2017-09-03

広島県二廿市市「潮音寺」 第34世住職 佐々木為興上人と弁栄聖者


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↑ こちらは、廿日市住吉郵便局側の山門

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↓ こちらは、駐車場側。

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前回は、広島市中区白鳥の「心行寺」を記事にしました。

今回は、二廿市市の「潮音寺」
弁栄聖者のご高弟のお一人、佐々木為興上人が、
広島県でご住職を務められていた、もう一つのお寺。

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大正八年(聖者ご遷化は大正九年)、「潮音寺」にて、
弁栄聖者が別時念仏会を指導をされた時に、
「成仏への霊育過程」である「念仏三十七道品」として、
聖者の自内証から講述されました。

このお別時には、
熊野宗純上人、藤本浄本上人、
丹波円浄上人、橋爪実誠上人、荒巻くめ女も参加され、
聖者は、わざわざ神奈川県横浜から、笹本戒浄上人を呼び出されたほどの別時で、
丹波円浄、橋爪実誠両上人による筆記録が残されています。


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二列目中央(左から八人目)が、弁栄聖者
左から三人目が、橋爪実誠上人。
左から五人目が、熊野宗純上人。
左から六人目が、笹本戒浄上人。
左から七人目が、藤本浄本上人。
向かって聖者の右隣りが、丹波円浄上人。
向かって丹波上人の右後ろが、佐々木為興上人。
一列目、丹波上人の前が、荒巻くめ女。

今回は、「念仏三十七道品」の内容には深入りしませんので、
弁栄聖者の「念仏三十七道品」の詳細については、
『難思光・無称光・超日月光』(弁栄聖者光明体系)をご参照ください。


佐々木為興上人の師匠であった白旗安誉師は、
当時広島県下では学問のある者として尊敬を受けており、
当時の学者同様なかなか人を褒めぬ方であったようで、
当初、聖者に対して関心が薄かったようでしたが、

「オー、此れはただの人でないね
此の三十七道品なんていうものは、
浄土教では説かず、浄土教とは無関係と思っていたが、
此れが浄土教的に生きて来た
あれは深玄な体験がなければ、とても説くことが出来ぬものだ
お前はよい人に遇ったね」

と、為興上人の師が初めて褒められたほどでした。

もちろん、聖者直弟子方は、
「此れだけ聞いても、光明主義の信仰に入った価値がある。
非常にありがたい。」

と異口同音に云い合っておられたようです。


佐々木為興上人による「弁栄聖者語録」によりますと、

○ 「光明主義という言葉は他を排するように聞こえて良くない。」
という意味のことを弁栄上人はご御在世中、漏らされたことがあった。

○ 「光明主義は一切経を所依の経典とすべきである。」

○ 「聖道門は仏教の哲学的方面である。浄土門は仏教の宗教的方面である。
聖道門は薬で言えば効能書の様なもので、浄土門は薬の様なものだ。
聖浄二門は互いに軋轢すべきでない、両々相俟たねばならぬ」


○ 「法蔵菩薩を通ずるを旧約と云い、釈尊を通ずるを新約と云う」


以上の点を踏まえますと、以下の聖者のご教示がご理解いただけるかと思います。

○ 「聖教量を堅とし実感を横として」
とは新潟教区教学講習会で浄土教義講演開口の一番のお言葉であった。
この自内証の権威がまず聴聞者の心を引きつけた
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

○ 「私は聖典に依て演繹的に説くのでない、帰納的に説いている」
(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)


「見仏」については、
光明主義、光明会にとって避けて通ることができない難題ですので、
さわりを触れておきます。

大正9年12月4日に、越後柏崎で、
弁栄聖者がご遷化された後、
聖者直弟子方は一丸となって、光明主義を護っていかれました。

ところが、釈尊の十大弟子の如く、
弁栄聖者の直弟子方も、因縁、個性も各々異なり、
弁栄聖者によるご指導、如来様による霊育状態も区々でありましたので、
聖者の御教えの受け取り方にも、微妙に、時には大きく異なる点があったようです。

それらが顕在化したのが、
笹本戒浄上人の「見仏説」藤本浄本上人の「光明生活説」であったようです。

弁栄聖者のご遷化の後、光明会を二分しかねない程の圧力が高まりつつあった時に、

笹本戒浄上人の「見仏説」は、起行の用心で、
藤本浄本上人の「光明生活説」は安心の要領で、
この両方とも光明主義にはなくてはならない重要な教義の問題です」

との佐々木為興上人のご仲介により、
ひとまずは、当時、大事にまでは至らなかったようです。


佐々木為興上人は、
「私も如来様の慈悲の聖容を憶念する行法を取っている。
しかし、誰にでもこの行法を勧めた訳ではない」

と仰れていたようです。


ところが、
「それは弁栄さんの業たい。」
とのあるお上人のご指摘のとおり、
この問題は、光明会、光明主義にとって骨絡みの大難題だと思われます。

これは、弁栄聖者が大宗教家であられた故で、
大宗教家の宿命であったと推察いたします。
大宗教家は、大哲人でもあり
かつ、衆生各々に応じて個別に対応(「対機説法」または「応病与薬」)せざるをえないからで、
「如実知見」とは、それほど私達からはほど遠いものなのだと思われます。

