2018-02-13

「念仏の択法は主義上の重大問題ですから、壁に向かって一人言云ってでも、曲げてはなりません。」(笹本戒浄上人の垣本都夫人へのご教示)


前回記事にしましたが、
笹本戒浄上人のご薫陶を受けられた垣本都夫人。

戒浄上人と垣本夫人に関わる逸話において、
主義上欠かすことのできない極めて重要なエピソードがあります。

以下、『笹本戒浄上人伝』によります。

 2018021201.jpg
【笹本戒浄上人(64歳) 昭和12年3月 松山大林寺】

垣本夫人が某教授と「念仏択法」について議論となり、
随分と苦労されていた折、
昭和12年、笹本戒浄上人御来松時、
無問自説に、

「念仏の択法は主義上の重大問題ですから、
幾ら迫害を受けましても、又誰も聞いてくれる者がありませんでも、
壁に向かって一人言云ってでも、主義上の大切な問題
です。
曲げてはなりません。
若し此の点を妥協するなら雑草の如き宗教の数多き中に
光明主義として態々説き出す必要はありません。」
と厳然として仰せられました。

戒浄上人の堅固な護法精神を象徴する逸話です。

また、
(橋本徳冏氏)
 「浄土宗内では、まだ光明主義は異安心であるとか、
見仏は異安心だ、などという人もありますが・・・」

(戒浄上人)
 「そのようでございますな。
しかし、それは卑怯というものです。
浄土宗はすべからず法廷を開くべきです。
そのとき私は法廷に立ちます。
その結果、光明主義・見仏がいけないというなら、
あなた方こそ法然上人の真精神を壊すものだ、
あなた方こそ浄土宗を出ていらっしゃい、と申します。」

と、断固お答えになった。

弁栄聖者の直弟子の中で、
「念仏の択法」すなわち「起行の用心」について、
笹本戒浄上人ほどこの点を強調されたお方はなかったと思われます。


戒浄上人ご遷化の7年程前の、
昭和5年1月に、
宗乗の統一を計る前に協議をとの意図で、
浄土宗務所主催の「布教要義研究会」(「信仰会議」)が開催されました。
会議の詳細について明らかにはされなかったようです。

主だった出席者を記します(敬称略)と、
桑門秀我、望月信亨、矢吹慶輝、岩井智海、渡辺海旭、
笹本戒浄、藤本浄本、熊野宗純、土屋観道、
椎尾弁匡。


出席者からみても、
浄土宗務局からの「光明主義」、「真生主義」と「共生会」の検証、
といった意味合いが濃厚であったようで、
「昭和の大原談義」とも評されていたようです。

この会議について、
「宗務当局はよいことを言ってくれた。」
と戒浄上人は言われたそうですが、
また同時に、
「ひょっとすると今回私は
お寺から出て行かなければならなくなるかもしれません」

と慶運寺総代宅へ行かれ、ご挨拶をされたそうです。


『教学週報』掲載の会議の「申合せ事項」のうち、

「宗乗闡明の根本精神としては宗祖を中心とし
教化の基準を一枚起請文に置くこと」


との項目があり、そのことについて、
戒浄上人は、大谷仙界上人宛の書簡で、

「この申合せ事項」の内に、公表せざる申合せがあり、
それは、
「布教の基準を一枚起請文となすこと、
但しその説明は自由たるべき事
との但し書があったとのことです。

この但し書は、
光明会側での同志討ちを避け、
光明会側の意志の統一をはかられた
とのことです。
(註 当時光明会内では、藤本浄本上人の”安心往生派”
笹本戒浄上人の”見仏成仏派”との軋轢があったようです。)

なお、
主務所側の渡辺海旭博士の対応について、
「大変度量の大きい方だ」と戒浄上人はほめれておられたようです。

また、望月信亨博士は、
「笹本先生は悟りにおいて当代の第一人者だ」
と側近の教え子に洩らされた。(岸覚勇氏談)

ただし、
これにて一件落着といったはずはなく、

後に、
岩井智海大僧正は、ご在任中、
光明会総監であった笹本戒浄上人に、
「質ねたい儀があるから祖山にくるように」との呼び出しがあり、
その時、浄土宗全書第十巻(第二祖鎮西上人の著作所収)を持参され、
その典拠を指摘しながら光明主義の説明をされた。
その時特に何も申されず、そのまま対面は終わったとのこと。

かくて、
浄土宗当局の光明主義に対する態度は明確にされないまま、
現在に至っている
ようです。

以上、 「信仰会議について」『笹本戒浄上人伝』より。


「見仏」を巡る批判、議論は、
弁栄聖者の御在世中、御遷化後も、
浄土宗内は云うに及ばず光明会内でも、
現在に至っても統一されていない最大の懸案事項かと思われます。

