2017-10-01

佐々木為興上人の弁栄聖者との邂逅を巡って・・・


弁栄聖者の最晩年に聖者に邂逅され、聖者のご遷化まで随行された佐々木為興上人だけありまして、
為興上人の聖者の逸話には、とても有益で示唆に富み、かつ興味深いものが多いです。

今回は、前回、前々回に引き続き、為興上人の弁栄聖者の想い出と、
”弁栄聖者の法然上人観”を中心に記します。

○ 広島県広島市中区白鳥「心行寺 第十五代住職」佐々木為興上人と弁栄聖者

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ここ心行寺は、熊野宗純上人が弁栄聖者に初めて値遇されたところ。
熊野上人は、当時浄土宗布教界の第一人者と言われ、
笹本戒浄上人のあと、全国光明会連合会の二代目総監

更に、このお寺で、後、信州松本光明会の生み育ての親、
多田助一郎氏の妹が聖者に遇われ、大変感激され、
弁栄聖者に是非会われるよう、兄である助一郎氏に強く勧められたご縁により、
信州上諏訪「正願寺」で、聖者と結縁されました。

風光明媚な信州鉢伏山での別時(現在閉鎖)の開催、継続は、
多田助一郎氏のご尽力による賜物でした。
藤本浄本上人も導師としてご教化にあたられました。
また、そこには、浄本上人と椎尾弁匡博士の石碑も建っています。


”ご縁”の不思議さ、有難さを、大切さを感じます。


○ 広島県二廿市市「潮音寺」 第34世住職 佐々木為興上人と弁栄聖者

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「潮音寺」は、弁栄聖者が「念仏三十七道品」を講説されたお寺。

「念仏三十七道品」の内容は、詳しくは、
弁栄聖者光明体系の『難思光・無称光・超日月光』に記されています。
なお、この御遺稿の発行は昭和39年で、佐々木為興上人ご西化後であり、
『佐々木為興上人遺文集 藤堂俊章編』には、
為興上人の「念仏三十七道品」に関するご法話が収録されています。


(注) 書籍のご購入は、「光明会本部聖堂」で販売されています。
「岐阜光明会」のHPには、PDF化されアップされています。
更には、『弁栄聖者の光明体系』等が、PDF化されています。

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この「念仏三十七道品」関連のご法話でのことであったと記憶していますが、

「弁栄聖者は、”分かったようで、分からん”という説かれ方をされている。
これは、達人ならではの文章です。」

といった趣旨を、杉田善孝上人がご教示されたことがありました。

当時、”禅の悟りマニュアル”といった類の本が出回ったことがあったそうです。

聖者のこの独特の説かれ方は、
一つには、この類の”あんちょこ(虎の巻)”防止といったご配慮から。

”冷暖自知”故に、言葉では説き尽せず
実際の霊育過程は、個々区々であり、定まった道はなく
霊幾過程に関する固定観念(先入観)を植え付けないため
といったご配慮によるほか、
 ”全く分からん”では、”我この道を行く”といった気概が削がれ
また、あまりに巧みに説かれていると、
頭で分かったつもりになってしまい、
真の奥義に到達する前に修行が停滞することを未然に防ぐ
といったご配慮もあったかと推察いたします。

ただし、成仏への霊育過程には、道標(みちしるべ)は不可欠で、
未知の領域へ踏み入む場合には先達の導きが欠かせず、
「徒手空拳」は、甚だ難行苦行であり、効果も少なく、
時に、危険さえ伴う
と思われます。


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【佐々木為興上人(1888年~1955年) 世寿67歳】
法名:「安蓮社正僧正禅誉上人法阿実禅為興大和尚」


話は変わりますが、
佐々木為興上人に弁栄聖者へのご縁をつけられた恩人大谷仙界上人と共に、
聖者に随行され始めたのは、大正8年7月からのこと。
聖者の御遷化は、大正9年12月

聖光(鎮西)上人が法然上人に邂逅されたのが、
法然上人が65歳、聖光(鎮西)上人36歳
聖光(鎮西)上人は6年間、法然上人のもとで生活を共にされます。
法然上人が66歳で”三昧発得”され、
それからも宗教体験が深まり、円熟期を迎えられた時期にあたります。

弁栄聖者と佐々木為興上人の関係も、まさに聖者の円熟期。
為興上人には、その当時十分に咀嚼できなかった部分もきっとあったと思われます。
しかし、為興上人の弁栄聖者随行録は、この上なく貴重な資料。

今回の記事の主題の一つ、
「弁榮聖者の法然上人観」は、
聖者の講述書である『宗祖の皮髄』においてかなりの程度うかがい知ることができます。
※ 『宗祖の皮髄』は、現在入手可能なものとして、
主に「一般財団法人 光明会」と「光明会本部聖堂」から販売されているものと、
『法然上人の神髄 (現代語訳「山崎弁栄講述 ──『宗祖の皮髄』」) 谷慈義訳 河波定昌 (監修) があります。
「一般財団法人 光明会」のものは、
初版本(笹本戒浄上人の御本)のコピー藤堂恭俊博士による解説の他、
藤堂俊英氏の註記、江島孝導氏の資料探訪記等の記載もあり、研究資料としても有益だと思われます。


聖者は、『宗祖の皮髄』において、法然上人の崇高なご霊格に着目され、

「宗祖の法語には、心行の様を示したまえども、
起行の用心については深く沙汰したまわず。」
と明言され、

法然上人のご霊格(自内証、ご境界)の形成上不可欠な要因を、
「起行の用心にあり」
と喝破され、
法然上人の自内証の真髄と起行の用心の内実を、
伝統的な浄土宗乗の定説である『選択集』と『一枚起請文』には置かず、
法然上人の『ご道詠』と『三昧発得記』にある
着眼しておられます。

弁栄聖者が浄土宗から”異安心(異端者)”扱いされたのは、
この聖者の”法然上人観”にあったと思われます。

『宗祖の皮髄』は、光明主義上とても重要な書であり、
「弁栄聖者なきあと、光明主義は、この書を基にして教義を理解していく」、
といった話し合いがもたれたほどのものです。

ところが、この『宗祖の皮髄』のご講述においては、
法然上人のご道詠十首の内、7首を講演され、
残りの3首は他日に期せれらました。

この点は、この『宗祖の皮髄』の書を通し、”弁栄聖者の法然上人観”を考察する際には、
十分留意すべきかと思われます。

この点に関連することとして、
最晩年の聖者に随行された青年(のち弁護士)の柴武三氏へのご教示は、
とても示唆に富むと思われますので、記しておきたいと思います。


○(『宗祖の皮髄』京都の一音社発行の本を、弁栄聖者が柴武三氏に下された時に添えられた一言)
「これは知恩院で僧侶の方々に説いた話をまとめたものですが、
この話は宗祖(法然上人)の御真意のあるところを少しでも明かそうとして、
宗祖が光明主義であらせられた処を述べたものであります。
しかし、これで光明主義が充分説き明かされたと云うのではないけれども、
その一端を知るには役立つと思いますから、参考のためにお読みなさい。」

○ 「宗祖(法然上人)の御真意(宗祖が実修され実地体験されながら、お説きになっていない処)を顕彰しようと思って、
皆さんにその証拠ともなるべき文献を示そうとして随分捜しましたが、
方便済度の御言葉のみ多く御真意のある処がなかなか見当らないで、ほんとうに苦労致しました。」(弁栄聖者談)



この『宗祖の皮髄』の初版本は、大正5年12月

聖者の時代から、法然上人に関する文献学上の研究も相当進んでいると思われますが、

特に注目すべきは、
大正6年に京都醍醐寺三宝院の宝蔵で発見された、
醍醐本「法然上人伝記」所収の『三昧発得記』。
翌大正7年に、望月信亨博士が論文に発表され、
法然研究の第一級の資料となったもの。

なお、この醍醐本「法然上人伝記」こは、
「悪人正機説」が親鸞聖人の師法然上人のお言葉であることが明記されていることでも画期的な発見であったはずのもの。

ただし、この法然上人の「三昧発得」の記録は、
法然上人66歳から74歳までの9年間のみ
法然上人のご遷化は、80歳


「法然上人は三昧発得の聖者だが、
『三昧発得記』に現われている其の位は、上品中生の位だ。」
(弁栄聖者の佐々木為興上人へのご教示)



弁栄聖者は、藤本浄本上人に、
「光明主義は善導法然の真意を現したものである」とご教示され、
浄本上人は、
「内証の円満し給へる(弁栄)上人は、
定めて三昧境中に、高祖や宗祖に直参して仰せられたことと思います」

とご述懐されています。
なお、藤本浄本上人は、浄土宗の勧学

笹本戒浄上人は、
「善導法然の真意」を、
「(文字としては明記されていない)善導大師法然上人の最晩年、三身四智の仏眼のご境界(自内証、認識)」と。

法然上人の「三昧発得記」に記録されていない75歳からご遷化の80歳までの文献学上の発見が待ち望まれます。

なお、『御臨終日記』には、
「この十余年、常に極楽や仏菩薩の姿を拝してきた」
と法然上人は、今まで秘しておられたご内証の一端をお弟子方に語られました。


なお、藤本浄彦氏(浄土宗総合研究所長、佛教大学名誉教授、西蓮寺住職)は、
藤本浄本上人の孫にあたる御方ですが、
法然上人の『逆修説法』・『三昧発得記』の重要性に着目され、
浄土宗乗の伝統、文献学的見地にも十分配慮され、
法然上人の念仏は、あくまでも「往生のための行業」であると注意喚起をされながらも、
法然上人の念仏三昧発得体験(自内証)を、
”口称念仏の継続”による、不求自得の三昧発得の聖境
と捉えられ、
伝統的な浄土宗乗上踏み込んだ”法然上人観”をご提示されています。
【参照】 藤本浄彦著『法然浄土宗学論究』平楽寺書店

