2016-06-12

「(子育て)呑龍上人」御出家寺「林西寺」(埼玉県越谷市平方)&御誕生地「圓福寺」(埼玉県春日部市一ノ割)

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子育て呑龍上人として知られる呑龍上人の御出家寺、
埼玉県越谷市平方にある「林西寺」

格式と歴史のあるお寺。

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「呑龍上人供養墓石」があります。

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「林西寺」を訪れたのは、
弁栄聖者を九州の久留米善導寺に招かれた、累誉(広安真随)上人の住職寺であり、
しかも、かの呑龍上人にゆかりのお寺でもあったためです。

累誉(広安真随)上人は、 第二十七世の「林西寺」住職。

此処「林西寺」住職期に、弁栄聖者との御交流があったとのこと。

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埼玉県春日部市一ノ割「圓福寺」 は、呑龍上人のお誕生地。

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2015-11-04

『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)を読む(その1)

  
『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(佐々木有一著 春秋社)

目次
序 章 信仰の皮肉と骨髄
第一章 光明主義と山崎弁栄
第二章 光明主義の七不思議
第三章 大ミオヤの発見
第四章 四大智慧の真実
第五章 無礙の恩寵
総 結 光明主義の正法・像法を期す

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本書の内容のご紹介に入る前に、
幾つか気づいた点に触れておきたいと思います。


1点目は、弁栄聖者の写真について。

通常見慣れている聖者の写真の何点かは、
最晩年の円熟された御姿の写真ですが、

カバーの写真は、大正2年(1913年)54歳
本の中の写真は、明治41年(1908年)49歳のもので、
まだ若く、しかも、正面像ではありません

弁栄聖者40歳代後半から50歳代前半の時期は、
光明主義の黎明期ともいえる時期で、
この写真が、正面像ではなく、横または斜めに視線が向いているのは、
聖者が光明主義の将来を思惟されておられるようでもあり、

著者である佐々木有一氏が、これらの写真を、意識的に選ばれたというよりも、

「わたしどもは光明主義の遠い未来から眺めて
初期光明主義の時代にあると覚悟する責任があります。
尖兵として後代への使命を背負っています。」

と「総 結 光明主義の正法・像法を期す」に、
御齢70歳代後半とは思えない気概と気骨が示されておられるように、
意図せずに、佐々木氏の無意識が選ばれたという気がしています。


2点目は、著者である佐々木有一氏の経歴についてです。

佐々木氏は、かつて経済界で活躍された元ビジネスマンである在家。
現役退職後の66歳の頃に、
弁栄聖者を信奉された数学者の岡潔博士の本を通して、
聖者とのご縁をいただかれたこと。

佐々木氏は、田中木叉上人にご縁の深い、
東京練馬の光明園の園主であり、
また「一般財団法人 光明会」上首でもあられる河波昌先生並びに、
東洋大学学長であられる竹村牧男先生の学恩を被られているとはいえ、
基本的には独学であり、
光明主義にご縁をいただかれてから、本書の出版まで、十数年足らずであり、
本書の執筆を思い立たれた頃は、まだ十年に満たない頃かと思われます。

第二章 光明主義の七不思議 に掲載の(光明体系図)は、
2010年の作成で、今から5年前、
著者には、この頃既に、光明体系の概念図が出来上がっています。

著者の篤き求道心熱き学求精神には、敬服いたします。

著者が、在家で、
光明会の歴史に詳しくないこと(光明会の内部事情から自由でありえたこと)、
更に、経済界(ビジネス)界で活躍された経歴をお持ちであること。

も、本書の成立に好条件であったようにも思われます。

本書で著者は、光明会内での暗黙の「タブー」にも果敢に挑んでおられます。


3点目は、本書の形式、文体等についてです。

本書は、「純粋な」学術書といった類の書というよりも、
著者が尊崇する弁栄聖者の「光明体系」を研究され続けている者が、
そこから得られた知見を、共に学ぼうとする者に、

