FC2ブログ

2018-12-10

明恵上人と弁栄聖者に通底すること


2018120200-3.jpg
「明恵上人樹上座禅像」

明恵(みょうえ)上人の名は記憶に無いという方も、
この写真には見覚えのある方もいらっしゃると思います。


紀州和歌山。
弁栄聖者との関連で云えば、
徳本行者 が先ずは思い付きますが、
明恵上人も忘れることはできません。

明恵上人(1173年~1232年世寿60歳)は、
鎌倉時代に活躍された「華厳宗中興の祖」
として一般には知られています。
『摧邪輪(ざいじゃりん)』等で法然上人を批判され、
また、『夢記』を生涯書き記され、
「清僧」
としても知られています。

〇 白洲正子著『明恵上人』
〇 河合隼雄著『明恵 夢を生きる』
によって明恵上人に興味を持たれた方も多いかもしれません。


紀州和歌山有田市周辺には、
【明恵紀州遺跡卒塔婆】、別称「明恵上人紀州八所遺跡」があります。
明恵上人が没した後、
弟子の喜海が上人の修行した草庵跡7ヵ所と誕生の地に木製の塔婆を建立。

「明恵上人紀州八所遺跡」は、
目立たぬわかりにくい処にひっそりとあることが多く、
土地勘のある者でないと、なかなか辿り着けないことが想定され、
大事な時間を有意義に活用するためにも、
明恵上人関連の本、論文、ブログ(の記事、写真)、地図等で、
事前にしっかりと、確認し、計画を立ててから、
参拝されることを是非お勧めいたします。


今回は、明恵上人ゆかりの遺跡を訪れる機会を得ました。
時代がかなり隔たっていますが、
現地に来なければ、感じることのできない何かに触れた気がし、
明恵上人をもっと知りたいと思うようになりました。


〇 【吉原卒塔婆】

2018120211.jpg 2018120212.jpg

2018120213.jpg

平安時代後期、 1173年(承安3)に誕生した地に立つ卒塔婆。
紀州八所遺跡の一つ。
紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現在の有田郡有田川町歓喜寺字中越179)。

2018120212-1.jpg

【上人胎衣塚】
明恵上人誕生地の西側に隣接。
上人が生まれた時の胎盤を埋めたとのこと。

2018120214.jpg 2018120215.jpg


【歓喜寺】

2018120216.jpg 2018120217.jpg

明恵上人吉原遺跡に近接。上人ゆかりの寺院。
平安時代 986年(寛和二年)恵心僧都源信が創建したと伝える。
鎌倉時代中期 1249年(建長元年)
明恵上人の弟子 喜海が湯浅宗氏の協力を得て再興。

2018120218.jpg


【紀州和歌山 湯浅】

2018120200-1.jpg

明恵上人とゆかりの深い紀州和歌山湯浅は、
醤油で栄えた地として全国的に知られていますが、
また、熊野への街道が開けていた地でもありました。

2018120200-2.jpg


【施無畏寺】

2018120201.jpg 2018120202-1.jpg

和歌山県有田郡湯浅町栖原1465。 
JR 湯浅駅から、3キロ程。
駅近くにレンタル自転車がありますが、
結構きつい坂道もあるため、車でないと厳しいかもしれません。

明恵上人開創。
上人が修業をした白上山の中腹にあり、
境内からは、湯浅湾に浮かぶ明恵上人ゆかりの刈藻島、鷹島が見えます。
春には桜の名所としても有名なお寺。

2018120203.jpg

「施無畏寺」を左手に見ながら、数分程登ります。

2018120208.jpg

2018120209.jpg

明恵上人は、ここから更に登った、
白上山にこもり、修行をされました。

2018120210.jpg

〇 【西白上卒塔婆】
和歌山県有田郡湯浅町栖原。
西白上山頂上にあり、
1195年(建久六年)、23歳の時、
草庵を建て厳しい修行をした処。

〇 【東白上卒塔婆】
和歌山県有田郡湯浅町栖原。
明恵上人は、西白上が騒がしいため東白上に移り、
覚悟を新たにし、右の耳を自ら切った。
その翌日、眼前に文殊菩薩が顕現し、霊感を得

明恵上人は、武士の御子息ということもありましょうか、
とても激しく、潔癖な面があったようにも思われます。


この項目に関連し、ネットでも読むことができる示唆深い、
「参考文献」としては、
『明恵をめぐる奇瑞と信仰の磁場
― 白上峰の文殊顕現と春日明神の託宣 ―
平野 多恵』



2018120200-4.jpg
【仏眼仏母像】

明恵上人がとても大切にされた「念持仏」


明恵上人は、この事と関連した宗教体験時の心境を記録に残しています。

「虚空カガヤクコトカギリナシ、ソノ光明ノ中二、
大聖マナアタリ現ジタマフ、歓喜勝計スベカラズ」。


この時の宗教体験は、
明恵上人に大変な影響を及ぼしたらしく、

「皆に説法などできるのも、あの文殊顕現を見たおかげである」
と弟子たちに、この時の事を語られていたといわれています。


「仏を見る事(見仏)」が、何故それほど重要なのか
と疑念を抱かれれる方もいらっしゃるかもしれません。

弁栄聖者は、
「見仏三昧」を生涯強調
されました。

三昧定中における「見仏」においては、
「見る」ことが、五感の一機能である「視覚」のみならず他の感覚をも包含。
また同時に、
「大宇宙全一の大心霊態は、
大智慧態にして妙色相好身。
色心不二の大心霊態」
故に、
「見仏三昧」の宗教体験は、智慧の啓けが必然。

弁栄聖者は、
御自身の三昧体験による自内証の上から、
『華厳経』、『大乗起信論』等に基づき、各書に説かれています。


「道場に入る毎に生身の仏の御坐と思て、
正く生身の如来の御前に望む思を成べし。
木に刻み絵に書たるを生身と思へば、
やがて生身にて有なりと云々。」
(『栂尾明恵上人遺訓(『阿留辺畿夜宇和 あるべきようわ)』)


「彼の十住の菩薩、
如来の微妙の色身を愛して、菩提心を発(おこ)す。
これ即ち、親愛の菩提心なり。
況や、軽毛退位の凡夫有徳の人に於て、
愛心無きは、即ち法器に非ざる人なり」

とは、明恵上人の大変示唆に富む御教示。


明恵上人の『夢記』の第一人者の奥田勲氏が、
『明恵 遍歴と夢』において、
明恵上人の夢の特徴を分析されています。

ユング派の「能動的想像」を連想します。
芸術家の創造的作品とも共通するもので、
作品の自律性と作者とのある種の緊張関係、
多量の心的エネルギーが必要である点が、
空想とは決定的な相違点。

また、
「夢が個人のものではなく、集団の共有物」、
「夢の共有」という興味深い観点。


「四十歳代の明恵に弟子として近侍した隆弁は、
明恵は常に、坐したまま熟睡するのを見たという。
その時、印を結んだ手を右脇に当てて眼をふさいで眠りに入り、
それによって未来のことを知り、
他人の心中を透視することができた
という。」

と、同書の「夢を見る方法」において、
大変興味深く、貴重な記録が記されています。


「(弁栄)聖者はお念仏しておられる時に
よく木魚のバイが止まっていることがある。
・・・
私どもはそれが眠っておられるのではないかと思っていた。
・・・それは三昧に入ったことのない者には
眠っておられるようにみえる」

(鈴木憲栄著『ミオヤとのめぐり会い』)

笹本戒浄上人にも似たような逸話が、
身内である御子息の戒浄上人の念仏のご様子の描写にもあることから、

"明恵上人の眠り"とは、
三昧定中の御様子
と推察します。


明恵上人は、
「釈尊」を慈父、「仏眼仏母像」を慈母の如くに憶い、
三昧修行をされました。

この「釈尊」及び「人格的如来身」への一途な思(恋)慕は、
弁栄聖者とも共通し、注目すべき特徴であり、
明恵上人と弁栄聖者が「石化」しなかった理由とも思われます。

明恵上人は、
或る時期から「仏光観」に基づく修行法をされましたが、
この点に関しては、後ほど触れたいと思います。


また、
生涯禅定修行に精進された明恵上人には、
不可思議な力(法力)、いわゆる「超能力」がありました。

そんな上人を「権者」と、
人々が言っていると弟子たちが伝えると、

明恵上人は、慨嘆して次のように言われたと伝えられています。

「あら拙(つたな)の者共の云ひ事や。・・・
我は加様に成らんと思う事は努々(ゆめゆめ)無けれども、
法の如く行ずる事の年積るままに、
自然と知れずして具足せられたる也。

汝どもが水の欲しければ水を汲みて飲み、
火にあたりたければ火のそばへよるも同じ事也」。

弁栄聖者にも似た様な逸話が多数残っており、
その種の事は日常茶飯事
であったようです。

弁栄聖者が川べりを歩かれていた時、
急に立ち止まり、念仏をされたことがありました。

侍者がその理由を聞くと、
「水底に死体がある」と言われた。

村人の話しによると、水死体が上がらず困っていたので、
半信半疑でその場所を探したところ、
水死体が見つか
りました。
そのことを聖者にお伝えすると、
「そうですか」と特に気にされていないご様子でありました。


「五眼(※)明了に開き来て
始めて円満なる仏教を信ずることを得べし。」(弁栄聖者)


※ 五眼とは、肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼のこと。
仏教では古来より、人間に開発可能な一切の認識能力を五眼に分けて説く。
(参考文献:「成所作智」『弁栄聖者光明体系 無辺光』)


この明恵上人と弁栄聖者の逸話に通底する大切な御訓示は、
時に世間を騒がす"超・能力"と云われる現象に対するあるべき態度です。

"その種の能力は、修行により、自ずと具足されるものであり、
その能力それ自体には、真の価値は無い。
真に価値があり目指すべきは、
その法力を生かす大智慧と大慈悲を兼備した霊格"


真に尊崇出来得る尊者方に共通した顕著な特徴であり、
宗教現象と向き合う際の、極めて大切な心構えだと思われます。

なお、この「超・能力」に対する姿勢は、
とても重要なことだと思われますので、
ユング派の"共時性(シンクロニシティ)"・"布置(コンステレーション)"
の概念を通して、後ほど改めて考察したいと思います。


明恵上人は御臨終の間際に、
「我、戒ヲ護ル中ヨリ来ル」と告げられたといいます。

明恵上人が批判された法然上人は、
三昧発得された、明恵上人同様「生涯不犯の清僧」でもありました。

法然上人にとっては、
「戒ヲ護ルコト」が念仏三昧の中で、自ずと成就されていらっしゃいました。

「見仏の要は、一切心意を仏化するにあり。」
とは、弁栄聖者の御教示であり、

「見仏」による功徳には、戒体発得の力用(働き)もあります。

このことは、
法然上人の『御臨終日記』に、

法然上人が、御臨終時に、
「慈覚大師の九条袈裟を着し」

と、法然上人が念仏三昧発得に伴う霊化により、
「戒体発得」されていた
ことが、
象徴的に見事に記されています。

『御臨終日記』は、
(見仏)三昧発得による功徳とは何か
を具に知り得る大変貴重な資料
ともなっています。

なお、
「戒律」に関して、
明恵上人の示唆に富む逸話があります。

「上人常に語り給ひしは、
「幼少の時より、貴き僧に成らん事を恋ひ願ひしかば、
一生不犯にて清浄ならん事を思ひき。

然るに、何なる魔の託するにか有りけん、
度々に既に婬事を犯さんとする便りありしに、
不思議の妨ありて、
打ちさまし打ちさましして、

終に志を遂げざりき」と云々。」
(平泉洸全訳注『明惠上人伝記』)

ここで、留意すべきは、

"戒律を守ることができる"必須条件として、
"克己心の強さ(自力)"と、
"不思議の妨げありて(他力)"
という自力と他力の両面からの表記をされている点です。


明恵上人は、
アッシジの聖フランチェスコと比較されることがあります。
1986(昭和61)年
イタリアアッシジの聖フランシスコ教会とブラザーチャーチの約束を結ば
れました。


なお、
今回は、明恵上人の法然上人批判書である『摧邪輪(ざいじゃりん)』については、
深入りしませんが、
河合隼雄著『明恵 夢を生きる』に、とても気になる箇所がありますので、
その個所を是非引用しておきたいと思います。

明恵上人『夢記』で、建永元年(1206年)11月とされている夢。

「一、一つの檜皮屋(ひはだや)有り。
一人の長高(たけたか)き僧有り。
白衣なる心地す。笠を著たり。
心に思はく、法然房也。
我が仏事の導師すべし。
其の聴聞の為に來られ、我が房の中に入りて、饗応して二三日を過す。
明日の仏事を、使者を以て白さく。
「日来、仏事結構之間に、忩々(そうそう)に走り過ぎ了んぬ。
今夜見参加に入らむと欲す。
明日は時畢(をは)りなば仏事有るべし。
其の以前は又、忩々為(た)るべき」由をと云々。」

「一、南都の修学者筑前房等、侍従房に來る。
此の破邪見章を見せしむとて、又、上師、之を御覧ず。
心に思はく、よひに御覧ずべき由を申しき。
之に依りて御覧あり。
其の御前に人ありて、此の書を隨喜して哭すと云々。
上師云はく、「えもいはず貴き書也」と云々。」

この夢記の執筆の時期に、
河合氏ならではの関心を寄せています。

法然上人著『選択(本願念仏)集』の執筆は、
建久9年(1198年)、上人66歳の時に、
九条兼実の懇請により、
執筆されたとされるもの。
ところが、この書は、
誤解を招きかねない内容を含むものであるため、
最末尾に、

「庶幾こいねがわくは一たび高覧を経てのち、
壁底に埋めて窓前に遺すこと莫れ。
恐くは破法の人をして、悪道に堕せしめんことを」

と一部の者にしか書写を許されなかった書でした。

勿論、
このような思想が、突然出来あがるはずのものではなく、
しばらく前から、法然上人の言動等には、顕われていたはず。

明恵上人の『摧邪輪』は、
建暦2年(1212年)、
法然上人の御遷化(80歳)後に、書かれもの。
この書も、これほど短期間で書き上げられたかは疑問が残ります。

もしも、この夢が、建永元年(1206年)11月であれば、
明恵上人は、『選択集』を読んでおらず、
明恵上人は当時、法然上人を尊敬されていたので、
自分の導師に法然上人を、とはそれほど不自然ではありません。