「実践修道論」とは異なり
「衆生の霊育過程、また、化他、度生(衆生済度)には、定まった”直線道”はない。」
ことから必然的に生じる難題であるからです。

弁栄聖者のような御方(三身四智の仏眼を体得された聖者)においてのみ包超される難題であるように思われます。


「弁栄聖者は来たるべき太平洋文化時代にさきがけて
太平洋に面する千葉県に縁起されたのだ」

とは、聖者のご高弟の田中木叉上人の御言葉とのことですが、

弁栄聖者の自内証の真髄は、
日本国内の宗教界、学会等ではなく、
かえって、西欧文化側からの理解、その逆輸入によって再認識されるのかもしれません。


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為興上人による大変貴重な「弁栄聖者の俤」、「聖者語録」はまだあります。


「(侍者 ※ が)ご法話中あまりに喉が渇き、
庫裡にさがって湯呑みでお茶を頂き早く本堂に出たい心から、
その湯呑みを洗わずにそのまま伏せて置いた
すると上人ご法話が終わり本堂からさがり、
すぐ侍者のつかった湯呑みを手にとり侍者の顔をみてニッコリと笑い
他の湯呑でお茶を飲まれた。
それから、上人は、
侍者の飲んだ湯呑とご自身の使われた湯呑と二つともみづから洗って元の茶盆に伏せられた
この無言の導びきに侍者はただひれ伏した。」
『田中木叉著「日本の光(弁榮上人伝)」』
※ この侍者とは、佐々木為興上人。


以下、『佐々木為興上人遺文集  藤堂俊章編』より。

(弁栄聖者)
「誠によい景色ですね、
あの景色はあなたの外に見えておりますか、それとも内に見えておりますか
(ご随行間もない年若い為興上人が)当惑しておりますと、
(弁栄聖者)
「矢張り外に見えて居るのでしょうね、常に念仏して如来の霊育を受けておると
あれがあなたの内に見えるようになりますよ
※此の御試問はご随行中度々あった。

○ 「勧請は開眼と云うのと同じことなり」と仰言いましたが、
此れは弁栄上人様でなければ言えぬ事であります。

○ お上人(聖者のこと)様が教会所をお建てになる、光明学園を設立なさる等で、
此等は上人様の伝道資金によって充てられました
お上人様は仰言いました。
「自分の伝道は労働伝道だ」と。

○ 大正九年十月中旬、京都知恩院勢至堂の講師室でのこと。
「随行の佐々木為興上人が聖者のお部屋に参られますと、
聖者は円光を放っていられました
おうなじから発し給う後光です。暫らくそれが消えません。
上人は「ああ、聖者は本当に尊い生きた如来様だ」
と一間さがって三礼しました。」

○ 大正九年十二月四日に弁栄聖者は越後柏崎でご遷化されましたが、
そのご随行中の時、
為興上人のご長男が危篤状態となり、上人に電報が来ました。
大変に迷われた為興上人は聖者にご報告に行かれ、
ここに留まる旨をお伝えしますと、
「子供さんの病気は治りますから帰らなくてもよいでしょう」
と聖者が言われたので、為興上人は聖者の下に留まられました。
しばらくして、お子さんの病気は、聖者の言われたとおり、治り助かりました

○ 弁栄聖者のご遷化の後、駆け付けた信者方に、
せめて今生のお別れにと、お棺の蓋をあけて聖者に御対面をさせ申したところ、
何としたことでしょう、
上人(聖者のこと)の御姿は蓋を開けて拝する度ごとに、
益々美しく輝き渡ってお出になりますのには、忝さが身にしみました

私は上人(聖者のこと)様がかつて
「この頭にはダイヤモンドが入っています」と仰せられたことなど思い出しまして、
これをむざむざ焼いてしまうということは誠に惜しく思いました。


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墓地に入って、すぐ左側に、
佐々木為興上人のお墓があります。

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【佐々木為興上人(1888年~1955年) 世寿67歳】
法名:「安蓮社正僧正禅誉上人法阿実禅為興大和尚」

ご遷化地は京都。
京都市下京区「竜岸寺 第二十一世」


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「潮音寺」は、以八上人と学信上人のお墓もある、由緒あるお寺。

