2018-04-21

山崎弁栄著『人生の帰趣』(岩波文庫)の刊行!


 山崎弁栄著『人生の帰趣』(岩波文庫)が、
この度、刊行されました。

201804211

201804212

201804213

凡 例
弁栄聖人略伝

【前 編】
第一章 人生の帰趣
第二章 大ミオヤ
第三章 光 明

【後 編】
第四章 安 心
第五章 念仏三昧
第六章 光明生活

和歌/感謝の歌/念仏七覚支

注 解・・・・・・(藤堂俊英)
解 説・・・・・・(若松英輔)
解 題・・・・・・(大南龍昇)
年 譜
山崎弁栄遺稿一覧
主要参考文献
人名索引

目次等は、こちらへ


今回は、この書の内容等には深入りせず、
この書との縁に依り、
弁栄聖者、光明主義に興味を持たれた方へ、
御参考として、以下のとおり、ご案内をさせていただきたく思います。

○「山崎弁栄記念館」(館長 若松英輔氏)
岐阜県岐阜市の「長良川画廊」(岡田晋氏)の1階。
『山崎弁栄展図録』

○山崎弁栄「人生の帰趣」を読む。
6回連続講演第4回。(講師、若松英輔(批評家))

○『弁栄聖者 御遺稿集』

○「一般財団法人 光明会」

○「光明会本部聖堂」

○「宗教法人 光明園」
初代園主は、田中木叉上人、
二代目は、河波定昌師、三代目の現園主は、大南龍昇師。


○「空外記念館」

○「為先会」
今回の『人生の帰趣』出版に際し、資料の提供者である、
金田師は、浄土宗の僧侶で、
「念仏会」を定期的に主催されている「為先会」の中心人物の一人。
また、「山崎弁栄上人百回忌」に向けて、
精力的に聖者の資料収集をされている方。

○「観智院」
東京芝増上寺近く、
弁栄聖者との縁が深い「真生同盟」。
「光明会」とは別団体。


○「光明主義の特徴(杉田善孝上人)」

○「浄土仏教の思想 (第14巻) 清沢満之・山崎弁栄」
脇本 平也 (著), 河波 昌 (著)


○「河波定昌」師の講演録

○藤本浄彦「光明摂化論1 その生成論と摂取論-善導・法然・聖光から近代浄土仏教者へ-」
平成29年6月13日から3日間、
山口県大島郡周防大島町東屋代の浄土宗西蓮寺で開催の、
一般財団法人光明会主催の教学研修会の聴講記録。

○「弁栄上人伝」(岡潔著『一葉舟』 (角川ソフィア文庫) )

○佐々木有一著「近代の念仏聖者 山崎弁栄」
佐々木氏は、今回の『人生の帰趣』の校正等に関わられた方。
この書によって、弁栄聖者の光明主義の特徴点、
特に難解な「無辺光」の特徴点の概要が掴めると思われます。

○中村眞人「山崎弁栄の光明主義と伝統的仏教の現代的展開
ー宗教社会学的観点からー」

(東京女子大学紀要「論集」第68巻第1号、2017年、P1〜26)

○「山崎弁栄文庫」(「ひたち屋書店」)
「山崎弁栄文庫」の運営者は、
今回の『人生の帰趣』の校正事務担当者の一人、志村氏。
弁栄聖者の顕彰、広報等に務められている方。


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2018-04-09

大阪府茨木市東福井「如来光明会」創始者”熊野好月”女史と”弁栄聖者”


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阪急バス「福井宮の前」停留所下車8分。
茨木ICからは車で約5分。

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大阪府茨木市東福井にある、
「浄土宗 如来光明寺」。

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如来光明寺沿革
明治、大正の時代に活躍された浄土宗の高僧、
山崎辨栄聖者(1859~1920;佛陀禅那辨栄と號す)
の主唱された『光明主義』の念仏道場として、
熊野好月大禅尼(1896~1975
;東京跡見女学校・京都第二高等女学校教官
山口県古熊善生寺内室)の発願のもと、
辻田忠兵衛居士(1892~1978;旧春日村村長)の土地の寄進、
久保利夫農学博士(1869~2002;国立奈良女子大学教授・日本菊花協会会長)等の協力を得て、
昭和39年3月16日、吹田市山田の地に在家信者による、
宗教法人『如来光明会』が設立されました。

