2015-03-08

弁栄聖者の東京遊学時代にゆかりのお寺巡り


今回の記事は、主として、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に依っています。

今回記事にするにあたり、
弁栄聖者の東京遊学時代にゆかりのお寺を巡り、
それらを整理しながら、見えてきたことがあります。

徳川家康は、念仏行者でありましたので、
江戸時代は、浄土宗と徳川家との関係が深く、
浄土宗の養成機関としては、「関東十八檀林」が知られており、
浄土宗以外でも、「檀林」のような養成機関があって、
現在そこを訪づれても、往時の雰囲気を感じとることができます。

弁栄聖者の宗派宗教を包超した宗教体験の深さ、広さは、
聖者の宗教的資質に依る(釈尊への憧憬が強かった)とは思われますが、
江戸時代から明治時代の仏教各宗派の養成機関の在り方も、
影響しているようにも思われました。

弁栄教学の宗教哲学的基盤には、華厳哲学があるように思われます。
弁栄聖者の宗教体験においても、また、然り。

弁栄教学の理解には、弁栄聖者光明体系『無量光寿』『無辺光』が必読書かと思われますが、

現在、井筒俊彦全集が発刊されており、
最近発刊の『井筒俊彦著作集第9巻 コスモスとアンチコスモス  1985年-1989年』
所収の「事事無礙・理理無礙―存在解体のあと」は、とても参考になると思われます。


また、現代の各宗派宗教の養成機関の在り方、
関東大震災といった自然災害、第二次世界大戦といった人災、
災害の影響、時の経過による風化といったものにも、想いをいたしました。


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明治十二年十一月以来、
千葉県小金東漸寺での弁栄聖者の御修行の様子を大谷大康老師はご覧になり、

「もはや我が膝下に止むべきではないと思い、
すみやかに帝都一流の学者の門をたたいてこの法器を磨かせんとて、
明治十四年正月から、上京させることになった。」

田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』

この当時から、

「仏法は学解にあらず、三昧実証にあり」

と、弁栄聖者の「常の方針」は一貫されておられました。

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東京遊学時の寄宿先は、
浄土宗の芝増上寺、時宗の浅草日輪寺、真言宗の田端東覚寺


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東京芝の増上寺(浄土宗)で、
傳通院主、大谷了胤老師から、
『往生論註』、『唯識論述記』、『倶舎論』その他を聴講されました。

大谷良胤氏は、
「ロシア大司教ニコライに請われるままに仏典の講義を行った。」
(藤堂恭俊『弁栄聖者』)

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関東十八檀林の一つ、増上寺とも縁の深い小石川傳通院
こちらも徳川家と大変縁の深いお寺。

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浄土宗第七祖了誉聖冏(しょうげい)上人が開山。

聖冏上人当時の浄土宗は、「寓宗」、「附庸宗」などと呼ばれ、
未だ独立した宗として認められてはいなかったようです。
その状況を嘆かれた聖冏上人は、
宗義の相承に五重相伝の法を定め、伝法制度を確立し、
現在の浄土宗の基礎を築いた、と云われています。

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浄土宗の芝増上寺の次の寄宿先、 時宗の浅草日輪寺

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時宗檀林、浅草日輪寺は、
浅草ビューホテルの隣り。

浅草日輪寺(時宗)では、
卍山(かずやま)実弁老師から、『原人論』、『起信論』等の講義を聴講し、
次第に『首楞厳経』等をきわめられました。

浅草と云えば、
弁栄聖者が東京留錫の時、一室を本拠とされた浅草誓願寺
戦災で焼失。

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時宗の浅草日輪寺の次の寄宿先、真言宗の田端東覚寺から数百mほどの距離にある、
東京田端真言宗の与楽寺

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ここ田端、真言宗の与楽寺で、
弁栄聖者は、密教を学ばれた、
と伝えられています。

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時宗の浅草日輪寺の次の寄宿先、
田端真言宗の東覚寺

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広瀬堅信氏。

弁栄聖者の御生家の近く、 真言宗豊山派「善竜寺」 。
聖者が御幼少年期に、仏画などを教わったお寺。
そこで教えて下った方が、広瀬堅信氏。

「後、東京田端の東覚寺に住し、又真言宗一派の管長となられ、一生親交があった。」

と、田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に記されています。

田端東覚寺寄宿の頃の、弁栄聖者の御修行の在り様、御境界の一端。

「愚衲、昔、二十三歳ばかりの時にもっぱら念仏三昧を修しぬ
身はせわしなく、事に従うも意こころは暫らくも弥陀を捨てず、
道歩めども道あるを覚えず、路傍に人あれども人あるを知らず、
三千界中、唯だ心眼の前に仏あるのみ。」


三千界中、唯だ心眼の前に仏あるのみ

この極めて重要な箇所を、

「三千界中、心眼の前に唯だ仏あるのみ」

笹本戒浄上人は、「唯だ」の位置をわざわざかえて、
弁栄聖者の念仏三昧における意識の強調点

「念弥陀三昧」

を、明確にされておられます。


「予、かつて華厳の法界観門に由って、一心法界三昧を修す。
行住坐臥つねに観心止まず。
ある時は行くに天地万物の一切の現象は悉く
一心法界の中に隠没し、宇宙を尽くして唯一大観念のみなるを観ず。
また一日道灌山に座禅して文殊般若をよみ,
心如虚空無所在の文に至って、
心虚空界に周遍して、内に非ず、外に非ず、中間に非ず、法界一相に真理を会してのち、
心常に法界に一にせるは是平生の心念とはなれり
之すなわち宗教の信仰に所謂、光明遍照中の自己なり
大円鏡中の自己なりと信ず。」

弁栄聖者は、寄宿先でも学友との議論には加わらず
「ひとり眼を仏書にさらしつつも心を三昧に凝らして念仏する方が主」であり、
信解行証の道程をひたすら歩まれたため、
学友からは、愚鈍の者とみられることもあったようです。


この頃、既に、弁栄聖者は、華厳の「法界観」を成就

真空に偏することなく

「本堂ができた、本尊様を迎えねばならぬ」

と、なお一層念仏三昧精進に専念されました。

「本堂ができた」とは、大ミオヤとの形式における致一
「本尊を迎える」とは、大ミオヤの内容との融即

形式と内容相まって、成仏

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東京駒込の曹洞宗の旃檀林吉祥寺

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関東における曹洞宗の宗門随一の「旃檀林(せんだんりん)」(現、駒澤大学の前身)。

駒込吉祥寺学林で、卍山(かずやま)老師の『華厳五教章』を聴講されました。


田端の東覚寺から、駒込の吉祥寺までは、徒歩で、およそ半里(2km)ほど。

「後二十四の時東京駒込の吉祥寺学林に於いて
卍山上人の五教章の聴講に列なりし時
田端の東覚寺に寄宿して吉祥寺に通う往復にも
口に称名を唱え意(こころ)に専ら弥陀の聖容を想ひ専ら神(こころ)を凝しけるに
一旦蕩念(とうねん)として曠廓(こうかく)極まりなきを覚え、
其時に弥陀の霊相を感じ、慈悲の眸(まなじり)丹花の唇等、
其の霊容を想ふ時身心融液にして不思議なるを感ず、
其後は常に念に随て現ず。」

「一旦蕩念(とうねん)として曠廓(こうかく)極まりなきを覚え、
其時に弥陀の霊相を感じ、慈悲の眸(まなじり)丹花の唇等、
其の霊容を想ふ時身心融液にして不思議なるを感ず、」


笹本戒浄上人の御教示によりますと、
弁栄聖者のこの御境界は、厳密には仏眼の一歩手前
「慧眼が円満に開け」、ついで、「法眼も円満に開け」たことによって実現できた御境界と。

「常に念に随て現ず。」

この心霊的自由を得た境界が、
「自受用にて自ら現じ自ら感ず。能感と所感と自己にある」仏眼の境界
(弁栄聖者光明体系「成所作智」『無辺光』)