ところが、
「破邪見章」を『摧邪輪』とすると、
前の夢も『摧邪輪』執筆後となります。
明恵上人の『夢記』には、
「記事に錯乱や順逆が考えられる」
と云われています。

とすると、
この夢の解釈は大いに変わり、
河合隼雄氏は、

「意識的には明恵は法然を烈しく非難しつつ、
無意識には法然を評価していたことになってくる」。


また、夢の中の、
「我が仏事の導師すべし」は、
原文では、
「我、仏事の導師すべし」とも読め、
後者とすると、明恵上人が導師となる。

真に興味深い仮説を提起されています。

なお、
「我、仏事の導師すべし」を、
明恵上人が法然上人の導師となります。

明恵上人が、
法然上人が『選択集』に込められた深意を受け取られ、
その深意を受け取られた夢の明恵上人(=最晩年の円熟された法然上人の思想等)が、
『選択集』執筆時の法然上人の導師となっている。
と解釈することが許されれば、
また、とても意味深い夢ともなります。


もう一点、
次の夢は、河合氏も注目されていますが、

明恵上人の『冥感伝』
承久二年八月の夢に、
「初夜の禅中に、
身心凝然として、存るが如く、亡きが如し。
・・・予、杖に懸りて速かに兜率天に至り、弥勒の楼閣の地上に着す。
その間、身清涼として心適悦す。」

三昧宗教体験の功徳が、
心のみなず身体性へも及ぶ
ことは、注目すべき点。

ここでも留意すべきは、
明恵上人にとっては、あるいはこの時代の常識では、
「夢と三昧定中との境界が混然一体」となっている点。


2018120205.jpg 2018120207.jpg

2018120204-01.jpg

2018120204.jpg

2018120204-02.jpg

西白上笠塔婆の近くから、
湯浅湾に浮かぶ鷹島と苅藻(かるも)島を眺められた
と思いますが、
お詣りできなかったため、「施無畏寺」付近から。

明恵上人が手紙を出された、島。

明恵上人は、
釈尊を慕う気持ちが殊の外強く、
度々、鷹島や苅藻島に渡り、天竺(インド)に向い礼拝されていたようです。

鷹島では、小石を拾い生涯大切にし、
「われさりて のちにしのばむ 人なくば
とびてかれね たかしまの石」(明恵上人)


川端康成氏が、
ノーベル文学賞授賞記念講演、
「美しい日本の私―その序説」で引用されたことでも知られる
「月の歌人」とも称される明恵上人作の、

「あかあかや あかあかあかや あかあかや
あかあかあかや あかあかや月」


「仏光三昧」定中のご道詠かと。

2018120206-01.jpg


〇 【筏立卒塔婆】

2018120219.jpg 2018120220.jpg

和歌山県有田郡有田川町歓喜寺字西原1103。
『華厳経』 修行の地。

2018120222.jpg

明恵上人、26歳~29歳、
1198年(建久九年)から三年間修行を重ねた所で、
ここで「唯心観行式」や「随意別願文」などを著す。
笠塔婆は破損の為、1802年(享和二年)に再建。

遺跡の西側(向って左)の平地は御厨平と呼ばれ、
華厳院建久寺があったと伝えられています。

2018120221.jpg


〇 【糸野卒塔婆】

2018120224.jpg

2018120223.jpg 2018120225.jpg

2018120226.jpg

和歌山県有田郡有田川町糸野字上人谷650-1。

明恵上人、29歳~30歳。
1202年(建仁二年)伯父 上覚上人から伝法灌頂受けた所に立つ卒塔婆。
紀州八所遺跡の一つ。
伯父の地頭職 湯浅宗光の招きにより、
ここ糸野 成道寺背後の草庵に移住。

2018120227.jpg


〇 【星尾卒塔婆】

2018120238.jpg 2018120240.jpg

和歌山県有田市星尾700和歌山県有田市星尾。

目印は、
「天台宗 星尾山 神光寺」(和歌山県有田市星尾700)へ行く少し手前の小高い処にあり。

2018120243.jpg

明恵上人が修行の為、草庵を結んだ跡で、
紀州八所遺跡の一つ。

1203年(建仁三年) 上人 31歳の時、
ここで春日大明神の託宣を受けました。
春日大明神の御託宣によりインドへ渡ることを思いとどまりました。
刻銘は、明恵上人の高弟 喜海が1236年(嘉禎二年)に建立した
木造卒塔婆の文面がそのまま刻まれています。
明恵上人の弟子の喜海が嘉禎年中に立てた木造卒塔婆が古くなり、
1334年(康永三年)弁迂が勧進し、石造卒塔婆に建替え。

2018120241.jpg

2018120242.jpg

2018120245.jpg 2018120244.jpg


〇 【神谷後峰卒塔婆】

2018120228.jpg 2018120229.jpg

和歌山県有田郡有田川町船坂字聖人793-1。

明恵上人、32歳。

神谷後峰遺跡は山深い所、
細い道路のさらに下、みかん畑の中にあります。

2018120230.jpg

2018120231.jpg

師 文覚の対馬配流に始まる一連の混乱を避ける為、
この地域の古刹 最勝寺の裏山に草庵を建て移住。
ここでは大仏頂法(敬愛・息災・増益の行法)を修す。

この地で、再び、天竺行を計画。

2018120232.jpg


〇 【内崎山卒塔婆】

2018120237.jpg

和歌山県有田郡有田川町井口22-2

明恵上人が、36歳から38歳頃まで修行を行った地とされています。
養母の崎山尼が夫の没後、当地に寺を建て明恵上人を招きました。
明恵上人は、その背後に草庵を建て修行を行いました。

ところが、
明恵上人紀州八所遺跡の中、
この崎山遺跡のみが、卒塔婆の所在が不明となっており、
遺跡の正確な位置が不明とのこと。

現在、法蔵寺の境内に復興された卒塔婆が立っています。

それで、町指定史跡。

2018120234.jpg

2018120235.jpg

2018120236.jpg


※ 特に、今回の参拝にあたり、下記のブログがとても参考になりました。
感謝いたします。
『明恵上人(みょうえしょうにん)紀州遺跡 笠塔婆』


この後、明恵上人の活動の中心は
京都栂尾高山寺に移られました。


先にも触れましが、
明恵上人の宗教性を知るには、
河合隼雄著『明恵 夢を生きる』が特にお勧めです。
ユング心理学をベースにした臨床心理学者であった河合氏の、
明恵上人の行状と明恵上人の夢の記録の解釈が、
とても興味深くかつ示唆にも富んでいます。

河合隼雄氏は、
「ユング心理学」の日本への紹介者として知られています。
現在、カウンセリングに係る資格問題を巡って、
議論の渦中にあるようですが、
日本に心理臨床の精神を根付かせた功労者として、
大方の合意は得ているように思われます。

現在の心理臨床の世界は、
深層心理学的な療法よりも、認知行動療法が主流となりつつあるようです。
河合氏の臨床的英知には依然学ぶべき点は多いですが、
あるいは今後、「思想家 河合隼雄」の面が認識されていくのかもしれません。

「思想家 河合隼雄」に長年注目されている、批評家の若松英輔氏は、
「たましいを旅するひと──河合隼雄」を、
月刊誌『群像』に連載中。


明恵上人は、
河合隼雄氏にとって、日本人としての唯一の師でありました。

河合氏が、明恵上人に関心を深めていかれたのは、
「心理臨床の実践」を通してでした。

何故、「心理臨床の実践」を通してであったのか。

河合氏が心理臨床家であったということは、
面接室という「非日常的な空間」での事象であったことを意味します。
それ故にこそ、
「意識が特別な状態であり続けられた」ことになります。
そのことは、 「特別の意識状態を保ちながら」
「強烈にコミットして、関与した存在であった」ことも意味します。

往々にして、自身に関することは盲点となりますので、
信頼でき、関与しながら観察する他者の存在(視点)が不可欠

河合隼雄氏はユング派ですので、当然「夢分析」も用います。
もちろん、「夢分析」だけではなく、「箱庭療法」等も用いられました。

河合氏は、日常では、冗談を連発し、
おしゃべり好きの方とお見受けしましたが、
心理臨床場面においては、
意外なことに、
極めてストイックで、無口な面もあったようです。
天性の"臨床感覚"にも優れ、
極めて"リアリステイック"な方でもあったように思われます。
"リアリステイック"とは、
現実の真相(深層)を察知する「透見の明」の持ち主。


明恵上人は、「夢記」で知られていますが、
「夢」については、通常、あまり顧みられず軽視されがちです。

少なくとも数週間、出来得れば、数か月間に渡り、
夢を記録し、その夢についてしばらく思い巡らし、
その際に、現実との関連性をも注意深く観察出来れば、


「「夢」は、決して荒唐無稽の出鱈目な産物ではなく、
そこに、意味が有りそうだが、よく分からないことが多い。
また、夢は、夢見ての意識状態、実生活と密接に関連しながらも、
必ずしもそれと一対一対応の関係にあるとは限らず、
そこには多義、多層的な意味がありそうだ。」

ということにおそらく気づかれるでしょう。

また、同時に、
夢の不可解さを抱える困難さを実感し、
明恵上人が、何十年にも渡り「夢記」を記せたこと、
その長期間の継続それ自体に、驚嘆されるかと思われます。


「睡眠」、「夢の意義」は、
現代科学においても今だに定説が無いようです。


「仏は夢を見ない。」

と云われますが、
この言い伝えは、意味深長であり、
「夢とは何か」を考察する際の示唆を感じます。

あるいは、
「夢とは仏へと至る道でもある。」
とも言えるかもしれません。


河合隼雄氏の京都大学の最終講義は、
「布置(コンステレーション)」でした。

「コンステレーションー京都大学最終講義ー」(『こころの最終講義』)に、
真に幸いなことに、その記録が残されています。

河合隼雄著『明恵 夢を生きる』では、まだ遠慮気味であった、
心理臨床上、日常生活上にも、とても重要と思われる、
「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」について、
河合氏の経験と思索の深まりを感じます。

河合氏は、
「共時性(シンクロニシティ)」、「布置(コンステレーション)」の概念の紹介には、
極めて慎重
でありました。

河合氏の特異な特徴として、
鋭敏な"政治的感覚"とも呼ぶべき感覚があるように思われます。
賛否両論はあったようですが、
河合氏は、文化庁長官も務められました。


ご自身の心理臨床実践を通して、
「共時性(シンクロニシティ)」、「布置(コンステレーション)」の現象には、
「主体者と関与者の在り様(関係性)が重要な意味を持つ。」
ことを次第に認識されていかれました。

また、
「布置(コンステレーション)」に関して、
「気配を読み取る」態度、
つまり、「見えないものを感知する力」の重要性を指摘されています。

ここで河合氏が、
「気配」と表現していることに留意したいと思います。


「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」に対する、
河合隼雄氏の姿勢に関して、
是非触れておかねばならぬことがあります。

「コンステレーションー京都大学最終講義ー」
(『こころの最終講義』河合隼雄著)
において、

「「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」は、起こせるのか。」

と、河合氏自身にとって、極めて切実で重要な問いを発しています。

河合氏の師であるA・マイヤー先生の心理療法についての
シュピーゲルマンの論文に、

「マイヤーはその人の自己実現の過程をコンステレートするんだ。
そして、その人が自己実現の過程をコンステレートして自己実現の道を歩む限りにおいて、
その人とともについていくのだ」。

これは、河合氏にとって非常に衝撃でした。

「人間が何かをコンステレートするなんて他動詞として用いることなど
考えられないと思っていたんですね。」


これは、一面とても合理的な思考の持ち主であった河合隼雄氏らしい感想。

河合隼雄氏の心理臨床実践の真骨頂は、
「コンステレート」に関する、
その自動詞と他動詞を巡る真摯な対話の内にこそあった。

これこそ、「思想家 河合隼雄」の誕生の源泉でもあったと推察されます。

後年、河合氏が、
明恵上人と、イスラーム神秘哲学の権威でもあった井筒俊彦氏に導かれて、
『華厳哲学』に特別の関心を深めて行かれたのは、必然でありました。


「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」の現象への関心は、
特定の宗教を信じているか否かを問わず、
「人間を超えた働き」を感知する貴重な契機
また、現世での生活を意義深いものへと深化させる機会
ともなりうるものと思われます。

「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」という現象は、
実は、日常的にありふれた現象、出来事でありながら、
通常は、私たちの意識からこぼれ落ちていることが間々ある
ということなのかもしれません。

ただし、
「共時性(シンクロニシティ)」、布置(コンステレーション)」の読みには、
いわゆる「唯一の正解」はなく、
したがって、浅深の捉え方の差はありえます。
当事者本人に、その意義付けが、
「腑に落ちるといった感触が、一つの重要な手掛かり」
となるかもしれません。

『弁栄聖者御遺稿集 無辺光』で詳述されている
「大円鏡智」・「妙観観智」の如来無差別智の知見が、
有益な手掛かりとなる
ようにも思われます。


河合氏の著作の中から、
この「共時性(シンクロニシティ)、布置(コンステレーション)」に関して、
示唆に富む箇所を若干引用します。

〇 「要するにコンテレーションを見るというのは、
いいときに後ろを見ないとだめなんですね。

・・・心理学者は、後ろからいろんなのが来ているのに全然見ない。
時々、非常に上手に、何にもないときに後ろを見るんですね。
そして、言うんです。・・・
「後ろを見ました。完全に見ました。何にもありませんでした。
・・・私は実証的にやっております」と言うんだけれども、
一番大事なときには後ろを向いていない。」
(「コンステレーションー京都大学最終講義ー」『こころの最終講義』河合隼雄)