特に、法然上人、浄土宗にご縁、ご関心のある方には、是非、ご一読をお勧めいたします。


ところで、
弁栄聖者の読書態度、その在り様に関し、
「眼光紙背に徹しておられた」と笹本戒浄上人はご述懐、ご感嘆されています。

ある時、戒浄上人が、
『大原談義聞書鈔』について、
古来真偽問題が種々論じられているようですが、
と弁栄聖者に申し上げられたところ、

「聖法然でなければ言うことのできない御言葉が載っている。」
と、文献学上の真偽そのものには直接にはお触れにならずにお答えになったとのことです。


また、弁栄聖者の御遺稿集としてあまり知られていないご著書に、
『啓示の恩寵 阿弥陀経』(弁栄聖者光明体系 智慧光 巻下(開示悟入))という本があります。
戦後間もなく物資の不足している時代に、
田中木叉上人が大変ご苦労され出版されたもので、
紙質が粗悪なため、原書の保存状態がよくなかった本でしたが、
(以前、図書館で手に取った時に、保存状態からこの原書は貸出禁止にした方がよいとさえ思いました)
平成24年12月に、聖堂から補正版が出版されました。

この書について、田中木叉上人は、
「『阿弥陀経』の真理を、お釈迦様以来始めて、弁栄聖者により言われた真理がある。
他の菩薩が教えて下さらなった真理が、弁栄聖者により始めて喝破された」と。

(『田中木叉上人御法話聴書』 冨川 茂 筆記)

なお、このことを裏付ける弁栄聖者のお言葉があります。
「上人 「われはじき六十歳になる。早く三部経を訳さねばならない。
三種に分類して直訳、新訳、新新訳として各信者に分たねばならない。
それには山居して着手するつもりだ。」
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』


また、柴武三氏へは、
「聖者は、前から数か月ほど暇をつくって少し纏まった著述をしたいと仰言っていました。
柴武三氏:「何頁くらいの本になるのですか。」
弁栄聖者:「四百頁ぐらいの本が四冊程です。
無辺光の四大智慧に関するものを書きたい。それを読みなさい。」
これが、弁栄聖者の柴武三氏との最後の言葉となったようです。

※ ご参考までに、岐阜光明会のHPには、
『無辺光』の項目には、田中木叉上人編纂の弁栄聖者の御遺稿のものと、
それを基にした、昭和44年(1969年)発行の講談社版
数学者岡潔博士の「まえがき  無辺光と人類」もPDF化されています。


弁栄聖者一切経を読破されたのは、二十代の半ば頃でしたが、
それは、聖者が筑波山で三昧発得された後であったことに留意する必要があります。
※ 笹本戒浄上人によりますと、
その当時の三昧発得のご境界は、
仏眼でも、「開・示・悟・入」の悟の中程度とのこと。
釈尊のご境界は、入の位、三身四智の仏眼
その究極である認識的一切智
※ 仏眼にも深浅あり

「私は聖典に依て演繹的に説くのでない、帰納的に説いている」
とは、聖者の戒浄上人へのご教示。

弁栄聖者の「一切経読破」とは、正に”心(身)読”というべきもので、
自内証の自己検証、確認作業といった意味合いもあったかと推察されます。


少し横道に逸れますが、
弁栄聖者は、何故か、弘法大師空海を彷彿とさせます。

空海の二十代の修行期間は謎に包まれ、
また、恵果阿闍梨と空海との邂逅の有様(短期間での真言密教の奥義直伝)は、
伝説に包まれている部分があるとはいえ、
若かりし空海が真言密教の奥義を、”既に会得”していればこそだと思えるからです。


大変長くなり申し訳ございませんが、
最後に、ご参考として、記しておきたいことがあります。

弁栄聖者の「五種正行」の御解釈について。

「五種正行」 「行トハ霊的生活の糧」について  

一 読誦正行 「経ハ教祖自カラノ所験、心霊界二誘導」
二 観察正行 「瞑想観念シテ霊的理性ヲ開発ス」
三 礼拝正行 「身口意共二献ゲテ仏力ヲ被ル」
四 称名行   「通ジテ生仏合一、別シテ三義(請求・感謝・咨嗟」
五 讃嘆供養正行
  「(イ)讃嘆 仏徳ヲ讃美シテ如来中ニ逍遥ス」
  「(ロ)供養 我が身ヲ献ゲテ奉仕スルヲ第一ノ供養トス


伝統的浄土宗乗では、
四 称名を正定行とし、
他の、一 読誦正行、二 観察正行、三 礼拝正行、五 讃嘆供養正行を、
前三後一は助業で、正定行の称名念仏を助ける業と捉えていますが、
    
「そうみてはいけない。
此れは何れも正行である。正しき糧である、正しき行である
・・・正行だから、何れを修しても往生できる
だから この助業は、念仏の助業ではない
往生の助業である。往生を助ける業だと解さねばならぬ
善導大師の御著述をよく見れば、確かに此の事が分る。」
『佐々木為興上人遺文集  藤堂俊章編』


次のことも、是非とも記しておきたいと思います。

「橋本徳冏氏が、笹本上人よりうけたまわった話によると、
笹本上人は常に言っておられた。
「弁栄聖者は法然上人の皮も髄もあらわして下さった。」

(『田中木叉上人御法話聴書』 冨川 茂 筆記)

「光明主義は法然浄土宗(法然上人の真精神、髄)。
法然浄土宗と伝統宗乗の浄土宗とを混同してはならない。」(田中木叉上人)

また、
「浄土宗と光明主義とを、同じものあるいは違うものと捉えるのは、間違いである。
”連続の非連続、非連続の連続”、”伝統即創造、創造即伝統”と捉えるべきである。」

(平成28年ご西化 河波定昌 元光明会上首、元光明園園主)
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2017-09-03

広島県二廿市市「潮音寺」 第34世住職 佐々木為興上人と弁栄聖者


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↑ こちらは、廿日市住吉郵便局側の山門

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↓ こちらは、駐車場側。

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前回は、広島市中区白鳥の「心行寺」を記事にしました。

今回は、二廿市市の「潮音寺」
弁栄聖者のご高弟のお一人、佐々木為興上人が、
広島県でご住職を務められていた、もう一つのお寺。

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大正八年(聖者ご遷化は大正九年)、「潮音寺」にて、
弁栄聖者が別時念仏会を指導をされた時に、
「成仏への霊育過程」である「念仏三十七道品」として、
聖者の自内証から講述されました。

このお別時には、
熊野宗純上人、藤本浄本上人、
丹波円浄上人、橋爪実誠上人、荒巻くめ女も参加され、
聖者は、わざわざ神奈川県横浜から、笹本戒浄上人を呼び出されたほどの別時で、
丹波円浄、橋爪実誠両上人による筆記録が残されています。


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二列目中央(左から八人目)が、弁栄聖者
左から三人目が、橋爪実誠上人。
左から五人目が、熊野宗純上人。
左から六人目が、笹本戒浄上人。
左から七人目が、藤本浄本上人。
向かって聖者の右隣りが、丹波円浄上人。
向かって丹波上人の右後ろが、佐々木為興上人。
一列目、丹波上人の前が、荒巻くめ女。

今回は、「念仏三十七道品」の内容には深入りしませんので、
弁栄聖者の「念仏三十七道品」の詳細については、
『難思光・無称光・超日月光』(弁栄聖者光明体系)をご参照ください。


佐々木為興上人の師匠であった白旗安誉師は、
当時広島県下では学問のある者として尊敬を受けており、
当時の学者同様なかなか人を褒めぬ方であったようで、
当初、聖者に対して関心が薄かったようでしたが、

「オー、此れはただの人でないね
此の三十七道品なんていうものは、
浄土教では説かず、浄土教とは無関係と思っていたが、
此れが浄土教的に生きて来た
あれは深玄な体験がなければ、とても説くことが出来ぬものだ
お前はよい人に遇ったね」

と、為興上人の師が初めて褒められたほどでした。

もちろん、聖者直弟子方は、
「此れだけ聞いても、光明主義の信仰に入った価値がある。
非常にありがたい。」

と異口同音に云い合っておられたようです。


佐々木為興上人による「弁栄聖者語録」によりますと、

○ 「光明主義という言葉は他を排するように聞こえて良くない。」
という意味のことを弁栄上人はご御在世中、漏らされたことがあった。

○ 「光明主義は一切経を所依の経典とすべきである。」

○ 「聖道門は仏教の哲学的方面である。浄土門は仏教の宗教的方面である。
聖道門は薬で言えば効能書の様なもので、浄土門は薬の様なものだ。
聖浄二門は互いに軋轢すべきでない、両々相俟たねばならぬ」


○ 「法蔵菩薩を通ずるを旧約と云い、釈尊を通ずるを新約と云う」


以上の点を踏まえますと、以下の聖者のご教示がご理解いただけるかと思います。

○ 「聖教量を堅とし実感を横として」
とは新潟教区教学講習会で浄土教義講演開口の一番のお言葉であった。
この自内証の権威がまず聴聞者の心を引きつけた
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