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第二次世界大戦で、そのほとんどが焼失し、現在は山門と経蔵のみが往時を彷彿とさせます。

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東京遊学は、僅か2年足らず。

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明治15年7月、東京遊学後、実家には戻らず、
医王寺の薬師堂で、
21日間の御修行により、激修に堪えることを確認の後、
霊地、筑波山へ。

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霊地、筑波山での御修行により、念仏三昧発得

「弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念
一心専念能所亡 果満覚王独了々」
(筑波山上における弁栄聖者の三昧発得偈)


この時の、大宇宙を貫く大ミオヤを、

「念仏者の心本尊は六十万十万億の奥行きの堂」(弁栄聖者)

とも詠われています。

この後の弁栄聖者の仏作仏行の基盤となる宗教体験となり、
更なる大ミオヤの霊育を受けられていかれました。

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2014-11-25

弁栄聖者の恩師、東漸寺第五十世大谷大康老師を巡って


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「東漸寺」は、「関東十八檀林」の一つ。

「檀林」とは、仏教寺院における僧侶の養成機関、仏教宗派の学問所。

「東漸寺」のHPには、「東漸寺の沿革」として、

「東漸寺は、今から約520有余年前の文明13年(1481)、
経譽愚底運公上人により、当初、根木内(この地より1キロ北東)に開創いたしました。
この後約60年後の天文年間、現在地に移され、江戸初期に関東十八檀林の1つとされた名刹です。
 檀林となった東漸寺は、広大な境内を持ち、多くの建物を擁するようになりました。
大改修が成就した享保7年(1722)には
本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、
20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35カ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展しました。
明治初頭に、明治天皇によって勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願する所)となりました。」

と紹介されていますが、

実際に訪ずれてみると、確かにその広大さと雰囲気に圧倒され、
在りし日の繁栄に想いを馳せました。

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ちょうど今頃、今年の紅葉は、こんな感じでしょうか。

四季折々に、散策も楽しめそうです。

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伝記的には順序が逆になりましたが、
今回は、弁栄聖者の恩師、東漸寺第五十世大谷大康老師と聖者に関する記事。

今回も、 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』を主たる資料としています。

筑波山下山後、千葉県松戸市小金の、愚底上人により開創された「東漸寺」にて、

「恩師なる東漸寺五十世静誉上人より宗戒の両脈を相承された。」

東漸寺での修行時代、その老師さえ、
「弁栄はねないのだろう」
といっていたほどの、弁栄聖者のご修行の有様であったようです。

東漸寺時代の興味深い逸話を、田中木叉上人は記されています。

「当時鷲野谷にヤソ会堂がありて牧師がよく東漸寺に質問にきた。
老師にかわってこれに対応し、
耶蘇教の要理をつきこんで反問し、急所をつくので牧師はこまり、
ついにはこなくなったことなどもあったほど、
当時からヤソ教の方面にも、いささか研究の指をそめていた。」

特に、後年の「光明主義」における「キリスト教」の影響を暗示する逸話です。


明治十二年十一月以来、東漸寺での弁栄聖者の御修行の様子を老師はご覧になり、

もはや我が膝下に止むべきではないと思い、
すみやかに帝都一流の学者の門をたたいてこの法器を磨かせんとて、
明治十四年正月から、上京させることになった。」

東京遊学は、明治十四年(二十三歳)の正月から、二年弱。

〇増上寺(浄土宗)で、大谷了胤老師から、『往生論註』、『唯識論述記』、『倶舎論』その他。
〇浅草日輪寺(時宗)で、卍山(かずやま)実弁老師から、『原人論』、『起信論』等の講義。
次第に『首楞厳経』等をきわめ、
〇駒込吉祥寺学林で、卍山(かずやま)老師から、『華厳五教章』。
〇真言宗与楽寺で密教。

ただし、弁栄聖者の「常の方針」は一貫しており、

「仏法は学解にあらず、三昧実証にあり」と。

当時の増上寺法主行誡和上は、
既に、聖者の「比なき法器」に注目されていました。

この後、千葉県鷲野谷「医王寺」薬師堂での御修行の後、筑波山での二ヶ月間の御修行において「三昧発得」
その後、埼玉県吉川市飯島の「宗円寺」にて、一切経読了と続きます。


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「明治十七年(二十六歳)五月二十二日多年教養の恩師東漸寺静誉大康老師がご病死になった。
この訃報に接した時には、即刻飯島の草庵より小金に帰寺、
本堂にこもりて一百ヶ日の報恩別時を勤められた
横になっては寝ず、生理自然の用の外は座を立たず、
不断に称名して、広大の師恩に追孝の至誠をぬきんでた。」

老師の法号は、「安蓮社静誉恭阿又夢大康大和尚」。

東漸寺第五十世なり。

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恩師大康老師亡き後、恩師が果たせなかった千葉松戸五香新寺建立のため、
弁栄聖者は、小金から五香の説教所に移り住まわれました。

「建立の寄付はなるべく多数の人に仏縁を結んで、
他生得脱の福徳資せんため」


「一厘講」と名づけて、寄付を募られた。

福田行誡和上も、自ら進んで寄附勧進に懇ろな付言を賜った。

この間の弁栄聖者のご生活は、「赤貧洗うが如き」状態であったようですが、

そのような状態であったにもかかわらず、
困っている者があると、その資金を、その困っている者にあげてしまわれる、
そんな聖者でありました。

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遂に、先師七回忌、明治二十四年(三十三歳)に、
千葉松戸五香に、善光寺本堂が落成されました。

その建立方針は、いかにも聖者らしく、

「人々が礼拝する場所さえあれば、そんなに立派でなくてもよい。
あまり立派にすると多くの人々に迷惑をかけるから」


と本堂のみを建立し、住む庫裡は元のままのあばら屋にした。

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最後になりましたが、
千葉県松戸小金東漸寺の開創者、愚底上人のお墓は、
弁栄聖者の菩提寺鷲野谷「医王寺」にあります。

なお、浄土宗医王寺は、愚底上人により、寛正2(1461)年に開創。

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「医王寺」から少し離れた隣りに「薬師堂」はあり、
その奥、裏側の方に、愚底上人と弁栄聖者のお墓があります。

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「以前より鷲野谷の地は、薬師如来の霊験ある所であった」
とのこと。

「イエス・キリスト」「弘法大師空海」を彷彿とさせる弁栄聖者の数々の「奇蹟」 。

聖者が活躍された「時代性、時代精神」とも関係しているようにも思われますが、
聖者が生まれ育った「鷲野谷の地」とも関係しているようにも感じられます。

弁栄聖者のご生家の近くには、
「真言宗豊山派 善竜寺」と、
薬師如来と関係の深い「浄土宗 医王寺」があり、

数kmほど離れたところには、
明治十六年頃設置の「手賀教会堂」があり、

「弁栄教学」上、今後の解明が必至となる「ギリシャ正教(ロシア正教)」の教会堂。


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「薬師堂」の左脇を通り、正面に見えてきます、

「行蓮社経譽(愚底)上人」の墓碑

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2014-11-14

「明治十六年九月(二十五歳)から十八年六月(二十七歳)まで足かけ三年、宗円寺(埼玉県吉川市飯島)にて、黄檗版の一切経七千三百三十四巻を読了。」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

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【筑波山上 弁栄聖者 三昧発得偈】

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「弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念
一心専念能所亡 果満覚王独了々」



筑波山頂での二ヶ月の御修行の効実り、「念仏三昧発得」

筑波山入山の目的を成就し、下山。

定めし「出山の釈迦」を彷彿とさせるものであったことでしょう。


田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、
弁栄聖者が御修行中にみられた印象深い予知的「霊夢」が二つ記されています。