河合隼雄氏一流の、
"リアリティ"に触れようとしない実証主義を標榜する心理学者批判。


〇 「実際にぼくが遭遇している現実では偶然ということが多いんですよ。
ぼくはときどき冗談半分で「あなたは絶対に治らないだろう」と患者さんに言う。
しかし、偶然ということがあるから、ぼくはそれに賭けているからやりましょう」と言う。
そして実際にそうなるんです。
ぼくは何をしているかというと、偶然待ちの商売をしているんです。
みんな偶然を待つ力がないから、何か必然的な方法で治そうとして、全部失敗するのです。
ぼくは治そうとなんかせずに、ただずっと偶然を待っているんです。」
(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)

"何故、河合隼雄氏には、偶然が頻繁に起こったのか。"

この問いは、極めて重要な問い。
認知科学の知見だけでは、解きえない現象だと思われます。


「何もしないことに全力を傾注する。」
とは、河合隼雄氏の口癖でありました。

この"臨床的構え"を身に付けるには、
どれほどの修練と凄まじい心的エネルギーが必要であることでしょう。

村上春樹氏と云えば、
全世界的な読者層を獲得している大作家。
その村上氏をして、
「"自分が云う物語"ということを理解できる唯一の人物」と云わしめたのが、
河合隼雄氏でした。

「魂のいちばん深いところー河合隼雄先生の思い出」:村上春樹

全世界的な読者層を獲得する作家の洞察による、
真に鋭く、的確で、優れた「河合隼雄評」。


〇「小川 秘密を守らなくてはならないという先生のお仕事は、
すごく苦しくて大変でいらっしゃるのでしょうね。

河合 ・・・僕はこの頃よう言ってるんですけど、
「僕はアースされているから大丈夫」なんです。
・・・「うん、それで、最後は地球にお任せしてるってね(笑)。」
(小川洋子 河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』)

河合氏は冗談風に語られていますが、
特別な宗教的修行をせず、
心理臨床に真摯に取り組まれることによって、
この境地にまで至られたのかとの驚きを禁じえません。

精神分析では、「転移⇔逆転移」ということが大変重視されます。
濃密な人間関係に不可避のある種の強烈な相互作用に無自覚故に、
関係者双方、周囲にとっても不利益となる場面を見聞きしますが、
河合氏は、その困難さを克服されつつあったのでしょう。

なお、ユング派の、
A・グッゲンビュール=クレイグ著
『心理療法の光と影 援助専門家の《力》』

は優れた名著で、とてもお勧めです。
近日中に復刻とのことで、大変喜ばしいことです。


弁栄聖者が、
一所不住の布教活動がお出来になったのは、
"並々ならぬ克己的な自力的な精進力"だけではありえません。

「・・・教え主世尊が六根常に清らかに光顔(みかお)永(とこ)しなえに麗しく在ししは 
内霊応に充(みち)給いければなり」

『如来光明礼拝儀』にあります。

この箇所は、『無量寿経』の「三相五徳」として知られた箇所ですが、

「『内霊応に充(みち)給い』とは、
無住処涅槃の如来無対光の境界における
応身仏釈尊の三身四智の仏眼に依る自受用三昧を、
弁栄聖者が表現されたもの。」


と笹本戒浄上人はご教示されています。

「弁栄聖者の精力的な布教活動の源泉は、
こんこんとして湧出する"大ミオヤ"の神的エネルギーの供給。」



河合隼雄著『明恵 夢を生きる』には、
他にも、明恵上人の身体性、女性性、宗教と性の問題等、
とても興味深く示唆に富む考察がなされていますので、
是非お読みになってください。


なお、
明恵上人の宗教性に関しては、
河合隼雄著『明恵 夢を生きる』の他では、
町田宗鳳著『法然対明恵 (講談社選書メチエ)』を是非お勧めします。

「法然を語る人の多くは、
念仏信仰の普及者としての「表」の法然しか見ていません。
彼の実力は、念仏の「裏」にあったのです。
「裏」とは深い宗教体験のことですが、
それこそが法然をして「思想の革命家」ならしめたのです。」

この町田氏の慧眼に驚きと共感を覚えつつ、
町田氏の法然上人観と明恵上人観を、
一種興奮に似た感情が混じりながら読み進めて行く内に、
いつしか、法然上人と弁栄聖者が重なっていました。

弁栄聖者口述『宗祖の皮髄』のことが、
念頭から離れませんでした。

町田氏に興味を覚え、後日、
町田宗鳳著『法然・愚に還る喜び 死を超えて生きる』を拝読し、
町田氏御自身の臨済禅の修行中の体感は、
「無」・「無心」というよりも、
むしろ念仏三昧の境地の方が相応しいと
感じらるようになられたことを知りました。

その契機となったことが、
鞍馬の山奥にあった
京都修道院での集中的な別時念仏会への参加」でした。

「鞍馬の山奥にあった京都修道院」とは、
おそらく、
京都大原百井の山奥に開かれた、
日向美則氏主催の超宗派的な修道院。
似た名称の京都光明会の恒村夏山氏が主催されていた、
京都梅ケ畑の修道院ものとは別組織。
日向氏は、弁栄聖者の影響を強く受けながらも、
独自の宗教体験と比較思想研究等により、
超宗派的な教学と組織を築かれました。

日向氏の御逝去後、
現在この組織の動向については、よく分かりません。


町田氏の同書には、
数々の興味深く、示唆に富む知見がちりばめられています。
幾つかを引用します。

「宗教のあらゆる要素ー禅と念仏、仏教とキリスト教、
一神教と多神教ーも法然さんにはあると考えた。
この人ひとりを学んだら、
世界のあらゆる宗教のことを論じられると確信したのです。」

「とりわけ法然と関連性があると私が思っているのは、
空海の三密加持です。」

「現在の日本仏教は、浄土、禅、日蓮という系統が表に出ていますから、
やはりイメージを重視する系譜にはないのです。」

「法然の偉大さが語られるとき、
たいていは専修念仏とかイデオロギーのレベルの話になってしまいますが、
じつのところ私はそっちにはあまり関心がない。
彼のイマジネーションを論じることには大きな意義があると思いますよ。」

ただし、町田氏が使われる、
「幻視」という表現には、注意を要するように思われます。


更にもう一点、
ご遷化の年齢についてです。

法然上人のご遷化は八十歳の大変なご高齢でした。

弁栄聖者も六十代の前半という比較的若いご遷化でしたが、
明恵上人、道元禅師、日蓮上人が、
後、十年あるいは二十年長生きされたとしたら・・・

例えば、身体が不自由な高齢を迎えた際の、
明恵上人、道元禅師の修行方法とは。
日蓮上人の布教活動、浄土観は。

御無礼を顧みずに申せば、
宗教体験の内容、修行内容、教学上に変化があったかもしれない・・・
そんな想像をします。


最後に、
明恵上人と弁栄聖者に関して、
今後の究明が待たれる点について、記しておきたいと思います。

明恵上人は、後年、
「仏光観」を御自身の修行の中心に据えられました。

この「仏光観」による修行は、
朝鮮華厳の李通玄居士の影響によるもの。

法蔵系譜の「学問中心」の華厳教学ではなく、
「実践重視」の李通玄居士系譜の華厳による修行法でした。

元大正大学教授大南龍昇現光明園園主の、
「七覚支説の変遷」論文には、
弁栄聖者と李通玄居士の説が比較検討されています。

通常、「三十七道品」中「七覚支」は、
「念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支」
と説かれます。

ところが、
弁栄聖者と李通玄居士は、
「択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支・念覚支」
と、念覚支と択法覚支の順番を逆転されています。

なお、
『正法眼蔵』第六十 三十七品菩提分法には、
「択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支・念覚支」とあります。

今後の解明が待たれます。


「明恵上人と李通玄」については、

〇 「Ⅲ 明恵とその周辺」
(末木文美士著『鎌倉仏教形成論ー思想史の立場からー』)

〇 田中久夫著『明恵』
〇齊藤 紀夫著 『現代に生きる稀代の高僧「明恵上人」』
修士論文を元に、2017年6月刊行に書籍化。
〇 かなり専門的なところでは、小島岱山氏の諸論文等。


上述したもの以外で、明恵上人理解に有益と思われる、
幾つかの参考文献等を御紹介したいと思います。

〇奥田勲、 平野多恵、前川健一編著『明恵上人夢記 訳注』
明恵上人の夢記の第一人者の奥田氏研究グループによる労作、2015年2月刊。
〇「明恵上人夢記」『Blog鬼火~日々の迷走』
「明恵上人夢記」の私的読解記録。
スポンサーサイト

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-11-08

大乗仏陀、弁栄聖者の真精神の開顕!!!『笹本戒浄上人述 泉虎一記 辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』発刊


20181104004.jpg

笹本戒浄上人述 泉虎一記『辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』が、
2018年(平成30年)9月に発刊されました。

この書は、 「弁栄教学」上、極めて重要な書であり、
同類の書である、『辨榮聖者 光明主義注解』が、
芦屋聖堂から発刊されていますが、
非常に高価で、とても重く、携帯には不向き。

hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。
一冊二千円(送料別)。

発行編纂者の一人、平澤伸一氏は、
笹本戒浄著『真実の自己』等の発刊者でもあります。
また、平澤氏は在家でありながら、自宅を解放され、
長年に渡り、定期的(毎月一回)に、念仏・勉強会を開催。
現在の光明会には幾つかの系譜がありますが、
平澤氏は、弁栄聖者→笹本戒浄上人→ 杉田善孝上人の系譜。

なお、今回は、巻一であり、
今後、順次、四巻発行の予定とのこと。


20181104002.jpg
【笹本戒浄上人(1874~1937)】

インド思想、仏教学者の中村元氏が、
弁栄聖者の高弟、笹本戒浄上人に出会った時の逸話。

「近年、弁栄という坊さんがおったが、これが偉かったで・・・」

と、第一高等学校在学当時、
ドイツ語教授が講義の途中に、
心の底から感嘆して語られたことがあり、
そのことが強く印象に残り、
弁栄聖者の『お慈悲のたより』を読まれました。

その後、光明会の本を求め、
田中木叉師のご自宅をお訪ねしました。

中村青年が笹本戒浄上人にうかがった御説法の内容等。

正面にかけて光り照らされている阿弥陀如来の御絵図を指しながら、

「よく阿弥陀さまを見つめてお念仏を唱えなさい。
阿弥陀さまがお姿を現してくださいますよ」
と。

「御説法の詳細は忘れてしまったけれども、
慈悲にみちた、温和で、柔和な笹本戒浄上人のお顔を忘れることができない。
・・・あのような方が、本当の宗教家ではないかと思う。」


「笹本上人に、お目にかかったのは、
その時、たった一度だけ。
それも御法話を伺った時だけ。
しかし、今なお忘れられぬ感銘を残しているのは、
ことばでは一々表現することのできない
御高徳のゆえであろう」

(「私が感銘を受けた宗教家ー戒浄上人の思い出ー」
(『「笹本戒浄上人伝」笹本戒浄上人全集 別巻』)

此処で注目すべきは、
中村元氏が、光明主義の教義内容ではなく、
「笹本戒浄上人の人格」が強く印象付けられたこと
特に、そのことに焦点をあてられている点です。

先ず初めに、中村元氏の笹本戒浄上人の思い出話を引用しましたのは、
中村元氏の記憶に刻印された戒浄上人の印象と、
泉虎一氏記のこの書から受ける戒浄上人の印象とが、
相当に異なっているであろうと懸念されるからです。

また、
この書の元となった電子データ作成者の故小川純氏、
編纂者の平澤氏方々は、
泉虎一氏の謦咳に長年接しておられた方々。

この点は、決定的に重要な点であり、
つまり、泉氏が語る内容とともに、
言外のメッセージ、泉氏の人柄等も伝わっているはずです。


難解な批評家として知られる小林秀雄氏が、
幅広い読者を獲得し続けているのは、
おそらく、小林秀雄講演、講義CD発売による、
小林秀雄氏の肉声を通して、
小林秀雄氏の人間性の一端に触れた影響が極めて大きい

と推察されます。

特に、この書の様な"癖の強い書"の場合には、
特に留意すべきコツのようなものであろうかと思います。

本書の編集後記に、
当時を知るある高弟は
「我々が質問に伺おうとしてもご事情により叶えれない場合があったが、
上人はいかなる時でも泉さんの謁見を断られることがないのに驚いた」
と。

とありますように、
笹本戒浄上人と泉虎一氏とは、そのような深い因縁の間柄。
戒浄上人の直弟子筋の中で、
泉氏は、「弁栄教学の奥義」の伝授を使命と生きられた御方。

また、
その為に、おそらく、意図的に人の心を揺さぶり、
印象付けるような強い言葉を選び、
何ら配慮を混じえず、繰り返し繰り返し、同じ内容のことを語っておられる、
そんな節も感じられなくもありません。

泉氏の口癖は、
「阿頼耶識の奥底から、(念仏により)大掃除をすること。」

なお、
泉氏が戒浄上人に出会われたのは、昭和3年で、
戒浄上人の御遷化は、昭和12年(1937年)でした。

戒浄上人の高弟、杉田善孝上人
ご述懐であったと記憶しますが、
真に興味深い逸話ですのでここに再掲します。

「笹本戒浄上人は、昭和3年(55歳)の頃には、
「仏眼については、
「まだ経験していないが、想像はできる」旨洩らされたが、
昭和4年春には
上記のお言葉は出さぬようになった。
そして、昭和8年から9年にかけて(60歳から61歳)
仏眼について次第に明了に、
昭和10年(62歳)からは
具体的に明了にご説示されるようになった」。

また、
田中木叉上人とご縁の深かった、
吉松喜久造氏が笹本戒浄上人にうかがった言葉。

昭和4年に、笹本戒浄上人が、
「田中木叉先生も仏眼が開かれました。」
と嬉しそうにおっしゃられました。


さて、
前置きが長くなりましたが、本題に入ります。

この書を読解するにあたり、

幾つかの留意点が必要かと思われます。

① "憶念口称念仏のみを直線道"とする根拠は何か。
そもそも、"直線道"とは何か。

② 弁栄聖者の笹本戒浄上人への口伝、
すなわち、"弁栄教学の真精神"の受け止め方。


大別すると、この二つになろうかと思われます。


① "憶念口称念仏のみを直線道"とする根拠は何か。
そもそも、"直線道"とは何か。


本書を読み解く際の最大の躓き、難関は、
笹本戒浄上人が再三強調される"直線道"という言葉だと思われます。

先ず、お断りしておきたいことは、
"直線道"という言葉は、
弁栄聖者の直接的な言葉ではなく、
弁栄聖者の真精神を表す言葉として、
「弁栄聖者から意を汲んでいる」という同意を得られた、
笹本戒浄上人の言葉です。

