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2019-04-03

『辨榮聖者 光明主義玄談 巻二 笹本戒浄上人述 泉虎一記』について


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『辨榮聖者 光明主義玄談 巻二 笹本戒浄上人述 泉虎一記』
2019年1月11日発行、二千円(送料別)。
順次、三巻~四巻を発行予定。
hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。

巻一については、以前ご紹介しました。

本書は、弁栄聖者、光明主義の「奥義書」とも言うべき内容の本ですが、
劇薬ともいうべき内容、表現が含まれているため、
「服薬の際の使用上の注意」が必要な、
"取扱注意の書"に類する本と云えるかもしれません。


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【笹本戒浄上人(1874~1937)】

田中木叉上人は、

「華厳絶対法相相対」

と、戒浄上人を批判されたことがおありになったそうで、
このことが、心の片隅に引っかかっていましたが、
本書を読み、胸のつかえが取れた気がしました。

戒浄上人ご生前中のご説法は、
「真実の自己」を中心とした、
如来四大智慧の一面である「平等性智」を、
ご法話上ではよく説かれており、
その在り方が、
弁栄聖者の御遺稿を編纂されていた木叉上人の眼には、
「師匠と弟子との相違」と映られたと推察できました。

ちなみに、
戒浄上人は、自覚的にその様にされておられました。

一つは、
弁栄聖者から、
「笹本の「覚(わか)り」は、
如来の平等性智を説いたものだ。
よくぞやった。」
とお褒めの印可をいただかれたこと。

二つめは、
修道論上からで、
五根五力の修行から択法覚支へ移る時の念仏が、
正しく容易にできるようにするために、
極めて大切なところ、
「自然界と心霊界をつなぐ唯一の橋渡し」のため。

また、
泉虎一氏の執拗な確認、問いに答えられ、

「私も弁栄上人の真似をさして頂いて
適当に方便を用いております。」

と、戒浄上人ご自身仰られています。

蛇足で恐縮ですが、
「方便」とは、
「うそ」ということでは勿論なく、
"真理"に導く為の、
その導かれる方にとって、その時点における"最善の真実"の意。


ここで、思い出されることがあります。

弁栄聖者の御遺稿を編纂された木叉上人が、
「弁栄聖者の方便説を除き、真実説のみを残した方がよいか。」
とお尋ねになった際、
「両説を残しておかれるように」
と戒浄上人は御教示されたとのこと。

方便説、方便説と真実説の混合説、真実説のみ、
この三種類の説が混在して説かれている弁栄聖者の御遺稿
を拝読する際に、
「見性の眼」(真実説を選び取る択法の眼)を得る様に努めることにより、
真実説が末永く残ることになるからとのこと。


本書に記されている戒浄上人の泉虎一氏への口伝、直授
"戒浄教学"を学ぶ際には、
"戒浄上人ご在世中のご自身の在り方、在り様"と、
"純粋戒浄教学(主義)"

この両側面に留意して、学んでいく必要があると痛切に感じました。

戒浄上人御在世中の実際の御教化の在り方、
即ち、衆生済度の在り方は、
必ずしも、「直線道」一辺倒ではなかった。


つまり、
戒浄上人ご自身も、
弁栄聖者とご同様、"宗教家"の側面がおありであった、
と本書で詳しく知ることができました。

ここでいう"宗教家"とは、
自内証の"真理"を説くことを最重要視するのではなく、
衆生済度の為に、"方便"も説く在り方(在り様)。

このことは、
本書の読者には、特に強調し、ご留意して頂きたい点です。
本書における泉虎一氏の表現、その劇薬への懸念ゆえ。


更にまた、本書により、
杉田善孝上人の御法話から受ける戒浄上人の印象と、
泉虎一氏から受ける戒浄上人の印象との差、

この違和感の謎もとけた気もいたしました。

とはいえ、
戒浄上人には、
弁栄聖者の真精神を伝えるという使命がおありになったので、

「木叉先生はよく
「(弁栄)聖者の皮肉骨髄の髄を承けていられるのは戒浄上人だ。
しかし上人は髄ばかりを説かれる。
もっと応病与薬のご説法をして下さるとよいのだが」
と昭和三十年代終わり頃までよく仰言った。」
(「戒浄上人と田中木叉先生」『「笹本戒浄上人伝」笹本戒浄上人全集 別巻』)

という木叉上人の逸話からも、
戒浄上人は、「弁栄聖者の念仏の真髄(見仏」)を強調されていたことが推察されます。


本書の特徴として、
更に、興味深いことは、
光明主義を信じる困難さ、難点の理由が率直に述べられている点です。

「現代の原始仏教の学者が
誰一人として異存なく釈尊の直説法を正しく伝えたと信じております
成立の最も古い原始経典のどこにも、
弁栄上人の御教え通りの三昧を釈尊が得ておられた事実は
明記してありません。」
し、

また同様に、
「善導大師、法然上人が最晩年に三身四智の仏眼を得ておられた事実も、
御自身の著述、直弟子への直説法のどこにも明記されていません」。


「しかし真相は弁栄上人の御教え通りであります。
弁栄上人の真精神通りに念仏して仏眼を得れば、
一切の人々が、真相は弁栄上人の御教え通りであることを認識できます」
と。

この戒浄上人の御教示の真偽の判釈には、
判釈者が、「仏眼」を得ていることが大前提となります。

より厳密には、「三身四智の仏眼」です。


「私は経文によって演繹的に説くのではない、帰納的に説いておる。」

この言葉は、弁栄聖者の戒浄上人への、
光明主義の理解上、極めて重要な御教示ですが、
本書にはそのことを証する逸話が記されています。

専門家の歴史的研究によりますと、
『仏説無量寿仏名号利益大事因縁経』は後世の偽作である、
偽経である、といわれておりますが、弁栄上人は、
「偽経であっても如来様の御教えを正しく伝えておるものは用いる」
と申されて引用なさいました。」


また、本書には、
文献学的にはうかがい知る事の出来ない法然上人の御境界に関する記述もあります。

「法然上人が最晩年(御遷化の数年間)に三身四智の仏眼を得ておられた」。

このことは、
『選択集』及び『三昧発得記』を法然上人が執筆した当時は、
三身四智の仏眼の境界ではなかったことを意味し、
法然上人の二祖聖光(鎮西)上人への直授は、
法然上人が『選択集』、『三昧発得記』を記された時期とほぼ重なることになります。

したがいまして、
光明会内にも、
伝統的な浄土宗乗から、更には、原始経典等の研究者からも、
必然的に、戒浄上人への批判が起こったようです。

本書には、
光明会内の、原始経典を重要視する某(K)博士の批判が引用されています。

その某(K)博士は、
文献学的、学問的観点等から、
通仏教の「縁起」、「空」を最重要視され、
したがって、必然的に、無相法身を最終根底とするお立場から、
弁栄聖者が最重要視された「見仏」を相対化されたようです。

本書では、某(K)博士を批判されていますが、
某(K)博士のご見解は、
通仏教の知識を持つ、大方の現代人の常識的見解であるとも考えられます。

弁栄聖者は「見仏」を強調され、
また、その「見仏」の意義を深く悟られた戒浄上人

「見仏」とは、
通仏教で説かれる、
"無相法身を悟るための善巧方便"では全く無く、
大宇宙の真相である、"本有無作の三身即一の大ミオヤ"と三昧合一する為の、
三身四智の仏眼に於ける三昧上の認識から帰納的に導き出された、
即ち、最深の仏身仏土論から必然的に導き出された"絶対中心道"。

本書で説かれる「直線道」の真意と思われます。

"「直線」道"という誤解を与えかねない言語表現に関しては、
表層的な印象、理解にとどまることのなきよう、切に望みます。

木叉上人は、
「光明主義は忠実にさえ研究すれば、学問の上からだけでも信じられるが、
それには相当な学問が要る。」(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)

と仰っています。

木叉上人の云われる「相当の学問」とは、
自然科学、哲学、思想、宗教学等の最先端の領域の学問的知識であり、
大部分の者には大変困難であると思われます。

光明主義が信じうる宗教かを検証するための、
一般に接近可能な方法の一つは、
弁栄聖者の行状記等の研究が推奨できます。
幸い、聖者の伝記には、 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』があり、
御遷化が大正期であり、史実に基づくもので、
この事実だけでも、大変貴重な書だと思われます。

もちろん、「十二光体系」の研究は不可欠ですが、
大変奥が深く難しいものですので、
弁栄聖者がどれほど信じるに値する方であるかを確かめるには、
聖者の伝記を読まれることをお勧めします。


本書を読まれる際の留意点は、
まだある様に思われます。

本書を注意深く拝読しますと、
微妙な表現がなされていることに気づかされます。

例えば、
「開示悟入それぞれの満位」の項目において、
「慧眼、法眼。仏眼の無量無数の三昧世界に
便宜上一往の区切りをつけて、」

また、
「私共の信念に報いて目的論的に私共をお育て下さいます事実を、
私共の方から見て自作自受といいます。他作自受とは申しません。」
などの表現があります。

前者は、
「仏眼における開示悟入」と「七覚支」の関係について、
を、定覚支、感覚的啓示の満位、
を、捨覚支、写象的啓示の一往の満位、
を、念覚支、理想的啓示の満位、
を、三身四智の仏眼、その満位を認識的一切智。超日月光位。

と、大ミオヤによる霊育過程を説かれています。

ところが、
「示を捨覚支、写象的啓示の一往の満位」と表現されているように、
写象的啓示の一部は、喜覚支において明確に自覚できると推察されますが、
その満位は、厳密には捨覚支であるとは云えないということが、
この「一往」には含意されていると推察されます。

また、法眼と慧眼とは認識機能上、区別されており、
無称光位の七覚支における霊育の内、
主として、喜覚支と軽安覚支において顕在化される認識機能であり、
喜覚支と軽安覚支における法眼と慧眼の霊育過程は、厳密には判別し難いと推察されます。
喜覚支、軽安覚支それぞれにおいて、
法眼と慧眼が、それぞれ全く独立してお育てを頂くとは考え難いです。

大ミオヤの真相が、
無相即有相、有相即無相であり、
自然界と心霊界の両面を統摂する絶対中心である、
大宇宙全一の重々無尽の絶対的現象態
であるため、
心霊差別現象を認識する法眼のお育てを頂いている三昧状態においても、
慧眼のお育ても、同時に不識的に頂かれているからこそ、
光明主義の「起行の用心」に基づく念仏では、
心霊差別現象である「霊応身」をご勧請するという信念に基づく念仏により、
無差別平等を認識する慧眼が自ずと開かれ、
先ず、慧眼満位となり、次に法眼満位となり、
慧眼と法眼が一致融合し仏眼が開かれ、
更なる大ミオヤの霊育により、
大宇宙の終局目的である「大ミオヤのお世嗣」の境界、
認識的一切智を究めていくという、
極まりなき無限向上へと導かれる、
という自然法爾の仏道
がそこに展開されると、
光明主義では説かれます。

また、別の表現では、

釈尊が説かれた人生の終局目的は、
「完全円満な霊我実現主義」、
即ち、人間に開発可能な認識機能である五眼(肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼)を円満に開発・霊化し、
完全な霊的活動をする身と成ること、

にあると説かれます。


先ほどの後者に関しては、
「私共の方から見て、自作自受といいます。他作自受とは申しません。」
と、「私共の方から見て、」という表現をされています。

大ミオヤの「自発的、能動的」働きという側面から見た場合には、
「自作自受」との表現が適切であるかどうかは、検討の余地が大いにあり得ると思われます。


本書には、
弁栄聖者が戒浄上人に仰っられた、
弁栄聖者の遺言ともいうべき言葉が記されています。

「弁栄上人はこの完全な体系の中心真髄と骨格をはっきりとお教え下さいました。
そして、その肉と皮は私共が付けるように、と申されました。」

「弁栄教学」の中心真髄が説かれていると推察される、
「戒浄教学」において究明されるべき課題として、
不勉強、不遜であるとの誹りを覚悟の上で、
特に以下の点を挙げておきたいと思います。

〇「直線道」の厳密な定義と適切な表現について
〇「自作自受」の厳密な定義と表現及び、
「回向」との関係の究明について
〇「名体不離」の宗教哲学的究明について
〇「開示悟入」と七覚支及び
「度生論」との関係の究明について
〇「開示悟入」と「観念的一切智、認識的一切智」との厳密な関係について
〇弁栄聖者が三身四智の境界に到達された時期
(三十歳頃と想定されている)の解明について
〇「(浄土における)一時的な有余涅槃」の境界の究明について
〇三身即一の大ミオヤと「無明」との関係、特にその意義について



なお、念の為に追記しておきたいのですが、
今回の記事の雰囲気から、
本書に批判的であるのでは?
との印象を受けた方がおられたかもしれませんが、
全くそうではありません。

本書の価値は計り知れないものであると認識しているからこそ、
泉虎一氏のこの記述の表現形態が、
本書の熟読を妨げはしないかとの強い懸念から、
今回の様な書きぶりとなってしまいました。

掘り出し物の中から発見されたお宝の様な本書を、
熟読されることを切に願っています。
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テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2019-01-31

2019年1月、弁栄聖者関連図書等の最新刊のご紹介


2019年、弁栄聖者100回忌を迎え、
一月早々に、弁栄聖者関連図書等が出版されました。

今回は、書名等のご紹介まで。


〇 『辨榮聖者 光明主義玄談 巻二
笹本戒浄上人述 泉虎一記』


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2019年1月11日発行、二千円(送料別)。
hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。
巻一既刊。
順次、三巻~四巻を発行予定。