○ 「私は聖典に依て演繹的に説くのでない、帰納的に説いている」
(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)


「見仏」については、
光明主義、光明会にとって避けて通ることができない難題ですので、
さわりを触れておきます。

大正9年12月4日に、越後柏崎で、
弁栄聖者がご遷化された後、
聖者直弟子方は一丸となって、光明主義を護っていかれました。

ところが、釈尊の十大弟子の如く、
弁栄聖者の直弟子方も、因縁、個性も各々異なり、
弁栄聖者によるご指導、如来様による霊育状態も区々でありましたので、
聖者の御教えの受け取り方にも、微妙に、時には大きく異なる点があったようです。

それらが顕在化したのが、
笹本戒浄上人の「見仏説」藤本浄本上人の「光明生活説」であったようです。

弁栄聖者のご遷化の後、光明会を二分しかねない程の圧力が高まりつつあった時に、

笹本戒浄上人の「見仏説」は、起行の用心で、
藤本浄本上人の「光明生活説」は安心の要領で、
この両方とも光明主義にはなくてはならない重要な教義の問題です」

との佐々木為興上人のご仲介により、
ひとまずは、当時、大事にまでは至らなかったようです。


佐々木為興上人は、
「私も如来様の慈悲の聖容を憶念する行法を取っている。
しかし、誰にでもこの行法を勧めた訳ではない」

と仰れていたようです。


ところが、
「それは弁栄さんの業たい。」
とのあるお上人のご指摘のとおり、
この問題は、光明会、光明主義にとって骨絡みの大難題だと思われます。

これは、弁栄聖者が大宗教家であられた故で、
大宗教家の宿命であったと推察いたします。
大宗教家は、大哲人でもあり
かつ、衆生各々に応じて個別に対応(「対機説法」または「応病与薬」)せざるをえないからで、
「如実知見」とは、それほど私達からはほど遠いものなのだと思われます。

「実践修道論」とは異なり
「衆生の霊育過程、また、化他、度生(衆生済度)には、定まった”直線道”はない。」
ことから必然的に生じる難題であるからです。

弁栄聖者のような御方(三身四智の仏眼を体得された聖者)においてのみ包超される難題であるように思われます。


「弁栄聖者は来たるべき太平洋文化時代にさきがけて
太平洋に面する千葉県に縁起されたのだ」

とは、聖者のご高弟の田中木叉上人の御言葉とのことですが、

弁栄聖者の自内証の真髄は、
日本国内の宗教界、学会等ではなく、
かえって、西欧文化側からの理解、その逆輸入によって再認識されるのかもしれません。


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為興上人による大変貴重な「弁栄聖者の俤」、「聖者語録」はまだあります。


「(侍者 ※ が)ご法話中あまりに喉が渇き、
庫裡にさがって湯呑みでお茶を頂き早く本堂に出たい心から、
その湯呑みを洗わずにそのまま伏せて置いた
すると上人ご法話が終わり本堂からさがり、
すぐ侍者のつかった湯呑みを手にとり侍者の顔をみてニッコリと笑い
他の湯呑でお茶を飲まれた。
それから、上人は、
侍者の飲んだ湯呑とご自身の使われた湯呑と二つともみづから洗って元の茶盆に伏せられた
この無言の導びきに侍者はただひれ伏した。」
『田中木叉著「日本の光(弁榮上人伝)」』
※ この侍者とは、佐々木為興上人。


以下、『佐々木為興上人遺文集  藤堂俊章編』より。

(弁栄聖者)
「誠によい景色ですね、
あの景色はあなたの外に見えておりますか、それとも内に見えておりますか
(ご随行間もない年若い為興上人が)当惑しておりますと、
(弁栄聖者)
「矢張り外に見えて居るのでしょうね、常に念仏して如来の霊育を受けておると
あれがあなたの内に見えるようになりますよ
※此の御試問はご随行中度々あった。

○ 「勧請は開眼と云うのと同じことなり」と仰言いましたが、
此れは弁栄上人様でなければ言えぬ事であります。

○ お上人(聖者のこと)様が教会所をお建てになる、光明学園を設立なさる等で、
此等は上人様の伝道資金によって充てられました
お上人様は仰言いました。
「自分の伝道は労働伝道だ」と。

○ 大正九年十月中旬、京都知恩院勢至堂の講師室でのこと。
「随行の佐々木為興上人が聖者のお部屋に参られますと、
聖者は円光を放っていられました
おうなじから発し給う後光です。暫らくそれが消えません。
上人は「ああ、聖者は本当に尊い生きた如来様だ」
と一間さがって三礼しました。」

○ 大正九年十二月四日に弁栄聖者は越後柏崎でご遷化されましたが、
そのご随行中の時、
為興上人のご長男が危篤状態となり、上人に電報が来ました。
大変に迷われた為興上人は聖者にご報告に行かれ、
ここに留まる旨をお伝えしますと、
「子供さんの病気は治りますから帰らなくてもよいでしょう」
と聖者が言われたので、為興上人は聖者の下に留まられました。
しばらくして、お子さんの病気は、聖者の言われたとおり、治り助かりました

○ 弁栄聖者のご遷化の後、駆け付けた信者方に、
せめて今生のお別れにと、お棺の蓋をあけて聖者に御対面をさせ申したところ、
何としたことでしょう、
上人(聖者のこと)の御姿は蓋を開けて拝する度ごとに、
益々美しく輝き渡ってお出になりますのには、忝さが身にしみました

私は上人(聖者のこと)様がかつて
「この頭にはダイヤモンドが入っています」と仰せられたことなど思い出しまして、
これをむざむざ焼いてしまうということは誠に惜しく思いました。


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墓地に入って、すぐ左側に、
佐々木為興上人のお墓があります。

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【佐々木為興上人(1888年~1955年) 世寿67歳】
法名:「安蓮社正僧正禅誉上人法阿実禅為興大和尚」

ご遷化地は京都。
京都市下京区「竜岸寺 第二十一世」


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「潮音寺」は、以八上人と学信上人のお墓もある、由緒あるお寺。

↑ 以八上人。
  法然上人のご生誕地、岡山県の「誕生寺」を復興された御方。
  安芸の宮島「光明院」開基、袋中上人の実兄。

↓ 学信上人。
  伊予国出身だけあって、瀬戸内界隈は特に、学信上人関係の遺跡が多いです。
  「墓で生まれた学信和尚」としても知られる御方。

両上人とも、安芸の宮島「光明院」にゆかりのある御方。

なお、宮島は神域であるため、「島にはお墓はない」ようです。

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2017-07-31

広島県広島市中区白鳥「心行寺 第十五代住職」佐々木為興上人と弁栄聖者

広島市中区白鳥九軒町にある「心行寺」

最晩年の弁栄聖者にご随行された佐々木為興上人のお寺。

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お寺に入ると、正面の樹木が目に入ります。

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被爆樹木 ソテツ。

昭和20年8月6日、広島への原爆投下により、お寺は全壊とのこと。

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↑ 歴代上人のお墓。
  
此処には、佐々木為興上人のお墓はありませんでした。

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為興上人のお墓は、
佐々木家の一員として埋葬されていました。

為興上人のお墓は、
広島県の廿日市市「潮音寺」にもあり、
失礼ながら、そちらの方が、為興上人のお墓参りにうかがったという記憶に残るかもしれません。

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【佐々木為興上人(1888年~1955年)】

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先に、弁栄聖者に随行されていた大谷仙界上人のお導きによって、
佐々木為興上人は、聖者との勝縁をいただかれました。

大正5年6月、知恩院での高等講習会において、
奇しくも、大谷仙界上人と同じ電車に乗り合せ、更に、起居も共にされました。
後に法友となる仙界上人との不思議な出逢いでした。

同年12月、仙界上人のお寺である九州の長安寺で5日間、
佐々木為興上人は布教を担当することになりました。

ところが、為興上人は、
仙界上人の本尊様に対する態度に言い知れぬ尊さを感じられ
布教に来た自分自身が反って教えられるような、導かれるような有様で、
5日間を過ごされたとのこと。

勤行形式に奇異な念をいだかれ、問うと、
仙界上人は、待ってましたとばかりに、
弁栄聖者と光明主義について話し出されました。

弁栄聖者は「古い頭の頑固な旧式の学者で、かわった奇僧」だとの偏見は打ち砕かれ、
後に、仙界上人のご紹介によって、聖者との勝縁に恵まれ、
仙界上人と共に聖者に随行される身となられました。

「(大谷仙界)上人の法談を聴いて居る間に、幾度も無我の境地に入り、
肉眼は開き乍ら、眼中何物も障るもの無く、襖なく、室なく、広大無辺の天地開け、
その直前に尊き聖像の彷彿たるを拝しては、法談を中止して貰って、
思わず合掌念仏することが幾度もあった。」

(『佐々木為興上人遺文集  藤堂俊章編』)

