云い得るように思われます。


【荒井山九品院】
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愛知県岡崎にある「荒井山九品院」。

徳本行者の高弟、徳住上人の開基。

先述の小石川「一行院」に所蔵されていた徳本行者の伝記六十余巻の写本、
「九品院本」を所蔵。

おそらく、
未公開の徳本行者に関する本を所蔵されている可能性は大きいと思われます。

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「徳住上人の墓」

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本堂の裏手には、とても立派な、
「徳本上人の名号石」があります。

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近くには、
松平(徳川)家ゆかりの寺「大樹寺」があります。


【無量光寺】
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和歌山市内にある「無量光寺」

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先述の九品院本同様の写本を所蔵。

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「無量光寺の名号塔」
平成九年 徳本行者百八十回忌記念の大きな青銅の名号塔。
側面には、徳本行者のお歌が彫られています。

【徳本行者 辞世の句】
「南無阿弥陀仏生死輪廻の根を断たば
身をも命もおしむべきかは」



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「無量光寺の名号碑」

裏側には「仏子塚」とあります。
餓死者、病で亡くなった方々の遺骨がおさまっています。


【大雄寺】
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飛騨高山にある「大雄寺」

徳本行者の名号石は、日本各地に多数有りますが、
此処の名号石は、「日本一大きい」と云われ、
高さ4.5M(台座含むと6M)、幅1.3M。

徳本行者の筆跡は、とても独特ですが、
祐天上人の筆跡を模倣したものとも云われています。

昨年、2017年(平成29年)は、
徳本行者の200回忌(※1)でしたが、
祐天上人の300回忌(※2)でもありました。

また、祐天上人、徳本行者も、
江戸期に活躍され、当時の民衆は勿論、
将軍徳川家からの信もとても篤く、
正統的な浄土宗の枠内には収まり切らない不可思議さを持った御方。

なお、弁栄聖者は、
徳本行者は勿論、祐天上人とも不思議なご縁がありました。

「「出家したいなあ」とおもいながら、
棹をとってたちあがれば、
薄くらがりの水に浮ぶ一冊の本、
拾えば奇縁、それは祐天上人の伝記であった。」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)


(※1) 有田市郷土資料館特別展図録
『念仏行者徳本 ー200回忌記念ー』
発刊。

(※2) 祐天上人300回忌を記念して、
『祐天上人の名号石塔』を発刊。

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今回は取り上げませんでしたが、
和歌山県内で、徳本行者ゆかりの地は他にもまだあり、
主だった処を列挙しますと、

○ 「往生寺」:大円上人について得度。
○ 「月照寺」:大滝川、大良上人につき、本格的な念仏三昧修行に入る。
○ 「尊光寺」:六年の苦行地「千津川」落合谷」
○ 「西方寺」: 「岩室山」、有田市宮原町の修行地。


などがあります。

徳本行者に関する本は現在入手し難いかもしれませんが、
幾つかの参考文献を挙げておきますので、
徳本行者とのご縁の一助になれば真に幸いです。

○ 福田行誡編著『徳本行者伝』
○ 戸松啓真編集代表『徳本行者全集 全六巻』
○ 松田良信発行『徳本行者傳』
○ 松田良信編著『徳本行者 言葉の末』
○ 八木季生発行『徳本行者傳 全』
○ 岡本鳳堂著 『改訂再版 徳本行者』

○ 中野善英著『徳本行者』
○ 井上豊太郎著『念仏大行者徳本上人傳』
○ 塩路善澄著『徳本行者を慕いてー郷土での足跡』
○ 有田市郷土資料館特別展図録
『念仏行者徳本 ー200回忌記念ー』

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-08-06

「南葵光明会」創始者、中井弁常居士による弁栄聖者の御法話「聞き書き」等


前回は、
中井常次郎(弁常)居士による弁栄聖者の想い出、
弁常居士と「南葵光明会」及び「弘龍庵」等について書きました。

大正8年9月(※)に、
弁常居士は、弁栄聖者に出逢われ、
最晩年の聖者のお別時、御法話会等に可能な限り参加され、
その時の貴重な「聞き書き」、聖者の行状等を遺して下さいました。
※ 聖者の御遷化は、大正9年12月。

もちろん、聖者の御教え、行状等は、
田中木叉上人がご編纂された『弁栄聖者 光明体系』等、
木叉上人著『日本の光(弁栄上人伝)』等によって、
知ることができます。

中井弁常居士の記録は、
弁栄聖者の最晩年の御法話記録、行状等であり、
また、聖者にお逢いされた直接ご本人の記録であるだけに、
およそ百年前の出来事でありながら、
当時の出来事が、臨場感をもって感じることができるように思われます。

引用には、
引用者の境涯、思想・信条、理解力が如実に露呈
しますので、
畏れ多いことではありますが、
中井弁常居士の弁栄聖者に係る記録はとても貴重であり、
有益な点が多いと思われます。

そこで、今回は、
弁常居士著『乳房のひととせ(上巻)』(昭和三十六年刊)と、
弁常居士著『乳房のひととせ(下巻)』(昭和十八年行)に依り、
弁栄聖者の御法話記録、行状等で、
特に印象に残った箇所を記して置きたいと思います。

なお、本書の主要な記録が、
「一般財団法人 光明会」のHPにアップされています。

また、中井常次郎(弁常居士)著『如来光明礼拝儀講義』
(増補改訂第四版(初版は昭和16年6月))が、平成30年4月に出版されました。


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 【大正9年10月 弁栄聖者 61歳】
 (「勢至堂の念仏三昧会」、京都市知恩院勢至堂前石段の下にて)
 ※ 二列目、向かって右側の御婦人(藤堂クラ氏)に抱かれている子供は、藤堂恭俊師。


【「念仏」に係る弁栄聖者の御教示】

○ 「念仏三昧、見仏三昧の成就をめざして別時をつとめよ。」

○ 「如来は智慧であり、同時に姿である。
弥陀の身心は法界に遍満す。
・・・念仏すれば、如来は真正面に現はれ給ふ。
けれども或る衆生には、仏の在す事が解らぬ。
三昧の鍵を以て浄土の門を開け。」


○ 「活きてまします如来様が、
今、わが真正面に在す事を信ぜよ。
これを仰信と云う。」


○ 「初めは、肉眼で、まことの仏が拝まれぬから、
画像を掲げて、如来様を思ひ上げるのである。」


○ 「初めは、仏の御姿は拝めない。
それでよい。心に帰命の思ひが起ればよい。
南無阿弥陀仏と称へて、帰命すれば、
仏様は我が心に宿つて下さる。」


○ 「如来を尊く思へば、思ふほどよろしい。
無上の尊敬を献げる事によって、距りができ、
愛によつて、如来を離れぬ。
この二つが調和を得る事が大切である。」


○ 「仰信は初歩であつて終りである。
この中にねうちが有る。
ま受けすれば、十分なる力が与へられる。
仰信から解信、証信と進むのであるが、
証を得るのは一部分である。
一分の証を得てから初めて仰信に帰るのである。」


○ 「如来を愛するは、霊性より来る。
これは最高の愛である。」


○ 「聖徳太子の念仏法語に、
念仏は情に在りて、理に非ず。」

○ 「浄土教は、聖道のやうに、理屈は云はぬが、如来を慕はせる。
これは浅いやうに見えるけれども、
深く仏心に入り、徹底した、最も深い悟りを得る法である。

如来の相好は、慈悲の現れである。
仏のみ姿拝む者は、仏のみ心を見奉る。
如来を見奉れば、慈悲の心は自ら湧き出でる。」
※ 「大原談義に曰く
人をして欣慕(ごんも)せしむる法門は暫らく浅近に似たれども
自然悟道の密意は極めて是深奥なりと。」


○ 「我はただ仏にいつか葵草
心のつまにかけぬ日ぞなき(法然上人)

法に念仏と見仏と観仏と有るが、
此の歌は念仏を詠んだものである。
観仏は理性を鎮め、心を澄まして仏を映す法である。
念仏は感情的に如来を念(おも)ふて救はれる法である。
親子の情を進ませる処に念仏の温味(あたたかみ)がある。
理性を澄ます観仏には温味が無い。」


○ 「観音さまは念仏行者の模範である。
宝冠に阿弥陀如来を戴いているのは、
常に仏を念じて忘れぬことを示されているのである。」


○ 「見仏は帰命の信念に依るもので有つて、
観仏と違ふ。
口に称名するとも、乱想起らば徒ら事である。」


○ 「念仏三昧とは、仏思ひの心を常とし、
仏と自分とを一つにする事である。
口に仏名を称へても、心が仏を離れては念仏三昧でない。
念仏中に悪い思ひを起こせば、悪人になる。
良くない事を考へながら念仏のまねをしてはいけません。」


○ 「称名の音声に功徳あるのではない。
称名念仏とは、み名を称えて救いを求める事である。」


○ 「真宗では、南無阿弥陀仏の文字に功徳ありと云ふが、
そうではない。
如来は現に、ここに在して、
吾等がその御名を呼べば聞いて下さるから有難いのである。
善導大師は「衆生、行を起こして、
口に仏を称すれば、仏之を聞き給ひ
乃至意に仏を念ずれば、仏之を知り給ひ、
衆生仏を憶念すれば、仏も亦、衆生を憶念し給ふ」
と云つて居られる。
絶対なる法界は、時間、空間に障りなし。」


○ 「本当の仏壇は、各人の宮殿内に安置しておかねばなりません。
家の仏壇を金銀で飾りより、
心の宮を荘厳するように心がけねばなりません。」



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  【大正9年10月 弁栄聖者 61歳】
 (京都市知恩院勢至堂に於ける別時念仏三昧会の記念写真の拡大写真
  弁栄聖者のお写真としてよく知られる写真の原版は、この写真)


【「大ミオヤによる霊育過程」に係る弁栄聖者の御教示】

○ 「光明主義は南無の二面即ち
救我と度我の二つを完備して居る。
・・・真宗の欠点は、度我の願ひの少い事である。
度我に就ては、真宗は如来に任せ切りである。」


○ 「如来の世嗣となるには、
娑婆に在る間に、其の資格を作つて置かねばならぬ。
・・・娑婆では心が研け易い。
・・・念仏して、心が研けると、霊性が有る事が知れる。」


○ 「宗教の宗教目的は、人格の完成即ち成仏である。」

○ 「雑念を起こすまいとすれば、益々起こるものであるが、
それに捕われぬやうにせよ。
妄念が起こる度に、根気よく振り捨てて、
仏おもひの心を起こして居れば、
だんだんと妄念が薄らぎ、奥の心が現はれて来る。
太陽の光よりも強い光明を見る。
その光に因つて心は清められる。」


