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2018-10-13

「徳本行者の修行地を巡って」~弁栄教学等からの考察


 【誕生院】
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徳本行者は、幼き頃から道心深く、
誕生寺裏には、行者が幼少時に念仏した洞穴があります。

また、誕生寺には、『徳本行者絵伝』が残っており、
時々、絵解きも行われています。

徳本行者の伝記等は、
福田行誡編著『徳本行者伝』の他にも幾つかありますが、
今回も、定番のこの福田行誡編著『徳本行者伝』を中心に記していきたいと思います。

『徳本行者伝』は、現代人の目からは、
不可解さ、怪しさ、不信さえいだきかねない内容
も結構あると思われます。

今回は、弁栄聖者の行状、弁栄教学等と対比させて考察いたします。
この書の読解の一助になれば幸いです。

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 【往生寺】
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27歳の時、
大円大徳について得度、徳本と称す。

往生寺再建等のため、
大円大徳と共に、勧請等に精を出される。

その二年後、大円大徳逝去。

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 【月照寺】
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福田行誡編著『徳本行者伝』では、「月正寺」と表記。

徳本行者16歳の時に、
住持大良和尚について別時念仏、併せて水行も修す。

16歳~18歳頃、
廻国行者に「一枚起請文」を付属さる。

ここに既に、徳本行者の生涯に決定的な影響を与えた、
「一枚起請文」とのご縁が結ばれます。

ただし、徳本行者の行状等をおっていきますと、
"浄土宗捨世派"の系譜には収まりきらない実態
が徳本行者にはあるように思えてなりません。

徳本行者のご生誕地である紀州和歌山。
熊野詣でで、古来から全国的に知られる熊野三山、
高野聖の活躍した高野山もある、
そういった様々な宗教的風土の濃厚な地域
それらの地域性も十分考慮する必要があるように思われます。

28歳の時、
住持大良和尚と共に、念仏修行を修す。
徳本行者は、
昼は、「月照寺」付近の丸山を巡り念仏、夜は、堂内礼拝。
一日炒麦一合。30日間修す。

「何事も一道を貫通せんと思はんものは、
艱難苦行を経て練磨を重ねざれば
其妙処に到るものにあらず、
何事も初めはかたき事に思へども
漸くにしておのづから平易の場にいたるものなり」


と徳本行者は、この頃、人に語っておられます。

ここにて、千津川・須ヶ谷の苦行を発願。

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「月照寺」から数百m程行った山中に、
「徳本行者の初行の洞窟」があります。

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この辺りから、周囲の雰囲気が変わってきます。

ここは、
熊野古道、熊野神社、那智大社、高野山のある紀州和歌山。

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この場所にさしかかった時、
不思議な、妙な気分に襲われました。

「deja vu」、既視感!とでも云いましょうか?

何処かで、見たような光景・・・
あっ、そうだ!
弁栄聖者が二十代の半ば頃に籠って修行された、
”三昧発得の修行地”、茨城県「筑波山」!

古来から、
「西の富士、東の筑波」と並び称されてきた霊山。


「芝増上寺(時の東部管長)行誡和上は、
かねてこの青年沙門日頃の行持を聞き伝えて、
「東から名僧がでる」
とよくいっておられた」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

福田行誡上人にとって、
西の名僧が、徳本行者なら、
東の名僧は、弁栄聖者
であった、
のかもしれません。

※ 福田行誡上人と弁栄聖者には、 50歳程の開きがあり、
徳本行者と福田行誡上人も同様、50歳程の開きがありました。

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弁栄聖者、「浄土宗捨世派」、「木食」僧が、
籠って修行されたと伝えられる岩屋、洞窟等に実際に行ってみて、
ほぼ確信できた事実があります。

それは、籠られた修行地である、
「岩屋、洞窟等の近くには、湧水がある。」
という共通点です。

"肉体"といった「生理的制約」を持った人間には、
水は不可欠だからでありましょう。

また、例えば、 信州唐沢山阿弥陀寺に参詣されれば、
「霊山と云われる山中の湧き水には、何処か神秘性がある」
と自ずと感得される
かと思われます。

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【徳本行者初行洞窟】
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弁栄聖者の三昧発得の修行地、
筑波山の「立身石」、女体山の「護摩壇の岩屋」を彷彿とさせます。

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ここ数年の実地調査、文献等から、

弁栄聖者御遺稿の学問的研究書ともいうべき、
山本空外上人編『辨栄上人書簡集』において、

「その夏筑波山入山、
立身・北斗両石上各一ヶ月の三昧証入となり」と。

弁栄聖者の筑波山中での御修行場所を、
「立身・北斗両石上」とされた断定表記は、
後世に誤解を生む
と確信するに至り、
ここに信憑性のある推定を改めて記します。

弁栄聖者の篤信家、吉松喜久造氏は、
聖者の筑波山での御修行地について調査された結果、
次の如くに、結論されました。

「聖者が最初、男体山で寝泊り、雨宿りなさったのは、
男体山岩屋で、二、三人は入れる位のほら穴で、
立身石より約百米位下にある。
聖者は日中は人目を避けて男体山岩屋で念仏し、
登山者が帰ったあとで、百米上の立身石上の巌上で
一心専念に念仏三昧をされたという。
この岩屋から更に約百米位下に、
水の湧き出る御海(みうみ)が位置し、
この湧き水にて聖者は炊事をして居られたと伝えられる。

この立身石での御修行のあと一か月間は、
女体山岩屋、北斗石、護摩壇石付近かと推定される」。


弁栄聖者の筑波山での御修行場所を明確には断定できかねますが、
現時点では、吉松氏の説が最も信憑性が高い。


なお、徳本行者、「木食」僧、弁栄聖者においても、

「長期間籠られた「窟屋」は、
人里から全く閉ざされた山奥ではない。」


このことは、
肉体を持った人間、他者の存在を不可欠とする人間、
そうした「様々な心身の制約のある人間」の修行法を考察する場合、
決して見落とせない視点かと思われます。


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【尊光寺】
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「上人堂」とも呼ばれ、
徳本の水行跡に、その遺徳を偲んで建立したお寺。

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29歳時、
ここ、千津川落合谷にて、苦行6年間に及ぶ。

避穀断塩のうえ、近くの落合川で水垢離をとり、
五体投地高唱念仏の荒行を修す。

この「避穀断塩」の実施には、逸話あり。

徳本行者が修行中、この地に、
増上寺学侶が訪ねて来て、
「昔弾誓、澄禅の両大徳は木食草衣にて、
久しく山居修行されたとのこと。
行者の修行はこれに非常に似ている。」
と。
「我もその志しである」と徳本行者は答えられ、
それより、この「木食行」を行われた。
※ ちなみに、 「木食」とは、「木喰」の誤りではなく、修行方法。
一般には、「木喰」といえば、
木喰行道(木喰五行、木喰明満)上人を指すことが多いです。

なお、平成30年は、木喰生誕300年にあたり、
平成30年10月21日まで
山梨県身延町の「なかとみ現代工芸美術館」で、
「生誕三百年 木喰展 ~故郷に還る、微笑み。~」が開催中です。


福田行誡編著『徳本行者伝』には、

「避穀断塩の苦行は山居巌棲の際(あいだ)、
事の煩はしさを省くの方便なるのみ。」

と記されていますが、

この「木食」行の五穀断ち修行には、
"修行上における生理学的効用"といった観点からも、
考察する必要があるかと思われます。


後に、徳本行者は、弾誓・澄禅両上人の遺跡巡礼をされます。

徳本行者の行状等を考察する場合、
弾誓上人について知ることが不可欠
かと思われます。

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「徳本行者水行座石」

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光明会の『如来光明礼拝儀』が置かれています。

「上人堂」にある木魚。

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寺内にある「書継ぎ名号石」にまつわる逸話は、
よく知られた徳本行者の霊験譚の一つ。

村民が病難を防ぐため、村に名号塔を置こうと、
村の河原で探しましたが、
その石に疵があったのでそのままにしておいたところ、
ある朝、石屋の表にその石が置かれていました。
石屋は近くの寺の法師に名号を書いてもらい、南無の二字を彫刻。
今度はその石が、自分を慕って飛んできたことを聞いて、
この石に十念を授け、残りの「阿弥陀仏」を、
「書き継がれた」とのこと。

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この現象を見聞した村人達が、不思議がっていたところ、

「凡夫の極楽に往生するは、
石のおのずから飛び来るよりも不思議なり」

と徳本行者は仰られました。

真偽のほどは、暫く置くとしまして、

これと似た御教示は、弁栄聖者にもあります。

「宗教家は奇蹟を現わさなくてはつまりません。
釈尊のお弟子でも多くの人が
釈尊の教理に服して入道したのではなく、
釈尊の奇蹟に驚嘆してお弟子になっております。」

また、
「予言ができるとか、病気がなおるとか、
そんな奇蹟がなんの価値がありましょう。
凡夫が仏になる。
これほど大きい奇蹟がまたとありましょう。」

※ 熊野好月氏への御教示には、「水の上を歩く」ことも含む。

と 、(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)に、
木叉上人は、慧眼にも、併記されています。

"宗教者徳本行者の衆生済度の在り方"を考察する場合に、
不可欠な両つの観点。



笹本戒浄上人は、より具体的に、

「私共凡夫は、
神変不思議を目のあたり見せられますと驚いて、
その神変不思議に興味を感じ、
仏道修行上最も大切な成仏という事を忘れて仕舞います。

成仏とは涅槃と菩提とを完全円満に成就する事であります。
そしてその為には如来様の御力を信じ、
お慕い申して如来様に同化されて
完全円満な霊的人格を成就しなければなりません。
衆生済度の目的は実に其処に向かわせる事にあります。

ですからうかつに相手かまわず神変不思議を見せますと
必ずといってよい程仏道修行の道から脱線して仕舞います。

然し又、神変不思議を現ずる必要のあるものには時期を逸せず、
御力を発揮して見せるという事もできなくてはなりません。

弁栄上人様はそのような御心を以って
私共を成仏へとお導き下さいました。」と。


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【水垢離の行場】
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広懺悔誦して水垢離、五千~一万の礼拝。
寒風肌刺し全身ひびあかぎれ松皮の如し。
礼拝のたびに鮮血ほとばしる
までなりましたが、

かつて人に語りては、
「仏道修行は一旦艱難をしのぐが大事なり、
三ヶ年の後にいたりては、
いかなる難行の場にいたりても、
一身痛悩する程の事はなきものなり」

と、いよいよ修行に励まれました。

人目には荒行そのものでしたが、
徳本行者御自身の意識とは違っていたかもしれません。
仏の御加護(他力)の致す処と推察いたします。

その後、ある無言にて別行の折、
激しい下痢をされ、
或いは赤く或いは黄のものを多く下し、
十二三日過ぎて平癒。
その後、一しほ身のかろき事を覚えた」
と。

ここで、注目すべき点は、
身体の変容過程です。

修行とは、一般的に心、精神、魂の浄化と捉えられがちですが、
身体の浄化も必然的に伴うものである
ことは、通常、見落とされがちかもしれません。

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ここ、千津川周辺での約6ケ年に及ぶ苦行の後、
弾誓上人ゆかりの京都古知谷の阿弥陀寺に参詣された時、

「此ころまでは
頭髪肩にたれ錫杖を突きたるさまを見て、
弾誓上人の再来なるべし
など土人(ところのひと)は申合ひけり。」


徳本行者の修行形態、風貌等は、
奉行所からも怪しまれ、増上寺から弁明書を幾度か提出されています。

徳本行者は、「浄土宗捨世派」に属し、
生涯法然上人の「一枚起請文」を以て、
自行他化の鏡
とされたとは、通説ですが、
どうも腑に落ちないところがあります。

確かに、形式は、南無阿弥陀仏の高唱念仏ですが、
念仏の内容については、検証の余地があるように思われます。


ここで、徳本行者が尊崇された弾誓上人にふれておきたいと思います。

弾誓上人に関しては、
資料が著しく少なく、文献のみによる研究はかなり困難であると思われます。

『徳本行者全集』代表編者戸松啓真氏の論文、
「近世浄土宗における捨世派の成立
ー 称念と以八と弾誓について ー」

(『大正大学研究紀要 仏教学部・文学部 72号 1986.10』)に、

「近年信濃の宮島潤子氏が弾誓の遺跡ならびに遺品の調査をして、
弾誓にふれ「木食上人弾誓の生涯と思想」、「弾誓と徳本」の論作で
弾誓を広い立場から考察し
単に捨世派の人師としてみるだけではなく、
円空に先行する木食上人、作仏聖遊行聖
としても考えられることを述べ、
思想的には、天台系融通念仏、
さらに真言覚鑁の密教思想の影響
などについても
資料をあげて述べられている問題提起の力作である。」
注目されています。

「弾誓研究」といえば、
宮島潤子氏、五来重氏の研究を以て嚆矢とし、
不勉強の誹りを招きかねませんが、
現在のところ、
両人の研究成果を凌駕する著作、論文等にお目にかかれておりません。

特に、宮島潤子氏の「弾誓研究」姿勢、
力作『万治石仏の謎』等に通底しているのは、
いわゆる"研究者"のそれではなく、
弾誓上人への敬愛の情に基づく、
弾誓上人(人と思想)に肉薄せんとするその篤き情熱。

大きな感銘と感動さえ覚えます。

伊藤唯真氏は、
『五来重著作集第十巻 木食遊行聖の宗教活動と系譜』
解説「五来「ひじり」学のフロンティアー木食遊行聖の世界ー」において、

「木食聖の研究においては、
地元研究者の協力が何より必要である」


と期待を寄せられています。

弾誓上人との関係においていえば、管見では、
円空上人の郷土史研究家として知られる、
『[修験僧] 円空 研究成果と課題』の著者、
岐阜県美並村の池田勇次氏も挙げられるかと思われます。

郷土史研究家でもある、
「弾誓、木食研究者」宮島潤子氏と
「円空研究者」池田勇次氏両人の
弾誓上人への共通の関心事は、
「弾誓自筆譜脈」「宝冠の弥陀の弾誓」に象徴される、

「阿弥陀如来即大日如来、即身成仏という信仰」
にあります。

弾誓上人は、佐渡でのご修行中、
弥陀から直説法を給はれました。

「一夜清朗にして岩窟特に寂莫たれば
心もいとど澄みわたりて念仏もっとも勇猛なり。
その時岩窟変じて報土と成れり。
教主弥陀如来、大身を現じて微妙の法を説給ふ。

大日如来釈迦如来及び一切諸菩薩衆、
星のごとく列りて虚空界に充満せり。
時に弥陀尊、直に上人に授記して
十方西清王法国光明正弾誓阿弥陀仏と呼びたまふ。
その説法を書記して弾誓経と名く
説法既に終る時、
観音大士手づから白蓮所乗の仏頭をもって上人に授け給ふ。
是伝法の印璽なり。」
(『弾誓上人絵詞伝』)

弾誓上人が念仏により即身成仏を果たしたとされた時に、
大日如来と阿弥陀如来が共に描かれている点が、
真に興味深い点です。

弁栄聖者は、自内証の上から、
「大日と弥陀」及び「弥陀と久遠実成の仏」(法華経)」を、
同体異名
と明言されています。

また、
「弁栄聖者の光明体系の構想にあたり、
真言密教のある経典から示唆を受けた」
とも。
(弁栄聖者から藤本浄本上人への御教示)


弾誓上人に関する文献は、とても少なく、
特に、上述の宮島潤子、五来重両氏の文献は必読かと思われます。

○ 宮島潤子著『信濃の聖と木食行者』
〇 宮島潤子著『万治石仏の謎』
〇 宮島潤子著『謎の石仏ー作仏聖の足跡ー』

〇 五来重著 『五来重著作集第十巻 木食遊行聖の宗教活動と系譜』

〇 鈴木昭英著『越後・佐渡の山岳修験 修験道歴史民俗論集.3巻』

他にも次の方々の著作等も参考になります。


〇 西海賢二著『漂泊の聖たち―箱根周辺の木食僧』
〇 西海賢二著『江戸の漂泊聖たち』
〇 吉田幸平著『弾誓譚―ある修験僧の生涯』
〇 池田勇次著『[修験僧] 円空 研究成果と課題』
〇 「佐渡の木食上人」(田中圭一先生講演録 第八集)
〇 田中圭一著『地蔵の島・木食の島』(私家本)
〇 「41 それは佐渡から始まった
ー木食弾誓とその後継者たちー(1)」
(佐渡出身の方のブログ「石仏散歩」)



一方、徳本行者は、
平生のお言葉に、
我れ念仏する時は即ち阿弥陀仏なり。
説法する時は即ち釈迦なり、
とぞのたまひける。
聖道門にはかかる伝へもあれど、
浄土宗にてはかくまでには申さぬぞ教限なるべきを、
師の自得し玉へるさまおのづから経論の至理に符合せるを、
其まま仰せられし
もいとめずらしくなむ。」

と、増上寺法主の福田行誡上人は、
幾分懐疑的にも記されています。

「師の自得し玉へるさま
おのづから経論の至理に符合せる」


とは、真に、意味深長な表記。


「私は経文に依って演繹的に説くのではない。
帰納的に説いておる」

(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)

「経典に依るのでなく、
御自身の体験せられた如来様の事実※から
帰納的に光明主義の教学体系を組織せられた、
という意味である。」(笹本戒浄上人のご教示)