まだ、立身石の所にいる時の霊夢。

「初め金竜現れ、遠くに文殊普賢二菩薩獅子と象に乗り、
釈尊がその間にたって在す三尊を夢みられたことがあった。」


また、山を下りる前夜の霊夢。

「曠野で獣に追われ逃げると不思議にも空を飛べて、
向うの経蔵に経がほしてある所にきた。
そこで一度一切経を披閲せんと願っていた望の遂げらるるのを
喜んだ夢を見られたこともあった
。」

前者は、明治二十七年の「インド仏蹟参拝」に、
後者は、明治十六年の宗円寺にて「一切経読了」に、
それぞれ、結実されました。

弁栄聖者の特徴の一つ「釈尊への憧憬」
華厳宗中興の祖といわれる鎌倉時代の「明恵上人」を彷彿とさせます。

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筑波山下山後、千葉県松戸市小金の、愚底上人により開創された「東漸寺」にて、
「恩師なる東漸寺五十世静誉上人より宗戒の両脈を相承された。」

「東漸寺」は、「関東十八檀林」の一つ。
現在よく知られた寺院としては、「芝増上寺」、「鎌倉光明寺」などがあります。

「檀林」とは、仏教寺院における僧侶の養成機関、仏教宗派の学問所。

ちなみに、「徳川家康は、熱心な念仏信者」でもありました。

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「東漸寺」を訪れた時、「関東十八檀林」の在りし日の繁栄を想像しました。

「東漸寺」は、四季折々の景色が堪能できそうです。

紅葉の時季には、短時間ながら「ライトアップ」もされるようです。

「阿弥陀仏に 染むる心の 色に出でば 秋の梢の たぐいならまし」

弁栄聖者述『宗祖の皮髄』にも取り上げられている法然上人の御歌を、しみじみと味わわれることでしょう。

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「年来一切経全部の拝読を望んでいたのが機熟して、
大康老師の許しを得、
明治十六年(二十五歳)九月より、十八年六月にいたるまで、足かけ三年、
東漸寺経蔵より黄檗版の一切経(七千三百三十四巻)を少しずつ運んで行っては、
宗円寺で拝見することになった
。」

千葉県松戸市小金「東漸寺」から、埼玉県吉川市飯島「宗円寺」までは、
二~三里、約十kmほど
馬に乗せて運んだようです。

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お盆、お彼岸等には、拝観できるようです。

残念ながら、現在では、当時の面影は、ほとんどありません。

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田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』は、
名文で知られていますが、読む度に、その精確かつ巧みな文章力にも感嘆いたします。

「月かわり星移っても金剛の一心に一巻また一巻、
うまずたゆまず拝読する日々夜々、
大聖世尊の不滅の慧命が経論章疏、律制伝歴を通じて、
自身の脈搏に波打つを覚えられるるのであった


この閲蔵中のことである。

芝増上寺(時の東部管長)行誡和上は、
この青年沙門の行持を聞き伝えて「東から名僧がでる」とよくいっておられたが、
使者(当時増上寺内役、のちの鎮西本山善導寺貫主広安僧正)を飯島宗円寺に遣して、
和上の所に来謁するように求められた

使者は若年の学僧、この管長の招請を恐悦するだろうと思えるに、

「ただ今お釈迦様に拝謁中であるから」

とて老和上の招きに応じられない。

「草庵にこもりて一切経を閲しける頃
我庵の庭の夏草繁れかし訪いこん人の道わかぬまで」」


弁栄聖者の場合には、
若者にありがちな「権力、権威への反発」といった類のものではなく、

福田行誡和上に対し失礼になるかとも思われますが、
おそらく、「そっとしておいていただきたい」
といった心境だったように思われます。

「政治、世俗的な事柄への関心の希薄さ」

これは、弁栄聖者の「生涯を貫く特徴」と思われます。

弁栄聖者の同時代人であった椎尾辨匡師(「共生運動」の提唱者)とは、対照的な生き方。


福田行誡和上への来謁に応じられなかった弁栄聖者ではありましたが、

「明治十七年(二十六歳)五月二十二日多年教養の恩師東漸寺静誉大康老師がご病死になった。
この訃報に接した時には、即刻飯島の草庵より小金に帰寺、
本堂にこもりて一百ヶ日の報恩別時を勤められた
横になっては寝ず、生理自然の用の外は座を立たず、
不断に称名して、広大の師恩に追孝の至誠をぬきんでた。」


「百日別時も終りに近づきし頃、
またまた増上寺行誡和上下総の松戸まで来錫のことあり、
和上は再び謁見を求めたけれど、
入行中の由を聞いて随喜に堪えず、書簡を与えて謁見を止め、
しかも謁見第一の人と歎ぜられた。」

さすがに、福田行誡和上だと思いました。
その後も、弁栄聖者に目をかけられたようでした。

「明治十八年(二十七歳)閲蔵のかたわら木彫の尊像など多数拝彫しつゝ、
飯島隠棲すでに三年を迎えた。

一切経の文字章句のうす霞にすいて伺われる
暐曜愌爛(いようかんらん)たる無漏の真境にあこがれ、
寿命無数劫の大聖世尊慕いつつ
一巻また一巻、念仏しながら心読体解してゆく最中、
ある時は一心称名の端的、三昧現前し、
釈迦牟尼仏を中心に文殊普賢の二菩薩霊容宛然として
空中に住立し給うを感見された
こともあった。

足かけ三年の精進にたまには小さな刃物を体に刺して眠気を払ったこともあった(傷あとは後年まで残っていた)

かくて一切経七千三百三十四巻を読了し、
十八年六月飯島の庵室を辞し
、夏草の草を踏みわけて小金東漸寺に帰られた。」

この飯島宗円寺での一切経読了の約十年後、
弁栄聖者は、大聖世尊への思慕の情おさえ難く、遂に「インド仏蹟参拝」へ旅立たれました。

今回の記事を書くにあたり、田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』を再読するうちに、
此処飯島宗円寺での「一切経読了の体験の意義」を再認識しました。


弁栄聖者の飯島の宗円寺での一切経の読了について、
浄土宗乗学者であった、聖者直弟子藤本浄本上人の示唆に富むご指摘。

「聖者がこの難解な漢文で書かれた一切経を読破御出来になったのは、
筑波山での三昧発得の御悟りによることは勿論でありますが
十六、七の頃、康熙字典の全巻の音と意味とを全部暗誦しておられたから
御出来になったのです。(藤本浄本上人)」
(吉松喜久造編『辨栄聖者御写真帖』)

また、「年代は分からないが具聞持法の三昧を行じられたこともあった。
(註ー具聞持法は弘法大師等古聖も修行成就されし三昧で記憶力を増進す)」(田中木叉上人)


また、大乗経典の成立史を知る我々現代人は、
「大乗経典とは、何か?」という難題に直面することになります。

この難題に対する弁栄聖者の見解は、至極簡潔明快です。

「大乗非仏説」に対して、「私もそう思う」とし、

「大乗経典とは、三昧定中における大乗仏陀釈尊による直説法である。」
と喝破
されています。


「聖教量を堅とし実感を横として」

とは新潟教区教学講習会で浄土教義講演開口の一番のお言葉であった。
この自内証の権威がまず聴聞者の心を引きつけた。」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

この意味内容を、笹本戒浄上人は、

「弁栄上人は、
「自分は経文に依って演繹的に説くのではない。帰納的に説いておる」
と言っておられました。
・・・経典に依るのでなく御自身の体験せられた如来様の事実から
帰納的に光明主義の教学体系を組織せられた
、という意味であります。
この事は親しく弁栄上人よりしかと承っております」と。
(『笹本戒浄上人全集 中巻』)