○ 「霊の実を結ぶ高等な信仰は、
米を作るやうに育てねばならぬ。」


○ 「急に心の花が咲くものでない。
常恒不断に念仏して、お育てを蒙らねばならぬ。」


○ 「闇消えて、日出づるに非ず。
太陽出でゝ闇去るのである。
・・・如来の光明に遇ふから、罪消えるのである。
病気を治してから入院すると云ふのは、まちがひである。
大病なる故に入院して治して貰ふのである。
これが光明主義である。」

※ (註) 田中木叉上人の御法話に、「念仏病院」とのご教示あり。

○ 「欲は必ずしも悪いものではない。
霊化とは有害なる欲を有益にする事である。」


○ 「習慣→必需→病的→悪弊症
これらの悪弊症を除くには、それに代はる良きものを与えるのがよい。
一心に念仏すれば、生まれつきの汚れが除かれて、
自然に善い性が現はれて来る。」


○ 「霊化の度が大きくなれば抜苦与楽の功徳も深くなり、
善行力も大きくなる。」


○ 「拝む如来は大きくとも、小さくとも、
絶対(宇宙精神)より現はれて下さるのであるから、
絶対に信頼すべきである。」


○ (弁常居士)
「「きよきみ国」のお歌に「日々に六度の花の雨」と有りますが」
(弁栄聖者)
「阿弥陀経に説かれてある浄土は真実である。
三昧が進むと、華の雨が降る。この世の花とは、少しちがふ。
三昧にはいれぬのは、心が汚れて居るからだ。
念仏により、心が浄化されると、浄土や仏様が見えて来る。
信仰の進むに連れて、如来は限りなく大きく現はれる。」

※ (註) 笹本戒浄上人の「お浄土の音楽」についてのご教示。
「お浄土の旋律は娑婆の音楽とは違う。
『聖意の現はれ』は、お浄土の旋律を表わしたものだ。」


○ 「光明主義は実感の上に立って居る。」

○ 「五(読拝・礼拝・観察・称名・讃嘆供養)正行
これは喚起、開発、体現に通ず。」



【「弥陀の本願」に係る弁栄聖者の御教示】

○ 「弥陀の本願とは、
宇宙現象の終局目的とする摂取の光明に、
吾等が照らされ育まるゝ本然の理を、
人格的に見、具体化して名付けたものである。
故に本願は四十八ヶ条に限つた事ではない。」


○ 「第十八願 如来の願は
衆生に親の如く円満なる徳を譲りたいと云ふ事である。」



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【大正9年7月(弁栄聖者 61歳)
 横浜市久賀医学博士宅にて(弁常居士撮影)】

※ この写真の裏に聖者の和歌あり
「誰もみな同じ地水のかり物を
など辨栄と名ずけたりけん」



【「戒律」に係る弁栄聖者の御教示】

○ 「最も重い罪は、己が仏性を殺す事である。
即ち成仏せぬのが最も大きな罪である。
吾々は仏性を育てるために生かされて居る事を知らねばならぬ。」


○ 「殺生戒は生物に限らず、
機械、器具の如き物までも生かして使ふ事である。
水でも無駄使ひをしてはならぬ。」


○ 「有漏とは肉の心、無漏とは聖き霊なる心である。」
※ (註) 「肉の心」とは、
弁栄聖者の笹本戒浄上人のみへのご教示と理解していましたが、
それは、誤解でした。

○ 「肉体に衣食住の必要ある様に、
心の上にも、これが必要である。
信仰の人となれば、如来より、
清浄無垢の衣、法喜禅悦の食、
光明心殿の住居が与へられる。」


○ 「「神通は難化の衆生を度すために使つて良いが、
徒に凡俗に示すのは沙門のすべき事ではない。
木鉢のために神通を現はし人々の歓心を買ふ如きは、
賤むべき事である」と(釈尊は)誡められた。」

※ (註) 弁常居士は科学者でもあったため、
「神通」なるものを、当初全くの空事と考えていましたが、
弁栄聖者の御遷化の後、しばらくして、自身の認識力の浅さを認められました。


【「仏身論」に係る弁栄聖者の御教示」】

○ 「十二光仏を研究すれば、宇宙は活ける霊体なる事が解る。
大乗仏教は釈尊が霊性によつて宇宙を見た実感を伝えたものである。」


○ 「経文の文字の解釈が解つただけでは、
その心が読めたとは云はれぬ。
宇宙全体が活きた経文である。
それを仏眼で見たまゝを書いたのが文字の経文である。」


○ 「西方極楽
西とは方向の義ではなく、終局といふ意である。
十萬億土とは、距りの遠さを云ふにあらずして、
佛と凡夫との差を意味する。」


○ 「キリスト教に新教と旧教とあるやうに、
仏教にも、之れと似た事がある。
法蔵仏、西方十萬億土を過ぎたる彼岸にある浄土等は旧教にて、
釈迦正覚、娑婆即寂光は新教である。
釈迦を肉眼で見れば人間であるが、
仏眼を以て見れば阿弥陀仏である。」


○ 「人間の身体は大み親の霊体に似て居るから、
人体を美の極みだと美術家は歎美する。
・・・仏身は生理的の身に非ずして、霊妙なる身である。」

※ (註) 「生物進化の結果、私共人間の姿も如来様の御姿に似てまいりました。」
と笹本戒浄上人は別時念仏の際に云われました。
戒浄上人は、弁常居士のこの本の此処の箇所を示して、
「これは如来様の事実です」とご教示下されました。
(参照: 「凡聖の巻」『弁栄聖者 光明主義注解』 )

○ 「ここの処(礼拝儀を指して)を
「摂化せられしをわり(終局)には」と書き替えよと仰せられた。
説法中にご注意下さったから、記しておく。」


大正9年3月 知恩院勢至堂別時中でのこと。
※ (註) 『如来光明礼拝儀』のこの「無対光」の箇所は、
改訂前は、『摂化せられし人は皆』となっていましたが、
誤解を起こさぬようにとのご配慮から、
弁栄聖者御遷化後に、
笹本戒浄上人の校訂の後、現形のものに改訂されました。
なお、
事情は分りませんが、
土屋観道上人創設の、
「観智院(真生同盟)」では、
この「無対光」の箇所が、改訂前の文言となっています。

○ 「往生浄土に二つの意味がある。
大原談義に往生に「かわる」と云ふ訓がある。
即ち往生とは弥陀の光明中に生れかわる事である。」


○ 「仏の本体は浄土に在つて、分身を娑婆に出す。」
※ (註) 「無余即無住処涅槃=成仏」即ち「往相還相」に関する弁栄聖者の真意」

○ 「今は、これを述べない。
(筆者が上人に「妙観察智が抜けました」
と申し上げたのに対し、上の如く、お答えになつた。
御遷化後、聞いた事であるが、
妙観察智は奥伝として、
一般人に説かぬ方針であつたそうである。)」



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 【大正9年6月 弁栄聖者61歳】
 (京都市恒村医院内、茶室の間にて
 中井夫妻、恒村夫妻、徳永あい子、谷安三、鈴木憲栄各氏と共に)


【弁栄聖者の行状】に係る中井常弁居士による逸話

○ 「弁栄上人のお話は、
聞いて居ると、もどかしい
けれども、
書き留めて味へば、慈味尽きず、齢と共に光を増す思ひがする。
その一言一言が、胸に響き、膽に滲み、
啓蒙、恐縮、驚嘆、信頼、帰依、敬慕の情が油然として湧いて来る。」

※ (註) 「伝道とは饒舌に喋ることではない。
心の内にはたらくものが相手にはたらくこと。
故に弁栄聖者は「伝燈」とも云われた。」(田中木叉上人)


○ 「私共が争ひやいたづらなどするのを見られても、
だまつて居られる事が多かった。
良くない事やまちがいを申上げても、
頭からしかつたり否定されず、「それでも宜しい」と云はれた。
それで私共は、この「でも」を頂けば「いけない」のだと心得て居た。」


弁栄聖者の御教えの解釈を巡って、
弁常居士柴武三氏が議論をしていましたが、
互いに自分の解釈の正しさを主張し譲らず、
その結着を弁栄聖者に仰がれた時のこと。

弁栄聖者は机の上の茶碗の中のお茶を呑み干して、二人の前に差出され、
「エーこの茶碗をコー出せば裏の糸底の方でしょう、エー、こう出せば上の方ですね、
同じ話を同じ人から伺っても糸底の方を差出した方はほんの少ししかいただけませんね。
上の方を御出しになった方は沢山いただきなさいますね。
同じ御話を伺っても
その受ける人に依って大変な差が生じます。
同じ器を差出していただくのに、
糸底の方でいただかないようにせねばいけませんね。」
と仰言ってホホホとお笑いになりました。


結局、その時の議論の結着はつかず、
二人は互に、君は糸底ばかり差出しているから
十二分に聖者の御真意をいただくのが少ないのだと、
笑って引き下がったことがありました。

○ 「仏とは自覚ある大常識者である。(弁栄聖者)」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

当時、弁栄聖者が蓄えられたかなりのお金を使い込んでしまった者が、
なかなか非を認めようとしなかったので、
「その者を、警察に訴えるように。」
と、聖者が指示された
事件がありました。

聖者の信者達が、「聖者としてはあまりにも無慈悲である」と感じながらも、
その旨をその者に伝えると、
その者は涙を流して、反省の意を表したので、
かわいそうに思い、聖者の指示に反して、許してしまいました。

その者は、また同じ罪を続けたそうです。

後日、弁栄聖者は、
その者が、その時、涙を流して反省の意を表わしたのは、嘘ではないであろう。
しかし、意志弱く、また、同じ罪を犯してしまう。
自分の力では矯正できない者のために(本人に代わって)、
監獄があるのである。」

との弁栄聖者の透徹した「大常識」の一喝を受け、
信者達は、深く納得し、反省されたことがありました。

※ 以下は、この逸話に関連した、
示唆に富む別の逸話でありますので、併せて記します。

笹本戒浄上人に関するもの。

聖者同様に自分の財産を使用人に使い込まれた(盗まれた)戒浄上人の信奉者は、
その者を「警察に訴え」ようと、戒浄上人に相談されたところ、

予期に反し、戒浄上人は、「お止めない」と制止されました。

弁栄聖者のこの逸話をご存じであったその信者は、
はなはだ承服し難い面もちで、戒浄上人に、

「弁栄上人も、警察に訴えたではないですか」と反駁。

それに対し、戒浄上人が、一言。
「弁栄上人と貴方とでは、境地が違います」と仰った。

蛇足で恐縮ですが、
もちろん、戒浄上人は、この信者を貶しているのではありません。

聖者の行為は、一見無慈悲とみえながらも、「大慈悲の発露」
それに反し、この信者(一般に私達)の行為は、
聖者と表面上は似ていたとしても、通常、その発露は、「私憤」から