※「御自身の体験せられた如来様の事実」とは、
「三身四智の仏眼」の境界における認識。

更に、
「真生同盟」提唱者土屋観道上人への弁栄聖者のご教示として、

「キリストが此の世に出て説いたものが新約聖書となって、
それ以前のユダヤ教経典が旧約聖書となったように、
今後の宗教は光明主義経典を以て新約聖書となし、
従来の一切経をもって旧約となすべきである」

と(弁栄上人が)おっしゃったことが、今尚私の心に遺っています。」
「弁栄上人の思い出」『大悲に生きる 観道法話』)


徳本行者の御道詠には、
法然上人の御道詠同様、
浄土宗の伝統的な宗乗の枠を超えた
徳本行者の自内証が吐露されたお歌が幾つもあります。


〇 「口先で唯心己心をいふたとて
知らねば仏は十万奥土」


〇 「一心に南無阿弥陀仏をいふ時は
我が阿弥陀か阿弥陀が我か」


〇 「本地あらわす南無阿弥陀仏
いつも替らぬもとの姿を」


〇 「徳本は南無阿弥陀仏の異名にて
帰りて見れば主なりけり」



弁栄聖者の「仏々相念の讃」には、

「人仏牟尼は一向に 本仏弥陀を憶念し
本仏弥陀の霊徳は 牟尼の身意に顕現す
入我我入は神秘にて 三密正に冥合し
甚深不思議の感応は 是れ斯教の秘奥なり」

斯教とは、弁栄聖者提唱の光明主義


ここで、ふと思い出した逸話があります。

杉田善孝上人から、
この聖者の「仏々相念の讃」を聞かれた 数学者の岡潔博士

(岡潔博士) 「成仏しても他仏を拝むのですか?」
(杉田上人) 「はい、成仏しても、本仏大ミオヤを拝みます。」


一般に、浄土教において、
「真実の自己」とは、あまり耳にしませんが、
「真実の自己」の認識にも浅深があると云われています。

「 『臨済録』は、慧眼で体大法身と合一した時の如来の大我。
『瑜伽論』は、仏眼で体大法身と合一した時の如来の大我。
『光明主義』は、
三身四智の仏眼で法身の中心である絶対の報身と合一して、
その体大法身の最も深い部分、
法身の最も重要な面と合一した時の如来の大我。」

(『笹本戒浄上人全集 中巻』)


「我といふは絶対無限の大我なる
無量光寿の如来なりけり」(弁栄聖者)


「この我は真我のことで、
弁栄聖者の真精神の御教示では、
真我には、
"絶対の報身の最高最深の
いつも変わらぬあり通しの永遠の生命"と
"法身の粋である絶対の報身"の二義がある。」

戒浄上人は仰せられた。
(『「笹本戒浄上人伝」笹本戒浄上人全集 別巻』)


「絶対の報身が真実の自己でありながら、
お慕い申すと無限にお育て下さる。
故に唯一独尊の報身をお念じ申し、
お慕い申さざるを得ない。」

(『辨榮聖者 光明主義注解』)

弁栄聖者が三昧直観された、
釈尊、最晩年の善導大師、法然上人、徳本行者が、
外部には漏らされずに、
三昧証入され、示寂
された、
三身四智の仏眼の境界。
弁栄聖者の真精神、
"平等と差別に偏しない絶対中心の中道の念仏"。



 【西法寺】
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【須ヶ谷山 岩室山】
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それほど急な道ではありませんが、
麓から頂上までは、徒歩で二十分~三十分ほど登っていきます。
結構しんどいですから、
小型の車で、可能な限り登って行かれ、
そこから徒歩で行かれるることをお勧めします。

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徳本行者の弟子の尼僧、
「本名、本勇の墓」。

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徳本行者の或る尼僧救済に関する逸話。

「= 尼の色欲 =」(岡本鳳堂著『改訂再販 徳本行者』)によります。

徳本行者の弟子である尼が念仏修行中に、
色欲が頭をもたげ、念仏に集中できずに悩みに悩み、
とうとう意を決し、恥を忍んで師である徳本行者に相談されました。

徳本行者は、黙ってお聞きになり、
憐みのお顔をなさって、

「膝を、開きなされ。」といわれました。

よりによって師である徳本行者の前、
女の身、そんな恥ずかしことはできない。
ところが、徳本行者はしずかにお待ちになっています。
羞恥心と緊張のため膝が硬くなり、思うようになりません。
それでも徳本行者は威厳を整えお待ちになっています。
やっとのことで少し膝を開げることができました。
その時、徳本行者が、力のこもった「お十念」を授けられると、
電気のようにビリビリと肉体を走りました。
その後、尼には、再び色欲が起こりませんでした。


善導大師は言うに及ばず、
法然上人、弁栄聖者においても、
とでも想像出来ない生々しい徳本行者の御教化。

法然上人には、『一百四十五箇条問答』がありますが、
それはあくまで、言葉による問答。

弁栄聖者は、いわゆる"清僧"でありましたが、
私達が思い描きがちの"聖人"とは違っておりました。

笹本戒浄上人によりますと、

「 慧眼、法眼が開けた、三昧中に如来様を拝んだ。と申しましても、
温かい人間味の欠けた、
浮世の酸いも甘いも噛み分けないような三昧は雑念
であります。
弁栄上人は一生独身でいらっしゃいましたが、
夫婦の愛情の機微にも通じた
本当に人間味も豊かな大慈悲の聖者
でござんした。」
(笹本戒浄上人述 泉虎一記
『辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』)


また、杉田善孝上人は、
「弁栄聖者は、仲睦まじい夫婦関係の機微を、
大円鏡智によって、御存じでした。」

と、御教示されたことがありました。

なお、
(笹本戒浄上人述 泉虎一記
『辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』)は、
2018年(平成30年)9月に発刊
されました。

hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。
一冊二千円(送料別)。

この書は、「弁栄教学」の上からも極めて重要な書であり、
同じく極めて重要な書である
(『辨榮聖者 光明主義注解』)は、芦屋聖堂から発刊されていますが、
非常に高価で、とても重く、携帯には不向きです。


平澤伸一氏は、
笹本戒浄著『真実の自己』等の発刊者でもあります。
また、平澤氏は在家でありながら、自宅を解放され、
長年に渡り、定期的(毎月一回)に、念仏・勉強会を開催。
現在の光明会には幾つかの系譜がありますが、
平澤氏は、弁栄聖者→笹本戒浄上人→ 杉田善孝上人の系譜。

 
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同じく「蜜柑の産地」ということもありましょうか、
ふと、愛媛松山と似た風景を思い出しました。

この辺りの地域で、
徳本行者は、害虫退治のため、
また、古戦場の亡霊のための念仏廻向をされました。

もちろん、弁栄聖者も亡霊のための念仏廻向をされました。

なお、念仏廻向に関してですが、
田中木叉上人は、その働き方を、

〇 生者 → 死者
〇 生者 → 生者
〇 死者 → 生者
〇 死者 → 死者


と四通りに分けて御教示されています。


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『徳本行者行場跡』

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【徳本行者直筆之碑】
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「修行中における魔境」について、
徳本行者は次の如く御述懐されています。

「勇猛につとむるころは内外に魔鏡きそひ起りて、
こわいなるかな宿業にかと
身の毛もよだつばかり覚ゆる事屢ばなり、
この時更に心を動ぜずして
深く三宝に護念をこひ奉りて
いよいよ専心に勤修おこたる事なければ、
魔境次第に消滅してやがて安穏の場に至るなり。

さればすべての事一際の越えがたく忍び難き処にいたる時、
みずから励しいよいよつとむれば、
後々は任運にすすむものなりとぞ語られける。」



弁栄聖者も徳本行者同様の御教示があり、

「魔事といひ業相といひ、
三昧修養の不調より惹起すべき心的現象なり。」

(「三昧と魔事」『弁栄聖者光明体系 無対光』)
( 書籍はこちらで、 PDF版はこちら)

と喝破されております。

徳本行者の同郷紀州の明恵上人にも、
同様の御教示があります。


杉田善孝上人は、
「修行における魔境について」
次の如く御教示されています。

「如来様のお慈悲にもたれかかる修行をすると、
業相に耐える力がついた後に業相が出る、
というようにさせて頂く。
そうでないと、はじめから業相が出る、
または修行成就しかかると
自分の弱点に業相が出て修行が止まる、
というように魔境が起こる。」
と。

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だいぶ長くなりましたが、
もうしばしお願いいたします。


或人が「口先ばかりにて唱える念仏は益なし」
と言ったのを耳にされた徳本行者は、

「そな言ひそ。
人間にても業障深きものは決して念仏は申されず、
今口先ばかりにても念仏の申さるる人は
宿縁開発の人なりとぞの玉ひける。」


〇 「口先であみだ仏々いへばよい
心なくして言はれるものか」(徳本行者)


弁栄聖者は、
「米粒名号」を善巧方便として授け
られました。

「口があっても念仏が口に唱えられない。
米粒に書かれた南無阿弥陀仏を読み、口に出す、
その一言が仏縁となって、如来様のお救いにあずかる」
と。

また、
徳本行者の粉挽唄の一部に、

「極楽に望みなくとも南無あみだ仏
うわの空でも申しておきやれ
弥陀の大悲で三途におちぬ
遂にけまんにみちびくぞ
けまんつくれば浄土に往生」


「三生果遂の願」。

「一心にお念仏しておれば、
三代生れ変る間に必ず親様のお世継になれます。
これは事実でございます。
私は決してうそは申しません。」
(笹本戒浄上人の御教示)



小金の東漸寺、檀林寺院の貫首宣契大和尚が、
徳本行者自身の日課念仏の数を尋ねたのに対し、
「念々不捨に念仏昼夜しばしも間断なければ
日課を定むることなし」
と。

「念々不捨とは申せども
一食の間もなお間断あり、
況んや上人は平生念仏の御いとま、
説法に力を用ひ給うことなれば、
無間修の名は如何にや」
と重ねて問うと、

徳本行者は居住まいをあらためられ、
「吾は四才の時より無間修の行者なり。
たとへ聖徳太子には及ばずとも
念仏説法の両途を一時に勤むるに
何の難きことかあらん。
大和尚には未だ念仏の数の足らぬより、
かかる疑ひの生じ給えるなり」
と。
大和尚はその時、
徳本行者が実地の修行者であることに感服


弁栄聖者は人に念仏を勧めるのに、
ご自身では念仏を熱心に称えているようには見えない
のを、
率直に意見した信者に対し、

「弁栄は、昔は一日十万遍、
血尿が混じるほど念仏を称えたが、
今の方がよほど念仏している。
・・・行住座伏、寝息に至るまで念仏となっていた。」


また、
徳本行者には、病気平癒の念仏「服薬名号」の授与といった、
現世利益的側面があったことも、
当時"生き仏"として崇められた要因として、見逃せない点。

もっとも、"現世利益"には、多種多様な意味合いがあります。

ただし、医学、科学が現代ほど発達、普及もしておらず、
また、自然災害の影響が現代以上に甚大であった、
という江戸時代の状況も考慮する必要があると思われます。

弁栄聖者は、
「念仏に現世利益があるのは、当然である。」

とご自身の念仏体験上から、
当たり前の事実として、身近の者に漏らされたことがありました。

「産気づいた妊婦が、弁栄聖者の米粒名号を呑んだ後、
しばらくしてから生まれてきた赤ちゃんが、
聖者の米粒名号を握って生まれてきた。」


これは、明治、大正期の話。
何とも不可思議な現象ですが、このようなことが結構あったそうです。


福田行誡編著『徳本行者伝』に記されている、

〇 「内心慢心をいだき、徳本行者を見下しながら、
会いに来た者の心中を見抜き、度肝を抜かしたこと。」


〇 「翌日会いに来る者とその者の未来を予告されたこと。」


弁栄聖者においても、
この種の話は、日常茶飯事でした。

特に印象的な弁栄聖者随行者による逸話を一つ。

「笹本戒浄上人と田中木叉上人のお二人は、
弁栄聖者に面談される時、聖者のお部屋に入られず、
次の間で聖者に礼拝され、何も言わずに帰られました。


不思議に思い、その理由を木叉上人に聞かれましたが、
笑ってお答えになりませんでした※ので、
(※ おそらく、その理由を言っても信じてもらえないからと推察されます)
戒浄上人にお尋ねになると、
「覚者は、口に出して質問をしなくとも、
相手の質問をちゃんと分かっている。
口に出して質問せねば相手の考えていることが分からぬようでは、
覚者とは言えぬ。」と。


弁栄聖者の
三身四智の仏眼に依る大円鏡智の働き。

ただし、ここで、留意すべき大事な点があり、

「仏の完全な大円鏡智は、
特別に意志を働かさなくても、
肉眼といつも同一時に活動している。
認識的一切智を実現していられる仏は
大円鏡智で宇宙の一切を任運自在に感じていられる。

ただし、「宇宙の一切のこと」と申しても、それは、

成仏の中心道を直進する上で核心となり急所となるもの、
自行化他の道において尊く価値のあるもの、
一切の衆生を中心道に導く対機説法で有効適切なもの、
お互いの心を明るく清く楽しく豊かにするもの。

もしも、そのような意義深いもの以外のものまでも
朗々と感じているのであれば、
それは、真実の仏の円満な認識的一切智ではない」と。

( 『笹本戒浄上人伝』)

更に、
徳本行者の母堂がご覧になられた徳本行者の奇端。

「母堂ののたまひけるは、
まず謝し申すべきは上人は
毎朝時も違はで
御十念授け給はる事のうれしさよ。


朝毎に光明の中に
師の十念の姿を拝みまいらすなり。」


徳本行者の奇端話として、
さらっと読み飛ばしがちの箇所かもしれませんが、

弁栄聖者にも同種の逸話があり、
仏眼を得た聖者の自内証に依らねば、
理解の糸口が掴み難いかと思われます。

仏眼を体得されていた、
笹本戒浄上人によりますと、

「仏眼に依る"分身利物"の働きである」と。

"分身利物"とは、
『妙法蓮華経 観世音菩薩普門品 第二十五』に、
「観世音菩薩が三十三身を自由自在に示現する」
ことを説かれていますが、

これは、おとぎ話の類ではなく、

仏眼にも浅深があり、

「自得し玉へるさまおのづから経論の至理に符合せる」は、
仏眼、大円鏡智に依る認識力ですが、

大ミオヤにより、更に、霊育を頂きますと、
意志的方面が更に深く開発され、
如来妙観察智が分相応に応用可能となり、
分身利物の働きが分相応にできるようになる。

戒浄上人は御教示されています。

また、
同じく仏眼を体得されていた、
田中木叉上人は、

「人に如来様やお浄土を見せてやれる能力を得た人が仏眼である。」とも。
(冨川茂筆記『田中木叉上人 御法話聴書』)


浄土教においては、
伝統的に、阿弥陀如来の慈悲を全面に説きますが、
真実浄土門においては、
"三身即一の大ミオヤ"の慈悲と智慧の両面を説きます。

「師の自得し玉へるさまおのづから経論の至理に符合せるを」
と『徳本行者伝』に記されているように、
徳本行者が、生涯に渡り、一文不知のままであったかは、
疑問が残ります。


弁栄聖者が、よく本を読まれていたのを
随行者の佐々木為興上人が不思議に思われ、

「聖者は三昧発得していらっしゃって
何でも分かっていられるから、
本など読まれなくてもよいでしょうに」

と聖者に尋ねになったところ、

「いや、それはいけぬ。やはり本を読まぬといけぬ」
と言われたので、
「どういう訳ですか」
と重ねてお尋ねになると、

「それは、お念仏していれば
大宇宙の事柄が一切分かるようになる。
分かるけれどそれは観念的に分かるのだ。
書物を読むと書物に書いてある事柄と
自分の観念として得ている事とぴったりと合う。
認識にしようとすると思うと本を読まねばならぬ。
本を読む事によって認識となるのだ」

と聖者はお答えになられました。

笹本戒浄上人と弁栄聖者との間にも同様の問答があり、

「私も観念としては得ておるが、
認識的一切智では釈迦さんに及ばない。
この世界で認識的一切智を得ておられたのは
釈迦さんばかりだ」


とは、弁栄聖者の戒浄上人への御教示。

「肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼が円かでありませんと
円満な仏とは申されません。
弁栄上人様がそのようにお勉強なさいましたのは
肉眼※を得られるためであります。」

※ 肉眼には、五感と理性を含む。

また、

「認識的一切智のことをよく誤解しておられるようでござんすな。
一切智の代わりに法則の意味の知を用いて
認識的一切知として考えるとよろしゅうござんす。」
(笹本戒浄上人述 泉虎一記
『辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』)


とは、戒浄上人の極めて貴重な御教示。

(笹本戒浄上人述 泉虎一記
『辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』)
が、
2018年(平成30年)9月に発刊。

hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。
一冊二千円(送料別)。

また、
弁栄聖者は、
大ミオヤの「智慧と慈悲と威神」、
「神聖・正義・恩寵」を説かれていますが、

これも、従来の浄土教においてはあまり言わないことですが、
念仏による功徳として、自ずと具足されてくる威神力

徳本行者の念仏の姿を見て、
"剣の極意を悟った"剣豪白井亨の逸話も伝記に記されています。

これは、如来成所作智の働き。


如来四大智慧については、
三身四智の仏眼を体得された弁栄聖者の独自認識によるもので、
『弁栄聖者光明体系 無辺光』※に詳述されています。

(『弁栄聖者光明体系 無辺光』)。
( 書籍はこちらで、 PDF版はこちら)


