2017-05-28

山口県大島「西蓮寺 第十九世住職」 全国光明会連合上首 藤本浄本上人と弁栄聖者とのご邂逅 


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大正8年10月
西蓮寺 第十九世住職 藤本浄本上人は、
山口県周防大島の御自坊に、
弁栄聖者を迎えられ、
初老記念法会(当時40歳、42歳とも)を開催されました。

当時、藤本浄本上人は、宗乗学者として名を成していましたが、
僧侶としての在り方に大変悩まれていました。

椎尾弁匡博士、中島観秀師など、
その当時、浄土宗内で周知の御方を招かれ御法話を聞かれていましたが、
どうしてもしっくりいかず、
新潟県長岡 法蔵寺の浅井法順上人から、
かねてから噂を耳にされており、弁栄聖者の御法話を聴聞する勝縁に恵まれました。

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田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』
にも記されていますが、

山陽本線大畠駅のプラットホームで、
浄本上人は、弁栄聖者をお待ちしていました。

浄本上人は、聖者と面識はなかったのですが、
汽車から降りてこられた一人の僧侶をご覧になり、
この方が弁栄聖者だとすぐにわかったといいます。

その聖僧の御身より霊気を放ち涼しい、いきいきとした光が、
御身の周囲一間四方に輝いてまし居ました
からでした。

此の聖者の放ちたまう光明を拝するや、
覚えず低頭合掌恭礼し念仏せずには居られず、
其の霊気に触れてより恍惚として酔うよう
になりました。

この浄本上人の逸話は、光明会内ではよく知れているようですが、
この時の状況について、
杉田善孝上人の大変示唆深いご教示があり、
その要旨は以下のとおりです。

「当時、浄本上人は厳密な意味における三昧心は得ておられなかったが、
内的感覚としての心の眼は開けておられた
心の眼開けた人にとっては、聖者はただの平凡僧でなく、
光明赫灼として拝むことができました。
この時の光明は聖者の業光であり、
いわゆるオーラで、(心光ではなく)色光
キリスト教で描かれる金冠、後光などは、宗教美術家の想像の産物ではなく、
心の眼開ければ、業光を拝むことができます


浄本上人は、聖者に相見以前に既に、
『凝(じ)っと自然を見ていると自然と一つに融け合う気分になる』
という所までいっていたが、
これは三昧の準備的入門の前段階に相当するもので、
浄本上人が聖者に初対面の時、直ちに業光を拝まれたのはそのためです。」

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(藤本浄本上人 1879年~1971年往生 世寿 92歳)


知恩院門主 故 山下現有上人に初対面の時、
同門主 故 藤井実応上人も山下上人の業光を拝された
と浄本上人は語られています。

山下現有上人が知恩院門主で在られた時と記憶していますが、
弁栄聖者は、知恩院勢至堂での高等講習会の講師として、
あの「宗祖の皮髄」を御講義されました。

当時、高僧として知られていた山下現有上人もまた、
見仏しておられていたようですので、
弁栄聖者の御境涯に御共鳴されていたと思われます。

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↑ 弁栄聖者が西蓮寺に招かれた、大正8年当時、
島へは、連絡船で渡られました。

↓ 対岸からの船着き場の眺め。

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大島大橋が建設されたのは、
弁栄聖者のご遷化後、およそ60年後の1976年(昭和51年)。

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たまたま、晴れ、曇り、雨の天気模様を経験しましたが、
特に晴れ間の景色は、
風光明媚と形容すべき素晴らしいものでした。

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連絡船を待つ間の、
藤本浄本上人と弁栄聖者との会話も、とても示唆に富んでいます。

浄本上人「極楽はきれいでしょうね」
弁栄聖者「ハイ、きれいです。」

風光明媚な景色をご覧になりながら、

浄本上人「あそこらは極楽に見えるんでしょうね」
弁栄聖者「いえ、やはり島に見えます。」

蛇足で申し訳ございませんが、

聖者は、”比喩として”「極楽はきれいです」と言われたのではありません。

五眼の内、
肉眼で、自然界の風光明媚な景色を、
仏眼で、心霊界の麗しい極楽をご覧になっておられていたのです。

この風光明媚な景色をご覧になりながら、
浄本上人が弁栄聖者に、「極楽」と喩えられて表現されたのは、
わかるような気がします。

この地を訪れ、この素晴らしい景色に見とれあかず眺め、
この場所をはなれがたかったことが思い出されます。

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後に、光明修養会の上首を長年務められ、
”徹底した念仏行者、宗教哲学者、語学・書の達人”
でもあられた山本空外上人が、
人生にいきずまり、救いを求め、藤本浄本上人の元を訪れ、
念仏によって救われたのが、此処、周防大島の西蓮寺。
大正10年夏、
山本幹夫師(空外上人の俗名)18歳、浄本上人42歳の時でした。