「念仏の択法は主義上の重大問題ですから、
幾ら迫害を受けましても、又誰も聞いてくれる者がありませんでも、
壁に向かって一人言云ってでも、主義上の大切な問題
です。
曲げてはなりません。」

”偏狭な堅い信念”とも受け取られかねない、この笹本戒浄上人の堅い信念
この妥協を許さぬ信念はどこから来るのか、その由来を考えてみる必要があるかと思われます。

それは、弁栄聖者がご唱導された見仏観は、
「三身四智の仏眼」を体得され、
それを歴史上、外部に漏らされた聖者のご内証による、
大宇宙の真相、すなわち、超在一神的汎神に基づく仏身観に依るものであったことに由来すると推察されます。

すなわち、
弁栄聖者の修道論である見仏論は、
仏身論から必然的に導かれたものである故に、
笹本戒浄上人は、その真精神を「直線道」と名づけらたと推察されます。

ただし、ここで留意すべき点があり、
「直線道」とは、主として修道論におけるものであり、
「度生論」におけるものでは必ずしもない。
この区別は峻別すべきであると思われます。

また、
この両面が自然に行え得るのは、
三身四智の仏眼を体得された弁栄聖者のような、
「大ミオヤのお世継ぎ」の境界においてである点です。


弁栄聖者が三昧直観された、
大宇宙の真相、すなわち、超在一神的汎神たる仏身観とは、
通仏教の無始無終の無相「法身」に規定された、
相対的な有始無終の「報身」ではなく、
「報身」無始無終であり、
大宇宙全一の絶対的現象態(妙身相好身本より在します)
三身即一の本有無作(無始無終)の内的目的論的報身を「大ミオヤ」
如来観を定義し直しされました。

なお、笹本戒浄上人に依りますと、
この仏身観は、三身四智の仏眼の境界において、
初めて認識可能となる大宇宙の真相
であるとのことです。

弁栄聖者独自の「見仏論」ご首唱の真意
笹本戒浄上人の「直線道」の深意は、
上述の光明主義独自の仏身論解釈、理解を経て、
初めて認識可能となるものと思われます。

また、修道論上、極めて重要なことは、
大宇宙全一の絶対無規定、絶対的現象態たる「報身」が、
大宇宙の絶対中心であるという点です。

この中心とは、場所的、重心的な中心という意味ではなく、
機能的中心という意味であり、
修道論上は、各自の「真正面」となります。

河波昌(定)東洋大学名誉教授、元光明会上首、元光明園園主は、
西田幾多郎博士の思想を引用され、

「無限円においては、至る処が中心である。」

という認識を大変気に入られたようで、ご法話、論文等にもよく引用されました。

なお、この言葉は、
中世のフランシスコ会修道士のボナヴェントゥラのもの。


  2018021202.jpg
【田中木叉(モクシャ)上人(1884年~1974年)】

最後に、
弁栄聖者三十三回忌(昭和27 1952年)における、
田中木叉上人のご法話の抜粋(大意)を記します。

「光明主義は、聖浄二門を納め統一したみ教えであって
浄土宗の内に光明主義があるのではなく、
光明主義の内に、
浄土宗あり、真宗あり、禅宗あり、真言宗あり、
またキリスト教あり、マホメット教がある。

従ってバイブルによって光明主義を説くこともできれば、
真宗の教えによって光明主義を説くことできる。

弁栄聖者は実に破邪顕正ではなく、破邪なき顕正であった。
一切のものにそれではいけないこれが正しい、
というように破邪をおやりにならず、
常に一切を生かされた。
一宗を建てられた方々は、たいてい法難に会っておられるが、
聖者は法難にお会いにならなかった。
法難にも会わないようなものは、本物ではないが、
また、法難に会うようではまだ円満とはいえない。
聖者は実に円満具足のお方で、
破邪なき顕正で在したればこそ、
法難等にもお会いにならなかった
のである。

光明主義は、万教を摂し統一したみ教えであり、
万教に通ずるみ教えであるから、
一切あるがままにおいて
その教えに従って光明主義の教えを説くことができるのである。

またこれらの意味において
浄土宗その他の宗団に所属しない光明主義の教会及び
これらを包括する包括団体ができよう
し、
またこれができたとしても、別の分派ができたと思って驚いてはいけない。
また、対立してはならない。
同じように円満に手をつないでゆかねばならないのである。」
スポンサーサイト