"直線の対が曲線である"とのイメージが、
我々には先入見として一般にあるため、
曲線道であったとしても、成仏に至る到達時間の相違があるだけで、
「成仏への道には多種多様な方法がある」と捉えがちです。
"直線道と曲線道"をそう捉えますと、
戒浄上人の真意から逸れることになると思われます。

戒浄上人の"直線道"とは、
"それあるのみ""それ以外はありえない"といった、
"唯一無二、絶対中心道"という意味かと推察いたします。

戒浄上人は、この点について分かりやすい喩えで説明されています。

よく仏道修行を山登りに譬えて
どの道から登っても同じ頂上に行ける、と申しますが、
この譬えは正しくありませんな。
世界の有名な高山の中に
途中の八、九合目までは道がいくつもありますが、
そこから頂上までは唯一つしか登る道がない
というのがありますな。
あれが正しい譬えであります。」 
(【〇一七】 曲線道を排して直線道へ (4))


"直線道"とは、"信念の変更を要せず"という意味内容ですが、
更に本質的に最重要なことは、その根拠にあり、
仏身論と不可分の関係にあるという点です。
即ち、"直線道とは、仏身論から必然的に導き出された修道論"。

ただし、
"直線道"とは、
仏道修行における「修道論」においてであり、
衆生済度における「度生論」においてではない。

このことは、十分な留意が必要であるように思われます。

弁栄聖者の御行状
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)は、
この推測を裏付けているように思われます。

「木叉先生はよく
「(弁栄)聖者の皮肉骨髄の髄を承けていられるのは戒浄上人だ。
しかし上人は髄ばかりを説かれる。
もっと応病与薬のご説法をして下さるとよいのだが」
昭和三十年代終わり頃までよく仰言った。」

ところが、

「後には先生は全くこれを口にされる事がなく、
晩年はしきりに上人の熱血溢れる
正法護持と破邪顕正の光明主義二祖としての行履に
随喜活仰せられた。」

(「戒浄上人と田中木叉先生」 (『「笹本戒浄上人伝」笹本戒浄上人全集 別巻』)

木叉上人の御遷化は、昭和49年(1974年)。

田中木叉上人御晩年の頃の逸話として、

「笹本上人が亡くなられ、やがて私も死ぬ。
すると光明会はやがて従来の宗乗の枠内に
引き入れられてしまうかも知れない、
いやきっとそうなる」と。


「それは困ります。そうなった時どうしたらよいのですか。」

すると、木叉上人は、
「また弁栄聖者が出て来て下さいます」と。


「後には先生は全くこれを口にされる事がなく」
との箇所は、若干の留保が必要であるようにも思われますが、
木叉上人は晩年、
"弁栄聖者の髄"が伝わらなくなることを、
大変心配されていたことは確かだと思われます。

衆生済度における方便智が発揮されるのは、
"仏眼"においてであり、
より厳密には、"三身四智の仏眼"においてであると云われています。

現実問題としては、この点に留意すべきかと思われます。

なお、同書にも、笹本戒浄上人が、驚くべきことに、
「先ず禅をして禅の悟りを開くよう勧められた」方があったという、
戒浄上人の衆生済度における対機説法(方便智)が記されています。
ただし、ここで留意すべきは、
禅の悟りの次には、法眼、仏眼へと、
念仏による悟りの深まりへと、
確りとご指南をされている点です。

戒浄上人の印象的な逸話をもう一つご紹介します。

光明主義の信奉者の在家、横山勝郎氏が、
「御顔は戒浄上人の慶運寺の、後光はまん円くはっきりとした」三昧仏様
を描いていただくように、
笹本戒浄上人の御子息の浄光氏に依頼され、
浄光氏が描かれていたところ、
「横山さんのために描くならば、
お顔は少し細面に描くように」

と戒浄上人が注意されました。

これらの逸話からも、
笹本戒浄上人の泉虎一氏への
一見、排他的、偏狭とも思える御教示は、
意図的にそうされたものであったことが推察できます。

"後世に、弁栄聖者の真精神を明確に伝えるため"
と推察いたします。


戒浄上人が再三強調される"直線道"を理解するためには、
弁栄聖者が開顕された"聖者独自の仏身論"を理解することが大前提となります。

【超在一神的汎神の大ミオヤ】

弁栄教学では、
「無量寿経の法蔵比丘の酬因感果の阿弥陀仏
汎神教的の三世諸仏の一仏」と捉らえ、
超在一神的汎神の大ミオヤとは厳密に区別し、
報身ではなく、応身と定義します。

「三身即一の本有法身は絶対、本有無作無始無終の根本仏。
活きた根本仏の同時同態の三方面
である
その体・相・用は皆、絶対で本有無作無始無終。」
したがって、
「如来様の妙色相好身も無生。
衆生の有無、念不念に関せず
本来、如来様に人格的の妙色相好身在しますのが事実。」


肉身と理性を持った我々人間には、
"人格的の妙色相好身"と云われると、
"一定の固定相"しか想像できませんが、
一即一切、事事無礙重々無尽の絶対的現象態、
衆生の信念に応じて、無量の定相を発現される、
絶対無規定、本有無作の霊的御姿(霊相)"


弁栄教学は、通仏教とは根本的に異なります。


20181104001.jpg
【弁栄聖者(1859年~1920年)】


ごく最近、大変興味深い論考に出会いました。

岩波書店発行『図書』(2018年11月号) 掲載の、

「鈴木大拙と山崎弁栄
ー近代仏教の中の『大乗起信論』 末木文美士」。


おそらく、末木氏が弁栄聖者について公けに触れるのは、
これが初めてではないかと思われます。

この時期に、
「鈴木大拙と山崎弁栄ー近代仏教の中の『大乗起信論』」の論考が、
岩波書店の月刊誌『図書』に掲載されたのは何故か。

この論考の記述等から推察しますと、

〇 山崎弁栄『人生の帰趣』が、
平成30年4月に、岩波書店から刊行。
本書の解説が、 若松英輔氏であること。

若松氏は、末木氏の"死者論"を大変評価され、言及されていること。

〇 安藤礼二著『大拙』が、
平成30年10月に刊行。
雑誌『群像』掲載は、平成28年6月号~平成30年5月号。
安藤氏ならではの詳細な調査等に基づく「鈴木大拙」論。

この書が、末木文美士氏の永年の大拙研究の成果等にも啓発されていること。
また、安藤氏の興味・関心と極めて共鳴度の高い
「鈴木大拙論」、「井筒俊彦論」を展開されている
若松英輔氏の論考とは異なり、
安藤氏の「大拙論」には、"山崎弁栄"との比較考察が無いこと。

ここでは、安藤氏の「大拙論」には深入りできませんので、
次の参考文献をご紹介しておきたいと思います。
安藤氏推奨の「鈴木大拙論」、
グレイス, ステファン P氏による博士論文。
『鈴木大拙の研究
現代「日本」仏教の自己認識とその「西洋」に対する表現』。



〇 大竹晋著『大乗非仏説をこえて
大乗仏教は何のためにあるのか』

が、平成30年8月に刊行され、
末木文美士氏が、推奨文を寄せられていること。

大竹氏は、
この書において、仏教を専門とする学者としては大変珍しく、
弁栄聖者に大いなる関心を寄せられ、
弁栄聖者の文章等を、頻繁に引用、評価をされている
こと。

大竹晋氏は、
筑波大学在学中、竹村牧男氏の元で研鑽を積まれ、
『大乗起信論成立問題の研究
『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク』

を、平成29年11月に刊行。

「本書は、近年いちじるしく進展した、
漢文大蔵経の電子化と、
敦煌出土北朝仏教文献の翻刻出版との二大成果を活用しつつ、
同論が漢文仏教文献からの一種のパッチワークであることを明らかにし、
来中インド人撰述説を斥け、北朝人撰述説を確定する。」

と、千五百年間の『大乗起信論成立問題』にほぼ決着を付けたと評されています。

なお、石井公成氏による書評があります。ご参考までに。
書評 大竹晋 『大乗起信論成立問題の研究
: 『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク』


末木氏が、岩波書店の月刊誌『図書 11月号』の、
「鈴木大拙と山崎弁栄ー近代仏教の中の『大乗起信論』」において、

「起信論』は二世紀頃の馬鳴(アシュヴァゴーシャ)の著とされていて、
・・・大正期に望月信亨によって中国撰述説が主張されて大論争となり、
最近になってようやく中国撰述説で決着しそうである。」と。

これは、 大竹氏の同書を指していることはほぼ間違いありません。


末木文美士氏が、
この時期に、岩波書店の月刊誌『図書 11月号』に、
「鈴木大拙と山崎弁栄ー近代仏教の中の『大乗起信論』」の論考を投稿されたのは、
上述の理由が大きいと推察いたします。

この論考においては具体的に、
末木氏は、
「大我、「宇宙全一の心霊体とも云うべき如来蔵性」を、
「大御親」あるいは「大ミオヤ」とも呼ばれるようになると、
通常の仏教になじんでいる目には、いささか大胆過ぎて面食らう。
もはや『起信論』の枠組みどころか、
常識的な仏教の教学をも超えて、
独自の世界に入っていくことになる。
・・・むしろ仏教を核としながら諸宗教を統合する、
一種のシンクレティズムと見られるであろう。
その点では、大拙以上に大胆である。」


「学術的な枠組みを逸脱して、
一見奇妙な議論を示すところもある」

とされながらも、
「決まった枠組みの中では封印されてしまう
自由な発想が生き生きと展開される可能性も持っている。
・・・今日改めて見直しがなされなければならない。」


と、末木氏は結ばれています。

なお、
「もはや『起信論』の枠組みどころか、
常識的な仏教の教学をも超えて、
独自の世界に入っていくことになる。」

と指摘されていますが、

例えば、
『大乗起信論』ではいまだ未解明であった、
"無明"の発生根拠については、
弁栄聖者に依りますと、
「三身四智の仏眼」において初めて認識可能となる旨仰っられています。

弁栄聖者光明体系の『無量光寿』、『炎王光』等に記されています。


鈴木 大拙著 佐々木 閑訳『大乗仏教概論』の訳者後記において、
佐々木氏は、

「鈴木大拙の『大乗仏教概論』を訳してみて、
私はこの本が、現代において生み出された
新たな大乗経典である と感じるようになった。
・・・だがもし、本書を、仏教学という学問世界の中に含めず、
仏教という宗教の流れに置いてみるなら、
それは『般若経』や『法華経』などの経典と同じレベルに並ぶ
『大拙大乗経』とも呼ぶべき
新たな聖典の誕生を意味している
と思うのである。」と。


一方で、弁栄聖者は、

「私は経文に依って演繹的に説くのではない。
帰納的に説いておる。」
(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)

とは、
「経典に依るのでなく、
御自身の体験せられた如来様の事実※から
帰納的に光明主義の教学体系を組織せられた、
という意味である。」
(笹本戒浄上人のご教示)
※「御自身の体験せられた如来様の事実」とは、
「三身四智の仏眼」の境界における認識。

更に、
「真生同盟」提唱者土屋観道上人に対する弁栄聖者のご教示として、

「キリストが此の世に出て説いたものが新約聖書となって、
それ以前のユダヤ教経典が旧約聖書となったように、
今後の宗教は光明主義経典を以て新約聖書となし、
従来の一切経をもって旧約となすべきである」

と(弁栄上人が)おっしゃったことが、今尚私の心に遺っています。」
「弁栄上人の思い出」『大悲に生きる 観道法話』)


弁栄聖者は、「大乗非仏説」に対し、
「大乗経典とは、
三昧定中における、”永遠の生き通しの大乗仏陀釈尊”による、
出世間の三昧を開かれた聖方への直説法である。」

と、喝破されています。


鈴木大拙氏と弁栄聖者の両者に通底する
この"学術的な枠組みを逸脱した大乗仏教観"
を、
末木氏は、感知されたと推察されます。


20181104003.jpg
【弁栄聖者(1859年~1920)年】


〇 大竹晋著『大乗非仏説をこえて
大乗仏教は何のためにあるのか』


仏典に精通されている大竹晋氏は、

「われわれは大乗経が仏説であることを論証することは不可能である
と率直に認めなければならない。」


と明言され、

「大乗経が仏説であることは、
推理によっては決して論証されるべきことではなく、
大乗経にもとづいて修行した者たちの悟りの体験によって
自内証("個人的に確証")されるべきことなのである。
悟りを齎す以上、大乗経はいつわりではない。」


その解決策、「体験的大乗仏説論」を提示されています。


「又は大乗非仏説を主張する人に、
上人 「現に飲んで効能のある薬なら、
誰が発見してもよい。大乗非仏説でもよい。
私も大乗非仏説とおもふ。」

(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

この箇所を、
大竹氏は、著作に、引用し、次のように解説されています。

"現に修行して悟りを体験できる法なら、
誰が発見されたのでもよい。大乗非仏説でもよい。
わたしも大乗非仏説と思う。"
ー弁栄はそう言い切っている」と。

また、
日本の近世から近代に限られているとはいえ、

「大乗経にもとづいて修行し、
大乗仏教の悟りを体験することに依って、
大乗仏教にみずから安心するに至った真摯な僧侶」

として、

〇 浄土宗・普寂徳門(1707-1781)
〇 真言宗・慈雲飲光(1718-1805)
〇 浄土宗・山崎弁栄(1859-1920)
〇 浄土宗・原 青民(1868-1906)