弁栄聖者、光明主義の「奥義書」。


〇 佐々木有一著『山崎弁栄 弥陀合一の念仏』

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2019年1月20日発行、春秋社刊。1月26日発売。

筆者佐々木有一氏による、
弁栄聖者の高弟、特に笹本戒浄上人のご指南を中心に、
弁栄聖者、光明主義の研究成果等を基とした、
念弥陀三昧の念仏実修に係る、具体的な解説書。

佐々木有一著『近代の念仏聖者 山崎弁栄』の姉妹編。


〇 若松英輔「霊性論 ー第6章 山崎弁栄と霊性の哲学ー」
(『思想 2019年 第二号』)


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2019年2月5日発行、岩波書店。1月29日発売。

「彼の霊的遺産というべきものには、
後世のキリスト教者によってこそ、
発見されるべきものも少なくない。」

( 若松英輔、山本芳久共著『キリスト教講義』
(2018年12月刊、文藝春秋)

の巻末、ブックリスト山崎弁栄著『人生の帰趣』に紹介)

カトリック信者で、批評家である若松英輔氏による、
「弁栄聖者の霊性論」。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2019-01-01

2019年は、山崎弁栄聖者の百回忌。各種記念事業等が企画されています。


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【山崎弁栄聖者(1859年~1920年)】


「私は光明主義の基礎と家丈けを建てゝおいた、
各部屋の荘厳はお前達が力を合せて完成せよ。」


と、弁栄聖者は弟子達に仰せられたとの事です。(恒村夏山)」
(弁栄聖者著『弥陀教義』)

弁栄聖者の絶筆。
京都光明会誌「光明」に掲載中であった『弥陀教義』。
惜しくも、四大智慧の平等性智で絶筆。

したがって、
弁栄聖者提唱の光明主義、光明会は、
無限向上途上。

2019年は、
弁栄聖者百回忌を迎える年
にあたり、
聖者を信奉する者が、聖者の遺産を引き継いで行く覚悟
を新たにする契機となる年となりましょう。


2019年は、
百回忌関連記念事業等が、計画
されています。

弁栄聖者の信奉者、各組織等が、
統一的に実施するわけではありませんので、
現時点で知り得る限りの情報をまとめてみました。
ご参考になさって下さい。

【記念事業等】

〇 乃木坂オフィス開設記念企画展Ⅰ 弁栄上人の書画美術
【会期】: 平成30年12月18日(火)~12月27日(木)
午前10時~午後5時(最終日は午後3時終了)
【会場】 六彩居ギャラリー: 東京都港区六本木3-6-1 丹波谷六彩居ビルディング
企画は終了していますが、図録は販売中
岐阜県の「山崎弁栄記念館」を運営の「長良川画廊」乃木坂オフィス。


〇 「百回忌記念法要」
日時 2019年5月11日~13日
場所 神奈川県 光明学園相模原高等学校
詳細と申し込み開始は2019年1月頃にお知らせ予定。

〇 「行誡と弁栄」展
日時 2019年5月11日~19日
場所 東京都 両国回向院
全国の有縁の地に収蔵されている弁栄上人珠玉の作品を、
東京の名刹寺院、両国回向院に結集し展示。
当院は若き弁栄上人と縁の深い福田行誡上人が住持された寺院。
福田行誡上人の作品も合わせて展示予定。

〇 「念仏フェスティバル」
日時 2019年10月11日~20日
場所 東京都 大本山増上寺
念仏フェスティバルとして、
10日間の報恩別時念仏会を実施。
併せて、講演会や演奏会、落語会などを予定。

〇 「知恩院勢至堂別時念仏会」
日時 2019年10月27日
場所 京都府 総本山知恩院
知恩院勢至堂にて別時念仏会を厳修。
詳細と申し込みは2019年2月頃。

〇 「七日間別時念仏会」
日時 2019年11月28日~12月4日
場所 愛知県 三河法城寺
弁栄上人開山の愛知県三河法城寺にて、
上人ご正当別時に、
若手僧侶を中心とした「為先会」に協働。

以上,、「山崎弁栄上人讃仰会」HPより。


〇 「弁栄聖者百回忌記念 インド仏跡参拝」
日時 2019年12月27(金)~1月5(日) 
「岐阜光明会」主催。


【出版関係】

〇 山崎弁栄著『人生の帰趣』(2018年4月刊、岩波文庫)
(注解=藤堂俊英,解説=若松英輔,解題=大南龍昇)


※ 若松英輔、山本芳久共著『キリスト教講義』
(2018年12月刊、文藝春秋)

の巻末、ブックリストに『人生の帰趣』を紹介

「彼の霊的遺産というべきものには、
後世のキリスト教者によってこそ、
発見されるべきものも少なくない。」
と。

なお、
東京練馬光明園河波昌前園主ともご縁の深かった、
カトリック川越教会の加藤智神父

加藤神父は、現代の浄土宗ではあまり注目されていないように見受けられる、
法然上人の「三昧発得記」とミサとの関係に着目され、
2014年に、大変示唆に富む論文を執筆されています。

「加藤智「法然上人の念仏の相続における「三昧発得」
ーその必然性と意義/一カトリック司祭の視点からー」
(藤本淨彦先生古稀記念論文集刊行会『法然仏教の諸相』)



〇 『笹本戒浄上人述 泉虎一記 辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』
2018年刊、二千円(送料別)。

hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。
順次、二巻~四巻を発行予定。

〇 佐々木有一著『山崎弁栄 弥陀合一の念仏』
(2019年1月26日発売予定、春秋社刊)


〇 若松英輔「弁栄の霊性論」(『思想 2019年2月号』
2019年1月末発売、岩波書店)


〇 『山崎弁栄上人遺墨集』の出版予定
平成二十六年より行われている弁栄上人遺墨調査により、
千点以上の弁栄上人の掛軸・御手紙や遺品などを発見し調査。
その調査の集大成を『弁栄上人遺墨集』として出版予定。

〇 『山崎弁栄上人著作集』の出版予定
弁栄上人の印行されたものを中心に、
執筆年時が判明しているものを時系列に掲載。

上記2点は、「山崎弁栄上人讃仰会」HPより。


〇 『山崎弁栄上人 著作選』出版事業
遠藤喨及(りょうきゅう)氏による発願。
1000部の購入予定者があれば、法蔵館から出版可とのこと。

〇 「杉田善孝上人の御法話集刊行予定」
芦屋聖堂出版.。


【情報発信等】

〇 「山崎弁栄上人讃仰会」HP

〇 「香阿昭教氏のツイッター」

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2018-12-10

明恵上人と弁栄聖者に通底すること


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「明恵上人樹上座禅像」

明恵(みょうえ)上人の名は記憶に無いという方も、
この写真には見覚えのある方もいらっしゃると思います。


紀州和歌山。
弁栄聖者との関連で云えば、
徳本行者 が先ずは思い付きますが、
明恵上人も忘れることはできません。

明恵上人(1173年~1232年世寿60歳)は、
鎌倉時代に活躍された「華厳宗中興の祖」
として一般には知られています。
『摧邪輪(ざいじゃりん)』等で法然上人を批判され、
また、『夢記』を生涯書き記され、
「清僧」
としても知られています。

〇 白洲正子著『明恵上人』
〇 河合隼雄著『明恵 夢を生きる』
によって明恵上人に興味を持たれた方も多いかもしれません。


紀州和歌山有田市周辺には、
【明恵紀州遺跡卒塔婆】、別称「明恵上人紀州八所遺跡」があります。
明恵上人が没した後、
弟子の喜海が上人の修行した草庵跡7ヵ所と誕生の地に木製の塔婆を建立。

「明恵上人紀州八所遺跡」は、
目立たぬわかりにくい処にひっそりとあることが多く、
土地勘のある者でないと、なかなか辿り着けないことが想定され、
大事な時間を有意義に活用するためにも、
明恵上人関連の本、論文、ブログ(の記事、写真)、地図等で、
事前にしっかりと、確認し、計画を立ててから、
参拝されることを是非お勧めいたします。


今回は、明恵上人ゆかりの遺跡を訪れる機会を得ました。
時代がかなり隔たっていますが、
現地に来なければ、感じることのできない何かに触れた気がし、
明恵上人をもっと知りたいと思うようになりました。


〇 【吉原卒塔婆】

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平安時代後期、 1173年(承安3)に誕生した地に立つ卒塔婆。
紀州八所遺跡の一つ。
紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現在の有田郡有田川町歓喜寺字中越179)。

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【上人胎衣塚】
明恵上人誕生地の西側に隣接。
上人が生まれた時の胎盤を埋めたとのこと。

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【歓喜寺】

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明恵上人吉原遺跡に近接。上人ゆかりの寺院。
平安時代 986年(寛和二年)恵心僧都源信が創建したと伝える。
鎌倉時代中期 1249年(建長元年)
明恵上人の弟子 喜海が湯浅宗氏の協力を得て再興。

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【紀州和歌山 湯浅】

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明恵上人とゆかりの深い紀州和歌山湯浅は、
醤油で栄えた地として全国的に知られていますが、
また、熊野への街道が開けていた地でもありました。

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【施無畏寺】

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和歌山県有田郡湯浅町栖原1465。 
JR 湯浅駅から、3キロ程。
駅近くにレンタル自転車がありますが、
結構きつい坂道もあるため、車でないと厳しいかもしれません。

明恵上人開創。
上人が修業をした白上山の中腹にあり、
境内からは、湯浅湾に浮かぶ明恵上人ゆかりの刈藻島、鷹島が見えます。
春には桜の名所としても有名なお寺。

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「施無畏寺」を左手に見ながら、数分程登ります。

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明恵上人は、ここから更に登った、
白上山にこもり、修行をされました。

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〇 【西白上卒塔婆】
和歌山県有田郡湯浅町栖原。
西白上山頂上にあり、
1195年(建久六年)、23歳の時、
草庵を建て厳しい修行をした処。

〇 【東白上卒塔婆】
和歌山県有田郡湯浅町栖原。
明恵上人は、西白上が騒がしいため東白上に移り、
覚悟を新たにし、右の耳を自ら切った。
その翌日、眼前に文殊菩薩が顕現し、霊感を得

明恵上人は、武士の御子息ということもありましょうか、
とても激しく、潔癖な面があったようにも思われます。


この項目に関連し、ネットでも読むことができる示唆深い、
「参考文献」としては、
『明恵をめぐる奇瑞と信仰の磁場
― 白上峰の文殊顕現と春日明神の託宣 ―
平野 多恵』



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【仏眼仏母像】

明恵上人がとても大切にされた「念持仏」


明恵上人は、この事と関連した宗教体験時の心境を記録に残しています。

「虚空カガヤクコトカギリナシ、ソノ光明ノ中二、
大聖マナアタリ現ジタマフ、歓喜勝計スベカラズ」。


この時の宗教体験は、
明恵上人に大変な影響を及ぼしたらしく、

「皆に説法などできるのも、あの文殊顕現を見たおかげである」
と弟子たちに、この時の事を語られていたといわれています。


「仏を見る事(見仏)」が、何故それほど重要なのか
と疑念を抱かれれる方もいらっしゃるかもしれません。

弁栄聖者は、
「見仏三昧」を生涯強調
されました。

三昧定中における「見仏」においては、
「見る」ことが、五感の一機能である「視覚」のみならず他の感覚をも包含。
また同時に、
「大宇宙全一の大心霊態は、
大智慧態にして妙色相好身。
色心不二の大心霊態」
故に、
「見仏三昧」の宗教体験は、智慧の啓けが必然。

弁栄聖者は、
御自身の三昧体験による自内証の上から、
『華厳経』、『大乗起信論』等に基づき、各書に説かれています。


「道場に入る毎に生身の仏の御坐と思て、
正く生身の如来の御前に望む思を成べし。
木に刻み絵に書たるを生身と思へば、
やがて生身にて有なりと云々。」
(『栂尾明恵上人遺訓(『阿留辺畿夜宇和 あるべきようわ)』)


「彼の十住の菩薩、
如来の微妙の色身を愛して、菩提心を発(おこ)す。
これ即ち、親愛の菩提心なり。
況や、軽毛退位の凡夫有徳の人に於て、
愛心無きは、即ち法器に非ざる人なり」

とは、明恵上人の大変示唆に富む御教示。


明恵上人の『夢記』の第一人者の奥田勲氏が、
『明恵 遍歴と夢』において、
明恵上人の夢の特徴を分析されています。

ユング派の「能動的想像」を連想します。
芸術家の創造的作品とも共通するもので、
作品の自律性と作者とのある種の緊張関係、
多量の心的エネルギーが必要である点が、
空想とは決定的な相違点。

また、
「夢が個人のものではなく、集団の共有物」、
「夢の共有」という興味深い観点。


「四十歳代の明恵に弟子として近侍した隆弁は、
明恵は常に、坐したまま熟睡するのを見たという。
その時、印を結んだ手を右脇に当てて眼をふさいで眠りに入り、
それによって未来のことを知り、
他人の心中を透視することができた
という。」

と、同書の「夢を見る方法」において、
大変興味深く、貴重な記録が記されています。


「(弁栄)聖者はお念仏しておられる時に
よく木魚のバイが止まっていることがある。
・・・
私どもはそれが眠っておられるのではないかと思っていた。
・・・それは三昧に入ったことのない者には
眠っておられるようにみえる」

(鈴木憲栄著『ミオヤとのめぐり会い』)