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-01-18

愛媛県松山市「大林寺」、”松山光明会育ての母” 垣本都夫人と笹本戒浄上人


弁栄聖者は、ご婦人の役割を重要視されていたようです。

光明会を裏で支えた存在として、
ご婦人方の役割を決して忘れてはならないと思います。

 2018011702.jpg
【垣本都夫人 昭和56年8月往生 世寿93歳】
(写真は昭和56年春 「弁栄上人展」の際)


愛媛県松山市「大林寺」における「松山光明会」の発展は、
”松山光明会育ての母”ともいうべき垣本都夫人
の存在抜きには考えられないように思われます。

垣本夫人のお写真を拝見した時、
評論家の小林秀雄氏の晩年の姿が連想されました。
”女丈夫”ともいうべき内面を感受したのかもしれません。

垣本夫人には、
”人に親切な慈悲深い”面もあったようですが、
その活動を支えた”背筋がシャンとした”姿勢は、
生涯貫かれていたように思われます。

この写真撮影時のエピソードとして、
松山光明会にご縁の深かった山本空外上人は、

「垣本さんは紋服(大林寺ゆかりの久松元殿様より頂いたものと聞く)
を着て堂々としておられたが、
あれは皆気がつかなかったけれど、
お別れのご挨拶だったのですよ」
と話しておられたようです。

また、
光明会の歴史上、重要な役割を果たされたご婦人が幾人もおられますが、

「松山光明会」の垣本都夫人のことを考えます時、
何故か、東京「一行院」にあった「東京光明会」の、
中井とき夫人のことが思い出されます。

東京「一行院」とは、
徳本行者往生の地であり、
中井とき夫人は、
弁栄聖者の在家の弟子、中井常次郎氏(弁常居士)の義理の妹。


垣本都夫人の逸話も大変示唆に富み、また、大変興味深いので、
是非ご紹介したいと思います。

垣本都夫人は、在家でありましたが、

最初に如来様におめにかかった時に、
「如来様の御顔がぼぉーとしてはっきりと拝めませんでした」。
そのことを笹本戒浄上人にご報告しますと、

「如来様をお慕いする気持ち(情)が足りないからである。」
とお叱りを受けたそうです。(杉田善孝上人談)

また、
垣本さん、人間はいつも頭に落雷があっても、
魂に怪我をしないだけのお念仏
をしておらなければなりません。
それでないと人生に行き詰ることがあります」と。

垣本夫人は、更に如来様の霊育を受けられ、
後に、慧眼と法眼が開かれたそうです。


学生たちが笹本戒浄上人のみ教えを聞きかじり、
「見仏、見仏」
と騒いでいると、

「真の見仏とは、そんなちっぽけなものではない。
大宇宙の真精神をくみとり、
それがその人の人格と生活とに現われ出る
ようなものでなければならない。と。

「見仏」による心身の霊化(仏化)
その甚深なる真の意義を認識されていた実体験者
垣本都夫人による極めて重要なご訓戒


2018011701.jpg
【昭和12年3月 松山大林寺における
笹本戒浄上人最後のお別時】



垣本都夫人は、笹本戒浄上人を大変尊崇されていたようですが、
また、戒浄上人とのご縁も深かったようです。

 2018011703.jpg
【笹本戒浄上人(64歳) 昭和12年3月 松山大林寺】

(戒浄上人)「この度が最後のお別れで御座います。
御体に気をつけて主義をよろしく」
(垣本夫人)「必ず年に一度は御指導下さるお約束でしたがー」
(戒浄上人)「ハイ、今回で如来様の思召しは無いと存じます・・・」


同年、昭和12年(1937年)7月26日、
笹本戒浄上人、ご遷化。


翌日、7月27日早朝
大嶋玄瑞上人が、戒浄上人ご遷化の電報をもって、
垣本夫人の部屋に駆けつけ報告する前に、夫人から一言、

「笹本上人が亡くなられましたね。」

また、
戒浄上人ご遷化後、
日夜真に残念に思い、力を落とされていた或る夜の夢に、
戒浄上人がお膝を進められて

「宇宙間の一切を尽くしても「念弥陀三昧」にはかなわないのですから、
勇気を鼓して至心にお念仏なさいませ」
と。

目覚めたら、丁度百ヶ日でした。

前々回、同松山市内の「浄福寺」にある、
弁栄聖者と笹本戒浄上人、田中木叉上人の三基の舎利塔

のことを記事にしましたが、
戒浄上人のご長男の浄光師が分骨を松山に持ってこられました。

戒浄上人のご遺言として、
「戒浄上人のお衣と威儀細」を垣本夫人に渡すように
と記されていたそうです。


「松山光明会」には、
「光明主義の六大特長」を択出された大嶋玄瑞上人
笹本戒浄上人の直弟子中、「記主」ともいうべき泉虎一氏、
笹本戒浄上人の薫陶を受けられた垣本都夫人がおられました。