「念仏に物憂き人は
無量の宝を失うべき人なり。
念仏にいさみある人は
無辺のさとりを開くべき人なり」(法然上人)



最後に、
徳本行者研究の必読書、福田行誡編著『徳本行者伝』についての留意点。

歴史書等一般に言えることですが、
それが書かれた動機、歴史的背景等の知識等の観点が不可欠。

「大基和尚略伝」(「浄土宗全書18」所収)によりますと、

同(文化)十一年の頃、
将軍文恭公日蓮宗を信し、浄風漸く振はす。
縁山典海大僧正深く之を憂ひ、
鸞洲上人に諮る。
上人答て曰、徳本行者盛徳非凡、今紀州に 在り。
宜しく當地に請して宗光の扇揚を図るへし」

典海による請待の背景には、
将軍家斉公の日蓮宗への傾倒があった
ようです。

なお、このことは、
福田行誡編著『徳本行者伝』には記されていません。

これは、
学術研究論考ともいうべきブログ

「徳本行者の生涯と思想」

に教えて頂きました。感謝いたします。

徳川政権の権力者の庇護下にあった浄土宗が、
"法然上人の純粋の精神のままに存続し得た"と考える方が無理があります。


なお、弾誓上人(1552~1613)と徳本行者(1758~1818)の
修行形態、権力者との関係等の違いには、
生まれ育った時代背景、すなわち、
江戸幕府による宗教政策等の影響も大きいと思われます。


弁栄聖者は、政治、伝統宗教の両権力を極力避けられました。

「信仰と宗教組織との関係」。

人類の永遠の課題かもしれません。


徳本行者の示寂後、200年経った現在においても、
徳本行者の信奉者がおられるのは、
弁栄聖者の場合も同様ですが、
念仏による"現当二世の利益"を民衆に感得せしめた、
念弥陀三昧力に依る奇端等が根幹にあることは確実です。

ただし、それだけではなく、
徳本行者においては、
「日課念仏の誓約」、「徳本名号札の授与」といった、
徳本行者ご自身との直接間接の関係があり、
「徳本講」という組織、
永年に朽ちることのない「徳本名号石」等も見落とせないと思われます。


長々とした拙文を最後までお読みいただき、
ありがとうございました。

この記事が、
徳本行者理解の一助になれば、ありがたく存じます。
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テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-09-09

「法然上人以来、徳本行者ほど内感豊かな念仏者は無い」(弁栄聖者)


【誕生院】
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この石碑は、
知恩院門主山下現有大僧正の揮毫。


和歌山県日高町にある「誕生院」

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徳川治宝公の書による扁額。

徳本行者は、1758年~1818年、
江戸期後期に活躍された”浄土宗捨世派”に属すると云われます。

弁栄聖者が、1859年~1920年ですら、
徳本行者は、聖者の100年程前にご生誕され、
聖者が御遷化される100年程前に御遷化された聖。
世寿が、奇しくもほぼ同年齢。

○ 「徳本行者のような悟りをお開きになったお方は古来ない。
その三昧は、深くして深かった。」


○ 「古来、三身四智の仏眼を体得」されていたのは、
釈尊→善導大師→法然上人→徳本行者である。」

とは、弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示であり、
弁栄聖者の「徳本行者観」

ここで真に興味深いのは、
三身四智の仏眼を体得された聖方の内、
徳本行者だけが「学のある者ではなかった」
という点です。

此処に、”徳本行者御出世の因縁”
即ち、”大ミオヤの深意”
を強く感じます。

弁栄聖者は、「大乗非仏説」に対して、

「大乗経典とは、
三昧定中における、”永遠の生き通しの大乗釈尊”による、
出世間の三昧を開かれた聖方への直説法である。」


と喝破されています。

”その生き証人こそ、正に徳本行者であった”ということです。

悟りにも浅深があり、
悟りは、知・情・意・感覚全面に関わりますので、
知的面での認識力と、
意志的側面での実行力(法力)に、浅深が生じ
ます。

「悟りの浅深とは、
大ミオヤに依る霊育程度(霊化)の差(しゃ)別。」


念の為ですが、
弁栄聖者の(神)仏身観に依りますと、
”大ミオヤ”とは、「超在一神的汎神」であり、
聖者が提唱された「光明主義」とは、
「超在一神的汎神教」故、
その悟りの内容は、宗派諸宗教を包超しています。

徳本行者の行状を、
浄土宗乗の枠に捕われずに丹念に検証されれば、
自ずと頷かれると思われます。

なお、
法然浄土教は「易行道」と云われています。
徳本行者は、「浄土宗捨世派」と云われており、
激烈な苦行修行とも云い得る”浄土宗捨世派の念仏者”である、
称念、弾誓、澄禅、忍澂、無能、関通、法岸、法洲、法道、以八、学信、穏冏、徳本、徳住
の各上人に於いて、
反って、”法然上人の念仏精神が真に生かされている”という逆説は、
一考に値する
と思われます。

「徳本行者の真骨頂は、
行者の説法ではなく、
徳本行者の行状(行住坐臥)と
和歌にこそ顕現」
していると推察されます。

ここで、
この記事における表記について、
一言お断りしておきたいと思います。

この記事においては、
「徳本行者」との表記を主とし、
「徳本上人」との表記は特別の場合に限っています。

「徳本行者」との「行者表記」の方が、
相応しいとの感触
によるものです。

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「木魚 伝 徳本所用」
徳本行者の念仏修行により、”叩き抜かれた木魚”

この画像では分りにくいですが、反対側も穴が開いています。
六ヶ年に及ぶ千津川落合谷での苦行の際のものと伝えられています。

弁栄聖者にも同様の”穴の開いた木魚”が、
千葉県松戸五香「善光寺」に残っていたと記憶しています。


また、「誕生院」には、『徳本上人絵伝』があります。


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「徳本上人念仏行場」

少年の頃、
友人に手伝ってもらい洞窟を造り、念仏行場としました。

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「徳本上人十念名号塔」
徳本行者の熱心な信奉者、兵庫の吉田喜平次氏達が建立。

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誕生院近くの徳本行者の御生家は、
現在残っていません。


【一行院】
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東京都文京区千石にある「一行院」
徳本行者が示寂の地。

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「徳本行者墓」

1818年10月6日、
「一行院」にて、御遷化。
世寿61齢。

なお、
「徳本行者異聞 八木季生」
(戸松啓真編代表『徳本行者全集第六巻』)
には、
徳本行者のお墓に関する代々の口伝が、初披露されています。

「徳本行者在世中、
自分の亡きあと百年以上経ったら
遺骨を掘り起こしてほしいということを、
秘に側近の弟子に言い残された」
と。

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徳本行者に関する必読書としての筆頭に挙げられるのは、
福田行誡編著『徳本行者伝 上・中・下之巻
附録 法弟小伝総目』


福田行誡編著『徳本行者伝』の基となった、
小石川「一行院」に所蔵されていた徳本行者の伝記六十余巻を、
弁栄聖者は、この一行院で、お読みになっていたようです。

予期せぬ悲劇が起こりました。
蔵に入っていたにも関わらず、惜しくも、
昭和20年5月25日夜半の東京大空襲により焼失。

ところが、幸いなことに、その写本が、
愛知県岡崎の「荒井山九品院」に伝えられていました。
和歌山「無量光寺」にも同筆、同体裁の写本が現存。
また、九品院本を底本として昭和34年に書写されたのが、”大正大学本”
なお、この大正大学本の写本には、
椎尾弁匡増上寺法主のご尽力がありました。

昭和55年には、
戸松啓真大正大学教授を中心とする
『徳本行者全集 全六巻』がめでたく刊行され、
九品院所蔵『徳本行者伝』を含む大部の徳本行者に関する著作が収録されました。

詳細なる解説については、
田中祥雄「解題 徳本行者全集全五巻書誌解説」
(戸松啓真編集代表『徳本行者全集 第六巻』)

をご参照ください。

なお、この全集の第六巻は、研究編で、
大変興味深く示唆に富む論考が多数ありますが、
特に、”徳本行者の悟りの内容(深さ)”に関する論考としては、
○ 「徳本行者の禅的性格 藤吉慈海」
○ 「徳本行者の宗教体験と念仏思想 ー聖と俗の間ー 峰島旭雄」

の両論考を、特にお勧めいたします。


第六巻の「あとがき」に、戸松教授は、

昭和四十八年であったか南紀に調査に行った時、
不自由な体で案内の役をかっていたゞいた
松田良信氏も今は故人である。
手をにぎり「たのんます」といわれ、
合掌して別れた思い出は、
思い出としてだけではおさまらなかった。」


思わず目頭が熱くなりました。

松田良信氏は、
弁栄聖者の直弟子中井弁常居士とも親交のあった、
徳本行者の篤信者にして、
「徳本行者奉讃会」の中心人物。


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【福田行誡上人(1809年~1888年)】

「徳本行者 伝 例言 九条」『徳本行者伝』によりますと、
行誡上人は、
小石川一行院にあった徳本行者の伝記六十余巻を基に、
三巻本として編著。

その際の編著方針がこの九条ですが、
”行誡上人により取捨選択がなされている”点は留意すべきです。

徳本行者の行状を具に検証するに於いて、
特に留意すべき事項としては、

○ 「事奇怪に互りて常人の疑を生ずべきものあり。 
かくの如きものはおほよそこれを省く。

ひそかにおもんみれば、師の一世の行履上中下の三等あり。
今の伝は其上と下とを省いて、しばらく中等に就てこれを記録す。
人の不信と軽謗を防がんがためなり。」
とあります。

おおよそこれを省く」とありますが、
行誡上人編著『徳本行者伝』にも、
現代人の眼には奇怪と思われるものが数多く含まれています。

徳本行者の伝記は、
何処が伝説で、何処が史実であるか、
現代人には、その判別が甚だ困難です。


また、行誡上人は、この例言九条の最後に、

○ 「・・・昔は仏世尊弟子のために神通を現ずることを呵し、
また異を顕し衆を惑はすことを誡め玉へり。
本伝をよまんものすべからくまづこれを知るべし。」

と釘を刺されています。

徳本行者の全貌を捉えるためには、
徳本行者のこの”奇怪さ”から眼を逸らしてはならず、

徳本行者の「行者性」、
その神秘性、不可解さ、怪しさを、如何に読み解くか

が、読者側に問われているように思われます。

「徳本行者の魅惑は、
その多くを「行者性」(神秘性、不可解さ、怪しさ)におっており、
徳本行者に接した者に、
念仏に依る”現当二世の利益(功徳)”の顕現(体現)を、
まざまざと感得せしめた点にあった。」


ここでは、
この心象だけを指摘するに留めます。

とはいえ、
福田行誡編著『徳本行者伝』は、
「三身四智の仏眼を体得」された徳本行者ならではの、
とても興味深く、同時に示唆に富む行状

が記されている箇所が幾つもあります。
その箇所を、是非記して置きたいのですが、
記事が長くなり過ぎますので、
今回は一点だけ記しておきます。

徳本行者は、
京都獅子谷「法然院」とはご縁が深く、
此の地で、それまでの行者風の”長髪長爪の異相”を改め、
江戸、小石川伝通院にて、宗戒両脈を相承。

上京の際には、ここ「法然院」に泊まられていました。

その頃典寿律師と云う優れた学僧がおられ、
或る時、徳本行者に、『華厳経』の大旨を講じられた時、

「律師の学解やや大菩薩の悟道にせまれり、
栂尾の明恵上人の再来にやなど、師ものたまえり。」


徳本行者は、学問が達者ではありませんでしたが、
難解な「華厳哲学」を理解されていました。
真に不可思議なことではありますが、
「念仏三昧発得」により、”大ミオヤの四大智慧”を頂かれていた
と考えるのが自然かと思われます。

ここで、、
鈴木大拙著『日本的霊性』における「妙好人」を、
思い浮かべる方が居られるかもしれません。

『華厳経』とは、
”仏眼を体得された大菩薩”がお説きになった「大乗経典」と云われています。

徳本行者は或る時、
難解な華厳哲学である”重々無尽の縁起”
目の前に流れる小川に即して、さらさらとお説きになったので、
徳本行者のご境涯(認識力)の深さに、
華厳の大学者が驚嘆されたことがありました。

杉田善孝上人が、この逸話を思い出されたからでしょうか、
数学者岡潔博士に、
「小川の流れを、数学的に説明できますか?」
と問うたところ、
「ハイ出来ます」
と数学的に見事に説いて下さったそうですが、
その内容は、残念ながら残っていないようです。

徳本行者は、
現代の「流体力学」の原理を御存じだったことになります。


さて、
田中木叉上人も『日本の光(弁栄上人伝)』における著述方針について、

なおちなみに記す。 
全篇にわたり各個人のうろ覚えの口述による資料は、
全国蒐集材料綜合判断上甲乙矛盾し、あるいは不確かなること往々あり。
史学研究法に準じて検討取捨の結果怪しきものは記載せず。
むしろ記載せざれざりし事により、
丁寧なる調査吟味を費したることをここに付記す。」
と。

この点に関して、
弁栄聖者の信奉者でもあった岡潔博士は、ご生前、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に関して、
「現代人の理性に配慮し過ぎている処がある。」
と洩らされたことがあったそうです。


ついでながら、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』の初版は、
昭和11年9月で、
木叉上人編纂の弁栄聖者の御遺稿『ミオヤの光』の発刊が、
昭和9年までかかったとはいえ、
弁栄聖者御遷化後、十五年程かかっています。
奇しくも、山本幹夫(空外)著『弁栄聖者の人格と宗教』の初版が、
同年昭和11年10月に発刊されています。
また、
この翌年、昭和12年7月には、
笹本戒浄上人がご遷化されています。


ここで、
福田行誡上人と弁栄聖者の関係について触れて置きたいと思います。

行誡上人と弁栄聖者の関係については、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に数ヶ所記載されていますので、
「明治期の名僧として知られた福田行誡上人程の方は、
さすがに弁栄聖者の真価を御存じだったのだ」

という程度の認識でした。

ところが、
この記事を書くにあたり、
行誡上人編著『徳本行者伝』並びに行誡上人ご自身に関する伝記、
更には、徳本行者に関する論考等を拝読していた時、

「徳本行者→(福田行誡上人→)弁栄聖者」

の系譜がふと頭を過ぎりました。

行誡上人の強い信念であった、
八宗兼学の精神」、「僧侶の戒律復興」を、
弁栄聖者が生きられたからというだけでは、
大切な何かが抜け落ちているように思えてなりません。

「行誡上人にとって弁栄聖者とは、
幼き日に出逢った徳本行者の再来だった」
のではないか。

田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、

○ 「当時の増上寺法主は徳望古今に秀でたる行誡和上で、
疾(つと)にこの青年沙弥の比なき法器に嘱望し、
爾来ずっと推称しておかなかった。」


○ 「明治二十一年浄土門主行誡和上は遷化さるる前に、
知恩院よりわざわざ法門付属のお墨付きをそえて
二十五の大衣を上人に送られた。」


この箇所を読まれた読者の中には、
俄かには信じ難いと思われる方もおられると思いますが、
田中木叉上人の弁栄聖者の御伝記の記述は、
史実を調べれば調べるほど、
真実、事実であることが史料等から裏付けられ、
木叉上人の”冷静で淡々とした筆致”に、
かえって驚かされることが多い
という印象をいだきます。

逆に、徳本行者に関する学者の論考等に、
「徳本行者と弁栄聖者の関係の指摘、記述が皆無に等しい。」
この現象は、反って、訝しく、不思議
です。

管見するところ、
「徳本行者と弁栄聖者との関係」を明確に指摘されているのは、
東京芝増上寺ご法主、八木季生台下のみ。」
(参考:「徳本行者異聞 八木季生」(戸松啓真編代表『徳本行者全集第六巻』))

なお、八木台下は、「一行院」の前住職で、
「一行院」には、
徳本行者のお近くに、弁栄聖者のお墓
もあります。

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行誡上人と弁栄聖者に関する記述を続けます。

「行誡上人御遷化の前
二十五条の袈裟を弁栄上人に附属し
態々送りし事を目撃せしが今いづこに在るものか、

行誡上人はその遺法伝持の任が弁栄上人にあることをしめしものにて
御墨付きも附き居たりしものなり。」
(「行誡上人の袈裟附属 館林善導寺主 塚田英亮師談」
『ミオヤの光』縮小版三巻249頁)


※ 参考文献:「館林市善導寺調査報告 新発見光明資料 27 
ひかり編集室 金田照教」 『ひかり』2018年8月号


これは、
金田照教( 香阿昭教‏ @ganyosyoukyou)氏のご教示によるものですが、
史料発掘として、大変貴重な発見であり、ご指摘。

行誡上人が遷化に際し、
弱い三十歳に満たないまだ年若い青年僧山崎弁栄に、
わざわざ二十五条袈裟を贈られている事実は、
大方の『福田行誡上人伝』において、
殆んど看過されている史実

ただし、
この「行誡上人のその遺法伝持」には、
行誡上人の幼き心眼に焼付いた、

「威貌堂々士庶敬服す。
音声枯渇すれども響き林谷に徹す。
婆心丁重にして聴く人感涙するに至る。」

徳本行者の面影
が彷彿とされ、
青年沙弥山崎弁栄の将来像と徳本行者が重なって
おられたと推察いたします。

「徳本行者の自内証の真髄は、
弁栄聖者の研究を通してこそ信解可能である。」

とさえ云い得るように思われます。


【荒井山九品院】
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愛知県岡崎にある「荒井山九品院」。

徳本行者の高弟、徳住上人の開基。

先述の小石川「一行院」に所蔵されていた徳本行者の伝記六十余巻の写本、
「九品院本」を所蔵。

おそらく、
未公開の徳本行者に関する本を所蔵されている可能性は大きいと思われます。

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「徳住上人の墓」

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本堂の裏手には、とても立派な、
「徳本上人の名号石」があります。