この意味から、『弁栄聖者光明体系』を「大乗経典」といっていいようにも思われます。


長くなっていますが、
示唆に富む興味深い、弁栄聖者の逸話を、更に少々。


「聖者は何でもよく分かっておられる筈なのに、
よく本を読まれていたのを不思議に思われ、

「聖者は三昧発得していらっしゃって何でも分かっていられるから、
本など読まれなくてもよいでしょうに」

佐々木為興上人がお尋ねになったところ、

「いや、それはいけぬ。やはり本を読まぬといけぬ」と言われたので、

「どういう訳ですか」と重ねて尋ねると、

「それは、お念仏していれば大宇宙の事柄が一切分かるようになる
分かるけれどそれは観念的に分かるのだ
書物を読むと書物に書いてある事柄と自分の観念として得ている事とぴったりと合う。
認識にしようとする思うと本を読まねばならぬ。
本を読む事によって認識となるのだ。」

と聖者はお答えになられました。

またある時、

「どうして本を読むのがそんなに早いのでしょうか」とお尋ねになると、

「こんな事を言うとおかしいが、
私の心の通りに書いてあるようで早い。
事新しいことが書いてあるとは思わぬ。
丁度自分の手紙を読むようだ
」と聖者は仰言った。

以上、藤堂俊章編『佐々木為興上人遺文集』による引用。


このことと関連して、是非触れておかねばならないことがあります。

釈尊と弁栄聖者とのお悟りの深さの相違に関してです。

私も観念としては得ておるが、認識的一切智では釈迦さんに及ばない。
この世界で認識的一切智を得ておられたのは釈迦さんばかりだ。


このことは、笹本戒浄上人が弁栄聖者から口訣として承ったこととして伝えられています。
( 『笹本戒浄上人全集 中巻』 )

弁栄聖者は、この時点では、まだ、

「ミオヤの御世嗣」、つまり、
「無生法忍」、「超日月光」における「三身四智の入の位の仏眼」、「如来無対光」の御境界


では、なかったようです。(笹本戒浄上人述)

弁栄聖者の御境界は、御遷化まで、無限に深まっていかれました

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2014-10-01

「弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念 一心専念能所亡 果満覚王独了々」(筑波山上における弁栄聖者の三昧発得偈)



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この石碑は、男体山の「立身石」の手前に立っています。

「明治十五年二十四歳の時一夏六十日間筑波山上に入山修行
深三昧の岩床に称名日々十万遍
王三昧円かに成就して、如来の真境了々と現前
爾来三業清浄、一行精進、施、戒、進、禅、慧欠くることなく
更に三年間草庵に籠って、一切経七千三百余巻読了。」

と、 『日本の光(弁栄上人伝)』の筆者である田中木叉上人は、
弁栄聖者の筑波山上における三昧発得の、決定的ともいえる重大な意義を記されています。


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筑波山は、「西の富士、東の筑波」

と言われるほどの、古えからの霊峰

弁栄聖者の御生誕地である鷲野谷から、12~3里(およそ50kmほど)。


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聖者は、筑波山入の理由を、

仏教の真理は三昧に入り 神を凝らすにあらざるよりは 証入すること能はず 
依て暫く山に入れり」と。

「仏法は学解にあらず、三昧実証にあり」

実証(実験)主義こそが、弁栄聖者の「常の方針」でありました。

御歳二十数歳での「三昧発得」というのは、
実に驚嘆すべきことで、
宗教史上からみても、類例を見出し難いのではないでしょうか。

弁栄聖者が宗教的天分に恵まれた、宗教的大天才であったことは言わずもがなですが、
その修行の精進も尋常でなかった
この点も見落としてならない重要な点だと思います。

やはり、この点は是非押えておくべきだと思いますので、
「筑波山上での三昧発得」までの聖者の主だったエピソードを次に記します。

(幼児期~少年期)
好んで仏画を描かれ、仏書を読まれた。

(十二歳頃)
秋の彼岸の中日、杉林から入る日を拝もうとした時、
「想像にはあれども、三尊(阿弥陀仏と観世音菩薩、勢至菩薩)を想見し、その霊容に憧憬して、
その聖容を霊的実現としてせん仰し奉らん」と強く願われた。

ただし、「後には、三尊を一尊にして拝むことにした」とのこと。
この選択も、実に不思議なことに思われます。

弁栄聖者の特徴でもありますが、
自内証を自ら語られることは少なく
このことも、次の出家の願望同様、ご家族は知らなかったようです。

(出家前、青少年期)
若かりし日に出家を夢見た父の「念仏嘉平」氏は、
出家に耐えるかを試すため、
青小年の啓之助(弁栄聖者の幼名)に厳しい仕事を課された。
そのお蔭で、五体はますます頑丈になった。

(二十一歳)
近所の檀那寺の鷲野谷医王寺において、
関東の名刹、関東第十八檀林、小金の東漸寺の第五十世、大谷大康老師を剃髪授戒の師とし、出家得度。
行学に精励。
入寺早々、異例ともいえる、
「華厳の事々無碍法界」のあらましを授け、ついで「天台四教義」を教え、
つづいて、「天台三大部」の要領を授けた。
大康老師さえ「弁栄はねないのだろう」と言われていた。
でも、三時間位は寝た。

(二十三歳)
東京遊学。
浅草日輪寺(時宗)、駒込吉祥寺学林、真言宗与楽寺、芝学頭寮に止宿して宗乗聴講。
田端の東覚寺(真言宗)から通学途上、

「三千界中唯心眼の前に仏あるのみ」

と、一ぱら念仏三昧を修し、苦心惨憺。
そして、

ある時は、「五大皆空唯有識大」の境界現前。
ある時は、「一心法界」の真境界現前。

(二十四歳)
華厳の「法界観」を成就したので、
「これで本堂ができた。本尊様を迎えねばならぬ」

と、より一層念仏三昧に精進された。

このことも、弁栄聖者の実に不思議な処で、

ここで、「真空に偏して」しまっていないのが、実に実に不思議で、謎。

ついに、

「後二十四の時に東京駒込の吉祥寺学林に於いて
卍山上人の五教章の聴講に列なりし時
田端の東覚寺に寄宿して吉祥寺に通う往復にも

口に称名を唱え意(こころ)に専ら弥陀の聖容を想ひ
専ら神(こころ)を凝しけるに


一旦蕩念(とうねん)として曠廓(こうかく)極まりなきを覚え、
其時に弥陀の霊相を感じ、慈悲の眸(まなじり)丹花の唇等、
其の霊容を想ふ時身心融液にして不思議なるを感ず


この時の弁栄聖者のご境界に関して、
笹本戒浄上人のご解釈に依りますと、
(参考文献:仏陀禅那弁栄聖者著『光明主義玄義(ワイド増訂版)』)

厳密には、仏眼の一歩手前、「法眼が満位」になったご境界

「仏眼」が開けるためには、
「慧眼」が先に満位になり、次に「法眼」が満位になるという過程を辿り、
「慧眼と法眼」が「即の状態になった境界」が「仏眼」。


したがって、「慧眼・法眼・仏眼」。

「其後は常に念に随て現ず。」

この「心霊的自由を得る」のは、「仏眼の境界」で、

弁栄聖者は、

「仏眼は自受用にて自ら現じ自ら感ず。能感と所感と自己にあり。」

と、 「成所作智」(『弁栄聖者光明体系 無辺光』)において、
御自身の体験上の事実を踏まえ、「仏眼」を解説されています。

東京遊学より、帰郷され、
鷲野谷医王寺の薬師堂に籠って、三十七日(日数に異説あり)の修行
その間に蝋燭を腕に立てて燃えてしまうまで、
また線香を横たえて終わるまで、
また掌に油を盛りこれを燈心に浸して火をつけ、
掌の皺目がさけて熱した油と黄色の焔が皮膚の切れ目にヂリヂリヂリににじみこむのを忍んで、
如来宝前に供養し奉った。