笹本戒浄上人にも似たような逸話が、
身内である御子息の戒浄上人の念仏のご様子の描写にもあることから、

"明恵上人の眠り"とは、
三昧定中の御様子
と推察します。


明恵上人は、
「釈尊」を慈父、「仏眼仏母像」を慈母の如くに憶い、
三昧修行をされました。

この「釈尊」及び「人格的如来身」への一途な思(恋)慕は、
弁栄聖者とも共通し、注目すべき特徴であり、
明恵上人と弁栄聖者が「石化」しなかった理由とも思われます。

明恵上人は、
或る時期から「仏光観」に基づく修行法をされましたが、
この点に関しては、後ほど触れたいと思います。


また、
生涯禅定修行に精進された明恵上人には、
不可思議な力(法力)、いわゆる「超能力」がありました。

そんな上人を「権者」と、
人々が言っていると弟子たちが伝えると、

明恵上人は、慨嘆して次のように言われたと伝えられています。

「あら拙(つたな)の者共の云ひ事や。・・・
我は加様に成らんと思う事は努々(ゆめゆめ)無けれども、
法の如く行ずる事の年積るままに、
自然と知れずして具足せられたる也。

汝どもが水の欲しければ水を汲みて飲み、
火にあたりたければ火のそばへよるも同じ事也」。

弁栄聖者にも似た様な逸話が多数残っており、
その種の事は日常茶飯事
であったようです。

弁栄聖者が川べりを歩かれていた時、
急に立ち止まり、念仏をされたことがありました。

侍者がその理由を聞くと、
「水底に死体がある」と言われた。

村人の話しによると、水死体が上がらず困っていたので、
半信半疑でその場所を探したところ、
水死体が見つか
りました。
そのことを聖者にお伝えすると、
「そうですか」と特に気にされていないご様子でありました。


「五眼(※)明了に開き来て
始めて円満なる仏教を信ずることを得べし。」(弁栄聖者)


※ 五眼とは、肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼のこと。
仏教では古来より、人間に開発可能な一切の認識能力を五眼に分けて説く。
(参考文献:「成所作智」『弁栄聖者光明体系 無辺光』)


この明恵上人と弁栄聖者の逸話に通底する大切な御訓示は、
時に世間を騒がす"超・能力"と云われる現象に対するあるべき態度です。

"その種の能力は、修行により、自ずと具足されるものであり、
その能力それ自体には、真の価値は無い。
真に価値があり目指すべきは、
その法力を生かす大智慧と大慈悲を兼備した霊格"


真に尊崇出来得る尊者方に共通した顕著な特徴であり、
宗教現象と向き合う際の、極めて大切な心構えだと思われます。

なお、この「超・能力」に対する姿勢は、
とても重要なことだと思われますので、
ユング派の"共時性(シンクロニシティ)"・"布置(コンステレーション)"
の概念を通して、後ほど改めて考察したいと思います。


明恵上人は御臨終の間際に、
「我、戒ヲ護ル中ヨリ来ル」と告げられたといいます。

明恵上人が批判された法然上人は、
三昧発得された、明恵上人同様「生涯不犯の清僧」でもありました。

法然上人にとっては、
「戒ヲ護ルコト」が念仏三昧の中で、自ずと成就されていらっしゃいました。

「見仏の要は、一切心意を仏化するにあり。」
とは、弁栄聖者の御教示であり、

「見仏」による功徳には、戒体発得の力用(働き)もあります。

このことは、
法然上人の『御臨終日記』に、

法然上人が、御臨終時に、
「慈覚大師の九条袈裟を着し」

と、法然上人が念仏三昧発得に伴う霊化により、
「戒体発得」されていた
ことが、
象徴的に見事に記されています。

『御臨終日記』は、
(見仏)三昧発得による功徳とは何か
を具に知り得る大変貴重な資料
ともなっています。

なお、
「戒律」に関して、
明恵上人の示唆に富む逸話があります。

「上人常に語り給ひしは、
「幼少の時より、貴き僧に成らん事を恋ひ願ひしかば、
一生不犯にて清浄ならん事を思ひき。

然るに、何なる魔の託するにか有りけん、
度々に既に婬事を犯さんとする便りありしに、
不思議の妨ありて、
打ちさまし打ちさましして、

終に志を遂げざりき」と云々。」
(平泉洸全訳注『明惠上人伝記』)

ここで、留意すべきは、

"戒律を守ることができる"必須条件として、
"克己心の強さ(自力)"と、
"不思議の妨げありて(他力)"
という自力と他力の両面からの表記をされている点です。


明恵上人は、
アッシジの聖フランチェスコと比較されることがあります。
1986(昭和61)年
イタリアアッシジの聖フランシスコ教会とブラザーチャーチの約束を結ば
れました。


なお、
今回は、明恵上人の法然上人批判書である『摧邪輪(ざいじゃりん)』については、
深入りしませんが、
河合隼雄著『明恵 夢を生きる』に、とても気になる箇所がありますので、
その個所を是非引用しておきたいと思います。

明恵上人『夢記』で、建永元年(1206年)11月とされている夢。

「一、一つの檜皮屋(ひはだや)有り。
一人の長高(たけたか)き僧有り。
白衣なる心地す。笠を著たり。
心に思はく、法然房也。
我が仏事の導師すべし。
其の聴聞の為に來られ、我が房の中に入りて、饗応して二三日を過す。
明日の仏事を、使者を以て白さく。
「日来、仏事結構之間に、忩々(そうそう)に走り過ぎ了んぬ。
今夜見参加に入らむと欲す。
明日は時畢(をは)りなば仏事有るべし。
其の以前は又、忩々為(た)るべき」由をと云々。」

「一、南都の修学者筑前房等、侍従房に來る。
此の破邪見章を見せしむとて、又、上師、之を御覧ず。
心に思はく、よひに御覧ずべき由を申しき。
之に依りて御覧あり。
其の御前に人ありて、此の書を隨喜して哭すと云々。
上師云はく、「えもいはず貴き書也」と云々。」

この夢記の執筆の時期に、
河合氏ならではの関心を寄せています。

法然上人著『選択(本願念仏)集』の執筆は、
建久9年(1198年)、上人66歳の時に、
九条兼実の懇請により、
執筆されたとされるもの。
ところが、この書は、
誤解を招きかねない内容を含むものであるため、
最末尾に、

「庶幾こいねがわくは一たび高覧を経てのち、
壁底に埋めて窓前に遺すこと莫れ。
恐くは破法の人をして、悪道に堕せしめんことを」

と一部の者にしか書写を許されなかった書でした。

勿論、
このような思想が、突然出来あがるはずのものではなく、
しばらく前から、法然上人の言動等には、顕われていたはず。

明恵上人の『摧邪輪』は、
建暦2年(1212年)、
法然上人の御遷化(80歳)後に、書かれもの。
この書も、これほど短期間で書き上げられたかは疑問が残ります。

もしも、この夢が、建永元年(1206年)11月であれば、
明恵上人は、『選択集』を読んでおらず、
明恵上人は当時、法然上人を尊敬されていたので、
自分の導師に法然上人を、とはそれほど不自然ではありません。

ところが、
「破邪見章」を『摧邪輪』とすると、
前の夢も『摧邪輪』執筆後となります。
明恵上人の『夢記』には、
「記事に錯乱や順逆が考えられる」
と云われています。

とすると、
この夢の解釈は大いに変わり、
河合隼雄氏は、

「意識的には明恵は法然を烈しく非難しつつ、
無意識には法然を評価していたことになってくる」。


また、夢の中の、
「我が仏事の導師すべし」は、
原文では、
「我、仏事の導師すべし」とも読め、
後者とすると、明恵上人が導師となる。

真に興味深い仮説を提起されています。

なお、
「我、仏事の導師すべし」を、
明恵上人が法然上人の導師となります。

明恵上人が、
法然上人が『選択集』に込められた深意を受け取られ、
その深意を受け取られた夢の明恵上人(=最晩年の円熟された法然上人の思想等)が、
『選択集』執筆時の法然上人の導師となっている。
と解釈することが許されれば、
また、とても意味深い夢ともなります。


もう一点、
次の夢は、河合氏も注目されていますが、

明恵上人の『冥感伝』
承久二年八月の夢に、
「初夜の禅中に、
身心凝然として、存るが如く、亡きが如し。
・・・予、杖に懸りて速かに兜率天に至り、弥勒の楼閣の地上に着す。
その間、身清涼として心適悦す。」

三昧宗教体験の功徳が、
心のみなず身体性へも及ぶ
ことは、注目すべき点。

ここでも留意すべきは、
明恵上人にとっては、あるいはこの時代の常識では、
「夢と三昧定中との境界が混然一体」となっている点。


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西白上笠塔婆の近くから、
湯浅湾に浮かぶ鷹島と苅藻(かるも)島を眺められた
と思いますが、
お詣りできなかったため、「施無畏寺」付近から。

明恵上人が手紙を出された、島。

明恵上人は、
釈尊を慕う気持ちが殊の外強く、
度々、鷹島や苅藻島に渡り、天竺(インド)に向い礼拝されていたようです。

鷹島では、小石を拾い生涯大切にし、
「われさりて のちにしのばむ 人なくば
とびてかれね たかしまの石」(明恵上人)


川端康成氏が、
ノーベル文学賞授賞記念講演、
「美しい日本の私―その序説」で引用されたことでも知られる
「月の歌人」とも称される明恵上人作の、

「あかあかや あかあかあかや あかあかや
あかあかあかや あかあかや月」


「仏光三昧」定中のご道詠かと。

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〇 【筏立卒塔婆】

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和歌山県有田郡有田川町歓喜寺字西原1103。
『華厳経』 修行の地。

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明恵上人、26歳~29歳、
1198年(建久九年)から三年間修行を重ねた所で、
ここで「唯心観行式」や「随意別願文」などを著す。
笠塔婆は破損の為、1802年(享和二年)に再建。

遺跡の西側(向って左)の平地は御厨平と呼ばれ、
華厳院建久寺があったと伝えられています。

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〇 【糸野卒塔婆】

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和歌山県有田郡有田川町糸野字上人谷650-1。

明恵上人、29歳~30歳。
1202年(建仁二年)伯父 上覚上人から伝法灌頂受けた所に立つ卒塔婆。
紀州八所遺跡の一つ。
伯父の地頭職 湯浅宗光の招きにより、
ここ糸野 成道寺背後の草庵に移住。

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〇 【星尾卒塔婆】

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和歌山県有田市星尾700和歌山県有田市星尾。

目印は、
「天台宗 星尾山 神光寺」(和歌山県有田市星尾700)へ行く少し手前の小高い処にあり。

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明恵上人が修行の為、草庵を結んだ跡で、
紀州八所遺跡の一つ。

1203年(建仁三年) 上人 31歳の時、
ここで春日大明神の託宣を受けました。
春日大明神の御託宣によりインドへ渡ることを思いとどまりました。
刻銘は、明恵上人の高弟 喜海が1236年(嘉禎二年)に建立した
木造卒塔婆の文面がそのまま刻まれています。
明恵上人の弟子の喜海が嘉禎年中に立てた木造卒塔婆が古くなり、
1334年(康永三年)弁迂が勧進し、石造卒塔婆に建替え。

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〇 【神谷後峰卒塔婆】

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和歌山県有田郡有田川町船坂字聖人793-1。

明恵上人、32歳。

神谷後峰遺跡は山深い所、
細い道路のさらに下、みかん畑の中にあります。

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師 文覚の対馬配流に始まる一連の混乱を避ける為、
この地域の古刹 最勝寺の裏山に草庵を建て移住。
ここでは大仏頂法(敬愛・息災・増益の行法)を修す。

この地で、再び、天竺行を計画。

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〇 【内崎山卒塔婆】

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和歌山県有田郡有田川町井口22-2

明恵上人が、36歳から38歳頃まで修行を行った地とされています。
養母の崎山尼が夫の没後、当地に寺を建て明恵上人を招きました。
明恵上人は、その背後に草庵を建て修行を行いました。

ところが、
明恵上人紀州八所遺跡の中、
この崎山遺跡のみが、卒塔婆の所在が不明となっており、
遺跡の正確な位置が不明とのこと。

現在、法蔵寺の境内に復興された卒塔婆が立っています。

それで、町指定史跡。

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※ 特に、今回の参拝にあたり、下記のブログがとても参考になりました。
感謝いたします。
『明恵上人(みょうえしょうにん)紀州遺跡 笠塔婆』


この後、明恵上人の活動の中心は
京都栂尾高山寺に移られました。


先にも触れましが、
明恵上人の宗教性を知るには、
河合隼雄著『明恵 夢を生きる』が特にお勧めです。
ユング心理学をベースにした臨床心理学者であった河合氏の、
明恵上人の行状と明恵上人の夢の記録の解釈が、
とても興味深くかつ示唆にも富んでいます。

河合隼雄氏は、
「ユング心理学」の日本への紹介者として知られています。
現在、カウンセリングに係る資格問題を巡って、
議論の渦中にあるようですが、
日本に心理臨床の精神を根付かせた功労者として、
大方の合意は得ているように思われます。

現在の心理臨床の世界は、
深層心理学的な療法よりも、認知行動療法が主流となりつつあるようです。
河合氏の臨床的英知には依然学ぶべき点は多いですが、
あるいは今後、「思想家 河合隼雄」の面が認識されていくのかもしれません。

「思想家 河合隼雄」に長年注目されている、批評家の若松英輔氏は、
「たましいを旅するひと──河合隼雄」を、
月刊誌『群像』に連載中。


明恵上人は、
河合隼雄氏にとって、日本人としての唯一の師でありました。

河合氏が、明恵上人に関心を深めていかれたのは、
「心理臨床の実践」を通してでした。

何故、「心理臨床の実践」を通してであったのか。

河合氏が心理臨床家であったということは、
面接室という「非日常的な空間」での事象であったことを意味します。
それ故にこそ、
「意識が特別な状態であり続けられた」ことになります。
そのことは、 「特別の意識状態を保ちながら」
「強烈にコミットして、関与した存在であった」ことも意味します。