↑ 以八上人。
  法然上人のご生誕地、岡山県の「誕生寺」を復興された御方。
  安芸の宮島「光明院」開基、袋中上人の実兄。

↓ 学信上人。
  伊予国出身だけあって、瀬戸内界隈は特に、学信上人関係の遺跡が多いです。
  「墓で生まれた学信和尚」としても知られる御方。

両上人とも、安芸の宮島「光明院」にゆかりのある御方。

なお、宮島は神域であるため、「島にはお墓はない」ようです。

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2017-07-31

広島県広島市中区白鳥「心行寺 第十五代住職」佐々木為興上人と弁栄聖者

広島市中区白鳥九軒町にある「心行寺」

最晩年の弁栄聖者にご随行された佐々木為興上人のお寺。

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お寺に入ると、正面の樹木が目に入ります。

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被爆樹木 ソテツ。

昭和20年8月6日、広島への原爆投下により、お寺は全壊とのこと。

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↑ 歴代上人のお墓。
  
此処には、佐々木為興上人のお墓はありませんでした。

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為興上人のお墓は、
佐々木家の一員として埋葬されていました。

為興上人のお墓は、
広島県の廿日市市「潮音寺」にもあり、
失礼ながら、そちらの方が、為興上人のお墓参りにうかがったという記憶に残るかもしれません。

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【佐々木為興上人(1888年~1955年)】

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先に、弁栄聖者に随行されていた大谷仙界上人のお導きによって、
佐々木為興上人は、聖者との勝縁をいただかれました。

大正5年6月、知恩院での高等講習会において、
奇しくも、大谷仙界上人と同じ電車に乗り合せ、更に、起居も共にされました。
後に法友となる仙界上人との不思議な出逢いでした。

同年12月、仙界上人のお寺である九州の長安寺で5日間、
佐々木為興上人は布教を担当することになりました。

ところが、為興上人は、
仙界上人の本尊様に対する態度に言い知れぬ尊さを感じられ
布教に来た自分自身が反って教えられるような、導かれるような有様で、
5日間を過ごされたとのこと。

勤行形式に奇異な念をいだかれ、問うと、
仙界上人は、待ってましたとばかりに、
弁栄聖者と光明主義について話し出されました。

弁栄聖者は「古い頭の頑固な旧式の学者で、かわった奇僧」だとの偏見は打ち砕かれ、
後に、仙界上人のご紹介によって、聖者との勝縁に恵まれ、
仙界上人と共に聖者に随行される身となられました。

「(大谷仙界)上人の法談を聴いて居る間に、幾度も無我の境地に入り、
肉眼は開き乍ら、眼中何物も障るもの無く、襖なく、室なく、広大無辺の天地開け、
その直前に尊き聖像の彷彿たるを拝しては、法談を中止して貰って、
思わず合掌念仏することが幾度もあった。」

(『佐々木為興上人遺文集  藤堂俊章編』)

大谷仙界上人は、実に、為興上人を更生させた大恩人でした。

特に、弁栄聖者の最晩年に聖者の直弟子になられたお上人方、在家の方々のことを思い巡らせますと、
『法華経』「従地湧出品第十五」で説かれる、

「釈尊が本門の御教えを説かれ始めた時、地中から湧出して来た菩薩達」
を彷彿とさせます。


為興上人は、最晩年の聖者に随行されていたので、
弁栄聖者随行録には大変示唆に富むものが多いです。

その一つ。

東京の芝増上寺近くの多聞室でのこと。

多聞室では、聖者の食事の用意がありましたが、
食事は質素(大豆の煮たものばかり)で美味くなく、
しかも、毎日続く、というものでありました。

まだ、30歳程の若い為興上人が、その食事に嫌気がさしていた時のこと。

(弁栄聖者)
「あなたはこのおかづおいしくありませんか。」
(為興上人)
「えゝその一寸」
(弁栄聖者)
「あなたはまだ舌に五妙感が開けていませんねー。
その五妙感が開けますと何とも言えぬ味いがあります。」

又大豆ほど安くて滋養になるものはありません」

と仰せられたので、何とも返す言葉がなかった。
(『佐々木為興上人遺文集 藤堂俊章編』)

念仏の功徳により、「五妙境界」が自ずと開かれ、
「道徳的行為」が、自然と行えるようになること。


が、弁栄聖者のご教示からうかがわれることはありがたいことです。

ちなみに、従来の浄土教系では、
「戒律」ということが全面的に説かれることはないようですが、
明恵上人の批判とは逆に、
法然上人においても、念仏の功徳により、
自ずと「戒体発得」されておられました。

(注)『往生要集』には「五妙境界楽」として説かれ、お浄土における風光。

西田幾多郎氏は、
遺稿となった「場所的論理と宗教的世界観」の中で、

「真の絶対的受動からは、真の絶対的能動が出て来なければならない。」
と記しています。 

田中木叉上人によりますと、
弁栄聖者はご在世中、「他力」とはあまり言われなかったようです。

西田流に表現すれば、
「自力となって働き出さない他力は、真の他力とはいえない。」
という深意があったのではないかと推察いたします。


また、微笑ましい聖者の逸話としては、
為興上人のご子息に対して、
「念仏を唱えたら、ご褒美にお菓子を差し上げられていた。」
といったこともあったようです。


最後に、為興上人に関して、とても印象深い逸話を一つ。

為興上人は、大変魅力的なご法話をされ、聴衆を魅了されたお上人であったようですが、
為興上人の御法話を聞かれたことがあった老婦人に、その時の様子を聞かれた方がおりました。