「ここの箇所、こんな読み方はできませんか。
また、こんな風に読むと、こんな風に理解すると、
弁栄聖者の言わんとすることの理解が深まると思うのですが。」

と語りかけてくるような書であり、

求道者佐々木有一氏の現時点の途上での知見であり、
もちろん完成形ではなく
これからも更に、佐々木氏の理解が深まっていかれるような気配が感じられます。

また、佐々木氏は、一人でも多くの方に、
弁栄聖者の御遺稿集そのものに直接触れてほしいと祈願されており、
本書は、聖者のテキストとしても利用できるように、
聖者の本からの引用が数多くあります。

これほどまでに、「弁栄聖者の教学上における髄」を抽出された
そのご労苦と求道心、そして、菩薩行に頭が下がります。


4点目は、本の構成についてです。

本書の目次をみると、

序 章 信仰の皮肉と骨髄
第一章 光明主義と山崎弁栄
第二章 光明主義の七不思議
第三章 大ミオヤの発見
第四章 四大智慧の真実
第五章 無礙の恩寵
総 結 光明主義の正法・像法を期す

となっていますが、

第四章 四大智慧の真実 には、
実に、本書の4割強、220頁程があてられています。

この第四章は、
「弁栄聖者光明体系」の中でも難解の書としてつとに知られ、
「敬して遠ざけられる傾向」があるようにも見受けられる『無辺光』に、
果敢に挑んでおられます。

先ず、その勇気と決意に、敬服いたします。

この第四章を読まれれば、
『無辺光』の精髄を読まれたことになる、
と言っても過言ではないほどの密度の濃い内容となっています。


5点目は、佐々木氏が「日課念仏の傍ら光明主義教学の研究」をされていることについて

本書を読まれた方は、著者の論理的な理詰めさに、目を見張るかもしれませんが、
著者が、日課念仏をされていることは、決して忘れてはならないと思います。

一見理詰めな理解を支えているのは、
日課念仏による功徳「如来智慧光」による恩寵でもあると思われます。


だいぶ長くなりましたので、
本書の内容のご紹介は、次回としたいと思います。

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2014-09-15

『ミオヤの光(縮刷版全四巻)弁栄聖者御遺稿』(PDFファイル版、岐阜光明会作成)

『ミオヤの光(縮刷版全四巻)弁栄聖者御遺稿』(PDFファイル版、岐阜光明会作成)は、
「岐阜光明会」のHPの項目の一つ「ミオヤの光」に掲載されています。

『ミオヤの光 弁栄聖者御遺稿(縮刷版)第1巻』
大正8年11月(第壱巻第壱号)~大正13年11月(無碍の巻)

『ミオヤの光 弁栄聖者御遺稿(縮刷版)第2巻』
大正13年12月(十二因縁の巻)~昭和3年2月(涅槃の巻)

『ミオヤの光 弁栄聖者御遺稿(縮刷版)第3巻』
昭和3年3月(清浄光の巻)~昭和6年8月(寿経の巻)

『ミオヤの光 弁栄聖者御遺稿(縮刷版)第4巻』
昭和6年9月(大型聖歌集の巻)~昭和9年12月(不断光の巻)

「ミオヤの光 項目索引(五十音順)」

『ミオヤの光』は、『弁栄聖者光明体系』の元となったもので、
大変貴重な資料ですが、入手はほとんど不可能。

国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で、
現物の一部、『ミオヤの光 : 山崎弁栄聖人御遺文. 摂化の巻』が、ご覧になれる程度です。

岐阜光明会の『ミオヤの光』のPDFファイルの一般公開は、
「弁栄教学研究」と言う意味からも、画期的なことであり、
しかも、大変な労作、
深謝いたします。

さて、『ミオヤの光』について、若干の補足説明をいたします。

『ミオヤの光』原本は、
弁栄聖者御在世中に松戸光明会から、光明会機関誌として発行された部分で、
大正8年11月~大正9年11月迄、
縮刷版第1巻1頁~第1巻62頁に収録。