を挙げています。

「大乗非仏説をこえて」という究極の難題の解決策
を模索するにあたって、
弁栄聖者にかなりの頻度で言及されているのは、
必至であった
と思われます。


② 笹本戒浄上人に対する弁栄聖者の口伝、
すなわち、"弁栄教学の真精神"の受け止め方。

にも関わることですが、

"弁栄教学"は煎じ詰めると、
「大乗ブッダの真精神、つまり、宗教の根源とは何か。」に究極します。


笹本戒浄上人が、
「経典や宗乗、学者が何と言おうが、
弁栄上人が云うことを信じなさい」

と極言されているのは、
妄信、偏狭さの類では勿論なく、
実は大変合理的判断に基づくものであり、

「大乗非仏説」という事実が念頭にあったためと推察します。

更に、戒浄上人は、
「原始経典、大乗経典等、文字で記された文献によって、
釈尊の真精神を判別することは出来ない。」

といった御教示さえされています。

したがって、
笹本戒浄上人に対する弁栄聖者の口伝、
すなわち、"弁栄教学の真精神"を、
仏教諸経典等を根拠にして"釈尊の真精神"として、
論証することは不可能。

この弁栄聖者の口伝(弁栄教学の真精神)は、
唯々、弁栄聖者、笹本戒浄上人を信じ、
"釈尊の真精神"であると信ずるという域を出ない。
自身が"仏陀の悟り"を得るまでは。


ただし、このことは、
全ての信仰において、究極的にはそうとしかありえず、
平等、対等の前提
です。


大竹氏は、
「大乗仏教の本質は、歴史的ブッダへの回帰ではなく、
仏伝的ブッダの模倣(まねび)である。」

「仏伝的ブッダの模倣(まねび)とは、
具体的には、仏伝的ブッダと同じように福徳を積んでブッダとなること。」
と明言され、

「大乗仏教のアイデンティティーは、
歴史的ブッダの教えと異なるにせよ、
歴史的ブッダの教えを超える高貴な人間性こそが、
大乗仏教の最大の特質
なのである。」とさえ定義されています。

更に、
「大乗仏教のブッダの加護を得た体験」、
すなわち、「見仏体験」
に関して、

浄土宗の山崎弁栄、真言宗の金山穆韶(ぼくしょう)、曹洞宗の木村霊山尼
の「見仏体験」にふれ、

このような大乗仏教のブッダが
どのような仕組みによって現れるのかはわからないが、
大乗経にもとづいて福徳を積んだ者たちの前に
このような大乗仏教のブッダが現れるという事実を否定することはできない。

福徳を積まない者は
このような体験を愚かな大乗の妄想にすぎないと言うかもしれないが、
筆者としては、福徳を積まない者が言うことよりも、
弁栄、穆韶、霊山尼のように
福徳を積んだ者たちが言うことのほうがはるかに信じられる。」
と。

これは、
精緻に、実証的に経典研究されている学者の言葉としては、極めて異例。
大乗仏教と真摯に向き合う者の信仰告白

大変、感銘を受けました。

なお、
光明主義の弁栄聖者、真言宗の金山穆韶(ぼくしょう)師は共に、
法身を人格的に仰いでいることは、
注目すべきかと思われます。


弁栄聖者、笹本戒浄上人への信とは、
念仏実践、弁栄教学の研究、比較宗教学的研究等は、
当然の前提としましても、
究極には、
正に、この大乗仏教のブッダの加護による「見仏体験」、
その宗教体験により福徳を得た、
"仏のような人"弁栄聖者、
"福徳が備わった大菩薩"笹本戒浄上人、
その"霊徳"に対する信
に極まります。

なお、
公のブログで公表することに躊躇するものがありますが、
大変貴重な逸話ですので、
先ほど引用しました横山勝郎氏によります
戒浄上人のもう一つの逸話を記します。

「昭和一桁の時代に拝聴した御法話
戒浄上人はかく申されました。
「太陽系には地球以外に衆生はおらぬ」と。」


その他の若干の補足としまして、

普寂に関しては、力作があり、
〇 西村玲著『近世仏教思想の独創 僧侶普寂の思想と実践』

また、
「原青民氏と弁栄聖者」との関係については、
ここでは深入りしませんが、
大竹氏は、
青民の悟りと禅の悟りを、
最古の禅文献における禅の初祖、菩提達磨、
白隠禅師の言葉と対比させ考察されています。

光明主義においては、
禅で云われる悟りは、念仏の内に自ずと開かれてくる境界

と捉えています。

この点については、
弁栄聖者、笹本戒浄上人、田中木叉上人にとっては、
当然の事実として、
おそらくご自身の宗教体験、比較思想・文献研究等を通して、
一貫して説かれていた方が、東洋大学名誉教授、
「一般財団法人 光明会」の元上首
「光明園」前園主、
「山崎弁栄記念館」初代理事長の
河波定昌師。

以前一般に公開されていた河波師の講演録ですが、
真に残念ながら、
随分以前のもので、河波氏がご逝去されたため、
削除されてしまったようです。

それは、大変貴重な講演録であり、
信仰上、学問上においても、大変な遺産の損失と思われますので、
ご紹介させていただきます。

ただし、
リンクは既に削除されているため、
全文をここに記しますと大変長くなり、
文章の構成上煩雑になり、読みにくくなると思われます。
単独の記事にすべき程の大変貴重な講義録ではありますが、
今回は、文末に記します。
是非、お読み頂きたく存じます。

『念仏と空-大乗仏教の本質(第16期スクーリング)
2003年6月 6日 第16期開講式特別講義
河波昌 東大仏青でのご講義から』



大竹氏は、
「大乗非仏説」の前提に立つことにより、
浄土真宗系と日蓮宗系には甚大な影響がある
とされていますが、

浄土真宗の僧侶による、
とても興味深い論文がありますのでご紹介します。

〇 田中和夫博士論文『親鸞の念仏思想と見仏体験』


また、近著においては、
〇 平岡聡著『浄土思想入門 古代インドから現代日本まで』
があり、特に、
第八章 近代以降の浄土教家
  (一)浄土宗系──山崎弁栄・椎尾弁匡
終 章 浄土教が浄土教であるために

には、弁栄聖者の意義に言及されています。


なお、
現代においては、
データの電子化、情報の公開、知的財産としての共有化は、必至であります。
弁栄聖者の御遺稿集、十二光体系等が、PDF化され、
岐阜光明会のHPで公開されており、
また、
「弁栄上人百回忌記念事業」の一環として、
金田昭教氏を中心に、
弁栄聖者関連の資料等の調査、電子化、公開等が進められています。
平成30年11月に、
「山崎弁栄上人讃仰会」により、
「念仏三昧の聖者 山崎弁栄上人」のHPが開設。


最後に自戒を込めて、
笹本戒浄上人の遺言とも受け取れる言葉を引用します。

「見仏が成仏の唯一の直線道で、実に釈尊の真精神である、というのは
実に弁栄上人様の真精神で光明主義の生命とするところでありますから、
弁栄上人様の光明主義を信奉する私共と致しましては、
弁栄上人の真精神を述べなければならない場合には
何のためらうことなく、
見仏が成仏の唯一の直線道で実に釈尊、弁栄上人の真精神である、
といわなければなりません。」

「しかし、他の信念を持っていらしゃるお方に対して
少しでも不遜な態度をとるようなことがあってはなりません。」




【河波昌師の講演録】

『念仏と空-大乗仏教の本質(第16期スクーリング)
2003年6月 6日 第16期開講式特別講義
河波昌 東大仏青でのご講義から』


仏塔崇拝から大乗仏教へ
仏像造られた念仏行法も

大乗仏教とは何かという問題をこれから 「念仏と空」と題して追求していきます。
実は大乗仏教の根幹を語るにはこの言葉でもう尽きていると思います。

普通、念仏といいますと、浄土宗とか浄土真宗、
ですから法然上人とか親鸞聖人の教えの中核をなすものです。
ところが 「空」 と申しますと、全然違いまして、
例えば禅宗などで、「空」 を説く経典は、『般若心経』なんかがその代表的なものです。
特に日本仏教は宗派仏教で、浄土宗は浄土宗、禅宗は禅宗と縦割りで説きますから、
お念仏はお念仏で、 「空」 は 「空」 ということになっていきます。
ですが、お念仏の中に般若波羅蜜の悟りが開いてこなければ、大乗仏教ではありません。
また、般若波羅蜜と 「空」の実践の中にお念仏が出てこなければ、それも嘘だと思います。
そういう二つの関係に論究しながら、
改めて大乗仏教とは何かという問題の本質をついていきたいと思います。

簡単に申しますと、
念仏が 「空」の世界を開き、
「空」 の世界が、またお念仏の世界を開いていった。

この二つは表裏一体のもので、一つのものです。
それがある段階で、二つに分かれていったんです。
これは大乗仏教にとっての悲劇で、
結果として大乗仏教の本質が見えなくなった
と断言してもいいくらいです。

大乗仏教はいつごろ起こってきたかという問題ですが、
大体、紀元前一世紀の後半だと考えてください。
それで最初の大乗仏教の経典は何かといいますと、
サンスクリットの経典の中に『八千頌般若経』というお経がありまして、
これが大乗仏教の出発点になります。
このお経の中に初めて「大乗」という言葉が登場します。
「マハーヤーナ」 という言葉です。
それ以前はなかった言葉ですからこの経典こそいわば大乗仏教宣言の書と言ってもいいです。
それから「空」という言葉が、また初めて出てくるんです。
ですからこの二つの言葉をもって、
この『八千頌般若経』というお経が大乗仏教の最初の経典ということになりました。
それからもう一つ、
漢訳に『小品般若経』というお経がございます。
これはほぼ『八千頌般若経』が漢文に訳された形です。
だからこの辺を押さえていきますと、大乗仏教の一番の原型が出てくるわけです。

「空」という言葉がどうして出てきたかが問題になります。
これは案外はっきりしているようで、はっきりしていないんです。
非常に難しい問題ですが、
大乗仏教が起こってくる一つのエレメント、契機として仏塔崇拝があります。
私は恐らくそれが関係していると思います。

仏塔崇拝が始まる前の仏教はどういう仏教かといいますと、僧院仏教なんです。
僧院の中にこもって、専門のお坊さんたちが難しい勉強をやる。
倶舎論などで、 阿毘達磨といいまして、
お釈迦様が説かれた法というもので分析していくんです。
でもそんな分析をしたって、一般大衆には関係ないですよね。
何百年間か、僧院仏教が続きますけれども、
一般大衆とは全く無関係だったとは言えませんが、
大体無関係なところで、今でいえば 「象牙の塔」です。
一般大衆はそんな難しいことはわからないけれども、
お釈迦様が亡くなられて、もちろんもう灰になって、どこにもおわしまさないけれども、
何とはなしにお釈迦様の本当の命というものが在すはずだという方向へ向いていきます。
歴史的な仏様はなくなっても、仏様の命は永遠だという思想が、一般大衆に出てきます。
それを一つの人格として拝むことができる、それが仏塔です。
ストゥーパと言いますが、仏塔と申しますのは、
実はお釈迦様の舎利、お骨が祀られているところです。
お骨が祀られているところにお釈迦様がましますというのは皆さんでもそうですね。
亡くなったご先祖様はもうわからないけれど、
例えば亡くなったお父様のお墓に参ると、
何とはなしにやっぱりお父さんと出会えそうな気になります。
仏塔崇拝を通して初めて、
目には見えないけれども人格的な如来様、
そこではまだ阿弥陀様という言葉はまだ出てきませんが、
お釈迦様とそこで出会う。
ストゥーパに参り、そこで一生懸命祈りを捧げる。
これはもう自然の情だと思います。
そういうわけで、一般大衆を中心にして、ストゥーパ即ち仏塔崇拝が起こってまいります。
これは僧院仏教とは一応別なもので、
ここで僧院仏教と一般大衆の仏教という、
質の異なる大きな二つの流れが出来始めたということが言えると思います。

仏塔への想念の集中ということは、
これはもう、実は念仏のことです。

お釈迦様は数百年前に亡くなったけれども、
お釈迦様の命が仏塔のところに現前している、そういう存在観念です。
そこで祈りが深まっていくことになります。
そして仏塔に即して仏様を拝むときに、「空」 になっている、
そういうお経の文章が 『華厳経』 などに出てきます。
これは後になってから出来た経典ですけれども、
それはまさに、その本質をついているわけです。

やがて仏像というものがギリシャから入ってきます。
それはどういうことかと言いますと、
アレキサンダー大王がインドにやってきたのは、紀元前三二七年です。
間もなく特にインドの西北部はギリシャ文化の支配下に置かれました。
そこを支配するのは、ギリシャの王様です。
当然、貨幣が必要です。
その表側はギリシャ語で書かれているんです。
裏側はカローシュティー文字といった、その当時のインドの言語が刻まれています。
貨幣の次元まで、ギリシャ語とインドの言葉が一つになっているということは、よくよくのことです。
少々の人数のギリシャ人だけでしたら、そんな必要はないのですが、
大人数のギリシャ人が本当にインドに入ってきて、
もちろん学問のレベルでもそうですが、生活のレベルでもコンタクトをし始めますと、
全面的に両者の文化の出合いが起こってきます。

ギリシャ人というのは、神像をつくるわけです。
例えばアポロンの神様で在す神像。
その神像のところにアポロンの神様が現に在す。
そういうのがギリシャ人の考え方です。
神様ご自身は目に見えないといえば目に見えないわけですが、
ギリシャ人は、神様は必ず目に見える形であらわれてくる
という、そういう文化です。
日本人は、神様の像を伝統的にあんまり重視しませんでした。
もちろん、仏教の影響を受けて神様の神像がどんどん出来てきますけれど、
本来は神道というのは、拝むときに神様という形がないんです。
西行法師の歌ですが、
「何事のおわしますかは知らねども、
ただありがたさに涙こぼるる」そういう歌があります。
「何事のおわしますかは知らねども」、
神様の名前もわからない。お姿もはっきりしない。
でも何かありがたくてしようがない。
こんなのを西洋人が聞いたら、変に思うでしょうね。
わけのわからないものに出会って、感激して涙を流している。
日本人って一体何だと思うかもしれませんが (笑)、
ギリシャ人ははっきりした形をつくって、その神像に対して拝むわけです。