大谷仙界上人は、実に、為興上人を更生させた大恩人でした。

特に、弁栄聖者の最晩年に聖者の直弟子になられたお上人方、在家の方々のことを思い巡らせますと、
『法華経』「従地湧出品第十五」で説かれる、

「釈尊が本門の御教えを説かれ始めた時、地中から湧出して来た菩薩達」
を彷彿とさせます。


為興上人は、最晩年の聖者に随行されていたので、
弁栄聖者随行録には大変示唆に富むものが多いです。

その一つ。

東京の芝増上寺近くの多聞室でのこと。

多聞室では、聖者の食事の用意がありましたが、
食事は質素(大豆の煮たものばかり)で美味くなく、
しかも、毎日続く、というものでありました。

まだ、30歳程の若い為興上人が、その食事に嫌気がさしていた時のこと。

(弁栄聖者)
「あなたはこのおかづおいしくありませんか。」
(為興上人)
「えゝその一寸」
(弁栄聖者)
「あなたはまだ舌に五妙感が開けていませんねー。
その五妙感が開けますと何とも言えぬ味いがあります。」

又大豆ほど安くて滋養になるものはありません」

と仰せられたので、何とも返す言葉がなかった。
(『佐々木為興上人遺文集 藤堂俊章編』)

念仏の功徳により、「五妙境界」が自ずと開かれ、
「道徳的行為」が、自然と行えるようになること。


が、弁栄聖者のご教示からうかがわれることはありがたいことです。

ちなみに、従来の浄土教系では、
「戒律」ということが全面的に説かれることはないようですが、
明恵上人の批判とは逆に、
法然上人においても、念仏の功徳により、
自ずと「戒体発得」されておられました。

(注)『往生要集』には「五妙境界楽」として説かれ、お浄土における風光。

西田幾多郎氏は、
遺稿となった「場所的論理と宗教的世界観」の中で、

「真の絶対的受動からは、真の絶対的能動が出て来なければならない。」
と記しています。 

田中木叉上人によりますと、
弁栄聖者はご在世中、「他力」とはあまり言われなかったようです。

西田流に表現すれば、
「自力となって働き出さない他力は、真の他力とはいえない。」
という深意があったのではないかと推察いたします。


また、微笑ましい聖者の逸話としては、
為興上人のご子息に対して、
「念仏を唱えたら、ご褒美にお菓子を差し上げられていた。」
といったこともあったようです。


最後に、為興上人に関して、とても印象深い逸話を一つ。

為興上人は、大変魅力的なご法話をされ、聴衆を魅了されたお上人であったようですが、
為興上人の御法話を聞かれたことがあった老婦人に、その時の様子を聞かれた方がおりました。

「どういうお話しでしたか?」
「いつも同じ話しをなさいました。」
「同じ話しですか!?」
「それが、お話しをまた聞きたいと皆が集まるのです。」
「それは一体どんなお話しでしたか?」
「それが、念仏を申さずにはおられんようになるお話しでした。」

これは、為興上人が御遷化されてから、四半世紀後の想い出話とのことです。

この逸話だけからでも、
為興上人が「単なるご法話が巧かったというお上人ではなかった」
ことがハッキリとうかがわれるかと思われます。

通常、同じ話しを何度も聴いていると、
聴く方に飽きが生じ、集中力が低下し、思考が停止するか、散漫になるものです。
また、話す方も、それらを予期し、未然に防ぐ為に、同じ話しはなるべく避けようとするものです。

しかし、大切なことは、そう多くあるものではなく、
やはり、「大切なことは、繰り返し話すべき」ものだと思います。

為興上人は、
「同じ話しを繰り返しされながら、なおかつ、聴衆に興味を持たせ続けさせることがおできになった。」

このことは、
為興上人がお念仏の内で如来様に霊化され、
”歓喜光”と”清浄光”を、特に強くいただかれていたからではないかと推察いたします。

「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根哉(かな)」

為興上人が好んでよく引用された、芭蕉の句とのこと。

この芭蕉の句は、清浄光による感覚の霊化
つまり、”新鮮さの湧出”作用のことですが、

為興上人のご風貌から、
”歓喜光”により霊化された、”光のどけき春の日”のような、
”あたたかで朗らか””どこかほんわかとし安心感を抱かせる”
ような御人格、雰囲気も大きかったように思われます。

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2017-06-26

山口県大島「西蓮寺 藤本浄本上人」、「久賀 阿弥陀寺住職 松尾真善師」と弁栄聖者


前回の記事は、
山口県大島の「西蓮寺 第十九世住職」藤本浄本上人と弁栄聖者とのご邂逅が中心でした。

弁栄聖者と聖者直弟子との逸話には、
とても示唆に富みかつ興味深いものが多いですが、
藤本浄本上人に関しても、まだ幾つか記しておきたいことがあります。

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先ず、意外だったのは、
西蓮寺が、石造りの頑丈そうな建築だったことでした。

後でわかったことですが、
浄本上人ご在世中に、お寺が火事で焼けてしまう惨事があり、
そのお寺の再建に、浄本上人は大変ご苦労されたとのことです。

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一見したところ、
本堂内は、伝統的な浄土宗のお寺の雰囲気でした。

現ご住職は、第二十一世の藤本浄彦師。
浄本上人のお孫にあたられる御方。

額の書は、
向かって左が山本空外上人、右が藤本浄本上人の書。

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門をくぐって、本堂の向かって左側に、
藤本浄本上人のお墓はあります。

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浄本上人のお墓の裏側には、
浄本上人のご内室であったテル子氏のお名前が明記されていたのが印象的でした。

浄本上人は、最晩年まで、日本中を布教して回られました。
それを支えられたご内室のご理解とご協力があってこそだと思われます。

弁栄聖者も、直弟子方のご内室へ、
感謝とご苦労をねぎらわれたお手紙を幾つも差し出されていました。


【藤本浄本上人】(1879年~1971年西帰 仁寿 93歳)
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(法名 信蓮社寂誉上人向阿専念浄本大和尚)

弁榮聖者のご遷化後に、
聖者と出逢われたことを人生最大の宝として、感謝の念を胸中に、
御一生を東西奔走された直弟子方は、
意外にも、現世での聖者とのご縁は大変短いように思われます。

浄本上人は、一年と数か月ほどです。
弁栄聖者の影響力が甚大さの証左かと思われます。

◎【弁栄聖者の俤(おもかげ)」(藤本浄本上人談)】

(弁栄聖者の浄本上人へのご教示)
○「お説教などで教壇に立っても
一々その用意などはしてゆかぬ。
如来様が真正面に在してチャンとご指示下さるから


○「光明主義は善導法然の真意を現したものである」
※ 藤本浄本上人は、
内証の円満し給へる(弁栄)上人は、定めて三昧境中に、高祖や宗祖に直参して仰せられたことと思います」と。
 笹本戒浄上人は、
最晩年に三身四智の仏眼を体得され、そのご境界を外部に漏らされることなく御遷化された善導大師と法然上人。真意とは、その最晩年におけるご境界について」と。

(浄本上人)「お浄土はどのように拝めますか
(弁栄聖者)「肉の目を開くと娑婆が見えますが、
お念仏するとみ仏の相(すがた)が拝まれる。
その相約一丈余り、それに沿って荘厳が拝まれる


(浄本上人)「(弁栄上人が前もって送って下さった三昧仏様の開眼供養をして下さい
(弁栄聖者)「私は絵かきのように想像して書いたのではない。
事実在す如来様をそのまま画いたのだから開眼の必要はない
※ 杉田善孝上人のご教示によるものですが、
お別時で三昧仏様が必要になり、ある方が、浄本上人にお借りにうかがった時のこと。
浄本上人は、弁栄聖者直筆の三昧仏様が、しばしの間もお手元から離れてしまわれるを大変寂しがられ、
目に涙を浮かべられながらも、許可されました。
その浄本上人の三昧仏様へのご心情を別時参加者に伝わり、その別時は大変身の引き締まったものとなり、
二度と、浄本上人から三昧仏様をお借りすることはなかったとのこと。

(浄本上人)「十二光の説法のより処(すなわち見込み)は何処ですか」
弁栄聖者は、それを示している本(それは真言宗関係の御経である)を教えてくださったが、その本の名は失念されたとのこと。

以上、 参考文献は、『阿弥陀佛の信仰 藤本淨本遺文集 上』。


その他、浄本上人に関する逸話を少々。

○弁栄聖者にお逢いしたばかりの宗乗学者の浄本上人がご説法される前に、
聖者にご随行されていた聖者直弟子の佐々木為興上人がご説法される際に、
佐々木さん、やわらかにお説きなさい。」との聖者からのご注意。

○浄土宗乗の学者でもあり、法然上人への篤き信も深かった浄本上人でしたが、
当麻曼荼羅の権威でもあったようです。
一方、弁栄聖者の直弟子であり、聖者の御遺稿を編纂された田中木叉上人は、
これからは、お浄土は、四大智慧(無辺光)で説かねばならない」とご教示されていたそうです。

○筑後善導寺第六十五世の藤堂俊章上人は、お若い頃から、
笹本戒浄上人をとし、藤本浄本上人をとして慕われていたそうです。

○浄本上人ともご縁の深かった長野県鉢伏山お別時の導師も長年務められました。
長野県松本光明会の生み育ての親多田助一郎氏が整備された聖地の一つ。
浄本上人は椎尾弁匡博士とも親交があり、そこに椎尾博士の碑も建っています。
残念ながら、鉢伏山お別時は現在実施されていません。

この項目の最後は、杉田善孝上人のご教示によるもの。

弁栄聖者直弟子の系譜(光明主義の受け取り方)を大別すると、
「安心起行(只信口称念仏)派」
「起行の用心(憶念口称念仏、見仏)派」に分けることができる。
前者の代表格は藤本浄本上人であり、
後者の代表格は笹本戒浄上人といえる。
聖堂(杉田上人主管)は、後者である。
しかし、浄本上人は、生涯一貫して聖堂を擁護してくださった
その御恩を我々は決して忘れてはならない