まことに惜しいことに、
空外上人は、弁栄聖者にお逢いすることができませんでした。
しかし、このことは、
今後の光明会、光明主義の発展、展開にとって、
また、光明会、光明主義の在り方、それらの特徴を再考するにあたり、
”如来様の御計らい”という深意があるような気がしてなりません。

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弁栄聖者の直弟子には、
お上人方によってそれぞれに特徴があるように思われます。

藤本浄本上人は、
浄土宗勧学に叙任せられる程の宗乗学者でもありました。

浄本上人の聖者観は、生涯一貫して、

「法然上人の御教え(本願念仏)を現代に生かされた御教え(光明摂化による現当二世の光明生活の重視)を説かれた聖」

であったかと思われます。

浄本上人は、全国光明会連合の上首を長年務められましたので、
必然的に、浄土宗と光明主義との関係への言及が少なからずあり、
浄本上人のご著書を紐解くことは光明主義研究にとって不可欠だと思われます。

浄土宗勧学に叙任されるほどの宗乗学者であられた浄本上人が、
弁栄聖者を終生尊崇されたのが、

”念仏による霊化の結晶”ともいうべき”聖者の御霊格”

であられたという点は、

「安心起行(只信口称念仏)重視派」、
「起行の用心(憶念口称念仏)・見仏重視派」
の如何を問わず、

光明会(光明主義)に縁のある者にとって、
傾聴すべき、常に立ち返るべき基点
であるように思われます。

「見仏の要は、一切身意を仏化するにあり。」(弁栄聖者)

”弁栄聖者(光明主義)の神髄”はこの点に尽きる
といっても過言ではないように思われます。

誤解を恐れずに表現しますと、

「見仏とは、
”目的にして手段、手段にして目的”
”目的即手段、手段即目的”」


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2017-03-20

山口県山口市古熊「善生寺」、弁栄聖者愛弟子、熊野好月(旧姓徳永あい子)女史

【山口市古熊 善生寺】

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前回は、全国光明会連合会 二代目総監 熊野宗純上人
について、記事にしました。

今回は、熊野上人のご令室、熊野好月(旧姓徳永あい子)女史。

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【熊野好月女史(行年八十歳 ~1975)】

弁栄聖者を「現代の釈尊」と仰がれておられた中川弘道上人とのご縁によって、
好月女史は、弁栄聖者にお逢いできました。

弁栄聖者五十回忌の際に結成された全国婦人部。
その初代会長が、好月女史。
弁栄聖者は、信仰教育上におけるご婦人の役割を大変重要視されていたようです。

二代目が、足利千枝女史。

また、好月女史は、岡潔博士の妻、みち氏のよき相談相手でもありました。


弁栄聖者の最晩年に聖者に御随行された熊野好月女史には、
幾つかの著作がありますが、
聖者の御教化の在り方、聖者の御人格を知るのに欠かすことのできない貴重な逸話が、
記されています。

示唆に富む逸話を幾つかご紹介したいと思います。

「世間の人は水の上を歩いたとか、お酒にかえたとか、手にふれて病気をなおしたとか、
こういう事を大へんな奇蹟として驚くがそれは大した事ではない、
それよりも悪の心を善心に立かえらせる。これ程大きな奇蹟は外にない。
と常々仰っていらっしゃいました。」


「お上人様を特別のお方、不思議なお方と見られておるようでした。
実際、常人のなし得ない事も何でもないもののように仕てしまわれます。
時々は両手に筆をもち同時に異なった歌を書かれたり、
お米ひと粒に般若心経一巻を書かれたり、
それは人を驚かせる為でなく、如来様のお慈悲を知らせたさに、
口でいうだけではよりつかないので
何とかしてとのやるせない心から方便としてお用いになった。


と、好月女史は、『さえらぬ光に遇いて』に記されていますが、
弁栄聖者の奇蹟に対する、この両面からの理解は、実に的確なご指摘だと思います。


「宗教家は奇蹟を現わさなくてはつまりません。
釈尊のお弟子でも多くの人が釈尊の教理に服して入道したのではなく、
釈尊の奇蹟に驚嘆してお弟子になっております」。


また「予言ができるとか、病気がなおるとか、
そんな奇蹟がなんの価値がありましょう。
凡夫が仏になる。これほど大きい奇蹟がまたとありましょう」。


と、 田中木叉上人も『日本の光(弁栄上人伝)』に、併記されています。


熊野好月女史が、弁栄聖者にご随行の汽車の中でのこと。

「歳は八十位の老爺。
眼が見えぬらしく、ただれつぶれ、
手の甲など鶏の脚のような色で見るも気味の悪い汚いなり。」

弁栄上人をはじめ私達が色々と世話をしていると、
乗客の一人がソッと女史に、

「あの人は梅毒の第三期で伝染するから気をつけなさい」とささやいた。

好月女史は、気が気ではなく、そのことを告げても、
弁栄上人は尚平気で何くれとなく世話をやいておられた。

その世話をやいてくれたことに対する謝意を込めて、
その老爺は、懐から餡パンを取出して、
その汚い手でわしづかみしたパンを弁栄上人と私達に差し上げた。

((注)時期は、大正時代のこと、
弁栄聖者には当時の医学的知識もおありになったようですが、
感染経路等について現在のように解明なされておらず、
ペニシリン普及前のこと。)

その老爺の側に座っておられた上人は、
相変わらず何の屈託もなさそうに小さいいびきをかいて寝ておられたが、

私は、そのパンの処理に、ほとほと困り果て、
とうとう、蟻や魚の餌食になって呉れるように念じつつ、
洗面所の窓から、投げてしまった。

明け方近くになって、

例の老爺も起き、懐から紙袋の口を開いて例のパンを取出して食べ始めた時、

それをご覧になっていた弁栄上人は、どこにしまっておられたのか、
昨夜貰ったパンをいとも敏速にそっと彼の懐にある紙袋の中に入れられた。


もちろん、眼の見えぬ彼は何も知らずパンをムシャムシャと食べていた。

そのさりげない所作を見られた好月女史は、
自分の行為を大変恥じ、後悔の念で、涙ぐんでいた時に、
弁栄上人が声をかけられました。

「時機を待つのですね。」

後年、好月女史は、この時のことを回想され、

「パンはおじいさんの心もきずつけず、袋にかえったのが一番生きるのです。
お上人様はふれる事もふれるものも大事も些事も、
丁度水が流れるように任運無作に事をさばかれ、
そのものは自由に生かされ、いのちを吹きこまれ、
何一つの無駄もありません。
事毎にねばりつき考えぬいた挙句が人をきずつけ物を殺し勝ちであります」
と。


田中木叉上人の熊野好月女史への御教化も、
とても示唆に富むと思われます。

「自分のようなものは・・・」と後悔ばかりしている好月女史に対し、

「あなたはいつも自分の悪い所ばかり見つめて
背負いきれない重荷と感じている、
それは卑下しているようで自力をたのみすぎている、
なぜ南無と如来様に背負い切れぬその荷(業)をささげて仕舞わないのですか、
自分で出来る事や自分の長所はお救いを求める必要はない、
どうにもならぬ点こそ、そのすべてをさし上げおあづけして、
如来様に清めていただく、ここが一番大切なところです。」


木叉上人は、
「本願ぼこり」はもちろん「凡夫ぼこり」も戒めておられます。

「凡夫ぼこり」とは、「凡夫を看板にしてなまけることの言い訳」とも。

「私のようなものは、とても・・・というのは、
如来様に対する不遜な態度である。

それは、謙遜ではなく、如来様の御力を見くびっているのだ」
と。

木叉上人は、、
「私ではなく、如来様に目を向けるように」
と、いつも注意されていたようです。

とてもありがたい木叉上人の御説法です。


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【清涼院弁誉好月普照大禅定尼】


【山口サビエル記念聖堂】

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山口の大内氏は、
文化を尊重された方としても知られていますが、
日本最初の教会があったこともとても興味深いです。

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2017-02-19

山口県山口市古熊「善生寺」、全国光明会連合会 二代目総監 熊野宗純上人


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山口市古熊にある「善生寺」

弁栄聖者の直弟子、故熊野宗純上人のお寺。

熊野上人は、山口県下の教育界へも影響力があり、
かつて、浄土宗第六・七連合教校の校長・山口教区学監を務められた御方で、
全国光明会連合会二代目総監

※ 全国光明会連合会初代総監は、笹本戒浄上人、
在団法人光明修養会三代目上首は、藤本浄本上人。


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少々きつめの階段を登りきった右側に、
熊野家のお墓があります。

熊野宗純上人のご令室、故熊野好月女史のお墓があります。

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本堂の奥には、
善生寺庭園(伝雪舟作)があります。

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本堂の右側に、
熊野宗純上人と善生寺歴代(熊野忠道)上人のお墓があります。

奥が、熊野宗純上人のお墓。

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熊野宗純上人(1878~1946年)

熊野上人が、弁栄聖者に初めてお逢いになったのは、
大正8年の8月
佐々木為興上人の自坊、広島県心行寺でのこと。

「おかしがたき崇高の人格と、慈悲あふるる温容に接して、
一種いい知れぬ充実味を心の奥底に覚えた」


と、熊野上人は、その時の聖者の印象をご述懐されています。


(弁栄聖者)「あなたはこれまで如来様を親様と呼んだことがありますか。」
(熊野上人)「はい、いつもそう申しています」。
(弁栄聖者)「それでは、あなたは、如来様をあなたを生んで下さった母のように思いますか」。
(熊野上人)「いいえ、そうは思われません」。
(弁栄聖者)「それではなんにもなりません。真剣に念仏してご覧なさい、きっとそう思われるようになります。」


聖者のこのなんの理屈もない事実そのままの簡単なお言葉を伺った時、

「腹をえぐられたように感じ、長い眠りから目ざまされたように感じた。」
と熊野上人はご述懐されています。


達人の衆生済度には、小難しい屁理屈はなく
深三昧に証入され、真相を知った者のみが備え得る「威神力」が、
弁栄聖者には具足されておられた証左であるように思われます。


当時、熊野上人は、
経文上、宗乗上の「学解」に精通され、”布教界の雄将”でしたが、
「生きた信仰」は、まだ得られていませんでした。


「今まで熊野上人が名匠碩学について学んだ宗乗も、それは、空なる冷やな知識で、
如来様はガラス戸棚の中のお人形様のように血の気のない冷たいもので、
罪に泣いている者みづからを抱きしめて下さる温い親様とは実感されず、
醍醐味のはずの念仏は無味乾燥で、
微妙荘厳のお浄土も架空の空想のように感ぜられてならなかった」


が、この五日間の熱火のごとき提撕によりて、信心喚起し、

弁栄聖者を「如来の顕現と仰ぐ」ようになって念仏に精進し、
聖教に対する一隻眼も開かれて
特に「聖教の文々句々が文字通りうなづけるようになったことも、大なる喜び」で、
ますます仏道のあゆみを進めた。

と、熊野宗純上人の弁栄聖者とのご邂逅を、
田中木叉上人は、感動的に描写されています。


七日しんしんと降りしきる雪の柏崎、極楽手にてご密葬執行
お棺のお伴をする二百数十名の道俗の中には、
跣足で雪を踏みせめてもの心をのべし人もあった。」

と、田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に記されていますが、

”跣足で雪を踏みせめてもの心をのべし人”

とは、「弁栄聖者を如来の顕現と仰がれた」 熊野宗純上人

この事実を、杉田善孝上人のご教示によって初めて知ったのですが、
昭和二十七年刊の熊野宗純著『救いの宗教』に明記されています。

(参考文献) 田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』


熊野宗純著『救いの宗教』には、
弁栄聖者の熊野上人へのご教化の有様が明記されていますが、
この逸話はあまり知られていない貴重な逸話でもありますので、
是非記しておきたいと思います。

熊野上人が弁栄上人の御説法を初めて聴かれた時のこと。

「(弁栄)上人の「神聖・正義・恩寵、霊界」、「心の曄瞳(あけ)」という表現が、
余りこれまで仏教で耳馴れない言葉でしたが、
当時読んでいた「ハルトマンの宗教哲学」の、
姉崎博士の翻訳にあったので、

「御上人様は実はハルトマンの宗教哲学をおやりになって居るのだろう。
これさへ見れば分る」
と思い、

ハルトマンの書を懐に入れて
弁栄上人にご挨拶申し上げ、一寸座って居ると、

「熊野さんは、ハルトマンの宗教哲学を懐へ入れ居るではありませんか」

「あれはまあ、法身と云う程度は解るかも知れませんが、
報身と云う方面のことは、少しも問題に触れて居られない。
姉崎さんも本当に解って訳したのではない
独逸に始めて留学される前に博文館から、百科全書の様なものが出て、
その宗教の所に訳されては居るが、難解の訳です。
姉崎さんは本当に解って居らない。」

と弁栄上人は言われました。

熊野上人は、弁栄上人の妙観察智による御教化と記されていますが、
大円鏡智も伴っていると思われます。


弁栄聖者の直弟子方の、聖者への尊崇する御態度には、
聖者の「霊格の崇高性」だけではなく、
聖者の「霊的実力(法力)」を目の当たりにされたことも決定的に重要であったことが、
この逸話からもうかがえるように思われます。


※ 熊野宗純上人のご著作は、
  熊野上人を尊崇された、菅野真定上人が中心となって、
  「熊野上人遺稿刊行会」から刊行されました。

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法名 大蓮社専誉上人光阿興隆泗水宗純大和尚 
昭和二十一年十一月九日、示寂。


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善生寺歴代上人之墓には、
第二十七世 熊野忠道上人、
熊野上人の養子で、 中川察道上人の実子の名も刻まれています。

平成二十六年二月十月、西化。

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2017-01-29

【追記】福岡県エリア、弁榮聖者御遺跡等探訪の際のご参考として


【北九州市若松 善念寺】

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大正2年9月、
波多野諦道上人の自坊、若松善念寺で、 弁栄聖者の送別会が催され、
それが、波多野上人と聖者との今生でのお別れとなりました。
大正4年7月、波多野上人西化。

その後、弁栄聖者は、幾度か九州入りされご伝道されていますが、
ごく短期間です。


【北九州市若松 安養寺】

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「若松教会」の右脇の小道をのぼって行きます。
道が狭いので、車でお出での場合には、ご注意を。

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波多野上人西化後は、
若松での弁栄聖者の活動拠点は、
「善念寺」から「安養寺」に移ったようです。
当時の「安養寺」住職、西山賢道上人の存在が大きかったようです。

そして、今生での、九州の地での弁栄聖者のご伝道は、
大正9年7月、安養寺でのお別時が最後となりました。

そのお別時に参加され、聖者を見送られた、
宮川粂次郎氏(大谷仙界上人の姉婿)の、
とても印象的な、聖者の逸話を記しておきたいと思います。

「(弁栄)上人のお念仏される時の様子は、
初めまともに木魚を叩いてられるが暫くすると、
木魚の上をバイでなでられるかと思うと、畳の上を叩いたりしていました。

私共では上人の心境を窺うことはできませんが、
多分木魚を叩いて称名することにより、
憶念に意を注がれる三昧に這入っていられたのだろうと思うようになりました。

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また、若松「安養寺」は、
芥川賞作家、火野葦平氏ゆかりのお寺でもあり、
『花と龍』に登場しているようです。

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【火野葦平記念館】

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「若松教会」の通り、教会から直ぐ、1~2分の場所にあります。

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【豊前博多 善導寺】

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長い白壁が目印。現代的な造り。

「豊前博多 善導寺」

最近リニューアルされたようです。

開基は、鎮西上人で、1212年。
1212年は、奇しくも、法然上人入寂の年。

『善導寺縁起』によりますと、
善導大師の霊夢によるお導きが基になっているようです。

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【博多区東公園 「日蓮聖人銅像」と「亀山上皇銅像」】

「日蓮聖人銅像」

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正面には、福岡県警察本部が、
付近には福岡県庁があります。

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とても大きな銅像ですが、
東大寺の大仏、鎌倉の大仏につぎ、
日本で三番目に大きい銅像とのこと。

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「日蓮聖人銅像」の完成は、明治37年。

この制作を引き受けたのは、岡倉天心氏

岡倉天心氏は、特に美術の分野で知られ、
『茶の本』でも知られていますが、
宗教に対する深い理解を示されていたことは、

若松英輔著『岡倉天心『茶の本』を読む』 (岩波現代文庫)で、
説かれており、大変興味深いことに、本書において、
「霊性の次元」における、岡倉天心氏と弁栄聖者との関係に触れておられます。


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【東郷平八郎胸像】は、意外な気がしましたが、
東郷氏は篤い法華信者でもあったようで、
日露戦争の日本海戦での戦勝のお礼の報告に、お参りされたようです。

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東郷平八郎氏といえば、

司馬遼太郎著『坂の上の雲』において、
とても印象的な記述がされています。

「佐藤が戦後、海軍大学校の教官をしていたとき、
梨羽時起という海軍少将があそびにきて、

「佐藤、どうしてあんなに勝ったのだろうか」

と、梨羽はかれ自身実戦に参加しているくせにそれがふしぎでならないようなことをいった。

「六分どおり運でしょう」と、佐藤はいった。

「しかしあとの四分は何だろう」と問いかさねた。

佐藤は、 「それも運でしょう」といった。

梨羽は笑い出して、
「六分も運、四分も運ならみな運ではないか」というと、

佐藤は、「前の六分は本当の運です、
しかしあとの四分は人間の力で開いた運です、」といった。

ただ佐藤はこの説明のつかない「六分の運」について海軍大学校の講義で、

「東郷長官はふしぎなほど運のいい人であった。」と。

「戦いというのは主将を選ぶのが大切である。
妙なことをいうようだが、主将がいかに天才でも運のわるい人ではどうにもならない。」
と述べたことが残っている。

「もしこの海戦において勝利をもたらして無数の人間のなかでただ一人の名をあげよといえば、
この海域にいない山本権兵衛であったであろう。
かれは、閑職にいて予備役を待つばかりの境涯にいた東郷を抜擢し、
明治帝がおどろいてその理由をきくと、

「東郷は運のいい男ですから」と、答えた。

山本は、
歴史を決定するものが、
佐藤の言う「四分の運」のほかに「六分の運」があるという機微
を、
それ自体異様なことだが、知っていたのである。」

”東郷平八郎観”を借りた、
司馬遼太郎氏の”人間観”・”人生観”ですが、
とても含蓄があり、印象深く記憶に残っています。


”運”というと、仏教的とはいえないと顔をしかめられそうですが、
”宗教的教義を抜きに、人生を達観”された方々には、
やはり、人生におけるこの”運”としか言いようのない、
”人生の不可思議な働き・作用”を認めざるをえないと認識されている方が多いという印象があります。


東郷平八郎氏には、”仏の御加護”もあったのかもしれません。

「仏の御加護「、「現世利益」というと眉をひそめる方もおられるかもしれませんが、
「現世利益」は、もちろん新興宗教のみのものではなく、

「神力演大光 普照無際土 消除三垢冥 広済衆厄難」
(「四誓偈」『無量寿経』)


と、浄土教において極めて重要な『無量寿経』というお経にも、確りと説かれています。

弁栄聖者も”十二光中”
特に、 『清浄光・歓喜光・智慧光・不断光』において、
如来光明の化益を、当時の科学的知見も取り入れて、具体的に説かれています。

弁栄聖者ご高弟のお一人田中木叉上人は、
「念仏は、心・身体・魂・霊性・身の上に働く。」
と強調されています。


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熊野好月様曰く
「聖者の前かがみの後姿は博多の東公園に建立してある日蓮上人の銅像の後姿とよく似ておられた」と。

(吉松喜久造編『辨栄聖者御写真帖』)

好月氏が、後姿に着目されたことを興味深く思います。

後ろ姿は、取り繕うことが困難で、
その人となりが計らずも現われ易いかとも思われます。

この日蓮聖人銅像の肩は丸みを帯びていて、意外な気もしたのですが、
法然上人の肖像画は肩が丸みを帯びていたと記憶しています。

最晩年の弁栄聖者に随行されていた熊野好月氏が、
日蓮上人の後ろ姿に聖者の前かがみの後姿を重ねられたのは、
あるいは、跡見学園の創設者、跡見花蹊氏の影響もあるかもしれません。

花蹊氏は、好月氏の師匠ともいえる方で、
竹内喜太郎氏のお導きによって、
笹本戒浄上人、田中木叉上人をとおして、光明主義に出逢われましたが、
それ以前は、熱心な法華信者でありました。

光明主義に出逢われ、熱心な念仏信者となりました。

念仏の功積り、とうとう、大正12年に如来様にお逢いになられた境地を、

「いともいとも大いなるかな天地に みち足らひたる大みすがたの」
と詠われています。

また、
山本空外上人は、法華信者の紀野一義氏に、

「辨榮聖者の信心は、一から十まで法華経に基づいておるのですよ」

と語れたようです。

その根拠、空外上人の真意は計り難いところですが、
とても気になる内容です。

「法華壽量品に明す所の釈迦の内面此弥陀無量光壽に外ならず。
名に迷ふて真理を失うなかれ。
若し此の理に於て疑ふ如き妄信者は論ずるに足らざるのみ。
又大乗非仏説の如きは今の所論にあらず。」
(弁栄聖者『ミオヤの光 光明の巻』)



弁栄聖者は、如来様を「大ミオヤ」と呼ばれましたが、
「一切衆生は 皆 これ吾が子なり」(『法華経 譬喩品 第三』)
と対応しますし、


南無智慧光佛
 
 如来智慧の光明に  我等が無明は照らされて
 佛の智見開示して
 如来の真理悟入(まことさとら)るれ」
(弁栄聖者『如来光明礼拝儀』)
は、『法華経 方便品 第二』に対応していますし、


『如来光明礼拝儀』は、
浄土教系の聖典とされる『無量寿経』の「如来光明歎徳章」を中心に作成されていますが、
初期の『礼拝儀』には、
『法華経壽量品』が併説されていました。


また、弁栄聖者の「三身即一の仏身観」は、
従来の浄土教系の経典からのみでは導き出すのは難しく、
『法華経』、『真言密教経典』、『キリスト教義』等との関連究明が、
今後待たれます。

もちろん、弁栄聖者にあっては、
ご自身の甚深なる三昧証入によって直観された仏身(神)観を表現するために、
帰納的に、経典等を引用された点は、忘れてはならない重要な点かと思われます。


↓ 「元寇資料館」は、通常閉館されているようですが、
  売店でお願いすると、入曜日、時間によって、入館できるようです。

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【亀山上皇銅像】

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東公園に、建っています。

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【大宰府天満宮】

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大宰府は、対外防衛の拠点でありました。
元寇後は、再襲来に備え、鎮西探題として、博多に移ったようです。

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豊後久留米 【坂本繁二郎記念館】

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JR久留米駅から、徒歩10分程度。

岡潔博士が、最も、親近感を覚え敬愛したと思われる画家。

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ジャンル : 学問・文化・芸術

2017-01-10

筑前若松「善念寺」での弁栄聖者と波多野諦道上人とのお別れ

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↑  ○  ○  弁栄聖者    
     波多野諦道上人  ○ 
          大谷仙界上人


大正二年九月末、
一年半に渡る、筑紫筑後を中心とした初めての九州伝道をおえられ、
九州を去られる弁栄聖者の送別の集いが、
波多野諦道上人の自坊「善念寺」で開催されました。

道俗一同を代表して、住職の波多野上人がご挨拶をされました。

「(・・・略)今上人に会うことは、
七百年前の宗祖がさらに浄土からこの土に帰られたのにお目にかかる心地であります。」
とまごころこもる挨拶に涙こぼした。


と、田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、
さらりと記されています。

この元になったと思われるのは、
松岡行覺氏の「歓ひの涙」の記事。

洒脱な波多野諦道上人の印象とは違って、
波多野上人の弁栄聖者への篤(熱)き心情の吐露に、
名状しがたい感銘を覚え、胸を打たれます。


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大正二年九月二十七日、
東路さして若松から戸畑への渡し舟にお乗りになった。

「いよいよお帰りになるようになりまして」と申し上げられた方へ、
「私には帰るということはありません。」

とは、「念仏のすすめられるる所をわが家として、
別に定めたわが家とてなき一生行脚」
の慈光輝く弁栄上人。


この若松でのお別れが、
波多野諦道上人と弁栄聖者との、今生でのお別れとなりました。


この記事を書きながら、今更ながら気付いたことがありました。
波多野諦道上人から、命がけの覚悟を以て
「田中徹氏(木叉上人)を、弁栄聖者に引き合わせるように」との命を受け、
大谷仙界上人がそれを実行されたのは、大正七年でした。

波多野諦道上人が西化されたのは、大正四年
ということは、その数年後になります。


「ところが七月二十日頃、偶然の用事
波多野諦道上人が善導寺にきて
上人に謁見するや、帰依の思い禁じがたく、他の用事は捨ておいて、
上人に願いまず筑前各地に上人をお伴して歩くようになった。
・・・鎮西第一の法の器が、
器を求めて筑紫路にはるばるくだった上人に値遇した。


そしてひとり九州にもならず、波紋はそれからそれと大きくつたわる、
光明教海に投ぜられた一石となった
。」

と、(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)に記されています。

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↓ 「大正末期の若松港の風景」 

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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