以上、激烈ともいえる仏道修行の後の
八月末から二ヶ月間の筑波山入山、修行。


「筑波山上における三昧発得」後、筑波山下山後のことについても、少々触れておきたいと思います。

(十一月)
小金東漸寺にて、大谷大康上人より宗戒の両脈を相承された。

(二十五歳~二十七歳)
埼玉県吉川町の飯島、宗円寺。東漸寺から二三里(おおよそ10kmほど)隔てた閑静な寺にて、
一切の外縁を絶ちて、足かけ三年で、
東漸寺経蔵より黄檗版の一切経(七千三百三十四巻)を少しづつ運んで行って、読了

以上、主として、 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』によります。


記事が大分長くなりましたので、
筑波山での修行の具体的な有様については、
次回に譲りたいと思います。


「常陸国筑波山麓より一里ばかりか山頂より二丁許南の方に
立身石てふ巌窟あり 此に在って凡そ一ヶ月 次に場所をかいて一ヶ月
身に纏ふ所は半素絹 食物は米麦そば粉などにて」
(次の場所は北斗石と伝うる人もあり決して確ならず)
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

弁栄聖者がご修行された時代とは大分隔たっていますが、
実際に筑波山に行ってみますと、
本から得た知識とは、また違った知見が得られました。

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2014-08-31

「急がねば日がくるる、あせると足が地につかぬ。」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

弁栄聖者晩年口にされていた、随行者への警句。

読む度に、身が引き締まる思いを新たにします。

若い頃は、理想への性急さがあり、
歳を経る毎に、世間の忙しさにかまけ、いつの間にか懈怠心が生じており、
実際には、実践してみると、
「このコツを掴む」のは、なかなか難しいと実感します。

このことに関して、是非記しておきたいと思っていたのが、
「筑紫の聖者」と敬愛された中川察道上人の杉田善孝上人へのご説法、
その杉田上人の想い出話しです。

まだ若かりし杉田青年に、
九州の自坊へ伝道に来るようにと、察道上人はお誘いになったことがあったとのこと。

その当時既に、中川察道上人は、三昧をいただかれ慧眼と法眼が開けており、

「自分の体を触るのと汽車の窓を触るのと同じ感じだ。」

と身近の方に語られていたほどの御方。

恐縮のあまり即座に断る杉田青年に、
察道上人は、「思い切っていらっしゃい」とお誘いくだり、
それ以上は断りきれず、杉田青年は察道上人のお寺へ行かれました。

ところが、そんなご境涯の御方、察道上人のお寺に到着しましたが、
杉田青年のガチガチに緊張していた様子を察し、

察道上人は、杉田青年の傍でごろんと横になって、

「長旅で疲れたでしょう。あなたも、遠慮しないで、寝ころぶとよい。」

と言われ、次の言葉を続けられました。

「弁栄上人の一切の行為を知ってその真似をしようと思っても、
一朝一夕にできるものではない。
だんだんお育てを頂いて、段々と近づいていく。
難思光、無称光、超日月光と徐々にお育てを頂いた暁に、
ようやくあのようになることができるのだ。
だから、無理をすることはない」と。


理想に燃え、熱心な青年に特有の性急さによる、
「修行と理想のギャップに苦しむ」青年僧への、
先輩からの、実にお慈悲に富んだご説法で、
とても感銘深く、記憶に残っています。

中川察道上人という方は、
光明主義を勉強されている方でもご存じない方もいらっしゃるようですので、
この機会に是非知っていただきたく、逸話をご紹介します。

弁栄聖者の御法話を聞かれた察道上人は、
「三昧入神」について疑問をいだき、聖者にお尋ねになりました。

察道上人:「私のようなものも三昧に入る事が出来ましょうか」
弁栄聖者:「出来ます」
察道上人:「それではどの位の時日を要することでありましょうか」
弁栄聖者:「三日間かかります」

この聖者の御言葉に吃驚された察道上人のご様子を察し、

弁栄聖者:「けれどもそれはあなたのみに言うことで、一般にはそんな事を勧めるものではない」

と念を押されたようです。

かくいう、大変機根のよかった御方で、
後に、とても素晴らしい書と歌を残されています。

ここで、興味深いことの一つは、
中川察道上人自身にさえ自覚できていなかったことが、
弁栄聖者には「御見通し」であったことです。

もちろん、弁栄聖者の「大円鏡智と妙観察智」による衆生済度の姿です。

中川察道上人の弁栄聖者の印象(直観)は、

「(十二光の御法話は)分からないまでも何となく尊く感ぜられ、
じっと御顔を拝する度に、
いつもこのお方は善導大師の御再来であるなという様な感じがして、
解らないが有難くて一週間のご講話を承わりました。」

弁栄聖者を「法然上人の再来」と思われる方は多いかと思われますが、
察道上人は「善導大師の御再来」と直観されておられているところが、
大変興味深く思われます。

まだまだ研究途上ですが、
弁栄聖者の修行実践は、
法然上人が「偏依善導」と仰がれた「三昧発得の聖者」善導大師の方に、むしろ直結していると、
思えてきているからです。

なお、これらの逸話は、『辨栄上人の思い出』(山崎辨戒編集兼発行 霊鷲山 善光寺発 非売品)によっています。


現代という時代に生きる私達は、
「努力と成果」という短絡的な因果関係で事物を捉え、
「性急な成果を求める志向」が根深くあり、

宗教の世界へも「自然因果律(関係)」を適用し考えようとしてしまいがちですが、
どうも、「心霊(宗教)因果律」は、そう単純ではないように思われます。

いわゆる、意識的な修行の努力の成果が、
比較的時間を置かずに、直ぐに目に見える形で、
「因果関係を明確に意識できる形で現れる」とは限らない、
そこが科学的な因果関係(自然因果律)に馴染んだ私達が戸惑うところかと思われます。

「急がねば日がくるる、あせると足が地につかぬ。」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

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2014-04-06

「一より二に出で、二を含んで一に立つ」。「法」は「機」とあい望めてそこに活きる。方便こそ、真実は活きて働く。・・・活ける仏法は説でもなく、理でもない。仏「法」は常に仏「道」である。・・・相異なる方便にこそ不変の真実があらわるる。」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

幸いなことに、現在私達は、弁栄教学を、
田中木叉上人御編纂による『弁栄聖者御遺稿集』により知ることができます。

もちろん、
「三身四智の仏眼の御境界」による、
甚深なる弁栄聖者の御教えの全貌を理解することは不可能でしょうが、
それでも、比較思想研究はかなりの程度は可能で、
その限りにおいても、弁栄聖者が図抜けておられることは、十分感じられます。

しかし、釈尊、弘法大師空海、法然上人等の伝説的な逸話とは異なり、
ほぼ史実と確認できる弁栄聖者の数々の逸話が残っていなければ、
これほどまでには、弁栄聖者を尊崇できていなかったかも知れません。

その意味からも、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』
の存在意義、御功績はとてつもなく大きいと思われます。

弁栄聖者が御遷化されたのが、1920年、
『日本の光(弁栄上人伝)』の初版が出版されたのが、1936年。

15年以上の月日が経っていることになります。

その間、田中木叉上人は、日本全国を回られ、
弁栄聖者が書き置かれた御遺稿を集める作業を続けられました。


さて、弁栄聖者の逸話で、深く感銘を受けるのは、
弁栄聖者の宗教家としての、縦横無尽な「衆生済度の方便智」です。

弁栄聖者を「魂の産婆」と捉えてきました。

史実に基く限り、おそらく、史上類例を見出すことが困難ではないでしょうか。


弁栄聖者の全貌を捉えることは、不可能とさえ云えることで、
弁栄聖者のような方を評することは、その者の境涯を図らずも露呈してしまうことで、
畏れ多く、かつまた、恥かしいことでもありますが、
ただただ、崇めるだけではやはり、進歩もないともいえますので、
弁栄聖者に関することであまり話題に上ったことのないことについて、
若干、試見を述べさせていただきたいと思います。