インド人にもその習慣がありませんでした。
形あるもの (色) は壊れるという考え方があるんです。
形あるものは壊れるから、そんなものが仏様であったら困るのです。
だからインド人は決して仏様の像をつくらなかった。
そこにさきほどのようなギリシャ人がやってきて、
インド仏教に出合い、 無数のギリシャ人が仏教徒になっていきます。
そして肝心なのは、 出家するギリシャ人たちさえもが出てくるんです。
ギリシャのお坊さんです。
ギリシャ人が仏教を信仰するとどうなるかというと、仏様を拝むときに、
アポロン神像を拝んでいたようにやっぱり仏像を拝むようになるんです。
ギリシャ的なやり方で仏様を拝むようになります。
それが念仏三昧になっていきます。

すなわち、
仏塔崇拝から仏像崇拝へと転換していくその過程で、
念仏三昧という行法が一層明確に確立していきます。
そしてそれが一貫して現在まで続いているわけです。

法然上人でも専修念仏といってお念仏ばかりされていたわけです。
そしてそれは
二千年にもわたる一貫して行じられてきた念仏三昧の実践ともなっていたわけです。
後に禅とかができるもっと原始的な段階での念仏三昧でもあります。

ところでギリシャ人はどんな仏様を拝んでいたのでしょうね。
結局、アポロンの神様を拝んでいるのです。
アポロン仏という、アポロンの形をした仏様です。
「それはアポロンの神様じゃないか」 と言っても、
ご本人は、「いや、 それはあくまでお釈迦様だ」と言います。
これはもうしようがないんです。
自分たちの顔に似せて、仏様をつくるしかないのです。
それは宿命的でさえあります。
けれども、そういう形で、実は念仏三昧という行法が出てきたのです。

念仏こそ実践の原点

大乗仏教は紀元前一世紀の後半にできましたけれども、
突然出てきたわけではなくて、
まだ「空」とか 「大乗」という言葉を使う以前の段階で、
実は大乗仏教というのは始まっていたんです。
紀元前一世紀の前半で、「原始大乗仏教」という言葉を使います。
そこでは「大乗」 とか、「空」という言葉は使わないけれども、
既に大乗仏教的な雰囲気が漂っていたというんです。

『三品経』 というお経がありますけれど、これは実は現在ではもうありません。
『三品経』 というお経そのものは、早い時点でなくなっていたのですが、
三品とは何かといいますと、懺悔、 勧請、そしてもう一つは随喜ということです。
大乗仏教が起こってからもこの三つの要素は、展開されていくことになるのですが、
三品という言葉ができた段階では、まだ大乗仏教ではありません。
大乗仏教が起こってくる以前に、こういう行法があったのです。
一般の信者の人たちも、仏様の前に、まだ仏像はできていませんから
仏塔・ストゥーパの前で懺悔して勧請して随喜していたのです。
随喜というのは、例えば他人の喜びを自分が喜ぶ、仏様の功徳を我が事のように喜ぶ。
これはなんでもないようですが、やがて般若波羅蜜の実践へと展開していきます。
随喜というのは、対立がなくなっていくのです。
相手がいいことをすると、一緒になって喜ぶ。
隣に倉が建つと、こちらに腹が立つということではなくて、ともに喜ぶということです。
随喜の功徳は、そのご本人よりもすぐれるという言葉が 『般若経』 に出てきます。
例えば百万円を寄付するでしょう。
それを喜びますと、百万円を寄付したよりももっと功徳が大きいというので、
貧乏人の我々にとってはありがたい修行ということになります。
そういうことでそこで対立が超えられ、 般若波羅蜜の実践になっていきます。

仏塔の前で仏様に対して祈りを捧げていきますと、
仏様の不思議な力が私の中に入ってくる。
これは後になりますと加持という形でさらに展開していきます。
加持というのは、祈りの中で、何か不思議な力が加わってくることです。
加持といいますと、真言宗の専売特許のようですけれども、
紀元前一世紀からもう始まっていたのです。

そういう懺悔、 勧請、 随喜を通して、
一般の大衆は、おのずとお念仏の世界に入っていたんです。
それは、法をアカデミズムの中で分析するのではなくて、
実践を通して既に大乗仏教の世界、すなわち念仏の中に入っていたと思います。
むしろ、そういう大きな実践の中で、すでに大乗仏教というものができております。
それは大乗仏教以前の大乗仏教であって、
如来様が現実にましまして、それとかかわっていくということです。
念仏というのは、 そういうことです。
そういうものを土台にして、
やがてはっきりとした形で大乗仏教の修行が確立していきます。

それが 「般舟三昧」 です。

それと大月氏国という国があって、
それを背景に大乗仏教が広がっていくわけです。
「般舟」って、どういうことかといいますと、
サンスクリットで「プラティウトパンナ」、仏前現立、という意味です。
プラティとは、現前に相対して、あるいは、近くに、という意味です。
「ウットパンナ」は現前する、あるいは現前に立ちたもうということ。
訳すときは、「仏現前立三昧」と訳されたりもする。
いろんな訳があります。

これも如来様に心を集中していくということです。
それが大乗仏教の実践の原点となります。

本当に生きた仏様に出会うなんていうのはできない相談ですが、
でも、そこに仏様がいらっしゃるという気持ちが大切なんです。
『般舟三昧経』 というのは、そういう経典です。
文字だけを考えていますと、難しそうですけれども、私たちに非常に身近です。

仏様は我々を超越した方ですが、時間空間を超えた仏様としてある。
それがそこに現前するということです。
その構造も一貫しています。

例えばずっと後半になって、『観無量寿経』というお経ができてきますが、
宇宙全体が仏様で満ち満ちてましますけれども、
そんな宇宙全体を包含する仏様なんて、我々はとらえどころがないですよね。
でもそうでなくて、

宇宙を包含する仏様は今、ここに現前する。

これなら私たちも分かりますね。
それで大乗仏教の多くの経典に貫通しています。

例えば『華厳経』 というお経があります。
「仏身は法界に充満する」、大宇宙全体が仏様の御心である、あるいは御体である。
それが今、私の前に現前するという考え方ですね。
『華厳経』 は大乗仏教の中心的な経典ですが、
大乗仏教というのは、どの経典も、言葉は違ってもその繰り返しばかりです。
「仏身は法界に充満し」、もう宇宙全体が阿弥陀様に充たされてということです。
そして 「あまねく一切の群生」、 私たち衆生のことです。
一切群生というと、何か他人のことに思いますが、実は私たち一人一人の問題です。
一切群生の前にあらわれているということです。
ただ漠然と神様、仏様を拝んでいても、心が集中しないでしょう。

それが仏塔へ、さらには仏像へと転換していくのです。
これが、大乗仏教が展開していく、一つの決定的な要因となります。

現在は日本のお寺のどこに行っても、仏像があります。
それは飾りのようにさえなっていますが、
そこへ我々の心が集中していくということで、
それを「般舟三昧」といいます。
そうすると仏様が拝めてくる、仏様が見えてくる、あるいは顕現するという。
これは大乗仏教、特に初期の大乗仏教の決定的な契機となりました。

見仏ということ、
生きた如来様にお会いできるようになる、
そういうことです。

ところで、仏様を拝めるようになると、「空」の世界が開けてくるというのです。
『般舟三昧経』を読みますと、三昧を得ると 「空」 であることを知る。
そこから 「空三昧」 とか、「空定」 という言葉が出てきます。
大乗仏教の原初的段階で成立したお念仏を説く経典の中に、
最初から「空」 が出てくる
のです。
これが非常に大切なのです。

「空」 は一体どこから来たかといいますと、
実は念仏三昧の中から出てきたのです。

お経をずっと拝見していきますと、
ストゥーパ塔を拝んでいると「空」になっていくと言う人もありますが、
より積極的に、仏様の姿に心を集中していくときに、そこに「空」が経験されてくる。
「空三昧」が開けてくる。
この三昧を得れば、「空定」なることを得る、とか言われ、

念仏と 「空」 とがセットになっている。
ここが非常に大事です。

例えば 『般若心経』 というお経があります。
これはたくさんの訳がありますが、
一番最初に訳したのは、 鳩摩羅什三蔵 (くまらじゅうさんぞう) という方です。
それからもう一人は玄奘三蔵です。

二人の訳は最初が違っています。

鳩摩羅什訳「観世音菩薩」で、
玄奘訳「観自在菩薩」です。
だからこの菩薩様は全然違う人だと思うでしょう。

ところが、サンスクリットの原典からいえば、全く同じなのです。

元々の原語は 「アヴァローキテー・シュヴァラ」と言います。
これをアヴァローキタ、で切りますと、玄奘訳です。
イーシュヴァラというのは「自在」 という意味です。
アヴァローキタは「観」です。英語のルック(look)と似ているんです。
もともと英語もサンスクリットも、 もとは一つですから。
この 「イー」 を切り離した「シュヴァラ」 ですと、音です。
だから「観音」、鳩摩羅什の「観世音菩薩」 となります。
ですから 「観自在菩薩」 は 「空」 を説くし、
「観世音菩薩」は念仏を説くと決まっているようですけれども、
『般若心経』 に関していえば、
両方とも 「空」 を説いているのですが、
「観世音菩薩」という方は、そもそも念仏をしていた人なんです。
「観世音菩薩」が念仏をする主体でありながら、「空」 の主体であるということです。
それは例えば、中国に入っても全く同じです。
『般若経』 (これは無数の経典から出来ている)というと
「空」 しか説いていないと思われがちですが、
実は念仏ばかり説いていると言えるほどです。
また見仏ということを説いているので、
例えばサンスクリットの 『八千頌般若経』 を読んでみますと、
「空」 を悟って般若波羅蜜が実現していくと、
「十方一切の諸仏を見たてまつる」 という言葉が出てきます。
「般若空」 を体験すると仏様が見えてくるというのです。
我々には見えませんね。我々はエゴイズムが壁のごとくありますから。

その我々のエゴイズムから空へと解放されてきますと、
そこに仏様が見えてくる。
当然のことですね。

また 『般舟三昧経』 は、
三昧を得れば仏様とお会いし、
「見仏」するときには、そこで空が悟られていく。


だから一見、念仏と空は別々に思えますが、
実は表裏一体で、 一つのものです。

そこで、インド大乗仏教が中国に入ってきて、
そこからやがて禅というものができていきます。

縁起の構造下で実践を

インド大乗仏教は中国に入ってきて、
その一つとして禅が成立していきますが、
最初は禅宗なんて無いのです。

禅宗のお坊さんもみんなお念仏をしていたのです。

禅宗史でははじめの六人の祖師方が出て参ります。
その最初が達磨さんで、さらにその第四祖に道信という人がいました
禅宗はこの人から歴史的にはっきりと押さえることができるのですが、

実を言えば、この道信という方も念仏をして悟っていったのです。

中国の初期禅宗の歴史を調べる上で決定的に重要なものに、
楞伽師資記』 という本があります。
そこには、道信は一行三昧によって悟っていったということが書かれています。

一行三昧というのはどういう経典にあるかといいますと、
『文殊般若経』 という短い経典で、『七百頌般若経』とも言われたりもしますが、
それを読んでみますと、やっぱり念仏三昧が述べられているんです。
般舟三昧そのものです。
一行三昧 ekavyuha-samadhi というのは、
玄奘の訳によりますと一相荘厳三昧
すなわち如来のお姿に集中するということです。
そうすると、忽然として 「空」 の世界が開けてきたと書かれています。
姿も何もなくなっていくのです。

だからこの「空」という悟りが出てくる背景に、
やっぱり念仏がある
ということになります。

そして念仏ということは、
実は縁起の構造に基づいているということです。

皆さんは、 自分があって自分が仏様を念じていると思うでしょう。
自分の心があって、その自分の心が仏様を念じていると思うでしょう。
そう考えたら、マルクスに観念論だといって徹底的に批判されます。
でもそうではないですね。

念仏とは、
どこまでも仏様と私とが縁起の構造に立っての上でのこと です。

仏教は縁起だといいます。
でも縁起を考えるときに、
普通はまるで縁起を見る視点が切れたところで縁起を見ていますから、縁起にならないんです。

縁起とはどういうことかというと、
「これあるがゆえに、かれあり」でしょう。
また「彼あるがゆえに、 此れあり」 でしょう。
それが縁起の構造です。
英語で訳せば interdependence、 お互いが相手によって出てくるということです。
ただ一方的に出てくるのでは、 縁起ではありません。
圧倒的に存在して、 我々を支配するキリスト教の神様とは違います。
しかも 「これあるがゆえに、 かれあり」 という縁起の構造を考えるときに、
私がここにいて客観的に縁起を考察している間は、縁起にならないのです。
自分は固定して、ああだこうだ、というのは学問の世界です。
縁起とはそんなものではない。
そういう立場に立った途端に、 縁起という構造は消えてしまいます。
今の学問は全部そうです。

お念仏というのは、
私と仏とがましまし、その両者の縁起の構造に立つことをいいます。

そのことは、『般舟三昧経』という大乗仏教の最初の経典でもはっきり説いているんです。

「仏を縁ずることに心を向ける」。

仏を縁ずるということは、
仏を対象的にいろいろ考えるのではなくって、
自分を、仏を縁ずるという状況に置くということです。
最初は自分がお念仏をしている。自分が念仏をしていると思っている。
しかし本当はそうしているうちにいつのまにか縁起の構造に入っていくんです。
本来はそうなのですから。

それで道信という人は、
お念仏をしていると一切皆空になっていくということが、
『楞伽師資記』には書いてあります。
それからまた、こうも言っているんです。

「心を離れて別に仏あることなく、
仏を離れて別に心あることなし」。


お念仏が集中していきますと、 根源的な縁起の目覚めという状況になります。
私たちも念仏をするときは、心が働いています。
心を離れて別に仏様がいらっしゃるわけではない。
また念仏ですから仏様を念じているんですが、
「仏を離れて別に心あることなし」。
お念仏をしているうちに、いつのまにか仏様と私とが縁起の構造の中にあることになる。
そうして縁起の構造の中にあることで、実体としての自分がなくなっていることにもなる。
ただ 「空」 だ 「無」 だと言うのではなくて、

むしろ念仏のただ中で、「空」 の世界が開けていくということです。

私の古い友人で、 最初の 『般若経』 の 『八千頌般若経』 がどうしてできたかを追求している人がいます。
京大の仏教学出身の方で、 そこでしか考えようがないと論じていました。
すなわち如来を讃嘆し、 如来様と一体化し、 そして瞑想し、
そして法?していった人たちの中に、 般若波羅蜜の世界ができていった。