「どういうお話しでしたか?」
「いつも同じ話しをなさいました。」
「同じ話しですか!?」
「それが、お話しをまた聞きたいと皆が集まるのです。」
「それは一体どんなお話しでしたか?」
「それが、念仏を申さずにはおられんようになるお話しでした。」

これは、為興上人が御遷化されてから、四半世紀後の想い出話とのことです。

この逸話だけからでも、
為興上人が「単なるご法話が巧かったというお上人ではなかった」
ことがハッキリとうかがわれるかと思われます。

通常、同じ話しを何度も聴いていると、
聴く方に飽きが生じ、集中力が低下し、思考が停止するか、散漫になるものです。
また、話す方も、それらを予期し、未然に防ぐ為に、同じ話しはなるべく避けようとするものです。

しかし、大切なことは、そう多くあるものではなく、
やはり、「大切なことは、繰り返し話すべき」ものだと思います。

為興上人は、
「同じ話しを繰り返しされながら、なおかつ、聴衆に興味を持たせ続けさせることがおできになった。」

このことは、
為興上人がお念仏の内で如来様に霊化され、
”歓喜光”と”清浄光”を、特に強くいただかれていたからではないかと推察いたします。

「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根哉(かな)」

為興上人が好んでよく引用された、芭蕉の句とのこと。

この芭蕉の句は、清浄光による感覚の霊化
つまり、”新鮮さの湧出”作用のことですが、

為興上人のご風貌から、
”歓喜光”により霊化された、”光のどけき春の日”のような、
”あたたかで朗らか””どこかほんわかとし安心感を抱かせる”
ような御人格、雰囲気も大きかったように思われます。

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2017-06-26

山口県大島「西蓮寺 藤本浄本上人」、「久賀 阿弥陀寺住職 松尾真善師」と弁栄聖者


前回の記事は、
山口県大島の「西蓮寺 第十九世住職」藤本浄本上人と弁栄聖者とのご邂逅が中心でした。

弁栄聖者と聖者直弟子との逸話には、
とても示唆に富みかつ興味深いものが多いですが、
藤本浄本上人に関しても、まだ幾つか記しておきたいことがあります。

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先ず、意外だったのは、
西蓮寺が、石造りの頑丈そうな建築だったことでした。

後でわかったことですが、
浄本上人ご在世中に、お寺が火事で焼けてしまう惨事があり、
そのお寺の再建に、浄本上人は大変ご苦労されたとのことです。

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一見したところ、
本堂内は、伝統的な浄土宗のお寺の雰囲気でした。

現ご住職は、第二十一世の藤本浄彦師。
浄本上人のお孫にあたられる御方。

額の書は、
向かって左が山本空外上人、右が藤本浄本上人の書。

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門をくぐって、本堂の向かって左側に、
藤本浄本上人のお墓はあります。

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浄本上人のお墓の裏側には、
浄本上人のご内室であったテル子氏のお名前が明記されていたのが印象的でした。

浄本上人は、最晩年まで、日本中を布教して回られました。
それを支えられたご内室のご理解とご協力があってこそだと思われます。

弁栄聖者も、直弟子方のご内室へ、
感謝とご苦労をねぎらわれたお手紙を幾つも差し出されていました。


【藤本浄本上人】(1879年~1971年西帰 仁寿 93歳)
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(法名 信蓮社寂誉上人向阿専念浄本大和尚)

弁榮聖者のご遷化後に、
聖者と出逢われたことを人生最大の宝として、感謝の念を胸中に、
御一生を東西奔走された直弟子方は、
意外にも、現世での聖者とのご縁は大変短いように思われます。

浄本上人は、一年と数か月ほどです。
弁栄聖者の影響力が甚大さの証左かと思われます。

◎【弁栄聖者の俤(おもかげ)」(藤本浄本上人談)】

(弁栄聖者の浄本上人へのご教示)
○「お説教などで教壇に立っても
一々その用意などはしてゆかぬ。
如来様が真正面に在してチャンとご指示下さるから


○「光明主義は善導法然の真意を現したものである」
※ 藤本浄本上人は、
内証の円満し給へる(弁栄)上人は、定めて三昧境中に、高祖や宗祖に直参して仰せられたことと思います」と。
 笹本戒浄上人は、
最晩年に三身四智の仏眼を体得され、そのご境界を外部に漏らされることなく御遷化された善導大師と法然上人。真意とは、その最晩年におけるご境界について」と。