藤本浄本上人の御人徳が偲ばれる逸話として、是非記しておきたかったことでした。


最後に、
「仰ぎ惟れば内証甚深く外用亦広大に、
全分度生の無我の力が
無作の精進に顕れ給ふ弁栄聖者の御一生は、
如来光明のさながらの反映に在せば、
誰か大慈悲の霊応を仰がざらむ。
誰か光明の摂化を信ぜざらむ。」
(田中木叉上人作「弁栄聖者略伝」)


まさにこれこそ、
藤本浄本上人の御生涯にわたる”弁栄聖者へ篤き信”の信仰告白。


【久賀 阿弥陀寺】

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大島にある「久賀 阿弥陀寺」。

数世代前の住職 松尾真善師の弁栄聖者の逸話も是非ご紹介したかったもの。

松尾真善師とは、
弁栄聖者の朝鮮布教時に、聖者のご説法の通訳にあたられた御方。

以下は、笹本戒浄上人「しのび草」よりの引用。

「これは私が松尾真善上人から直接承った事でありますが、
弁栄上人が朝鮮満州を御巡教中にこういう事がありました。
当時松尾上人は京城の京城学堂という学校で半島人子弟の教養に携わっておられましたが、
一日弁栄上人に講演をお願い致し松尾上人自ら通訳の任に当たることになりました。
御講演の始まるに先立って松尾さんは弁栄上人にお願い致しました。
『通訳という事は大変難しいものでありますから、
なにとぞ御講演を少しずつ区切って頂きとうございます。』と。
然るに弁栄上人の講演は、前もってお願いしたにもかかわらず、
のべつ幕なし、だらだらと、何処が頭やら尻尾やら容易に区切って下さらない
ーこれは、松尾さんが私にお話下さった時の言葉をそのまま申したのでありますー
そのため講演の要旨を箇条書きにして覚えているつもりでも
つい、大切な箇所を一つ二つ通訳し洩らしてしまいます。
すると続く御講演のまっ最初には、必ずその洩らした点を繰り返されました。
初めのうち、二度三度はさほどにも思っていなかった松尾さんも、
講演の続きを初められる度ごとに必ず今の通訳漏れの箇所の補いをされるので、
ついにはその度ごとにゾクゾクッと背に冷水を浴びる思いがしたと申します。
私が考えますのに、弁栄上人は朝鮮語をご存じなかったものと思われます。
然るに上人が、今申したように松尾さんの通訳漏れの箇所を一々補足せられたのは、
松尾さんの通訳した講演の言葉を聞いて不足を補われたのではなく、
松尾さんの念頭に浮かび来たり、浮かび去る一切のものを
上人はちゃんと直観しておいでになったという証拠
になります。
これは先ほどのパーラヤナに載っている釈尊の御内観の力と同じく
人が心の中に思うような事に至るまでのいっさいを知ろしめす
大円鏡智、妙観察智の御働きであります。」

戒浄上人のこのご記述を裏付ける参考資料があります。

「松尾は,1912年5月(※補足 閉域学堂の)校長となり,その後も長期にわたって在職した。
1921年当時の記録に,
現校長松尾真善は明治三十七年の夏に同校の教務主任として就任し,
四十五年の五月より校長となったので既に十数年の間子弟の教導に努め
」云々とある。」
(稲葉 継雄「浄土宗の旧韓国における教育活動 : ー日本語教育を中心としてー」
(『雑誌名文藝言語研究. 言語篇 巻16 67-77頁 1989-08発行))

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2017-05-28

山口県大島「西蓮寺 第十九世住職」 全国光明会連合上首 藤本浄本上人と弁栄聖者とのご邂逅 


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大正8年10月
西蓮寺 第十九世住職 藤本浄本上人は、
山口県周防大島の御自坊に、
弁栄聖者を迎えられ、
初老記念法会(当時40歳、42歳とも)を開催されました。

当時、藤本浄本上人は、宗乗学者として名を成していましたが、
僧侶としての在り方に大変悩まれていました。

椎尾弁匡博士、中島観秀師など、
その当時、浄土宗内で周知の御方を招かれ御法話を聞かれていましたが、
どうしてもしっくりいかず、
新潟県長岡 法蔵寺の浅井法順上人から、
かねてから噂を耳にされており、弁栄聖者の御法話を聴聞する勝縁に恵まれました。

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田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』
にも記されていますが、

山陽本線大畠駅のプラットホームで、
浄本上人は、弁栄聖者をお待ちしていました。

浄本上人は、聖者と面識はなかったのですが、
汽車から降りてこられた一人の僧侶をご覧になり、
この方が弁栄聖者だとすぐにわかったといいます。

その聖僧の御身より霊気を放ち涼しい、いきいきとした光が、
御身の周囲一間四方に輝いてまし居ました
からでした。

此の聖者の放ちたまう光明を拝するや、
覚えず低頭合掌恭礼し念仏せずには居られず、
其の霊気に触れてより恍惚として酔うよう
になりました。

この浄本上人の逸話は、光明会内ではよく知れているようですが、
この時の状況について、
杉田善孝上人の大変示唆深いご教示があり、
その要旨は以下のとおりです。

「当時、浄本上人は厳密な意味における三昧心は得ておられなかったが、
内的感覚としての心の眼は開けておられた
心の眼開けた人にとっては、聖者はただの平凡僧でなく、
光明赫灼として拝むことができました。
この時の光明は聖者の業光であり、
いわゆるオーラで、(心光ではなく)色光
キリスト教で描かれる金冠、後光などは、宗教美術家の想像の産物ではなく、
心の眼開ければ、業光を拝むことができます


浄本上人は、聖者に相見以前に既に、
『凝(じ)っと自然を見ていると自然と一つに融け合う気分になる』
という所までいっていたが、
これは三昧の準備的入門の前段階に相当するもので、
浄本上人が聖者に初対面の時、直ちに業光を拝まれたのはそのためです。」

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(藤本浄本上人 1879年~1971年往生 世寿 92歳)


知恩院門主 故 山下現有上人に初対面の時、
同門主 故 藤井実応上人も山下上人の業光を拝された
と浄本上人は語られています。

山下現有上人が知恩院門主で在られた時と記憶していますが、
弁栄聖者は、知恩院勢至堂での高等講習会の講師として、
あの「宗祖の皮髄」を御講義されました。

当時、高僧として知られていた山下現有上人もまた、
見仏しておられていたようですので、
弁栄聖者の御境涯に御共鳴されていたと思われます。

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↑ 弁栄聖者が西蓮寺に招かれた、大正8年当時、
島へは、連絡船で渡られました。

↓ 対岸からの船着き場の眺め。

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大島大橋が建設されたのは、
弁栄聖者のご遷化後、およそ60年後の1976年(昭和51年)。

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たまたま、晴れ、曇り、雨の天気模様を経験しましたが、
特に晴れ間の景色は、
風光明媚と形容すべき素晴らしいものでした。

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連絡船を待つ間の、
藤本浄本上人と弁栄聖者との会話も、とても示唆に富んでいます。

浄本上人「極楽はきれいでしょうね」
弁栄聖者「ハイ、きれいです。」

風光明媚な景色をご覧になりながら、

浄本上人「あそこらは極楽に見えるんでしょうね」
弁栄聖者「いえ、やはり島に見えます。」

蛇足で申し訳ございませんが、

聖者は、”比喩として”「極楽はきれいです」と言われたのではありません。

五眼の内、
肉眼で、自然界の風光明媚な景色を、
仏眼で、心霊界の麗しい極楽をご覧になっておられていたのです。

この風光明媚な景色をご覧になりながら、
浄本上人が弁栄聖者に、「極楽」と喩えられて表現されたのは、
わかるような気がします。

この地を訪れ、この素晴らしい景色に見とれあかず眺め、
この場所をはなれがたかったことが思い出されます。

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後に、光明修養会の上首を長年務められ、
”徹底した念仏行者、宗教哲学者、語学・書の達人”
でもあられた山本空外上人が、
人生にいきずまり、救いを求め、藤本浄本上人の元を訪れ、
念仏によって救われたのが、此処、周防大島の西蓮寺。
大正10年夏、
山本幹夫師(空外上人の俗名)18歳、浄本上人42歳の時でした。

まことに惜しいことに、
空外上人は、弁栄聖者にお逢いすることができませんでした。
しかし、このことは、
今後の光明会、光明主義の発展、展開にとって、
また、光明会、光明主義の在り方、それらの特徴を再考するにあたり、
”如来様の御計らい”という深意があるような気がしてなりません。

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弁栄聖者の直弟子には、
お上人方によってそれぞれに特徴があるように思われます。

藤本浄本上人は、
浄土宗勧学に叙任せられる程の宗乗学者でもありました。

浄本上人の聖者観は、生涯一貫して、

「法然上人の御教え(本願念仏)を現代に生かされた御教え(光明摂化による現当二世の光明生活の重視)を説かれた聖」

であったかと思われます。

浄本上人は、全国光明会連合の上首を長年務められましたので、
必然的に、浄土宗と光明主義との関係への言及が少なからずあり、
浄本上人のご著書を紐解くことは光明主義研究にとって不可欠だと思われます。