最古の般若経典である『八千頌般若経』 (漢訳では 『小品般若経』)というのは、
そこからできていったと言っています。

『八千頌般若経』 ができたのは紀元前一世紀頃です。
その後無数の 『般若経』 ができるんです。
『大品般若経』 『大般若経』 『文殊般若経』、それから何とか般若経、 何々般若経。
そして最後に『般若心経』 ができるのは、紀元四百年ころです。
ですから我々は、 最後の最後の 『般若経』 を読んでいるわけですが、

その最後の最後の 『般若経』 のしかも 「空」 のところだけを読んでいるから、
一見したところ念仏がないんです。

極端に簡略化されていますので念仏が出てこないのです。
でもずっと読んでみると、
本当は念仏の中の「空」 の世界なのです。

「空」 を離れて念仏はなく、念仏を離れて「空」 はない。

そこの処がわかるんです。
念仏を省略して 「空」 だけを説いているのが 『般若心経』 ですが、

四百数十年の『般若経』 の歴史を知らないものですから、
念仏と 『般若心経』 の空とは別々だと思っているんです。
しかし本当はお念仏をしている中に般若波羅蜜の世界が開けていくのです。

それからまた玄奘訳では「行深般若波羅蜜多時」とあって、
「般若波羅蜜多」が目的格になっているでしょう。
観自在菩薩が般若波羅蜜を行じたもうというところの漢訳では、目的格になっています。
ところがサンスクリット経典ではそうなっていないんです。

甚深なる般若波羅蜜の中で、
般若波羅蜜に包まれてその中で行ずる、

というのです。

サンスクリットには格が八つあり、場所の格 (於格) というのがあります。

それを玄奘三蔵がこの於格のところを目的格に解釈したために、
般若波羅蜜と空の実践とが分かれてしまった。
これは大問題です。

「心を離れて別に仏あることなく、仏を離れて別に心あることなし」。
これはまた縁起の構造でしょう。

ところが第四祖道信から心と仏とのこの二つが分かれていくんです。

「心を離れて別に仏あることなし」 と言っているから、
心が大切だということで心の面に集中していったのが禅宗です。

これに対して
「仏を離れて別に心あることなし」。これは念仏です。
仏を離れて別に心があるわけではないと言っているのに、
浄土宗の人たちにとっては、心がどこかに行っちゃったんです。

しかしこれは両方とも片手落ちです。

やっぱりお念仏をしているときに、
仏との縁起の関わりにおいて
我々自身の心が限りなく開けてくるところがあります。

西田幾多郎や京都大学の哲学科の人たち (京都学派) の多く
やはり禅宗的な傾向が強いので、
心のほうへ重点が行って、仏様がどこか浮き上がっていくんです。

逆に、「仏を離れて別に心あることなし」 と言われているのに、
浄土宗あるいは浄土真宗の人は、心の問題がどこかへ行ってしまい、
死んだら極楽へ行くということばかり言う。

道信という方は、 六世紀の終わりから七世紀にかけて、
ちょうど中国に禅宗ができるころにお出になって、
最初は念仏をして、 「空」 の悟りを開かれたけれども、
一旦、 「空」 の世界が開かれてきますと、
そこで 「空」 というか、心の立場が強調されていって、
他のほうが消えていきます。


禅宗と浄土宗との分岐点は、 私は道信にあったと思います。

それから禅宗と浄土宗とが分かれていく。
日本に来てもやっぱりそうです。

ここでもう一度、縁起という仏教の根源的な地平に戻って、
そこで考えることが必要です。


日本の仏教は宗派仏教といって、
浄土宗だ、真宗だ、禅宗だ、その宗派の中だけしか考えることができないでしょう。

どうしても部分的になって、全体が見えなくなっていきます。

そういう問題が、わかっている人はわかっているんですけれど......。

大乗仏教という一つの大きなつながりの中で、
一番肝心な問題が消えていきます。


『般若心経』 で「空」だ「空」 だと言って唱えることは大事ですけれども、

念仏によって、その「空」が体得されて、
その人の上に空が働き出してこないといけない。


お念仏をしていますと、般若波羅蜜の世界が開けていく。
また、「空」 の実践をしている中でお念仏が出てくる。
二つは一見、表面的に違うようですが、一つの事柄です。
お念仏をして「空」の世界が開けてきますと、解放されていくんです。
そのときに、実は皆さん一人ひとりが観自在菩薩になっていくわけです。
自在というのは解放という意味です。一人ひとりが解放されていく。
観自在菩薩というどこかに一人の特殊な偉い人がいて、
般若波羅蜜を行じていると書かれていますけれども、

本当は皆さん一人ひとりが観自在菩薩になっていって、
初めて大乗仏教になっていく
のです。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-10-13

「徳本行者の修行地を巡って」~弁栄教学等からの考察


 【誕生院】
  2018100801.jpg

徳本行者は、幼き頃から道心深く、
誕生寺裏には、行者が幼少時に念仏した洞穴があります。

また、誕生寺には、『徳本行者絵伝』が残っており、
時々、絵解きも行われています。

徳本行者の伝記等は、
福田行誡編著『徳本行者伝』の他にも幾つかありますが、
今回も、定番のこの福田行誡編著『徳本行者伝』を中心に記していきたいと思います。

『徳本行者伝』は、現代人の目からは、
不可解さ、怪しさ、不信さえいだきかねない内容
も結構あると思われます。

今回は、弁栄聖者の行状、弁栄教学等と対比させて考察いたします。
この書の読解の一助になれば幸いです。

 20181008-1.jpg


 【往生寺】
 2018100802-2.jpg

27歳の時、
大円大徳について得度、徳本と称す。

往生寺再建等のため、
大円大徳と共に、勧請等に精を出される。

その二年後、大円大徳逝去。

  2018100802-1.jpg  2018100802-3.jpg


 【月照寺】
 2018100803.jpg  2018100804.jpg

福田行誡編著『徳本行者伝』では、「月正寺」と表記。

徳本行者16歳の時に、
住持大良和尚について別時念仏、併せて水行も修す。

16歳~18歳頃、
廻国行者に「一枚起請文」を付属さる。

ここに既に、徳本行者の生涯に決定的な影響を与えた、
「一枚起請文」とのご縁が結ばれます。

ただし、徳本行者の行状等をおっていきますと、
"浄土宗捨世派"の系譜には収まりきらない実態
が徳本行者にはあるように思えてなりません。

徳本行者のご生誕地である紀州和歌山。
熊野詣でで、古来から全国的に知られる熊野三山、
高野聖の活躍した高野山もある、
そういった様々な宗教的風土の濃厚な地域
それらの地域性も十分考慮する必要があるように思われます。

28歳の時、
住持大良和尚と共に、念仏修行を修す。
徳本行者は、
昼は、「月照寺」付近の丸山を巡り念仏、夜は、堂内礼拝。
一日炒麦一合。30日間修す。

「何事も一道を貫通せんと思はんものは、
艱難苦行を経て練磨を重ねざれば
其妙処に到るものにあらず、
何事も初めはかたき事に思へども
漸くにしておのづから平易の場にいたるものなり」


と徳本行者は、この頃、人に語っておられます。

ここにて、千津川・須ヶ谷の苦行を発願。

 2018100805.jpg  2018100806.jpg

「月照寺」から数百m程行った山中に、
「徳本行者の初行の洞窟」があります。

 2018100807.jpg  2018100808.jpg

 2018100808-0.jpg  2018100809.jpg

  2018100810-1.jpg  

この辺りから、周囲の雰囲気が変わってきます。

ここは、
熊野古道、熊野神社、那智大社、高野山のある紀州和歌山。

 2018100810-3.jpg  2018100810-4.jpg

この場所にさしかかった時、
不思議な、妙な気分に襲われました。

「deja vu」、既視感!とでも云いましょうか?

何処かで、見たような光景・・・
あっ、そうだ!
弁栄聖者が二十代の半ば頃に籠って修行された、
”三昧発得の修行地”、茨城県「筑波山」!

古来から、
「西の富士、東の筑波」と並び称されてきた霊山。


「芝増上寺(時の東部管長)行誡和上は、
かねてこの青年沙門日頃の行持を聞き伝えて、
「東から名僧がでる」
とよくいっておられた」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

福田行誡上人にとって、
西の名僧が、徳本行者なら、
東の名僧は、弁栄聖者
であった、
のかもしれません。

※ 福田行誡上人と弁栄聖者には、 50歳程の開きがあり、
徳本行者と福田行誡上人も同様、50歳程の開きがありました。

 2018100811.jpg

弁栄聖者、「浄土宗捨世派」、「木食」僧が、
籠って修行されたと伝えられる岩屋、洞窟等に実際に行ってみて、
ほぼ確信できた事実があります。

それは、籠られた修行地である、
「岩屋、洞窟等の近くには、湧水がある。」
という共通点です。

"肉体"といった「生理的制約」を持った人間には、
水は不可欠だからでありましょう。

また、例えば、 信州唐沢山阿弥陀寺に参詣されれば、
「霊山と云われる山中の湧き水には、何処か神秘性がある」
と自ずと感得される
かと思われます。

 2018100812.jpg


【徳本行者初行洞窟】
 2018100816.jpg

 2018100815.jpg

弁栄聖者の三昧発得の修行地、
筑波山の「立身石」、女体山の「護摩壇の岩屋」を彷彿とさせます。

 2018100817.jpg

ここ数年の実地調査、文献等から、

弁栄聖者御遺稿の学問的研究書ともいうべき、
山本空外上人編『辨栄上人書簡集』において、

「その夏筑波山入山、
立身・北斗両石上各一ヶ月の三昧証入となり」と。

弁栄聖者の筑波山中での御修行場所を、
「立身・北斗両石上」とされた断定表記は、
後世に誤解を生む
と確信するに至り、
ここに信憑性のある推定を改めて記します。

弁栄聖者の篤信家、吉松喜久造氏は、
聖者の筑波山での御修行地について調査された結果、
次の如くに、結論されました。

「聖者が最初、男体山で寝泊り、雨宿りなさったのは、
男体山岩屋で、二、三人は入れる位のほら穴で、
立身石より約百米位下にある。
聖者は日中は人目を避けて男体山岩屋で念仏し、
登山者が帰ったあとで、百米上の立身石上の巌上で
一心専念に念仏三昧をされたという。
この岩屋から更に約百米位下に、
水の湧き出る御海(みうみ)が位置し、
この湧き水にて聖者は炊事をして居られたと伝えられる。

この立身石での御修行のあと一か月間は、
女体山岩屋、北斗石、護摩壇石付近かと推定される」。


弁栄聖者の筑波山での御修行場所を明確には断定できかねますが、
現時点では、吉松氏の説が最も信憑性が高い。


なお、徳本行者、「木食」僧、弁栄聖者においても、

「長期間籠られた「窟屋」は、
人里から全く閉ざされた山奥ではない。」


このことは、
肉体を持った人間、他者の存在を不可欠とする人間、
そうした「様々な心身の制約のある人間」の修行法を考察する場合、
決して見落とせない視点かと思われます。


 2018100818.jpg


【尊光寺】
  2018100819.jpg

「上人堂」とも呼ばれ、
徳本の水行跡に、その遺徳を偲んで建立したお寺。

 2018100822.jpg

29歳時、
ここ、千津川落合谷にて、苦行6年間に及ぶ。

避穀断塩のうえ、近くの落合川で水垢離をとり、
五体投地高唱念仏の荒行を修す。

この「避穀断塩」の実施には、逸話あり。

徳本行者が修行中、この地に、
増上寺学侶が訪ねて来て、
「昔弾誓、澄禅の両大徳は木食草衣にて、
久しく山居修行されたとのこと。
行者の修行はこれに非常に似ている。」
と。
「我もその志しである」と徳本行者は答えられ、
それより、この「木食行」を行われた。
※ ちなみに、 「木食」とは、「木喰」の誤りではなく、修行方法。
一般には、「木喰」といえば、
木喰行道(木喰五行、木喰明満)上人を指すことが多いです。

なお、平成30年は、木喰生誕300年にあたり、
平成30年10月21日まで
山梨県身延町の「なかとみ現代工芸美術館」で、
「生誕三百年 木喰展 ~故郷に還る、微笑み。~」が開催中です。


福田行誡編著『徳本行者伝』には、

「避穀断塩の苦行は山居巌棲の際(あいだ)、
事の煩はしさを省くの方便なるのみ。」

と記されていますが、

この「木食」行の五穀断ち修行には、
"修行上における生理学的効用"といった観点からも、
考察する必要があるかと思われます。


後に、徳本行者は、弾誓・澄禅両上人の遺跡巡礼をされます。

徳本行者の行状等を考察する場合、
弾誓上人について知ることが不可欠
かと思われます。

 2018100820.jpg

「徳本行者水行座石」

 2018100821.jpg  2018100823.jpg

 2018100824.jpg  2018100831.jpg

 2018100825.jpg

 2018100832.jpg  2018100833.jpg

光明会の『如来光明礼拝儀』が置かれています。

「上人堂」にある木魚。

 2018100826.jpg

寺内にある「書継ぎ名号石」にまつわる逸話は、
よく知られた徳本行者の霊験譚の一つ。

村民が病難を防ぐため、村に名号塔を置こうと、
村の河原で探しましたが、
その石に疵があったのでそのままにしておいたところ、
ある朝、石屋の表にその石が置かれていました。
石屋は近くの寺の法師に名号を書いてもらい、南無の二字を彫刻。
今度はその石が、自分を慕って飛んできたことを聞いて、
この石に十念を授け、残りの「阿弥陀仏」を、
「書き継がれた」とのこと。