往々にして、自身に関することは盲点となりますので、
信頼でき、関与しながら観察する他者の存在(視点)が不可欠

河合隼雄氏はユング派ですので、当然「夢分析」も用います。
もちろん、「夢分析」だけではなく、「箱庭療法」等も用いられました。

河合氏は、日常では、冗談を連発し、
おしゃべり好きの方とお見受けしましたが、
心理臨床場面においては、
意外なことに、
極めてストイックで、無口な面もあったようです。
天性の"臨床感覚"にも優れ、
極めて"リアリステイック"な方でもあったように思われます。
"リアリステイック"とは、
現実の真相(深層)を察知する「透見の明」の持ち主。


明恵上人は、「夢記」で知られていますが、
「夢」については、通常、あまり顧みられず軽視されがちです。

少なくとも数週間、出来得れば、数か月間に渡り、
夢を記録し、その夢についてしばらく思い巡らし、
その際に、現実との関連性をも注意深く観察出来れば、


「「夢」は、決して荒唐無稽の出鱈目な産物ではなく、
そこに、意味が有りそうだが、よく分からないことが多い。
また、夢は、夢見ての意識状態、実生活と密接に関連しながらも、
必ずしもそれと一対一対応の関係にあるとは限らず、
そこには多義、多層的な意味がありそうだ。」

ということにおそらく気づかれるでしょう。

また、同時に、
夢の不可解さを抱える困難さを実感し、
明恵上人が、何十年にも渡り「夢記」を記せたこと、
その長期間の継続それ自体に、驚嘆されるかと思われます。


「睡眠」、「夢の意義」は、
現代科学においても今だに定説が無いようです。


「仏は夢を見ない。」

と云われますが、
この言い伝えは、意味深長であり、
「夢とは何か」を考察する際の示唆を感じます。

あるいは、
「夢とは仏へと至る道でもある。」
とも言えるかもしれません。


河合隼雄氏の京都大学の最終講義は、
「布置(コンステレーション)」でした。

「コンステレーションー京都大学最終講義ー」(『こころの最終講義』)に、
真に幸いなことに、その記録が残されています。

河合隼雄著『明恵 夢を生きる』では、まだ遠慮気味であった、
心理臨床上、日常生活上にも、とても重要と思われる、
「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」について、
河合氏の経験と思索の深まりを感じます。

河合氏は、
「共時性(シンクロニシティ)」、「布置(コンステレーション)」の概念の紹介には、
極めて慎重
でありました。

河合氏の特異な特徴として、
鋭敏な"政治的感覚"とも呼ぶべき感覚があるように思われます。
賛否両論はあったようですが、
河合氏は、文化庁長官も務められました。


ご自身の心理臨床実践を通して、
「共時性(シンクロニシティ)」、「布置(コンステレーション)」の現象には、
「主体者と関与者の在り様(関係性)が重要な意味を持つ。」
ことを次第に認識されていかれました。

また、
「布置(コンステレーション)」に関して、
「気配を読み取る」態度、
つまり、「見えないものを感知する力」の重要性を指摘されています。

ここで河合氏が、
「気配」と表現していることに留意したいと思います。


「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」に対する、
河合隼雄氏の姿勢に関して、
是非触れておかねばならぬことがあります。

「コンステレーションー京都大学最終講義ー」
(『こころの最終講義』河合隼雄著)
において、

「「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」は、起こせるのか。」

と、河合氏自身にとって、極めて切実で重要な問いを発しています。

河合氏の師であるA・マイヤー先生の心理療法についての
シュピーゲルマンの論文に、

「マイヤーはその人の自己実現の過程をコンステレートするんだ。
そして、その人が自己実現の過程をコンステレートして自己実現の道を歩む限りにおいて、
その人とともについていくのだ」。

これは、河合氏にとって非常に衝撃でした。

「人間が何かをコンステレートするなんて他動詞として用いることなど
考えられないと思っていたんですね。」


これは、一面とても合理的な思考の持ち主であった河合隼雄氏らしい感想。

河合隼雄氏の心理臨床実践の真骨頂は、
「コンステレート」に関する、
その自動詞と他動詞を巡る真摯な対話の内にこそあった。

これこそ、「思想家 河合隼雄」の誕生の源泉でもあったと推察されます。

後年、河合氏が、
明恵上人と、イスラーム神秘哲学の権威でもあった井筒俊彦氏に導かれて、
『華厳哲学』に特別の関心を深めて行かれたのは、必然でありました。


「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」の現象への関心は、
特定の宗教を信じているか否かを問わず、
「人間を超えた働き」を感知する貴重な契機
また、現世での生活を意義深いものへと深化させる機会
ともなりうるものと思われます。

「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」という現象は、
実は、日常的にありふれた現象、出来事でありながら、
通常は、私たちの意識からこぼれ落ちていることが間々ある
ということなのかもしれません。

ただし、
「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」の読みには、
いわゆる「唯一の正解」はなく、
したがって、浅深の捉え方の差はありえます。
当事者本人に、その意義付けが、
「腑に落ちるといった感触が、一つの重要な手掛かり」
となるかもしれません。

『弁栄聖者御遺稿集 無辺光』で詳述されている
「大円鏡智」・「妙観観智」の如来無差別智の知見が、
有益な手掛かりとなる
ようにも思われます。


河合氏の著作の中から、
この「共時性(シンクロニシティ)、布置(コンステレーション)」に関して、
示唆に富む箇所を若干引用します。

〇 「要するにコンテレーションを見るというのは、
いいときに後ろを見ないとだめなんですね。

・・・心理学者は、後ろからいろんなのが来ているのに全然見ない。
時々、非常に上手に、何にもないときに後ろを見るんですね。
そして、言うんです。・・・
「後ろを見ました。完全に見ました。何にもありませんでした。
・・・私は実証的にやっております」と言うんだけれども、
一番大事なときには後ろを向いていない。」
(「コンステレーションー京都大学最終講義ー」『こころの最終講義』河合隼雄)

河合隼雄氏一流の、
"リアリティ"に触れようとしない実証主義を標榜する心理学者批判。


〇 「実際にぼくが遭遇している現実では偶然ということが多いんですよ。
ぼくはときどき冗談半分で「あなたは絶対に治らないだろう」と患者さんに言う。
しかし、偶然ということがあるから、ぼくはそれに賭けているからやりましょう」と言う。
そして実際にそうなるんです。
ぼくは何をしているかというと、偶然待ちの商売をしているんです。
みんな偶然を待つ力がないから、何か必然的な方法で治そうとして、全部失敗するのです。
ぼくは治そうとなんかせずに、ただずっと偶然を待っているんです。」
(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)

"何故、河合隼雄氏には、偶然が頻繁に起こったのか。"

この問いは、極めて重要な問い。
認知科学の知見だけでは、解きえない現象だと思われます。


「何もしないことに全力を傾注する。」
とは、河合隼雄氏の口癖でありました。

この"臨床的構え"を身に付けるには、
どれほどの修練と凄まじい心的エネルギーが必要であることでしょう。

村上春樹氏と云えば、
全世界的な読者層を獲得している大作家。
その村上氏をして、
「"自分が云う物語"ということを理解できる唯一の人物」と云わしめたのが、
河合隼雄氏でした。

「魂のいちばん深いところー河合隼雄先生の思い出」:村上春樹

全世界的な読者層を獲得する作家の洞察による、
真に鋭く、的確で、優れた「河合隼雄評」。


〇「小川 秘密を守らなくてはならないという先生のお仕事は、
すごく苦しくて大変でいらっしゃるのでしょうね。

河合 ・・・僕はこの頃よう言ってるんですけど、
「僕はアースされているから大丈夫」なんです。
・・・「うん、それで、最後は地球にお任せしてるってね(笑)。」
(小川洋子 河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』)

河合氏は冗談風に語られていますが、
特別な宗教的修行をせず、
心理臨床に真摯に取り組まれることによって、
この境地にまで至られたのかとの驚きを禁じえません。

精神分析では、「転移⇔逆転移」ということが大変重視されます。
濃密な人間関係に不可避のある種の強烈な相互作用に無自覚故に、
関係者双方、周囲にとっても不利益となる場面を見聞きしますが、
河合氏は、その困難さを克服されつつあったのでしょう。

なお、ユング派の、
A・グッゲンビュール=クレイグ著
『心理療法の光と影 援助専門家の《力》』

は優れた名著で、とてもお勧めです。
近日中に復刻とのことで、大変喜ばしいことです。


弁栄聖者が、
一所不住の布教活動がお出来になったのは、
"並々ならぬ克己的な自力的な精進力"だけではありえません。

「・・・教え主世尊が六根常に清らかに光顔(みかお)永(とこ)しなえに麗しく在ししは 
内霊応に充(みち)給いければなり」

『如来光明礼拝儀』にあります。

この箇所は、『無量寿経』の「三相五徳」として知られた箇所ですが、

「『内霊応に充(みち)給い』とは、
無住処涅槃の如来無対光の境界における
応身仏釈尊の三身四智の仏眼に依る自受用三昧を、
弁栄聖者が表現されたもの。」


と笹本戒浄上人はご教示されています。

「弁栄聖者の精力的な布教活動の源泉は、
こんこんとして湧出する"大ミオヤ"の神的エネルギーの供給。」



河合隼雄著『明恵 夢を生きる』には、
他にも、明恵上人の身体性、女性性、宗教と性の問題等、
とても興味深く示唆に富む考察がなされていますので、
是非お読みになってください。


なお、
明恵上人の宗教性に関しては、
河合隼雄著『明恵 夢を生きる』の他では、
町田宗鳳著『法然対明恵 (講談社選書メチエ)』を是非お勧めします。

「法然を語る人の多くは、
念仏信仰の普及者としての「表」の法然しか見ていません。
彼の実力は、念仏の「裏」にあったのです。
「裏」とは深い宗教体験のことですが、
それこそが法然をして「思想の革命家」ならしめたのです。」

この町田氏の慧眼に驚きと共感を覚えつつ、
町田氏の法然上人観と明恵上人観を、
一種興奮に似た感情が混じりながら読み進めて行く内に、
いつしか、法然上人と弁栄聖者が重なっていました。

弁栄聖者口述『宗祖の皮髄』のことが、
念頭から離れませんでした。

町田氏に興味を覚え、後日、
町田宗鳳著『法然・愚に還る喜び 死を超えて生きる』を拝読し、
町田氏御自身の臨済禅の修行中の体感は、
「無」・「無心」というよりも、
むしろ念仏三昧の境地の方が相応しいと
感じらるようになられたことを知りました。

その契機となったことが、
鞍馬の山奥にあった
京都修道院での集中的な別時念仏会への参加」でした。

「鞍馬の山奥にあった京都修道院」とは、
おそらく、
京都大原百井の山奥に開かれた、
日向美則氏主催の超宗派的な修道院。
似た名称の京都光明会の恒村夏山氏が主催されていた、
京都梅ケ畑の修道院ものとは別組織。
日向氏は、弁栄聖者の影響を強く受けながらも、
独自の宗教体験と比較思想研究等により、
超宗派的な教学と組織を築かれました。

日向氏の御逝去後、
現在この組織の動向については、よく分かりません。


町田氏の同書には、
数々の興味深く、示唆に富む知見がちりばめられています。
幾つかを引用します。

「宗教のあらゆる要素ー禅と念仏、仏教とキリスト教、
一神教と多神教ーも法然さんにはあると考えた。
この人ひとりを学んだら、
世界のあらゆる宗教のことを論じられると確信したのです。」

「とりわけ法然と関連性があると私が思っているのは、
空海の三密加持です。」

「現在の日本仏教は、浄土、禅、日蓮という系統が表に出ていますから、
やはりイメージを重視する系譜にはないのです。」

「法然の偉大さが語られるとき、
たいていは専修念仏とかイデオロギーのレベルの話になってしまいますが、
じつのところ私はそっちにはあまり関心がない。
彼のイマジネーションを論じることには大きな意義があると思いますよ。」

ただし、町田氏が使われる、
「幻視」という表現には、注意を要するように思われます。


更にもう一点、
ご遷化の年齢についてです。

法然上人のご遷化は八十歳の大変なご高齢でした。

弁栄聖者も六十代の前半という比較的若いご遷化でしたが、
明恵上人、道元禅師、日蓮上人が、
後、十年あるいは二十年長生きされたとしたら・・・

例えば、身体が不自由な高齢を迎えた際の、
明恵上人、道元禅師の修行方法とは。
日蓮上人の布教活動、浄土観は。

御無礼を顧みずに申せば、
宗教体験の内容、修行内容、教学上に変化があったかもしれない・・・
そんな想像をします。


最後に、
明恵上人と弁栄聖者に関して、
今後の究明が待たれる点について、記しておきたいと思います。

明恵上人は、後年、
「仏光観」を御自身の修行の中心に据えられました。

この「仏光観」による修行は、
朝鮮華厳の李通玄居士の影響によるもの。

法蔵系譜の「学問中心」の華厳教学ではなく、
「実践重視」の李通玄居士系譜の華厳による修行法でした。

元大正大学教授大南龍昇現光明園園主の、
「七覚支説の変遷」論文には、
弁栄聖者と李通玄居士の説が比較検討されています。

通常、「三十七道品」中「七覚支」は、
「念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支」
と説かれます。