浄土宗勧学に叙任されるほどの宗乗学者であられた浄本上人が、
弁栄聖者を終生尊崇されたのが、

”念仏による霊化の結晶”ともいうべき”聖者の御霊格”

であられたという点は、

「安心起行(只信口称念仏)重視派」、
「起行の用心(憶念口称念仏)・見仏重視派」
の如何を問わず、

光明会(光明主義)に縁のある者にとって、
傾聴すべき、常に立ち返るべき基点
であるように思われます。

「見仏の要は、一切身意を仏化するにあり。」(弁栄聖者)

”弁栄聖者(光明主義)の神髄”はこの点に尽きる
といっても過言ではないように思われます。

誤解を恐れずに表現しますと、

「見仏とは、
”目的にして手段、手段にして目的”
”目的即手段、手段即目的”」


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2017-03-20

山口県山口市古熊「善生寺」、弁栄聖者愛弟子、熊野好月(旧姓徳永あい子)女史

【山口市古熊 善生寺】

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前回は、全国光明会連合会 二代目総監 熊野宗純上人
について、記事にしました。

今回は、熊野上人のご令室、熊野好月(旧姓徳永あい子)女史。

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【熊野好月女史(行年八十歳 ~1975)】

弁栄聖者を「現代の釈尊」と仰がれておられた中川弘道上人とのご縁によって、
好月女史は、弁栄聖者にお逢いできました。

弁栄聖者五十回忌の際に結成された全国婦人部。
その初代会長が、好月女史。
弁栄聖者は、信仰教育上におけるご婦人の役割を大変重要視されていたようです。

二代目が、足利千枝女史。

また、好月女史は、岡潔博士の妻、みち氏のよき相談相手でもありました。


弁栄聖者の最晩年に聖者に御随行された熊野好月女史には、
幾つかの著作がありますが、
聖者の御教化の在り方、聖者の御人格を知るのに欠かすことのできない貴重な逸話が、
記されています。

示唆に富む逸話を幾つかご紹介したいと思います。

「世間の人は水の上を歩いたとか、お酒にかえたとか、手にふれて病気をなおしたとか、
こういう事を大へんな奇蹟として驚くがそれは大した事ではない、
それよりも悪の心を善心に立かえらせる。これ程大きな奇蹟は外にない。
と常々仰っていらっしゃいました。」


「お上人様を特別のお方、不思議なお方と見られておるようでした。
実際、常人のなし得ない事も何でもないもののように仕てしまわれます。
時々は両手に筆をもち同時に異なった歌を書かれたり、
お米ひと粒に般若心経一巻を書かれたり、
それは人を驚かせる為でなく、如来様のお慈悲を知らせたさに、
口でいうだけではよりつかないので
何とかしてとのやるせない心から方便としてお用いになった。


と、好月女史は、『さえらぬ光に遇いて』に記されていますが、
弁栄聖者の奇蹟に対する、この両面からの理解は、実に的確なご指摘だと思います。


「宗教家は奇蹟を現わさなくてはつまりません。
釈尊のお弟子でも多くの人が釈尊の教理に服して入道したのではなく、
釈尊の奇蹟に驚嘆してお弟子になっております」。


また「予言ができるとか、病気がなおるとか、
そんな奇蹟がなんの価値がありましょう。
凡夫が仏になる。これほど大きい奇蹟がまたとありましょう」。


と、 田中木叉上人も『日本の光(弁栄上人伝)』に、併記されています。


熊野好月女史が、弁栄聖者にご随行の汽車の中でのこと。

「歳は八十位の老爺。
眼が見えぬらしく、ただれつぶれ、
手の甲など鶏の脚のような色で見るも気味の悪い汚いなり。」

弁栄上人をはじめ私達が色々と世話をしていると、
乗客の一人がソッと女史に、

「あの人は梅毒の第三期で伝染するから気をつけなさい」とささやいた。

好月女史は、気が気ではなく、そのことを告げても、
弁栄上人は尚平気で何くれとなく世話をやいておられた。

その世話をやいてくれたことに対する謝意を込めて、
その老爺は、懐から餡パンを取出して、
その汚い手でわしづかみしたパンを弁栄上人と私達に差し上げた。

((注)時期は、大正時代のこと、
弁栄聖者には当時の医学的知識もおありになったようですが、
感染経路等について現在のように解明なされておらず、
ペニシリン普及前のこと。)

その老爺の側に座っておられた上人は、
相変わらず何の屈託もなさそうに小さいいびきをかいて寝ておられたが、

私は、そのパンの処理に、ほとほと困り果て、
とうとう、蟻や魚の餌食になって呉れるように念じつつ、
洗面所の窓から、投げてしまった。

明け方近くになって、

例の老爺も起き、懐から紙袋の口を開いて例のパンを取出して食べ始めた時、

それをご覧になっていた弁栄上人は、どこにしまっておられたのか、
昨夜貰ったパンをいとも敏速にそっと彼の懐にある紙袋の中に入れられた。


もちろん、眼の見えぬ彼は何も知らずパンをムシャムシャと食べていた。

そのさりげない所作を見られた好月女史は、
自分の行為を大変恥じ、後悔の念で、涙ぐんでいた時に、
弁栄上人が声をかけられました。

「時機を待つのですね。」

後年、好月女史は、この時のことを回想され、

「パンはおじいさんの心もきずつけず、袋にかえったのが一番生きるのです。
お上人様はふれる事もふれるものも大事も些事も、
丁度水が流れるように任運無作に事をさばかれ、
そのものは自由に生かされ、いのちを吹きこまれ、
何一つの無駄もありません。
事毎にねばりつき考えぬいた挙句が人をきずつけ物を殺し勝ちであります」
と。


田中木叉上人の熊野好月女史への御教化も、
とても示唆に富むと思われます。

「自分のようなものは・・・」と後悔ばかりしている好月女史に対し、

「あなたはいつも自分の悪い所ばかり見つめて
背負いきれない重荷と感じている、
それは卑下しているようで自力をたのみすぎている、
なぜ南無と如来様に背負い切れぬその荷(業)をささげて仕舞わないのですか、
自分で出来る事や自分の長所はお救いを求める必要はない、
どうにもならぬ点こそ、そのすべてをさし上げおあづけして、
如来様に清めていただく、ここが一番大切なところです。」


木叉上人は、
「本願ぼこり」はもちろん「凡夫ぼこり」も戒めておられます。

「凡夫ぼこり」とは、「凡夫を看板にしてなまけることの言い訳」とも。

「私のようなものは、とても・・・というのは、
如来様に対する不遜な態度である。

それは、謙遜ではなく、如来様の御力を見くびっているのだ」
と。

木叉上人は、、
「私ではなく、如来様に目を向けるように」
と、いつも注意されていたようです。

とてもありがたい木叉上人の御説法です。


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【清涼院弁誉好月普照大禅定尼】


【山口サビエル記念聖堂】

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山口の大内氏は、
文化を尊重された方としても知られていますが、
日本最初の教会があったこともとても興味深いです。

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2017-02-19

山口県山口市古熊「善生寺」、全国光明会連合会 二代目総監 熊野宗純上人


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山口市古熊にある「善生寺」

弁栄聖者の直弟子、故熊野宗純上人のお寺。

熊野上人は、山口県下の教育界へも影響力があり、
かつて、浄土宗第六・七連合教校の校長・山口教区学監を務められた御方で、
全国光明会連合会二代目総監

※ 全国光明会連合会初代総監は、笹本戒浄上人、
在団法人光明修養会三代目上首は、藤本浄本上人。


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少々きつめの階段を登りきった右側に、
熊野家のお墓があります。

熊野宗純上人のご令室、故熊野好月女史のお墓があります。

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本堂の奥には、
善生寺庭園(伝雪舟作)があります。

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本堂の右側に、
熊野宗純上人と善生寺歴代(熊野忠道)上人のお墓があります。

奥が、熊野宗純上人のお墓。

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熊野宗純上人(1878~1946年)

熊野上人が、弁栄聖者に初めてお逢いになったのは、
大正8年の8月
佐々木為興上人の自坊、広島県心行寺でのこと。

「おかしがたき崇高の人格と、慈悲あふるる温容に接して、
一種いい知れぬ充実味を心の奥底に覚えた」


と、熊野上人は、その時の聖者の印象をご述懐されています。


(弁栄聖者)「あなたはこれまで如来様を親様と呼んだことがありますか。」
(熊野上人)「はい、いつもそう申しています」。
(弁栄聖者)「それでは、あなたは、如来様をあなたを生んで下さった母のように思いますか」。
(熊野上人)「いいえ、そうは思われません」。
(弁栄聖者)「それではなんにもなりません。真剣に念仏してご覧なさい、きっとそう思われるようになります。」


聖者のこのなんの理屈もない事実そのままの簡単なお言葉を伺った時、

「腹をえぐられたように感じ、長い眠りから目ざまされたように感じた。」
と熊野上人はご述懐されています。


達人の衆生済度には、小難しい屁理屈はなく
深三昧に証入され、真相を知った者のみが備え得る「威神力」が、
弁栄聖者には具足されておられた証左であるように思われます。


当時、熊野上人は、
経文上、宗乗上の「学解」に精通され、”布教界の雄将”でしたが、
「生きた信仰」は、まだ得られていませんでした。


「今まで熊野上人が名匠碩学について学んだ宗乗も、それは、空なる冷やな知識で、
如来様はガラス戸棚の中のお人形様のように血の気のない冷たいもので、
罪に泣いている者みづからを抱きしめて下さる温い親様とは実感されず、
醍醐味のはずの念仏は無味乾燥で、
微妙荘厳のお浄土も架空の空想のように感ぜられてならなかった」