(浄本上人)「お浄土はどのように拝めますか
(弁栄聖者)「肉の目を開くと娑婆が見えますが、
お念仏するとみ仏の相(すがた)が拝まれる。
その相約一丈余り、それに沿って荘厳が拝まれる


(浄本上人)「(弁栄上人が前もって送って下さった三昧仏様の開眼供養をして下さい
(弁栄聖者)「私は絵かきのように想像して書いたのではない。
事実在す如来様をそのまま画いたのだから開眼の必要はない
※ 杉田善孝上人のご教示によるものですが、
お別時で三昧仏様が必要になり、ある方が、浄本上人にお借りにうかがった時のこと。
浄本上人は、弁栄聖者直筆の三昧仏様が、しばしの間もお手元から離れてしまわれるを大変寂しがられ、
目に涙を浮かべられながらも、許可されました。
その浄本上人の三昧仏様へのご心情を別時参加者に伝わり、その別時は大変身の引き締まったものとなり、
二度と、浄本上人から三昧仏様をお借りすることはなかったとのこと。

(浄本上人)「十二光の説法のより処(すなわち見込み)は何処ですか」
弁栄聖者は、それを示している本(それは真言宗関係の御経である)を教えてくださったが、その本の名は失念されたとのこと。

以上、 参考文献は、『阿弥陀佛の信仰 藤本淨本遺文集 上』。


その他、浄本上人に関する逸話を少々。

○弁栄聖者にお逢いしたばかりの宗乗学者の浄本上人がご説法される前に、
聖者にご随行されていた聖者直弟子の佐々木為興上人がご説法される際に、
佐々木さん、やわらかにお説きなさい。」との聖者からのご注意。

○浄土宗乗の学者でもあり、法然上人への篤き信も深かった浄本上人でしたが、
当麻曼荼羅の権威でもあったようです。
一方、弁栄聖者の直弟子であり、聖者の御遺稿を編纂された田中木叉上人は、
これからは、お浄土は、四大智慧(無辺光)で説かねばならない」とご教示されていたそうです。

○筑後善導寺第六十五世の藤堂俊章上人は、お若い頃から、
笹本戒浄上人をとし、藤本浄本上人をとして慕われていたそうです。

○浄本上人ともご縁の深かった長野県鉢伏山お別時の導師も長年務められました。
長野県松本光明会の生み育ての親多田助一郎氏が整備された聖地の一つ。
浄本上人は椎尾弁匡博士とも親交があり、そこに椎尾博士の碑も建っています。
残念ながら、鉢伏山お別時は現在実施されていません。

この項目の最後は、杉田善孝上人のご教示によるもの。

弁栄聖者直弟子の系譜(光明主義の受け取り方)を大別すると、
「安心起行(只信口称念仏)派」
「起行の用心(憶念口称念仏、見仏)派」に分けることができる。
前者の代表格は藤本浄本上人であり、
後者の代表格は笹本戒浄上人といえる。
聖堂(杉田上人主管)は、後者である。
しかし、浄本上人は、生涯一貫して聖堂を擁護してくださった
その御恩を我々は決して忘れてはならない

藤本浄本上人の御人徳が偲ばれる逸話として、是非記しておきたかったことでした。


最後に、
「仰ぎ惟れば内証甚深く外用亦広大に、
全分度生の無我の力が
無作の精進に顕れ給ふ弁栄聖者の御一生は、
如来光明のさながらの反映に在せば、
誰か大慈悲の霊応を仰がざらむ。
誰か光明の摂化を信ぜざらむ。」
(田中木叉上人作「弁栄聖者略伝」)