弁栄聖者御遷化の後、御遺稿集として松戸光明会から発行された部分は、
大正9年12月~大正10年4月迄、
縮刷版第1巻第63頁~第1巻95頁に収録。

その後、田中木叉上人が御遺稿集として発行された部分は、
大正10年5月~昭和9年12月迄、
縮刷版第1巻第119頁~第4巻399頁に収録。

弁栄聖者の御遺稿ではないもの(例えば松戸発行分、大谷上人関係等)も、
一部含まれています。

参考文献:
『付録 辨栄聖者御遺稿 ミオヤの光 〔縮刷版〕 = 小項目索引 = 』の、
「ミオヤの光 辨栄聖者御遺稿 (縮刷版全四巻)」の解説による。

なお、「ミオヤの光 項目索引(五十音順)」は、
『ミオヤの光(縮刷版全四巻)辨栄聖者御遺稿』が、
平成元年12月に、弁栄聖者七十回忌追恩のために復刻。
田中木叉上人の御子息である田中成氏により、
『ミオヤの光』全182冊6,984頁を、
全四巻、合計1,854頁に縮刷し、発刊
された後、
笹本戒浄上人、芦屋聖堂の杉田善孝上人を特に尊崇されるグループの若手の方々、
故横内博英氏をはじめ多くの方の尽力によるもの。


更に、裏話を付け加えますと、
ご案内のとおり、『ミオヤの光』の発行は、大正末期~昭和初期。

田中木叉上人は、
これらを元に、『弁栄聖者御遺稿集』として、本にしようと計画されていたようですが、
戦災で、焼失してしまわれたとのこと。

それを助けられたのが、
学生時代から田中木叉上人に大変お世話になっておられた、
九州福岡の吉松喜久造氏でした。
吉松氏は、手元に集めて冊子にしてあった『ミオヤの光』全編を、
木叉上人に差し上げられたそうです。

吉松喜久造氏に関しては、
謝意を表すため、いつか詳しく記事にしたいと思っていますが、
歴代光明会の方々の中でも特に著名な方で、
全国の主だった図書館等にも、弁栄聖者関連の御著書等を寄贈された方。
図書館で、「寄贈 吉松喜久造」という名前をご覧になった方もいらっしゃるかと思います。


さて、『弁栄聖者の御遺稿集』について、
若干の解説が必要かと思われます。

田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、
弁栄聖者の御遺稿集である『弁栄聖者光明体系』に関する貴重な記述があります。

「ご遷化後、
ミオヤのひかり社にて全国よりやっと拾い集めたご文章のいく千ページは、
皆かくして、あひるのように産みっぱなしになった光るご文章
であった。」

この収集、編者が、笹本戒浄上人のご推薦による、田中木叉上人であり、
戒浄上人ともご相談のうえ、編纂されたとのこと。

つまり、弁栄聖者御在世中は、聖者御自身の著書はごく僅かであり、
弁栄聖者畢生の十二光体系の全貌」を知る者はいなかった、
ということになるかと思います。

田中木叉上人の御功績には、感謝しても感謝し尽くせません。


最後になりますが、
岐阜光明会の『ミオヤの光(縮刷版全四巻)弁栄聖者御遺稿』(PDFファイル版、岐阜光明会作成)作成及び一般公開に、
重ねて、深謝いたします。
 

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2013-10-16

10/15のツイートまとめ

syou_en

「一般財団法人 山崎弁栄記念館」ホームページ開設のお知らせhttp://t.co/uh5PTiZmqi
10-15 23:33

2013-09-28

「この教団は如来という唯一の大御親を信じ、その慈悲と智恵との心的光明を獲得し、精神的に現世を通じて永遠の光明に入るの教団なり。」(『光明会趣意書(大正3年、56歳 一枚刷頒布)』首唱者 仏陀禅那 弁栄)

「 光明会趣意書 

この教団は如来という唯一の大御親を信じ、
その慈悲と智恵との心的光明を獲得し、
精神的に現世を通じて永遠の光明に入るの教団なり。


その大御親とは宇宙唯一の霊体にて、心霊界の大日輪なり。

明治天皇の

『朝な夕な御親の神に祈るなり我が国民を守り給えと』
『目に見えぬ神のこころに通うこそ人の心の誠なりけれ』

との御製は、畏くもそのご消息と拝し奉らる。
また孔子が天道と呼び給いし、同じく唯一の大御親の別号に外ならずと信ず。

凡そ一切の人類はその大御親の分子たる仏性は具すれども、
大御親の慈悲と智恵との光明によらざれば、霊性を顕彰すること能わず。


この永遠不滅の霊活なる大御親の実在と、
その真理なることを実証し給う教祖釈迦牟尼仏は、
ことに明かにその大光明に接触するの道というべき八万四千の法を説き給えり。
この大光明を八万の方面にわたりて教え給いしは、
あたかも太陽の光は一なれども照らさるるものは無量なるがごとし。