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近くには、
松平(徳川)家ゆかりの寺「大樹寺」があります。


【無量光寺】
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和歌山市内にある「無量光寺」

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先述の九品院本同様の写本を所蔵。

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「無量光寺の名号塔」
平成九年 徳本行者百八十回忌記念の大きな青銅の名号塔。
側面には、徳本行者のお歌が彫られています。

【徳本行者 辞世の句】
「南無阿弥陀仏生死輪廻の根を断たば
身をも命もおしむべきかは」



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「無量光寺の名号碑」

裏側には「仏子塚」とあります。
餓死者、病で亡くなった方々の遺骨がおさまっています。


【大雄寺】
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飛騨高山にある「大雄寺」

徳本行者の名号石は、日本各地に多数有りますが、
此処の名号石は、「日本一大きい」と云われ、
高さ4.5M(台座含むと6M)、幅1.3M。

徳本行者の筆跡は、とても独特ですが、
祐天上人の筆跡を模倣したものとも云われています。

昨年、2017年(平成29年)は、
徳本行者の200回忌(※1)でしたが、
祐天上人の300回忌(※2)でもありました。

また、祐天上人、徳本行者も、
江戸期に活躍され、当時の民衆は勿論、
将軍徳川家からの信もとても篤く、
正統的な浄土宗の枠内には収まり切らない不可思議さを持った御方。

なお、弁栄聖者は、
徳本行者は勿論、祐天上人とも不思議なご縁がありました。

「「出家したいなあ」とおもいながら、
棹をとってたちあがれば、
薄くらがりの水に浮ぶ一冊の本、
拾えば奇縁、それは祐天上人の伝記であった。」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)


(※1) 有田市郷土資料館特別展図録
『念仏行者徳本 ー200回忌記念ー』
発刊。

(※2) 祐天上人300回忌を記念して、
『祐天上人の名号石塔』を発刊。

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今回は取り上げませんでしたが、
和歌山県内で、徳本行者ゆかりの地は他にもまだあり、
主だった処を列挙しますと、

○ 「往生寺」:大円上人について得度。
○ 「月照寺」:大滝川、大良上人につき、本格的な念仏三昧修行に入る。
○ 「尊光寺」:六年の苦行地「千津川」落合谷」
○ 「西方寺」: 「岩室山」、有田市宮原町の修行地。


などがあります。

徳本行者に関する本は現在入手し難いかもしれませんが、
幾つかの参考文献を挙げておきますので、
徳本行者とのご縁の一助になれば真に幸いです。

○ 福田行誡編著『徳本行者伝』
○ 戸松啓真編集代表『徳本行者全集 全六巻』
○ 松田良信発行『徳本行者傳』
○ 松田良信編著『徳本行者 言葉の末』
○ 八木季生発行『徳本行者傳 全』
○ 岡本鳳堂著 『改訂再版 徳本行者』

○ 中野善英著『徳本行者』
○ 井上豊太郎著『念仏大行者徳本上人傳』
○ 塩路善澄著『徳本行者を慕いてー郷土での足跡』
○ 有田市郷土資料館特別展図録
『念仏行者徳本 ー200回忌記念ー』

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-08-06

「南葵光明会」創始者、中井弁常居士による弁栄聖者の御法話「聞き書き」等


前回は、
中井常次郎(弁常)居士による弁栄聖者の想い出、
弁常居士と「南葵光明会」及び「弘龍庵」等について書きました。

大正8年9月(※)に、
弁常居士は、弁栄聖者に出逢われ、
最晩年の聖者のお別時、御法話会等に可能な限り参加され、
その時の貴重な「聞き書き」、聖者の行状等を遺して下さいました。
※ 聖者の御遷化は、大正9年12月。

もちろん、聖者の御教え、行状等は、
田中木叉上人がご編纂された『弁栄聖者 光明体系』等、
木叉上人著『日本の光(弁栄上人伝)』等によって、
知ることができます。

中井弁常居士の記録は、
弁栄聖者の最晩年の御法話記録、行状等であり、
また、聖者にお逢いされた直接ご本人の記録であるだけに、
およそ百年前の出来事でありながら、
当時の出来事が、臨場感をもって感じることができるように思われます。

引用には、
引用者の境涯、思想・信条、理解力が如実に露呈
しますので、
畏れ多いことではありますが、
中井弁常居士の弁栄聖者に係る記録はとても貴重であり、
有益な点が多いと思われます。

そこで、今回は、
弁常居士著『乳房のひととせ(上巻)』(昭和三十六年刊)と、
弁常居士著『乳房のひととせ(下巻)』(昭和十八年行)に依り、
弁栄聖者の御法話記録、行状等で、
特に印象に残った箇所を記して置きたいと思います。

なお、本書の主要な記録が、
「一般財団法人 光明会」のHPにアップされています。

また、中井常次郎(弁常居士)著『如来光明礼拝儀講義』
(増補改訂第四版(初版は昭和16年6月))が、平成30年4月に出版されました。


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 【大正9年10月 弁栄聖者 61歳】
 (「勢至堂の念仏三昧会」、京都市知恩院勢至堂前石段の下にて)
 ※ 二列目、向かって右側の御婦人(藤堂クラ氏)に抱かれている子供は、藤堂恭俊師。


【「念仏」に係る弁栄聖者の御教示】

○ 「念仏三昧、見仏三昧の成就をめざして別時をつとめよ。」

○ 「如来は智慧であり、同時に姿である。
弥陀の身心は法界に遍満す。
・・・念仏すれば、如来は真正面に現はれ給ふ。
けれども或る衆生には、仏の在す事が解らぬ。
三昧の鍵を以て浄土の門を開け。」


○ 「活きてまします如来様が、
今、わが真正面に在す事を信ぜよ。
これを仰信と云う。」


○ 「初めは、肉眼で、まことの仏が拝まれぬから、
画像を掲げて、如来様を思ひ上げるのである。」


○ 「初めは、仏の御姿は拝めない。
それでよい。心に帰命の思ひが起ればよい。
南無阿弥陀仏と称へて、帰命すれば、
仏様は我が心に宿つて下さる。」


○ 「如来を尊く思へば、思ふほどよろしい。
無上の尊敬を献げる事によって、距りができ、
愛によつて、如来を離れぬ。
この二つが調和を得る事が大切である。」


○ 「仰信は初歩であつて終りである。
この中にねうちが有る。
ま受けすれば、十分なる力が与へられる。
仰信から解信、証信と進むのであるが、
証を得るのは一部分である。
一分の証を得てから初めて仰信に帰るのである。」


○ 「如来を愛するは、霊性より来る。
これは最高の愛である。」


○ 「聖徳太子の念仏法語に、
念仏は情に在りて、理に非ず。」

○ 「浄土教は、聖道のやうに、理屈は云はぬが、如来を慕はせる。
これは浅いやうに見えるけれども、
深く仏心に入り、徹底した、最も深い悟りを得る法である。

如来の相好は、慈悲の現れである。
仏のみ姿拝む者は、仏のみ心を見奉る。
如来を見奉れば、慈悲の心は自ら湧き出でる。」
※ 「大原談義に曰く
人をして欣慕(ごんも)せしむる法門は暫らく浅近に似たれども
自然悟道の密意は極めて是深奥なりと。」


○ 「我はただ仏にいつか葵草
心のつまにかけぬ日ぞなき(法然上人)

法に念仏と見仏と観仏と有るが、
此の歌は念仏を詠んだものである。
観仏は理性を鎮め、心を澄まして仏を映す法である。
念仏は感情的に如来を念(おも)ふて救はれる法である。
親子の情を進ませる処に念仏の温味(あたたかみ)がある。
理性を澄ます観仏には温味が無い。」


○ 「観音さまは念仏行者の模範である。
宝冠に阿弥陀如来を戴いているのは、
常に仏を念じて忘れぬことを示されているのである。」


○ 「見仏は帰命の信念に依るもので有つて、
観仏と違ふ。
口に称名するとも、乱想起らば徒ら事である。」


○ 「念仏三昧とは、仏思ひの心を常とし、
仏と自分とを一つにする事である。
口に仏名を称へても、心が仏を離れては念仏三昧でない。
念仏中に悪い思ひを起こせば、悪人になる。
良くない事を考へながら念仏のまねをしてはいけません。」


○ 「称名の音声に功徳あるのではない。
称名念仏とは、み名を称えて救いを求める事である。」


○ 「真宗では、南無阿弥陀仏の文字に功徳ありと云ふが、
そうではない。
如来は現に、ここに在して、
吾等がその御名を呼べば聞いて下さるから有難いのである。
善導大師は「衆生、行を起こして、
口に仏を称すれば、仏之を聞き給ひ
乃至意に仏を念ずれば、仏之を知り給ひ、
衆生仏を憶念すれば、仏も亦、衆生を憶念し給ふ」
と云つて居られる。
絶対なる法界は、時間、空間に障りなし。」


○ 「本当の仏壇は、各人の宮殿内に安置しておかねばなりません。
家の仏壇を金銀で飾りより、
心の宮を荘厳するように心がけねばなりません。」



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  【大正9年10月 弁栄聖者 61歳】
 (京都市知恩院勢至堂に於ける別時念仏三昧会の記念写真の拡大写真
  弁栄聖者のお写真としてよく知られる写真の原版は、この写真)


【「大ミオヤによる霊育過程」に係る弁栄聖者の御教示】

○ 「光明主義は南無の二面即ち
救我と度我の二つを完備して居る。
・・・真宗の欠点は、度我の願ひの少い事である。
度我に就ては、真宗は如来に任せ切りである。」


○ 「如来の世嗣となるには、
娑婆に在る間に、其の資格を作つて置かねばならぬ。
・・・娑婆では心が研け易い。
・・・念仏して、心が研けると、霊性が有る事が知れる。」


○ 「宗教の宗教目的は、人格の完成即ち成仏である。」

○ 「雑念を起こすまいとすれば、益々起こるものであるが、
それに捕われぬやうにせよ。
妄念が起こる度に、根気よく振り捨てて、
仏おもひの心を起こして居れば、
だんだんと妄念が薄らぎ、奥の心が現はれて来る。
太陽の光よりも強い光明を見る。
その光に因つて心は清められる。」


○ 「霊の実を結ぶ高等な信仰は、
米を作るやうに育てねばならぬ。」


○ 「急に心の花が咲くものでない。
常恒不断に念仏して、お育てを蒙らねばならぬ。」


○ 「闇消えて、日出づるに非ず。
太陽出でゝ闇去るのである。
・・・如来の光明に遇ふから、罪消えるのである。
病気を治してから入院すると云ふのは、まちがひである。
大病なる故に入院して治して貰ふのである。
これが光明主義である。」

※ (註) 田中木叉上人の御法話に、「念仏病院」とのご教示あり。

○ 「欲は必ずしも悪いものではない。
霊化とは有害なる欲を有益にする事である。」


○ 「習慣→必需→病的→悪弊症
これらの悪弊症を除くには、それに代はる良きものを与えるのがよい。
一心に念仏すれば、生まれつきの汚れが除かれて、
自然に善い性が現はれて来る。」


○ 「霊化の度が大きくなれば抜苦与楽の功徳も深くなり、
善行力も大きくなる。」


○ 「拝む如来は大きくとも、小さくとも、
絶対(宇宙精神)より現はれて下さるのであるから、
絶対に信頼すべきである。」


○ (弁常居士)
「「きよきみ国」のお歌に「日々に六度の花の雨」と有りますが」
(弁栄聖者)
「阿弥陀経に説かれてある浄土は真実である。
三昧が進むと、華の雨が降る。この世の花とは、少しちがふ。
三昧にはいれぬのは、心が汚れて居るからだ。
念仏により、心が浄化されると、浄土や仏様が見えて来る。
信仰の進むに連れて、如来は限りなく大きく現はれる。」

※ (註) 笹本戒浄上人の「お浄土の音楽」についてのご教示。
「お浄土の旋律は娑婆の音楽とは違う。
『聖意の現はれ』は、お浄土の旋律を表わしたものだ。」


○ 「光明主義は実感の上に立って居る。」

○ 「五(読拝・礼拝・観察・称名・讃嘆供養)正行
これは喚起、開発、体現に通ず。」



【「弥陀の本願」に係る弁栄聖者の御教示】

○ 「弥陀の本願とは、
宇宙現象の終局目的とする摂取の光明に、
吾等が照らされ育まるゝ本然の理を、
人格的に見、具体化して名付けたものである。
故に本願は四十八ヶ条に限つた事ではない。」


○ 「第十八願 如来の願は
衆生に親の如く円満なる徳を譲りたいと云ふ事である。」



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【大正9年7月(弁栄聖者 61歳)
 横浜市久賀医学博士宅にて(弁常居士撮影)】

※ この写真の裏に聖者の和歌あり
「誰もみな同じ地水のかり物を
など辨栄と名ずけたりけん」



【「戒律」に係る弁栄聖者の御教示】

○ 「最も重い罪は、己が仏性を殺す事である。
即ち成仏せぬのが最も大きな罪である。
吾々は仏性を育てるために生かされて居る事を知らねばならぬ。」


○ 「殺生戒は生物に限らず、
機械、器具の如き物までも生かして使ふ事である。
水でも無駄使ひをしてはならぬ。」


○ 「有漏とは肉の心、無漏とは聖き霊なる心である。」
※ (註) 「肉の心」とは、
弁栄聖者の笹本戒浄上人のみへのご教示と理解していましたが、
それは、誤解でした。

○ 「肉体に衣食住の必要ある様に、
心の上にも、これが必要である。
信仰の人となれば、如来より、
清浄無垢の衣、法喜禅悦の食、
光明心殿の住居が与へられる。」


○ 「「神通は難化の衆生を度すために使つて良いが、
徒に凡俗に示すのは沙門のすべき事ではない。
木鉢のために神通を現はし人々の歓心を買ふ如きは、
賤むべき事である」と(釈尊は)誡められた。」

※ (註) 弁常居士は科学者でもあったため、
「神通」なるものを、当初全くの空事と考えていましたが、
弁栄聖者の御遷化の後、しばらくして、自身の認識力の浅さを認められました。


【「仏身論」に係る弁栄聖者の御教示」】

○ 「十二光仏を研究すれば、宇宙は活ける霊体なる事が解る。
大乗仏教は釈尊が霊性によつて宇宙を見た実感を伝えたものである。」


○ 「経文の文字の解釈が解つただけでは、
その心が読めたとは云はれぬ。
宇宙全体が活きた経文である。
それを仏眼で見たまゝを書いたのが文字の経文である。」


○ 「西方極楽
西とは方向の義ではなく、終局といふ意である。
十萬億土とは、距りの遠さを云ふにあらずして、
佛と凡夫との差を意味する。」


○ 「キリスト教に新教と旧教とあるやうに、
仏教にも、之れと似た事がある。
法蔵仏、西方十萬億土を過ぎたる彼岸にある浄土等は旧教にて、
釈迦正覚、娑婆即寂光は新教である。
釈迦を肉眼で見れば人間であるが、
仏眼を以て見れば阿弥陀仏である。」


○ 「人間の身体は大み親の霊体に似て居るから、
人体を美の極みだと美術家は歎美する。
・・・仏身は生理的の身に非ずして、霊妙なる身である。」

※ (註) 「生物進化の結果、私共人間の姿も如来様の御姿に似てまいりました。」
と笹本戒浄上人は別時念仏の際に云われました。
戒浄上人は、弁常居士のこの本の此処の箇所を示して、
「これは如来様の事実です」とご教示下されました。
(参照: 「凡聖の巻」『弁栄聖者 光明主義注解』 )

○ 「ここの処(礼拝儀を指して)を
「摂化せられしをわり(終局)には」と書き替えよと仰せられた。
説法中にご注意下さったから、記しておく。」


大正9年3月 知恩院勢至堂別時中でのこと。
※ (註) 『如来光明礼拝儀』のこの「無対光」の箇所は、
改訂前は、『摂化せられし人は皆』となっていましたが、
誤解を起こさぬようにとのご配慮から、
弁栄聖者御遷化後に、
笹本戒浄上人の校訂の後、現形のものに改訂されました。
なお、
事情は分りませんが、
土屋観道上人創設の、
「観智院(真生同盟)」では、
この「無対光」の箇所が、改訂前の文言となっています。

○ 「往生浄土に二つの意味がある。
大原談義に往生に「かわる」と云ふ訓がある。
即ち往生とは弥陀の光明中に生れかわる事である。」


○ 「仏の本体は浄土に在つて、分身を娑婆に出す。」
※ (註) 「無余即無住処涅槃=成仏」即ち「往相還相」に関する弁栄聖者の真意」

○ 「今は、これを述べない。
(筆者が上人に「妙観察智が抜けました」
と申し上げたのに対し、上の如く、お答えになつた。
御遷化後、聞いた事であるが、
妙観察智は奥伝として、
一般人に説かぬ方針であつたそうである。)」