更に、もう一つ。

 弁栄聖者ご在世当時、
信者同志の間で、世間的にも非難される事態が起こりました。

その事態を知った信者が光明会の事を心配し、
田中木叉上人にその者に注意するように強く要請しました。

思い余った木叉上人は、
「注意をしたものでしょうか」と弁栄聖者にお尋ねになりました。
すると、
「注意をするな」と、聖者の意外なご指示

木叉上人は、こんなことは倫理的にも許されることではない。
弁栄聖者の真意が量り難いと思い、
念のために、聖者に再確認
されますと、

「いやそうではない。
如来様が付いていて下さるから、詣って念仏さえしておれば」


と、聖者から大説法をたまわったとのこと。

この件の後日談を記しますと、

しばらく後に、
「一日三千礼の懺悔念仏をして」、キッパリと互いに手を切ったそうです。

「もしも、自分が注意をしていたら、
その者はキッパリ来なくなり、(念仏とも会とも)縁が切れてしまう。
そうすると、このような事態でありうる最悪の事態を招いていたかもしれぬ。」

と木叉上人は反省されたそうです。

木叉上人が弁栄聖者に邂逅してまだ僅かの時でありましたが、
聖者の「衆生済度の力量」を印象付けられた事件であったそうです。

○ 「元気な若僧でも(弁栄上人の)お供をすると一週間は続かず、
逃げ口上を作つて逃避すると云ふ事である。
ほとうに、そうだと思つた。」

※ (註) 波多野諦道上人は、弁栄聖者を”不断光の権化”と云われました。


最後に、記して置きたい事が幾つかあります。

弁常居士が、
武者小路実篤氏を弁栄聖者に会せようとされたようですが、
タイミングが合わず、実現しませんでした。

中井弁常居士とご縁のあった、
同郷和歌山の松田良信氏は、
徳本行者奉賛会を主宰された、
徳本行者の篤信者として知られた御方。

「仏々相念」とでも云うのでしょうか、
弁栄聖者は、徳本行者を殊のほか尊敬され、
「法然上人以来、徳本行者ほど内感豊かな念仏者は無い」と。


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 【大正5年 弁栄聖者56歳】
 (聖者右側(向かって左側)の御夫人が、籠島咲子夫人。

中井弁常居士の信仰に大きな影響を与えられた御方で、
「生ける観音」とも云われ、
弁栄聖者から「妹 咲子」とさえ云われていた、
越後柏崎、極楽寺の籠島咲子夫人。

弁栄聖者は、大正9年12月に、その極楽寺で御遷化。
「うちに帰って、病つて良かった」
と咲子夫人に云われたとのこと。

咲子夫人は、大正2年に、弁栄聖者に邂逅され、
それ以来、折に触れ、聖者の御教化によって、
仏眼まで開かれたと云われた在家で、
聖者とは、心霊界で浅からぬ御因縁の在った御方。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-07-01

和歌山県、御坊市「南葵光明会」及び日高郡印南町「弘龍庵」


和歌山には、
型破りで、個性的な人物が出る様に思われます。

【高野山】
弘法大師空海(出身は香川):真言宗の宗祖、高野山の開山
興教大師覚鑁(出身は肥前):真言宗の中興の祖、「密厳浄土」を説く。
土宜法龍(出身は尾張):南方熊楠と長年の交流があり、
明治26年(1893年)、シカゴ開催の「万国宗教会議」に日本代表として出席。

明恵上人:華厳宗中興の祖、鎌倉期の高僧
紀伊国屋文左衛門:江戸元禄期の商人
徳本行者:江戸期後期、「捨世派」念仏の大行者
華岡青洲:全身麻酔手術の先駆者
南方熊楠「南方曼荼羅(マンダラ)」としても知られ、
粘菌学者、博物学者、民俗学創始者の一人等、破格の人物
岡 潔:世界的な数学者、思想家
松下幸之助:別称「経営の神様」
植芝盛平:合気道の創始者

 
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「南葵光明会」
現在は、和歌山県御坊市塩野町、
北塩野交差点近くの道路沿いに移転されています。

創始者は、中井常次郎(弁常)居士。

平成30年4月に、
「光明主義文献刊行会」から、
増補改訂第四版として、
格段に読みやすくなった、
(カタカナ表記→ひらがな表記に改訂)、
中井常次郎著『如来光明礼拝儀講義』が、
出版されました。


ふと思い出しましたので、記しておきたいと思います。

2018年(平成30年)4月に発刊されました、
山崎弁栄著『人生の帰趣』(岩波文庫版)

この書の口絵は、
弁栄聖人画「親縁の図」で、
弁栄聖者にとって重要な画題ですが、
大正十二年発刊の初版、
弁栄聖人御遺稿集『人生の帰趣』の口絵
は、
大正九年六月に、中井弁常居士が、
「紙で観音さまを書いて頂きたい。
人がそれを見て信心を発すようにして頂きたい」

と聖者に依頼され、画いていただいた「瀧見の観音様」

その聖者の賛には、
「墨に画に写せる瀧の音にだに
甚深微妙般若波羅密」


ついでながら、
弁栄聖者の『御遺稿集』、『光明体系』、『如来光明礼拝儀』等でもそうなのですが、
同種の本でも版によって、
聖者の写真、墨書等が異なる
ことがよくあります。

昭和39年増補第四版の平成2年復刻版、
聖堂発行の『弁栄聖者光明体系 人生の帰趣(増補版)』は、
初版、第三版の増補版の口絵とは異なり、
昭和六年第三版(増補版)の、
昭和50年復刻版(発行者 河波昌)、
『弁栄聖者遺稿集 人生の帰趣(増補版)』
は、
「瀧見の観音様」ですが、
初版の物とは違い、聖者の賛も異なります。

なお、
『弁栄聖者遺稿集 人生の帰趣』の初版の口絵。
聖者が中井弁常居士に画かれた「瀧見の観音様」の複製版を、
弁常居士の同郷和歌山の池田和夫氏が、
弁常居士への報恩として、
以前、限定版として作成されたことがあったようです。


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今回の記事は、主として、
「中井弁常居士伝記」(池田和夫著『永遠之光』)を参照しています。

池田氏は、現在、89歳。

「南葵光明会」の代表役員。
昭和22年(1947年)、松山高校の図書館で、
中井居士著『恋愛と宗教』をご覧になり、
居士宅を訪問されましたが、
惜しくも、居士ご逝去の翌年でした。

中井弁常居士は、池田氏の同郷和歌山の方で、因縁もありました。
氏の実際的な光明会の恩師は、京都大学在学中にお世話になった、
京都の医師恒村夏山師。
弁常居士と恒村師は、光明主義の同志。

なお、池田氏の出身校、愛媛の松山高校は、
伊予松山の「大林寺」とゆかりが深く、

「松山光明会」の生み、育ての親、
大嶋玄瑞上人と、
垣本都夫人がおられました。

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【中井常次郎(弁常)居士(1888年~1946年) 】

中井常次郎(弁常)居士は、
西本願寺の門徒で、代々信仰の篤い、浄土真宗の念仏者の家庭の二男。

大正二年、東京帝国大学工学部機械科を卒業
大正六年、京都帝国大学工学部機械科講師

自然科学を研究するうちに、
「浄土が西方にある」
という浄土教の教えに疑義が生じ
ていた。

そんな折、
大正八年六月に長男を亡くされたこともありましょうか、
”不思議なご縁で”友人となった、医師恒村夏山氏から、

「弁栄上人という
いつも仏様を見奉り、そのみ声を聞き、
みむねのままに各地に念仏を勤めておられる出家がいる。
参加しよう」
との誘いを受けました。

「そんな迷信」と取り合いませんでしたが、
恒村氏の再三の誘いに、ついに断り切れず、

大正八年九月(弁栄聖者のご遷化は大正九年十二月):
中川弘道上人と恒村夫婦と四人で、
中井氏は、「弁栄上人の顔を見るため」にうかがい、
大阪の法蔵寺で、初めて聖者にお目にかかりました。

聖者のお部屋に通され待っていますと、
本堂でのお務めが終り、
聖者がほどなく襖を開けて、入って来られました。

中井氏は、頭を垂れて聖者に敬意を表していたため、
聖者のお顔を拝むことが出来なかったのですが、

「おくんの裾のさばきいとしとやかに
我らの前にお座りなったのを見ただけで、
はや霊感に打たれた。」


感激のあまり、一人想いに耽っていたところ、

「中井さん、何か聞くことはありませんか」
と聖者から言葉をかけられましたが、
「自分は、顔を見るために来た」のだからと、
「何もありません」と答えられました。

すると、弁栄聖者は
「生きてまします仏様が・・・。
大宇宙そのままが・・・
今現に、此処に在します親様を・・・」

と布団を跡にして、
仏身論を、又信仰と念仏の心について説かれました。

それこそ、今まで聞きたいと願っていた信仰問題との主な事柄であり、
今まで聞いた事のない新しい有難い説法でありました。


「宇宙を我がものとなさい。心を宇宙と等しくするように」
弁栄聖者との初対面の日、別れ際の聖者の言葉でした。
聖者の御遷化の後、しばらく経って、
弁常居士は、この聖者のお言葉が有難く頂けてきたそうです。


中川弘道上人のお計らいで、
大正八年十月:弁栄聖者との再会の機会を得。

中井氏は、その日は、授業中でしたが、
宿題を出し、休講にしてまで、人力車で駆けつけました。

その時の聖者の御説法の主要点は次のとおり。

○ 「仏説はどんな人でも信仰に入れるように、
人に応じて、神話的に、歴史的に感情的(救済的)に、
論理的に、実感的に説かれている。
それ故、誰でも自分に相応しい教えによれば信仰に入ることができる。」