「松山光明会」が果された意義として、
光明主義教学上、また、浄土宗(乗)との関係上避けては通れぬ
「念仏の択法」
の最重要課題
がありますが、
このことについては、また項を改めて考察したいと思います。


最後に、笹本戒浄上人の垣本都夫人(また我々)へのご教示。

「一心にお念仏しておれば、
三代生れ変る間に必ず親様のお世継になれます。
これは事実でございます。
私は決してうそは申しません。」

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-01-01

愛媛県松山市「大林寺 第二十四世 大嶋玄瑞上人」と「松山光明会」


 2018010101.jpg

前回の記事のお寺は、
同松山市内の「浄土宗 浄福寺」で、
大嶋玄瑞上人が、弁栄聖者に真の意味でご邂逅されたお寺。

今回は、大嶋玄瑞上人のお寺で、
旧 伊予松山藩主久松家菩提寺の「大林寺」

学信上人は、大林寺第十二代住職。

 2018010102.jpg  2018010103.jpg

この「浄土宗 大林寺」の文字は、
山本空外上人の筆になるものと思われます。

  2018010104.jpg  2018010105.jpg

「大林寺」は、
戦前と戦後で、雰囲気が大きく変わっているようです。

 2018010106.jpg

大嶋玄瑞上人は、弁栄聖者との御邂逅を、
「盲亀の浮木に逢う如く」に喜ばれたとのこと。

 
 2018010107.jpg

 2018010108.jpg  2018010109.jpg

 2018010110.jpg  2018010112.jpg

右側に行くと奥には、
旧 伊予松山藩主久松家のお墓。

 2018010113.jpg


 2018010116-2.jpg 
  【大嶋玄瑞上人(1883年~1978年)】

大嶋玄瑞上人と弁栄聖者との直接のご縁は、
大正9年6月~大正9年10月
伊予松山「浄福寺」と、広島「心行寺」と京都「知恩院勢至堂」での、
わずか3回のみ
 ※ 弁栄聖者の御遷化は、大正9年12月。

大嶋上人と弁栄聖者との真のご邂逅が、
伊予松山「浄福寺」であったのですが、
そこで、聖者への「全身全霊の信が確立」したのではなく、
「弁栄聖者への信が確りと芽生えた」といった段階であったと推察されます。


大正9年10月、京都「知恩院勢至堂」における、
大嶋玄瑞上人と弁栄聖者との興味深い逸話があります。

知恩院勢至堂にて、京都光明会主催の別時が開催されました。
導師は、弁栄聖者でした。

大嶋上人は、どうしても聖者のお別時に就きたくて、
最終布教先の信州長野から京都へと急ぎ向われました。

京都に着き、
大嶋上人が、弁栄聖者にご挨拶されますと、

「大嶋さん、信州の布教が無事にお済みなさいましたな。」
と聖者が仰っられたので、
大嶋上人は度肝を抜かれました

といいますのも、
大嶋上人は、弁栄聖者のお別時に就くために、
3週間ほどの布教先での御法話を少しずつ縮めて、
予定よりも日程を短縮できました。
そこで、本山へは報告をせずに
急ぎ、信州長野から京都に向ったのでした。

弁栄聖者の直弟子方は各々、
聖者の「三身四智の仏眼」に依る霊(法)力をまざまざと体験され、
そのことも、「弁栄聖者への信」を深める大きな要因になっていることが、
ハッキリと解ります。

大嶋上人が体験されたのは、
弁栄聖者の三身四智の仏眼、その「大円鏡智」の働きであったわけです。

弁栄聖者への信を深められた大嶋玄瑞上人は、
聖者ご遷化後、昭和3~4年から5年かけて
弁栄聖者の御遺稿(『ミオヤの光』、『人生の帰趣』、『無辺光』)等を熟読され、
また、笹本戒浄上人はじめ聖者直弟子方のご法話等もご参考にされながら、
「光明主義教学」を研究され、
「光明主義の六大特長」を決択されました。

「光明主義の特長」とは、
弁栄聖者によって開顕された「大宇宙(自然界と心霊界)の真相」
といった意味です。

六つの内容、項目は、次のとおり。

一、 十二光
二、 三十七道品
三、 縁起実相を統一調和せる王三昧ー弥陀三昧
四、 念仏の初発心より見仏して成仏、
無限に向上さして戴く終りまで信念の変更を要せず
五、 無明
六、 主観客観いづれに偏(カタヨル)してもタンパンカン