昭和43年、吹田の地が万博用地として買収されたため、
茨木市福井の当地に移転。
昭和50年法人設立十周年記念として現在の本堂が再建された。
平成6年、眞崎善照師(浄土宗教師)が代表役員に就任し、霊園『光明聖苑』を開設。
平成27年、3月18日、浄土宗に帰属し、『如来光明寺』と成りました。
辨栄聖者筆『親縁の図』『二十五菩薩来迎図』等を所蔵。

以上、「浄土宗 如来光明寺」HPより転載。

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藤本浄本上人の筆。

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向かって左から、

辻田忠兵衛居士
山崎辨栄聖者
熊野好月尼
久保利夫農学博士


の墓石。

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↑ 【弁栄聖者のお墓】

弁栄聖者を「現代の釈尊」と仰がれておられた、
中川弘道上人とのご縁によって、
好月女史は、弁栄聖者にお逢いできました。

弁栄聖者五十回忌の際に結成された全国婦人部。

弁栄聖者は、
信仰教育上におけるご婦人の役割を大変重要視されていたようです。

その初代会長が、好月女史。
二代目が、足利千枝女史。

また、好月女史は、
岡潔博士の妻、みち氏のよき相談相手でもあったようです。

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弁栄聖者の最晩年に随行された熊野好月女史には、
幾つかの著作がありますが、
聖者の御教化の在り方、聖者の御霊格
をうかがい知るのに欠かすことのできない貴重な逸話が記されています。

示唆に富む逸話を幾つかご紹介したいと思います。

○ 「「南無阿弥陀仏」と申す言葉は
あまりに世人に嘲けりの感や縁起の悪いもののように思い込まれておりまして
非常に伝導のさわりになります。
同じ言葉で新時代に適した、
かわった唱え方をお考えになったらいかが
と思います」と申しますと、
お上人様はお笑いになってやがて
「やはり南無阿弥陀仏ですね」と只一言仰せられました。」

○ 「其日々の事を夜かへりみて、懺悔すべし。
しかし、三昧に入る念仏の時には、そんな事は考えず
只如来のお相好(すがた)、御面影を思うべし、
煩悩が起これば只如来様と相談すべし」


○ 「栗のいがでも初めは実を育てるために必要なもので
中の実が熟して来ればひとりでにのぞかれる。
私達も中身が熟せぬうちは煩悩も必要なのである。
稚ない子供が危ない刃物などを持って遊んでいる時、
あぶないと無理に取り上げようとすると
かえって渡すまいとにぎりこむから尚危ない、
他のよいものを示すと持っていたものは自然に捨てて
新しいよいものを手に取るように、
大ミオヤの御育てによってよりよいものを見つけ、戴く、
煩悩の必要がなくなって来る事が大切である。」


○ 「芽ばえたばかりの杉の苗は、
一朝にして天を摩する大木とはならない。
それをはやくのばそうとあせって引きぬくような事をしてはいけない」


○  「自分は如来様という月を指さす指である、
世の人は兎角、指に心をうばわれて肝心の月を見ようとしない」
とお釈迦様もなげいておられる


○ 「救われた嬉しさに伝道者を無暗に有難かって、
肝心の大ミオヤ様をおろそかにする人は必ず失望する時がくる」と。


○ 「世間の人は水の上を歩いたとか、
お酒にかえたとか、手にふれて病気をなおしたとか、
こういう事を大へんな奇蹟として驚く
それは大した事ではない、
それよりも悪の心を善心に立かえらせる。
これ程大きな奇蹟は外にない。」