されば吾人が仏陀の教えに信頼して信念功をなす時は、
必ず霊的光明に感触して、無明の夜あけて光明界中の人となりぬべし。
しかしてこの光明中の人となれば、
おのづから大御親の聖寵により清き心のみ子となるがゆえに、
相互に真実親愛の情をもってあい待するに至るべし。
人たるもの、この天地間に生を受け万物の霊長たり、
此光明を獲得せずして可ならんや。


かつて聞けり、世の進化の順序はたとえば人の道を歩行するに両脚の互いに運びて進むがごとしと。
人の精神の働きを内外両面に分てば、教育、政治等のすべて外部に向って働くべき方面と、
また宗教、家庭、道徳等の内部に向ってつとむべき方面とあり。

顧うに今やわが国民は外部の文明は長足の進歩をもって発達し、今日の隆盛を見るに至れり。
これよりは宗教および道徳等の方面において大いに進むべき時期到来せり。
長らく眠りおりし国民の内的霊性が、覚醒せざるべからざる暁は近けり。


宗教は人類の内的生活を高尚にし、また正善にし、
かつ幸福を感ぜしむるものなり。


ここにおいて吾人は時期相応の信仰的団体を結び、ともに教理を研究し、
また信念を修養して、互にあい提携し真理の大御親の聖意にかなう清き同胞として、
光明に裡に生活し、
現在を通じて精神的に永遠の浄界に進行するを目的とせん。


願わくはわが敬愛なる清き同胞衆生よ、吾人は相互に弟たり、兄たり、
ともにたずさえて大御親の光明の大道を進まんことを望むものなり。

ここに教団を結びその目的を達せんと欲する所以なり。

  首唱者 仏陀禅那 弁栄 

※ 参考文献:田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』


1914年(大正3年)、56歳時、弁栄聖者の「光明会」創設の宣言文。

ちなみに、来年、2014年は、
聖者が、光明主義が世に理解されると言われた
ちょうど、100年後

これ以前、明治36年には、千葉松戸に「心光教会」を創設しています。

時代的にも、弁栄聖者とキリスト教との関係は、今後の重要テーマかと思われます。
ちなみに、聖者は、あの新島襄に会われています。

さて、『光明会趣意書』ですが、

私が最も関心を惹かれる点は、
この文中には、「阿弥陀仏」なる言葉がなく、
「大御親(おおみおや)」という表現になっている点です。

「弁栄教学」を学んでいきますと、
「大ミオヤ」なる言葉の含蓄の甚深さに驚かされます。

伝統的な「阿弥陀仏」の概念を遥かに超え、
そればかりか、宗派宗教の神仏観さえ超えている
ようにさえ思われます。


弁栄聖者が三昧直観された「大ミオヤ」の真相を、

「仏身論」においては、

「大ミオヤ」「超在一神的汎神」として捉えられ、
諸仏諸菩薩の一仏ではなく、
諸仏諸菩薩をそれらたらしめる
無始無終の三身即一の根本仏と捉えておられます。

「法身、報身、応身の三身」が、「即一」、かつ、「本有無作」、「無始無終」、と。

また、「大ミオヤ」における現世からの救済を説かれるとともに、
道徳を成立せしめる、霊的人格ともいうべき「霊格の形成」という積極的側面、
更には、「智慧の開発、展開」も、説かれています。

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2013-07-14

07/13のツイートまとめ

syou_en

「山崎弁栄記念館」設立(理事長河波昌、館長若松英輔、事務局長良川画廊内岡田晋) http://t.co/VuZguIlZvV
07-13 11:44

2012-12-31

「年頭法語」(弁栄聖者より田中木叉上人が賜りたる御慈悲のたより)