が、この五日間の熱火のごとき提撕によりて、信心喚起し、

弁栄聖者を「如来の顕現と仰ぐ」ようになって念仏に精進し、
聖教に対する一隻眼も開かれて
特に「聖教の文々句々が文字通りうなづけるようになったことも、大なる喜び」で、
ますます仏道のあゆみを進めた。

と、熊野宗純上人の弁栄聖者とのご邂逅を、
田中木叉上人は、感動的に描写されています。


七日しんしんと降りしきる雪の柏崎、極楽手にてご密葬執行
お棺のお伴をする二百数十名の道俗の中には、
跣足で雪を踏みせめてもの心をのべし人もあった。」

と、田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に記されていますが、

”跣足で雪を踏みせめてもの心をのべし人”

とは、「弁栄聖者を如来の顕現と仰がれた」 熊野宗純上人

この事実を、杉田善孝上人のご教示によって初めて知ったのですが、
昭和二十七年刊の熊野宗純著『救いの宗教』に明記されています。

(参考文献) 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』


熊野宗純著『救いの宗教』には、
弁栄聖者の熊野上人へのご教化の有様が明記されていますが、
この逸話はあまり知られていない貴重な逸話でもありますので、
是非記しておきたいと思います。

熊野上人が弁栄上人の御説法を初めて聴かれた時のこと。

「(弁栄)上人の「神聖・正義・恩寵、霊界」、「心の曄瞳(あけ)」という表現が、
余りこれまで仏教で耳馴れない言葉でしたが、
当時読んでいた「ハルトマンの宗教哲学」の、
姉崎博士の翻訳にあったので、

「御上人様は実はハルトマンの宗教哲学をおやりになって居るのだろう。
これさへ見れば分る」
と思い、

ハルトマンの書を懐に入れて
弁栄上人にご挨拶申し上げ、一寸座って居ると、

「熊野さんは、ハルトマンの宗教哲学を懐へ入れ居るではありませんか」

「あれはまあ、法身と云う程度は解るかも知れませんが、
報身と云う方面のことは、少しも問題に触れて居られない。
姉崎さんも本当に解って訳したのではない
独逸に始めて留学される前に博文館から、百科全書の様なものが出て、
その宗教の所に訳されては居るが、難解の訳です。
姉崎さんは本当に解って居らない。」

と弁栄上人は言われました。

熊野上人は、弁栄上人の妙観察智による御教化と記されていますが、
大円鏡智も伴っていると思われます。


弁栄聖者の直弟子方の、聖者への尊崇する御態度には、
聖者の「霊格の崇高性」だけではなく、
聖者の「霊的実力(法力)」を目の当たりにされたことも決定的に重要であったことが、
この逸話からもうかがえるように思われます。


※ 熊野宗純上人のご著作は、
  熊野上人を尊崇された、菅野真定上人が中心となって、
  「熊野上人遺稿刊行会」から刊行されました。

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法名 大蓮社専誉上人光阿興隆泗水宗純大和尚 
昭和二十一年十一月九日、示寂。


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善生寺歴代上人之墓には、
第二十七世 熊野忠道上人、
熊野上人の養子で、 中川察道上人の実子の名も刻まれています。

平成二十六年二月十月、西化。

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2017-01-29

【追記】福岡県エリア、弁榮聖者御遺跡等探訪の際のご参考として


【北九州市若松 善念寺】

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大正2年9月、
波多野諦道上人の自坊、若松善念寺で、 弁栄聖者の送別会が催され、
それが、波多野上人と聖者との今生でのお別れとなりました。
大正4年7月、波多野上人西化。

その後、弁栄聖者は、幾度か九州入りされご伝道されていますが、
ごく短期間です。


【北九州市若松 安養寺】

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「若松教会」の右脇の小道をのぼって行きます。
道が狭いので、車でお出での場合には、ご注意を。

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波多野上人西化後は、
若松での弁栄聖者の活動拠点は、
「善念寺」から「安養寺」に移ったようです。
当時の「安養寺」住職、西山賢道上人の存在が大きかったようです。

そして、今生での、九州の地での弁栄聖者のご伝道は、
大正9年7月、安養寺でのお別時が最後となりました。

そのお別時に参加され、聖者を見送られた、
宮川粂次郎氏(大谷仙界上人の姉婿)の、
とても印象的な、聖者の逸話を記しておきたいと思います。

「(弁栄)上人のお念仏される時の様子は、
初めまともに木魚を叩いてられるが暫くすると、
木魚の上をバイでなでられるかと思うと、畳の上を叩いたりしていました。

私共では上人の心境を窺うことはできませんが、
多分木魚を叩いて称名することにより、
憶念に意を注がれる三昧に這入っていられたのだろうと思うようになりました。

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また、若松「安養寺」は、
芥川賞作家、火野葦平氏ゆかりのお寺でもあり、
『花と龍』に登場しているようです。

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【火野葦平記念館】

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「若松教会」の通り、教会から直ぐ、1~2分の場所にあります。

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【豊前博多 善導寺】

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長い白壁が目印。現代的な造り。

「豊前博多 善導寺」

最近リニューアルされたようです。

開基は、鎮西上人で、1212年。
1212年は、奇しくも、法然上人入寂の年。

『善導寺縁起』によりますと、
善導大師の霊夢によるお導きが基になっているようです。

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【博多区東公園 「日蓮聖人銅像」と「亀山上皇銅像」】

「日蓮聖人銅像」

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正面には、福岡県警察本部が、
付近には福岡県庁があります。

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とても大きな銅像ですが、
東大寺の大仏、鎌倉の大仏につぎ、
日本で三番目に大きい銅像とのこと。

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「日蓮聖人銅像」の完成は、明治37年。

この制作を引き受けたのは、岡倉天心氏

岡倉天心氏は、特に美術の分野で知られ、
『茶の本』でも知られていますが、
宗教に対する深い理解を示されていたことは、

若松英輔著『岡倉天心『茶の本』を読む』 (岩波現代文庫)で、
説かれており、大変興味深いことに、本書において、
「霊性の次元」における、岡倉天心氏と弁栄聖者との関係に触れておられます。


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【東郷平八郎胸像】は、意外な気がしましたが、
東郷氏は篤い法華信者でもあったようで、
日露戦争の日本海戦での戦勝のお礼の報告に、お参りされたようです。

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東郷平八郎氏といえば、

司馬遼太郎著『坂の上の雲』において、
とても印象的な記述がされています。

「佐藤が戦後、海軍大学校の教官をしていたとき、
梨羽時起という海軍少将があそびにきて、

「佐藤、どうしてあんなに勝ったのだろうか」

と、梨羽はかれ自身実戦に参加しているくせにそれがふしぎでならないようなことをいった。

「六分どおり運でしょう」と、佐藤はいった。

「しかしあとの四分は何だろう」と問いかさねた。

佐藤は、 「それも運でしょう」といった。

梨羽は笑い出して、
「六分も運、四分も運ならみな運ではないか」というと、

佐藤は、「前の六分は本当の運です、
しかしあとの四分は人間の力で開いた運です、」といった。

ただ佐藤はこの説明のつかない「六分の運」について海軍大学校の講義で、

「東郷長官はふしぎなほど運のいい人であった。」と。

「戦いというのは主将を選ぶのが大切である。
妙なことをいうようだが、主将がいかに天才でも運のわるい人ではどうにもならない。」
と述べたことが残っている。

「もしこの海戦において勝利をもたらして無数の人間のなかでただ一人の名をあげよといえば、
この海域にいない山本権兵衛であったであろう。
かれは、閑職にいて予備役を待つばかりの境涯にいた東郷を抜擢し、
明治帝がおどろいてその理由をきくと、

「東郷は運のいい男ですから」と、答えた。

山本は、
歴史を決定するものが、
佐藤の言う「四分の運」のほかに「六分の運」があるという機微
を、
それ自体異様なことだが、知っていたのである。」

”東郷平八郎観”を借りた、
司馬遼太郎氏の”人間観”・”人生観”ですが、
とても含蓄があり、印象深く記憶に残っています。


”運”というと、仏教的とはいえないと顔をしかめられそうですが、
”宗教的教義を抜きに、人生を達観”された方々には、
やはり、人生におけるこの”運”としか言いようのない、
”人生の不可思議な働き・作用”を認めざるをえないと認識されている方が多いという印象があります。


東郷平八郎氏には、”仏の御加護”もあったのかもしれません。

「仏の御加護「、「現世利益」というと眉をひそめる方もおられるかもしれませんが、
「現世利益」は、もちろん新興宗教のみのものではなく、

「神力演大光 普照無際土 消除三垢冥 広済衆厄難」
(「四誓偈」『無量寿経』)


と、浄土教において極めて重要な『無量寿経』というお経にも、確りと説かれています。

弁栄聖者も”十二光中”
特に、 『清浄光・歓喜光・智慧光・不断光』において、
如来光明の化益を、当時の科学的知見も取り入れて、具体的に説かれています。

弁栄聖者ご高弟のお一人田中木叉上人は、
「念仏は、心・身体・魂・霊性・身の上に働く。」
と強調されています。


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熊野好月様曰く
「聖者の前かがみの後姿は博多の東公園に建立してある日蓮上人の銅像の後姿とよく似ておられた」と。