○ 「極楽は西に限ったことはない。
仏眼をもって見れば、此処もお浄土である。」


○ 「法蔵菩薩が四十八願を発し修業の結果、
阿弥陀様になったというのは神話である。」


○ 「文字のままではいけない。経文の精神を取らねばならない。」

○ 「我々は仏となる種を持っている。
それを育て磨きあげればよい。」


○ 「浄土は想像即実現の世界であって、
仏土は(如来)成所作智の現れである。」


このようになるには、至心に念仏せねばなりません。


その後、
大正九年一月
横浜光明会開催の弁栄聖者ご指導のお別時に初参加。

お別時中、父危篤の連絡を受け帰省するも、
直ぐにお別時に戻られました。

「助け給えという念仏ではなく、
感謝の念仏、報恩の生活を実感し、
真宗にご縁のあったことを喜び」


そのことを、土屋観道上人にお話ししたところ、

「それはまだ至らぬ考えです。
大慈悲の光明に育てられ如来の威徳を満月のように受け、
衆生済度の働きをさせていただきたい
との大願を起こさねばなりません」

と諭されました。

引き続き、
神奈川県の当麻山無量光寺での授戒会に参加するため、
弁栄聖者にお供しました。

駅で汽車を待っている間も、聖者は、
「礼拝儀は一切経を縮めたものであるから」
と、礼拝儀によって話されました。

当麻山無量光寺に夜に着き、
就寝の際、弁栄聖者の側で寝ることになりました。
ところが、聖者にご挨拶を忘れたことに気付き、
床の中で頭を下げますと、
聖者は夜具の中から、
お慈悲溢れる御まなこを輝かせ、
中井氏をご覧になっていらっしゃって、
「あなたは法蔵寺で霊感に打たれたようで有ったが、
今、大分顔はやさしくなりました」

と一言仰られました。

ある朝、中井氏は弁栄聖者に、

「初め法蔵寺でお目にかかった時、
気分が変わったように思いました。
家内もその時から食物について世話がなくなったと申します。
このたびは長らくお側においていただきましたから、
家庭に目覚ましい変化を来すであろうと思います

と申し上げました。

すると、聖者は、ただ一言、
「うつり香ですね」とささやかれました。

中井弁常居士は、
「これこそ、自分にとり、
生涯忘れられぬ冷汗を覚ゆる大痛棒であった。
孔あらば、はいりたい思ひがした」

と述懐されています。

この授戒会で、中井常次郎氏は、
弁栄聖者から菩薩会を授けられ、
「弁常」の戒名を受け、師弟の契りを交わさ
れました。
(「弁」は弁栄上人の弁、「常」は俗名の常次郎から。
「名を聞いただけでは、臭い処に交へども・・・
いとめでたい名であると有難く頂いて居る。」
とは、いかにも、直言居士の中井氏らしい言。)

いざ、お別れという時に、
弁栄聖者は、中井弁常居士を呼び止められ、

「中井さん、今、あなたは当麻で死にます。
あすは京都に生まれます。
けれど自分には切れ目が有りません。
浄土に生れるのも、これと同じです。
三昧状態で、醒めて生まれます」と。



大正九年四月「京都光明会」発足。
恒村夏山師、徳永愛子(後の熊野好月女史)、松井一郎氏が発起人。
会誌『光明』を引き続き発行、ただし、聖者ご遷化により、十二号で終刊。

弁常居士と夏山宅で、
定例の、礼拝と念仏、法話後、座談会を開催。
これは、「光明会の家庭例会」の嚆矢

大正九年十二月四日:
弁栄聖者ご遷化(新潟柏崎「極楽寺」)

大正十二年三月末日
「工学の研究は他の人でも出来る。
しかし、光明主義の宣布は、私にしか出来ない尊い仕事である」

と、京都大学を依願退職し、和歌山へ。

時は大正期、将来を嘱望されていた京都大学工学部の講師、
なおかつ、家庭がある三十代では、相当な決意があったことと推察されます。

その後、早速、柏崎の極楽寺の弁栄聖者の墓前に参拝。

この時、
弁栄聖者とともにお浄土から衆生済度のために
この世に生まれてきた
といわれ、
「生ける観音」とまで崇められた籠島咲子夫人と巡り会いました。
咲子夫人は、在家で、
祖父の教育方針で「無学文盲」に育てられたようですが、
弁栄聖者の御指導により、仏眼まで開かれた御方で、
その後の中井弁常居士に大きな影響を及ぼしたようです。

大正十二年四月:「南葵光明会」発会。
中井弁常居士は、
光明主義の伝道に身命財を捧げられました。


弁常居士は、
機会を捉え、弁栄聖者のお別時等に頻繁に参加され、
「弁栄上人の聞き書き」を記録として残されました。
弁常居士は、自然科学者であったこともあり、
現代においても、説得力があり、示唆に富む内容が多く、
しかも、弁栄聖者と当時の光明会の状況が生き生きと描かれており、
とても貴重な資料ともなっています。

また、弁常居士は、
「学解面」での弁栄聖者のご教示は勿論ですが、
「弁栄聖者の御霊格との実際の触れ合い」から甚大な影響を蒙りました。
このことは、決して見落としてはならない点だと思われます。


中井弁常居士による「弁栄聖者の聞き書き」等には、
まだまだ貴重な聖者のご教示がありますが、
今回は、この程度にとどめておきたいと思います。


この度、
中井弁常居士著『乳房のひととせ 上巻』(のコピー)を再読し、
とても興味深い記事が目に留まりました。

弁常居士、恒村夏山師等が発行されていた、
『光明』誌の掲載内容の記述です。

一つ目は、
弁栄聖者の既執筆の「浄土教義」の転載を見合わす替りに、
聖者の絶筆(?)となる新たな「弥陀教義」の連載記録と、
今後、「(弁栄)上人」の尊称を書かず、名だけ(弁栄)にせよ、
と弁栄聖者からご注意を頂いた、との記事がありました。

○ 「浄土教義」とは、
大正三年に、聖者執筆による六十数ページのものかと思われます。
「弥陀教義」は、
弁栄聖者三十三回忌の記念に、恒村夏山師により発刊。
※ このことは、
「解題  大南龍昇」(山崎弁栄著『人生の帰趣』(2018年4月刊 岩波文庫版))
に関連記載があります。

○ 弁栄聖者の「尊称」問題は、
聖者の御在世中からあったようで、

「上人は、弁栄上人ただ一人。
他の布教者は、僧俗を問わず、「先生」と呼ぶ。」


とは、弁常居士の提案

弁栄聖者のご遷化の後、
光明会内で、「弁栄教学」を巡っての意見の相違、
伝道、広報、組織上の問題等が顕在化し、
その収拾のための、一打開策でもあったようです。

弁栄聖者に関する尊称、表記問題は、
現実的には、大変微妙な問題を含み、
難しいところがあるように思われます。

このブログにおける「弁栄聖者」の尊称表記、聖者に対する言葉使い、態度等について、
違和感を覚えられていらっしゃる方もおられると思います。

いい機会ですので、
このブログでの考え方を明記しておきたいと思います。

弁栄聖者は、光明主義提唱者として尊崇する御方、
という面では、私的(「身内的」)であり、
不特定多数の方がご覧になる可能性の高いブログでご紹介する際には、
「(山崎)弁栄」常識、慣例的には適切といえるかと思われます。

一方、「(山崎)弁栄聖者」は、
「光明主義の提唱者」といった一主義、一組織のちっぽけな御方ではなく、
「宗派宗教を超越した」”人類の師”ともいうべき、
その意味では、「”人類の遺産”ともいうべき公的な尊崇すべき聖者」
といった側面があるようにも強く感じています。

「私的でありながら公的な存在でもある」

このような実感から、
このブログでは「弁栄聖者」という尊称表記と聖者に対する言葉使いとなっております。


更に、もう一点、興味深い記載は、

『光明』誌の八号から、
「阿弥陀仏(ポール ケーラス著より転載)」とあります。
この転載が誰の提案かが気になるところです。

何故ならば、
「阿弥陀仏(ポール ケーラス著)」の翻訳者が、
『日本的霊性』の著者、鈴木大拙氏であるからです。
(ただし、『日本的霊性』の初版は、昭和19年(1944年)で、弁栄聖者のご遷化後。)

更に言えば、
ポール・ケーラスは、
大拙氏とその師、
夏目漱石が参禅した釈宗演老師とも縁が深かった。
宗演老師は、鎌倉の円覚寺、建長寺の管長、
管長を退かれた後は東慶寺の住職を務められ、
明治26年(1893)、シカゴでの万国宗教会議に出席。

釈宗演老師と鈴木大拙氏は、
世界に「禅(ZEN)」を広めた功労者として知られています。

ちなみに、
東慶寺には、釈宗演老師の墓があり、
また、著名人のお墓も数多くあり、
例えば、(敬称略)
鈴木大拙西田幾多郎和辻哲郎小林秀雄の墓があります。
近くには、大拙ゆかりの「松ヶ岡文庫」もあります。
なお、
井筒俊彦の墓は、 円覚寺 頭塔 「雲頂庵」にあります。


弁栄聖者と釈宗演老師との関係が気になり出したところ、
ネットで公開されている、
「一般財団法人 光明会」の会誌『ひかり』の連載記事に目が留まりました。

聖者の俤 No.59
『乳房のひととせ 下巻』 (中井常次郎(弁常居士)著)
聖者ご法話聞き書き(別時中の法話) 3
聞き書き その八 別時中の法話〈つづき〉
大正9年6月2日 黒谷光明寺塔頭瑞泉院にて


(三) 霊枢五性 (二日夜の講話)
 霊妙性。において、

「ケーラス博士はあらゆる宗教を研究した人で、世界第一の宗教学者であるが、
シカゴ博覧会の頃「仏陀の福音」という本を著わした。
その中に「火に焼けぬような奇蹟は、正しき人より見れば価値が無い。
実に不可思議なるは阿弥陀仏である。
生死の凡夫を永生の者とするほど大きな奇蹟はない。
而して仏教は最高の宗教である」
と説いてある。」 

ケーラス博士とは、ポール・ケーラスであり、
シカゴ博覧会の一貫として開催されたのが、「万国宗教会議」であり、
釈宗演老師は、その会議に日本代表の一人として参加され講演、
それが縁となり、
ポール・ケーラスにより『仏陀の福音』が著されました。
緒言(序文)は、釈宗演老師、
翻訳者は、鈴木貞太郎(大拙)氏でした。

また、
岡倉天心氏は、「万国宗教会議」を契機に、
ポール・ケーラス、宗演老師とも関係を深めていかれたようです。

なお、
弁栄聖者の高弟、笹本戒浄上人は、
明治四十三(1910)年、37歳時、
まだ、聖者に邂逅される前でしたが、

研究テーマであった「催眠術」に関して、
鈴木大拙氏宅で、西田幾多郎氏に話されたとのこと。
(『笹本戒浄上人伝』より)


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【弁 栄 聖 者(1859年~1920年)】

観相家の花見江南氏は、
中井弁常居士宅にて、聖者の写真を見て、
「今まで何千人も観たが
これほど円満なお顔を見たことはない。
この人の言うことなら間違いない」

と言って光明会に入信されたとのこと。

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【釈宗演老師(1859年~1919年)】

1887年(明治20年)、27才の時に、
山岡鉄舟、福沢諭吉等の勧めもあり、
セイロン(現スリランカ)へ渡航し、南方仏教(パーリ語、経典、戒律)を学ぶ。
山岡鉄舟から、
「和尚の目は鋭すぎる。もっと馬鹿にならないかん。
インドでも行ってこい。」と押された。」