と常々仰っていらっしゃいました。

○ 「お上人様を特別のお方、不思議なお方と見られておるようでした。
又実際、常人のなし得ない事も何でもないもののように仕てしまわれます。
時々は両手に筆をもち同時に異なった歌を書かれたり、
お米ひと粒に般若心経一巻を書かれたり、

それは人を驚かせる為でなく、
如来様のお慈悲を知らせたさに、
口でいうだけではよりつかないので
何とかしてとのやるせない心から方便としてお用いになった。」

と、好月女史は、『さえらぬ光に遇いて』に記されています。


「宗教家は奇蹟を現わさなくてはつまりません。
釈尊のお弟子でも多くの人が釈尊の教理に服して入道したのではなく、
釈尊の奇蹟に驚嘆してお弟子になっております」。

また「予言ができるとか、病気がなおるとか、
そんな奇蹟がなんの価値がありましょう。
凡夫が仏になる。
これほど大きい奇蹟がまたとありましょう」。


と、 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に、
併記されています。
この併記に、木叉上人の慧眼を感じます。

弁栄聖者の奇蹟に対する、この両面からの捉え方は、
実に的確かつ重要なご指摘だと思われます。


熊野好月女史が、弁栄聖者にご随行の汽車の中でのこと。

「歳は八十位の老爺。
眼が見えぬらしく、ただれつぶれ、
手の甲など鶏の脚のような色で見るも気味の悪い汚いなり。」

弁栄上人をはじめ私達が色々と世話をしていると、
乗客の一人がソッと女史に、

「あの人は梅毒の第三期で伝染するから気をつけなさい」とささやいた。

好月女史は、気が気ではなく、そのことを告げても、
弁栄上人は尚平気で何くれとなく世話をやいておられた。

その世話をやいてくれたことに対する謝意を込めて、
その老爺は、懐から餡パンを取出して、
その汚い手でわしづかみしたパンを弁栄上人と私達に差し上げた。

((注)時期は、大正時代のこと、
弁栄聖者には当時の医学的知識もおありになったようですが、
感染経路等について現在のように解明なされておらず、
ペニシリン普及前のこと。)

その老爺の側に座っておられた上人は、
相変わらず何の屈託もなさそうに小さいいびきをかいて寝ておられたが、

私は、そのパンの処理に、ほとほと困り果て、
とうとう、蟻や魚の餌食になって呉れるように念じつつ、
洗面所の窓から、投げてしまった。

明け方近くになって、

例の老爺も起き、懐から紙袋の口を開いて例のパンを取出して食べ始めた時、

それをご覧になっていた弁栄上人は、
どこにしまっておられたのか、
昨夜貰ったパンをいとも敏速にそっと彼の懐にある紙袋の中に入れられた。

もちろん、眼の見えぬ彼は何も知らずパンをムシャムシャと食べていた。

そのさりげない所作を見られていた好月女史は、
中井常次郎氏から、あなたも早くと厳しく急かされ、
自分の行為を大変恥じ、後悔の念で、涙ぐんでいたところ、
お上人はあたたかな慈顔にえみをうかべて御覧になって只、

「時機を待つのですね。」
と、一と言やわらかに仰っしゃいました。

後年、好月女史は、この時のことを回想され、

「パンはおじいさんの心もきずつけず、袋にかえったのが一番生きるのです。
お上人様はふれる事もふれるものも大事も些事も、
丁度水が流れるように任運無作に事をさばかれ、
そのものは自由に生かされ、いのちを吹きこまれ、
何一つの無駄もありません。

事毎にねばりつき考えぬいた挙句が人をきずつけ物を殺し勝ちであります」と。


↓ 【熊野好月尼のお墓】

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← 【辻田忠兵衛居士の墓】
→ 【久保利夫農学博士の墓】