この「光明主義の六大特長」は、
『笹本戒浄上人全集』が出版された昭和50年代の前半頃まで、
光明会内で流布されていたようで、

笹本戒浄上人は、
「正にそのとおりであり、間違っているところはない。」
とお認めになられたそうです。

ただし、続けて、
戒浄上人の直弟子、泉虎一氏に、
「あの六大特長は、
光明主義の特長の全部を厳密に述べたものではない。
後日、補完するように。」
と御遺言(託)されたとのことです。


現在では、
泉虎一氏、杉田善孝上人等、笹本戒浄上人の弟子方に依って、
『光明主義玄義(ワイド版)』の最後に、
「光明主義の主要特徴」として、
一往「十三項目の特徴」として補完されていますので、
是非、お読みになってご確認ください。


大嶋上人の思い出話の中で、
示唆に富み、印象深い逸話が、
まだ幾つかありますので、記しておきたいと思います。

○ 【弁栄聖者の大嶋玄瑞上人へのご教示】

 ・ 「我(弁栄)は、釈尊がお説き残しの法を説く。」

 ・ 【筑波山での念仏三昧発得偈】について
   (明治十五年、弁栄聖者二十四歳時)

「弥陀身心遍法界
 衆生念仏仏還念
 一心専念能所亡
 果満覚王独了々」


この「念仏三昧発得偈」の内実について、
弁栄聖者は、笹本戒浄上人と大嶋玄瑞上人に自内証を漏らされたようですが、
その内容について、泉虎一氏と杉田善孝上人のお二人が協力してまとめられています。
とても貴重なものですので、少し長くなりますが記します。

「念に応じて
お顔の丈が一丈五尺位の如来様のお姿がお現われになるが、
初めは私共が互いに向いあって
相手のお方のお顔を見ているのと同じ状態から、
間もなく向きをかえて、如来様と弁栄聖者が一つになって、
自分で自分の姿を見るようになり、お姿を念じ始めてから、
無限の大宇宙なお入るるに狭しとする
大天大地を貫く大御姿とお成りになる。
念じ始めてから大宇宙を貫く大身の御姿を
しかと見奉るようになるまでの時間は、およそ五分間。
(但しこれは聖者の三昧直観による時間であって、
均質的連続としての物理学的時間とは
根本的に区別されるべきである)」。



○ 【大嶋上人の「弁栄聖者観」、「笹本戒浄上人観」】

弁栄聖者の在家の直弟子、京都帝国大学工学部講師、
中井常次郎(弁常居士)氏が、笹本戒浄上人の講演の後、

「いったい笹本上人は弁栄上人に比べたら、
夜這星(よばいぼし)と恒星との区別があります。」

と言われたことがあったそうです。

その時、戒浄上人は、
「いや、恐ろしいことで。
夜這星と恒星と比較して頂くほどでももったいない」

と言われ、ニコニコしておられたそうです。

この逸話の年代が知りたいところですが、
それはそれとして、この逸話がとても興味深いのは、
中井常次郎氏と笹本戒浄上人の人柄の特徴がよく表れていると思われる点です。

中井常次郎氏は、科学者であり、
「真理の前には、誰もが皆平等である。」との信念があったのでしょうか、
また、”直言居士”の面目躍如。

一方の笹本戒浄上人は、
弁栄聖者ご在世当時から、
とても謙虚な人格者との評判の高かったお方。

戒浄上人のこのご発言、ご対応は、
内心の怒りを抑制され、謙虚と思われる”大人の対応”をされたのではなく、
戒浄上人は、心底からそう思ってのごく自然な対応であったと推察されます。

「弁栄聖者を仏様」として心底拝めておられた戒浄上人です。

”桁違いに格の違う人物”に対しては、
人は、競争心(嫉妬)などいだかぬものであり、

その様な人物には、
無私になって接した方が、かえって、自分がより活きる、
といった逆説が生じるものではないでしょうか?