真に興味深いことに、
弁栄聖者と釈宗演老師は、
文字通り、同時代を生きられました。

宗演老師は、
当時「世界的規模で活躍」された破格の禅僧。

弁栄聖者は、
主として日本全国の布教活動でしたが、
悟境の深さと宗教哲学・思想上の深遠さに於いて、
「宗派宗教、時代、地球を超越」した宇宙的スケール
の浄土門の布教者。

「他仏を念じて自仏を作る」

「超在一神的汎神教」こそ、
”大乗仏陀釈尊の真精神” と喝破
された弁栄聖者。


能礼所礼性空寂
感応道交難思議
故我頂礼無上尊


「座禅はやっても、
ここ迄出て来なければ駄目だ」

(「ここまで座禅もやらなければ駄目だ」と伝えられてきた言葉を、
上の言葉に訂正下さいとは、杉田善孝上人のご教示。)
と、中国の座禅をよくした居士の言葉を引用して、
弁栄聖者は高弟の笹本戒浄上人にご教示。

当時、無相法身を所期とする「禅宗流の念仏」の癖から、
なかなか抜け出せずに苦心されていた戒浄上人でしたが、
聖者のこのご教示により、長年の疑問が晴れたという逸話が伝えられています。

なお、
弁栄聖者が三身四智の仏眼に依り三昧直観された、
「超在一神的汎神教」とは、

「宗教種類多けれど 通じて二性に分かつべし
理感二性は能と所の 二動の動機によればなり
理性は形式動機にて 先天自性を開くなり
感性内容動機にて 後天恩寵を受くるとぞ
前は自性の天真を 開悟し解脱を宗とせり
後は絶対我を投じ 救霊(すくい)の力を仰ぐなり

今は二性を綜合し 天真自性を開きつつ
恩寵に感性充たされて 開発霊化を期するなれ」

(「諸教の宗趣」の精髄箇所、P52~P53
仏陀禅那弁栄聖者著『光明主義玄義(ワイド増訂版)』)



「弁栄聖者と釈宗演老師との関連性」については、
今のところは、この程度の情報です。

ご参考までに、
ポール・ケーラス、釈宗演老師、鈴木大拙氏関連で、
ネットで公開され読める、興味深い論考を二つほどご紹介したいと思います。

○ 「信と知―無差別智と大悲
仏教とキリスト教に通底する霊性の自覚
上智大学名誉教授 田中 裕」
(『東西宗教研究 第17号・2018年』)


○ 「1893年 シカゴ万国宗教会議における
日本仏教代表 釈宗演の演説
ー「近代仏教」伝播の観点からー
那須理香(国際基督教大学大学院博士後期課程)」
『日本語・日本学研究 5, 81-94, 2015』



2018年の本年は、
釈宗演老師100回忌

また、
2018年6月4日~8月6日まで、
釈宗演遠諱100年記念特別展
「釈宗演と近代日本ー若き禅僧、世界を駆けるー」
を、
慶應義塾図書館展示室と
慶應義塾大学アート・スペース
で開催中。

ただし、
慶應義塾大学の敷地外のアート・スペースでは、
原則として平日で、17時まで
図録等の販売等は、慶應義塾大学アート・スペースでのみ
となっていますので、くれぐれもご注意してお出かけ下さい。


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「弘龍庵本部」は、
JR紀勢本線(きのくに線)の切目駅が最寄駅。

以下、「弘龍庵」のご紹介をいたしますが、
ご紹介不十分、理解不十分な点があるかと思われますので、
あらかじめお断りし、お許し願いたいと思います。

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「南葵光明会」と「弘龍庵」は、
兄妹関係ともいうべき法縁
があります。

ただし、「弘龍庵」は、独自の発展を続けており、
大阪にも支部があるようです。

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弘龍庵では、
弁栄聖者作成の『如来光明礼拝儀』を基に、
独自の『弘龍庵 勤行式』を用いています。
ただし、光明会の会所では必ずある、
弁栄聖者の「三昧仏様(お絵像)」は無いようです。

「弘龍庵」との因縁は以下のようです。

既に多くの奇跡を現され、村人から「教祖様」と慕われていた、
中村公子女史が、
昭和17年5月に、中井弁常居士宅を訪問されました。

公子女史は、
「現世利益を願う信者の多いこの素朴な教団に
光明主義のみ教えを伝え」

ようと努力をされました。
そこで、弁栄聖者の光明主義に共鳴され、
『如来光明礼拝儀』を経典として採用されました。

既に中井弁常居士が逝去されていた関係もあり、
昭和二十五年に、
「宗教法人 弘龍庵」として発足
されたようです。

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道路沿いにこの石碑の目印があり、
この脇道へ曲がります。

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「弘龍庵」の創始者、中村公子師ゆかりの立派な建物があります。

高野山を模されているのかもしれません。

こちらは、
教祖中村公子祖廟のある「生歓殿」。

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「教祖 聖徳公子之像」

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「生歓殿」を更に進みますと、
観音山として親しまれる「弘龍庵 奥之院」があります。

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こちらの境内には、
観音堂他、教祖聖徳公子墓所があります。

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テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-04-09

大阪府茨木市東福井「如来光明会」創始者”熊野好月”女史と”弁栄聖者”


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阪急バス「福井宮の前」停留所下車8分。
茨木ICからは車で約5分。

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大阪府茨木市東福井にある、
「浄土宗 如来光明寺」。

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如来光明寺沿革
明治、大正の時代に活躍された浄土宗の高僧、
山崎辨栄聖者(1859~1920;佛陀禅那辨栄と號す)
の主唱された『光明主義』の念仏道場として、
熊野好月大禅尼(1896~1975
;東京跡見女学校・京都第二高等女学校教官
山口県古熊善生寺内室)の発願のもと、
辻田忠兵衛居士(1892~1978;旧春日村村長)の土地の寄進、
久保利夫農学博士(1869~2002;国立奈良女子大学教授・日本菊花協会会長)等の協力を得て、
昭和39年3月16日、吹田市山田の地に在家信者による、
宗教法人『如来光明会』が設立されました。

昭和43年、吹田の地が万博用地として買収されたため、
茨木市福井の当地に移転。
昭和50年法人設立十周年記念として現在の本堂が再建された。
平成6年、眞崎善照師(浄土宗教師)が代表役員に就任し、霊園『光明聖苑』を開設。
平成27年、3月18日、浄土宗に帰属し、『如来光明寺』と成りました。
辨栄聖者筆『親縁の図』『二十五菩薩来迎図』等を所蔵。

以上、「浄土宗 如来光明寺」HPより転載。

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藤本浄本上人の筆。

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向かって左から、

辻田忠兵衛居士
山崎辨栄聖者
熊野好月尼
久保利夫農学博士


の墓石。

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↑ 【弁栄聖者のお墓】

弁栄聖者を「現代の釈尊」と仰がれておられた、
中川弘道上人とのご縁によって、
好月女史は、弁栄聖者にお逢いできました。

弁栄聖者五十回忌の際に結成された全国婦人部。

弁栄聖者は、
信仰教育上におけるご婦人の役割を大変重要視されていたようです。

その初代会長が、好月女史。
二代目が、足利千枝女史。

また、好月女史は、
岡潔博士の妻、みち氏のよき相談相手でもあったようです。

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弁栄聖者の最晩年に随行された熊野好月女史には、
幾つかの著作がありますが、
聖者の御教化の在り方、聖者の御霊格
をうかがい知るのに欠かすことのできない貴重な逸話が記されています。

示唆に富む逸話を幾つかご紹介したいと思います。

○ 「「南無阿弥陀仏」と申す言葉は
あまりに世人に嘲けりの感や縁起の悪いもののように思い込まれておりまして
非常に伝導のさわりになります。
同じ言葉で新時代に適した、
かわった唱え方をお考えになったらいかが
と思います」と申しますと、
お上人様はお笑いになってやがて
「やはり南無阿弥陀仏ですね」と只一言仰せられました。」

○ 「其日々の事を夜かへりみて、懺悔すべし。
しかし、三昧に入る念仏の時には、そんな事は考えず
只如来のお相好(すがた)、御面影を思うべし、
煩悩が起これば只如来様と相談すべし」


○ 「栗のいがでも初めは実を育てるために必要なもので
中の実が熟して来ればひとりでにのぞかれる。
私達も中身が熟せぬうちは煩悩も必要なのである。
稚ない子供が危ない刃物などを持って遊んでいる時、
あぶないと無理に取り上げようとすると
かえって渡すまいとにぎりこむから尚危ない、
他のよいものを示すと持っていたものは自然に捨てて
新しいよいものを手に取るように、
大ミオヤの御育てによってよりよいものを見つけ、戴く、
煩悩の必要がなくなって来る事が大切である。」


○ 「芽ばえたばかりの杉の苗は、
一朝にして天を摩する大木とはならない。
それをはやくのばそうとあせって引きぬくような事をしてはいけない」


○  「自分は如来様という月を指さす指である、
世の人は兎角、指に心をうばわれて肝心の月を見ようとしない」
とお釈迦様もなげいておられる


○ 「救われた嬉しさに伝道者を無暗に有難かって、
肝心の大ミオヤ様をおろそかにする人は必ず失望する時がくる」と。


○ 「世間の人は水の上を歩いたとか、
お酒にかえたとか、手にふれて病気をなおしたとか、
こういう事を大へんな奇蹟として驚く
それは大した事ではない、
それよりも悪の心を善心に立かえらせる。
これ程大きな奇蹟は外にない。」

と常々仰っていらっしゃいました。

○ 「お上人様を特別のお方、不思議なお方と見られておるようでした。
又実際、常人のなし得ない事も何でもないもののように仕てしまわれます。
時々は両手に筆をもち同時に異なった歌を書かれたり、
お米ひと粒に般若心経一巻を書かれたり、

それは人を驚かせる為でなく、
如来様のお慈悲を知らせたさに、
口でいうだけではよりつかないので
何とかしてとのやるせない心から方便としてお用いになった。」

と、好月女史は、『さえらぬ光に遇いて』に記されています。


「宗教家は奇蹟を現わさなくてはつまりません。
釈尊のお弟子でも多くの人が釈尊の教理に服して入道したのではなく、
釈尊の奇蹟に驚嘆してお弟子になっております」。

また「予言ができるとか、病気がなおるとか、
そんな奇蹟がなんの価値がありましょう。
凡夫が仏になる。
これほど大きい奇蹟がまたとありましょう」。


と、 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に、
併記されています。
この併記に、木叉上人の慧眼を感じます。