↓ 周囲は、のどかな田園風景が広がっています。

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2018-03-21

愛媛県松山市「浄福寺」における「弁栄聖者」の御教示&「学信上人」&「ロシア兵墓地」


愛媛県松山市の「浄福寺」、 「大林寺」の大嶋玄瑞上人と、
垣本都夫人と笹本戒浄上人関連記事を記しました。

まだ補足しておきたいことがありますので、
今回は、それらを記しておきたいと思います。


【浄福寺】

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この浄福寺での弁栄聖者の鈴木憲栄上人へのご教示は、
大変貴重なものですので、
それらを含めて是非記しておきたいと思います。

以下、
鈴木憲栄上人著『ミオヤとのめぐり会い』に依ります。

○ある時、突然聖者が、鈴木憲栄青年へ、

「如来様は、あの太陽よりも明るいですね。」

「如来様のお頭の紺青(みどり)の美わしいのを拝すると、
お敬いの心が起こりますねえ。
眉間の白毫相、月のお眉、すずしいお目を拝すると、
清らかな心持ちとなります。
み鼻、そして、燃ゆるようなお唇を拝しますと、
身も心も溶けてゆくようです。
おからだには美しい文(あや)があってそれが透徹っています。」

※ 「聖きみくに」には、
「烏瑟(うしつ)の綠(みどり)は天(そら)にこい」と記されていますが、
「こい」は聖者の方言で、「こえ」の方がよろしいのでしょうね。
聖きみくにを突きぬけた、如来様の無見頂相のこと。」
(これは、杉田善孝上人の貴重なご教示。)

このことと関連したものとして、
冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』には、
次の2点が記されています。

◇「「烏瑟(うしつ)」とは、如来様の御頭の髪である。これが天よりも高い。」
◇「如来様の本当のお姿は、釈尊のように成仏しないと拝めない。
池に映った月が霊応身であり、それに対して本当のお姿を真身という。」


○「如来様のお顔の丈だけでも一丈ばかりありましょうかね」

恍惚として聖者のお話を伺っていた憲栄青年の心に、

「聖者が今仰せられている、如来様のみすがたというのは、
幻のようにおみえになっておられるのではなかろうか。」
との疑念がふと起こった時、間髪を入れず、

「幻覚ではありませんよ。
この世のすがたがみえておって、そこに、如来様が拝めているならば、
それは幻覚といえないこともないでしょう。
しかし、如来様が拝めている時は、
この世界のすがたが見えていない」


と、突然、聖者は仰せられました。

田中木叉上人は、

「乱れざる一心凝りて
感性も理性も眠り 光る霊性」

と、『じひの華つみうた』に、詠っておられます。

○憲栄青年は、聖者に随行され、
「三昧状態」と「三昧発得」とを明確に区別すべきと気づかれ、
「三昧発得」とは、
一時的な、瞬間的な「三昧状態」のことではなく、
常時不断、自由自在な境地のことである、と。

これは、非常に重要な指摘だと思われます。

○「今になって思いますと、
如来様を拝まなければ(見仏すること)ならぬということはありません。
たとえ見仏することが出来なくとも、
如来様のお慈悲が喜べて、有難く念仏することが出来ればよろしい」

と、弁栄聖者が突然、憲栄青年に仰られた。

聖者ご指導の元、一生懸命念仏に励んでいても、なかなか見仏できず、
劣等意識を持ち始めていた時のこと、
憲栄青年は、この聖者のお話はとてもありがたく、
救われたような気持ちになられたそうです。

一方、
聖者は身近の者には、
常に「見仏を所期とせよ」
と仰られていたそうです。

弁栄聖者の最晩年に随行された鈴木憲栄上人は、
弁栄聖者の想い出として、
晩年に、両方を併記されています。

この点に、留意すべきかと思われます。


【田中木叉上人・弁栄聖者・笹本戒浄上人のお墓】

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以前は、松山市の他の箇所にあったようですが、
こちらに移されたようです。

また、戒浄上人を尊崇され、同上人とも因縁の深かった垣本都夫人の分骨は、
戒浄上人のお墓に埋葬されたとのこと。


【長建寺】

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佐々木為興上人のご自坊、
広島県二廿市市の「潮音寺」には、
学信上人のお墓がありましたが、
ここ「長建寺」で、学信上人のお墓に出会い、
何か、学信上人との不思議なご縁を感じました。