 「大いなるミオヤは十劫正覚の暁より、
可愛き子を待ち詫び玉ふとは仮にちかきを示せしものゝ、
実には久遠劫の往昔より今時の今日に至るまで、
可憐き子の面の見たさまた子を思う親の心の知らせたさに
番々出世の仏たちを御使はしなされて、
苦心慇懃に子らに諭して、
ミオヤの大悲の御手に渡し玉はんとせし久遠劫来の思念がかゝり、
大悲召喚の御声に預かりし田中道士の、
至心信楽の心を注ぎて慕はしき吾が大ミオヤ
ナムアミダ仏と呼ぶ声を、
毫も遠からぬ道士の前に在ます大ミオヤ
さぞかぎりなき歓びを以て之に報答しますらんと信じられて候。

 道士よ、御名を呼べば現に聞玉ひ、
敬礼すればアナタは観そなはし玉ひ、
意に念ずれば、アナタは知り玉ひ、
こなたより憶念し奉れば、アナタは幾倍か深く憶念しくださるゝ
との導師の指導にして誤りなからば、
今現に念仏三昧を修しぬるに、
ミオヤの慈顔に接することを得られぬことゝとかくな思い玉いそ。
また今現に大慈悲の懐ろの裡に在ることをもゆめな疑ひ玉ひそ。

 此肉体に於いても分娩せられてまだ幾日の間は
母の懐に抱かれて居ながら
懐かしき母の容を見ることができぬことにて候。

 しからばいかにせば吾母の容を見ることを得るに至らんとならば、
啼く声に哺ませらるゝ乳を呑む外にはぐくまるゝみち之なきことにて候。

念々弥陀の恩寵に育まれ、声々大悲の霊養を被る。
十萬億土遥かなりと愁ふること勿れ、法眼開く処に弥陀現前す。

今宵は大晦日の夜である。
世人多くは債鬼をのがるゝに苦しみて居り、
道士は無始以来の債を除いて、
久遠劫来の親に逢ひたさに泣いている。

道士よ、今宵は無始以来迷ひじまいの大晦日にして明くれば、
本覚の無量寿にして無量光なる元旦に候へば、
萬歳を以て未だ足れりとせず、無量寿のみ名を称へて、
道士の聖なる元旦を祝し上げ候。」


(注)表記は、『こぼるるみひかり 菅野眞定上人追恩集』の巻末掲載の、
「御慈悲のたより 辨栄聖者」に拠り、
段落の形式は、読み易さを考慮し、若干変更しました。

(参考文献:弁栄聖者著『お慈悲のたより』 、田中木叉編『日本の光(弁栄上人伝)』 、
藤堂俊章編『田中木叉上人遺文集』、『こぼるるみひかり 菅野眞定上人追恩集』)

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2012-09-08

「我がみほとけの慈悲の面 朝日の方に映ろにて 照るみすがたを想ほへば 霊感極りなかりけり」(「孝明皇帝の霊夢に就いて」『弁栄聖者光明体系 不断光附仏法物語』)


芦屋の光明会本部聖堂発行版『如来光明礼拝儀』には、

「我がみほとけの慈悲の面
 朝日の方に映ろひて
 照るみすがたを想ほえば
 霊感極りなかりけり」


と、「憶念の歌」として掲載されています。

弁栄聖者のご遺稿集を読まれる時に、留意すべき点があります。

編集された本、または、版により表記が異なることがある点です。

今回引用のお歌では、「映ろにて」と「想ほへば」の二箇所です。

「想ほへば」と「想ほえば」は、特に問題はないように思いますが、
「映ろにて」と「映ろひて」は、いかがでしょうか。
私は、「映ろひて」のことだと捉えていますが、
弁栄聖者は、聖者のご生誕地(下総国)の訛りをお使いになっている箇所もあるようで、
この点、注意を要します。

と言いますのも、聖者のご遺稿集には、漢字にルビがふられていまして、
そのルビのふられ方に、聖者の思想、想いが込められていることがあるからです。
同じ言葉に聖者独特の意味が込められていることがあるのです。

常識的に、この言葉はこう読むべきだろうと思い、
聖者のご遺稿集を理解したと思い込んでいると、
とんでもない誤解をしていた、ということも時にあるのです。

さて、前置きが長くなりました。

「我がみほとけの慈悲の面
 朝日の方に映ろにて
 照るみすがたを想ほへば
 霊感極りなかりけり」


この御歌は、「孝明皇帝の霊夢に就いて」『弁栄聖者光明体系 不断光附仏法物語』の文中にあります。

続けて、

「凭(か)く心の宮殿に如来を本尊として信念する時は
 尊とく辱(かたじ)けなさを感ず。
 斯く如来と離れざる親密の因縁の宗教を中心真髄と為す。
 有(あら)ゆる霊の力は是より発動す。是が道徳の原動力である。」