ところが、
弁栄聖者と李通玄居士は、
「択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支・念覚支」
と、念覚支と択法覚支の順番を逆転されています。

なお、
『正法眼蔵』第六十 三十七品菩提分法には、
「択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支・念覚支」とあります。

今後の解明が待たれます。


「明恵上人と李通玄」については、

〇 「Ⅲ 明恵とその周辺」
(末木文美士著『鎌倉仏教形成論ー思想史の立場からー』)

〇 田中久夫著『明恵』
〇齊藤 紀夫著 『現代に生きる稀代の高僧「明恵上人」』
修士論文を元に、2017年6月刊行に書籍化。
〇 かなり専門的なところでは、小島岱山氏の諸論文等。


上述したもの以外で、明恵上人理解に有益と思われる、
幾つかの参考文献等を御紹介したいと思います。

〇奥田勲、 平野多恵、前川健一編著『明恵上人夢記 訳注』
明恵上人の夢記の第一人者の奥田氏研究グループによる労作、2015年2月刊。
〇「明恵上人夢記」『Blog鬼火~日々の迷走』
「明恵上人夢記」の私的読解記録。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-11-08

大乗仏陀、弁栄聖者の真精神の開顕!!!『笹本戒浄上人述 泉虎一記 辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』発刊


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笹本戒浄上人述 泉虎一記『辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』が、
2018年(平成30年)9月に発刊されました。

この書は、 「弁栄教学」上、極めて重要な書であり、
同類の書である、『辨榮聖者 光明主義注解』が、
芦屋聖堂から発刊されていますが、
非常に高価で、とても重く、携帯には不向き。

hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。
一冊二千円(送料別)。

発行編纂者の一人、平澤伸一氏は、
笹本戒浄著『真実の自己』等の発刊者でもあります。
また、平澤氏は在家でありながら、自宅を解放され、
長年に渡り、定期的(毎月一回)に、念仏・勉強会を開催。
現在の光明会には幾つかの系譜がありますが、
平澤氏は、弁栄聖者→笹本戒浄上人→ 杉田善孝上人の系譜。

なお、今回は、巻一であり、
今後、順次、四巻発行の予定とのこと。


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【笹本戒浄上人(1874~1937)】

インド思想、仏教学者の中村元氏が、
弁栄聖者の高弟、笹本戒浄上人に出会った時の逸話。

「近年、弁栄という坊さんがおったが、これが偉かったで・・・」

と、第一高等学校在学当時、
ドイツ語教授が講義の途中に、
心の底から感嘆して語られたことがあり、
そのことが強く印象に残り、
弁栄聖者の『お慈悲のたより』を読まれました。

その後、光明会の本を求め、
田中木叉師のご自宅をお訪ねしました。

中村青年が笹本戒浄上人にうかがった御説法の内容等。

正面にかけて光り照らされている阿弥陀如来の御絵図を指しながら、

「よく阿弥陀さまを見つめてお念仏を唱えなさい。
阿弥陀さまがお姿を現してくださいますよ」
と。

「御説法の詳細は忘れてしまったけれども、
慈悲にみちた、温和で、柔和な笹本戒浄上人のお顔を忘れることができない。
・・・あのような方が、本当の宗教家ではないかと思う。」


「笹本上人に、お目にかかったのは、
その時、たった一度だけ。
それも御法話を伺った時だけ。
しかし、今なお忘れられぬ感銘を残しているのは、
ことばでは一々表現することのできない
御高徳のゆえであろう」

(「私が感銘を受けた宗教家ー戒浄上人の思い出ー」
(『「笹本戒浄上人伝」笹本戒浄上人全集 別巻』)

此処で注目すべきは、
中村元氏が、光明主義の教義内容ではなく、
「笹本戒浄上人の人格」が強く印象付けられたこと
特に、そのことに焦点をあてられている点です。

先ず初めに、中村元氏の笹本戒浄上人の思い出話を引用しましたのは、
中村元氏の記憶に刻印された戒浄上人の印象と、
泉虎一氏記のこの書から受ける戒浄上人の印象とが、
相当に異なっているであろうと懸念されるからです。

また、
この書の元となった電子データ作成者の故小川純氏、
編纂者の平澤氏方々は、
泉虎一氏の謦咳に長年接しておられた方々。

この点は、決定的に重要な点であり、
つまり、泉氏が語る内容とともに、
言外のメッセージ、泉氏の人柄等も伝わっているはずです。


難解な批評家として知られる小林秀雄氏が、
幅広い読者を獲得し続けているのは、
おそらく、小林秀雄講演、講義CD発売による、
小林秀雄氏の肉声を通して、
小林秀雄氏の人間性の一端に触れた影響が極めて大きい

と推察されます。

特に、この書の様な"癖の強い書"の場合には、
特に留意すべきコツのようなものであろうかと思います。

本書の編集後記に、
当時を知るある高弟は
「我々が質問に伺おうとしてもご事情により叶えれない場合があったが、
上人はいかなる時でも泉さんの謁見を断られることがないのに驚いた」
と。

とありますように、
笹本戒浄上人と泉虎一氏とは、そのような深い因縁の間柄。
戒浄上人の直弟子筋の中で、
泉氏は、「弁栄教学の奥義」の伝授を使命と生きられた御方。

また、
その為に、おそらく、意図的に人の心を揺さぶり、
印象付けるような強い言葉を選び、
何ら配慮を混じえず、繰り返し繰り返し、同じ内容のことを語っておられる、
そんな節も感じられなくもありません。

泉氏の口癖は、
「阿頼耶識の奥底から、(念仏により)大掃除をすること。」

なお、
泉氏が戒浄上人に出会われたのは、昭和3年で、
戒浄上人の御遷化は、昭和12年(1937年)でした。

戒浄上人の高弟、杉田善孝上人
ご述懐であったと記憶しますが、
真に興味深い逸話ですのでここに再掲します。

「笹本戒浄上人は、昭和3年(55歳)の頃には、
「仏眼については、
「まだ経験していないが、想像はできる」旨洩らされたが、
昭和4年春には
上記のお言葉は出さぬようになった。
そして、昭和8年から9年にかけて(60歳から61歳)
仏眼について次第に明了に、
昭和10年(62歳)からは
具体的に明了にご説示されるようになった」。

また、
田中木叉上人とご縁の深かった、
吉松喜久造氏が笹本戒浄上人にうかがった言葉。

昭和4年に、笹本戒浄上人が、
「田中木叉先生も仏眼が開かれました。」
と嬉しそうにおっしゃられました。


さて、
前置きが長くなりましたが、本題に入ります。

この書を読解するにあたり、

幾つかの留意点が必要かと思われます。

① "憶念口称念仏のみを直線道"とする根拠は何か。
そもそも、"直線道"とは何か。

② 弁栄聖者の笹本戒浄上人への口伝、
すなわち、"弁栄教学の真精神"の受け止め方。


大別すると、この二つになろうかと思われます。


① "憶念口称念仏のみを直線道"とする根拠は何か。
そもそも、"直線道"とは何か。


本書を読み解く際の最大の躓き、難関は、
笹本戒浄上人が再三強調される"直線道"という言葉だと思われます。

先ず、お断りしておきたいことは、
"直線道"という言葉は、
弁栄聖者の直接的な言葉ではなく、
弁栄聖者の真精神を表す言葉として、
「弁栄聖者から意を汲んでいる」という同意を得られた、
笹本戒浄上人の言葉です。

"直線の対が曲線である"とのイメージが、
我々には先入見として一般にあるため、
曲線道であったとしても、成仏に至る到達時間の相違があるだけで、
「成仏への道には多種多様な方法がある」と捉えがちです。
"直線道と曲線道"をそう捉えますと、
戒浄上人の真意から逸れることになると思われます。

戒浄上人の"直線道"とは、
"それあるのみ""それ以外はありえない"といった、
"唯一無二、絶対中心道"という意味かと推察いたします。

戒浄上人は、この点について分かりやすい喩えで説明されています。

よく仏道修行を山登りに譬えて
どの道から登っても同じ頂上に行ける、と申しますが、
この譬えは正しくありませんな。
世界の有名な高山の中に
途中の八、九合目までは道がいくつもありますが、
そこから頂上までは唯一つしか登る道がない
というのがありますな。
あれが正しい譬えであります。」 
(【〇一七】 曲線道を排して直線道へ (4))


"直線道"とは、"信念の変更を要せず"という意味内容ですが、
更に本質的に最重要なことは、その根拠にあり、
仏身論と不可分の関係にあるという点です。
即ち、"直線道とは、仏身論から必然的に導き出された修道論"。

ただし、
"直線道"とは、
仏道修行における「修道論」においてであり、
衆生済度における「度生論」においてではない。

このことは、十分な留意が必要であるように思われます。

弁栄聖者の御行状
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)は、
この推測を裏付けているように思われます。

「木叉先生はよく
「(弁栄)聖者の皮肉骨髄の髄を承けていられるのは戒浄上人だ。
しかし上人は髄ばかりを説かれる。
もっと応病与薬のご説法をして下さるとよいのだが」
昭和三十年代終わり頃までよく仰言った。」

ところが、

「後には先生は全くこれを口にされる事がなく、
晩年はしきりに上人の熱血溢れる
正法護持と破邪顕正の光明主義二祖としての行履に
随喜活仰せられた。」

(「戒浄上人と田中木叉先生」 (『「笹本戒浄上人伝」笹本戒浄上人全集 別巻』)

木叉上人の御遷化は、昭和49年(1974年)。

田中木叉上人御晩年の頃の逸話として、

「笹本上人が亡くなられ、やがて私も死ぬ。
すると光明会はやがて従来の宗乗の枠内に
引き入れられてしまうかも知れない、
いやきっとそうなる」と。


「それは困ります。そうなった時どうしたらよいのですか。」

すると、木叉上人は、
「また弁栄聖者が出て来て下さいます」と。


「後には先生は全くこれを口にされる事がなく」
との箇所は、若干の留保が必要であるようにも思われますが、
木叉上人は晩年、
"弁栄聖者の髄"が伝わらなくなることを、
大変心配されていたことは確かだと思われます。

衆生済度における方便智が発揮されるのは、
"仏眼"においてであり、
より厳密には、"三身四智の仏眼"においてであると云われています。

現実問題としては、この点に留意すべきかと思われます。

なお、同書にも、笹本戒浄上人が、驚くべきことに、
「先ず禅をして禅の悟りを開くよう勧められた」方があったという、
戒浄上人の衆生済度における対機説法(方便智)が記されています。
ただし、ここで留意すべきは、
禅の悟りの次には、法眼、仏眼へと、
念仏による悟りの深まりへと、
確りとご指南をされている点です。

戒浄上人の印象的な逸話をもう一つご紹介します。

光明主義の信奉者の在家、横山勝郎氏が、
「御顔は戒浄上人の慶運寺の、後光はまん円くはっきりとした」三昧仏様
を描いていただくように、
笹本戒浄上人の御子息の浄光氏に依頼され、
浄光氏が描かれていたところ、
「横山さんのために描くならば、
お顔は少し細面に描くように」

と戒浄上人が注意されました。

これらの逸話からも、
笹本戒浄上人の泉虎一氏への
一見、排他的、偏狭とも思える御教示は、
意図的にそうされたものであったことが推察できます。

"後世に、弁栄聖者の真精神を明確に伝えるため"
と推察いたします。


戒浄上人が再三強調される"直線道"を理解するためには、
弁栄聖者が開顕された"聖者独自の仏身論"を理解することが大前提となります。

【超在一神的汎神の大ミオヤ】

弁栄教学では、
「無量寿経の法蔵比丘の酬因感果の阿弥陀仏
汎神教的の三世諸仏の一仏」と捉らえ、
超在一神的汎神の大ミオヤとは厳密に区別し、
報身ではなく、応身と定義します。

「三身即一の本有法身は絶対、本有無作無始無終の根本仏。
活きた根本仏の同時同態の三方面
である
その体・相・用は皆、絶対で本有無作無始無終。」
したがって、
「如来様の妙色相好身も無生。
衆生の有無、念不念に関せず
本来、如来様に人格的の妙色相好身在しますのが事実。」


肉身と理性を持った我々人間には、
"人格的の妙色相好身"と云われると、
"一定の固定相"しか想像できませんが、
一即一切、事事無礙重々無尽の絶対的現象態、
衆生の信念に応じて、無量の定相を発現される、
絶対無規定、本有無作の霊的御姿(霊相)"


弁栄教学は、通仏教とは根本的に異なります。


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【弁栄聖者(1859年~1920年)】


ごく最近、大変興味深い論考に出会いました。

岩波書店発行『図書』(2018年11月号) 掲載の、

「鈴木大拙と山崎弁栄
ー近代仏教の中の『大乗起信論』 末木文美士」。


おそらく、末木氏が弁栄聖者について公けに触れるのは、
これが初めてではないかと思われます。

この時期に、
「鈴木大拙と山崎弁栄ー近代仏教の中の『大乗起信論』」の論考が、
岩波書店の月刊誌『図書』に掲載されたのは何故か。

この論考の記述等から推察しますと、

〇 山崎弁栄『人生の帰趣』が、
平成30年4月に、岩波書店から刊行。
本書の解説が、 若松英輔氏であること。

若松氏は、末木氏の"死者論"を大変評価され、言及されていること。

〇 安藤礼二著『大拙』が、
平成30年10月に刊行。
雑誌『群像』掲載は、平成28年6月号~平成30年5月号。
安藤氏ならではの詳細な調査等に基づく「鈴木大拙」論。