また、同市「大林寺」の第十四代住職は、
伊予奇談伝説の「墓で生まれた学信和尚」。

【十五世 学信上人のお墓】

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【ロシア兵墓地】

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ロシア兵捕虜は、松山では概ね厚遇であったようです。

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弁栄聖者の御晩年には、
日露戦争などもありましたが、
聖者は、浄土宗内の組織的な関わりを始め、
政治的な事柄からは、生涯に渡り、距離を置かれていたように思われます。

「宗教と政治、組織との関わり」は、永遠の課題
と云い得るほどの難題の一つではありますが、
浄土宗内では、
椎尾弁匡上人の社会運動「共生運動」が起こりました。

ある時、信者の方が、
「弁栄上人のような御方こそ、政治家になっていただきたい。」
と懇願された際に、

「私は、もっと大きな仕事をしていますから。」
とお応えになっておられます。

弁栄聖者のご真意を推し量ることは困難ですが、

「念仏三昧に依り「大ミオヤの四大智慧」を蒙り、
「三身四智の仏眼を体得」してこそ、初めて、
政治の根幹をなす「八正道」を実行することが、可能となる。」


との弁栄聖者の御信念であったとご拝察いたします。

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2018-02-13

「念仏の択法は主義上の重大問題ですから、壁に向かって一人言云ってでも、曲げてはなりません。」(笹本戒浄上人の垣本都夫人へのご教示)


前回記事にしましたが、
笹本戒浄上人のご薫陶を受けられた垣本都夫人。

戒浄上人と垣本夫人に関わる逸話において、
主義上欠かすことのできない極めて重要なエピソードがあります。

以下、『笹本戒浄上人伝』によります。

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【笹本戒浄上人(64歳) 昭和12年3月 松山大林寺】

垣本夫人が某教授と「念仏択法」について議論となり、
随分と苦労されていた折、
昭和12年、笹本戒浄上人御来松時、
無問自説に、

「念仏の択法は主義上の重大問題ですから、
幾ら迫害を受けましても、又誰も聞いてくれる者がありませんでも、
壁に向かって一人言云ってでも、主義上の大切な問題
です。
曲げてはなりません。
若し此の点を妥協するなら雑草の如き宗教の数多き中に
光明主義として態々説き出す必要はありません。」
と厳然として仰せられました。

戒浄上人の堅固な護法精神を象徴する逸話です。

また、
(橋本徳冏氏)
 「浄土宗内では、まだ光明主義は異安心であるとか、
見仏は異安心だ、などという人もありますが・・・」

(戒浄上人)
 「そのようでございますな。
しかし、それは卑怯というものです。
浄土宗はすべからず法廷を開くべきです。
そのとき私は法廷に立ちます。
その結果、光明主義・見仏がいけないというなら、
あなた方こそ法然上人の真精神を壊すものだ、
あなた方こそ浄土宗を出ていらっしゃい、と申します。」

と、断固お答えになった。

弁栄聖者の直弟子の中で、
「念仏の択法」すなわち「起行の用心」について、
笹本戒浄上人ほどこの点を強調されたお方はなかったと思われます。


戒浄上人ご遷化の7年程前の、
昭和5年1月に、
宗乗の統一を計る前に協議をとの意図で、
浄土宗務所主催の「布教要義研究会」(「信仰会議」)が開催されました。
会議の詳細について明らかにはされなかったようです。

主だった出席者を記します(敬称略)と、
桑門秀我、望月信亨、矢吹慶輝、岩井智海、渡辺海旭、
笹本戒浄、藤本浄本、熊野宗純、土屋観道、
椎尾弁匡。


出席者からみても、
浄土宗務局からの「光明主義」、「真生主義」と「共生会」の検証、
といった意味合いが濃厚であったようで、
「昭和の大原談義」とも評されていたようです。