「私の一生は、砂浜で美しい貝殻を拾って喜んでいる子どものようなものだった。
真理の大海は目の前に未知のまま広がっている。」


ニュートンの言葉であったように記憶していますが、

”絶対的な智慧”に対する、
”相対的な理性”の健全な在り方(態度)であるように思われます。


そこを、法然上人は、『一枚起請文』の中で、
「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。」
とご教示されておられます。


「笹本上人もそれはご立派であったが、
笹本上人は、一世紀一世紀の時代に出られる聖者で、
弁栄上人は、千年刻みに出られる聖者です。」



大嶋玄瑞上人の晩年における、
「弁栄聖者観」と「笹本戒浄上人観」。



 2018010111.jpg

左側に行き直ぐ右側に、大嶋玄瑞上人のお墓


  2018010114.jpg  2018010115.jpg

 2018010116.jpg
【法名 本蓮社正僧正達誉上人性阿無三湛然玄瑞老和尚
大林寺第廿四世】


大嶋玄瑞上人のご西化は、昭和53年。
世寿95歳

 2018010117.jpg

大嶋玄瑞上人、垣本都氏が中心となって、
「松山光明会」が発足、発展していったようです。

笹本戒浄上人、熊野宗純上人 藤本浄本上人
大谷仙界上人中川察道上人等、
弁栄聖者の直弟子方によって、お別時が開催されていたようです。

なお、
大林寺は、「松山光明会」発足当時、
旧制松山高等学校の仮宿舎であったため、生徒への影響が大きく、
後の光明会に大きな影響を与えた方々が多数輩出されました。
主だった方々のお名前を記しますと、

 川本正良氏(松山高等学校ドイツ語教授、俳人(雅号臥風)、松山光明会員)
 垣本都氏(松山光明会の育ての親)
 山本空外上人(光明修養会元上首)
 岡本薫氏(神奈川県相模原 光明学園学長)
 泉虎一氏(笹本戒浄上人の直弟子)
 蛯名寿家夫氏(月照寮同人、
『真実の自己』(笹本戒浄上人述)を英訳する会代表)

※ 「松山光明会」の現在の活動状況等については、
残念ながら、不明です。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2017-12-11

愛媛県松山市「浄土宗 浄福寺」における、大島玄瑞上人の弁栄聖者とのご邂逅


 2017121001.jpg  2017121002.jpg

2017121003.jpg

 2017121005.jpg   2017121006.jpg

伊予松山。
四国初の、弁栄聖者の御結縁地。

道後温泉、夏目漱石、正岡子規・・・
あるいは、司馬遼太郎氏によって、秋山兄弟でも知られているかもしれません。

  2017121007.jpg  2017121009.jpg

四国伊予(現 愛媛県)松山「浄土宗 浄福寺」
(注) 同じ松山市内には、浄土真宗の同名のお寺があります。
訪問の際には、ご注意ください。

実は、
大島玄瑞上人が弁栄聖者に初めてお目にかかったたのは、此処ではありません。

遡ること、十数年ほど前、明治三十年代の半ば頃
東京小石川の宗教大学(現大正大学の前身)講堂で、
聖者の講演を聞かれたことがありました。

その当時の弁栄聖者の印象として、
大島上人は、次の二点が印象に残るのみでありました。

通学中の学生が、
「早く講義が終わらないと帰りの汽車に間に合わなくなる。」
と内心心配しながら聖者の講演を聞いていた時

弁栄聖者が講義を中断し、突然、

「この中で帰りの汽車の事を心配している者がいるが、
その汽車はいつもより遅れて到着する
ので、
話しが終り、急いで行けば間に合う。
心配には及ばない」と。


翌日、その学生が語った、
「果して十分間に合った。奇異の思いがした。」
との話しが印象に残ったこと。

もう一点は、その時の弁栄聖者の講話内容について。
宗乗の「指方立相」に反して、
「現在に重点」を置く趣旨で、

「是れ全く異安心者である。浄土教の破壊者である。
異端者である。大いに排斥すべきである。」

と大島上人は憤慨され、それから聖者を避けられた。


  2017121008.jpg  2017121010.jpg

それから歳月が流れ、
大正5年伊予「大林寺」住職拝命

更に数年の歳月が流れた、
大正9年3月、熊本市内での本山巡教中でのこと。

高座に登り、お十念の後、第一声、
「お念仏は有り難い」と。
すると、
「教師様はお念仏が有り難いですか」
との無言の反響

「念仏は不断相続が肝要である」と。
「教師様は能く念仏不断相続せられますか」。
との無言の反問の来る無声の声

脇下からの脂汗、熱湯の如く、慚愧筆舌に尽し難く、
「この不浄説法師と己を責め」られ、
松山の自坊で、この忸怩たる思いを胸に秘め過ごされていた。


そんな折、
同年6月、浄福寺檀信徒の先祖追善供養の法要の話しがあり、
不思議なご縁の巡り合わせで、
広島の「心行寺」の佐々木為興上人とのご縁から、
愛媛教区教学講習会の講師に是非との要請を受け入れられ、
弁栄聖者が、伊予松山に