弁栄聖者の奇蹟に対する、この両面からの捉え方は、
実に的確かつ重要なご指摘だと思われます。


熊野好月女史が、弁栄聖者にご随行の汽車の中でのこと。

「歳は八十位の老爺。
眼が見えぬらしく、ただれつぶれ、
手の甲など鶏の脚のような色で見るも気味の悪い汚いなり。」

弁栄上人をはじめ私達が色々と世話をしていると、
乗客の一人がソッと女史に、

「あの人は梅毒の第三期で伝染するから気をつけなさい」とささやいた。

好月女史は、気が気ではなく、そのことを告げても、
弁栄上人は尚平気で何くれとなく世話をやいておられた。

その世話をやいてくれたことに対する謝意を込めて、
その老爺は、懐から餡パンを取出して、
その汚い手でわしづかみしたパンを弁栄上人と私達に差し上げた。

((注)時期は、大正時代のこと、
弁栄聖者には当時の医学的知識もおありになったようですが、
感染経路等について現在のように解明なされておらず、
ペニシリン普及前のこと。)

その老爺の側に座っておられた上人は、
相変わらず何の屈託もなさそうに小さいいびきをかいて寝ておられたが、

私は、そのパンの処理に、ほとほと困り果て、
とうとう、蟻や魚の餌食になって呉れるように念じつつ、
洗面所の窓から、投げてしまった。

明け方近くになって、

例の老爺も起き、懐から紙袋の口を開いて例のパンを取出して食べ始めた時、

それをご覧になっていた弁栄上人は、
どこにしまっておられたのか、
昨夜貰ったパンをいとも敏速にそっと彼の懐にある紙袋の中に入れられた。

もちろん、眼の見えぬ彼は何も知らずパンをムシャムシャと食べていた。

そのさりげない所作を見られていた好月女史は、
中井常次郎氏から、あなたも早くと厳しく急かされ、
自分の行為を大変恥じ、後悔の念で、涙ぐんでいたところ、
お上人はあたたかな慈顔にえみをうかべて御覧になって只、

「時機を待つのですね。」
と、一と言やわらかに仰っしゃいました。

後年、好月女史は、この時のことを回想され、

「パンはおじいさんの心もきずつけず、袋にかえったのが一番生きるのです。
お上人様はふれる事もふれるものも大事も些事も、
丁度水が流れるように任運無作に事をさばかれ、
そのものは自由に生かされ、いのちを吹きこまれ、
何一つの無駄もありません。

事毎にねばりつき考えぬいた挙句が人をきずつけ物を殺し勝ちであります」と。


↓ 【熊野好月尼のお墓】

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← 【辻田忠兵衛居士の墓】
→ 【久保利夫農学博士の墓】



↓ 周囲は、のどかな田園風景が広がっています。

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2018-03-21

愛媛県松山市「浄福寺」における「弁栄聖者」の御教示&「学信上人」&「ロシア兵墓地」


愛媛県松山市の「浄福寺」、 「大林寺」の大嶋玄瑞上人と、
垣本都夫人と笹本戒浄上人関連記事を記しました。

まだ補足しておきたいことがありますので、
今回は、それらを記しておきたいと思います。


【浄福寺】

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この浄福寺での弁栄聖者の鈴木憲栄上人へのご教示は、
大変貴重なものですので、
それらを含めて是非記しておきたいと思います。

以下、
鈴木憲栄上人著『ミオヤとのめぐり会い』に依ります。

○ある時、突然聖者が、鈴木憲栄青年へ、

「如来様は、あの太陽よりも明るいですね。」

「如来様のお頭の紺青(みどり)の美わしいのを拝すると、
お敬いの心が起こりますねえ。
眉間の白毫相、月のお眉、すずしいお目を拝すると、
清らかな心持ちとなります。
み鼻、そして、燃ゆるようなお唇を拝しますと、
身も心も溶けてゆくようです。
おからだには美しい文(あや)があってそれが透徹っています。」

※ 「聖きみくに」には、
「烏瑟(うしつ)の綠(みどり)は天(そら)にこい」と記されていますが、
「こい」は聖者の方言で、「こえ」の方がよろしいのでしょうね。
聖きみくにを突きぬけた、如来様の無見頂相のこと。」
(これは、杉田善孝上人の貴重なご教示。)

このことと関連したものとして、
冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』には、
次の2点が記されています。

◇「「烏瑟(うしつ)」とは、如来様の御頭の髪である。これが天よりも高い。」
◇「如来様の本当のお姿は、釈尊のように成仏しないと拝めない。
池に映った月が霊応身であり、それに対して本当のお姿を真身という。」


○「如来様のお顔の丈だけでも一丈ばかりありましょうかね」

恍惚として聖者のお話を伺っていた憲栄青年の心に、

「聖者が今仰せられている、如来様のみすがたというのは、
幻のようにおみえになっておられるのではなかろうか。」
との疑念がふと起こった時、間髪を入れず、

「幻覚ではありませんよ。
この世のすがたがみえておって、そこに、如来様が拝めているならば、
それは幻覚といえないこともないでしょう。
しかし、如来様が拝めている時は、
この世界のすがたが見えていない」


と、突然、聖者は仰せられました。

田中木叉上人は、

「乱れざる一心凝りて
感性も理性も眠り 光る霊性」

と、『じひの華つみうた』に、詠っておられます。

○憲栄青年は、聖者に随行され、
「三昧状態」と「三昧発得」とを明確に区別すべきと気づかれ、
「三昧発得」とは、
一時的な、瞬間的な「三昧状態」のことではなく、
常時不断、自由自在な境地のことである、と。

これは、非常に重要な指摘だと思われます。

○「今になって思いますと、
如来様を拝まなければ(見仏すること)ならぬということはありません。
たとえ見仏することが出来なくとも、
如来様のお慈悲が喜べて、有難く念仏することが出来ればよろしい」

と、弁栄聖者が突然、憲栄青年に仰られた。

聖者ご指導の元、一生懸命念仏に励んでいても、なかなか見仏できず、
劣等意識を持ち始めていた時のこと、
憲栄青年は、この聖者のお話はとてもありがたく、
救われたような気持ちになられたそうです。

一方、
聖者は身近の者には、
常に「見仏を所期とせよ」
と仰られていたそうです。

弁栄聖者の最晩年に随行された鈴木憲栄上人は、
弁栄聖者の想い出として、
晩年に、両方を併記されています。

この点に、留意すべきかと思われます。


【田中木叉上人・弁栄聖者・笹本戒浄上人のお墓】

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以前は、松山市の他の箇所にあったようですが、
こちらに移されたようです。

また、戒浄上人を尊崇され、同上人とも因縁の深かった垣本都夫人の分骨は、
戒浄上人のお墓に埋葬されたとのこと。


【長建寺】

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佐々木為興上人のご自坊、
広島県二廿市市の「潮音寺」には、
学信上人のお墓がありましたが、
ここ「長建寺」で、学信上人のお墓に出会い、
何か、学信上人との不思議なご縁を感じました。

また、同市「大林寺」の第十四代住職は、
伊予奇談伝説の「墓で生まれた学信和尚」。

【十五世 学信上人のお墓】

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【ロシア兵墓地】

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ロシア兵捕虜は、松山では概ね厚遇であったようです。

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弁栄聖者の御晩年には、
日露戦争などもありましたが、
聖者は、浄土宗内の組織的な関わりを始め、
政治的な事柄からは、生涯に渡り、距離を置かれていたように思われます。

「宗教と政治、組織との関わり」は、永遠の課題
と云い得るほどの難題の一つではありますが、
浄土宗内では、
椎尾弁匡上人の社会運動「共生運動」が起こりました。

ある時、信者の方が、
「弁栄上人のような御方こそ、政治家になっていただきたい。」
と懇願された際に、

「私は、もっと大きな仕事をしていますから。」
とお応えになっておられます。

弁栄聖者のご真意を推し量ることは困難ですが、

「念仏三昧に依り「大ミオヤの四大智慧」を蒙り、
「三身四智の仏眼を体得」してこそ、初めて、
政治の根幹をなす「八正道」を実行することが、可能となる。」


との弁栄聖者の御信念であったとご拝察いたします。

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2018-02-13

「念仏の択法は主義上の重大問題ですから、壁に向かって一人言云ってでも、曲げてはなりません。」(笹本戒浄上人の垣本都夫人へのご教示)


前回記事にしましたが、
笹本戒浄上人のご薫陶を受けられた垣本都夫人。

戒浄上人と垣本夫人に関わる逸話において、
主義上欠かすことのできない極めて重要なエピソードがあります。

以下、『笹本戒浄上人伝』によります。

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【笹本戒浄上人(64歳) 昭和12年3月 松山大林寺】

垣本夫人が某教授と「念仏択法」について議論となり、
随分と苦労されていた折、
昭和12年、笹本戒浄上人御来松時、
無問自説に、

「念仏の択法は主義上の重大問題ですから、
幾ら迫害を受けましても、又誰も聞いてくれる者がありませんでも、
壁に向かって一人言云ってでも、主義上の大切な問題
です。
曲げてはなりません。
若し此の点を妥協するなら雑草の如き宗教の数多き中に
光明主義として態々説き出す必要はありません。」
と厳然として仰せられました。

戒浄上人の堅固な護法精神を象徴する逸話です。

また、
(橋本徳冏氏)
 「浄土宗内では、まだ光明主義は異安心であるとか、
見仏は異安心だ、などという人もありますが・・・」

(戒浄上人)
 「そのようでございますな。
しかし、それは卑怯というものです。
浄土宗はすべからず法廷を開くべきです。
そのとき私は法廷に立ちます。
その結果、光明主義・見仏がいけないというなら、
あなた方こそ法然上人の真精神を壊すものだ、
あなた方こそ浄土宗を出ていらっしゃい、と申します。」

と、断固お答えになった。

弁栄聖者の直弟子の中で、
「念仏の択法」すなわち「起行の用心」について、
笹本戒浄上人ほどこの点を強調されたお方はなかったと思われます。


戒浄上人ご遷化の7年程前の、
昭和5年1月に、
宗乗の統一を計る前に協議をとの意図で、
浄土宗務所主催の「布教要義研究会」(「信仰会議」)が開催されました。
会議の詳細について明らかにはされなかったようです。