この書が、末木文美士氏の永年の大拙研究の成果等にも啓発されていること。
また、安藤氏の興味・関心と極めて共鳴度の高い
「鈴木大拙論」、「井筒俊彦論」を展開されている
若松英輔氏の論考とは異なり、
安藤氏の「大拙論」には、"山崎弁栄"との比較考察が無いこと。

ここでは、安藤氏の「大拙論」には深入りできませんので、
次の参考文献をご紹介しておきたいと思います。
安藤氏推奨の「鈴木大拙論」、
グレイス, ステファン P氏による博士論文。
『鈴木大拙の研究
現代「日本」仏教の自己認識とその「西洋」に対する表現』。



〇 大竹晋著『大乗非仏説をこえて
大乗仏教は何のためにあるのか』

が、平成30年8月に刊行され、
末木文美士氏が、推奨文を寄せられていること。

大竹氏は、
この書において、仏教を専門とする学者としては大変珍しく、
弁栄聖者に大いなる関心を寄せられ、
弁栄聖者の文章等を、頻繁に引用、評価をされている
こと。

大竹晋氏は、
筑波大学在学中、竹村牧男氏の元で研鑽を積まれ、
『大乗起信論成立問題の研究
『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク』

を、平成29年11月に刊行。

「本書は、近年いちじるしく進展した、
漢文大蔵経の電子化と、
敦煌出土北朝仏教文献の翻刻出版との二大成果を活用しつつ、
同論が漢文仏教文献からの一種のパッチワークであることを明らかにし、
来中インド人撰述説を斥け、北朝人撰述説を確定する。」

と、千五百年間の『大乗起信論成立問題』にほぼ決着を付けたと評されています。

なお、石井公成氏による書評があります。ご参考までに。
書評 大竹晋 『大乗起信論成立問題の研究
: 『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク』


末木氏が、岩波書店の月刊誌『図書 11月号』の、
「鈴木大拙と山崎弁栄ー近代仏教の中の『大乗起信論』」において、

「起信論』は二世紀頃の馬鳴(アシュヴァゴーシャ)の著とされていて、
・・・大正期に望月信亨によって中国撰述説が主張されて大論争となり、
最近になってようやく中国撰述説で決着しそうである。」と。

これは、 大竹氏の同書を指していることはほぼ間違いありません。


末木文美士氏が、
この時期に、岩波書店の月刊誌『図書 11月号』に、
「鈴木大拙と山崎弁栄ー近代仏教の中の『大乗起信論』」の論考を投稿されたのは、
上述の理由が大きいと推察いたします。

この論考においては具体的に、
末木氏は、
「大我、「宇宙全一の心霊体とも云うべき如来蔵性」を、
「大御親」あるいは「大ミオヤ」とも呼ばれるようになると、
通常の仏教になじんでいる目には、いささか大胆過ぎて面食らう。
もはや『起信論』の枠組みどころか、
常識的な仏教の教学をも超えて、
独自の世界に入っていくことになる。
・・・むしろ仏教を核としながら諸宗教を統合する、
一種のシンクレティズムと見られるであろう。
その点では、大拙以上に大胆である。」


「学術的な枠組みを逸脱して、
一見奇妙な議論を示すところもある」

とされながらも、
「決まった枠組みの中では封印されてしまう
自由な発想が生き生きと展開される可能性も持っている。
・・・今日改めて見直しがなされなければならない。」


と、末木氏は結ばれています。

なお、
「もはや『起信論』の枠組みどころか、
常識的な仏教の教学をも超えて、
独自の世界に入っていくことになる。」

と指摘されていますが、

例えば、
『大乗起信論』ではいまだ未解明であった、
"無明"の発生根拠については、
弁栄聖者に依りますと、
「三身四智の仏眼」において初めて認識可能となる旨仰っられています。

弁栄聖者光明体系の『無量光寿』、『炎王光』等に記されています。


鈴木 大拙著 佐々木 閑訳『大乗仏教概論』の訳者後記において、
佐々木氏は、

「鈴木大拙の『大乗仏教概論』を訳してみて、
私はこの本が、現代において生み出された
新たな大乗経典である と感じるようになった。
・・・だがもし、本書を、仏教学という学問世界の中に含めず、
仏教という宗教の流れに置いてみるなら、
それは『般若経』や『法華経』などの経典と同じレベルに並ぶ
『大拙大乗経』とも呼ぶべき
新たな聖典の誕生を意味している
と思うのである。」と。


一方で、弁栄聖者は、

「私は経文に依って演繹的に説くのではない。
帰納的に説いておる。」
(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)

とは、
「経典に依るのでなく、
御自身の体験せられた如来様の事実※から
帰納的に光明主義の教学体系を組織せられた、
という意味である。」
(笹本戒浄上人のご教示)
※「御自身の体験せられた如来様の事実」とは、
「三身四智の仏眼」の境界における認識。

更に、
「真生同盟」提唱者土屋観道上人に対する弁栄聖者のご教示として、

「キリストが此の世に出て説いたものが新約聖書となって、
それ以前のユダヤ教経典が旧約聖書となったように、
今後の宗教は光明主義経典を以て新約聖書となし、
従来の一切経をもって旧約となすべきである」

と(弁栄上人が)おっしゃったことが、今尚私の心に遺っています。」
「弁栄上人の思い出」『大悲に生きる 観道法話』)


弁栄聖者は、「大乗非仏説」に対し、
「大乗経典とは、
三昧定中における、”永遠の生き通しの大乗仏陀釈尊”による、
出世間の三昧を開かれた聖方への直説法である。」

と、喝破されています。


鈴木大拙氏と弁栄聖者の両者に通底する
この"学術的な枠組みを逸脱した大乗仏教観"
を、
末木氏は、感知されたと推察されます。


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【弁栄聖者(1859年~1920)年】


〇 大竹晋著『大乗非仏説をこえて
大乗仏教は何のためにあるのか』


仏典に精通されている大竹晋氏は、

「われわれは大乗経が仏説であることを論証することは不可能である
と率直に認めなければならない。」


と明言され、

「大乗経が仏説であることは、
推理によっては決して論証されるべきことではなく、
大乗経にもとづいて修行した者たちの悟りの体験によって
自内証("個人的に確証")されるべきことなのである。
悟りを齎す以上、大乗経はいつわりではない。」


その解決策、「体験的大乗仏説論」を提示されています。


「又は大乗非仏説を主張する人に、
上人 「現に飲んで効能のある薬なら、
誰が発見してもよい。大乗非仏説でもよい。
私も大乗非仏説とおもふ。」

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

この箇所を、
大竹氏は、著作に、引用し、次のように解説されています。

"現に修行して悟りを体験できる法なら、
誰が発見されたのでもよい。大乗非仏説でもよい。
わたしも大乗非仏説と思う。"
ー弁栄はそう言い切っている」と。

また、
日本の近世から近代に限られているとはいえ、

「大乗経にもとづいて修行し、
大乗仏教の悟りを体験することに依って、
大乗仏教にみずから安心するに至った真摯な僧侶」

として、

〇 浄土宗・普寂徳門(1707-1781)
〇 真言宗・慈雲飲光(1718-1805)
〇 浄土宗・山崎弁栄(1859-1920)
〇 浄土宗・原 青民(1868-1906)


を挙げています。

「大乗非仏説をこえて」という究極の難題の解決策
を模索するにあたって、
弁栄聖者にかなりの頻度で言及されているのは、
必至であった
と思われます。


② 笹本戒浄上人に対する弁栄聖者の口伝、
すなわち、"弁栄教学の真精神"の受け止め方。

にも関わることですが、

"弁栄教学"は煎じ詰めると、
「大乗ブッダの真精神、つまり、宗教の根源とは何か。」に究極します。


笹本戒浄上人が、
「経典や宗乗、学者が何と言おうが、
弁栄上人が云うことを信じなさい」

と極言されているのは、
妄信、偏狭さの類では勿論なく、
実は大変合理的判断に基づくものであり、

「大乗非仏説」という事実が念頭にあったためと推察します。

更に、戒浄上人は、
「原始経典、大乗経典等、文字で記された文献によって、
釈尊の真精神を判別することは出来ない。」

といった御教示さえされています。

したがって、
笹本戒浄上人に対する弁栄聖者の口伝、
すなわち、"弁栄教学の真精神"を、
仏教諸経典等を根拠にして"釈尊の真精神"として、
論証することは不可能。

この弁栄聖者の口伝(弁栄教学の真精神)は、
唯々、弁栄聖者、笹本戒浄上人を信じ、
"釈尊の真精神"であると信ずるという域を出ない。
自身が"仏陀の悟り"を得るまでは。


ただし、このことは、
全ての信仰において、究極的にはそうとしかありえず、
平等、対等の前提
です。


大竹氏は、
「大乗仏教の本質は、歴史的ブッダへの回帰ではなく、
仏伝的ブッダの模倣(まねび)である。」

「仏伝的ブッダの模倣(まねび)とは、
具体的には、仏伝的ブッダと同じように福徳を積んでブッダとなること。」
と明言され、

「大乗仏教のアイデンティティーは、
歴史的ブッダの教えと異なるにせよ、
歴史的ブッダの教えを超える高貴な人間性こそが、
大乗仏教の最大の特質
なのである。」とさえ定義されています。

更に、
「大乗仏教のブッダの加護を得た体験」、
すなわち、「見仏体験」
に関して、

浄土宗の山崎弁栄、真言宗の金山穆韶(ぼくしょう)、曹洞宗の木村霊山尼
の「見仏体験」にふれ、

このような大乗仏教のブッダが
どのような仕組みによって現れるのかはわからないが、
大乗経にもとづいて福徳を積んだ者たちの前に
このような大乗仏教のブッダが現れるという事実を否定することはできない。

福徳を積まない者は
このような体験を愚かな大乗の妄想にすぎないと言うかもしれないが、
筆者としては、福徳を積まない者が言うことよりも、
弁栄、穆韶、霊山尼のように
福徳を積んだ者たちが言うことのほうがはるかに信じられる。」
と。

これは、
精緻に、実証的に経典研究されている学者の言葉としては、極めて異例。
大乗仏教と真摯に向き合う者の信仰告白

大変、感銘を受けました。

なお、
光明主義の弁栄聖者、真言宗の金山穆韶(ぼくしょう)師は共に、
法身を人格的に仰いでいることは、
注目すべきかと思われます。


弁栄聖者、笹本戒浄上人への信とは、
念仏実践、弁栄教学の研究、比較宗教学的研究等は、
当然の前提としましても、
究極には、
正に、この大乗仏教のブッダの加護による「見仏体験」、
その宗教体験により福徳を得た、
"仏のような人"弁栄聖者、
"福徳が備わった大菩薩"笹本戒浄上人、
その"霊徳"に対する信
に極まります。

なお、
公のブログで公表することに躊躇するものがありますが、
大変貴重な逸話ですので、
先ほど引用しました横山勝郎氏によります
戒浄上人のもう一つの逸話を記します。

「昭和一桁の時代に拝聴した御法話
戒浄上人はかく申されました。
「太陽系には地球以外に衆生はおらぬ」と。」


その他の若干の補足としまして、

普寂に関しては、力作があり、
〇 西村玲著『近世仏教思想の独創 僧侶普寂の思想と実践』

また、
「原青民氏と弁栄聖者」との関係については、
ここでは深入りしませんが、
大竹氏は、
青民の悟りと禅の悟りを、
最古の禅文献における禅の初祖、菩提達磨、
白隠禅師の言葉と対比させ考察されています。

光明主義においては、
禅で云われる悟りは、念仏の内に自ずと開かれてくる境界

と捉えています。

この点については、
弁栄聖者、笹本戒浄上人、田中木叉上人にとっては、
当然の事実として、
おそらくご自身の宗教体験、比較思想・文献研究等を通して、
一貫して説かれていた方が、東洋大学名誉教授、
「一般財団法人 光明会」の元上首
「光明園」前園主、
「山崎弁栄記念館」初代理事長の
河波定昌師。

以前一般に公開されていた河波師の講演録ですが、
真に残念ながら、
随分以前のもので、河波氏がご逝去されたため、
削除されてしまったようです。

それは、大変貴重な講演録であり、
信仰上、学問上においても、大変な遺産の損失と思われますので、
ご紹介させていただきます。

ただし、
リンクは既に削除されているため、
全文をここに記しますと大変長くなり、
文章の構成上煩雑になり、読みにくくなると思われます。
単独の記事にすべき程の大変貴重な講義録ではありますが、
今回は、文末に記します。
是非、お読み頂きたく存じます。

『念仏と空-大乗仏教の本質(第16期スクーリング)
2003年6月 6日 第16期開講式特別講義
河波昌 東大仏青でのご講義から』



大竹氏は、
「大乗非仏説」の前提に立つことにより、
浄土真宗系と日蓮宗系には甚大な影響がある
とされていますが、

浄土真宗の僧侶による、
とても興味深い論文がありますのでご紹介します。

〇 田中和夫博士論文『親鸞の念仏思想と見仏体験』


また、近著においては、
〇 平岡聡著『浄土思想入門 古代インドから現代日本まで』
があり、特に、
第八章 近代以降の浄土教家
  (一)浄土宗系──山崎弁栄・椎尾弁匡
終 章 浄土教が浄土教であるために

には、弁栄聖者の意義に言及されています。


なお、
現代においては、
データの電子化、情報の公開、知的財産としての共有化は、必至であります。
弁栄聖者の御遺稿集、十二光体系等が、PDF化され、
岐阜光明会のHPで公開されており、
また、
「弁栄上人百回忌記念事業」の一環として、
金田昭教氏を中心に、
弁栄聖者関連の資料等の調査、電子化、公開等が進められています。
平成30年11月に、
「山崎弁栄上人讃仰会」により、
「念仏三昧の聖者 山崎弁栄上人」のHPが開設。