為興上人と光明会員の木魚を叩き、
オルガン伴奏による聖歌を聴きながら、
「何だか耶蘇臭いわい」と一同ざわつかれたようです。

御法話は、「宗祖の皮髄」について。
(『法然上人の神髄 (現代語訳「山崎弁栄講述 ──『宗祖の皮髄』』は、こちら)

その時かわされた、
大島玄瑞上人と弁栄聖者との主要な問答は、以下の四つ。

(大島上人) 「光明会の念仏は難行道に非ずや。」
(弁栄聖者) 「難易二道は安心上の問題にして起行の問題ではない。」

(大島上人) 「『選択集』の何処に見仏の思想有りや。」
(弁栄聖者) 「もう一度深くご覧なさい。」

(大島上人) 「常に仰せられけるお詞(『勅修御伝第二十一』)の
「近来の行人、観法をなす事なかれ。・・・・」」について

(弁栄聖者) 『大日比三師講説集』の御伝廿一巻 をご覧なさい。」

(大島上人) 「凡夫は見仏は不可能でしょう。」
(弁栄聖者) 「業障懺悔、念念一心にお念仏が大事です。
往生見尊体、親様にお逢いしたいと申す念仏が大事です。」


大島上人の弁栄聖者へのご質疑は、
末代の我々衆生のためとも云えるもので、
大変貴重で、有り難いものでもあります。

更に貴重な、
弁栄聖者の大島玄瑞上人へのご教示が残されています。

○「従来念仏といえば殆んど”観念の念仏”だったので、
これと混同されない様に
法然上人は”本願の念仏”を説くのに声を強調力説された。
しかし、そのために一般には声に偏ってしまった。
今、弁栄はそれを中正に戻す」と。 

また、弁栄聖者は念仏における心構え(起行の用心)として、
次の様に、明確にご教示されたとのこと。

「了々たる見仏をまだしてなくても、
親に遇いたいな遇いたいなと想う愛慕の心をもって
お念仏を申さ
なけりゃならない。」

○「いつもいつも如来様を憶念することが結構でございます。」 


おそらく、
大島玄瑞上人はこの時点では、
即座に「弁栄聖者に絶対帰依」されたのではなく、
聖者の説かれる(自内証の)浄土教の独自解釈により、
浄土宗乗等の疑義等が全面解決されたのでもなく、
「まだ解消し得ない疑義は、疑義として払拭仕切れずとも、
そのことが、”弁栄聖者への信”の妨げとはならず」

「弁栄聖者への信が確りと芽生えた」のだと推察いたします。

大島上人が、「弁栄教学」の真髄の詳細を知るには、時間は短すぎますし、
この当時、聖者の御遺稿集等の書物は、まだ十分に整備されてもいませんでした。


なお、ご参考までに、
以下、「観仏と念仏」に関するその他の御教示。

田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、

「極楽よりも如来様をもととし、
しかも如来大悲のみすがたを心にお慕いして念ずることの、
いかに宗教意識の発育と意識の集中に有効であるかを経験せざる宗侶には、
この仏心大悲のあらわれなる如来のみすがたの人格的なありがさたを、
憶念しお慕いする所のお慈悲にぬれた温かい心持の念仏を、

かの冷かなむしろ器械的な「観仏」と、
とりまちがえる人
も門外の人には時々あった。」

また、
「観念の念仏は十三定善の法式によりて修し、
念仏三昧は一心欣慕の意地に住する旨をお説きになった。 


この伊予松山「浄福寺」での弁栄聖者とご邂逅の後、
大島上人は、広島の佐々木為興上人の「心行寺」での、
聖者のお別時にも、続けて就かれました。

大島玄瑞上人と弁栄聖者との直接のご縁は、
大正9年6月~大正9年10月、
伊予松山「浄福寺」と、広島「心行寺」と京都「知恩院勢至堂」での、
わずか3回のみ


弁栄聖者のご遷化は、
そのおよそ2ヶ月後、大正9年12月4日

大島玄瑞上人は、弁栄聖者との御邂逅を、
「盲亀の浮木に逢う如く」に喜ばれたとのこと。

大島玄瑞上人のご西化は、昭和53年。
世寿95歳。



 2017121011.jpg

意外、と思われる方も多いかもしれませんが、
弁栄聖者、笹本戒浄上人、田中木叉上人の御三方のお墓が揃っている処は、
全国でも、此処、「浄福寺」だけかもしれません。

  2017121012.jpg

【弁栄聖者のお墓】

「我子等を愁へてゆきし法の父
とわに恋しく涙こぼるる」(大島玄瑞上人)