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 【大正9年6月 弁栄聖者61歳】
 (京都市恒村医院内、茶室の間にて
 中井夫妻、恒村夫妻、徳永あい子、谷安三、鈴木憲栄各氏と共に)


【弁栄聖者の行状】に係る中井常弁居士による逸話

○ 「弁栄上人のお話は、
聞いて居ると、もどかしい
けれども、
書き留めて味へば、慈味尽きず、齢と共に光を増す思ひがする。
その一言一言が、胸に響き、膽に滲み、
啓蒙、恐縮、驚嘆、信頼、帰依、敬慕の情が油然として湧いて来る。」

※ (註) 「伝道とは饒舌に喋ることではない。
心の内にはたらくものが相手にはたらくこと。
故に弁栄聖者は「伝燈」とも云われた。」(田中木叉上人)


○ 「私共が争ひやいたづらなどするのを見られても、
だまつて居られる事が多かった。
良くない事やまちがいを申上げても、
頭からしかつたり否定されず、「それでも宜しい」と云はれた。
それで私共は、この「でも」を頂けば「いけない」のだと心得て居た。」


弁栄聖者の御教えの解釈を巡って、
弁常居士柴武三氏が議論をしていましたが、
互いに自分の解釈の正しさを主張し譲らず、
その結着を弁栄聖者に仰がれた時のこと。

弁栄聖者は机の上の茶碗の中のお茶を呑み干して、二人の前に差出され、
「エーこの茶碗をコー出せば裏の糸底の方でしょう、エー、こう出せば上の方ですね、
同じ話を同じ人から伺っても糸底の方を差出した方はほんの少ししかいただけませんね。
上の方を御出しになった方は沢山いただきなさいますね。
同じ御話を伺っても
その受ける人に依って大変な差が生じます。
同じ器を差出していただくのに、
糸底の方でいただかないようにせねばいけませんね。」
と仰言ってホホホとお笑いになりました。


結局、その時の議論の結着はつかず、
二人は互に、君は糸底ばかり差出しているから
十二分に聖者の御真意をいただくのが少ないのだと、
笑って引き下がったことがありました。

○ 「仏とは自覚ある大常識者である。(弁栄聖者)」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

当時、弁栄聖者が蓄えられたかなりのお金を使い込んでしまった者が、
なかなか非を認めようとしなかったので、
「その者を、警察に訴えるように。」
と、聖者が指示された
事件がありました。

聖者の信者達が、「聖者としてはあまりにも無慈悲である」と感じながらも、
その旨をその者に伝えると、
その者は涙を流して、反省の意を表したので、
かわいそうに思い、聖者の指示に反して、許してしまいました。

その者は、また同じ罪を続けたそうです。

後日、弁栄聖者は、
その者が、その時、涙を流して反省の意を表わしたのは、嘘ではないであろう。
しかし、意志弱く、また、同じ罪を犯してしまう。
自分の力では矯正できない者のために(本人に代わって)、
監獄があるのである。」

との弁栄聖者の透徹した「大常識」の一喝を受け、
信者達は、深く納得し、反省されたことがありました。

※ 以下は、この逸話に関連した、
示唆に富む別の逸話でありますので、併せて記します。

笹本戒浄上人に関するもの。

聖者同様に自分の財産を使用人に使い込まれた(盗まれた)戒浄上人の信奉者は、
その者を「警察に訴え」ようと、戒浄上人に相談されたところ、

予期に反し、戒浄上人は、「お止めない」と制止されました。

弁栄聖者のこの逸話をご存じであったその信者は、
はなはだ承服し難い面もちで、戒浄上人に、

「弁栄上人も、警察に訴えたではないですか」と反駁。

それに対し、戒浄上人が、一言。
「弁栄上人と貴方とでは、境地が違います」と仰った。

蛇足で恐縮ですが、
もちろん、戒浄上人は、この信者を貶しているのではありません。

聖者の行為は、一見無慈悲とみえながらも、「大慈悲の発露」
それに反し、この信者(一般に私達)の行為は、
聖者と表面上は似ていたとしても、通常、その発露は、「私憤」から

更に、もう一つ。

 弁栄聖者ご在世当時、
信者同志の間で、世間的にも非難される事態が起こりました。

その事態を知った信者が光明会の事を心配し、
田中木叉上人にその者に注意するように強く要請しました。

思い余った木叉上人は、
「注意をしたものでしょうか」と弁栄聖者にお尋ねになりました。
すると、
「注意をするな」と、聖者の意外なご指示

木叉上人は、こんなことは倫理的にも許されることではない。
弁栄聖者の真意が量り難いと思い、
念のために、聖者に再確認
されますと、

「いやそうではない。
如来様が付いていて下さるから、詣って念仏さえしておれば」


と、聖者から大説法をたまわったとのこと。

この件の後日談を記しますと、

しばらく後に、
「一日三千礼の懺悔念仏をして」、キッパリと互いに手を切ったそうです。

「もしも、自分が注意をしていたら、
その者はキッパリ来なくなり、(念仏とも会とも)縁が切れてしまう。
そうすると、このような事態でありうる最悪の事態を招いていたかもしれぬ。」

と木叉上人は反省されたそうです。

木叉上人が弁栄聖者に邂逅してまだ僅かの時でありましたが、
聖者の「衆生済度の力量」を印象付けられた事件であったそうです。

○ 「元気な若僧でも(弁栄上人の)お供をすると一週間は続かず、
逃げ口上を作つて逃避すると云ふ事である。
ほとうに、そうだと思つた。」

※ (註) 波多野諦道上人は、弁栄聖者を”不断光の権化”と云われました。


最後に、記して置きたい事が幾つかあります。

弁常居士が、
武者小路実篤氏を弁栄聖者に会せようとされたようですが、
タイミングが合わず、実現しませんでした。

中井弁常居士とご縁のあった、
同郷和歌山の松田良信氏は、
徳本行者奉賛会を主宰された、
徳本行者の篤信者として知られた御方。

「仏々相念」とでも云うのでしょうか、
弁栄聖者は、徳本行者を殊のほか尊敬され、
「法然上人以来、徳本行者ほど内感豊かな念仏者は無い」と。


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 【大正5年 弁栄聖者56歳】
 (聖者右側(向かって左側)の御夫人が、籠島咲子夫人。

中井弁常居士の信仰に大きな影響を与えられた御方で、
「生ける観音」とも云われ、
弁栄聖者から「妹 咲子」とさえ云われていた、
越後柏崎、極楽寺の籠島咲子夫人。

弁栄聖者は、大正9年12月に、その極楽寺で御遷化。
「うちに帰って、病つて良かった」
と咲子夫人に云われたとのこと。

咲子夫人は、大正2年に、弁栄聖者に邂逅され、
それ以来、折に触れ、聖者の御教化によって、
仏眼まで開かれたと云われた在家で、
聖者とは、心霊界で浅からぬ御因縁の在った御方。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-07-01

和歌山県、御坊市「南葵光明会」及び日高郡印南町「弘龍庵」


和歌山には、
型破りで、個性的な人物が出る様に思われます。

【高野山】
弘法大師空海(出身は香川):真言宗の宗祖、高野山の開山
興教大師覚鑁(出身は肥前):真言宗の中興の祖、「密厳浄土」を説く。
土宜法龍(出身は尾張):南方熊楠と長年の交流があり、
明治26年(1893年)、シカゴ開催の「万国宗教会議」に日本代表として出席。

明恵上人:華厳宗中興の祖、鎌倉期の高僧
紀伊国屋文左衛門:江戸元禄期の商人
徳本行者:江戸期後期、「捨世派」念仏の大行者
華岡青洲:全身麻酔手術の先駆者
南方熊楠「南方曼荼羅(マンダラ)」としても知られ、
粘菌学者、博物学者、民俗学創始者の一人等、破格の人物
岡 潔:世界的な数学者、思想家
松下幸之助:別称「経営の神様」
植芝盛平:合気道の創始者

 
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「南葵光明会」
現在は、和歌山県御坊市塩野町、
北塩野交差点近くの道路沿いに移転されています。

創始者は、中井常次郎(弁常)居士。

平成30年4月に、
「光明主義文献刊行会」から、
増補改訂第四版として、
格段に読みやすくなった、
(カタカナ表記→ひらがな表記に改訂)、
中井常次郎著『如来光明礼拝儀講義』が、
出版されました。


ふと思い出しましたので、記しておきたいと思います。

2018年(平成30年)4月に発刊されました、
山崎弁栄著『人生の帰趣』(岩波文庫版)

この書の口絵は、
弁栄聖人画「親縁の図」で、
弁栄聖者にとって重要な画題ですが、
大正十二年発刊の初版、
弁栄聖人御遺稿集『人生の帰趣』の口絵
は、
大正九年六月に、中井弁常居士が、
「紙で観音さまを書いて頂きたい。
人がそれを見て信心を発すようにして頂きたい」

と聖者に依頼され、画いていただいた「瀧見の観音様」

その聖者の賛には、
「墨に画に写せる瀧の音にだに
甚深微妙般若波羅密」


ついでながら、
弁栄聖者の『御遺稿集』、『光明体系』、『如来光明礼拝儀』等でもそうなのですが、
同種の本でも版によって、
聖者の写真、墨書等が異なる
ことがよくあります。

昭和39年増補第四版の平成2年復刻版、
聖堂発行の『弁栄聖者光明体系 人生の帰趣(増補版)』は、
初版、第三版の増補版の口絵とは異なり、
昭和六年第三版(増補版)の、
昭和50年復刻版(発行者 河波昌)、
『弁栄聖者遺稿集 人生の帰趣(増補版)』
は、
「瀧見の観音様」ですが、
初版の物とは違い、聖者の賛も異なります。

なお、
『弁栄聖者遺稿集 人生の帰趣』の初版の口絵。
聖者が中井弁常居士に画かれた「瀧見の観音様」の複製版を、
弁常居士の同郷和歌山の池田和夫氏が、
弁常居士への報恩として、
以前、限定版として作成されたことがあったようです。


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今回の記事は、主として、
「中井弁常居士伝記」(池田和夫著『永遠之光』)を参照しています。

池田氏は、現在、89歳。

「南葵光明会」の代表役員。
昭和22年(1947年)、松山高校の図書館で、
中井居士著『恋愛と宗教』をご覧になり、
居士宅を訪問されましたが、
惜しくも、居士ご逝去の翌年でした。

中井弁常居士は、池田氏の同郷和歌山の方で、因縁もありました。
氏の実際的な光明会の恩師は、京都大学在学中にお世話になった、
京都の医師恒村夏山師。
弁常居士と恒村師は、光明主義の同志。

なお、池田氏の出身校、愛媛の松山高校は、
伊予松山の「大林寺」とゆかりが深く、

「松山光明会」の生み、育ての親、
大嶋玄瑞上人と、
垣本都夫人がおられました。

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【中井常次郎(弁常)居士(1888年~1946年) 】

中井常次郎(弁常)居士は、
西本願寺の門徒で、代々信仰の篤い、浄土真宗の念仏者の家庭の二男。

大正二年、東京帝国大学工学部機械科を卒業
大正六年、京都帝国大学工学部機械科講師

自然科学を研究するうちに、
「浄土が西方にある」
という浄土教の教えに疑義が生じ
ていた。

そんな折、
大正八年六月に長男を亡くされたこともありましょうか、
”不思議なご縁で”友人となった、医師恒村夏山氏から、

「弁栄上人という
いつも仏様を見奉り、そのみ声を聞き、
みむねのままに各地に念仏を勤めておられる出家がいる。
参加しよう」
との誘いを受けました。

「そんな迷信」と取り合いませんでしたが、
恒村氏の再三の誘いに、ついに断り切れず、

大正八年九月(弁栄聖者のご遷化は大正九年十二月):
中川弘道上人と恒村夫婦と四人で、
中井氏は、「弁栄上人の顔を見るため」にうかがい、
大阪の法蔵寺で、初めて聖者にお目にかかりました。

聖者のお部屋に通され待っていますと、
本堂でのお務めが終り、
聖者がほどなく襖を開けて、入って来られました。

中井氏は、頭を垂れて聖者に敬意を表していたため、
聖者のお顔を拝むことが出来なかったのですが、

「おくんの裾のさばきいとしとやかに
我らの前にお座りなったのを見ただけで、
はや霊感に打たれた。」


感激のあまり、一人想いに耽っていたところ、

「中井さん、何か聞くことはありませんか」
と聖者から言葉をかけられましたが、
「自分は、顔を見るために来た」のだからと、
「何もありません」と答えられました。

すると、弁栄聖者は
「生きてまします仏様が・・・。
大宇宙そのままが・・・
今現に、此処に在します親様を・・・」

と布団を跡にして、
仏身論を、又信仰と念仏の心について説かれました。

それこそ、今まで聞きたいと願っていた信仰問題との主な事柄であり、
今まで聞いた事のない新しい有難い説法でありました。


「宇宙を我がものとなさい。心を宇宙と等しくするように」
弁栄聖者との初対面の日、別れ際の聖者の言葉でした。
聖者の御遷化の後、しばらく経って、
弁常居士は、この聖者のお言葉が有難く頂けてきたそうです。


中川弘道上人のお計らいで、
大正八年十月:弁栄聖者との再会の機会を得。

中井氏は、その日は、授業中でしたが、
宿題を出し、休講にしてまで、人力車で駆けつけました。

その時の聖者の御説法の主要点は次のとおり。

○ 「仏説はどんな人でも信仰に入れるように、
人に応じて、神話的に、歴史的に感情的(救済的)に、
論理的に、実感的に説かれている。
それ故、誰でも自分に相応しい教えによれば信仰に入ることができる。」


○ 「極楽は西に限ったことはない。
仏眼をもって見れば、此処もお浄土である。」


○ 「法蔵菩薩が四十八願を発し修業の結果、
阿弥陀様になったというのは神話である。」


○ 「文字のままではいけない。経文の精神を取らねばならない。」

○ 「我々は仏となる種を持っている。
それを育て磨きあげればよい。」


○ 「浄土は想像即実現の世界であって、
仏土は(如来)成所作智の現れである。」


このようになるには、至心に念仏せねばなりません。


その後、
大正九年一月
横浜光明会開催の弁栄聖者ご指導のお別時に初参加。

お別時中、父危篤の連絡を受け帰省するも、
直ぐにお別時に戻られました。

「助け給えという念仏ではなく、
感謝の念仏、報恩の生活を実感し、
真宗にご縁のあったことを喜び」


そのことを、土屋観道上人にお話ししたところ、

「それはまだ至らぬ考えです。
大慈悲の光明に育てられ如来の威徳を満月のように受け、
衆生済度の働きをさせていただきたい
との大願を起こさねばなりません」

と諭されました。

引き続き、
神奈川県の当麻山無量光寺での授戒会に参加するため、
弁栄聖者にお供しました。

駅で汽車を待っている間も、聖者は、
「礼拝儀は一切経を縮めたものであるから」
と、礼拝儀によって話されました。

当麻山無量光寺に夜に着き、
就寝の際、弁栄聖者の側で寝ることになりました。
ところが、聖者にご挨拶を忘れたことに気付き、
床の中で頭を下げますと、
聖者は夜具の中から、
お慈悲溢れる御まなこを輝かせ、
中井氏をご覧になっていらっしゃって、
「あなたは法蔵寺で霊感に打たれたようで有ったが、
今、大分顔はやさしくなりました」

と一言仰られました。

ある朝、中井氏は弁栄聖者に、

「初め法蔵寺でお目にかかった時、
気分が変わったように思いました。
家内もその時から食物について世話がなくなったと申します。
このたびは長らくお側においていただきましたから、
家庭に目覚ましい変化を来すであろうと思います

と申し上げました。

すると、聖者は、ただ一言、
「うつり香ですね」とささやかれました。

中井弁常居士は、
「これこそ、自分にとり、
生涯忘れられぬ冷汗を覚ゆる大痛棒であった。
孔あらば、はいりたい思ひがした」

と述懐されています。

この授戒会で、中井常次郎氏は、
弁栄聖者から菩薩会を授けられ、
「弁常」の戒名を受け、師弟の契りを交わさ
れました。
(「弁」は弁栄上人の弁、「常」は俗名の常次郎から。
「名を聞いただけでは、臭い処に交へども・・・
いとめでたい名であると有難く頂いて居る。」
とは、いかにも、直言居士の中井氏らしい言。)

いざ、お別れという時に、
弁栄聖者は、中井弁常居士を呼び止められ、

「中井さん、今、あなたは当麻で死にます。
あすは京都に生まれます。
けれど自分には切れ目が有りません。
浄土に生れるのも、これと同じです。
三昧状態で、醒めて生まれます」と。



大正九年四月「京都光明会」発足。
恒村夏山師、徳永愛子(後の熊野好月女史)、松井一郎氏が発起人。
会誌『光明』を引き続き発行、ただし、聖者ご遷化により、十二号で終刊。

弁常居士と夏山宅で、
定例の、礼拝と念仏、法話後、座談会を開催。
これは、「光明会の家庭例会」の嚆矢

大正九年十二月四日:
弁栄聖者ご遷化(新潟柏崎「極楽寺」)