主だった出席者を記します(敬称略)と、
桑門秀我、望月信亨、矢吹慶輝、岩井智海、渡辺海旭、
笹本戒浄、藤本浄本、熊野宗純、土屋観道、
椎尾弁匡。


出席者からみても、
浄土宗務局からの「光明主義」、「真生主義」と「共生会」の検証、
といった意味合いが濃厚であったようで、
「昭和の大原談義」とも評されていたようです。

この会議について、
「宗務当局はよいことを言ってくれた。」
と戒浄上人は言われたそうですが、
また同時に、
「ひょっとすると今回私は
お寺から出て行かなければならなくなるかもしれません」

と慶運寺総代宅へ行かれ、ご挨拶をされたそうです。


『教学週報』掲載の会議の「申合せ事項」のうち、

「宗乗闡明の根本精神としては宗祖を中心とし
教化の基準を一枚起請文に置くこと」


との項目があり、そのことについて、
戒浄上人は、大谷仙界上人宛の書簡で、

「この申合せ事項」の内に、公表せざる申合せがあり、
それは、
「布教の基準を一枚起請文となすこと、
但しその説明は自由たるべき事
との但し書があったとのことです。

この但し書は、
光明会側での同志討ちを避け、
光明会側の意志の統一をはかられた
とのことです。
(註 当時光明会内では、藤本浄本上人の”安心往生派”
笹本戒浄上人の”見仏成仏派”との軋轢があったようです。)

なお、
主務所側の渡辺海旭博士の対応について、
「大変度量の大きい方だ」と戒浄上人はほめれておられたようです。

また、望月信亨博士は、
「笹本先生は悟りにおいて当代の第一人者だ」
と側近の教え子に洩らされた。(岸覚勇氏談)

ただし、
これにて一件落着といったはずはなく、

後に、
岩井智海大僧正は、ご在任中、
光明会総監であった笹本戒浄上人に、
「質ねたい儀があるから祖山にくるように」との呼び出しがあり、
その時、浄土宗全書第十巻(第二祖鎮西上人の著作所収)を持参され、
その典拠を指摘しながら光明主義の説明をされた。
その時特に何も申されず、そのまま対面は終わったとのこと。

かくて、
浄土宗当局の光明主義に対する態度は明確にされないまま、
現在に至っている
ようです。

以上、 「信仰会議について」『笹本戒浄上人伝』より。


「見仏」を巡る批判、議論は、
弁栄聖者の御在世中、御遷化後も、
浄土宗内は云うに及ばず光明会内でも、
現在に至っても統一されていない最大の懸案事項かと思われます。

「念仏の択法は主義上の重大問題ですから、
幾ら迫害を受けましても、又誰も聞いてくれる者がありませんでも、
壁に向かって一人言云ってでも、主義上の大切な問題
です。
曲げてはなりません。」

”偏狭な堅い信念”とも受け取られかねない、この笹本戒浄上人の堅い信念
この妥協を許さぬ信念はどこから来るのか、その由来を考えてみる必要があるかと思われます。

それは、弁栄聖者がご唱導された見仏観は、
「三身四智の仏眼」を体得され、
それを歴史上、外部に漏らされた聖者のご内証による、
大宇宙の真相、すなわち、超在一神的汎神に基づく仏身観に依るものであったことに由来すると推察されます。

すなわち、
弁栄聖者の修道論である見仏論は、
仏身論から必然的に導かれたものである故に、
笹本戒浄上人は、その真精神を「直線道」と名づけらたと推察されます。

ただし、ここで留意すべき点があり、
「直線道」とは、主として修道論におけるものであり、
「度生論」におけるものでは必ずしもない。
この区別は峻別すべきであると思われます。

また、
この両面が自然に行え得るのは、
三身四智の仏眼を体得された弁栄聖者のような、
「大ミオヤのお世継ぎ」の境界においてである点です。


弁栄聖者が三昧直観された、
大宇宙の真相、すなわち、超在一神的汎神たる仏身観とは、
通仏教の無始無終の無相「法身」に規定された、
相対的な有始無終の「報身」ではなく、
「報身」無始無終であり、
大宇宙全一の絶対的現象態(妙身相好身本より在します)
三身即一の本有無作(無始無終)の内的目的論的報身を「大ミオヤ」
如来観を定義し直しされました。

なお、笹本戒浄上人に依りますと、
この仏身観は、三身四智の仏眼の境界において、
初めて認識可能となる大宇宙の真相
であるとのことです。

弁栄聖者独自の「見仏論」ご首唱の真意
笹本戒浄上人の「直線道」の深意は、
上述の光明主義独自の仏身論解釈、理解を経て、
初めて認識可能となるものと思われます。

また、修道論上、極めて重要なことは、
大宇宙全一の絶対無規定、絶対的現象態たる「報身」が、
大宇宙の絶対中心であるという点です。

この中心とは、場所的、重心的な中心という意味ではなく、
機能的中心という意味であり、
修道論上は、各自の「真正面」となります。

河波昌(定)東洋大学名誉教授、元光明会上首、元光明園園主は、
西田幾多郎博士の思想を引用され、

「無限円においては、至る処が中心である。」

という認識を大変気に入られたようで、ご法話、論文等にもよく引用されました。

なお、この言葉は、
中世のフランシスコ会修道士のボナヴェントゥラのもの。


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【田中木叉(モクシャ)上人(1884年~1974年)】

最後に、
弁栄聖者三十三回忌(昭和27 1952年)における、
田中木叉上人のご法話の抜粋(大意)を記します。

「光明主義は、聖浄二門を納め統一したみ教えであって
浄土宗の内に光明主義があるのではなく、
光明主義の内に、
浄土宗あり、真宗あり、禅宗あり、真言宗あり、
またキリスト教あり、マホメット教がある。

従ってバイブルによって光明主義を説くこともできれば、
真宗の教えによって光明主義を説くことできる。

弁栄聖者は実に破邪顕正ではなく、破邪なき顕正であった。
一切のものにそれではいけないこれが正しい、
というように破邪をおやりにならず、
常に一切を生かされた。
一宗を建てられた方々は、たいてい法難に会っておられるが、
聖者は法難にお会いにならなかった。
法難にも会わないようなものは、本物ではないが、
また、法難に会うようではまだ円満とはいえない。
聖者は実に円満具足のお方で、
破邪なき顕正で在したればこそ、
法難等にもお会いにならなかった
のである。

光明主義は、万教を摂し統一したみ教えであり、
万教に通ずるみ教えであるから、
一切あるがままにおいて
その教えに従って光明主義の教えを説くことができるのである。

またこれらの意味において
浄土宗その他の宗団に所属しない光明主義の教会及び
これらを包括する包括団体ができよう
し、
またこれができたとしても、別の分派ができたと思って驚いてはいけない。
また、対立してはならない。
同じように円満に手をつないでゆかねばならないのである。」

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2018-01-18

愛媛県松山市「大林寺」、”松山光明会育ての母” 垣本都夫人と笹本戒浄上人


弁栄聖者は、ご婦人の役割を重要視されていたようです。

光明会を裏で支えた存在として、
ご婦人方の役割を決して忘れてはならないと思います。

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【垣本都夫人 昭和56年8月往生 世寿93歳】
(写真は昭和56年春 「弁栄上人展」の際)


愛媛県松山市「大林寺」における「松山光明会」の発展は、
”松山光明会育ての母”ともいうべき垣本都夫人
の存在抜きには考えられないように思われます。

垣本夫人のお写真を拝見した時、
評論家の小林秀雄氏の晩年の姿が連想されました。
”女丈夫”ともいうべき内面を感受したのかもしれません。

垣本夫人には、
”人に親切な慈悲深い”面もあったようですが、
その活動を支えた”背筋がシャンとした”姿勢は、
生涯貫かれていたように思われます。

この写真撮影時のエピソードとして、
松山光明会にご縁の深かった山本空外上人は、

「垣本さんは紋服(大林寺ゆかりの久松元殿様より頂いたものと聞く)
を着て堂々としておられたが、
あれは皆気がつかなかったけれど、
お別れのご挨拶だったのですよ」
と話しておられたようです。

また、
光明会の歴史上、重要な役割を果たされたご婦人が幾人もおられますが、

「松山光明会」の垣本都夫人のことを考えます時、
何故か、東京「一行院」にあった「東京光明会」の、
中井とき夫人のことが思い出されます。

東京「一行院」とは、
徳本行者往生の地であり、
中井とき夫人は、
弁栄聖者の在家の弟子、中井常次郎氏(弁常居士)の義理の妹。


垣本都夫人の逸話も大変示唆に富み、また、大変興味深いので、
是非ご紹介したいと思います。

垣本都夫人は、在家でありましたが、

最初に如来様におめにかかった時に、
「如来様の御顔がぼぉーとしてはっきりと拝めませんでした」。
そのことを笹本戒浄上人にご報告しますと、

「如来様をお慕いする気持ち(情)が足りないからである。」
とお叱りを受けたそうです。(杉田善孝上人談)

また、
垣本さん、人間はいつも頭に落雷があっても、
魂に怪我をしないだけのお念仏
をしておらなければなりません。
それでないと人生に行き詰ることがあります」と。

垣本夫人は、更に如来様の霊育を受けられ、
後に、慧眼と法眼が開かれたそうです。


学生たちが笹本戒浄上人のみ教えを聞きかじり、
「見仏、見仏」
と騒いでいると、

「真の見仏とは、そんなちっぽけなものではない。
大宇宙の真精神をくみとり、
それがその人の人格と生活とに現われ出る
ようなものでなければならない。と。

「見仏」による心身の霊化(仏化)
その甚深なる真の意義を認識されていた実体験者
垣本都夫人による極めて重要なご訓戒


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【昭和12年3月 松山大林寺における
笹本戒浄上人最後のお別時】



垣本都夫人は、笹本戒浄上人を大変尊崇されていたようですが、
また、戒浄上人とのご縁も深かったようです。

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【笹本戒浄上人(64歳) 昭和12年3月 松山大林寺】

(戒浄上人)「この度が最後のお別れで御座います。
御体に気をつけて主義をよろしく」
(垣本夫人)「必ず年に一度は御指導下さるお約束でしたがー」
(戒浄上人)「ハイ、今回で如来様の思召しは無いと存じます・・・」