この会議について、
「宗務当局はよいことを言ってくれた。」
と戒浄上人は言われたそうですが、
また同時に、
「ひょっとすると今回私は
お寺から出て行かなければならなくなるかもしれません」

と慶運寺総代宅へ行かれ、ご挨拶をされたそうです。


『教学週報』掲載の会議の「申合せ事項」のうち、

「宗乗闡明の根本精神としては宗祖を中心とし
教化の基準を一枚起請文に置くこと」


との項目があり、そのことについて、
戒浄上人は、大谷仙界上人宛の書簡で、

「この申合せ事項」の内に、公表せざる申合せがあり、
それは、
「布教の基準を一枚起請文となすこと、
但しその説明は自由たるべき事
との但し書があったとのことです。

この但し書は、
光明会側での同志討ちを避け、
光明会側の意志の統一をはかられた
とのことです。
(註 当時光明会内では、藤本浄本上人の”安心往生派”
笹本戒浄上人の”見仏成仏派”との軋轢があったようです。)

なお、
主務所側の渡辺海旭博士の対応について、
「大変度量の大きい方だ」と戒浄上人はほめれておられたようです。

また、望月信亨博士は、
「笹本先生は悟りにおいて当代の第一人者だ」
と側近の教え子に洩らされた。(岸覚勇氏談)

ただし、
これにて一件落着といったはずはなく、

後に、
岩井智海大僧正は、ご在任中、
光明会総監であった笹本戒浄上人に、
「質ねたい儀があるから祖山にくるように」との呼び出しがあり、
その時、浄土宗全書第十巻(第二祖鎮西上人の著作所収)を持参され、
その典拠を指摘しながら光明主義の説明をされた。
その時特に何も申されず、そのまま対面は終わったとのこと。

かくて、
浄土宗当局の光明主義に対する態度は明確にされないまま、
現在に至っている
ようです。

以上、 「信仰会議について」『笹本戒浄上人伝』より。


「見仏」を巡る批判、議論は、
弁栄聖者の御在世中、御遷化後も、
浄土宗内は云うに及ばず光明会内でも、
現在に至っても統一されていない最大の懸案事項かと思われます。

「念仏の択法は主義上の重大問題ですから、
幾ら迫害を受けましても、又誰も聞いてくれる者がありませんでも、
壁に向かって一人言云ってでも、主義上の大切な問題
です。
曲げてはなりません。」

”偏狭な堅い信念”とも受け取られかねない、この笹本戒浄上人の堅い信念
この妥協を許さぬ信念はどこから来るのか、その由来を考えてみる必要があるかと思われます。

それは、弁栄聖者がご唱導された見仏観は、
「三身四智の仏眼」を体得され、
それを歴史上、外部に漏らされた聖者のご内証による、
大宇宙の真相、すなわち、超在一神的汎神に基づく仏身観に依るものであったことに由来すると推察されます。

すなわち、
弁栄聖者の修道論である見仏論は、
仏身論から必然的に導かれたものである故に、
笹本戒浄上人は、その真精神を「直線道」と名づけらたと推察されます。

ただし、ここで留意すべき点があり、
「直線道」とは、主として修道論におけるものであり、
「度生論」におけるものでは必ずしもない。
この区別は峻別すべきであると思われます。

また、
この両面が自然に行え得るのは、
三身四智の仏眼を体得された弁栄聖者のような、
「大ミオヤのお世継ぎ」の境界においてである点です。


弁栄聖者が三昧直観された、
大宇宙の真相、すなわち、超在一神的汎神たる仏身観とは、
通仏教の無始無終の無相「法身」に規定された、
相対的な有始無終の「報身」ではなく、
「報身」無始無終であり、
大宇宙全一の絶対的現象態(妙身相好身本より在します)
三身即一の本有無作(無始無終)の内的目的論的報身を「大ミオヤ」
如来観を定義し直しされました。