と、弁栄聖者の自内証の上から、
光明主義上、弁栄教学の上からも、極めて重要な解説を加えておられます。

「真の生きた宗教には、道徳を根底から規定する働きがある」

と明言されているのです。

聖者は『宗祖の皮髄』において、
長年の念仏三昧により自ずと成就されていった、
法然上人の豊かな霊格形成を見事に説き明かされています。

田中木叉上人は、

「道徳は救いの条件にあらず、その結果なり」

『田中木叉上人御法話聴書』において、端的にご指摘されています。

この御歌の前の自内証の吐露も極めて重要ですので、引用します。

「後二十四の時に東京駒込の吉祥寺学林に於いて
卍山上人の五教章の聴講に列なりし時
田端の東覚寺に寄宿して吉祥寺に通う往復にも
口に称名を唱え意(こころ)に専ら弥陀の聖容を想ひ
専ら神(こころ)を凝しけるに
一旦蕩念(とうねん)として曠廓(こうかく)極まりなきを覚え、
其時に弥陀の霊相を感じ、慈悲の眸(まなじり)丹花の唇等、
其の霊容を想ふ時身心融液にして不思議なるを感ず、
其後は常に念に随て現ず。」


この御歌を巡る自内証の吐露のこの箇所だけを拝読しても、
弁栄聖者の御悟りの深さを直観できる気がいたしますが、
更に、笹本戒浄上人の解説が素晴らしいのです。

(参考文献:仏陀禅那弁栄聖者著『光明主義玄義(ワイド増訂版)』)

「一旦蕩念(とうねん)として曠廓(こうかく)極まりなきを覚え、
其時に弥陀の霊相を感じ、慈悲の眸(まなじり)丹花の唇等、
其の霊容を想ふ時身心融液にして不思議なるを感ず、」


この箇所は、戒浄上人によりますと、
厳密には仏眼の一歩手前、「法眼が満位」になった境涯

出世間の三昧の眼(心霊界を認識する機能)には、
「慧眼・法眼・仏眼」がある
と言われています。

私は、「慧眼」・「法眼」の順番にかつて疑問をいだいていた時期があり、
「法眼」・「慧眼」の順番の方が適切なのだと考えていたのですが、
それは誤りでした。

「大ミオヤ」による霊育過程は、過去の因縁により、
「法眼」が先に開ける者、「慧眼」が先に開ける者がいるようですが、
仏眼が開けるためには、
必ず、「慧眼」が先に満位になり、次に「法眼」が満位になるという過程を辿り、
「慧眼と法眼」が「即の状態になった境涯」が「仏眼」
である。

ということなので、「慧眼・法眼・仏眼」の順番が正しいらしいのです。

第二点目は、

「其後は常に念に随て現ず。」の箇所です。

この「心霊的自由を得る」のは、正しく「仏眼の境涯」で、

弁栄聖者は、

「仏眼は自受用にて自ら現じ自ら感ず。能感と所感と自己にあり。」

と、 「成所作智」『弁栄聖者光明体系 無辺光』において、仏眼の解説として記されています。

弁栄教学上、特に、「戒律」の捉え方としても、
極めて重要な箇所ですので、
長くなりましたが、解説いたしました。

何らかのご参考になれば、幸甚です。

2012-08-18

弁栄聖者が三身四智の仏眼により三昧直観された、大ミオヤの御姿(霊相)の真相について


前回は、「弁栄聖者が描かれた「三昧仏様(お絵像)」の特徴である、

「雲上半身」の意義について、記事にしました。

今回は、聖者が描かれた三昧仏様が「一定の御姿(定相)ではない」

ことと、光明主義の特徴である「お別時」の際の留意点について、
考察してみたいと思います。

お別時では、その場所によって、
お掛けしてある弁栄聖者が描かれた三昧仏様が異なることが多く、
自分が日頃念じている三昧仏様(念持仏)と違う場合が多いのです。

三昧仏様が、「一定の御姿(定相)ではない」こと。

この点については、疑問をいだかれる方が自然かと思われます。

この点の解明のためには、
弁栄聖者が三身四智の仏眼により三昧直観された、

「大ミオヤ(如来)の仏身論」を理解することが不可欠です。

私達には一つの定相しか持ちえないため、

「大ミオヤが「絶対的現象態」であって、
無量の定相を、一即一切の状態で持ち給い、
衆生の信念に相応した人格的相を衆生の心想中に発現する
円満な大霊力を持っていられる。