最後に自戒を込めて、
笹本戒浄上人の遺言とも受け取れる言葉を引用します。

「見仏が成仏の唯一の直線道で、実に釈尊の真精神である、というのは
実に弁栄上人様の真精神で光明主義の生命とするところでありますから、
弁栄上人様の光明主義を信奉する私共と致しましては、
弁栄上人の真精神を述べなければならない場合には
何のためらうことなく、
見仏が成仏の唯一の直線道で実に釈尊、弁栄上人の真精神である、
といわなければなりません。」

「しかし、他の信念を持っていらしゃるお方に対して
少しでも不遜な態度をとるようなことがあってはなりません。」




【河波昌師の講演録】

『念仏と空-大乗仏教の本質(第16期スクーリング)
2003年6月 6日 第16期開講式特別講義
河波昌 東大仏青でのご講義から』


仏塔崇拝から大乗仏教へ
仏像造られた念仏行法も

大乗仏教とは何かという問題をこれから 「念仏と空」と題して追求していきます。
実は大乗仏教の根幹を語るにはこの言葉でもう尽きていると思います。

普通、念仏といいますと、浄土宗とか浄土真宗、
ですから法然上人とか親鸞聖人の教えの中核をなすものです。
ところが 「空」 と申しますと、全然違いまして、
例えば禅宗などで、「空」 を説く経典は、『般若心経』なんかがその代表的なものです。
特に日本仏教は宗派仏教で、浄土宗は浄土宗、禅宗は禅宗と縦割りで説きますから、
お念仏はお念仏で、 「空」 は 「空」 ということになっていきます。
ですが、お念仏の中に般若波羅蜜の悟りが開いてこなければ、大乗仏教ではありません。
また、般若波羅蜜と 「空」の実践の中にお念仏が出てこなければ、それも嘘だと思います。
そういう二つの関係に論究しながら、
改めて大乗仏教とは何かという問題の本質をついていきたいと思います。

簡単に申しますと、
念仏が 「空」の世界を開き、
「空」 の世界が、またお念仏の世界を開いていった。

この二つは表裏一体のもので、一つのものです。
それがある段階で、二つに分かれていったんです。
これは大乗仏教にとっての悲劇で、
結果として大乗仏教の本質が見えなくなった
と断言してもいいくらいです。

大乗仏教はいつごろ起こってきたかという問題ですが、
大体、紀元前一世紀の後半だと考えてください。
それで最初の大乗仏教の経典は何かといいますと、
サンスクリットの経典の中に『八千頌般若経』というお経がありまして、
これが大乗仏教の出発点になります。
このお経の中に初めて「大乗」という言葉が登場します。
「マハーヤーナ」 という言葉です。
それ以前はなかった言葉ですからこの経典こそいわば大乗仏教宣言の書と言ってもいいです。
それから「空」という言葉が、また初めて出てくるんです。
ですからこの二つの言葉をもって、
この『八千頌般若経』というお経が大乗仏教の最初の経典ということになりました。
それからもう一つ、
漢訳に『小品般若経』というお経がございます。
これはほぼ『八千頌般若経』が漢文に訳された形です。
だからこの辺を押さえていきますと、大乗仏教の一番の原型が出てくるわけです。

「空」という言葉がどうして出てきたかが問題になります。
これは案外はっきりしているようで、はっきりしていないんです。
非常に難しい問題ですが、
大乗仏教が起こってくる一つのエレメント、契機として仏塔崇拝があります。
私は恐らくそれが関係していると思います。

仏塔崇拝が始まる前の仏教はどういう仏教かといいますと、僧院仏教なんです。
僧院の中にこもって、専門のお坊さんたちが難しい勉強をやる。
倶舎論などで、 阿毘達磨といいまして、
お釈迦様が説かれた法というもので分析していくんです。
でもそんな分析をしたって、一般大衆には関係ないですよね。
何百年間か、僧院仏教が続きますけれども、
一般大衆とは全く無関係だったとは言えませんが、
大体無関係なところで、今でいえば 「象牙の塔」です。
一般大衆はそんな難しいことはわからないけれども、
お釈迦様が亡くなられて、もちろんもう灰になって、どこにもおわしまさないけれども、
何とはなしにお釈迦様の本当の命というものが在すはずだという方向へ向いていきます。
歴史的な仏様はなくなっても、仏様の命は永遠だという思想が、一般大衆に出てきます。
それを一つの人格として拝むことができる、それが仏塔です。
ストゥーパと言いますが、仏塔と申しますのは、
実はお釈迦様の舎利、お骨が祀られているところです。
お骨が祀られているところにお釈迦様がましますというのは皆さんでもそうですね。
亡くなったご先祖様はもうわからないけれど、
例えば亡くなったお父様のお墓に参ると、
何とはなしにやっぱりお父さんと出会えそうな気になります。
仏塔崇拝を通して初めて、
目には見えないけれども人格的な如来様、
そこではまだ阿弥陀様という言葉はまだ出てきませんが、
お釈迦様とそこで出会う。
ストゥーパに参り、そこで一生懸命祈りを捧げる。
これはもう自然の情だと思います。
そういうわけで、一般大衆を中心にして、ストゥーパ即ち仏塔崇拝が起こってまいります。
これは僧院仏教とは一応別なもので、
ここで僧院仏教と一般大衆の仏教という、
質の異なる大きな二つの流れが出来始めたということが言えると思います。

仏塔への想念の集中ということは、
これはもう、実は念仏のことです。

お釈迦様は数百年前に亡くなったけれども、
お釈迦様の命が仏塔のところに現前している、そういう存在観念です。
そこで祈りが深まっていくことになります。
そして仏塔に即して仏様を拝むときに、「空」 になっている、
そういうお経の文章が 『華厳経』 などに出てきます。
これは後になってから出来た経典ですけれども、
それはまさに、その本質をついているわけです。

やがて仏像というものがギリシャから入ってきます。
それはどういうことかと言いますと、
アレキサンダー大王がインドにやってきたのは、紀元前三二七年です。
間もなく特にインドの西北部はギリシャ文化の支配下に置かれました。
そこを支配するのは、ギリシャの王様です。
当然、貨幣が必要です。
その表側はギリシャ語で書かれているんです。
裏側はカローシュティー文字といった、その当時のインドの言語が刻まれています。
貨幣の次元まで、ギリシャ語とインドの言葉が一つになっているということは、よくよくのことです。
少々の人数のギリシャ人だけでしたら、そんな必要はないのですが、
大人数のギリシャ人が本当にインドに入ってきて、
もちろん学問のレベルでもそうですが、生活のレベルでもコンタクトをし始めますと、
全面的に両者の文化の出合いが起こってきます。

ギリシャ人というのは、神像をつくるわけです。
例えばアポロンの神様で在す神像。
その神像のところにアポロンの神様が現に在す。
そういうのがギリシャ人の考え方です。
神様ご自身は目に見えないといえば目に見えないわけですが、
ギリシャ人は、神様は必ず目に見える形であらわれてくる
という、そういう文化です。
日本人は、神様の像を伝統的にあんまり重視しませんでした。
もちろん、仏教の影響を受けて神様の神像がどんどん出来てきますけれど、
本来は神道というのは、拝むときに神様という形がないんです。
西行法師の歌ですが、
「何事のおわしますかは知らねども、
ただありがたさに涙こぼるる」そういう歌があります。
「何事のおわしますかは知らねども」、
神様の名前もわからない。お姿もはっきりしない。
でも何かありがたくてしようがない。
こんなのを西洋人が聞いたら、変に思うでしょうね。
わけのわからないものに出会って、感激して涙を流している。
日本人って一体何だと思うかもしれませんが (笑)、
ギリシャ人ははっきりした形をつくって、その神像に対して拝むわけです。

インド人にもその習慣がありませんでした。
形あるもの (色) は壊れるという考え方があるんです。
形あるものは壊れるから、そんなものが仏様であったら困るのです。
だからインド人は決して仏様の像をつくらなかった。
そこにさきほどのようなギリシャ人がやってきて、
インド仏教に出合い、 無数のギリシャ人が仏教徒になっていきます。
そして肝心なのは、 出家するギリシャ人たちさえもが出てくるんです。
ギリシャのお坊さんです。
ギリシャ人が仏教を信仰するとどうなるかというと、仏様を拝むときに、
アポロン神像を拝んでいたようにやっぱり仏像を拝むようになるんです。
ギリシャ的なやり方で仏様を拝むようになります。
それが念仏三昧になっていきます。

すなわち、
仏塔崇拝から仏像崇拝へと転換していくその過程で、
念仏三昧という行法が一層明確に確立していきます。
そしてそれが一貫して現在まで続いているわけです。

法然上人でも専修念仏といってお念仏ばかりされていたわけです。
そしてそれは
二千年にもわたる一貫して行じられてきた念仏三昧の実践ともなっていたわけです。
後に禅とかができるもっと原始的な段階での念仏三昧でもあります。

ところでギリシャ人はどんな仏様を拝んでいたのでしょうね。
結局、アポロンの神様を拝んでいるのです。
アポロン仏という、アポロンの形をした仏様です。
「それはアポロンの神様じゃないか」 と言っても、
ご本人は、「いや、 それはあくまでお釈迦様だ」と言います。
これはもうしようがないんです。
自分たちの顔に似せて、仏様をつくるしかないのです。
それは宿命的でさえあります。
けれども、そういう形で、実は念仏三昧という行法が出てきたのです。

念仏こそ実践の原点

大乗仏教は紀元前一世紀の後半にできましたけれども、
突然出てきたわけではなくて、
まだ「空」とか 「大乗」という言葉を使う以前の段階で、
実は大乗仏教というのは始まっていたんです。
紀元前一世紀の前半で、「原始大乗仏教」という言葉を使います。
そこでは「大乗」 とか、「空」という言葉は使わないけれども、
既に大乗仏教的な雰囲気が漂っていたというんです。

『三品経』 というお経がありますけれど、これは実は現在ではもうありません。
『三品経』 というお経そのものは、早い時点でなくなっていたのですが、
三品とは何かといいますと、懺悔、 勧請、そしてもう一つは随喜ということです。
大乗仏教が起こってからもこの三つの要素は、展開されていくことになるのですが、
三品という言葉ができた段階では、まだ大乗仏教ではありません。
大乗仏教が起こってくる以前に、こういう行法があったのです。
一般の信者の人たちも、仏様の前に、まだ仏像はできていませんから
仏塔・ストゥーパの前で懺悔して勧請して随喜していたのです。
随喜というのは、例えば他人の喜びを自分が喜ぶ、仏様の功徳を我が事のように喜ぶ。
これはなんでもないようですが、やがて般若波羅蜜の実践へと展開していきます。
随喜というのは、対立がなくなっていくのです。
相手がいいことをすると、一緒になって喜ぶ。
隣に倉が建つと、こちらに腹が立つということではなくて、ともに喜ぶということです。
随喜の功徳は、そのご本人よりもすぐれるという言葉が 『般若経』 に出てきます。
例えば百万円を寄付するでしょう。
それを喜びますと、百万円を寄付したよりももっと功徳が大きいというので、
貧乏人の我々にとってはありがたい修行ということになります。
そういうことでそこで対立が超えられ、 般若波羅蜜の実践になっていきます。

仏塔の前で仏様に対して祈りを捧げていきますと、
仏様の不思議な力が私の中に入ってくる。
これは後になりますと加持という形でさらに展開していきます。
加持というのは、祈りの中で、何か不思議な力が加わってくることです。
加持といいますと、真言宗の専売特許のようですけれども、
紀元前一世紀からもう始まっていたのです。

そういう懺悔、 勧請、 随喜を通して、
一般の大衆は、おのずとお念仏の世界に入っていたんです。
それは、法をアカデミズムの中で分析するのではなくて、
実践を通して既に大乗仏教の世界、すなわち念仏の中に入っていたと思います。
むしろ、そういう大きな実践の中で、すでに大乗仏教というものができております。
それは大乗仏教以前の大乗仏教であって、
如来様が現実にましまして、それとかかわっていくということです。
念仏というのは、 そういうことです。
そういうものを土台にして、
やがてはっきりとした形で大乗仏教の修行が確立していきます。

それが 「般舟三昧」 です。

それと大月氏国という国があって、
それを背景に大乗仏教が広がっていくわけです。
「般舟」って、どういうことかといいますと、
サンスクリットで「プラティウトパンナ」、仏前現立、という意味です。
プラティとは、現前に相対して、あるいは、近くに、という意味です。
「ウットパンナ」は現前する、あるいは現前に立ちたもうということ。
訳すときは、「仏現前立三昧」と訳されたりもする。
いろんな訳があります。

これも如来様に心を集中していくということです。
それが大乗仏教の実践の原点となります。

本当に生きた仏様に出会うなんていうのはできない相談ですが、
でも、そこに仏様がいらっしゃるという気持ちが大切なんです。
『般舟三昧経』 というのは、そういう経典です。
文字だけを考えていますと、難しそうですけれども、私たちに非常に身近です。

仏様は我々を超越した方ですが、時間空間を超えた仏様としてある。
それがそこに現前するということです。
その構造も一貫しています。

例えばずっと後半になって、『観無量寿経』というお経ができてきますが、
宇宙全体が仏様で満ち満ちてましますけれども、
そんな宇宙全体を包含する仏様なんて、我々はとらえどころがないですよね。
でもそうでなくて、