なお、笹本戒浄上人に依りますと、
この仏身観は、三身四智の仏眼の境界において、
初めて認識可能となる大宇宙の真相
であるとのことです。

弁栄聖者独自の「見仏論」ご首唱の真意
笹本戒浄上人の「直線道」の深意は、
上述の光明主義独自の仏身論解釈、理解を経て、
初めて認識可能となるものと思われます。

また、修道論上、極めて重要なことは、
大宇宙全一の絶対無規定、絶対的現象態たる「報身」が、
大宇宙の絶対中心であるという点です。

この中心とは、場所的、重心的な中心という意味ではなく、
機能的中心という意味であり、
修道論上は、各自の「真正面」となります。

河波昌(定)東洋大学名誉教授、元光明会上首、元光明園園主は、
西田幾多郎博士の思想を引用され、

「無限円においては、至る処が中心である。」

という認識を大変気に入られたようで、ご法話、論文等にもよく引用されました。

なお、この言葉は、
中世のフランシスコ会修道士のボナヴェントゥラのもの。


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【田中木叉(モクシャ)上人(1884年~1974年)】

最後に、
弁栄聖者三十三回忌(昭和27 1952年)における、
田中木叉上人のご法話の抜粋(大意)を記します。

「光明主義は、聖浄二門を納め統一したみ教えであって
浄土宗の内に光明主義があるのではなく、
光明主義の内に、
浄土宗あり、真宗あり、禅宗あり、真言宗あり、
またキリスト教あり、マホメット教がある。

従ってバイブルによって光明主義を説くこともできれば、
真宗の教えによって光明主義を説くことできる。

弁栄聖者は実に破邪顕正ではなく、破邪なき顕正であった。
一切のものにそれではいけないこれが正しい、
というように破邪をおやりにならず、
常に一切を生かされた。
一宗を建てられた方々は、たいてい法難に会っておられるが、
聖者は法難にお会いにならなかった。
法難にも会わないようなものは、本物ではないが、
また、法難に会うようではまだ円満とはいえない。
聖者は実に円満具足のお方で、
破邪なき顕正で在したればこそ、
法難等にもお会いにならなかった
のである。

光明主義は、万教を摂し統一したみ教えであり、
万教に通ずるみ教えであるから、
一切あるがままにおいて
その教えに従って光明主義の教えを説くことができるのである。

またこれらの意味において
浄土宗その他の宗団に所属しない光明主義の教会及び
これらを包括する包括団体ができよう
し、
またこれができたとしても、別の分派ができたと思って驚いてはいけない。
また、対立してはならない。
同じように円満に手をつないでゆかねばならないのである。」

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-01-18

愛媛県松山市「大林寺」、”松山光明会育ての母” 垣本都夫人と笹本戒浄上人


弁栄聖者は、ご婦人の役割を重要視されていたようです。

光明会を裏で支えた存在として、
ご婦人方の役割を決して忘れてはならないと思います。

 2018011702.jpg
【垣本都夫人 昭和56年8月往生 世寿93歳】
(写真は昭和56年春 「弁栄上人展」の際)


愛媛県松山市「大林寺」における「松山光明会」の発展は、
”松山光明会育ての母”ともいうべき垣本都夫人
の存在抜きには考えられないように思われます。

垣本夫人のお写真を拝見した時、
評論家の小林秀雄氏の晩年の姿が連想されました。
”女丈夫”ともいうべき内面を感受したのかもしれません。

垣本夫人には、
”人に親切な慈悲深い”面もあったようですが、
その活動を支えた”背筋がシャンとした”姿勢は、
生涯貫かれていたように思われます。

この写真撮影時のエピソードとして、
松山光明会にご縁の深かった山本空外上人は、

「垣本さんは紋服(大林寺ゆかりの久松元殿様より頂いたものと聞く)
を着て堂々としておられたが、
あれは皆気がつかなかったけれど、
お別れのご挨拶だったのですよ」
と話しておられたようです。