或はキリスト教的、或は回教的な人格的神の相を発現して、
衆生をそれぞれの道に従って済度して下さる。」

この三昧中に拝する本尊の差別の相は
「主観的客体である」と弁栄聖者はおっしゃった。」
(『光明主義玄義(ワイド増訂版)』光明会本部聖堂出版)


この大ミオヤの真相を想像することが容易でない事情によるものかと思われます。

したがって、
この大ミオヤの御姿(霊相)の真相から、

三昧仏様が、「一定の御姿(定相)ではない」

ことがかえって、

心霊差別現象を規定する大ミオヤの理法に適っている

ことになり、各自が定めた三昧仏様でよいことになります。


ここまでご説明すれば蛇足かと思われますが、

大ミオヤの御姿(霊相)もまた、「無相即有相」である。

と戒浄上人はご指摘されましたが、

相「無し」とは、深甚なる大ミオヤの御姿(霊相)の真相をご指摘されたもので、
従来から言われてきた、無相法身の相無の意味でない、
このことは、弁栄教学上、聖者が三昧直観された仏身論上、極めて重要だ思います。

弁栄聖者がご指導された光明主義念仏、

三昧仏(如来)様を愛慕する「憶念口称念仏」の形式

を、笹本戒浄上人が「直線道」と名付けられたのは、
この深甚なる「大ミオヤの仏身論」に基づくゆえです。

「三昧仏様(念持仏)を一定せよ」

笹本戒浄上人が特に強調された、このご指南。

そのため、芦屋聖堂系の方々はこのことを厳格に遵守されており、
お別時の際に、ご自身の携帯用の「三昧仏様(念持仏)」を持参し、
お祀りしてある三昧仏様ではなく、ご自身のその三昧仏様を念じています。

最初、その姿を見た時、違和感を覚えましたが、
『起行の用心 笹本戒浄上人全集1』などを読み、
また、お念仏するうちに、その意義が分ってきました。

ただ、未だ違和感を完全には払拭しきれずにいたのですが、
杉田善孝上人が解決して下さいました。

「お祀りしてある如来様の上に念持仏様の聖容を憶い浮かべ、
ナムアミダブ、ナムアミダブとお念仏していると、
弁栄聖者がお描き下さったどんな三昧仏様も
全部自分の念持仏様の聖容となって下さる。」


「三昧仏様を一定せよ」には、このような深意があったのです。

これは、実体験者でないと決して言い得ないご指摘だと、
深い感銘を覚え、杉田上人への信を深めた大切な一話でした。

(参考文献:『杉田善孝上人 唐沢山別時御法話 ー弁栄聖者のみ教え 第一編』)

弁栄聖者が描かれた「三昧仏様(お絵像)」の特徴について、

「聖者が描かれた「三昧仏様のお顔」は、左右が非対称に描かれている」

と杉田上人がご指摘されたことがありました。

「人間の顔は、左右非対称であるので、
そのようにお描きになっていらっしゃるのである。
左右対称だと返って人間には不自然さを感じてしまう。」


確かに、どんなに美形の男、女でも、
じっくりと観察すると、決して左右対称にはなっていないことに気づきました。

弁栄聖者畏るべし、です。

また、杉田上人は、「お慕い申し易い三昧仏様を択ぶこと」についても、

「お念仏していると、自分の憶念し易い如来様が決まるというふうにちゃんとならして頂く」

とも。

この点について、笹本戒浄上人の三昧仏様について、大変興味深い逸話があります。

弁栄聖者が戒浄上人に描かれた三昧仏様は、
大変慈悲深いお優しい感じですが、

戒浄上人が、最初、その御姿を拝された時、

「もったいないが、御口元が気に入らないな」と内心思われたそうですが、

間髪を入れず、聖者は、

「その御口元のところから有難くなります」

と言われたそうです。 能見寿作著『光明主義入門講座』

聖者が田中木叉上人に描かれた三昧仏様は、とても厳しい感じがいたします。
( 「光明園のHP」に掲載されています。右側の三昧仏様です。)