同年、昭和12年(1937年)7月26日、
笹本戒浄上人、ご遷化。


翌日、7月27日早朝
大嶋玄瑞上人が、戒浄上人ご遷化の電報をもって、
垣本夫人の部屋に駆けつけ報告する前に、夫人から一言、

「笹本上人が亡くなられましたね。」

また、
戒浄上人ご遷化後、
日夜真に残念に思い、力を落とされていた或る夜の夢に、
戒浄上人がお膝を進められて

「宇宙間の一切を尽くしても「念弥陀三昧」にはかなわないのですから、
勇気を鼓して至心にお念仏なさいませ」
と。

目覚めたら、丁度百ヶ日でした。

前々回、同松山市内の「浄福寺」にある、
弁栄聖者と笹本戒浄上人、田中木叉上人の三基の舎利塔

のことを記事にしましたが、
戒浄上人のご長男の浄光師が分骨を松山に持ってこられました。

戒浄上人のご遺言として、
「戒浄上人のお衣と威儀細」を垣本夫人に渡すように
と記されていたそうです。


「松山光明会」には、
「光明主義の六大特長」を択出された大嶋玄瑞上人
笹本戒浄上人の直弟子中、「記主」ともいうべき泉虎一氏、
笹本戒浄上人の薫陶を受けられた垣本都夫人がおられました。

「松山光明会」が果された意義として、
光明主義教学上、また、浄土宗(乗)との関係上避けては通れぬ
「念仏の択法」
の最重要課題
がありますが、
このことについては、また項を改めて考察したいと思います。


最後に、笹本戒浄上人の垣本都夫人(また我々)へのご教示。

「一心にお念仏しておれば、
三代生れ変る間に必ず親様のお世継になれます。
これは事実でございます。
私は決してうそは申しません。」

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2018-01-01

愛媛県松山市「大林寺 第二十四世 大嶋玄瑞上人」と「松山光明会」


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前回の記事のお寺は、
同松山市内の「浄土宗 浄福寺」で、
大嶋玄瑞上人が、弁栄聖者に真の意味でご邂逅されたお寺。

今回は、大嶋玄瑞上人のお寺で、
旧 伊予松山藩主久松家菩提寺の「大林寺」

学信上人は、大林寺第十二代住職。

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この「浄土宗 大林寺」の文字は、
山本空外上人の筆になるものと思われます。

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「大林寺」は、
戦前と戦後で、雰囲気が大きく変わっているようです。

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大嶋玄瑞上人は、弁栄聖者との御邂逅を、
「盲亀の浮木に逢う如く」に喜ばれたとのこと。

 
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右側に行くと奥には、
旧 伊予松山藩主久松家のお墓。

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  【大嶋玄瑞上人(1883年~1978年)】

大嶋玄瑞上人と弁栄聖者との直接のご縁は、
大正9年6月~大正9年10月
伊予松山「浄福寺」と、広島「心行寺」と京都「知恩院勢至堂」での、
わずか3回のみ
 ※ 弁栄聖者の御遷化は、大正9年12月。

大嶋上人と弁栄聖者との真のご邂逅が、
伊予松山「浄福寺」であったのですが、
そこで、聖者への「全身全霊の信が確立」したのではなく、
「弁栄聖者への信が確りと芽生えた」といった段階であったと推察されます。


大正9年10月、京都「知恩院勢至堂」における、
大嶋玄瑞上人と弁栄聖者との興味深い逸話があります。

知恩院勢至堂にて、京都光明会主催の別時が開催されました。
導師は、弁栄聖者でした。

大嶋上人は、どうしても聖者のお別時に就きたくて、
最終布教先の信州長野から京都へと急ぎ向われました。

京都に着き、
大嶋上人が、弁栄聖者にご挨拶されますと、

「大嶋さん、信州の布教が無事にお済みなさいましたな。」
と聖者が仰っられたので、
大嶋上人は度肝を抜かれました

といいますのも、
大嶋上人は、弁栄聖者のお別時に就くために、
3週間ほどの布教先での御法話を少しずつ縮めて、
予定よりも日程を短縮できました。
そこで、本山へは報告をせずに
急ぎ、信州長野から京都に向ったのでした。

弁栄聖者の直弟子方は各々、
聖者の「三身四智の仏眼」に依る霊(法)力をまざまざと体験され、
そのことも、「弁栄聖者への信」を深める大きな要因になっていることが、
ハッキリと解ります。

大嶋上人が体験されたのは、
弁栄聖者の三身四智の仏眼、その「大円鏡智」の働きであったわけです。

弁栄聖者への信を深められた大嶋玄瑞上人は、
聖者ご遷化後、昭和3~4年から5年かけて
弁栄聖者の御遺稿(『ミオヤの光』、『人生の帰趣』、『無辺光』)等を熟読され、
また、笹本戒浄上人はじめ聖者直弟子方のご法話等もご参考にされながら、
「光明主義教学」を研究され、
「光明主義の六大特長」を決択されました。

「光明主義の特長」とは、
弁栄聖者によって開顕された「大宇宙(自然界と心霊界)の真相」
といった意味です。

六つの内容、項目は、次のとおり。

一、 十二光
二、 三十七道品
三、 縁起実相を統一調和せる王三昧ー弥陀三昧
四、 念仏の初発心より見仏して成仏、
無限に向上さして戴く終りまで信念の変更を要せず
五、 無明
六、 主観客観いづれに偏(カタヨル)してもタンパンカン


この「光明主義の六大特長」は、
『笹本戒浄上人全集』が出版された昭和50年代の前半頃まで、
光明会内で流布されていたようで、

笹本戒浄上人は、
「正にそのとおりであり、間違っているところはない。」
とお認めになられたそうです。

ただし、続けて、
戒浄上人の直弟子、泉虎一氏に、
「あの六大特長は、
光明主義の特長の全部を厳密に述べたものではない。
後日、補完するように。」
と御遺言(託)されたとのことです。


現在では、
泉虎一氏、杉田善孝上人等、笹本戒浄上人の弟子方に依って、
『光明主義玄義(ワイド版)』の最後に、
「光明主義の主要特徴」として、
一往「十三項目の特徴」として補完されていますので、
是非、お読みになってご確認ください。


大嶋上人の思い出話の中で、
示唆に富み、印象深い逸話が、
まだ幾つかありますので、記しておきたいと思います。

○ 【弁栄聖者の大嶋玄瑞上人へのご教示】

 ・ 「我(弁栄)は、釈尊がお説き残しの法を説く。」

 ・ 【筑波山での念仏三昧発得偈】について
   (明治十五年、弁栄聖者二十四歳時)

「弥陀身心遍法界
 衆生念仏仏還念
 一心専念能所亡
 果満覚王独了々」


この「念仏三昧発得偈」の内実について、
弁栄聖者は、笹本戒浄上人と大嶋玄瑞上人に自内証を漏らされたようですが、
その内容について、泉虎一氏と杉田善孝上人のお二人が協力してまとめられています。
とても貴重なものですので、少し長くなりますが記します。

「念に応じて
お顔の丈が一丈五尺位の如来様のお姿がお現われになるが、
初めは私共が互いに向いあって
相手のお方のお顔を見ているのと同じ状態から、
間もなく向きをかえて、如来様と弁栄聖者が一つになって、
自分で自分の姿を見るようになり、お姿を念じ始めてから、
無限の大宇宙なお入るるに狭しとする
大天大地を貫く大御姿とお成りになる。
念じ始めてから大宇宙を貫く大身の御姿を
しかと見奉るようになるまでの時間は、およそ五分間。
(但しこれは聖者の三昧直観による時間であって、
均質的連続としての物理学的時間とは
根本的に区別されるべきである)」。



○ 【大嶋上人の「弁栄聖者観」、「笹本戒浄上人観」】

弁栄聖者の在家の直弟子、京都帝国大学工学部講師、
中井常次郎(弁常居士)氏が、笹本戒浄上人の講演の後、

「いったい笹本上人は弁栄上人に比べたら、
夜這星(よばいぼし)と恒星との区別があります。」

と言われたことがあったそうです。

その時、戒浄上人は、
「いや、恐ろしいことで。
夜這星と恒星と比較して頂くほどでももったいない」

と言われ、ニコニコしておられたそうです。

この逸話の年代が知りたいところですが、
それはそれとして、この逸話がとても興味深いのは、
中井常次郎氏と笹本戒浄上人の人柄の特徴がよく表れていると思われる点です。

中井常次郎氏は、科学者であり、
「真理の前には、誰もが皆平等である。」との信念があったのでしょうか、
また、”直言居士”の面目躍如。

一方の笹本戒浄上人は、
弁栄聖者ご在世当時から、
とても謙虚な人格者との評判の高かったお方。

戒浄上人のこのご発言、ご対応は、
内心の怒りを抑制され、謙虚と思われる”大人の対応”をされたのではなく、
戒浄上人は、心底からそう思ってのごく自然な対応であったと推察されます。

「弁栄聖者を仏様」として心底拝めておられた戒浄上人です。

”桁違いに格の違う人物”に対しては、
人は、競争心(嫉妬)などいだかぬものであり、

その様な人物には、
無私になって接した方が、かえって、自分がより活きる、
といった逆説が生じるものではないでしょうか?

「私の一生は、砂浜で美しい貝殻を拾って喜んでいる子どものようなものだった。
真理の大海は目の前に未知のまま広がっている。」


ニュートンの言葉であったように記憶していますが、

”絶対的な智慧”に対する、
”相対的な理性”の健全な在り方(態度)であるように思われます。


そこを、法然上人は、『一枚起請文』の中で、
「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。」
とご教示されておられます。


「笹本上人もそれはご立派であったが、
笹本上人は、一世紀一世紀の時代に出られる聖者で、
弁栄上人は、千年刻みに出られる聖者です。」



大嶋玄瑞上人の晩年における、
「弁栄聖者観」と「笹本戒浄上人観」。



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左側に行き直ぐ右側に、大嶋玄瑞上人のお墓


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【法名 本蓮社正僧正達誉上人性阿無三湛然玄瑞老和尚
大林寺第廿四世】


大嶋玄瑞上人のご西化は、昭和53年。
世寿95歳

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大嶋玄瑞上人、垣本都氏が中心となって、
「松山光明会」が発足、発展していったようです。

笹本戒浄上人、熊野宗純上人 藤本浄本上人
大谷仙界上人中川察道上人等、
弁栄聖者の直弟子方によって、お別時が開催されていたようです。

なお、
大林寺は、「松山光明会」発足当時、
旧制松山高等学校の仮宿舎であったため、生徒への影響が大きく、
後の光明会に大きな影響を与えた方々が多数輩出されました。
主だった方々のお名前を記しますと、

 川本正良氏(松山高等学校ドイツ語教授、俳人(雅号臥風)、松山光明会員)
 垣本都氏(松山光明会の育ての親)
 山本空外上人(光明修養会元上首)
 岡本薫氏(神奈川県相模原 光明学園学長)
 泉虎一氏(笹本戒浄上人の直弟子)
 蛯名寿家夫氏(月照寮同人、
『真実の自己』(笹本戒浄上人述)を英訳する会代表)

※ 「松山光明会」の現在の活動状況等については、
残念ながら、不明です。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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