また、
光明会の歴史上、重要な役割を果たされたご婦人が幾人もおられますが、

「松山光明会」の垣本都夫人のことを考えます時、
何故か、東京「一行院」にあった「東京光明会」の、
中井とき夫人のことが思い出されます。

東京「一行院」とは、
徳本行者往生の地であり、
中井とき夫人は、
弁栄聖者の在家の弟子、中井常次郎氏(弁常居士)の義理の妹。


垣本都夫人の逸話も大変示唆に富み、また、大変興味深いので、
是非ご紹介したいと思います。

垣本都夫人は、在家でありましたが、

最初に如来様におめにかかった時に、
「如来様の御顔がぼぉーとしてはっきりと拝めませんでした」。
そのことを笹本戒浄上人にご報告しますと、

「如来様をお慕いする気持ち(情)が足りないからである。」
とお叱りを受けたそうです。(杉田善孝上人談)

また、
垣本さん、人間はいつも頭に落雷があっても、
魂に怪我をしないだけのお念仏
をしておらなければなりません。
それでないと人生に行き詰ることがあります」と。

垣本夫人は、更に如来様の霊育を受けられ、
後に、慧眼と法眼が開かれたそうです。


学生たちが笹本戒浄上人のみ教えを聞きかじり、
「見仏、見仏」
と騒いでいると、

「真の見仏とは、そんなちっぽけなものではない。
大宇宙の真精神をくみとり、
それがその人の人格と生活とに現われ出る
ようなものでなければならない。と。

「見仏」による心身の霊化(仏化)
その甚深なる真の意義を認識されていた実体験者
垣本都夫人による極めて重要なご訓戒


2018011701.jpg
【昭和12年3月 松山大林寺における
笹本戒浄上人最後のお別時】



垣本都夫人は、笹本戒浄上人を大変尊崇されていたようですが、
また、戒浄上人とのご縁も深かったようです。

 2018011703.jpg
【笹本戒浄上人(64歳) 昭和12年3月 松山大林寺】

(戒浄上人)「この度が最後のお別れで御座います。
御体に気をつけて主義をよろしく」
(垣本夫人)「必ず年に一度は御指導下さるお約束でしたがー」
(戒浄上人)「ハイ、今回で如来様の思召しは無いと存じます・・・」


同年、昭和12年(1937年)7月26日、
笹本戒浄上人、ご遷化。


翌日、7月27日早朝
大嶋玄瑞上人が、戒浄上人ご遷化の電報をもって、
垣本夫人の部屋に駆けつけ報告する前に、夫人から一言、

「笹本上人が亡くなられましたね。」

また、
戒浄上人ご遷化後、
日夜真に残念に思い、力を落とされていた或る夜の夢に、
戒浄上人がお膝を進められて

「宇宙間の一切を尽くしても「念弥陀三昧」にはかなわないのですから、
勇気を鼓して至心にお念仏なさいませ」
と。

目覚めたら、丁度百ヶ日でした。

前々回、同松山市内の「浄福寺」にある、
弁栄聖者と笹本戒浄上人、田中木叉上人の三基の舎利塔

のことを記事にしましたが、
戒浄上人のご長男の浄光師が分骨を松山に持ってこられました。

戒浄上人のご遺言として、
「戒浄上人のお衣と威儀細」を垣本夫人に渡すように
と記されていたそうです。


「松山光明会」には、
「光明主義の六大特長」を択出された大嶋玄瑞上人
笹本戒浄上人の直弟子中、「記主」ともいうべき泉虎一氏、
笹本戒浄上人の薫陶を受けられた垣本都夫人がおられました。

「松山光明会」が果された意義として、
光明主義教学上、また、浄土宗(乗)との関係上避けては通れぬ
「念仏の択法」
の最重要課題
がありますが、
このことについては、また項を改めて考察したいと思います。


最後に、笹本戒浄上人の垣本都夫人(また我々)へのご教示。

「一心にお念仏しておれば、
三代生れ変る間に必ず親様のお世継になれます。
これは事実でございます。
私は決してうそは申しません。」

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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