まさにこれこそ、
藤本浄本上人の御生涯にわたる”弁栄聖者へ篤き信”の信仰告白。


【久賀 阿弥陀寺】

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大島にある「久賀 阿弥陀寺」。

数世代前の住職 松尾真善師の弁栄聖者の逸話も是非ご紹介したかったもの。

松尾真善師とは、
弁栄聖者の朝鮮布教時に、聖者のご説法の通訳にあたられた御方。

以下は、笹本戒浄上人「しのび草」よりの引用。

「これは私が松尾真善上人から直接承った事でありますが、
弁栄上人が朝鮮満州を御巡教中にこういう事がありました。
当時松尾上人は京城の京城学堂という学校で半島人子弟の教養に携わっておられましたが、
一日弁栄上人に講演をお願い致し松尾上人自ら通訳の任に当たることになりました。
御講演の始まるに先立って松尾さんは弁栄上人にお願い致しました。
『通訳という事は大変難しいものでありますから、
なにとぞ御講演を少しずつ区切って頂きとうございます。』と。
然るに弁栄上人の講演は、前もってお願いしたにもかかわらず、
のべつ幕なし、だらだらと、何処が頭やら尻尾やら容易に区切って下さらない
ーこれは、松尾さんが私にお話下さった時の言葉をそのまま申したのでありますー
そのため講演の要旨を箇条書きにして覚えているつもりでも
つい、大切な箇所を一つ二つ通訳し洩らしてしまいます。
すると続く御講演のまっ最初には、必ずその洩らした点を繰り返されました。
初めのうち、二度三度はさほどにも思っていなかった松尾さんも、
講演の続きを初められる度ごとに必ず今の通訳漏れの箇所の補いをされるので、
ついにはその度ごとにゾクゾクッと背に冷水を浴びる思いがしたと申します。
私が考えますのに、弁栄上人は朝鮮語をご存じなかったものと思われます。
然るに上人が、今申したように松尾さんの通訳漏れの箇所を一々補足せられたのは、
松尾さんの通訳した講演の言葉を聞いて不足を補われたのではなく、
松尾さんの念頭に浮かび来たり、浮かび去る一切のものを
上人はちゃんと直観しておいでになったという証拠
になります。
これは先ほどのパーラヤナに載っている釈尊の御内観の力と同じく
人が心の中に思うような事に至るまでのいっさいを知ろしめす
大円鏡智、妙観察智の御働きであります。」

戒浄上人のこのご記述を裏付ける参考資料があります。

「松尾は,1912年5月(※補足 閉域学堂の)校長となり,その後も長期にわたって在職した。
1921年当時の記録に,
現校長松尾真善は明治三十七年の夏に同校の教務主任として就任し,
四十五年の五月より校長となったので既に十数年の間子弟の教導に努め
」云々とある。」
(稲葉 継雄「浄土宗の旧韓国における教育活動 : ー日本語教育を中心としてー」
(『雑誌名文藝言語研究. 言語篇 巻16 67-77頁 1989-08発行))

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2017-05-28

山口県大島「西蓮寺 第十九世住職」 全国光明会連合上首 藤本浄本上人と弁栄聖者とのご邂逅 


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大正8年10月
西蓮寺 第十九世住職 藤本浄本上人は、
山口県周防大島の御自坊に、
弁栄聖者を迎えられ、
初老記念法会(当時40歳、42歳とも)を開催されました。

当時、藤本浄本上人は、宗乗学者として名を成していましたが、
僧侶としての在り方に大変悩まれていました。

椎尾弁匡博士、中島観秀師など、
その当時、浄土宗内で周知の御方を招かれ御法話を聞かれていましたが、
どうしてもしっくりいかず、
新潟県長岡 法蔵寺の浅井法順上人から、
かねてから噂を耳にされており、弁栄聖者の御法話を聴聞する勝縁に恵まれました。

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田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』
にも記されていますが、

山陽本線大畠駅のプラットホームで、
浄本上人は、弁栄聖者をお待ちしていました。

浄本上人は、聖者と面識はなかったのですが、
汽車から降りてこられた一人の僧侶をご覧になり、
この方が弁栄聖者だとすぐにわかったといいます。

その聖僧の御身より霊気を放ち涼しい、いきいきとした光が、
御身の周囲一間四方に輝いてまし居ました
からでした。

此の聖者の放ちたまう光明を拝するや、
覚えず低頭合掌恭礼し念仏せずには居られず、
其の霊気に触れてより恍惚として酔うよう
になりました。

この浄本上人の逸話は、光明会内ではよく知れているようですが、
この時の状況について、
杉田善孝上人の大変示唆深いご教示があり、
その要旨は以下のとおりです。

「当時、浄本上人は厳密な意味における三昧心は得ておられなかったが、
内的感覚としての心の眼は開けておられた
心の眼開けた人にとっては、聖者はただの平凡僧でなく、
光明赫灼として拝むことができました。
この時の光明は聖者の業光であり、
いわゆるオーラで、(心光ではなく)色光
キリスト教で描かれる金冠、後光などは、宗教美術家の想像の産物ではなく、
心の眼開ければ、業光を拝むことができます


浄本上人は、聖者に相見以前に既に、
『凝(じ)っと自然を見ていると自然と一つに融け合う気分になる』
という所までいっていたが、
これは三昧の準備的入門の前段階に相当するもので、
浄本上人が聖者に初対面の時、直ちに業光を拝まれたのはそのためです。」

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(藤本浄本上人 1879年~1971年往生 世寿 92歳)


知恩院門主 故 山下現有上人に初対面の時、
同門主 故 藤井実応上人も山下上人の業光を拝された
と浄本上人は語られています。

山下現有上人が知恩院門主で在られた時と記憶していますが、
弁栄聖者は、知恩院勢至堂での高等講習会の講師として、
あの「宗祖の皮髄」を御講義されました。

当時、高僧として知られていた山下現有上人もまた、
見仏しておられていたようですので、
弁栄聖者の御境涯に御共鳴されていたと思われます。

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↑ 弁栄聖者が西蓮寺に招かれた、大正8年当時、
島へは、連絡船で渡られました。