大正十二年三月末日
「工学の研究は他の人でも出来る。
しかし、光明主義の宣布は、私にしか出来ない尊い仕事である」

と、京都大学を依願退職し、和歌山へ。

時は大正期、将来を嘱望されていた京都大学工学部の講師、
なおかつ、家庭がある三十代では、相当な決意があったことと推察されます。

その後、早速、柏崎の極楽寺の弁栄聖者の墓前に参拝。

この時、
弁栄聖者とともにお浄土から衆生済度のために
この世に生まれてきた
といわれ、
「生ける観音」とまで崇められた籠島咲子夫人と巡り会いました。
咲子夫人は、在家で、
祖父の教育方針で「無学文盲」に育てられたようですが、
弁栄聖者の御指導により、仏眼まで開かれた御方で、
その後の中井弁常居士に大きな影響を及ぼしたようです。

大正十二年四月:「南葵光明会」発会。
中井弁常居士は、
光明主義の伝道に身命財を捧げられました。


弁常居士は、
機会を捉え、弁栄聖者のお別時等に頻繁に参加され、
「弁栄上人の聞き書き」を記録として残されました。
弁常居士は、自然科学者であったこともあり、
現代においても、説得力があり、示唆に富む内容が多く、
しかも、弁栄聖者と当時の光明会の状況が生き生きと描かれており、
とても貴重な資料ともなっています。

また、弁常居士は、
「学解面」での弁栄聖者のご教示は勿論ですが、
「弁栄聖者の御霊格との実際の触れ合い」から甚大な影響を蒙りました。
このことは、決して見落としてはならない点だと思われます。


中井弁常居士による「弁栄聖者の聞き書き」等には、
まだまだ貴重な聖者のご教示がありますが、
今回は、この程度にとどめておきたいと思います。


この度、
中井弁常居士著『乳房のひととせ 上巻』(のコピー)を再読し、
とても興味深い記事が目に留まりました。

弁常居士、恒村夏山師等が発行されていた、
『光明』誌の掲載内容の記述です。

一つ目は、
弁栄聖者の既執筆の「浄土教義」の転載を見合わす替りに、
聖者の絶筆(?)となる新たな「弥陀教義」の連載記録と、
今後、「(弁栄)上人」の尊称を書かず、名だけ(弁栄)にせよ、
と弁栄聖者からご注意を頂いた、との記事がありました。

○ 「浄土教義」とは、
大正三年に、聖者執筆による六十数ページのものかと思われます。
「弥陀教義」は、
弁栄聖者三十三回忌の記念に、恒村夏山師により発刊。
※ このことは、
「解題  大南龍昇」(山崎弁栄著『人生の帰趣』(2018年4月刊 岩波文庫版))
に関連記載があります。

○ 弁栄聖者の「尊称」問題は、
聖者の御在世中からあったようで、

「上人は、弁栄上人ただ一人。
他の布教者は、僧俗を問わず、「先生」と呼ぶ。」


とは、弁常居士の提案

弁栄聖者のご遷化の後、
光明会内で、「弁栄教学」を巡っての意見の相違、
伝道、広報、組織上の問題等が顕在化し、
その収拾のための、一打開策でもあったようです。

弁栄聖者に関する尊称、表記問題は、
現実的には、大変微妙な問題を含み、
難しいところがあるように思われます。

このブログにおける「弁栄聖者」の尊称表記、聖者に対する言葉使い、態度等について、
違和感を覚えられていらっしゃる方もおられると思います。

いい機会ですので、
このブログでの考え方を明記しておきたいと思います。

弁栄聖者は、光明主義提唱者として尊崇する御方、
という面では、私的(「身内的」)であり、
不特定多数の方がご覧になる可能性の高いブログでご紹介する際には、
「(山崎)弁栄」常識、慣例的には適切といえるかと思われます。

一方、「(山崎)弁栄聖者」は、
「光明主義の提唱者」といった一主義、一組織のちっぽけな御方ではなく、
「宗派宗教を超越した」”人類の師”ともいうべき、
その意味では、「”人類の遺産”ともいうべき公的な尊崇すべき聖者」
といった側面があるようにも強く感じています。

「私的でありながら公的な存在でもある」

このような実感から、
このブログでは「弁栄聖者」という尊称表記と聖者に対する言葉使いとなっております。


更に、もう一点、興味深い記載は、

『光明』誌の八号から、
「阿弥陀仏(ポール ケーラス著より転載)」とあります。
この転載が誰の提案かが気になるところです。

何故ならば、
「阿弥陀仏(ポール ケーラス著)」の翻訳者が、
『日本的霊性』の著者、鈴木大拙氏であるからです。
(ただし、『日本的霊性』の初版は、昭和19年(1944年)で、弁栄聖者のご遷化後。)

更に言えば、
ポール・ケーラスは、
大拙氏とその師、
夏目漱石が参禅した釈宗演老師とも縁が深かった。
宗演老師は、鎌倉の円覚寺、建長寺の管長、
管長を退かれた後は東慶寺の住職を務められ、
明治26年(1893)、シカゴでの万国宗教会議に出席。

釈宗演老師と鈴木大拙氏は、
世界に「禅(ZEN)」を広めた功労者として知られています。

ちなみに、
東慶寺には、釈宗演老師の墓があり、
また、著名人のお墓も数多くあり、
例えば、(敬称略)
鈴木大拙西田幾多郎和辻哲郎小林秀雄の墓があります。
近くには、大拙ゆかりの「松ヶ岡文庫」もあります。
なお、
井筒俊彦の墓は、 円覚寺 頭塔 「雲頂庵」にあります。


弁栄聖者と釈宗演老師との関係が気になり出したところ、
ネットで公開されている、
「一般財団法人 光明会」の会誌『ひかり』の連載記事に目が留まりました。

聖者の俤 No.59
『乳房のひととせ 下巻』 (中井常次郎(弁常居士)著)
聖者ご法話聞き書き(別時中の法話) 3
聞き書き その八 別時中の法話〈つづき〉
大正9年6月2日 黒谷光明寺塔頭瑞泉院にて


(三) 霊枢五性 (二日夜の講話)
 霊妙性。において、

「ケーラス博士はあらゆる宗教を研究した人で、世界第一の宗教学者であるが、
シカゴ博覧会の頃「仏陀の福音」という本を著わした。
その中に「火に焼けぬような奇蹟は、正しき人より見れば価値が無い。
実に不可思議なるは阿弥陀仏である。
生死の凡夫を永生の者とするほど大きな奇蹟はない。
而して仏教は最高の宗教である」
と説いてある。」 

ケーラス博士とは、ポール・ケーラスであり、
シカゴ博覧会の一貫として開催されたのが、「万国宗教会議」であり、
釈宗演老師は、その会議に日本代表の一人として参加され講演、
それが縁となり、
ポール・ケーラスにより『仏陀の福音』が著されました。
緒言(序文)は、釈宗演老師、
翻訳者は、鈴木貞太郎(大拙)氏でした。

また、
岡倉天心氏は、「万国宗教会議」を契機に、
ポール・ケーラス、宗演老師とも関係を深めていかれたようです。

なお、
弁栄聖者の高弟、笹本戒浄上人は、
明治四十三(1910)年、37歳時、
まだ、聖者に邂逅される前でしたが、

研究テーマであった「催眠術」に関して、
鈴木大拙氏宅で、西田幾多郎氏に話されたとのこと。
(『笹本戒浄上人伝』より)


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【弁 栄 聖 者(1859年~1920年)】

観相家の花見江南氏は、
中井弁常居士宅にて、聖者の写真を見て、
「今まで何千人も観たが
これほど円満なお顔を見たことはない。
この人の言うことなら間違いない」

と言って光明会に入信されたとのこと。

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【釈宗演老師(1859年~1919年)】

1887年(明治20年)、27才の時に、
山岡鉄舟、福沢諭吉等の勧めもあり、
セイロン(現スリランカ)へ渡航し、南方仏教(パーリ語、経典、戒律)を学ぶ。
山岡鉄舟から、
「和尚の目は鋭すぎる。もっと馬鹿にならないかん。
インドでも行ってこい。」と押された。」



真に興味深いことに、
弁栄聖者と釈宗演老師は、
文字通り、同時代を生きられました。

宗演老師は、
当時「世界的規模で活躍」された破格の禅僧。

弁栄聖者は、
主として日本全国の布教活動でしたが、
悟境の深さと宗教哲学・思想上の深遠さに於いて、
「宗派宗教、時代、地球を超越」した宇宙的スケール
の浄土門の布教者。

「他仏を念じて自仏を作る」

「超在一神的汎神教」こそ、
”大乗仏陀釈尊の真精神” と喝破
された弁栄聖者。


能礼所礼性空寂
感応道交難思議
故我頂礼無上尊


「座禅はやっても、
ここ迄出て来なければ駄目だ」

(「ここまで座禅もやらなければ駄目だ」と伝えられてきた言葉を、
上の言葉に訂正下さいとは、杉田善孝上人のご教示。)
と、中国の座禅をよくした居士の言葉を引用して、
弁栄聖者は高弟の笹本戒浄上人にご教示。

当時、無相法身を所期とする「禅宗流の念仏」の癖から、
なかなか抜け出せずに苦心されていた戒浄上人でしたが、
聖者のこのご教示により、長年の疑問が晴れたという逸話が伝えられています。

なお、
弁栄聖者が三身四智の仏眼に依り三昧直観された、
「超在一神的汎神教」とは、

「宗教種類多けれど 通じて二性に分かつべし
理感二性は能と所の 二動の動機によればなり
理性は形式動機にて 先天自性を開くなり
感性内容動機にて 後天恩寵を受くるとぞ
前は自性の天真を 開悟し解脱を宗とせり
後は絶対我を投じ 救霊(すくい)の力を仰ぐなり

今は二性を綜合し 天真自性を開きつつ
恩寵に感性充たされて 開発霊化を期するなれ」

(「諸教の宗趣」の精髄箇所、P52~P53
仏陀禅那弁栄聖者著『光明主義玄義(ワイド増訂版)』)



「弁栄聖者と釈宗演老師との関連性」については、
今のところは、この程度の情報です。

ご参考までに、
ポール・ケーラス、釈宗演老師、鈴木大拙氏関連で、
ネットで公開され読める、興味深い論考を二つほどご紹介したいと思います。

○ 「信と知―無差別智と大悲
仏教とキリスト教に通底する霊性の自覚
上智大学名誉教授 田中 裕」
(『東西宗教研究 第17号・2018年』)


○ 「1893年 シカゴ万国宗教会議における
日本仏教代表 釈宗演の演説
ー「近代仏教」伝播の観点からー
那須理香(国際基督教大学大学院博士後期課程)」
『日本語・日本学研究 5, 81-94, 2015』



2018年の本年は、
釈宗演老師100回忌

また、
2018年6月4日~8月6日まで、
釈宗演遠諱100年記念特別展
「釈宗演と近代日本ー若き禅僧、世界を駆けるー」
を、
慶應義塾図書館展示室と
慶應義塾大学アート・スペース
で開催中。

ただし、
慶應義塾大学の敷地外のアート・スペースでは、
原則として平日で、17時まで
図録等の販売等は、慶應義塾大学アート・スペースでのみ
となっていますので、くれぐれもご注意してお出かけ下さい。


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「弘龍庵本部」は、
JR紀勢本線(きのくに線)の切目駅が最寄駅。

以下、「弘龍庵」のご紹介をいたしますが、
ご紹介不十分、理解不十分な点があるかと思われますので、
あらかじめお断りし、お許し願いたいと思います。

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「南葵光明会」と「弘龍庵」は、
兄妹関係ともいうべき法縁
があります。

ただし、「弘龍庵」は、独自の発展を続けており、
大阪にも支部があるようです。

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弘龍庵では、
弁栄聖者作成の『如来光明礼拝儀』を基に、
独自の『弘龍庵 勤行式』を用いています。
ただし、光明会の会所では必ずある、
弁栄聖者の「三昧仏様(お絵像)」は無いようです。

「弘龍庵」との因縁は以下のようです。

既に多くの奇跡を現され、村人から「教祖様」と慕われていた、
中村公子女史が、
昭和17年5月に、中井弁常居士宅を訪問されました。

公子女史は、
「現世利益を願う信者の多いこの素朴な教団に
光明主義のみ教えを伝え」

ようと努力をされました。
そこで、弁栄聖者の光明主義に共鳴され、
『如来光明礼拝儀』を経典として採用されました。

既に中井弁常居士が逝去されていた関係もあり、
昭和二十五年に、
「宗教法人 弘龍庵」として発足
されたようです。

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道路沿いにこの石碑の目印があり、
この脇道へ曲がります。

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「弘龍庵」の創始者、中村公子師ゆかりの立派な建物があります。

高野山を模されているのかもしれません。

こちらは、
教祖中村公子祖廟のある「生歓殿」。

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「教祖 聖徳公子之像」

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「生歓殿」を更に進みますと、
観音山として親しまれる「弘龍庵 奥之院」があります。

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こちらの境内には、
観音堂他、教祖聖徳公子墓所があります。

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2018-06-03

山崎弁栄著『人生の帰趣』(岩波文庫)についての若干の補説


弁栄聖者高弟の田中木叉上人が、
”弁栄聖人(者)一代の御勧化の趣を選び抜かれた”
『弁栄聖人(聖者)遺稿要集 人生の帰趣』

今回の山崎弁栄著『人生の帰趣(岩波文庫)』は、
河波定昌師と若松英輔氏とのご縁に依り発刊に至ったもの。

なお、河波師は、2016年(平成28年)4月3日に遷化され、
本書発刊の平成30年4月は、河波師の三回忌にあたり、

『三回忌 追想記念文集
光明園・園主 河波定昌上人のおもいで』


が、東京都練馬の光明園から発刊され、
若松氏も寄稿されています。


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凡 例
弁栄聖人略伝

【前 編】
第一章 人生の帰趣
第二章 大ミオヤ
第三章 光 明

【後 編】
第四章 安 心
第五章 念仏三昧
第六章 光明生活

和歌/感謝の歌/念仏七覚支

注 解・・・・・・(藤堂俊英)
解 説・・・・・・(若松英輔)
解 題・・・・・・(大南龍昇)
年 譜
山崎弁栄遺稿一覧
主要参考文献
人名索引


 目次等は、こちらへ


跡見花蹊(1840-1926)女史『人生の帰趣』を巡る逸話

或時、
「あんた達、田中先生から戴いた『人生の帰趣』はお読みやしたか
(跡見女史は、上方弁でした)
「いいえ忙しくてまだ拝読していません」
と申し上げますと、
「あんた達、一ぺんにたんと(沢山)読もうとするから、
いつまでもかえって読めんのや、
わたしは毎日十枚(二十ページ)読むことに決めています。

もうこれで二度くり返して、今三度目ですが
何と有難い本ですなあ」

跡見女史が亡くなられた後、御遺品の中にこの本があり、
「手のふれる所には手垢がつき紙がももけていた。」
(熊野好月女史談)


今回発刊された山崎弁栄著『人生の帰趣(岩波文庫)』は、
すんなりと読み進めることは中々容易ではないと思われます。

跡見女子のペースで、全文を読まれるのはなかなか難しいかもしれませんが、
この書と、焦らず、しばらくお付き合いするといった気持ちで、
読み進められることをお勧めいたします。

『弁栄聖人遺稿要集 人生の帰趣』の初版は、
大正十二年の発行であり、
現代人からすると特に文体、更には難解な哲学・思想、仏教用語の内容等からしても、
この書に馴染むには時間を要するように思えるからです。

この書の原書は、『弁栄聖人 遺稿要集』であったため、
弁栄聖者のお写真もあり、
総ルビがふってあり、しかも、文字も大きいのですが、
この文庫版なら、携帯できて、便利です。

この『人生の帰趣(岩波文庫)』を読み進めることが厳しいと思われる方、
あるいは、次に弁栄聖者関連の本をお探しの方には、

○ 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』
○ 山崎弁栄講述著『宗祖の皮髄』 (通常版現代語訳版)

を、是非お勧めいたします。


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このカバー図版は、
弁栄聖者筆「両手同時運筆書」

(右)
「空海がこころのうちにさく華は
みだより外にしる人はなし」(伝弘法大師)
(左)
「あみだ仏といふより外は津の国の
なにわのこともあしかりぬべし」(法然上人)


他にも、更に口も使い、両手と口との三つ同時運筆書もあり、
米粒名号(米粒に「南無阿弥陀仏」と書かれた)」は特に知られ、
一分間に六十粒程も書かれたという逸話もあります。

弁栄聖者の衆生済度における「善巧方便」。


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 【弁栄聖者(1859年~1920年)】


それでは、
以下、項目別に、若干の補説をさせていただきます。

○ 弁栄聖人略伝

田中木叉上人による弁栄聖者略伝。この略伝の最後の文章、

「仰ぎ惟れば、内証甚深、外用広大、
平等の大悲に動く全分度生の無我の力が、
奉公報恩の無作の精進に顕れ給う師父弁栄聖人の御一生は、
大智大悲の如来光明の如実の反映に在せば、
誰か大慈悲の応現を仰がざらん。
誰か光明の摂化を信ぜざらん。」



「田中木叉先生著の御伝記『弁栄上人伝』がある。
それを読んで一番驚くことは一点の私心もないことである。
尋常一様の私心のなさではない。
人のからだの数多くの細胞が仮に一つの人体を作っているのは、
普通は私心が結び合わせているのである。
弁栄上人の御生涯を見て、
人がこうまで私心を抜いてよく生きて行けたものだと思って驚く」。

(「まえがきー無辺光と人類 岡潔」『弁栄聖者光明体系 無辺光』講談社版 )

思わず唸ってしまうほどの、
真に鋭く、正鵠を射た”弁栄聖者観”!