(吉松喜久造編『辨栄聖者御写真帖』)

好月氏が、後姿に着目されたことを興味深く思います。

後ろ姿は、取り繕うことが困難で、
その人となりが計らずも現われ易いかとも思われます。

この日蓮聖人銅像の肩は丸みを帯びていて、意外な気もしたのですが、
法然上人の肖像画は肩が丸みを帯びていたと記憶しています。

最晩年の弁栄聖者に随行されていた熊野好月氏が、
日蓮上人の後ろ姿に聖者の前かがみの後姿を重ねられたのは、
あるいは、跡見学園の創設者、跡見花蹊氏の影響もあるかもしれません。

花蹊氏は、好月氏の師匠ともいえる方で、
竹内喜太郎氏のお導きによって、
笹本戒浄上人、田中木叉上人をとおして、光明主義に出逢われましたが、
それ以前は、熱心な法華信者でありました。

光明主義に出逢われ、熱心な念仏信者となりました。

念仏の功積り、とうとう、大正12年に如来様にお逢いになられた境地を、

「いともいとも大いなるかな天地に みち足らひたる大みすがたの」
と詠われています。

また、
山本空外上人は、法華信者の紀野一義氏に、

「辨榮聖者の信心は、一から十まで法華経に基づいておるのですよ」

と語れたようです。

その根拠、空外上人の真意は計り難いところですが、
とても気になる内容です。

「法華壽量品に明す所の釈迦の内面此弥陀無量光壽に外ならず。
名に迷ふて真理を失うなかれ。
若し此の理に於て疑ふ如き妄信者は論ずるに足らざるのみ。
又大乗非仏説の如きは今の所論にあらず。」
(弁栄聖者『ミオヤの光 光明の巻』)



弁栄聖者は、如来様を「大ミオヤ」と呼ばれましたが、
「一切衆生は 皆 これ吾が子なり」(『法華経 譬喩品 第三』)
と対応しますし、


南無智慧光佛
 
 如来智慧の光明に  我等が無明は照らされて
 佛の智見開示して
 如来の真理悟入(まことさとら)るれ」
(弁栄聖者『如来光明礼拝儀』)
は、『法華経 方便品 第二』に対応していますし、


『如来光明礼拝儀』は、
浄土教系の聖典とされる『無量寿経』の「如来光明歎徳章」を中心に作成されていますが、
初期の『礼拝儀』には、
『法華経壽量品』が併説されていました。


また、弁栄聖者の「三身即一の仏身観」は、
従来の浄土教系の経典からのみでは導き出すのは難しく、
『法華経』、『真言密教経典』、『キリスト教義』等との関連究明が、
今後待たれます。

もちろん、弁栄聖者にあっては、
ご自身の甚深なる三昧証入によって直観された仏身(神)観を表現するために、
帰納的に、経典等を引用された点は、忘れてはならない重要な点かと思われます。


↓ 「元寇資料館」は、通常閉館されているようですが、
  売店でお願いすると、入曜日、時間によって、入館できるようです。

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【亀山上皇銅像】

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東公園に、建っています。

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【大宰府天満宮】

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大宰府は、対外防衛の拠点でありました。
元寇後は、再襲来に備え、鎮西探題として、博多に移ったようです。

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豊後久留米 【坂本繁二郎記念館】

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JR久留米駅から、徒歩10分程度。

岡潔博士が、最も、親近感を覚え敬愛したと思われる画家。

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2017-01-10

筑前若松「善念寺」での弁栄聖者と波多野諦道上人とのお別れ

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↑  ○  ○  弁栄聖者    
     波多野諦道上人  ○ 
          大谷仙界上人


大正二年九月末、
一年半に渡る、筑紫筑後を中心とした初めての九州伝道をおえられ、
九州を去られる弁栄聖者の送別の集いが、
波多野諦道上人の自坊「善念寺」で開催されました。

道俗一同を代表して、住職の波多野上人がご挨拶をされました。

「(・・・略)今上人に会うことは、
七百年前の宗祖がさらに浄土からこの土に帰られたのにお目にかかる心地であります。」
とまごころこもる挨拶に涙こぼした。


と、田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、
さらりと記されています。

この元になったと思われるのは、
松岡行覺氏の「歓ひの涙」の記事。

洒脱な波多野諦道上人の印象とは違って、
波多野上人の弁栄聖者への篤(熱)き心情の吐露に、
名状しがたい感銘を覚え、胸を打たれます。


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大正二年九月二十七日、
東路さして若松から戸畑への渡し舟にお乗りになった。

「いよいよお帰りになるようになりまして」と申し上げられた方へ、
「私には帰るということはありません。」

とは、「念仏のすすめられるる所をわが家として、
別に定めたわが家とてなき一生行脚」
の慈光輝く弁栄上人。


この若松でのお別れが、
波多野諦道上人と弁栄聖者との、今生でのお別れとなりました。


この記事を書きながら、今更ながら気付いたことがありました。
波多野諦道上人から、命がけの覚悟を以て
「田中徹氏(木叉上人)を、弁栄聖者に引き合わせるように」との命を受け、
大谷仙界上人がそれを実行されたのは、大正七年でした。

波多野諦道上人が西化されたのは、大正四年
ということは、その数年後になります。


「ところが七月二十日頃、偶然の用事
波多野諦道上人が善導寺にきて
上人に謁見するや、帰依の思い禁じがたく、他の用事は捨ておいて、
上人に願いまず筑前各地に上人をお伴して歩くようになった。
・・・鎮西第一の法の器が、
器を求めて筑紫路にはるばるくだった上人に値遇した。


そしてひとり九州にもならず、波紋はそれからそれと大きくつたわる、
光明教海に投ぜられた一石となった
。」

と、(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)に記されています。

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↓ 「大正末期の若松港の風景」 

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2016-12-18

北九州地区における弁栄聖者のご伝道

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明治四十五年の春に九州入りされてから、
一年半近くに渡り、
弁栄聖者は、筑前、筑後地区を中心にご伝道をされました。

弁栄聖者のご足跡を辿りながら、
どうして、九州北部中心に、しかも、長期間に渡りこの地にご滞在されたのか、
この疑問が膨らみ始め、その理由を知りたくなってきました。

北九州の地理的特徴、歴史に関心を寄せるようになりました。

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JR若松駅は、筑豊本線の起点。

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「若松駅操車場跡」

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北九州に位置する若松港は、
筑豊炭田で採掘された石炭の積み出し港として、大変な賑わいであったようです。

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明治24年(1891年)、若松ー直方間に鉄道が敷設され、
それまで遠賀川等の水運によっていた石炭運搬が、
短期間の内に、鉄道輸送に移っていったようです。

※ 「直方」といえば、
弁栄聖者の直弟子で、九州光明会の生み・育ての中心人物
大谷仙界上人の「長安寺」があります。

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弁栄聖者の九州北部を中心としたご伝道は、
明治大正期の、この地域の炭鉱産業の繁栄とも関係が深いと思われました。


【大善寺】

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「大正二年二月」には、
筑前福間大善寺で開催された教学講習会にて、
初めて光明主義教学の組織的な講義(「浄土哲学」)をされました。

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【正願寺】

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「大正二年四月」には、
筑前折尾正願寺で『自覚の曙光』の題下で五日間の講説があり、
『自覚の曙光』という小冊子として、
筑前遠賀で印刷され、五月に公刊されました。

なお、筑前折尾とは、
大正八年八月に、
信州の唐沢山で勉強されていた柴武三氏達の様子を、
弁栄聖者が、大円鏡智でお知りになり
笹本戒浄上人、田中木叉上人に葉書を出された地。

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【善念寺】

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「大正二年六月」に、
京都知恩院での『宗祖の皮随』の御法話に先立つこと、
数年前に、「善念寺」にて、
『宗祖の皮随』の題下に、法然上人の道詠十二首についてのご講話がありました。

そのご講話をきかれ信心歓喜して、
「上人こそが如来のお使い」とその時の実感を吐露されたのは、
波多野諦道上人から、弁栄聖者を預かるように頼まれ、
最初はいやいやながら預かられた丹羽円浄上人でした。

※ 丹羽円浄上人については、以前記事にしましたが、
その後、丹羽上人に関する貴重な逸話を知りましたので、以下、追記します。

丹羽上人は、一切経を読破された「学の人」でもあられたようでしたが、
弁栄聖者のご内証の片鱗を知るに及んで、
自身の学解の至らなさに慚愧し、
念仏三昧にも大変な精進をされたようです。

「弁栄上人は、一宗の枠内に置くべきお上人ではない。
寧ろ世界宗教を止揚し尽くした第一の方である。」


とは、最晩年の丹羽円浄上人の弁栄聖者観。

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○「大正元年より、
もっぱら光明主義の名をもって新法門を弘通するようになられた。」


「・・・かくのごときはこれ精神的光明主義である。
仏陀禅那は光明主義の予言者である。」
大正元年栃木県家中村渡辺厚盛法尼宛の書簡)

と、田中木叉上人は、『日本の光(弁栄上人伝)』に記されています。

また、
「光明会の継承者と言い、その名称と言い、亦組織された教学の発表と言い、
すべてがこの北九州の地で行われたのであった。」


とは、『辨榮聖者』の著者、藤堂恭俊上人のご指摘。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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