「弁栄教学研究」において注目していますのは、
評論家であり自身カトリック信者でありながら、
昨年、2013年8月に、岐阜にオープンしました「山崎弁栄記念館」の館長でもある若松英輔氏による、
イスラーム神秘主義研究の権威 井筒俊彦氏の研究です。

ただし、井筒氏は、稀有な、神秘哲学者・文筆家ではありますが、宗教家ではありません。

また興味深いことに、
若松氏は、ユング心理学の日本への紹介者、河合隼雄氏にも注目されています。

河合氏といえば、
心理療法を日本に根付かせ、また、「箱庭療法」を日本に導入された功労者。
とりわけ、「イメージの力」に強い関心を寄せられていました。

ちなみに、ユングには、『観無量寿経』に関する研究(『東洋的瞑想の心理学』)があります。
  
弁栄聖者は、「成所作智」(『無辺光』)で、
イメージ、想像力の超越的根拠を詳述されています。

また、河合氏が日本人で唯一の師と仰がれたのが、
華厳宗の中興の祖と云われる、夢記でも知られる明恵上人で、

『明恵 夢を生きる』

という、とても示唆に富む本があります。


興味深いことに、仏教を避けてきた河合氏が、
明恵上人を縁にして、『華厳経』を知ったようです。
更に、その華厳経を深く理解できたのは、井筒俊彦氏を通してであり、
それどころか、河合氏が自身実践されてきた心理臨床の理論的根拠を、
「華厳思想」に見出されたようです。

河合氏の心理臨床において、決定的な役割を果していると思われる、

「共時的現象」、「布置(コンステレーション)」を読み取る感性

河合隼雄氏の心理臨床の特異性に関しては、
今後、「華厳思想」からの本格的アプローチが待たれます。

また、河合氏は、宮沢賢治にも強い関心を寄せていました。
賢治と云えば、『法華経』が思い起こされます。

『華厳経』と『法華経』は、
弁栄教学においても、極めて重要な経典であります。

弁栄教学の特徴の一つに、三身論がありますが、
おそらく、その三身論の解明には『法華経』は不可欠の経典かと思われます。

また、前人未到とも思われる「七覚支」の形成、展開を考察する場合、
「華厳思想」の比較研究にも留意する必要があるようにも思われます。


話は、変わりまして、

弁栄聖者の「衆生済度」の在り方を考察していきますと、

精神科医の中井久夫氏と心理臨床家の村瀬嘉代子氏の臨床の在り方が思い起こされます。

お二人とも、特定の信仰をお持ちではないようですが、
宗教家としての弁栄聖者の「衆生済度」の在り方を考察する場合、
とても参考になり、また、学ぶところも多いです。

中井氏、村瀬氏の両者に共通していると思われる点は、

・特定の流派にとらわれていない点。
・緻密な観察眼と細心の心使い、ここぞという時の大胆な働きかけを併せ持つ点。
・「透見の明」、「現実」のもう一つ奥の真相を見抜く眼力の持ち主、
透徹した「リアリスト」である点。
・知性を駆使しながらも、人間知性への謙虚な姿勢を持たれている点。
・「同体大悲」的な感性をお持ちである点。
・人間性に対する信頼感があり、希望も持ち続けられる点。
・博識、文学的素養が豊かであり、
かつ、その知識が英知となって、臨床に活かされている点。



中井久夫氏は、京都大学卒。
精神科医として著名で、かつ、近年は著述家としても知識人の間で評価が高いようです。
また、神戸大学の精神科医として、
阪神淡路大震災時に、「こころのケア」の陣頭指揮にあたられた方。

中井氏は、患者さんと面接し、波長を合わせていると、
呼吸、脈拍が自然と同調したという方。

中井氏は、河合隼雄氏の臨床的英知には敬意を払われていますが、
河合氏の臨床の最大の特徴である「共時性」、「布置(コンステレーション)」
というユング派的考え方には、距離をとられておられます。

ところが、中井氏の臨床の実際は、
「共時性」、「布置(コンステレーション)」的現象を、
巧みに活かされているように思われます。

これは、中井久夫氏の、
人間としての「謙虚さ」と「人間知性に対する矜持」の現われかと思われます。

ただ、中井氏は、
一見神秘的と思われる「共時性」・布置(コンステレーション)」的現象を、
緻密な観察眼により、
身体、心、生活環境等の種々の位相における時系列をグラフ化し、視覚化することにより、
それらの現象を、我々の目に示してくださいました。

一方、 村瀬嘉代子氏は、
「統合的心理療法」を提唱され、実施されておられます。

村瀬氏は、「心理臨床界における中井久夫」とも云えるほど、
お二人には、通底した何かを、強く感じます。

村瀬氏の特徴点の一つは、
自然、動物との交流が、心理臨床に活かされている点です。

専門家の働きかけに心を閉ざしていた児童。
その児童にだけになついていた汚い猫が、
何故か、村瀬氏の傍にすり寄り、膝に乗った。
その様子を見ていたその児童が、
少しずつ村瀬氏に心を開いていったことがあった。

弁栄聖者にこんな逸話があります。

ねずみが弁栄聖者の膝や肩に乗ったり、遊んでいた時、
弟子が部屋に入ってくると、
ねずみが逃げてしまった。

どうして、逃げてしまったのでしょうか、
と弟子に問われ、

弁栄聖者はその弟子に一言、

「それは、お前が、偉いからだ」。

また、村瀬嘉代子氏は、奈良女子大学卒で、元大正大学教授。
大正大学と弁栄聖者とは因縁が深く、
また、奈良女子大学とは、そう、岡潔氏が勤めていた大学で、
村瀬氏の在学中に、数学者岡潔氏は理学部(?)教授だったことになります。


東日本大震災から三年が経過しました。

しかし、その傷跡は深く、容易には癒えないように思われます。

以前、「臨床宗教家(師、士)」への資格制度への動きがあると聞いたことがあり、
それ以来、関心を寄せています。

とても重要な観点ではありますが、なかなか困難であろかと予想されます。


中井久夫氏からも評価の高い特異な能力をお持ちの精神科医、神田橋條治氏の、思わずしゃんと、襟を正す言葉。

「技法を欠く理想は不毛を生み、理想を欠く技法は悪魔に奉仕する。」

弁栄聖者を尊崇する者として、
中井久夫氏、村瀬嘉代子氏の臨床研究から学ぶことが多いですが、
同時に、恥かしく思うことも多いです。


仏道修行の菩薩行における最大の眼目の一つ、

「自行化他(作仏度生)」

については、
後日改めて記事にしたいと思っています。

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2014-03-03

「逆縁も順縁も、すべてはそのまま如来大悲の「帰趣」のみち。」(田中木叉『日本の光(弁栄上人伝)』)

弁栄聖者御在世当時、
聖者に出遭われた方が皆、初めから聖者に心酔されたわけではなかったようです。

その人と真に出会うには、
出遭う「タイミング」、「時」というものがあるようにも思われます。

今まで、弁栄聖者笹本戒浄上人田中木叉上人藤本浄本上人熊野宗純上人など、
聖者のお弟子方々との印象に残る出遭いをご紹介してきました。

今回は、弁栄聖者と、「逆縁」とも言える印象的な遭いをされた方々をご紹介したいと思います。

ハワイとアメリカに布教に行かれた神奈川二宮知足寺の相馬千里氏と、
弁栄聖者との霊的因縁の深かった咲子夫人、その夫でもあった新潟柏崎極楽寺住職の籠島氏、
に関する逸話です。

本郷の下宿屋で、弁栄聖者の説法の小さな集まりが開かれた時のこと。

聖者の傍聴を勧められながらも、相馬氏は、

「弁栄さん?弁栄さんて米つぶに字を書く人だろう。ありがとう。」

とそっけない返事をし、床にもぐり込んで小説を読み、
部屋の中まで聖者の御説法の声が聞こえながらも、
床から出ようとせず、

「なんの米粒行者の説教ぐらい」と鼻で蹴っていた。

そのまま寝込んでしまいふと目を覚ますと、
凍てつく冬の真夜中の午前三時。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、
とあの静かな声が、次の室からもれてくる。