 2017121013.jpg

弁栄聖者のお墓が、伊予松山「浄福寺」に建立されたのには由来があります。

聖者直弟子の大谷仙界上人から、
しばらく預かっておられた聖者の御遺骨、
その御分骨がようやく、此処、伊予松山の「浄福寺」に、
おさまることになりました。

昭和51年のこと。

「大林寺」住職大島玄瑞上人と垣本都氏のたってのご発願によるもの。

 2017121014.jpg

【笹本戒浄上人のお墓】

弁栄聖者のご結縁の後、ほどなく、
大林寺大島玄瑞上人と垣本都氏を中心として、
松山光明会が発足され、
後の光明会の歴史に名を残す優れた人物が数多く輩出されました。

笹本戒浄上人と松山光明会とは、因縁が深いと思われますが、
この舎利塔建立の発願者のお一人、
垣本都氏と戒浄上人とのご因縁は格別に深かったようです。

 2017121015.jpg

【田中木叉上人のお墓】 

弁栄聖者ご提唱の「光明主義」、その「弁栄教学」を学ぶ際に、
田中木叉上人の存在を抜きにしては考えらないことですが、

田中木叉上人の弁栄聖者の御遺稿の編纂という畢生の大事業
「その御恩、感謝の念いを決して忘れてはならない」と、
笹本戒浄上人は語られておられたようです。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2017-11-23

広島県安芸の宮島、浄土宗「光明院」開山 以八上人と学信上人


2017111901.jpg

世界遺産でもあり、全国的に知られる安芸の宮島
朱色の大鳥居も有名ですが、

2017111902.jpg

宮島名産の”宮島杓子”

2017111903.jpg 2017111904.jpg

2017111905.jpg

2017111906.jpg

浄土宗に属し、戦国時代
以八(いはち)上人によって建立された。

厳島は14・5世紀頃から、内海の要港として賑わい門前町が発達した。
これまで厳島神社に関係を持つ寺院はあったが、
以八上人は町家の人達を教化する目的で来島し、 念仏を勧め多くの信徒を得た。

鎌倉時代末期の木造阿弥陀如来立像、絹本紺地金彩弥陀三尊来迎図
(以上国指定重要文化財)を所蔵する。

この寺の裏手は同じく浄土宗の道場坊神泉寺の跡であるが、
天文18年(1549年)堪阿弥が再興し、昼夜時刻を知らせたので
時寺と呼ばれ親しまれた。

2017111907.jpg

天明・寛政の頃(18世紀末)島内諸所に井戸を掘り、
宮島名産の杓子を創始し
民生につくした誓真は神泉の番僧であった。

2017111908.jpg

宮島で唯一の浄土宗寺院の「光明院」
開基は、以八上人(1539~1614)。

以前は、光明会の別時も催されていたようです。

2017111909.jpg

捨世派様式の伽藍配置。

弁栄聖者がゆかりのある、
弾誓上人徳本行者も、捨世派

なお、京都鹿ケ谷の「法然院」も捨世派とゆかりが深く、
「法念院」創建の忍澂(にんちょう)上人は、
『別時念佛三昧法諺註』、『別時念仏三昧八誓』の著者としても知られ、
これらの書物は、別時念仏における、大変有り難いご指南書

弁栄聖者には、”捨世派”の精神と通底するものを感じます。

 2017111910.jpg

2017111914.jpg

 2017111911.jpg

  2017111912.jpg

”誓真杓子”.。

 2017111913.jpg

宮島は、神域であるため、
島内には、お墓がないそうです。


  2017111915.jpg  2017111916.jpg

佐々木為興上人ゆかりの、廿日市市「潮音寺」。

「潮音寺」は、
以八上人と学信上人のお墓もある、由緒あるお寺。

 2017111917.jpg  2017111918.jpg

 2017111919.jpg 

【 以八上人 】
法然上人のご生誕地、岡山県の「誕生寺」を復興された御方。
袋中上人の実兄。

2017111920.jpg 2017111921.jpg

【 学信上人 】
伊予国出身だけあって、瀬戸内界隈は特に、学信上人関係の遺跡が多いようです。
「墓で生まれた学信和尚」としても知られる御方。

なお、学信上人は、
江戸増上寺、 京都鹿ヶ谷法然院、伊予大林寺にもゆかりが深く、
これらのお寺は、弁栄聖者とも因縁が深いお寺でもあります。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

RSSリンクの表示
検索フォーム
カレンダー
01 | 2018/02 | 03
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 - - -
アクセスカウンター
プロフィール

syou_en

Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
twitter
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR