2017-11-07

「弁栄聖者の「宗教観」、”超在一神的汎神教”」について


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 【山崎弁栄聖者(1859年~1920年)】


「私は経文に依って演繹的に説くのではない。
帰納的に説いておる」

(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)

「経典に依るのでなく、
御自身の体験せられた如来様の事実から
帰納的に光明主義の教学体系を組織せられた、

という意味である。
(笹本戒浄上人のご教示)


「御自身の体験せられた如来様の事実」とは、
「三身四智の仏眼」に依るご境界における認識。


「真生同盟」の提唱者土屋観道上人への
弁栄聖者のご教示は、より具体的、かつ、明確です。

キリストが此の世に出て説いたものが新約聖書となって、
それ以前のユダヤ教経典が旧約聖書となったように、
今後の宗教は光明主義経典を以て新約聖書となし、
従来の一切経をもって旧約となすべきである

と(弁栄上人が)おっしゃったことが、今尚私の心に遺っています。
「弁栄上人の思い出」『大悲に生きる 観道法話』)


「弁栄聖者の御霊格」「弁栄教学」を詳しく御存じない方は、
この見解は、”大胆な”あるいは”大変不遜な”見解だと、
反感または不信を覚えられるかもしれません。

誤解が生じかねない見解かもしれませんが、
弁栄聖者、光明主義を深く知りたいとの興味、関心のある方、
「大宇宙の真理」を、真摯に求めている方、
あるいはまた、
現在、将来の真の「菩薩、大菩薩、仏」のためにも、
敢えて、記録に留めます。


笹本戒浄上人、田中木叉上人は、
『弁栄聖者光明体系』を、「経典」として捉えておられたようです。

昭和十年代頃の或る時、
木叉上人曰く、
「御遺稿を編集していると、
弁栄聖者の光明主義は従来の仏教の概念を超えている。
否々、凡ゆる従来の高等宗教の概念を超えている。
それで弁栄聖者を会祖と呼ぶ人があるが、
断じて弁栄聖者は単小の会祖ではない。
光明主義の元祖である」と。
また、
「その典拠を示せと仰るなら、私は直ぐにでも示すことが出来ます」と。


「弁栄聖者の行状」、「弁栄教学」を学んでいきますと、
上述のことが、段々と信じられてくるように思われます。

”弁栄聖者の行状等”に関しては、
時代が比較的新しく、史実の裏付けがあり、
その事実に沿って考察した場合、
歴史上の”高僧”と伝わっている聖方と比較しても、
勝るとも劣らぬ程の”学行徳兼備のご霊格”、かつ、”霊的力”を具足”されており、
”大菩薩”以上の高僧であるとは、大方の見解かと思われます。


弁栄聖者の「新訳、旧約」といった表現は、
善導大師の「古今楷定」を彷彿とさせます。


大正時代に御遷化された弁栄聖者は、
大乗経典に関する文献学的知識もおありでした。

「大乗非仏説」に対しては、

「大乗経典とは、
三昧定中における”永遠の生き通しの”大乗釈尊による、
出世間の三昧を開かれた聖方への直説法である。」

と、弁栄聖者は喝破
されておられます。 

極めて重要な大乗経典である、
「如来寿量品第十六」『法華経』の真精神を、
実に的確にご指摘になっておられるように思われます。

「大乗経典」とは、歴史的文献学的には
応身仏であられた「生身の釈尊」の直(じか)の説法ではない
したがって、
大乗経典の「教相判釈」は、
経典成立史的な文献学的比較研究のみでは困難
である。」
ということを意味します。


「弁栄聖者の宗教観」を考察する場合には、
教学、学問研究上からは、
「宗派宗教の所依経典」に依るのみでは不十分で、
比較宗教学(比較思想)研究が不可欠だと思われます。

弁栄聖者、光明主義との「比較宗教学(比較思想)」研究においては、
山本空外上人、 河波定昌光明会元上首、前光明園主、東洋大学名誉教授の諸研究が、
ご参考になると思われます。


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  【田中木叉(モクシャ)上人(1884年~1974年)】

「光明主義は忠実にさえ研究すれば、
学問の上からだけでも信じられるが、
それには相当な学問が要る。」
(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』)


東京帝国大学を首席で卒業されたほどの頭脳明晰にして、
深三昧証入者、「仏眼」体得者の、
木叉上人にして断言しうるご発言です。


弁栄聖者は、
二十歳代の頃、足かけ3年(実質1年9ヶ月ほど)で、
『一切経』を読破されておられます。
しかも、「仏眼を体得」されてからの『一切経』の読破
通常の順序とは真逆の読破であり
したがって、
『経典』読解の深さが、段違いに異なる筈です。


その田中木叉上人が、
「宗教は、99%は理性で納得できるが、
後の1%は飛躍が必要である。」

とも、ご教示されています。

ある御方が、木叉上人に疑問点を質問された時、
「弁栄聖者にそう云われたから、
(自分は云われたまま、その通りにしている)」

との木叉上人の予想外のこの意外な返答に、
この木叉上人にして、と大変驚かれたとのことです。


最後は、「信」。

「仏法の大海は、信を(以って)能入と為す。」
とは、龍樹大菩薩の『大智度論』聖句

通常は、当たり前過ぎて意識さえしないものですが、
「「信」なくして、日常生活は成立しえない。」
というのが、我々の偽らざる現実ではないでしょうか。

「信」と云えば、宗教に限るものでは、決してありません。

数学者岡潔博士は、
自然科学と宗教における信頼性を比較して、
「どちらも信」であるが、
「その相違は、”信じ易さの程度の差”に過ぎない。」
と鋭く洞察されておられます。


数学者 岡潔博士が、
弁栄聖者を「現代の釈尊」と尊称され、
弁栄聖者の『無辺光』と、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』を、
強くお勧めになられました。

数学者 岡潔博士が、
弁栄聖者、光明主義を信じ
”憶念口称念仏”しながら、数学の研究に専念し得たのは、
「三身四智の仏眼」に依る「弁栄聖者の仏身論」
それを深く信じられたから、だと思われます。


弁栄聖者光明体系『無辺光』には、
”自然界と心霊界”に働く「四大智慧」
つまり、
法身の「四大智慧」と、報身の「四大智慧」が説かれています。


数学上の発見に関しては、
法身の「四大智慧」に、その根拠を仮定されています。

参考図書:
岡潔著『一葉舟』には、
「科学と仏教」、「弁栄上人伝」等が所収され、
その解説は、
琴線に触れる”コトバ”で語られる批評家にして、
ご自身はカトリックの信者で、
岐阜の「山崎弁栄記念館」館長でもある、
若松英輔氏による「 岡潔と仏教の叡智」


田中木叉上人は、

「弁栄聖者光明体系『無辺光』(四大智慧)の研究から、
二十五人以上の博士が出る。」
と云われたことがあったそうです。

また、
「今度生まれ変わったら何をなさりたいですか」と問われ、
医学をやってみたいと思います」と。

如来様の四大智慧は、
例えば病人を診るのに、
先ず、大円鏡智で、その人の全体を観る
次に、平等性智で、その人になりきる
そして妙観察智で、何処が悪いのかを知る
さらに成所作智で、その病に応じた薬を盛る」と。

三昧証入の達人による法身「四大智慧」の分り易いご教示。


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  【笹本戒浄上人(1874年~1937年)】

無生法忍とは
大自然(物心両面の自然)の理法を悟るという悟りの位」
( 「独創とは何か」『岡潔 日本の心』 )

であると岡博士は解説しておられます。


笹本戒浄上人の直弟子杉田善孝上人は、
「無生法忍」について、更に詳しく解説されています。

「無生忍では認識できなかった相対・絶対の現象面の差別の理法
その差別の理法と平等法身の理法とが総合統一調和している
甚深微妙の状態を直観」


「相対・絶対両界の根本仏としての報身の
いっさいの理法と合一した境界である」


光明主義二祖戒浄上人はいわれた。
(岡潔『情緒と創造』「無差別智の世界 杉田善孝」)


○ 「三身即一、本有無作の報身全体と合一した境界、
「開示悟入」の入の位

(光明主義上の)無生法忍の境界が、
一切の宗教の中心真髄、一切の学問の核心である。」


○ 「(光明主義上の)無生法忍における真理認識を、
自然科学的真理の認識の基礎認識、根本認識とする。


この立場に立てば今後いかように自然科学が発達しても、
光明主義によって科学を統一総合することができる。
自然科学のみならず一切の学問、芸術等に就いても同様なことが言える」

『笹本戒浄上人全集 中巻』
(『光明主義玄義(ワイド版)』)


これ等の宗教観は、初めて聞かれた方には、
ピンとこない方もいらっしゃるかもしれません。

弁栄聖者が提唱された「光明主義、純粋宗教である浄土門」には、
「慈悲」の法門である「救済」的側面
「智慧」の法門である「智慧」の開発・神化
この両面が、包含されているためです。


光明主義上、重要な書の一つに、
『光明会趣意書(大正3年、56歳 一枚刷頒布)』があります。

「この教団は如来という唯一の大御親を信じ、
その慈悲と智恵との心的光明を獲得し、
精神的に現世を通じて永遠の光明に入るの教団なり。」

と、光明主義、光明会を定義されていますが、

まことに不思議なことに、
「阿弥陀仏」という仏名がなく、
「如来」、「大御親」と表現
されています。

此処に、弁栄聖者の「仏身観」
宗派宗教を包超する、
即ち、宗派宗教がそこから生起するその根源から創出された宗教観、
つまり、”超在一神的汎神教”

その宣言であると推察いたします。


「「大ミオヤ」
日本語にはなかった。弁栄聖者が初めて発明された。
辞書にのらねばならぬ。
世界に於ける最も完全なる言葉。
宗教的にこれより以上の表現はない。」(田中木叉上人)



「三身(法身・報身・応身)説」については、
古来から多様な解釈、議論がなされてきたようですが、

○ 「仏の体と相と用とは一体の三面、
本来同時同体の三方に過ぎず。」

(『弁栄聖者光明体系 無量光寿』)

と聖者は喝破されています。
(※ 弁栄聖者光明体系『無量光寿』は、聖堂で購入できますが、
最近、初版の復刻版が出版されたとのこと。
「一般財団法人 光明会」、または、 「光明園」で購入可かもしれません。)

また、
従来から説かれてきた「報身論」に対して、
「弁栄聖独自の報身論」を展開され、
「弁栄聖者の仏身論」の真骨頂

○ 「大霊に体あれば必ず用あり
法身は先にして報身は後にありと云うべからず」

(弁栄聖者御遺文『大霊の光』)
あるいは、前述の(『弁栄聖者光明体系 無量光寿』)にも、所収。


「法蔵菩薩」の酬因感果身、「報身阿弥陀仏」は、
浄土教系の根幹を成す、往生のための根本原理である仏身でありますが、


「絶対大霊界には重々無尽の霊徳具備して
其の内容は真善微妙にして有らゆる万善万美の極致である。
其の中心本尊の神尊は一切真理の本源一大霊力の原動にして
因果の法則より成立したものに非ず。・・・

矢張り本有無作の報身と信ぜざるをえぬ。」
(『弁栄聖者光明体系 難思光 無称光 超日月光』)

「本有無作の報身」と、弁栄聖者は喝破されました。

ただし、弁栄聖者は、
「法蔵菩薩」を「神話」に過ぎないとして、
否定されたのではなく、
真の「脱神話化」を説かれました。

○ 「法蔵菩薩神話は、
釈尊の正覚が宇宙の根源的な真如力として
単なる神話的なカテゴリーを突破して
しかも不可避的にその神話的表象において
直接にわれわれに語りかけるところのものに他ならない。」

(河波昌著「法蔵菩薩神話をめぐって」『大乗仏教思想論攷』)

○ 「法蔵菩薩は、神話にして最高の哲理を示す。」(田中木叉上人)
この木叉上人の表現以上の簡潔で的を射た「法蔵菩薩観」を知りません。

更に、また、

○ 「報身の報とは、「報ゆる」のことではなく、
「こたえる(応答)のこと。
これは、弁栄聖者の卓見である。」


○ 「「法蔵菩薩は応身」とお説きになったのは、弁栄聖者だけである。」

この二つは、冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』。


これらの弁栄聖者独自の「三身(法身・報身・応身)観」は、
伝統的な仏教における「仏身観」とは似て非なるものであるため、
特に、仏教の通念である「報身観」は、
かえって「聖者独自の報身観」理解の障礙となる
ように思われます。
是非、『光明主義玄義(ワイド版)』をご一読ください。 


また、参考図書として、
佐々木有一著『近代の念仏聖者 山崎弁栄』は、
「光明主義の本質、核心」に迫るものであり、
真摯に宗教的真理を追及する求道の「在家者」でないと書けない勇気ある書でもあります。
浄土宗に属する僧侶、あるいは、仏教学関連の正統的な学術研究者には、
諸般の事情により、この種の著作を執筆することは、残念ながら困難であるように思われます。
この書は、厳密な意味での学術研究書というよりもむしろ、
氏の求道上における「弁栄教学」研究、執筆時点でのこれまでの求道上の総括の書。

この書の特徴点の一つは、
「弁栄聖者光明体系」において難解とされる、
『無辺光』「四大智慧」にも果敢に取り組んでおられ、
『無辺光』「四大智慧」の解説に、二百数十頁もあてられています。

極めて重要な「弁栄教学」の真髄でもある、
弁栄聖者の「四大智慧」論と「唯識」のそれとの相違を、明確に指摘されています。

なお、
「財団法人 光明会」のHPによりますと、
佐々木有一氏は、この書の執筆の後に、
光明園にて、「起行の用心」の講話を開始されています。

この「起行の用心」の重視の姿勢に、
佐々木氏の「弁栄聖者独自の仏身論」の深い理解とその洞察を、
垣間見る思いがいたします。
また、遠くに灯され燈台を頼りに目的地にたどり着こうと懸命に精進されておられる、
佐々木氏の真摯な求道精神にも敬服いたします。


「釈尊、善導大師、法然上人、徳本行者は、
「三身四智の仏眼」を体得されていたが、
それを外部に漏らされずに、入寂された。」

(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)

※ 幅広い信奉者のあった江戸時代末期に御入滅された、
  念仏行者「徳本行者」は、今年、200回忌となります。
 「徳本行者」ゆかりの東京の「一行院」 。
 また、 「特別展 念仏行者徳本-200回忌記念-」が、
 和歌山の有田市郷土資料館で開催中です。


以下は、
「浄土宗乗上の法然上人観」
「善導大師・法然上人の真精神(真髄)」
に関する弁栄聖者のご見解

土屋観道上人が、
法然上人の”只信口称念仏”と、
”念の心をさとりて申す念仏”として捨てられた”観念の念仏”について、
弁栄聖者が勧められている”見仏三昧”との関係について問われた時、

「「弁栄、鈍なりといえども、
七百年も前に法然上人が捨てられたものを、
今更またとって来るほど愚かではない」
とキッパリ仰しゃいました。」



弁栄聖者の「見仏三昧」の顕彰、
その深意を受けた笹本戒浄上人の「見仏三昧=成仏への直線道」への
確信をもった確固たるご教示。

弁栄聖者、笹本戒浄上人ご在世中から、
この「起行の用心」の強調は、
「異安心」であるとの批判が絶えなかったようです。
更に云えば、現在に至っても、その批判は続いているように思われます。

「弁栄聖者の「見仏三昧」論は、
「聖者独自の仏身論」と相即不離の関係にある」。


つまり、
弁栄聖者の「見仏三昧」論は、
「弁栄聖者独自の仏身論」から必然的に導かれてきたもの
であり、

「成仏の暁まで、信念の変更を要しない」

という意味で、
「弁栄聖者の「見仏三昧」のご指南が成仏へと直結している」からです。

詳しくは、是非、(『光明主義玄義(ワイド版)』)をお読みください。

弁栄聖者、戒浄上人の深意は、此処にこそある
と拝察いたします。


また、善導大師の「指方立相」のご指南に関しても、
弁栄聖者は、その深意を独自解釈しておられるように拝察されます。

弁栄聖者が開顕された「大ミオヤ」、「大宇宙の真相」から推察いたしますに、

一見したところは、従来の「指方立相」と似ているようですが、
実は、根本的な質的相違があるように思われます。


「凡夫だから「指方立相」に依るのではなく、
すべからく全ての者が、
「見仏三昧」に依らねば、”終局目的である”「成仏」は不可能である。」


と、このような意図に基づくご指南であると。

【弁栄聖者御垂示(抜粋)】
「仏を念ずる外に仏に成る道なし。
三世諸仏は念弥陀三昧によりて正覚を成ずと南無」


この聖者の御垂示は、
『般舟三昧経』に依っていますが、
留意すべき点があり、
この「弥陀」とは、
宗派宗教を包超した仏(神)身、
”超在一神的汎神”の「弥陀」
つまり、
”無始無終、本有無作の三身即一の「大ミオヤ」”に依っている

という点です。


ただし、この「指方立相」は、不思議なことに、

「人をして欣慕(ごんも)せしむる法門は、
暫らく浅近に似たれども、
自然悟道の密意は極めて是深奥なり」


との法然上人「大原談義」の深意に、
奇しくも沿っており、
この信念は、成仏へも直結してもいます。

なお、ご参考までに、
最晩年の河波定昌 元光明会上首、元光明園主は、
弁栄聖者の「択法覚支」との関連で、
山本空外上人が、ご指摘された「点化」(P・ナトルプ)
に深い関心を寄せられていました。
なお、この「点化」と、クザーヌスの「縮限」との関係をご指摘。
「点化」とは、「存在が一点になる(集まる)」、
あるいは、「神が一点に集中する」とも。

(「点化について 河波定昌」(『如来さまばかりと成り候 念仏の極まり』河波定昌 講義録)



ただし、、
弁栄聖者の「全分度生」の伝道の御姿から拝察いたしますに、

このご指南は、「仏道修行における修道論」においてであり、
「「度生論」においては、「善巧方便」が欠くべからざるものであります。」

この両面は、慎重に留意すべきであるように思われます。

更に、云えば、
「全分度生」は、「三身四智の仏眼」においてであり、
より厳密には、
「三身四智の仏眼」の満位である「認識的一切智」においてである
と笹本戒浄上人はご教示されています。

これらの点を射程に組み込んだ、
正道で緻密、かつ、実践的な「修道論」と「度生論」を、
改めて、再確認しておく必要があるように思われます。


今回は、長い記事となり、
ここまでお読みいただきありがとうございます。

最後に、是非触れさせていただきたいことがございます。

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【山下現有大僧正(1832年 ~1934年 世寿103歳)】

近代の高僧として知られた
浄土宗管長知恩院第七十九世山下現有大僧正。

弁栄聖者の大正5年の知恩院での「宗祖の皮髄」のご講述は、
山下現有大僧正ご在世の時です。

田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、

「祖山別時 門跡猊下」に、
山下現有門跡猊下と弁栄聖者との特別なご関係の有様が記されていますが、
この記事を裏付ける資料がございますので、
ご紹介させていただきます。

昭和九年、知恩院寺務所発行、
「第三編 御追悼 老猊下のお徳を慕ひ奉る 桑田寛随」『孝誉現有大僧正』

桑田師は、次の様に記されています。

猊下が非常にお歓びなされたように私が感じました事を述べますと、
頃は大正八九年の頃かと存じますが・・・
次の一つは、近年の或有徳の上人が山上に於ける別時の修行が終りて、
お暇乞ひに謁見せられたときの事
です。
謙恭の猊下にはいつも我々が拝謁する時でも、
我々が次ぎの間へ伺候御挨拶せんとせば、
必ず同座せねば御承知ならず、
我々の不遜遠慮なる強て御辞退申しては却て御老懐を煩さんものと勝手に考えて、
奥に進むと初めて御辞があるのが例である、
此の上人も亦私が案内して、次の間まで伺候して居ると
猊下は自ら境の襖を開き、
例の如きご挨拶もなくて、早速に次の間へすべり出でられた、
面もいつもの如き謙譲の中に自ら持せらるゝ謹厳の御態度は無くて、
寧懐しき旧友を迎へて喜ぶという風に、
正座も少し崩して右手をつきて其上人の方へ倚り凭る様、
如何にも嬉しそうにして話しかけられた。

私が時々種々の階級の人をご案内した中で、誠に異様に感じた
然し他の上人の方は矢張り尊者に対する礼儀を乱すことなく、
暫時対話
せられたるは双璧の美とおもひたり、・・・」


弁栄聖者直弟子の熊野好月氏の述懐によりますと、

「祖山の御別時
来る十月十六日より二十二日まで五日間、
総本山知恩院勢至堂に於て山崎弁栄上人指導の下
別時行儀三昧会を修業致可候間
参会御希望の御方は
左記の各項御承知の上申込下され度この段御案内申上候也

大正九年九月 主催者 桑田寛随

一、道場の静粛を保つ為人員を制限致候間御望の方は十月五日迄に
   総本山知恩院事務所桑田寛随宛に御申込之有候事
二、以下略

とのことです。


次は、
現有大僧上の日常生活の或る逸話です。

「(現有大僧上の)お部屋に蟻が入ってきたことがありました。
(大僧上は)気にされないどころが、砂糖のかたまりをあげ、
その黒山の蟻を見て、面白がっておられていたそうです。

或る時、侍僧が見かねて、箒で掃き出そうとした時、

手荒なことをするものではない
あなたがたが、御本堂でお経をあげているとき、
赤鬼が来て、鎗箒で掃きたてたら、どうなさる。
蟻がうるさければ斯うなさい。」

といって、砂糖のかたまりを掴んで、縁側に据えさせられた
蟻は一匹残らず、家から出て、
砂糖のかたまりの方に行ってしまった
そうです。」

弁栄聖者のお姿が想起せられ、
山下現有大僧上のご遺徳も偲ばれる逸話で、
目頭が熱くなる思いがいたします。


最後に、
柴武三氏の弁栄聖者の逸話です。

その山下現有大僧上が、
弁栄聖者に「あとを頼みます」と仰られた
ことが2~3度あったそうですが、

「自分は、釈尊の御教えを皆さんにお伝えをする身でありますから。」 
と堅く固辞された
とのことです。

福田行誡上人に対しても弁栄聖者の似た逸話があります。

弁栄聖者が深三昧定中において認識しておられた、
「超在一神的汎神」の仏身(神)観に基づく信念からのご発言で、
その認識に於いては、
「宗派宗教の各々の宗乗、組織は、狭い枠である」
と感じられていたからだそうです。

柴氏がご逝去されてから、早40年程が経過しており、
この山下現有大僧上と弁栄聖者とのやりとりのニュアンスを、
詳しく確かめる術がないのがまことに残念です。


田中木叉上人御晩年の頃の逸話

「笹本上人が亡くなられ、やがて私も死ぬ。
すると光明会はやがて従来の宗乗の枠内に
引き入れられてしまうかも知れない、
いやきっとそうなる」
と。

「それは困ります。そうなった時どうしたらよいのですか。」

すると、木叉上人は、
「また弁栄聖者が出て来て下さいます」と。
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テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2017-10-24

「仏とは自覚ある大常識者です。」(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)


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【(右)弁栄聖者と(左)佐々木為興上人
(大正9年10月中旬 知恩院勢至堂別時会)】


三身四智の仏眼」を深く体得されていた弁栄聖者の最晩年
聖者の”不可思議な異能(法)力”を、度々目の当たりにされていたのでしょう、
聖者に随行中の佐々木為興上人が、

「上人はどんなことでもお分かりになるのですね」
と聖者に聞かれたところ、

「何でも分かります。
大体仏とは自覚ある大常識者です」


と言って聖者がお笑いになられた
(『佐々木為興上人遺文集 藤堂俊章編』)

この「仏とは自覚ある大常識者です」の箇所が、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に記載されています。

○「何でも分ります」
○「自覚ある」
○「大常識者」の「大」と「常識」

について、ご留意願います。

また、ある時、

弁栄聖者は「何でもよく分かって」おられる筈なのに、
よく本を読まれていたのを為興上人が不思議に思われ、

「聖者は三昧発得していらっしゃって
何でも分かっていられるから、
本など読まれなくてもよいでしょうに」

と聖者に尋ねになったところ、

「いや、それはいけぬ。やはり本を読まぬといけぬ」と言われたので、

「どういう訳ですか」と重ねてお尋ねになると、

「それは、お念仏していれば
大宇宙の事柄が一切分かるようになる。

分かるけれどそれは観念的に分かるのだ。
書物を読むと書物に書いてある事柄と
自分の観念として得ている事とぴったりと合う。

認識にしようとすると思うと本を読まねばならぬ
本を読む事によって認識となるのだ」
と聖者はお答えになられた。

またある時、

「どうして本を読むのがそんなに早いのでしょうか」
とお尋ねになると、

「こんな事を言うとおかしいが、
私の心の通りに書いてあるようで早い。
事新しいことが書いてあるとは思わぬ。
丁度自分の手紙を読むようだ

と聖者は仰言った。

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【弁栄聖者(1859年~1920年)】

また次のような、興味深い逸話もあります。

弁栄聖者に随行中の大谷仙界上人と佐々木為興上人が、
九州福岡の珠林寺の縁側に腰かけて、
「(弁栄)上人は大円鏡智が開けて居ると思うか」
以前、ある者に聖者のお金を使い込まれたことがあったが、
「(大円鏡智が)開けているならそれがわかる筈だ」
「とすると買被りかな」等と、朝、話しをしました。

その日の午後、
聖者から「大谷さん、佐々木さん、ちょっと」と呼ばれ、
「仏様の大円鏡智は十方三世色心、すべてが映っています。
ところが或る程度の菩薩は注意をした程しかわかりません」

と聖者が仰言られたので、
聖者は大円鏡智が開けていることが分かり
「やられた」と二人は、兜を脱いだとのことです。

以上、これらの逸話は、
藤堂俊章編『佐々木為興上人遺文集』に記載されています。

更に、こんな逸話も残されています。

笹本戒浄上人と田中木叉上人のお二人は、
弁栄聖者に面談される時、聖者のお部屋に入られず、
次の間で聖者に礼拝され、何も言わずに帰られた。

柴武三氏が、不思議に思い、その理由を戒浄上人にお尋ねになると、

「覚者は、口に出して質問をしなくとも、
相手の質問をちゃんと分かっている。
口に出して質問せねば相手の考えていることが分からぬようでは、
覚者とは言えぬ。」



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【笹本戒浄上人(1874年~1937年)】

笹本戒浄上人も為興上人と同様の質問を、
弁栄聖者にされていますが、それに対し、

「私も観念としては得ておるが、
認識的一切智では釈迦さんに及ばない。この世界で
認識的一切智を得ておられたのは釈迦さんばかりだ」


と、戒浄上人にご教示されたのこと。

(註) 「開・示・悟・入」の「入」の仏眼「三身四智の仏眼」における一切智を、
「観念的一切智」「認識的一切智」の二種に区分。

(註) 「三身四智の仏眼」(観念的一切智、認識的一切智)に定義、説明等については、
( 『笹本戒浄上人全集』 ))をご参照下さい。
 なお、光明主義の「髄」要約版としては、『光明主義玄義ワイド版』が、
比較的入手しやすい値段でもあり、携帯用としてもお勧めです。
ただし、内容は、かなり濃く、高度で、難解かとは思われます。


これらの逸話を補完する、留意すべき、
戒浄上人のご教示を、是非記しておきたく思います。

「仏の完全な大円鏡智は、特別に意志を働かさなくても、
肉眼といつも同一時に活動している。
認識的一切智を実現していられる仏は、
大円鏡智で宇宙の一切を任運自在に感じていられる。」


ただし、「宇宙の一切のこと」と申しても、それは、

「成仏の中心道を直進する上で核心となり急所となるもの、
自行化他の道において尊く価値のあるもの、
一切の衆生を中心道に導く対機説法で有効適切なもの、
お互いの心を明るく清く楽しく豊かにするもの」


「もしも、そのような意義深いもの以外のものまでも
朗々と感じているのであれば、
それは、真実の仏の円満な認識的一切智ではない」
と。
( 『笹本戒浄上人伝』)

更にまた、

「私共凡夫は神変不思議を目のあたり見せられますと驚いて、
その神変不思議に興味を感じ、
仏道修行上最も大切な成仏という事を忘れて仕舞います。
成仏とは涅槃と菩提とを完全円満に成就する事であります。
そしてその為には如来様の御力を信じ、お慕い申して如来様に同化されて
完全円満な霊的人格を成就しなければなりません。
衆生済度の目的は実に其処に向かわせる事にあります。
ですからうかつに相手かまわず神変不思議を見せますと
必ずといってよい程仏道修行の道から脱線して仕舞います。
然し又神変不思議を現ずる必要のあるものには時期を逸せず、
御力を発揮して見せるという事もできなくてはなりません。

弁栄上人様はそのような御心を以って
私共を成仏へとお導き下さいました。


尊くして尊いご教示

ここで、気になっていることがありますので、記載しておきます。

「一国一釈迦」という決まりが仏教にはある。
自ら仏と号し、他から仏と号せしめるのは釈尊だけである。
釈尊以外で認識的一切智を得た仏があったとしても、
自ら仏であるとは名乗らない。
仏教の秩序を護るためである。」

このような趣旨を、戒浄上人が言われたことがあったそうです。


弁栄聖者光明体系『無量光寿』(※)において、
「開・示・悟・入」の「入」の位
「三身四智の仏眼」、(光明主義上の)「無生法忍」における一切智の内容を、

「事の無量光」として、
「一切の無量の事々物々の真理を悟る」

と、弁栄聖者は、自内証から説かれています。
(※ 「聖堂」で購入できますが、
最近、新たに、初版の復刻版が出版されたとのこと。
「一般財団法人 光明会」 または、 「光明園」で、購入可かもしれません。)


「事の無量光」に関して、
笹本戒浄上人は、以下の様にご教示されています。

「私共人間は肉体を持っているから、
認識的一切智が実現しても、
文字通り十方三世の一切の差別の内容を
悉く詳しく具体的には識別できない。
認識一切智を得た人が、
「前世から現在までに、
どの様な物質文明と精神的文化の社会に生活して、
どの様な経歴の人々と共に活動して、
どの様な経験をしたか。」という内容により、
認識一切智によって、
具体的に詳しく識別出来る差別の現象の内容とその範囲が変化する。
認識一切智によって、
具体的に詳しくその内容を識別出来ない差別の現象については、
其の差別の内容を規定する大ミオヤの差別の法則を了々と認識する。
それで誤解を除くために、
智の代りに法則を意味する知を使って、
認識的一切知と云うのがいいと思います。」

(笹本戒浄上人最晩年における、泉虎一氏へのご教示)


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【弁栄聖者(1859年~1920年)】

弁栄聖者の云われる「大常識」とは、
”「三身四智の仏眼」の境界”における”仏作仏行(認識及び所作)”のこと。

肉眼における頭脳明晰な大学者、あるいは、慧眼を開かれた方の中には、
日常生活(肉眼)における「常識」のあやうさが見受けらることがありますが、
五眼(肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼)円かに開けておられた
弁栄聖者においては、
全くといってよいほどこの”あやうさ”が見出しがたいです。

”常識(肉眼)”も確りとわきまえられ、
”人情の機微”にも精通され、”世間知”にも長けておられ、
世俗的な観点からも、正に「知・情・意」全面において、
信頼のおける”人徳者”と呼ぶべき御方との心象があります。


ふと、思い出したことがありますので、記します。

弁栄聖者の最晩年に、東京芝増上寺近くの「観智院」 。
その「聖者の家」で、聖者と寝食を共にされた聖者直弟子、
聖者の御遷化後、「真生同盟」を設立された土屋観道上人。
観道上人は、また、「浄土宗大本山百萬遍知恩寺」法主中島観琇上人の弟子でもあり、
ご自身の性格は、 「凡夫見仏論」の著者、観琇上人の方に似ておられていたようです。

『大悲に生きる 観道法話』には、
観道上人の「弁栄上人の思い出」が収録されていますが、
大変有難く、また、とても示唆に富む聖者の逸話が記されています。

その内、弁栄聖者の行状に関する貴重な逸話。

「今でも私の眼にアリアリとその姿が浮かぶのですが、
上人(聖者のこと)がいつも右の人さし指で傷がつく程に額の中心をおさえ、
眼をとじて、「如来様」「大ミオヤ」と云ってお話しになられ、
その日常の御生活の態度にも、全く如来つねにここにいまし、
如来と共に生きていらっしゃったご様子で、
微塵も如来を離れた感じがうかがえませんでした。
常に生ける如来、大宇宙の大人格にふれ、
合掌しておられることが理屈や説明なしに実感として感ぜられ、
まことに尊く有難く拝察されました。」



「「上人は「知識(みちびくひと)は月を指す指です。
月さえ見れば指に要はない。
とかく月を忘れて指に眼をつける、月に目をつけねばなりませぬ」
といって雲上の如来尊像を書いてくださった。」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

大変重要な弁栄聖者のご指南ですが、

一方で、
「法いかに尊くとも伝弘人を得ざれば大法は泯絶せん。」
(「指月録」『笹本戒浄上人全集』下巻)とも。


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【佐々木為興上人(1888年~1955年)】

弁栄聖者の真骨頂は、
大衆を前にして大衆を唸らすというような大演説ではなくて、
膝を交えてじゅんじゅんと説き、膝を進めて熱をこめ、
いつの間にかそのご人格に感化し、薫習される

というところにあった。」(佐々木為興上人談?) 


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【田中木叉(モクシャ)上人(1884年~1974年)】

「人は生涯を通じてお慕い申し上げる方が居られると
とても幸せな一生を送れます」(田中木叉上人談)

※ 木叉上人にとっては、もちろん、弁栄聖者。


丹羽円浄上人が、
弁栄聖者ご在世中に、京都のお別時に参加された時の感想を、
中川順一氏に、ふともらされた言葉。

「聖者を中心にして、お世話される方々が、
”令せずして行われる”」


弁栄聖者の直弟子、信者方は、
聖者の御霊格に自ずと吸い寄せられ
自ずと薫習されるその感化力(霊徳)によって、
「聖者への信」への深まりと相即するかの如く 
各々、「”大ミオヤ様”への信」が自然に育まれてゆかれた

としか思えません。


やはり、「月」も「指」も、共に欠かせないものだと思われます。


弁栄聖者への”憧れ(憧憬)”
この”現身者”への内から突き上がる”憧れ(憧憬)”からこそ、
意識的、潜在的な”模倣”を生じさせる。
この現象にこそ、どの領域分野、特に子弟教育的分野において、
後身の能力を飛躍的に向上させる秘密があり、
その解明のヒントは、大脳神経科学でその機能が詳しく解明されつつある、
「ミラーニューロン」が鍵を握っていると思われます。


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【弁栄聖者(1859年~1920年)】

「丁度うすくぼかされた玉子の黄味が、
ほんのりとした白味のなかにういているような」

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)
と、弁栄聖者のご高弟の木叉上人は、
聖者のありようを絶妙に描写、神筆されておられます。

「朝早く夫人がご用意を整えていると、上人(※ 弁栄聖者)が起きられたので夫人は、
「上人様まだ早ようございます。もう少しおやすみ遊ばせ」
と申しあげると、半分お召し替えのすんでいる上人はすなおに、
「ハイハイ」とまたおやすみになった。

それから三分とたたぬまに、それとは知らぬ主人が
「もうお起き遊ばしては」と申し上げにでると、
また「ハイハイ」といって、今お召したお寝間着を脱いで起きられた。」 
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)


何とも”融通無碍な”お人柄と微笑ましくさえ思われますが、

聖者直弟子の大谷仙界上人の義兄、医師の宮川粂次郎氏は、この話を聞かれ、
「その通りのお方でした」と申されて、
眼を真っ赤にして泣かれました

九州光明会誌「めぐみ」の編集に長年携わっておられた中川順一氏は、
この宮川氏のご様子に接し、大変驚かれ、
「聖者に直接お逢いしている方と、私共では感じ方がこんなにも違うものか」
と痛く反省されたそうです。

聖者に関する逸話として、とても印象深く記憶に残っているものの一つですが、
中川氏は、ご自身念仏三昧修養にもご精進し、教学にも精通され、
なおかつ、”念仏三昧の達人”笹本戒浄上人、田中木叉上人、中川察道上人をはじめ、
弁栄聖者の直弟子から直接ご指導を受けられた「聖者孫弟子」、その御方にして然り。
現在は、その聖者の孫弟子すら、お浄土へ往かれています。


弁栄聖者に、
独特の、えも言われぬ
”尊崇性”、”懐かしさ””慕わしさ”、”霊的エロス”さえ、
感じられる方もいらっしゃるかと思いますが、
それは、如来無対光裡、超日月光位に住する弁栄聖者が体現されていた、
「聖きみくに(お浄土)」”帰趣する故郷の霊光、霊徳”なのかもしれません。


法然上人信奉者、法然上人理解には、
『法然上人絵伝』の影響が甚大だと推察されますので、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』をベースに、
弁栄聖者の直弟子方のエピソード他、更に詳細な文献学的調査に基づく史実も加味し、
「弁栄聖者絵伝」、「弁栄聖者行状記」ができれば素晴らしいことだと念願いたします。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2017-10-01

佐々木為興上人の弁栄聖者との邂逅を巡って・・・


弁栄聖者の最晩年に聖者に邂逅され、聖者のご遷化まで随行された佐々木為興上人だけありまして、
為興上人の聖者の逸話には、とても有益で示唆に富み、かつ興味深いものが多いです。

今回は、前回、前々回に引き続き、為興上人の弁栄聖者の想い出と、
”弁栄聖者の法然上人観”を中心に記します。

○ 広島県広島市中区白鳥「心行寺 第十五代住職」佐々木為興上人と弁栄聖者

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ここ心行寺は、熊野宗純上人が弁栄聖者に初めて値遇されたところ。
熊野上人は、当時浄土宗布教界の第一人者と言われ、
笹本戒浄上人のあと、全国光明会連合会の二代目総監

更に、このお寺で、後、信州松本光明会の生み育ての親、
多田助一郎氏の妹が聖者に遇われ、大変感激され、
弁栄聖者に是非会われるよう、兄である助一郎氏に強く勧められたご縁により、
信州上諏訪「正願寺」で、聖者と結縁されました。

風光明媚な信州鉢伏山での別時(現在閉鎖)の開催、継続は、
多田助一郎氏のご尽力による賜物でした。
藤本浄本上人も導師としてご教化にあたられました。
また、そこには、浄本上人と椎尾弁匡博士の石碑も建っています。


”ご縁”の不思議さ、有難さを、大切さを感じます。


○ 広島県二廿市市「潮音寺」 第34世住職 佐々木為興上人と弁栄聖者

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「潮音寺」は、弁栄聖者が「念仏三十七道品」を講説されたお寺。

「念仏三十七道品」の内容は、詳しくは、
弁栄聖者光明体系の『難思光・無称光・超日月光』に記されています。
なお、この御遺稿の発行は昭和39年で、佐々木為興上人ご西化後であり、
『佐々木為興上人遺文集 藤堂俊章編』には、
為興上人の「念仏三十七道品」に関するご法話が収録されています。


(注) 書籍のご購入は、「光明会本部聖堂」で販売されています。
「岐阜光明会」のHPには、PDF化されアップされています。
更には、『弁栄聖者の光明体系』等が、PDF化されています。

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この「念仏三十七道品」関連のご法話でのことであったと記憶していますが、

「弁栄聖者は、”分かったようで、分からん”という説かれ方をされている。
これは、達人ならではの文章です。」

といった趣旨を、杉田善孝上人がご教示されたことがありました。

当時、”禅の悟りマニュアル”といった類の本が出回ったことがあったそうです。

聖者のこの独特の説かれ方は、
一つには、この類の”あんちょこ(虎の巻)”防止といったご配慮から。

”冷暖自知”故に、言葉では説き尽せず
実際の霊育過程は、個々区々であり、定まった道はなく
霊幾過程に関する固定観念(先入観)を植え付けないため
といったご配慮によるほか、
 ”全く分からん”では、”我この道を行く”といった気概が削がれ
また、あまりに巧みに説かれていると、
頭で分かったつもりになってしまい、
真の奥義に到達する前に修行が停滞することを未然に防ぐ
といったご配慮もあったかと推察いたします。

ただし、成仏への霊育過程には、道標(みちしるべ)は不可欠で、
未知の領域へ踏み入む場合には先達の導きが欠かせず、
「徒手空拳」は、甚だ難行苦行であり、効果も少なく、
時に、危険さえ伴う
と思われます。


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【佐々木為興上人(1888年~1955年) 世寿67歳】
法名:「安蓮社正僧正禅誉上人法阿実禅為興大和尚」


話は変わりますが、
佐々木為興上人に弁栄聖者へのご縁をつけられた恩人大谷仙界上人と共に、
聖者に随行され始めたのは、大正8年7月からのこと。
聖者の御遷化は、大正9年12月

聖光(鎮西)上人が法然上人に邂逅されたのが、
法然上人が65歳、聖光(鎮西)上人36歳
聖光(鎮西)上人は6年間、法然上人のもとで生活を共にされます。
法然上人が66歳で”三昧発得”され、
それからも宗教体験が深まり、円熟期を迎えられた時期にあたります。

弁栄聖者と佐々木為興上人の関係も、まさに聖者の円熟期。
為興上人には、その当時十分に咀嚼できなかった部分もきっとあったと思われます。
しかし、為興上人の弁栄聖者随行録は、この上なく貴重な資料。

今回の記事の主題の一つ、
「弁榮聖者の法然上人観」は、
聖者の講述書である『宗祖の皮髄』においてかなりの程度うかがい知ることができます。
※ 『宗祖の皮髄』は、現在入手可能なものとして、
主に「一般財団法人 光明会」と「光明会本部聖堂」から販売されているものと、
『法然上人の神髄 (現代語訳「山崎弁栄講述 ──『宗祖の皮髄』」) 谷慈義訳 河波定昌 (監修) があります。
「一般財団法人 光明会」のものは、
初版本(笹本戒浄上人の御本)のコピー藤堂恭俊博士による解説の他、
藤堂俊英氏の註記、江島孝導氏の資料探訪記等の記載もあり、研究資料としても有益だと思われます。


聖者は、『宗祖の皮髄』において、法然上人の崇高なご霊格に着目され、

「宗祖の法語には、心行の様を示したまえども、
起行の用心については深く沙汰したまわず。」
と明言され、

法然上人のご霊格(自内証、ご境界)の形成上不可欠な要因を、
「起行の用心にあり」
と喝破され、
法然上人の自内証の真髄と起行の用心の内実を、
伝統的な浄土宗乗の定説である『選択集』と『一枚起請文』には置かず、
法然上人の『ご道詠』と『三昧発得記』にある
着眼しておられます。

弁栄聖者が浄土宗から”異安心(異端者)”扱いされたのは、
この聖者の”法然上人観”にあったと思われます。

『宗祖の皮髄』は、光明主義上とても重要な書であり、
「弁栄聖者なきあと、光明主義は、この書を基にして教義を理解していく」、
といった話し合いがもたれたほどのものです。

ところが、この『宗祖の皮髄』のご講述においては、
法然上人のご道詠十首の内、7首を講演され、
残りの3首は他日に期せれらました。

この点は、この『宗祖の皮髄』の書を通し、”弁栄聖者の法然上人観”を考察する際には、
十分留意すべきかと思われます。

この点に関連することとして、
最晩年の聖者に随行された青年(のち弁護士)の柴武三氏へのご教示は、
とても示唆に富むと思われますので、記しておきたいと思います。


○(『宗祖の皮髄』京都の一音社発行の本を、弁栄聖者が柴武三氏に下された時に添えられた一言)
「これは知恩院で僧侶の方々に説いた話をまとめたものですが、
この話は宗祖(法然上人)の御真意のあるところを少しでも明かそうとして、
宗祖が光明主義であらせられた処を述べたものであります。
しかし、これで光明主義が充分説き明かされたと云うのではないけれども、
その一端を知るには役立つと思いますから、参考のためにお読みなさい。」

○ 「宗祖(法然上人)の御真意(宗祖が実修され実地体験されながら、お説きになっていない処)を顕彰しようと思って、
皆さんにその証拠ともなるべき文献を示そうとして随分捜しましたが、
方便済度の御言葉のみ多く御真意のある処がなかなか見当らないで、ほんとうに苦労致しました。」(弁栄聖者談)



この『宗祖の皮髄』の初版本は、大正5年12月

聖者の時代から、法然上人に関する文献学上の研究も相当進んでいると思われますが、

特に注目すべきは、
大正6年に京都醍醐寺三宝院の宝蔵で発見された、
醍醐本「法然上人伝記」所収の『三昧発得記』。
翌大正7年に、望月信亨博士が論文に発表され、
法然研究の第一級の資料となったもの。

なお、この醍醐本「法然上人伝記」こは、
「悪人正機説」が親鸞聖人の師法然上人のお言葉であることが明記されていることでも画期的な発見であったはずのもの。

ただし、この法然上人の「三昧発得」の記録は、
法然上人66歳から74歳までの9年間のみ
法然上人のご遷化は、80歳


「法然上人は三昧発得の聖者だが、
『三昧発得記』に現われている其の位は、上品中生の位だ。」
(弁栄聖者の佐々木為興上人へのご教示)



弁栄聖者は、藤本浄本上人に、
「光明主義は善導法然の真意を現したものである」とご教示され、
浄本上人は、
「内証の円満し給へる(弁栄)上人は、
定めて三昧境中に、高祖や宗祖に直参して仰せられたことと思います」

とご述懐されています。
なお、藤本浄本上人は、浄土宗の勧学

笹本戒浄上人は、
「善導法然の真意」を、
「(文字としては明記されていない)善導大師法然上人の最晩年、三身四智の仏眼のご境界(自内証、認識)」と。

法然上人の「三昧発得記」に記録されていない75歳からご遷化の80歳までの文献学上の発見が待ち望まれます。

なお、『御臨終日記』には、
「この十余年、常に極楽や仏菩薩の姿を拝してきた」
と法然上人は、今まで秘しておられたご内証の一端をお弟子方に語られました。


なお、藤本浄彦氏(浄土宗総合研究所長、佛教大学名誉教授、西蓮寺住職)は、
藤本浄本上人の孫にあたる御方ですが、
法然上人の『逆修説法』・『三昧発得記』の重要性に着目され、
浄土宗乗の伝統、文献学的見地にも十分配慮され、
法然上人の念仏は、あくまでも「往生のための行業」であると注意喚起をされながらも、
法然上人の念仏三昧発得体験(自内証)を、
”口称念仏の継続”による、不求自得の三昧発得の聖境
と捉えられ、
伝統的な浄土宗乗上踏み込んだ”法然上人観”をご提示されています。
【参照】 藤本浄彦著『法然浄土宗学論究』平楽寺書店

特に、法然上人、浄土宗にご縁、ご関心のある方には、是非、ご一読をお勧めいたします。


ところで、
弁栄聖者の読書態度、その在り様に関し、
「眼光紙背に徹しておられた」と笹本戒浄上人はご述懐、ご感嘆されています。

ある時、戒浄上人が、
『大原談義聞書鈔』について、
古来真偽問題が種々論じられているようですが、
と弁栄聖者に申し上げられたところ、

「聖法然でなければ言うことのできない御言葉が載っている。」
と、文献学上の真偽そのものには直接にはお触れにならずにお答えになったとのことです。


また、弁栄聖者の御遺稿集としてあまり知られていないご著書に、
『啓示の恩寵 阿弥陀経』(弁栄聖者光明体系 智慧光 巻下(開示悟入))という本があります。
戦後間もなく物資の不足している時代に、
田中木叉上人が大変ご苦労され出版されたもので、
紙質が粗悪なため、原書の保存状態がよくなかった本でしたが、
(以前、図書館で手に取った時に、保存状態からこの原書は貸出禁止にした方がよいとさえ思いました)
平成24年12月に、聖堂から補正版が出版されました。

この書について、田中木叉上人は、
「『阿弥陀経』の真理を、お釈迦様以来始めて、弁栄聖者により言われた真理がある。
他の菩薩が教えて下さらなった真理が、弁栄聖者により始めて喝破された」と。

(『田中木叉上人御法話聴書』 冨川 茂 筆記)

なお、このことを裏付ける弁栄聖者のお言葉があります。
「上人 「われはじき六十歳になる。早く三部経を訳さねばならない。
三種に分類して直訳、新訳、新新訳として各信者に分たねばならない。
それには山居して着手するつもりだ。」
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』


また、柴武三氏へは、
「聖者は、前から数か月ほど暇をつくって少し纏まった著述をしたいと仰言っていました。
柴武三氏:「何頁くらいの本になるのですか。」
弁栄聖者:「四百頁ぐらいの本が四冊程です。
無辺光の四大智慧に関するものを書きたい。それを読みなさい。」
これが、弁栄聖者の柴武三氏との最後の言葉となったようです。

※ ご参考までに、岐阜光明会のHPには、
『無辺光』の項目には、田中木叉上人編纂の弁栄聖者の御遺稿のものと、
それを基にした、昭和44年(1969年)発行の講談社版
数学者岡潔博士の「まえがき  無辺光と人類」もPDF化されています。


弁栄聖者一切経を読破されたのは、二十代の半ば頃でしたが、
それは、聖者が筑波山で三昧発得された後であったことに留意する必要があります。
※ 笹本戒浄上人によりますと、
その当時の三昧発得のご境界は、
仏眼でも、「開・示・悟・入」の悟の中程度とのこと。
釈尊のご境界は、入の位、三身四智の仏眼
その究極である認識的一切智
※ 仏眼にも深浅あり

「私は聖典に依て演繹的に説くのでない、帰納的に説いている」
とは、聖者の戒浄上人へのご教示。

弁栄聖者の「一切経読破」とは、正に”心(身)読”というべきもので、
自内証の自己検証、確認作業といった意味合いもあったかと推察されます。


少し横道に逸れますが、
弁栄聖者は、何故か、弘法大師空海を彷彿とさせます。

空海の二十代の修行期間は謎に包まれ、
また、恵果阿闍梨と空海との邂逅の有様(短期間での真言密教の奥義直伝)は、
伝説に包まれている部分があるとはいえ、
若かりし空海が真言密教の奥義を、”既に会得”していればこそだと思えるからです。


大変長くなり申し訳ございませんが、
最後に、ご参考として、記しておきたいことがあります。

弁栄聖者の「五種正行」の御解釈について。

「五種正行」 「行トハ霊的生活の糧」について  

一 読誦正行 「経ハ教祖自カラノ所験、心霊界二誘導」
二 観察正行 「瞑想観念シテ霊的理性ヲ開発ス」
三 礼拝正行 「身口意共二献ゲテ仏力ヲ被ル」
四 称名行   「通ジテ生仏合一、別シテ三義(請求・感謝・咨嗟」
五 讃嘆供養正行
  「(イ)讃嘆 仏徳ヲ讃美シテ如来中ニ逍遥ス」
  「(ロ)供養 我が身ヲ献ゲテ奉仕スルヲ第一ノ供養トス


伝統的浄土宗乗では、
四 称名を正定行とし、
他の、一 読誦正行、二 観察正行、三 礼拝正行、五 讃嘆供養正行を、
前三後一は助業で、正定行の称名念仏を助ける業と捉えていますが、
    
「そうみてはいけない。
此れは何れも正行である。正しき糧である、正しき行である
・・・正行だから、何れを修しても往生できる
だから この助業は、念仏の助業ではない
往生の助業である。往生を助ける業だと解さねばならぬ
善導大師の御著述をよく見れば、確かに此の事が分る。」
『佐々木為興上人遺文集  藤堂俊章編』


次のことも、是非とも記しておきたいと思います。

「橋本徳冏氏が、笹本上人よりうけたまわった話によると、
笹本上人は常に言っておられた。
「弁栄聖者は法然上人の皮も髄もあらわして下さった。」

(『田中木叉上人御法話聴書』 冨川 茂 筆記)

「光明主義は法然浄土宗(法然上人の真精神、髄)。
法然浄土宗と伝統宗乗の浄土宗とを混同してはならない。」(田中木叉上人)

また、
「浄土宗と光明主義とを、同じものあるいは違うものと捉えるのは、間違いである。
”連続の非連続、非連続の連続”、”伝統即創造、創造即伝統”と捉えるべきである。」

(平成28年ご西化 河波定昌 元光明会上首、元光明園園主)

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ジャンル : 学問・文化・芸術

2017-09-03

広島県二廿市市「潮音寺」 第34世住職 佐々木為興上人と弁栄聖者


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↑ こちらは、廿日市住吉郵便局側の山門

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↓ こちらは、駐車場側。

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前回は、広島市中区白鳥の「心行寺」を記事にしました。

今回は、二廿市市の「潮音寺」
弁栄聖者のご高弟のお一人、佐々木為興上人が、
広島県でご住職を務められていた、もう一つのお寺。

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大正八年(聖者ご遷化は大正九年)、「潮音寺」にて、
弁栄聖者が別時念仏会を指導をされた時に、
「成仏への霊育過程」である「念仏三十七道品」として、
聖者の自内証から講述されました。

このお別時には、
熊野宗純上人、藤本浄本上人、
丹波円浄上人、橋爪実誠上人、荒巻くめ女も参加され、
聖者は、わざわざ神奈川県横浜から、笹本戒浄上人を呼び出されたほどの別時で、
丹波円浄、橋爪実誠両上人による筆記録が残されています。


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二列目中央(左から八人目)が、弁栄聖者
左から三人目が、橋爪実誠上人。
左から五人目が、熊野宗純上人。
左から六人目が、笹本戒浄上人。
左から七人目が、藤本浄本上人。
向かって聖者の右隣りが、丹波円浄上人。
向かって丹波上人の右後ろが、佐々木為興上人。
一列目、丹波上人の前が、荒巻くめ女。

今回は、「念仏三十七道品」の内容には深入りしませんので、
弁栄聖者の「念仏三十七道品」の詳細については、
『難思光・無称光・超日月光』(弁栄聖者光明体系)をご参照ください。


佐々木為興上人の師匠であった白旗安誉師は、
当時広島県下では学問のある者として尊敬を受けており、
当時の学者同様なかなか人を褒めぬ方であったようで、
当初、聖者に対して関心が薄かったようでしたが、

「オー、此れはただの人でないね
此の三十七道品なんていうものは、
浄土教では説かず、浄土教とは無関係と思っていたが、
此れが浄土教的に生きて来た
あれは深玄な体験がなければ、とても説くことが出来ぬものだ
お前はよい人に遇ったね」

と、為興上人の師が初めて褒められたほどでした。

もちろん、聖者直弟子方は、
「此れだけ聞いても、光明主義の信仰に入った価値がある。
非常にありがたい。」

と異口同音に云い合っておられたようです。


佐々木為興上人による「弁栄聖者語録」によりますと、

○ 「光明主義という言葉は他を排するように聞こえて良くない。」
という意味のことを弁栄上人はご御在世中、漏らされたことがあった。

○ 「光明主義は一切経を所依の経典とすべきである。」

○ 「聖道門は仏教の哲学的方面である。浄土門は仏教の宗教的方面である。
聖道門は薬で言えば効能書の様なもので、浄土門は薬の様なものだ。
聖浄二門は互いに軋轢すべきでない、両々相俟たねばならぬ」


○ 「法蔵菩薩を通ずるを旧約と云い、釈尊を通ずるを新約と云う」


以上の点を踏まえますと、以下の聖者のご教示がご理解いただけるかと思います。

○ 「聖教量を堅とし実感を横として」
とは新潟教区教学講習会で浄土教義講演開口の一番のお言葉であった。
この自内証の権威がまず聴聞者の心を引きつけた
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

○ 「私は聖典に依て演繹的に説くのでない、帰納的に説いている」
(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)


「見仏」については、
光明主義、光明会にとって避けて通ることができない難題ですので、
さわりを触れておきます。

大正9年12月4日に、越後柏崎で、
弁栄聖者がご遷化された後、
聖者直弟子方は一丸となって、光明主義を護っていかれました。

ところが、釈尊の十大弟子の如く、
弁栄聖者の直弟子方も、因縁、個性も各々異なり、
弁栄聖者によるご指導、如来様による霊育状態も区々でありましたので、
聖者の御教えの受け取り方にも、微妙に、時には大きく異なる点があったようです。

それらが顕在化したのが、
笹本戒浄上人の「見仏説」藤本浄本上人の「光明生活説」であったようです。

弁栄聖者のご遷化の後、光明会を二分しかねない程の圧力が高まりつつあった時に、

笹本戒浄上人の「見仏説」は、起行の用心で、
藤本浄本上人の「光明生活説」は安心の要領で、
この両方とも光明主義にはなくてはならない重要な教義の問題です」

との佐々木為興上人のご仲介により、
ひとまずは、当時、大事にまでは至らなかったようです。


佐々木為興上人は、
「私も如来様の慈悲の聖容を憶念する行法を取っている。
しかし、誰にでもこの行法を勧めた訳ではない」

と仰れていたようです。


ところが、
「それは弁栄さんの業たい。」
とのあるお上人のご指摘のとおり、
この問題は、光明会、光明主義にとって骨絡みの大難題だと思われます。

これは、弁栄聖者が大宗教家であられた故で、
大宗教家の宿命であったと推察いたします。
大宗教家は、大哲人でもあり
かつ、衆生各々に応じて個別に対応(「対機説法」または「応病与薬」)せざるをえないからで、
「如実知見」とは、それほど私達からはほど遠いものなのだと思われます。

「実践修道論」とは異なり
「衆生の霊育過程、また、化他、度生(衆生済度)には、定まった”直線道”はない。」
ことから必然的に生じる難題であるからです。

弁栄聖者のような御方(三身四智の仏眼を体得された聖者)においてのみ包超される難題であるように思われます。


「弁栄聖者は来たるべき太平洋文化時代にさきがけて
太平洋に面する千葉県に縁起されたのだ」

とは、聖者のご高弟の田中木叉上人の御言葉とのことですが、

弁栄聖者の自内証の真髄は、
日本国内の宗教界、学会等ではなく、
かえって、西欧文化側からの理解、その逆輸入によって再認識されるのかもしれません。


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為興上人による大変貴重な「弁栄聖者の俤」、「聖者語録」はまだあります。


「(侍者 ※ が)ご法話中あまりに喉が渇き、
庫裡にさがって湯呑みでお茶を頂き早く本堂に出たい心から、
その湯呑みを洗わずにそのまま伏せて置いた
すると上人ご法話が終わり本堂からさがり、
すぐ侍者のつかった湯呑みを手にとり侍者の顔をみてニッコリと笑い
他の湯呑でお茶を飲まれた。
それから、上人は、
侍者の飲んだ湯呑とご自身の使われた湯呑と二つともみづから洗って元の茶盆に伏せられた
この無言の導びきに侍者はただひれ伏した。」
『田中木叉著「日本の光(弁榮上人伝)」』
※ この侍者とは、佐々木為興上人。


以下、『佐々木為興上人遺文集  藤堂俊章編』より。

(弁栄聖者)
「誠によい景色ですね、
あの景色はあなたの外に見えておりますか、それとも内に見えておりますか
(ご随行間もない年若い為興上人が)当惑しておりますと、
(弁栄聖者)
「矢張り外に見えて居るのでしょうね、常に念仏して如来の霊育を受けておると
あれがあなたの内に見えるようになりますよ
※此の御試問はご随行中度々あった。

○ 「勧請は開眼と云うのと同じことなり」と仰言いましたが、
此れは弁栄上人様でなければ言えぬ事であります。

○ お上人(聖者のこと)様が教会所をお建てになる、光明学園を設立なさる等で、
此等は上人様の伝道資金によって充てられました
お上人様は仰言いました。
「自分の伝道は労働伝道だ」と。

○ 大正九年十月中旬、京都知恩院勢至堂の講師室でのこと。
「随行の佐々木為興上人が聖者のお部屋に参られますと、
聖者は円光を放っていられました
おうなじから発し給う後光です。暫らくそれが消えません。
上人は「ああ、聖者は本当に尊い生きた如来様だ」
と一間さがって三礼しました。」

○ 大正九年十二月四日に弁栄聖者は越後柏崎でご遷化されましたが、
そのご随行中の時、
為興上人のご長男が危篤状態となり、上人に電報が来ました。
大変に迷われた為興上人は聖者にご報告に行かれ、
ここに留まる旨をお伝えしますと、
「子供さんの病気は治りますから帰らなくてもよいでしょう」
と聖者が言われたので、為興上人は聖者の下に留まられました。
しばらくして、お子さんの病気は、聖者の言われたとおり、治り助かりました

○ 弁栄聖者のご遷化の後、駆け付けた信者方に、
せめて今生のお別れにと、お棺の蓋をあけて聖者に御対面をさせ申したところ、
何としたことでしょう、
上人(聖者のこと)の御姿は蓋を開けて拝する度ごとに、
益々美しく輝き渡ってお出になりますのには、忝さが身にしみました

私は上人(聖者のこと)様がかつて
「この頭にはダイヤモンドが入っています」と仰せられたことなど思い出しまして、
これをむざむざ焼いてしまうということは誠に惜しく思いました。


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墓地に入って、すぐ左側に、
佐々木為興上人のお墓があります。

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【佐々木為興上人(1888年~1955年) 世寿67歳】
法名:「安蓮社正僧正禅誉上人法阿実禅為興大和尚」

ご遷化地は京都。
京都市下京区「竜岸寺 第二十一世」


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「潮音寺」は、以八上人と学信上人のお墓もある、由緒あるお寺。

↑ 以八上人。
  法然上人のご生誕地、岡山県の「誕生寺」を復興された御方。
  安芸の宮島「光明院」開基、袋中上人の実兄。

↓ 学信上人。
  伊予国出身だけあって、瀬戸内界隈は特に、学信上人関係の遺跡が多いです。
  「墓で生まれた学信和尚」としても知られる御方。

両上人とも、安芸の宮島「光明院」にゆかりのある御方。

なお、宮島は神域であるため、「島にはお墓はない」ようです。

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2017-07-31

広島県広島市中区白鳥「心行寺 第十五代住職」佐々木為興上人と弁栄聖者

広島市中区白鳥九軒町にある「心行寺」

最晩年の弁栄聖者にご随行された佐々木為興上人のお寺。

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お寺に入ると、正面の樹木が目に入ります。

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被爆樹木 ソテツ。

昭和20年8月6日、広島への原爆投下により、お寺は全壊とのこと。

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↑ 歴代上人のお墓。
  
此処には、佐々木為興上人のお墓はありませんでした。

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為興上人のお墓は、
佐々木家の一員として埋葬されていました。

為興上人のお墓は、
広島県の廿日市市「潮音寺」にもあり、
失礼ながら、そちらの方が、為興上人のお墓参りにうかがったという記憶に残るかもしれません。

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【佐々木為興上人(1888年~1955年)】

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先に、弁栄聖者に随行されていた大谷仙界上人のお導きによって、
佐々木為興上人は、聖者との勝縁をいただかれました。

大正5年6月、知恩院での高等講習会において、
奇しくも、大谷仙界上人と同じ電車に乗り合せ、更に、起居も共にされました。
後に法友となる仙界上人との不思議な出逢いでした。

同年12月、仙界上人のお寺である九州の長安寺で5日間、
佐々木為興上人は布教を担当することになりました。

ところが、為興上人は、
仙界上人の本尊様に対する態度に言い知れぬ尊さを感じられ
布教に来た自分自身が反って教えられるような、導かれるような有様で、
5日間を過ごされたとのこと。

勤行形式に奇異な念をいだかれ、問うと、
仙界上人は、待ってましたとばかりに、
弁栄聖者と光明主義について話し出されました。

弁栄聖者は「古い頭の頑固な旧式の学者で、かわった奇僧」だとの偏見は打ち砕かれ、
後に、仙界上人のご紹介によって、聖者との勝縁に恵まれ、
仙界上人と共に聖者に随行される身となられました。

「(大谷仙界)上人の法談を聴いて居る間に、幾度も無我の境地に入り、
肉眼は開き乍ら、眼中何物も障るもの無く、襖なく、室なく、広大無辺の天地開け、
その直前に尊き聖像の彷彿たるを拝しては、法談を中止して貰って、
思わず合掌念仏することが幾度もあった。」

(『佐々木為興上人遺文集  藤堂俊章編』)

大谷仙界上人は、実に、為興上人を更生させた大恩人でした。

特に、弁栄聖者の最晩年に聖者の直弟子になられたお上人方、在家の方々のことを思い巡らせますと、
『法華経』「従地湧出品第十五」で説かれる、

「釈尊が本門の御教えを説かれ始めた時、地中から湧出して来た菩薩達」
を彷彿とさせます。


為興上人は、最晩年の聖者に随行されていたので、
弁栄聖者随行録には大変示唆に富むものが多いです。

その一つ。

東京の芝増上寺近くの多聞室でのこと。

多聞室では、聖者の食事の用意がありましたが、
食事は質素(大豆の煮たものばかり)で美味くなく、
しかも、毎日続く、というものでありました。

まだ、30歳程の若い為興上人が、その食事に嫌気がさしていた時のこと。

(弁栄聖者)
「あなたはこのおかづおいしくありませんか。」
(為興上人)
「えゝその一寸」
(弁栄聖者)
「あなたはまだ舌に五妙感が開けていませんねー。
その五妙感が開けますと何とも言えぬ味いがあります。」

又大豆ほど安くて滋養になるものはありません」

と仰せられたので、何とも返す言葉がなかった。
(『佐々木為興上人遺文集 藤堂俊章編』)

念仏の功徳により、「五妙境界」が自ずと開かれ、
「道徳的行為」が、自然と行えるようになること。


が、弁栄聖者のご教示からうかがわれることはありがたいことです。

ちなみに、従来の浄土教系では、
「戒律」ということが全面的に説かれることはないようですが、
明恵上人の批判とは逆に、
法然上人においても、念仏の功徳により、
自ずと「戒体発得」されておられました。

(注)『往生要集』には「五妙境界楽」として説かれ、お浄土における風光。

西田幾多郎氏は、
遺稿となった「場所的論理と宗教的世界観」の中で、

「真の絶対的受動からは、真の絶対的能動が出て来なければならない。」
と記しています。 

田中木叉上人によりますと、
弁栄聖者はご在世中、「他力」とはあまり言われなかったようです。

西田流に表現すれば、
「自力となって働き出さない他力は、真の他力とはいえない。」
という深意があったのではないかと推察いたします。


また、微笑ましい聖者の逸話としては、
為興上人のご子息に対して、
「念仏を唱えたら、ご褒美にお菓子を差し上げられていた。」
といったこともあったようです。


最後に、為興上人に関して、とても印象深い逸話を一つ。

為興上人は、大変魅力的なご法話をされ、聴衆を魅了されたお上人であったようですが、
為興上人の御法話を聞かれたことがあった老婦人に、その時の様子を聞かれた方がおりました。

「どういうお話しでしたか?」
「いつも同じ話しをなさいました。」
「同じ話しですか!?」
「それが、お話しをまた聞きたいと皆が集まるのです。」
「それは一体どんなお話しでしたか?」
「それが、念仏を申さずにはおられんようになるお話しでした。」

これは、為興上人が御遷化されてから、四半世紀後の想い出話とのことです。

この逸話だけからでも、
為興上人が「単なるご法話が巧かったというお上人ではなかった」
ことがハッキリとうかがわれるかと思われます。

通常、同じ話しを何度も聴いていると、
聴く方に飽きが生じ、集中力が低下し、思考が停止するか、散漫になるものです。
また、話す方も、それらを予期し、未然に防ぐ為に、同じ話しはなるべく避けようとするものです。

しかし、大切なことは、そう多くあるものではなく、
やはり、「大切なことは、繰り返し話すべき」ものだと思います。

為興上人は、
「同じ話しを繰り返しされながら、なおかつ、聴衆に興味を持たせ続けさせることがおできになった。」

このことは、
為興上人がお念仏の内で如来様に霊化され、
”歓喜光”と”清浄光”を、特に強くいただかれていたからではないかと推察いたします。

「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根哉(かな)」

為興上人が好んでよく引用された、芭蕉の句とのこと。

この芭蕉の句は、清浄光による感覚の霊化
つまり、”新鮮さの湧出”作用のことですが、

為興上人のご風貌から、
”歓喜光”により霊化された、”光のどけき春の日”のような、
”あたたかで朗らか””どこかほんわかとし安心感を抱かせる”
ような御人格、雰囲気も大きかったように思われます。

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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