↓ 対岸からの船着き場の眺め。

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大島大橋が建設されたのは、
弁栄聖者のご遷化後、およそ60年後の1976年(昭和51年)。

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たまたま、晴れ、曇り、雨の天気模様を経験しましたが、
特に晴れ間の景色は、
風光明媚と形容すべき素晴らしいものでした。

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連絡船を待つ間の、
藤本浄本上人と弁栄聖者との会話も、とても示唆に富んでいます。

浄本上人「極楽はきれいでしょうね」
弁栄聖者「ハイ、きれいです。」

風光明媚な景色をご覧になりながら、

浄本上人「あそこらは極楽に見えるんでしょうね」
弁栄聖者「いえ、やはり島に見えます。」

蛇足で申し訳ございませんが、

聖者は、”比喩として”「極楽はきれいです」と言われたのではありません。

五眼の内、
肉眼で、自然界の風光明媚な景色を、
仏眼で、心霊界の麗しい極楽をご覧になっておられていたのです。

この風光明媚な景色をご覧になりながら、
浄本上人が弁栄聖者に、「極楽」と喩えられて表現されたのは、
わかるような気がします。

この地を訪れ、この素晴らしい景色に見とれあかず眺め、
この場所をはなれがたかったことが思い出されます。

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後に、光明修養会の上首を長年務められ、
”徹底した念仏行者、宗教哲学者、語学・書の達人”
でもあられた山本空外上人が、
人生にいきずまり、救いを求め、藤本浄本上人の元を訪れ、
念仏によって救われたのが、此処、周防大島の西蓮寺。
大正10年夏、
山本幹夫師(空外上人の俗名)18歳、浄本上人42歳の時でした。

まことに惜しいことに、
空外上人は、弁栄聖者にお逢いすることができませんでした。
しかし、このことは、
今後の光明会、光明主義の発展、展開にとって、
また、光明会、光明主義の在り方、それらの特徴を再考するにあたり、
”如来様の御計らい”という深意があるような気がしてなりません。

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弁栄聖者の直弟子には、
お上人方によってそれぞれに特徴があるように思われます。

藤本浄本上人は、
浄土宗勧学に叙任せられる程の宗乗学者でもありました。

浄本上人の聖者観は、生涯一貫して、

「法然上人の御教え(本願念仏)を現代に生かされた御教え(光明摂化による現当二世の光明生活の重視)を説かれた聖」

であったかと思われます。

浄本上人は、全国光明会連合の上首を長年務められましたので、
必然的に、浄土宗と光明主義との関係への言及が少なからずあり、
浄本上人のご著書を紐解くことは光明主義研究にとって不可欠だと思われます。

浄土宗勧学に叙任されるほどの宗乗学者であられた浄本上人が、
弁栄聖者を終生尊崇されたのが、

”念仏による霊化の結晶”ともいうべき”聖者の御霊格”

であられたという点は、

「安心起行(只信口称念仏)重視派」、
「起行の用心(憶念口称念仏)・見仏重視派」
の如何を問わず、

光明会(光明主義)に縁のある者にとって、
傾聴すべき、常に立ち返るべき基点
であるように思われます。

「見仏の要は、一切身意を仏化するにあり。」(弁栄聖者)

”弁栄聖者(光明主義)の神髄”はこの点に尽きる
といっても過言ではないように思われます。

誤解を恐れずに表現しますと、

「見仏とは、
”目的にして手段、手段にして目的”
”目的即手段、手段即目的”」


テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2017-03-20

山口県山口市古熊「善生寺」、弁栄聖者愛弟子、熊野好月(旧姓徳永あい子)女史

【山口市古熊 善生寺】

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前回は、全国光明会連合会 二代目総監 熊野宗純上人
について、記事にしました。

今回は、熊野上人のご令室、熊野好月(旧姓徳永あい子)女史。

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【熊野好月女史(行年八十歳 ~1975)】

弁栄聖者を「現代の釈尊」と仰がれておられた中川弘道上人とのご縁によって、
好月女史は、弁栄聖者にお逢いできました。

弁栄聖者五十回忌の際に結成された全国婦人部。
その初代会長が、好月女史。
弁栄聖者は、信仰教育上におけるご婦人の役割を大変重要視されていたようです。

二代目が、足利千枝女史。

また、好月女史は、岡潔博士の妻、みち氏のよき相談相手でもありました。


弁栄聖者の最晩年に聖者に御随行された熊野好月女史には、
幾つかの著作がありますが、
聖者の御教化の在り方、聖者の御人格を知るのに欠かすことのできない貴重な逸話が、
記されています。

示唆に富む逸話を幾つかご紹介したいと思います。

「世間の人は水の上を歩いたとか、お酒にかえたとか、手にふれて病気をなおしたとか、
こういう事を大へんな奇蹟として驚くがそれは大した事ではない、
それよりも悪の心を善心に立かえらせる。これ程大きな奇蹟は外にない。
と常々仰っていらっしゃいました。」