相馬氏は、好奇心から、隙間からその室を覗くと、

(弁栄聖者は)薄暗い電燈の下に、袈裟をお頭の上からかぶって、
火の気の絶えた深夜の寒さの、床の中さえしみこむ中を、
机に端坐してしきりに筆を走らしておられた。

(註:これらが、全国の信者方への『御慈悲のたより』となって、現在に残っています。)

この弁栄聖者の無言の説法に魂をゆすぶられた相馬氏は、
明朝起きて聖者に教えを請わんとされたが、
時既に遅し、聖者は、巡教のために旅立たれた後、
今生の別れとなってしまいました。

「この夜のこの印象が年月へだてて、ご滅後に関東光明会火つけの親としての
相馬千里師の一家一族の信心に炎にもえあがる導火線となった。」


と田中木叉上人は、結ばれています。


次は、籠島氏に関する逸話。

籠島氏は、明治二十五年弁栄聖者が浄土宗本校建設資金勧募巡錫のお伴をされた方。

その節、聖者の汚い法服、きまり文句の説教、
それに多数の書を口、両手、頭で書かれ、
寒い時は鼻水を垂らして夢中である様子に、
むしろ軽蔑の念さえおこし、
更に、聖者が異安心と言われてもいるし、
今度講師として来られたと聞いても、
講話聴聞の考えは毛頭なく、
旧知の人に挨拶する程度の気分で、会場の寺に行かれた。

弁栄聖者は、低い声で称名しながらご不浄場から居間に帰られる所で、
出会いがしらに、聖者は神々しいお慈悲あふるるおもてをこちらに向けて、

「これは籠島さんですね、久しぶりでございます、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

と仰せられた。

その端的、籠島師の身心は電流に打たれたごとく、
なんともいえぬ一種の感じがこみあげてきて、
思わず知らず泣きじゃくり涙とどまらず、
体うごけずして長い間ひれ伏してしまった。


講演の時間になり本堂に登らるる弁栄聖者を拝して、

「久遠の親様にお会いした心地」となり、
傲慢懈怠の過去が恐ろしく、はじめて真実求法の志が湧いた。


それから自坊極楽寺にもご巡化を願い、年々の厚き徳化をこうむった、と。

新潟柏崎極楽寺とは、弁栄聖者ご遷化のお寺。

極楽寺籠島氏の御夫人であった咲子夫人が、
弁栄聖者のお別時に度々参加され、お寺を留守にできたのも、
咲子夫人の夫であった籠島氏の理解あってのこと。

籠島氏の弁栄聖者への篤い信なかりせば、
ありえないことであったことと思われます。


このお二人の逸話は、
弁栄聖者との「逆縁」の出会いで、
特に印象に残る逸話として、是非、ご紹介したかったもの。


参考文献:田中木叉『日本の光(弁栄上人伝)』に記されています。

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2013-09-01

「あなたは、如来様をあなたを産んで下さった母のように思いますか。(弁栄聖者の熊野宗純上人へのご教化)」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

弁栄聖者の直弟子として、
笹本戒浄上人と、田中木叉上人が、一般には知られていると思いますが、
今回ご紹介します熊野宗純上人は、山口県下の教育界へも影響力があった方で、
天台が専門で、全国光明会連合会の二代目総監。

ちなみに、全国光明会連合会初代総監は、笹本戒浄上人
在団法人光明修養会の三代目上首は、藤本浄本上人

笹本戒浄上人は、心理学者で、弁栄聖者にお逢いになった時には、
既に、禅でいう「見性体験」があったが故に、
他仏を念じる「念仏」への精進に、大変ご苦労をされました。

また、熊野宗純上人藤本浄本上人は、宗教学者でありましたので、
経文上、宗乗上の「学解」には精通されていましたが
弁栄聖者とお逢いになった時には、
「生きた信仰」は、いまだ得られてはいませんでした

熊野宗純上人が、弁栄聖者に初めてお逢いになったのは、
田中木叉上人著の『日本の光(弁栄上人伝)』によりますと、
大正8年の8月、広島県心行寺でとのこと。

熊野上人は、その時の聖者の印象を、

「おかしがたき崇高の人格と、慈悲あふるる温容に接して、
一種いい知れぬ充実味を心の奥底に覚えた」
と。

その時、弁栄聖者は熊野宗純上人に、

(弁栄聖者)「あなたはこれまで如来様を親様と呼んだことがありますか」、

(熊野上人)「はい、いつもそう申しています」。

(弁栄聖者)「それでは、あなたは、如来様をあなたを生んで下さった母のように思いますか」。

(熊野上人)「いいえ、そうは思われません」。

(弁栄聖者)「それではなんにもなりません。真剣に念仏してご覧なさい、きっとそう思われるようになります。」

聖者のこのなんの理屈もない事実そのままの簡単なお言葉を伺った時、

熊野上人は、

「腹をえぐられたように感じ、長い眠りから目ざまされたように感」じた

「今まで熊野上人が名匠碩学について学んだ宗乗も、それは、空なる冷やな知識で、
如来様はガラス戸棚の中のお人形様のように血の気のない冷たいもので、
罪に泣いている者みづからを抱きしめて下さる温い親様とは実感されず
醍醐味のはずの念仏は無味乾燥で、
微妙荘厳のお浄土も架空の空想のように感ぜられてならなかった」が、

この五日間の熱火のごとき提撕によりて、信心喚起し、

聖教に対する一隻眼も開かれて

弁栄聖者を「如来の顕現と仰ぐ」ようになって念仏に精進し、特に

「聖教の文々句々が文字通りうなづけるようになったことも、大なる喜び」で、

ますます仏道のあゆみを進めた。

と、田中木叉上人は、熊野宗純上人の弁栄聖者との邂逅を、感動的に描写されています。


達人の衆生済度には、小難しい屁理屈はなく、
深三昧に証入され、事実を知った者のみが備え得る「威神力」が、
弁栄聖者には、おありであった証左であるように思われます。


この「大御親様」とは、弁栄聖者の真相認識に拠りますと、
事実そのとおりで、

この論理的必然に拠って、

我々衆生は「如来の子」であることになります。

仏眼を開かれた田中木叉上人は、ご自身を、「仏子 木叉」と表記されています。


この「大ミオヤ(大御親)」という表現には、
弁栄聖者の幾つかの深意が込められているようにも思われ、

その一つに、「阿弥陀仏の本願」についての、
聖者の卓見である画期的な解釈があるように思われます。

周知のとおり、「阿弥陀仏の本願」としては、
従来から『無量寿経』中の第十八願が決定的に重要な願と解釈されてきましたが、

弁栄聖者は、その「本願」の深意を三昧直観され、

「親の願いは、我子に、親の宝を授けること」

これも、『法華経』の極めて重要な御教えですが。

南無智慧光仏

如来智慧の光明に
我等が無明は照されて
仏の知見を開示して
如来の真理悟入るれ

(「南無十二光仏」弁栄聖者『如来光明礼拝儀』)