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若松英輔氏は、
「解 説 ー 愛と霊性の仏教哲学」において、

トマス・アクィナスと対比させ、

「彼は研究する者ではなく、
言葉にならない何かを体現する道を歩き、歩き通した。」

また、
ベルクソンの説く「動的宗教」、「真の神秘家」を、
弁栄聖者の核心と捉え、

「残された言葉は、
彼は近代日本屈指の哲学者であり思想家でもあったことを示しているが、
その一生は、
光によって導かれ、光によって用いられた一個の布教者

だったことを示している。と。

けだし、至言!

なお、「真の神秘家」とは、

「最深の神秘的人間はまた最深の行動的人間である。」
(「神秘主義の形而上学」『吉満義彦全集』第四巻)



【前 編】
○ 第一章 人生の帰趣


「人生の帰趣否人生の目的は ・・・動機から云わば
自己の奥底に伏蔵せる性能を遺憾なく発揮して
真実自我即ち霊我実現的に最善の努力する にあり。」と。

その究極は、
「成仏=無余即無住処涅槃」
にあります。
「往相・還相」の真意

「霊我実現」とは、
”通常の自己実現”即ち「自我(の幸福)実現」とは異なります。

弁栄聖者は、本書に、
「人間界は聖なるこころをやしなう学校でありますぞ」
とご教示されています。

「人間界で聖なるこころをやしなう」ために、
時に、あるいは多くの場合に、
"自分(自我)が望まない形で、それを、受けとめざるをえないことがある"
ということを意味すると思われます。

「霊我実現」とは、
聞きなれない言葉、概念かと思われますが、
ユング心理学でいう処の「自己実現」の概念が参考になるかと思われます。
もちろん、ユング心理学では、”成仏=霊(的人)格の形成”を目指しているわけではありません。

この点に関して、とても興味深い逸話があります。
鈴木大拙氏が、ユング研究所を訪ねて、
「集合的無意識(collective unconsciousness)」について、
「なぜ、 『cosmic unconsciousness』 といわないのか」とユングに言った。
すると、ユングは、
「私は科学者ですから」と、応じたという。
帰り道、大拙氏は、氏の秘書であった岡村美穂子氏に向かって言った。
” He limits himself. ”
若松英輔氏は、
「小さくまとまりおって・・・」と訳されています。
※ 参照:(若松英輔著『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』)

なお、若松英輔氏は、『群像』という月刊誌に、
「たましいを旅するひと──河合隼雄」という論考を連載中です。
興味深くかつ示唆にも富みますので、是非お勧めいたします。


○ 第二章 大ミオヤ

「誤解を恐れずにいえば、霊性という言葉を用いることによって、
ある種の衝撃を与えんとしているかのようでもある。」


と若松氏は「解説」で指摘されています。

同様の衝撃あるいは別種の意図のもと、
「大(おお)ミオヤ」という表記を、
弁栄聖者は用いられているように思われます。


1914年(大正3年)に、
「如来光明会趣意書」という一枚刷りの印刷物が公表されました。
「首唱者 仏陀禅那 弁栄」として署名がされています。

この「新しい光明主義の立教開宗文」の文中には、
「阿弥陀仏」という言葉は一切なく、
そこには、「大御親」なる表記があるのみです。


弁栄聖者は、
「大ミオヤ」を、「(一)独 尊・(二)統 摂(三)帰 趣」として、説明されています。

(一)独 尊

「超在一神的汎神教」

通仏教等で説かれる、
諸仏の中の一仏ではなく、
大宇宙全一の独尊である神(仏)。

したがって、キリスト教等で説かれる「神」、
「大日如来」、「久遠実成の仏」等も、
「大ミオヤ」の同体異名。

この「弁栄聖者の宗教観」においてこそ、
初めて「宗派宗教の枠を超えた」対話が可能となる
と思われます。


「私は経文に依って演繹的に説くのではない。
帰納的に説いておる」

(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)

「経典に依るのでなく、
御自身の体験せられた如来様の事実から
帰納的に光明主義の教学体系を組織せられた、
という意味である。」
(笹本戒浄上人のご教示)


「御自身の体験せられた如来様の事実」とは、
「三身四智の仏眼」に依るご境界における認識。


「形而上学は形而上的体験の後に来るべきものである」
(井筒俊彦著『神秘哲学』)

この点にこそ、
弁栄教学を学ぶ”素晴らしさ”と”困難さ”があります。


弁栄聖者は、
文献学的に、”大乗非仏説”を認識されていました。

「大乗経典とは、
三昧定中における”永遠の生き通しの”大乗仏陀釈尊による、
出世間の三昧を開かれた聖方への直説法である。」

と、弁栄聖者は喝破
されました。 

極めて重要な大乗経典である、
「如来寿量品第十六」『法華経』の真精神を、
実に的確に指摘なさっているように思われます。

このことは、
「「大乗経典」とは、
歴史的文献学的のみの”教相判釈”は原理上不可能であり、
また、経文上の字義のみによる解釈では、経典の深意が読み取れない」

ということを意味します。


(二)統 摂

「統摂と帰趣ー一切知と一切能」において、
「一切知と一切能の二属性が
一切万物に対して統一摂理し生成帰趣するの性能となる」
と。

この摂理とは、法則の意味ですが、
自然界と心霊界(大宇宙一体の両面)に働いています。

この自然界の法則の発見が、科学上の発見となり、
本来宗教と矛盾するものではありません。
取り扱っている領分が異なるだけです。

「物質がよく諸法則を守って
決して違背しないのは何故であるか。
自然科学はこれに対しても一言も答えられない」(岡潔)


数学者 岡潔氏の言葉ですが、
この”真知”に思いを馳せ続けるのは、
なかなか容易でないように思われます。

また、この「一切知と一切能」は、
大宇宙の生成過程を説明しているもので、
科学が触れないことにしているもの。

”新プラトン主義”「プロティノス」を、
思い浮かべた方もおられるかと思われます。

ここでは、
参考文献を記すに留めます。
○ 山本幹夫(空外)著『哲学體系構成の二途ープロティーノス解釈試論ー』
○ 山本空外著『一者と阿弥陀』
○ 井筒俊彦著『神秘哲学』


前置きが長くなりました。

「一切衆生は 皆 これ吾が子なり」
(『法華経 譬喩品 第三』)



”大ミオヤ”表記の弁栄聖者の深意を推察いたしますと、

先ず、 【 一点目 】は、

”大ミオヤ”と「カタカナ表記」することよって、
”大ミオヤ”という表記に、多義的な含意を持たせうること。


【 二点目 】は、

”大ミオヤ”を”大御親”
と表現する(言葉にする)
ことによって、
私達の意識あるいは無意識裡に、
「仏の子(仏子)」という自覚が、必然的に芽生え
てきます。

また、そこには、”人格的呼応関係”が立ち上がってきます。


【 三点目 】は、

”大ミオヤ”は、御親であるから、
”父母の両性具有”が内包されています。

「荒城の月」の作詞家としても知られる、
土井晩翠氏には、
『雨の降る日は天気が悪い』という著作があります。
その中に、「華厳経と新井奥邃先生」という文章があります。

”新井奥邃(おうすい)”という方は、
若松英輔氏(の本)に教えていただいたのですが、
元仙台藩士で、ロシア正教のニコライ神父との出逢いでキリスト教を学び、
30年近いアメリカ留学後の帰国。
「神を父母神」と捉え、スウェーデンボルグ思想も研究。
まだ詳しく存じませんが、「世に隠れた賢者あり」というに相応しい人物。

※ 参考文献:
○ 工藤正三・コール ダニエル 共編『新井奥邃著作集 全九巻』等。
○ 若松英輔「跋文 地下水脈の巨人 新井奥邃の霊性」
(『奥邃論集成 春風社編集部編』)

○ 那須 理香
「新井奥邃の神学思想における「霊的」概念 鈴木大拙の「霊性」との対比」 


若松氏の著作により、
弁栄聖者の同時代人の思想、当時の時代精神が学べ、
弁栄教学を学ぶにあたり、大変有益な視点をいただき、
とてもありがたく思っています。

なお、土井晩翠氏に関しては、こんな逸話があります。

「土井晩翠先生は図書館で弁栄聖者の伝記を読み、
「これは自分の考えていたのと一緒だ」と信者になった。」
(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)
と。

晩翠氏は、
笹本戒浄上人の東京本郷の郁文館中学時代の英語の教師であり、
昭和六、七年頃、光明会別時が仙台であった際に、
別時中のお寺に来られ、戒浄上人に挨拶をされたそうです。
なお、ご自身の詩集二冊を戒浄上人に寄贈される際、
「仏教の奥義を伝えたる笹本戒浄上人にこの書を呈す」と。
また、その当時の晩翠氏の日記には、
「田中木叉君のレクチャーに参じて教えを受く」
と記されているとのこと。

晩翠氏の妻、娘はクリスチャンでしたが、
晩翠氏ご自身は、念仏も唱えられていたようです。

更に興味深い逸話がありますので、記します。

昭和7年頃(8年か?)、仙台の光明会の別時に、
晩翠氏がみえられ、
晩翠氏のお嬢様がお亡くなりになる時、
「キリストの来迎に遇われた」
ことを戒浄上人に仰られた際、

「キリスト教でも一心に神様にお祈りすると、
神様に遇えます。
神道でもその通りです」


と上人は仰られたとのことです。
※ このことと関連するものとしては、
「附録 照子の思い出 母 土井八枝」
(『雨の降る日は天気が悪い』)



【 四点目 】は、

”大ミオヤ”とは、”大三親”
”生み”のミオヤ(御親)、
”育て”のミオヤ(御親)、
”教え”のミオヤ(御親)の、
”三親身”、かつ、即一。

「仏の体と相と用とは一体の三面、
本来同時同体の三方に過ぎず。」
(『弁栄聖者光明体系 無量光寿』)


ここで留意すべきは、

「仏教は哲学方面と宗教方面との両面ある学説
を有っておる
故に
客体を説明するに完全であるけれど
宗教と哲学とが混同し易い。」

「もし報身が人格的ならば
法身もまた人格的に観てこそ終始一貫すべし。」


この「三身即一の大ミオヤ」を人格的に仰ぐという点が、
光明主義の仏身観の特長の一つ。

なお、
「阿弥陀仏の本願」の真意を、

「一切の子らをして、
ミオヤの完全の如くに完(まった)からしむる法」、

と定義されています。
※ これは、『聖書』ではなく、弁栄聖者の言葉です。

また、
「ミオヤなる如来の、
衆生(子)に対する思召しは
最幸福にして而して最も高徳な、
福徳円満な身にしてやりたいと云う処にある」と。


「徳を幸福の不可欠な要素」とされているところが、
弁栄聖者の霊(的人)格論の特長です。

そのためには、
霊乳、法乳なる霊養(霊的養分)が不可欠であり、

「(霊的)お育て」が、
光明主義の特長点の一つ。


【 五点目 】は、

”大ミオヤ”との表記によって、
宗派宗教の枠を超えた、
更に云えば、「宗教」さえ超えた、
”諸々の宗教の根元たる地平”での対話の可能性が開かれる
こと。

”阿弥陀仏”という表記ですと、
仏教特に浄土教といった、特定の狭い仏身観と受け取られ易いこと。

弁栄聖者の認識においては、
「法蔵菩薩は、神話にして最高の哲理を示す」
「「法蔵菩薩は応身」とお説きになったのは、弁栄聖者だけである。」
(どちらも田中木叉上人のご教示)

ということになります。


○ 第三章 光 明

「弁栄聖者御出世の本懐は、この”十二光の開顕”にこそあった」
とさえ云い得るかと思われます。

「空拳を以ていかでか千重の鉄関を打破することを得ん。
この大鉄関を開くの妙鍵は即ち十二光名によりて其体を発悟するにありと。
古来千聖出て名を以て体を獲得すべき径路を示したまへども
いまだ之を開きて十二名を以て諦かに
如来の体・相・用を窺ふべきの真理をのこし給ひしは深意
あり、
後昆をしてこの霊名により広く深く細に微に
如来の聖徳を獲得せよとの聖意ならむ

世間文化大に発達せり。宗教のみは独り開発せざるの理あらむや。
ここに於て如来ひそかにこの愚昧なる小弟子をえらみて、
之を開くべきの宝鑰を授与し給へるなり。

故に撰ばれたる小弟子自ら不敏を顧みず
十二光によりて如来の霊徳を密かに開くの命を奉ず。
自ら感謝措くことを知らざるなり。
宇宙の真理は悉く十二光によりて示せり。」
(『弁栄聖者光明体系 お慈悲のたより 上巻』)

「十二光」をひらけば「一切経」とも云われるため、
甚深なる内容を汲み取ることは、なかなか容易なことではありません。

補足として、一点。
一見些細な点と思われるかもしれませんが、
「無対光」と「炎王光」を、
前者を積極的方面、後者を消極的方面と、
一対の両側面として定義されている点、
弁栄聖者の認識の甚深さを物語っておられるように感じます。


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【弁栄聖者(1859年~1920年)】


【後 編】
第四章 安 心


実は、この「第四章 安心」と「第五章 念仏三昧」と「第六章 光明生活」は、
相即、相関関係にあります。
一部重複した内容になっているのもそのためです。

更に云えば、
前篇の「第一章 人生の帰趣」、「第二章 大ミオヤ」、「第三章 光明」も、
後編とも、また各々の章の内容とも相互に関連し合っており、
本来は、独立して単独に論じることが出来ない内容のものです。

(1)仰信 (2)解信 (3)証信とは、
(1)仰信→(2)解信→(3)証信との直線的に進むものではなく、
相互円環的関係にあり、
信仰を誘導する要は、(1)仰信にあるとさえ思われます。

”大ミオヤ”の真相を徹底的に知り尽くすことは出来ず、
「無知の知」の自覚こそ「仰信」の本質
と思われるからです。

「人として意識は必要なれども、
超人間界上の事には寧ろ碍(さわり)をする。」


「第五章 念仏三昧」の文中に、
「霊界の消息は理性を以て窺うことを許さず。」と。


「安心」における肝は、
解脱の要あると共に解脱の能あり。」
この一見相異なる両者を、いかに深く信じられるかにあると思われます。

そのことは、
上述した意味での”大ミオヤ(御親)”として、いかに深く信じられるかということと、
相即関係にあります。

「宗教の中心真髄は感情なり。」

として、この「安心」の項目に、
弁栄聖者は「信」⇔「愛」の相互連環を説かれています。

「彼は実に美なり愛なり。
彼等が霊性はこれを愛慕して益々高遠に導かる。
彼は最も遠きに在て而も最も邇(ちか)くして、
常に我等を向上せしむ。
彼を葵心(きしん)し愛慕するは
奥底の霊性より衝動する力なり。
霊性が如来を愛するは
同性相吸引する自然の勢力(ちから)なり。
他人より「彼を忘るる勿れ」と命ぜられて初めて動く力に非ず。
自分忘れんと欲するも能わざる霊的の衝動なり。
それが如来を葵傾して慕わしさ恋しさの禁じ難き情なり。」


弁栄聖者の面目躍如!