宇宙を包含する仏様は今、ここに現前する。

これなら私たちも分かりますね。
それで大乗仏教の多くの経典に貫通しています。

例えば『華厳経』 というお経があります。
「仏身は法界に充満する」、大宇宙全体が仏様の御心である、あるいは御体である。
それが今、私の前に現前するという考え方ですね。
『華厳経』 は大乗仏教の中心的な経典ですが、
大乗仏教というのは、どの経典も、言葉は違ってもその繰り返しばかりです。
「仏身は法界に充満し」、もう宇宙全体が阿弥陀様に充たされてということです。
そして 「あまねく一切の群生」、 私たち衆生のことです。
一切群生というと、何か他人のことに思いますが、実は私たち一人一人の問題です。
一切群生の前にあらわれているということです。
ただ漠然と神様、仏様を拝んでいても、心が集中しないでしょう。

それが仏塔へ、さらには仏像へと転換していくのです。
これが、大乗仏教が展開していく、一つの決定的な要因となります。

現在は日本のお寺のどこに行っても、仏像があります。
それは飾りのようにさえなっていますが、
そこへ我々の心が集中していくということで、
それを「般舟三昧」といいます。
そうすると仏様が拝めてくる、仏様が見えてくる、あるいは顕現するという。
これは大乗仏教、特に初期の大乗仏教の決定的な契機となりました。

見仏ということ、
生きた如来様にお会いできるようになる、
そういうことです。

ところで、仏様を拝めるようになると、「空」の世界が開けてくるというのです。
『般舟三昧経』を読みますと、三昧を得ると 「空」 であることを知る。
そこから 「空三昧」 とか、「空定」 という言葉が出てきます。
大乗仏教の原初的段階で成立したお念仏を説く経典の中に、
最初から「空」 が出てくる
のです。
これが非常に大切なのです。

「空」 は一体どこから来たかといいますと、
実は念仏三昧の中から出てきたのです。

お経をずっと拝見していきますと、
ストゥーパ塔を拝んでいると「空」になっていくと言う人もありますが、
より積極的に、仏様の姿に心を集中していくときに、そこに「空」が経験されてくる。
「空三昧」が開けてくる。
この三昧を得れば、「空定」なることを得る、とか言われ、

念仏と 「空」 とがセットになっている。
ここが非常に大事です。

例えば 『般若心経』 というお経があります。
これはたくさんの訳がありますが、
一番最初に訳したのは、 鳩摩羅什三蔵 (くまらじゅうさんぞう) という方です。
それからもう一人は玄奘三蔵です。

二人の訳は最初が違っています。

鳩摩羅什訳「観世音菩薩」で、
玄奘訳「観自在菩薩」です。
だからこの菩薩様は全然違う人だと思うでしょう。

ところが、サンスクリットの原典からいえば、全く同じなのです。

元々の原語は 「アヴァローキテー・シュヴァラ」と言います。
これをアヴァローキタ、で切りますと、玄奘訳です。
イーシュヴァラというのは「自在」 という意味です。
アヴァローキタは「観」です。英語のルック(look)と似ているんです。
もともと英語もサンスクリットも、 もとは一つですから。
この 「イー」 を切り離した「シュヴァラ」 ですと、音です。
だから「観音」、鳩摩羅什の「観世音菩薩」 となります。
ですから 「観自在菩薩」 は 「空」 を説くし、
「観世音菩薩」は念仏を説くと決まっているようですけれども、
『般若心経』 に関していえば、
両方とも 「空」 を説いているのですが、
「観世音菩薩」という方は、そもそも念仏をしていた人なんです。
「観世音菩薩」が念仏をする主体でありながら、「空」 の主体であるということです。
それは例えば、中国に入っても全く同じです。
『般若経』 (これは無数の経典から出来ている)というと
「空」 しか説いていないと思われがちですが、
実は念仏ばかり説いていると言えるほどです。
また見仏ということを説いているので、
例えばサンスクリットの 『八千頌般若経』 を読んでみますと、
「空」 を悟って般若波羅蜜が実現していくと、
「十方一切の諸仏を見たてまつる」 という言葉が出てきます。
「般若空」 を体験すると仏様が見えてくるというのです。
我々には見えませんね。我々はエゴイズムが壁のごとくありますから。

その我々のエゴイズムから空へと解放されてきますと、
そこに仏様が見えてくる。
当然のことですね。

また 『般舟三昧経』 は、
三昧を得れば仏様とお会いし、
「見仏」するときには、そこで空が悟られていく。


だから一見、念仏と空は別々に思えますが、
実は表裏一体で、 一つのものです。

そこで、インド大乗仏教が中国に入ってきて、
そこからやがて禅というものができていきます。

縁起の構造下で実践を

インド大乗仏教は中国に入ってきて、
その一つとして禅が成立していきますが、
最初は禅宗なんて無いのです。

禅宗のお坊さんもみんなお念仏をしていたのです。

禅宗史でははじめの六人の祖師方が出て参ります。
その最初が達磨さんで、さらにその第四祖に道信という人がいました
禅宗はこの人から歴史的にはっきりと押さえることができるのですが、

実を言えば、この道信という方も念仏をして悟っていったのです。

中国の初期禅宗の歴史を調べる上で決定的に重要なものに、
楞伽師資記』 という本があります。
そこには、道信は一行三昧によって悟っていったということが書かれています。

一行三昧というのはどういう経典にあるかといいますと、
『文殊般若経』 という短い経典で、『七百頌般若経』とも言われたりもしますが、
それを読んでみますと、やっぱり念仏三昧が述べられているんです。
般舟三昧そのものです。
一行三昧 ekavyuha-samadhi というのは、
玄奘の訳によりますと一相荘厳三昧
すなわち如来のお姿に集中するということです。
そうすると、忽然として 「空」 の世界が開けてきたと書かれています。
姿も何もなくなっていくのです。

だからこの「空」という悟りが出てくる背景に、
やっぱり念仏がある
ということになります。

そして念仏ということは、
実は縁起の構造に基づいているということです。

皆さんは、 自分があって自分が仏様を念じていると思うでしょう。
自分の心があって、その自分の心が仏様を念じていると思うでしょう。
そう考えたら、マルクスに観念論だといって徹底的に批判されます。
でもそうではないですね。

念仏とは、
どこまでも仏様と私とが縁起の構造に立っての上でのこと です。

仏教は縁起だといいます。
でも縁起を考えるときに、
普通はまるで縁起を見る視点が切れたところで縁起を見ていますから、縁起にならないんです。

縁起とはどういうことかというと、
「これあるがゆえに、かれあり」でしょう。
また「彼あるがゆえに、 此れあり」 でしょう。
それが縁起の構造です。
英語で訳せば interdependence、 お互いが相手によって出てくるということです。
ただ一方的に出てくるのでは、 縁起ではありません。
圧倒的に存在して、 我々を支配するキリスト教の神様とは違います。
しかも 「これあるがゆえに、 かれあり」 という縁起の構造を考えるときに、
私がここにいて客観的に縁起を考察している間は、縁起にならないのです。
自分は固定して、ああだこうだ、というのは学問の世界です。
縁起とはそんなものではない。
そういう立場に立った途端に、 縁起という構造は消えてしまいます。
今の学問は全部そうです。

お念仏というのは、
私と仏とがましまし、その両者の縁起の構造に立つことをいいます。

そのことは、『般舟三昧経』という大乗仏教の最初の経典でもはっきり説いているんです。

「仏を縁ずることに心を向ける」。

仏を縁ずるということは、
仏を対象的にいろいろ考えるのではなくって、
自分を、仏を縁ずるという状況に置くということです。
最初は自分がお念仏をしている。自分が念仏をしていると思っている。
しかし本当はそうしているうちにいつのまにか縁起の構造に入っていくんです。
本来はそうなのですから。

それで道信という人は、
お念仏をしていると一切皆空になっていくということが、
『楞伽師資記』には書いてあります。
それからまた、こうも言っているんです。

「心を離れて別に仏あることなく、
仏を離れて別に心あることなし」。


お念仏が集中していきますと、 根源的な縁起の目覚めという状況になります。
私たちも念仏をするときは、心が働いています。
心を離れて別に仏様がいらっしゃるわけではない。
また念仏ですから仏様を念じているんですが、
「仏を離れて別に心あることなし」。
お念仏をしているうちに、いつのまにか仏様と私とが縁起の構造の中にあることになる。
そうして縁起の構造の中にあることで、実体としての自分がなくなっていることにもなる。
ただ 「空」 だ 「無」 だと言うのではなくて、

むしろ念仏のただ中で、「空」 の世界が開けていくということです。

私の古い友人で、 最初の 『般若経』 の 『八千頌般若経』 がどうしてできたかを追求している人がいます。
京大の仏教学出身の方で、 そこでしか考えようがないと論じていました。
すなわち如来を讃嘆し、 如来様と一体化し、 そして瞑想し、
そして法?していった人たちの中に、 般若波羅蜜の世界ができていった。

最古の般若経典である『八千頌般若経』 (漢訳では 『小品般若経』)というのは、
そこからできていったと言っています。

『八千頌般若経』 ができたのは紀元前一世紀頃です。
その後無数の 『般若経』 ができるんです。
『大品般若経』 『大般若経』 『文殊般若経』、それから何とか般若経、 何々般若経。
そして最後に『般若心経』 ができるのは、紀元四百年ころです。
ですから我々は、 最後の最後の 『般若経』 を読んでいるわけですが、

その最後の最後の 『般若経』 のしかも 「空」 のところだけを読んでいるから、
一見したところ念仏がないんです。

極端に簡略化されていますので念仏が出てこないのです。
でもずっと読んでみると、
本当は念仏の中の「空」 の世界なのです。

「空」 を離れて念仏はなく、念仏を離れて「空」 はない。

そこの処がわかるんです。
念仏を省略して 「空」 だけを説いているのが 『般若心経』 ですが、

四百数十年の『般若経』 の歴史を知らないものですから、
念仏と 『般若心経』 の空とは別々だと思っているんです。
しかし本当はお念仏をしている中に般若波羅蜜の世界が開けていくのです。

それからまた玄奘訳では「行深般若波羅蜜多時」とあって、
「般若波羅蜜多」が目的格になっているでしょう。
観自在菩薩が般若波羅蜜を行じたもうというところの漢訳では、目的格になっています。
ところがサンスクリット経典ではそうなっていないんです。

甚深なる般若波羅蜜の中で、
般若波羅蜜に包まれてその中で行ずる、

というのです。

サンスクリットには格が八つあり、場所の格 (於格) というのがあります。

それを玄奘三蔵がこの於格のところを目的格に解釈したために、
般若波羅蜜と空の実践とが分かれてしまった。
これは大問題です。

「心を離れて別に仏あることなく、仏を離れて別に心あることなし」。
これはまた縁起の構造でしょう。

ところが第四祖道信から心と仏とのこの二つが分かれていくんです。

「心を離れて別に仏あることなし」 と言っているから、
心が大切だということで心の面に集中していったのが禅宗です。

これに対して
「仏を離れて別に心あることなし」。これは念仏です。
仏を離れて別に心があるわけではないと言っているのに、
浄土宗の人たちにとっては、心がどこかに行っちゃったんです。

しかしこれは両方とも片手落ちです。

やっぱりお念仏をしているときに、
仏との縁起の関わりにおいて
我々自身の心が限りなく開けてくるところがあります。

西田幾多郎や京都大学の哲学科の人たち (京都学派) の多く
やはり禅宗的な傾向が強いので、
心のほうへ重点が行って、仏様がどこか浮き上がっていくんです。

逆に、「仏を離れて別に心あることなし」 と言われているのに、
浄土宗あるいは浄土真宗の人は、心の問題がどこかへ行ってしまい、
死んだら極楽へ行くということばかり言う。

道信という方は、 六世紀の終わりから七世紀にかけて、
ちょうど中国に禅宗ができるころにお出になって、
最初は念仏をして、 「空」 の悟りを開かれたけれども、
一旦、 「空」 の世界が開かれてきますと、
そこで 「空」 というか、心の立場が強調されていって、
他のほうが消えていきます。


禅宗と浄土宗との分岐点は、 私は道信にあったと思います。

それから禅宗と浄土宗とが分かれていく。
日本に来てもやっぱりそうです。

ここでもう一度、縁起という仏教の根源的な地平に戻って、
そこで考えることが必要です。


日本の仏教は宗派仏教といって、
浄土宗だ、真宗だ、禅宗だ、その宗派の中だけしか考えることができないでしょう。

どうしても部分的になって、全体が見えなくなっていきます。

そういう問題が、わかっている人はわかっているんですけれど......。

大乗仏教という一つの大きなつながりの中で、
一番肝心な問題が消えていきます。


『般若心経』 で「空」だ「空」 だと言って唱えることは大事ですけれども、

念仏によって、その「空」が体得されて、
その人の上に空が働き出してこないといけない。


お念仏をしていますと、般若波羅蜜の世界が開けていく。
また、「空」 の実践をしている中でお念仏が出てくる。
二つは一見、表面的に違うようですが、一つの事柄です。
お念仏をして「空」の世界が開けてきますと、解放されていくんです。
そのときに、実は皆さん一人ひとりが観自在菩薩になっていくわけです。
自在というのは解放という意味です。一人ひとりが解放されていく。
観自在菩薩というどこかに一人の特殊な偉い人がいて、
般若波羅蜜を行じていると書かれていますけれども、

本当は皆さん一人ひとりが観自在菩薩になっていって、
初めて大乗仏教になっていく
のです。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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