親様である「阿弥陀仏」の本願の内実が、
弁栄聖者にとっても極めて重要な大乗経典である『法華経』に記されています。

「我一大事因縁ヲ以テ世ニ出現セシ所以ハ
一切衆生ヲシテ仏知見ヲ開示悟入セシメンガ為也」
と。

熊野宗純上人には、『念仏より観たる法華経』という書があり、
その書の冒頭に、この経文が引用されています。


上述の、熊野宗純上人の、

「聖教に対する一隻眼も開かれて、
聖教の文々句々が文字通りうなづけるようになったことも、大なる喜び」で、
ますます仏道のあゆみを進めた。


この箇所も極めて重要で、

大乗経典に関する「大乗非仏説」論に対し、

「私もそう思う。
大乗経典とは、三昧定中における大乗仏陀釈尊による直説法である。」


と、弁栄聖者は、喝破されています。

なお、弁栄聖者の『法華経』観につきましては、更に、次のように明記されています。

「法華壽量品に明す所の釈迦の内面此弥陀無量光壽に外ならず。
名に迷ふて真理を失うなかれ。
若し此の理に於て疑ふ如き妄信者は論ずるに足らざるのみ。
又大乗非仏説の如きは今の所論にあらず。」
(弁栄聖者『ミオヤの光 光明の巻』)


なお、弁栄聖者により三昧直観された、
極めて重要な「如来と衆生との関係」の真相は、

如来即ち「大ミオヤ」は、
衆生の「親」であり「根底」、かつ、真実の自己。

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ジャンル : 学問・文化・芸術

2013-08-24

「活きた本尊様をこころのなかにおむかえしなければなりません。」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

このブログの記事を書くにあたり、
記憶の確認のために、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』を読み返すことが度重なるにつれ、

木叉上人がお書きになられた弁栄聖者のこの御伝記が、
「弁栄聖者の人となり」「光明主義の法門」を知るための「必読書」であり、
この書が、これらの観点からも、極めて「秀逸な書」であることを、度々痛感しています。

今回の記事は、
誰でも一度は疑問に思われたことがあろうかと思われることの弁栄聖者のご解答です。


本尊さま

一婦人が「念仏申していますけれども、心が変わりませぬで困っております」
と訴うるのをきかれて、

上人「それでは本尊さんはもっていますか」。

信者「ハイ、先年少々お金を奮発して立派な本尊様も、仏壇も買い入れまして」。

上人「そんな本尊さんを本尊さんと思ってるから、ご利益がないのです。
   活きた本尊様をこころのなかにおむかえしなければなりません。」

懇々と念仏三昧の法をおさとしになった。
その後に会ったときはその婦人お蔭さまでかくかくと喜び謝するので、

上人「昨日まで鬼の住みにし胸殿も今日は弥陀尊の御堂とぞなる」。


弁栄聖者には、かくの如く、一面、「迷信を厳しく排された」ところがありました。


「教主(おしえぬし)世尊が六根常に清らかに
光顔(みかお)永(とこ)しなえに麗わしく在(いま)ししは
内霊応(うちれいおう)に充(みち)給いければなり」

(弁栄聖者作『如来光明礼拝儀』の一部)

弁栄聖者が、ご遷化まで一貫されたご信仰の真髄は、
聖者が真相直観されました「釈尊の内実」であった、この

「霊応身」のご勧請

であったと、

弁栄聖者を長年学ぶにつれ、この確信は、益々深まっています。

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2013-08-11

「位牌を拝みますか。それはまちがっていましょう。位牌を拝むのではなく、位牌の霊を如来様にお救い下さいとお願いするのです。」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

お盆ですので、今回は、「回向」について。

回向について、回向の在り方については、
真実説、想像説、願望説などと思われるものが混在し、
私達には、判別困難であるように思われます。

「死んだらそれまで、死後の世界など人間の空想事なので、
死者への回向などは、そもそも無意味である。」

といった考え方は極端ですが、
現代人の特徴的な思考の一形態かとも思われます。

そこまで極端ではなくとも、

「回向」とは?

と正面から問われ、
確信、実感を持って返答できる方は、少ないかもしれません。

「確信、実感を持って」とは、
お経、本にこう書いてあるからとか、ご説法でこう聞いたからとか、
といった類のものではありません。

死後のこと、輪廻のことは、
仏教では、五眼のうち、天眼でも認識できると言われています。

大宇宙の真相を認識できる「仏眼」が開かれていたといわれています、
弁栄聖者笹本戒浄上人田中木叉上人の仰っていることを主に、
拝聴したいと思います。

「回向の前提には、空と、衆生の根底が大ミオヤであることに依る。」


「回向」を原理的に考察する場合には、
この二つの捉え方が、不可欠かと思われます。

「自他対立」が宿命ずけられている私達の日常意識の在り方からは、
「回向」の考え方は、出てこない
かと思われます。

つまり、「自業自得」、「自作自受」の観念からは、
「回向」は、そもそも不可能
です。

「回向」によって「成仏する」という説が流布していますが、
そうではないようです。

ただ、そもそも「成仏」の定義に根本的な相違がありますが・・・

弁栄聖者作『如来光明礼拝儀』「如来光明歎徳章」は、
主として『無量寿経』からの引用ですが、
その中に、

「若三途勤苦の処にありて
此の光明を見たてまつらば
皆休息を得て亦苦悩なく
寿命の後皆解脱を蒙らん」


と記されています。

笹本戒浄上人の著作には、「自作自受」がよく説かれていますが、
戒浄上人の「自」の捉え方に注意を要する、と私は常々考えています。

「回向」の効き方(届き方)についての、戒浄上人のご説明は明快です。

「他人の「回向」によって、その方が成仏することはできない。
ただし、その「回向」によって、「回向」を受けた方に「仏縁」が生じ、
その人自らが「成仏」へと歩み始めるのである。」


といった主旨をご指摘されています。

また、戒浄上人のお弟子であった杉田善孝上人も同様なことを言われています。

「三途勤苦の処にある者が、回向を受けた場合、
その回向によって、苦悩が一時止むのであって、
そのことによって、成仏するのではない」と。


私達の、亡くなった方への「回向」の仕方について、
弁栄聖者は、

「位牌を拝みますか。それはまちがっていましょう。
位牌を拝むのではなく、
位牌の霊を如来様にお救い下さいとお願いするのです。」

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

このように一心にご回向しますと、

「若三途勤苦の処にありて此の光明を見たてまつらば」
(弁栄聖者作『如来光明礼拝儀』「如来光明歎徳章」)


と、私たちの一心の憶いが如来様に通じ、
如来様からの光明が届くと、お経にも記されています。

ただし、弁栄聖者のようなご境界の方は、如来様と一体ですから、
ご回向の仕方は、私達とは違ってくるかと思われますが・・・

また、弁栄聖者は、

「亡くなった者への回向は、
監獄に入ったものへの差し入れのようなものだ。
現存者への回向の方がはるかに効果がある」とも。


「現存者への回向」という考え方を初めて知った時は、驚きましたが、
少し考え、ありうることかもしれないと思いました。

田中木叉上人は、亡くなった方からの回向について、

「先立った導師方が回向していて下さる。
お浄土からの回向はたしかに有るものだ。
信じなさい。あてにしなさい。気強く思いなさい。
あまりにもマザマザとした事実が有るのですよ。」

(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)と。

更には、亡くなった方から、亡くなった方への回向についても、
田中木叉上人は、ご指摘されたことがあったと、
近著、 河波定昌博士講義録『あなたの心はなくなりてー空外上人を偲んでー』に記されています。

お恥ずかしいことに、この事実は、盲点でした。

なお、この河波定昌博士講義録『あなたの心はなくなりてー空外上人を偲んでー』は、
山本空外上人の十三回忌の記念の書ですが、
興味深いことには本書には、
河波定昌博士のもう一人の師でもあった田中木叉上人の話が多く出てきます。

また、「空の現象学」を生きられた空外上人には、
不思議なことに、ほとんど強調されない「見仏」について、
弁栄聖者の最大の特徴でもある「光の現象学」(見仏)に関連して、
田中木叉上人が多く引用されているようにも思われ、
河波定昌博士の思想的背景をうかがい知るためにも、
本書は、とても興味深かったです。

ここまで、「回向」について考察してきまして、
今更ながら、気づいたことがありました。

そもそも、「生」と「死」を二元的に分けて考えている、
私達の通常の思考そのものが、真相を捉えていない
のかもしれません。

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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