「お上人様を特別のお方、不思議なお方と見られておるようでした。
実際、常人のなし得ない事も何でもないもののように仕てしまわれます。
時々は両手に筆をもち同時に異なった歌を書かれたり、
お米ひと粒に般若心経一巻を書かれたり、
それは人を驚かせる為でなく、如来様のお慈悲を知らせたさに、
口でいうだけではよりつかないので
何とかしてとのやるせない心から方便としてお用いになった。


と、好月女史は、『さえらぬ光に遇いて』に記されていますが、
弁栄聖者の奇蹟に対する、この両面からの理解は、実に的確なご指摘だと思います。


「宗教家は奇蹟を現わさなくてはつまりません。
釈尊のお弟子でも多くの人が釈尊の教理に服して入道したのではなく、
釈尊の奇蹟に驚嘆してお弟子になっております」。


また「予言ができるとか、病気がなおるとか、
そんな奇蹟がなんの価値がありましょう。
凡夫が仏になる。これほど大きい奇蹟がまたとありましょう」。


と、 田中木叉上人も『日本の光(弁栄上人伝)』に、併記されています。


熊野好月女史が、弁栄聖者にご随行の汽車の中でのこと。

「歳は八十位の老爺。
眼が見えぬらしく、ただれつぶれ、
手の甲など鶏の脚のような色で見るも気味の悪い汚いなり。」

弁栄上人をはじめ私達が色々と世話をしていると、
乗客の一人がソッと女史に、

「あの人は梅毒の第三期で伝染するから気をつけなさい」とささやいた。

好月女史は、気が気ではなく、そのことを告げても、
弁栄上人は尚平気で何くれとなく世話をやいておられた。

その世話をやいてくれたことに対する謝意を込めて、
その老爺は、懐から餡パンを取出して、
その汚い手でわしづかみしたパンを弁栄上人と私達に差し上げた。

((注)時期は、大正時代のこと、
弁栄聖者には当時の医学的知識もおありになったようですが、
感染経路等について現在のように解明なされておらず、
ペニシリン普及前のこと。)

その老爺の側に座っておられた上人は、
相変わらず何の屈託もなさそうに小さいいびきをかいて寝ておられたが、

私は、そのパンの処理に、ほとほと困り果て、
とうとう、蟻や魚の餌食になって呉れるように念じつつ、
洗面所の窓から、投げてしまった。

明け方近くになって、

例の老爺も起き、懐から紙袋の口を開いて例のパンを取出して食べ始めた時、

それをご覧になっていた弁栄上人は、どこにしまっておられたのか、
昨夜貰ったパンをいとも敏速にそっと彼の懐にある紙袋の中に入れられた。


もちろん、眼の見えぬ彼は何も知らずパンをムシャムシャと食べていた。

そのさりげない所作を見られた好月女史は、
自分の行為を大変恥じ、後悔の念で、涙ぐんでいた時に、
弁栄上人が声をかけられました。

「時機を待つのですね。」

後年、好月女史は、この時のことを回想され、

「パンはおじいさんの心もきずつけず、袋にかえったのが一番生きるのです。
お上人様はふれる事もふれるものも大事も些事も、
丁度水が流れるように任運無作に事をさばかれ、
そのものは自由に生かされ、いのちを吹きこまれ、
何一つの無駄もありません。
事毎にねばりつき考えぬいた挙句が人をきずつけ物を殺し勝ちであります」
と。


田中木叉上人の熊野好月女史への御教化も、
とても示唆に富むと思われます。

「自分のようなものは・・・」と後悔ばかりしている好月女史に対し、

「あなたはいつも自分の悪い所ばかり見つめて
背負いきれない重荷と感じている、
それは卑下しているようで自力をたのみすぎている、
なぜ南無と如来様に背負い切れぬその荷(業)をささげて仕舞わないのですか、
自分で出来る事や自分の長所はお救いを求める必要はない、
どうにもならぬ点こそ、そのすべてをさし上げおあづけして、
如来様に清めていただく、ここが一番大切なところです。」


木叉上人は、
「本願ぼこり」はもちろん「凡夫ぼこり」も戒めておられます。

「凡夫ぼこり」とは、「凡夫を看板にしてなまけることの言い訳」とも。

「私のようなものは、とても・・・というのは、
如来様に対する不遜な態度である。

それは、謙遜ではなく、如来様の御力を見くびっているのだ」
と。

木叉上人は、、
「私ではなく、如来様に目を向けるように」
と、いつも注意されていたようです。

とてもありがたい木叉上人の御説法です。


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【清涼院弁誉好月普照大禅定尼】


【山口サビエル記念聖堂】

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山口の大内氏は、
文化を尊重された方としても知られていますが、
日本最初の教会があったこともとても興味深いです。

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Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

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