中村元博士は、
「献身的に実践につとめた仏教家」としての、
弁栄聖者の特異性、特徴点
について、

「かれのいう愛とは慈悲の現代的表現なのである。
「信」を強調する日本の浄土教の中から、
「信」に併立するものとして「慈悲」を強調する
かれのような宗教家の出たことは、驚くべきことである。」
(中村元著『慈悲』)


弁栄聖者には、
”霊的エロス”ともいうべき雰囲気、香りが漂っている
ように感じられます。
他の高僧方には滅多に感じられない類いのものです。

「丁度うすくぼかされた玉子の黄味が、
ほんのりとした白味のなかにういているような」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

と、弁栄聖者の在り様を、
木叉上人は、絶妙に描写、神筆されています。

”うつくしき方”「”大ミオヤの使者”弁栄聖者」

「人としての品格の美しさ」、
「理想的な人間像」、「憧れ」を抱かせながらも、
どこか、とても「懐かしく」、「親(慕)わしい」
・・・

どのような世の中であっても、
どのような境涯であろうとも、
「理想」、「憧れ」は、人間形成上不可欠だと思います。


○ 第五章 念仏三昧

「他仏を念じて自仏を作る」(弁栄聖者)
弁栄聖者の宗教観は、この一言に尽きます。

「起行の用心」
この点を特に強調し、修行論の要とした
ことが、
光明主義の特長点の一つ。

「三身即一の”大ミオヤ”」とは、
「広義の報身」、
即ち、「大宇宙全体の絶対中心としての超在一神的汎神」。

本より独立自存する大宇宙全一の絶対的現象態で、
自然界と心霊界全体の根本仏。」

この仏身論から必然的に導き出されたのが「起行の用心」
という点こそが、
極めて重要な、要中の要、核心中の核心になります。

次の「第六章 光明生活」中の文章になりますが、

「真実に宇宙間唯一無二の霊的人格現に対しては
我らは愛念せざるを得ぬ。
宇宙全体の大霊より表現したる人格表現なれば
その所現の身の大小に拘らず絶対の表現なり。
この霊的表現の弥陀より外に絶対的に帰命信愛するものなし。」
と。

ここで、次の様な疑問が生じるかもしれません。

「仏教徒が、その瞑想的ヴィジョンにおいて、
キリストやマドンナをみないのはなぜだろう、
とカッバーラー学の権威ゲルショム・ショーレムが問うている。
・・・そういえば、逆に、キリスト教徒の瞑想意識の中に、
真言マンダラの諸尊、如来や菩薩の姿が
絶えて現れてくることがないのはなぜだろう、
と問うこともできよう。」

(井筒俊彦著『意識と本質』)

その応えは、
「成所作智」(弁栄聖者著『無辺光』)に記されています。

「霊験の種々なる方面」においてうかがえるように、
”悟り、神仏の認識面においては、浅深がある”
という差別(しゃべつ)面があるという観点も、
忘れてはならない重要な点であると思われます。

弁栄聖者ほど悟りが深く、
その深い悟りの実体験の内容を、言語化できる方は稀有かと思いますが、
三昧入神という点に関しては、
近代においては、ラーマクリシュナの存在を、
念頭に浮べる方もおられるかもしれません。

今回改めて、
若松英輔著『岡倉天心『茶の本』を読む(岩波現代文庫)』を再読して、
大変に興味深く、示唆に富み、有益な本であることを再認識しました。

岡倉天心氏と柳宗悦氏は、
美の霊性」を生きたという観点。

「真、善」ではなく、
「美」からの観点が、とても示唆的でした。

ちなみに、弁栄聖者の仏身論の特長点の一つが、
「絶対理性(りしょう)と絶対感性(かんせい)を同位同体」と捉え、
通仏教の認識、即ち、
「感性が絶対理性に従属、規定されている」
とする仏身観を転換させた点
にあります。

浄土とは、如来四大智慧が顕現し「真善美が一体」。

「第三章 岡倉天心と東洋思想
一 霊性の宇宙ー岡倉天心と山崎弁栄」


ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ、
内村鑑三氏、鈴木大拙氏、井筒俊彦氏の論考もとても刺激的。

美術芸術方面に関心のある方には、
岐阜県長良川画廊併設の、
若松英輔館長「山崎弁栄記念館」があります。


「茶」に関して思い出したのですが、

本書の出版に関わられた河波(定)昌師に、
『真 茶 -茶道における人間形成-』
という茶道に関するエッセー風の本があります。

こちらも、今回、再読しました。

藤吉慈海氏にも、この書が捧げられていますが、
藤吉氏とは、「禅浄双修」を提唱された、
西田幾多郎門下の久松真一氏の弟子。

河波師は、田中木叉上人の弟子筋にあたる方ですが、
河波師は、『般舟三昧経』に基づく、
「真正面に如来様存します」という「起行の用心」で、
終始一貫念仏され、
「禅の起源は念仏にあり」との不動の信念をお持ちでした。

弁栄聖者にあっては、自内証上、実地体験済みの事実でした。


河波師の本の特長としては、
「知的好奇心が刺激され、知的教養面からも得るものが多く、
かつ、信仰上にも益することが多い」

という、教養と霊養にも益する珍しい類の本が多いように思われます。

この書は、比較的薄く、茶を巡るエッセー風の読みやすい本ではありますが、
「河波師の学識と念仏体験の深さ」がひしひしと伝わってくる好著で、
念仏における「起行の用心」にも益する本でもあります。

この本の「六 茶道とキリスト教ー西欧キリスト教修道院における体験からー」

は、茶道の所作を見た修道僧達が、
「あなたの行じている所作は、実にミサそのものだ」
と口々に叫んだといいます。

その体験から、利休とキリシタンとの関係に考察が進んでいきます。

「起行の用心」に関しては、
「点化」(P・ナトルプ)について触れています。

この書に興味のある方は、
河波定昌師が前園主であった、光明園で入手できるかもしれません。

「起行の用心」の観点からも、
非常に有益な秀逸論文
と思われるのが、

「第一章 ニコラウス・クザーヌスの神秘主義
ーVisio Dei の諸相をめぐる比較思想論的論究ー」

(河波昌著『東西宗教哲学論攷』)


ところで、
岡倉天心氏とも交友の深かったタゴールについては、
弁栄聖者のこんな逸話があります。

大谷仙界上人と佐々木為興上人が聖者に随行中のこと、
「上人様、貴方は今此の世界で胸襟を披いて会いたい人がございますか」
と仙界上人がお尋ねになると、聖者は、
「そうね、会って話してみたいと思うのはタゴールだけだね」と。
それで、為興上人が、
「タゴールのどこが特長あるのですか」
と問われると、
「タゴールはすべてを人格的に見ている。あれがよい。」
と、聖者は言われた。

※ タゴールは、1861年~1941年
 弁栄聖者は、1859年~1920年
 この会話は、1918~1920年頃のこと。  
 ちなみに、岡倉天心は、1863~1913年。

弁栄聖者の着眼点の一端が、うかがえる逸話です。

なお、横山大観氏が、弁栄聖者の指導を受けられた
との噂も一部にあるようですが、
その真相は、現時点では確認できておりません。


※ 「啓示」の諸相に関心のある方には、
○ 『無辺光』
○ 『清浄光・歓喜光・智慧光・不断光』
○ 『啓示の恩寵』(「智慧光 巻下(開示悟入)」)
○ 柴武三著「開示悟入」(光明会 近畿支部 佐野氏再刊)
○ 井筒俊彦著『イスラーム哲学の原像』
をお勧めします。


第六章 光明生活

九州の波多野諦道上人は、大谷仙界上人に、

「不断光の権化たる」弁栄聖者のご随行への
慰労と激励のお手紙を出されています。
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

弁栄聖者の修行内容、行状をご覧になり、
「自力、聖道門的だ」と思われる方も多いかと思われます。

哲学者の西田幾多郎氏は、
遺稿となった「場所的論理と宗教的世界観」の中で、

「真の絶対的受動からは、
真の絶対的能動が出て来なければならない。」

と記しています。 

田中木叉上人によりますと、
弁栄聖者はご在世中、
「他力」ということを、ほとんど言われなかった
そうです。

「人仏牟尼は一向(ひたすら)に 本仏弥陀を憶念し
本仏弥陀の霊徳は 牟尼の身意に顕現す
入我我入は神秘にて 三密正に冥合し
甚深不思議の感応は 是れ斯教の秘奥なり」

※ 「斯教」とは、真言密教ではなく、光明主義

と、弁栄聖者は、「仏々相念の讃」に詠われています。

また、
『如来光明礼拝儀』には、

「教主世尊が六根常に清らかに
光顔(みかお)永(とこ)しなへに麗はしく在ししは
内霊応に充給ひければなり」
と。

なお、
この「内霊応に充(みち)」とは、
「三身四智の仏眼における自受用三昧」の境界。

つまり、
「仏陀禅那」、即ち、 「不離仏 値遇仏」。

この『礼拝儀』の要中の要、核心中の核心である
「如来光明 歎徳章」
の一節がある「『無量寿経』は、
教祖釈尊が大宗教家として宗教の真面目を顕示されし
経典である。」


と弁栄聖者は喝破され、大変重視されました。


「光明生活」とは、
「念仏三昧」、つまり、
「三身即一の”大ミオヤ”」即ち「広義の報身」
を離れては、原理的に不可能
です。

したがって、
「光明生活」にも浅深、段階があり、
”大ミオヤ”による霊化の程度に相関します。

弁栄聖者は、実地体験上の事実から、
「念仏三十七道品」を説かれました。

詳しくは、『難思光・無称光・超日月光』をお読みください。

「弁栄聖者は、
”分かったようで(分かって)、分からん”
という説かれ方をされている。
これは、達人ならではの文章です。」


といった趣旨を、杉田善孝上人がご教示されたことがありました。


霊育(修行)過程は、大筋の経過過程は規定されていますが、
実際上は、種々の因縁等により、各人区々
でもあるからでもあり、
また、各人が各々に実地体験して証する道程でもあるからです。


弁栄聖者の念仏観の精髄は、
「如来光明摂化主義」
つまり、消極的な「救我(くが)の念仏」を内包した、
積極的に”如来の霊育を被り、無限向上を目指す”
「度我(どが)の念仏」
です。

弁栄聖者は、
本章の「心霊生活の衣食住」において、
「心霊の衣食住は如来と共に在る事を得れば自ら具備して居る」と。

「霊にも営養分が要用である。」とされ、

「仏法の味を愛楽し禅三昧を食とす」。

若松英輔著『イエス伝』において、
カトリックのミサ(「パン」と「葡萄酒」を食す)の秘義を語られています。


「聖意の現れを祈る」
弁栄聖者の「光明生活」の真意。

何故なら、
「人生の帰趣」
即ち、大宇宙の究極目的が、
一切衆生の「成仏=無余即無住処涅槃」にこそあるからです。

往相・還相。

「念仏にいさみある人は無辺のさとりを開くべき人なり」(法然上人)

「明恵上人が、弁栄聖者にお逢いしていたら」
との想いが募ります。


○ 和歌

「月をみて月に心のすむときは月こそおのがすがたなるらめ」
「あみだ仏(ぶ)をおもふ心のますかゞみかぎりなきまで照りわたるかな」
「ふところの中とも知らで眠り子は生死の夢にうなされにける」
「白露をとめおく夜には女郎花(おみなえし)ひとしほ色の添ひまさるらむ」
「奥ふかき心にのみと思ひしに庭の花さへさとりひらきつ」
「あみだぶにとはにてらさるこゝろにはわれていふものゝ影もとゞめず」


「新古今が好きで
古今集、新古今集の思想的構造の意味論的研究を
専門にやろうと思ったことさえある」。

とは、井筒俊彦氏の発言であり、

「和歌における思想的構造の意味論的研究、
この分野は、今にちも未だ黎明期である。」

と若松氏は、解説されています。

なお、山崎弁栄講述『宗祖の皮髄』は、
現代においても画期的な”法然上人観”です。
弁栄聖者の自内証の上から、
法然上人の御歌十歌をもとに、
法然上人の皮と髄を説こうとされたものですが、
この講話は、七歌の解釈で終わっています。

この書に現れた”法然上人観”ですら、
あと三歌の解釈が残されています。
此の点にも留意すべきかと思わます。

『日本的霊性』の鈴木大拙氏、
その精神を継承した井筒俊彦氏の両氏が、
弁栄聖者と出逢われていれば
と惜しまれます。


○ 感謝の歌

感謝と懺悔は相即すると思います。
懺悔と自己反省とは、本来、似て非なるもので、
懺悔は、光(光明)に照らされて初めて実感されるもので、
したがって、感謝と懺悔とは、光(光明)内での一対の両面真情


○ 「念仏七覚支」

念仏三昧の体験上にける、大ミオヤによる霊育過程(段階)
また、そこには悟り(霊的認識上、霊的働き)の浅深あり。

悟り、あるいは、霊的認識のそれぞれの境界に通達・精通し、
ここまで言語化した者は、人類史上、稀有なことだと思われます。

なお、「定覚支」が初歩の仏眼の境界で、
「仏眼が得られたら、まずほっとしてよい。」
と弁栄聖者は言われました。

「初歩の仏眼」とは、
慧眼と法眼が一致融合した「自受用」の境界
「慢の根」が絶たれ、「信不退」、「行不退」となるため。
また、感覚面に於ける「心霊的自由」を相当程度得た境界


ただし、「尽(すべ)ての障礙(さわり)が除かれる」とは、
「一切の身意が仏化=如来化される」ことですが、
厳密には、「成仏の境界=三身四智の仏眼、
しかも、認識的一切智の境界」において
とのこと。

(ここで留意すべきは、
この仏化には身(体)も含まれている点です。
この身(体)には、”意識の要”でもある大脳等の霊化も含まれています。)


○ 注 解・・・・・・(藤堂俊英)

悟られた方は、その時代に発達した文化に即して、説かれるようですので、
現代から見ると学説的に疑義が生じることがあるかもしれません。
また、
聖者の三昧認識直観は、三身四智による仏眼のご境界からのものではありますが、
説かれたものは、方便説と真実説が混在しています。

このことは、弁栄聖者の御遺稿を拝読する場合に留意すべきことであります。

更に、聖者は、通仏教の言葉を使いながら
全く違う意味を付与されていることがあります。

例えば、特に「報身(ほうしん)」、「四大智慧」、「無余即無住処涅槃」、「開示悟入」などは、
聖者独自の解釈。


○ 解 説・・・・・・(若松英輔)

「もう一点、霊性の一語をめぐって記憶してよいのは、
それが鈴木大拙の『日本的霊性』(一九四四)が登場する
はるか以前に弁栄によって、
体系だった思想のなかで用いられていた事実である。」


霊性論を巡って参考になる文献としては、
○ 若松英輔著『霊性の哲学』
○ 若松英輔著『岡倉天心『茶の本』を読む(岩波現代文庫)』
○ 若松英輔著『内村鑑三 悲しみの使徒』
○ 安藤礼二氏の論考、「大拙(第一回~第八回)」『群像』
ただし、安藤氏の論考は、何故か、「山崎弁栄」には一切触れていません。

また、「弁栄聖者とキリスト教との関係について」の若松氏の指摘。

田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』によりますと、
弁栄聖者は、新島襄氏と京都で会見し、会話を交わされ、
「キリスト教が年少者を教化されている意義を高く評価
されています。
弁栄聖者は、1859年~1920年
新島襄氏は、1843年~1890年
ですので、聖者が30歳頃までには、二人は会っていることになります。

「五種正行」は、
弁栄聖者の解釈では、「心霊を養う糧」と捉えており、
「信心喚起の為ばかりで無く心霊を養う糧となれば
終身捨る事は出来ぬ。
否自ら好んで止(とどまる)ることは出来ぬ様になる。」
と。

例えば、「読誦正行」は、
若松英輔氏が、
(両人は、「聖人」ではなかったが「聖者」であった”神秘家”)、
”神なき神秘家”(ヴァレリー)
小林秀雄氏と井筒俊彦氏等から継承された、
「読む秘儀」にも関わることでもあります。
※ ”神秘家”とは、
釈尊、イエス・キリストや法然上人、弁栄聖者のような「聖人」ばかりとは限りません。
若松氏の関心の中心は現在、
むしろ我々の内にも発掘し磨き得る「聖者」にあるように思われます。

なお、
五種正行には、
先ず初めに「礼拝正行」を置き、
自己の傲慢等を挫き霊感を祈り、
最後に、「讃嘆供養正行」。

「あみだ仏(ぶ)とたふたきかたをおもほえばおもふこゝぞいやたふとけれ」
(弁栄聖者)

○ 解 題・・・・・・(大南龍昇)

『人生の帰趣』は、柴武三氏の記憶によりますと、
「弁栄聖者がご生前に頼んでいた原稿があることを、
柴氏が聖者からお聞きし、そのことを田中木叉上人にお伝えし、
木叉上人がその印刷所を発見され、出版となった経緯がある」
のことです。

『弥陀教義』と『(三相)五徳論』については、
前者の『弥陀教義』は、
恒村夏山氏発行の雑誌に聖者が原稿を書かれていたもので、
四大智慧の「平等性智」で絶筆。
聖者三十三回忌の記念に刊行されました。
 
後者は、
聖者が、鈴木憲栄上人に、
自作の「(三相)五徳論」の清書を頼まれていたもの
があったとのこと。

弁栄聖者は、最晩年、
柴武三氏に、「”四大智慧”のまとまった本を書きたい」と漏らされ、
鈴木憲栄上人には、自作の「(三相)五徳論」の清書を依頼。

弁栄聖者の最晩年の御境界、真意を推察する上で、
この二つの逸話は、とても重要
であると思われます。

なお、大南師は、
「山崎弁栄は、・・・浄土宗門人としての生涯を送った。」
と記され、そのように弁栄聖者を捉えている方もおられますが、
この捉え方には、更なる検証が必要かと思われます。


○ 年 譜

「弁栄聖者は来たるべき太平洋文化時代にさきがけて
太平洋に面する千葉県に縁起されたのだ」
(田中木叉上人)



○ 山崎弁栄遺稿一覧

『弁栄聖者御遺稿集』「十二光体系」が揃っているのは、
兵庫県芦屋の「聖堂本部」。
書籍は、こちら。
PDFは、こちら。
聖者関連の書物の一部が、販売されているのは、
「一般財団法人 光明会」


○ 主要参考文献
特に、下記の書等。
○ 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』
○ 山本空外編『弁栄上人書簡集』
○ 仏陀禅那弁栄聖者著『光明主義玄義(ワイド増訂版)』 (書籍版PDF版)
○ 「光明主義の特長 杉田善孝上人」
○ 『笹本戒浄上人全集』等
○ 『光明主義注解』

○ 『田中木叉上人遺文集』
○ 『 田中木叉上人 御法話聴書』(冨川茂筆記/重住茂筆記)
○ 河波定昌師の各種書籍等
○ 山本空外上人の書籍等
○ 佐々木有一著『念仏の聖者 山崎弁栄』

最後に、触れておきたいことがあります。

弁栄聖者の御遺稿集及び弁栄聖者の情報等が、
インターネット、書籍等を通して入手しやすくなったこと
は、
真に喜ばしいことです。

一方、
その情報へのアクセス性の良さ、その迅速性と、
「弁栄教学」の理解のスピードとその深度が正比例するか
といえば、

身読には、「時熟」が、
更に云えば、「霊育、お導き」が、
どうしても不可欠であるようにも思えます。


したがいまして、
この度発行された山崎弁栄著『人生の帰趣(岩波文庫)』のような古典とは、
長期的な時間感覚をもって
弁栄聖者の文章、そこに潜む聖者の声に触れていただければ
と願っております。

長々とした拙文にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
ほんのさわり程度の補説ですが、
多少なりともご参考になる点があれば、幸いです。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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syou_en

Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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