弁栄聖者は「その人に最も適した」三昧仏様を描かれましたので、
聖者御遷化後の私達は念仏をしながら、
「自分に適した」聖者が描かれた三昧仏様にお遭いするための努力が必要になります。

最後に、木叉上人のご提案を記しておきたいと思います。

「将来は、如来様に心が集中しやすいように、
光線の具合や飾り付けを研究する人が出てほしい。」
(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)


「存さざる所なき如来様が御絵像の所に、
御絵像に即して、御絵像でない生きた如来様が、
物質的御絵像に即していらっしゃる。」
(『杉田善孝上人 唐沢山別時御法話 ー弁栄聖者のみ教え 第一編』)


偶像崇拝に陥らず、正しく三昧証入するためにも、
そのための雰囲気、環境作りも、大変重要であると思われます。

2012-05-01

「衆生は魂を乗せた泥舟みたいなものだ。・・・時を待て。」(新潟県柏崎極楽寺、故籠島咲子夫人への如来様(霊応身)のご説法)


杉田善孝上人のご法話の中で、
弁栄聖者にご指導を受け、三昧をいただかれた方々の想い出話がありました。

どのお話もありがたかったのですが、
その中でも特に印象深く、有難かった一つが、
新潟県柏崎、極楽寺の故籠島咲子夫人の逸話。

極楽寺とは、弁栄聖者御入滅の地、
咲子夫人は、弁栄聖者と心霊界でのご縁の深かった方として知られており、
後に仏眼を開かれた方。

「本堂以外であっても、如来様を忘れているようであってはいけない。
いつも如来様から心を離れぬようにして、この世のお勤めをせよ。」


との弁栄聖者からのお念仏のご指南のもと、
咲子夫人は、お念仏に励んでいらっしゃったとのことでした。

その当時、咲子夫人は、「初歩の法眼の境界」でいらっしゃったため、
ある時、夫人が日頃から可愛がっていた女中さんが、
夫人の意に反した行いをされたことがあり、
可愛さ余って憎さ百倍とでもいうのでしょうか、
怒りのままに女中さんを激しく叱りつけられたことがあったそうです。

しばらくして、如来様から心が離れ、修羅の鬼の心になっていたことに気づかれ、
すぐにご本堂に行って、如来様の御前で、一心に懺悔をされました。

すると、朗らかな世界が開け、
三昧定中に如来様が御現れ下さり、咲子夫人にご説法をされました。

「衆生と如来との間には一本の河が流れている。
その流れは、衆生の四つの煩悩ゆえに、豪流、濁流である。
衆生は魂を乗せた泥舟みたいなものだ。
仏の在しますかの国にたどり着きたいと思って、
かいを漕ぐが、河の流れがきついためになかなか岸にたどり着けない。
普通の者は、かかる豪流の上に泥舟を乗せたまま、
泥舟なるがゆえに、とけて沈んでしまう。地獄、餓鬼、畜生に落ちてしまう。
だから、一心にかいを漕ぐがよい。
そうすると、泥舟であっても、如来の岸に近づいてくる。
如来はこのとおり手を伸ばして衆生の手を取り、
如来の岸に迎え取らんとしている。
衆生も手を伸ばして救われようとしている。
しかし、もう少しのところで如来の手に届かぬ。
そんなものだ。時を待て。」


と、如来様(霊応身)が咲子夫人をお慰めになったことがあったそうです。


お不動様は、憤怒の姿。

三悪道の心を起こしてばかりいると、
それが習慣となり、死後、三悪道に落ちてしまう。
そうならないようにするためのお慈悲の現れ。

その証拠に、よく見ますと、
不動明王の片方の目は、優しく慈悲深い目をされています。

私たちの慈悲心から離れた怒り、私憤とは、まったく質、内容が違うわけです。

光明主義では、
不動明王とは、如来炎王光の御光による、
不動明王としての御姿としての顕現であると捉えています。
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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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