 2018100827.jpg  2018100828.jpg

この現象を見聞した村人達が、不思議がっていたところ、

「凡夫の極楽に往生するは、
石のおのずから飛び来るよりも不思議なり」

と徳本行者は仰られました。

真偽のほどは、暫く置くとしまして、

これと似た御教示は、弁栄聖者にもあります。

「宗教家は奇蹟を現わさなくてはつまりません。
釈尊のお弟子でも多くの人が
釈尊の教理に服して入道したのではなく、
釈尊の奇蹟に驚嘆してお弟子になっております。」

また、
「予言ができるとか、病気がなおるとか、
そんな奇蹟がなんの価値がありましょう。
凡夫が仏になる。
これほど大きい奇蹟がまたとありましょう。」

※ 熊野好月氏への御教示には、「水の上を歩く」ことも含む。

と 、(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)に、
木叉上人は、慧眼にも、併記されています。

"宗教者徳本行者の衆生済度の在り方"を考察する場合に、
不可欠な両つの観点。



笹本戒浄上人は、より具体的に、

「私共凡夫は、
神変不思議を目のあたり見せられますと驚いて、
その神変不思議に興味を感じ、
仏道修行上最も大切な成仏という事を忘れて仕舞います。

成仏とは涅槃と菩提とを完全円満に成就する事であります。
そしてその為には如来様の御力を信じ、
お慕い申して如来様に同化されて
完全円満な霊的人格を成就しなければなりません。
衆生済度の目的は実に其処に向かわせる事にあります。

ですからうかつに相手かまわず神変不思議を見せますと
必ずといってよい程仏道修行の道から脱線して仕舞います。

然し又、神変不思議を現ずる必要のあるものには時期を逸せず、
御力を発揮して見せるという事もできなくてはなりません。

弁栄上人様はそのような御心を以って
私共を成仏へとお導き下さいました。」と。


 2018100829.jpg  2018100830.jpg

【水垢離の行場】
 2018100834.jpg

広懺悔誦して水垢離、五千~一万の礼拝。
寒風肌刺し全身ひびあかぎれ松皮の如し。
礼拝のたびに鮮血ほとばしる
までなりましたが、

かつて人に語りては、
「仏道修行は一旦艱難をしのぐが大事なり、
三ヶ年の後にいたりては、
いかなる難行の場にいたりても、
一身痛悩する程の事はなきものなり」

と、いよいよ修行に励まれました。

人目には荒行そのものでしたが、
徳本行者御自身の意識とは違っていたかもしれません。
仏の御加護(他力)の致す処と推察いたします。

その後、ある無言にて別行の折、
激しい下痢をされ、
或いは赤く或いは黄のものを多く下し、
十二三日過ぎて平癒。
その後、一しほ身のかろき事を覚えた」
と。

ここで、注目すべき点は、
身体の変容過程です。

修行とは、一般的に心、精神、魂の浄化と捉えられがちですが、
身体の浄化も必然的に伴うものである
ことは、通常、見落とされがちかもしれません。

 2018100835.jpg

ここ、千津川周辺での約6ケ年に及ぶ苦行の後、
弾誓上人ゆかりの京都古知谷の阿弥陀寺に参詣された時、

「此ころまでは
頭髪肩にたれ錫杖を突きたるさまを見て、
弾誓上人の再来なるべし
など土人(ところのひと)は申合ひけり。」


徳本行者の修行形態、風貌等は、
奉行所からも怪しまれ、増上寺から弁明書を幾度か提出されています。

徳本行者は、「浄土宗捨世派」に属し、
生涯法然上人の「一枚起請文」を以て、
自行他化の鏡
とされたとは、通説ですが、
どうも腑に落ちないところがあります。

確かに、形式は、南無阿弥陀仏の高唱念仏ですが、
念仏の内容については、検証の余地があるように思われます。


ここで、徳本行者が尊崇された弾誓上人にふれておきたいと思います。

弾誓上人に関しては、
資料が著しく少なく、文献のみによる研究はかなり困難であると思われます。

『徳本行者全集』代表編者戸松啓真氏の論文、
「近世浄土宗における捨世派の成立
ー 称念と以八と弾誓について ー」

(『大正大学研究紀要 仏教学部・文学部 72号 1986.10』)に、

「近年信濃の宮島潤子氏が弾誓の遺跡ならびに遺品の調査をして、
弾誓にふれ「木食上人弾誓の生涯と思想」、「弾誓と徳本」の論作で
弾誓を広い立場から考察し
単に捨世派の人師としてみるだけではなく、
円空に先行する木食上人、作仏聖遊行聖
としても考えられることを述べ、
思想的には、天台系融通念仏、
さらに真言覚鑁の密教思想の影響
などについても
資料をあげて述べられている問題提起の力作である。」
注目されています。

「弾誓研究」といえば、
宮島潤子氏、五来重氏の研究を以て嚆矢とし、
不勉強の誹りを招きかねませんが、
現在のところ、
両人の研究成果を凌駕する著作、論文等にお目にかかれておりません。

特に、宮島潤子氏の「弾誓研究」姿勢、
力作『万治石仏の謎』等に通底しているのは、
いわゆる"研究者"のそれではなく、
弾誓上人への敬愛の情に基づく、
弾誓上人(人と思想)に肉薄せんとするその篤き情熱。

大きな感銘と感動さえ覚えます。

伊藤唯真氏は、
『五来重著作集第十巻 木食遊行聖の宗教活動と系譜』
解説「五来「ひじり」学のフロンティアー木食遊行聖の世界ー」において、

「木食聖の研究においては、
地元研究者の協力が何より必要である」


と期待を寄せられています。

弾誓上人との関係においていえば、管見では、
円空上人の郷土史研究家として知られる、
『[修験僧] 円空 研究成果と課題』の著者、
岐阜県美並村の池田勇次氏も挙げられるかと思われます。

郷土史研究家でもある、
「弾誓、木食研究者」宮島潤子氏と
「円空研究者」池田勇次氏両人の
弾誓上人への共通の関心事は、
「弾誓自筆譜脈」「宝冠の弥陀の弾誓」に象徴される、

「阿弥陀如来即大日如来、即身成仏という信仰」
にあります。

弾誓上人は、佐渡でのご修行中、
弥陀から直説法を給はれました。

「一夜清朗にして岩窟特に寂莫たれば
心もいとど澄みわたりて念仏もっとも勇猛なり。
その時岩窟変じて報土と成れり。
教主弥陀如来、大身を現じて微妙の法を説給ふ。

大日如来釈迦如来及び一切諸菩薩衆、
星のごとく列りて虚空界に充満せり。
時に弥陀尊、直に上人に授記して
十方西清王法国光明正弾誓阿弥陀仏と呼びたまふ。
その説法を書記して弾誓経と名く
説法既に終る時、
観音大士手づから白蓮所乗の仏頭をもって上人に授け給ふ。
是伝法の印璽なり。」
(『弾誓上人絵詞伝』)

弾誓上人が念仏により即身成仏を果たしたとされた時に、
大日如来と阿弥陀如来が共に描かれている点が、
真に興味深い点です。

弁栄聖者は、自内証の上から、
「大日と弥陀」及び「弥陀と久遠実成の仏」(法華経)」を、
同体異名
と明言されています。

また、
「弁栄聖者の光明体系の構想にあたり、
真言密教のある経典から示唆を受けた」
とも。
(弁栄聖者から藤本浄本上人への御教示)


弾誓上人に関する文献は、とても少なく、
特に、上述の宮島潤子、五来重両氏の文献は必読かと思われます。

○ 宮島潤子著『信濃の聖と木食行者』
〇 宮島潤子著『万治石仏の謎』
〇 宮島潤子著『謎の石仏ー作仏聖の足跡ー』

〇 五来重著 『五来重著作集第十巻 木食遊行聖の宗教活動と系譜』

〇 鈴木昭英著『越後・佐渡の山岳修験 修験道歴史民俗論集.3巻』

他にも次の方々の著作等も参考になります。


〇 西海賢二著『漂泊の聖たち―箱根周辺の木食僧』
〇 西海賢二著『江戸の漂泊聖たち』
〇 吉田幸平著『弾誓譚―ある修験僧の生涯』
〇 池田勇次著『[修験僧] 円空 研究成果と課題』
〇 「佐渡の木食上人」(田中圭一先生講演録 第八集)
〇 田中圭一著『地蔵の島・木食の島』(私家本)
〇 「41 それは佐渡から始まった
ー木食弾誓とその後継者たちー(1)」
(佐渡出身の方のブログ「石仏散歩」)



一方、徳本行者は、
平生のお言葉に、
我れ念仏する時は即ち阿弥陀仏なり。
説法する時は即ち釈迦なり、
とぞのたまひける。
聖道門にはかかる伝へもあれど、
浄土宗にてはかくまでには申さぬぞ教限なるべきを、
師の自得し玉へるさまおのづから経論の至理に符合せるを、
其まま仰せられし
もいとめずらしくなむ。」

と、増上寺法主の福田行誡上人は、
幾分懐疑的にも記されています。

「師の自得し玉へるさま
おのづから経論の至理に符合せる」


とは、真に、意味深長な表記。


「私は経文に依って演繹的に説くのではない。
帰納的に説いておる」

(弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示)

「経典に依るのでなく、
御自身の体験せられた如来様の事実※から
帰納的に光明主義の教学体系を組織せられた、
という意味である。」(笹本戒浄上人のご教示)

※「御自身の体験せられた如来様の事実」とは、
「三身四智の仏眼」の境界における認識。

更に、
「真生同盟」提唱者土屋観道上人への弁栄聖者のご教示として、

「キリストが此の世に出て説いたものが新約聖書となって、
それ以前のユダヤ教経典が旧約聖書となったように、
今後の宗教は光明主義経典を以て新約聖書となし、
従来の一切経をもって旧約となすべきである」

と(弁栄上人が)おっしゃったことが、今尚私の心に遺っています。」
「弁栄上人の思い出」『大悲に生きる 観道法話』)


徳本行者の御道詠には、
法然上人の御道詠同様、
浄土宗の伝統的な宗乗の枠を超えた
徳本行者の自内証が吐露されたお歌が幾つもあります。


〇 「口先で唯心己心をいふたとて
知らねば仏は十万奥土」


〇 「一心に南無阿弥陀仏をいふ時は
我が阿弥陀か阿弥陀が我か」


〇 「本地あらわす南無阿弥陀仏
いつも替らぬもとの姿を」


〇 「徳本は南無阿弥陀仏の異名にて
帰りて見れば主なりけり」



弁栄聖者の「仏々相念の讃」には、

「人仏牟尼は一向に 本仏弥陀を憶念し
本仏弥陀の霊徳は 牟尼の身意に顕現す
入我我入は神秘にて 三密正に冥合し
甚深不思議の感応は 是れ斯教の秘奥なり」

斯教とは、弁栄聖者提唱の光明主義


ここで、ふと思い出した逸話があります。

杉田善孝上人から、
この聖者の「仏々相念の讃」を聞かれた 数学者の岡潔博士

(岡潔博士) 「成仏しても他仏を拝むのですか?」
(杉田上人) 「はい、成仏しても、本仏大ミオヤを拝みます。」


一般に、浄土教において、
「真実の自己」とは、あまり耳にしませんが、
「真実の自己」の認識にも浅深があると云われています。

「 『臨済録』は、慧眼で体大法身と合一した時の如来の大我。
『瑜伽論』は、仏眼で体大法身と合一した時の如来の大我。
『光明主義』は、
三身四智の仏眼で法身の中心である絶対の報身と合一して、
その体大法身の最も深い部分、
法身の最も重要な面と合一した時の如来の大我。」

(『笹本戒浄上人全集 中巻』)


「我といふは絶対無限の大我なる
無量光寿の如来なりけり」(弁栄聖者)


「この我は真我のことで、
弁栄聖者の真精神の御教示では、
真我には、
"絶対の報身の最高最深の
いつも変わらぬあり通しの永遠の生命"と
"法身の粋である絶対の報身"の二義がある。」

戒浄上人は仰せられた。
(『「笹本戒浄上人伝」笹本戒浄上人全集 別巻』)


「絶対の報身が真実の自己でありながら、
お慕い申すと無限にお育て下さる。
故に唯一独尊の報身をお念じ申し、
お慕い申さざるを得ない。」

(『辨榮聖者 光明主義注解』)

弁栄聖者が三昧直観された、
釈尊、最晩年の善導大師、法然上人、徳本行者が、
外部には漏らされずに、
三昧証入され、示寂
された、
三身四智の仏眼の境界。
弁栄聖者の真精神、
"平等と差別に偏しない絶対中心の中道の念仏"。



 【西法寺】
 2018100836.jpg  2018100837.jpg

 2018100838.jpg 2018100839.jpg


【須ヶ谷山 岩室山】
 2018100840.jpg

それほど急な道ではありませんが、
麓から頂上までは、徒歩で二十分~三十分ほど登っていきます。
結構しんどいですから、
小型の車で、可能な限り登って行かれ、
そこから徒歩で行かれるることをお勧めします。

 2018100841.jpg 2018100842.jpg

徳本行者の弟子の尼僧、
「本名、本勇の墓」。

2018100843.jpg

徳本行者の或る尼僧救済に関する逸話。

「= 尼の色欲 =」(岡本鳳堂著『改訂再販 徳本行者』)によります。

徳本行者の弟子である尼が念仏修行中に、
色欲が頭をもたげ、念仏に集中できずに悩みに悩み、
とうとう意を決し、恥を忍んで師である徳本行者に相談されました。

徳本行者は、黙ってお聞きになり、
憐みのお顔をなさって、

「膝を、開きなされ。」といわれました。

よりによって師である徳本行者の前、
女の身、そんな恥ずかしことはできない。
ところが、徳本行者はしずかにお待ちになっています。
羞恥心と緊張のため膝が硬くなり、思うようになりません。
それでも徳本行者は威厳を整えお待ちになっています。
やっとのことで少し膝を開げることができました。
その時、徳本行者が、力のこもった「お十念」を授けられると、
電気のようにビリビリと肉体を走りました。
その後、尼には、再び色欲が起こりませんでした。


善導大師は言うに及ばず、
法然上人、弁栄聖者においても、
とでも想像出来ない生々しい徳本行者の御教化。

法然上人には、『一百四十五箇条問答』がありますが、
それはあくまで、言葉による問答。

弁栄聖者は、いわゆる"清僧"でありましたが、
私達が思い描きがちの"聖人"とは違っておりました。

笹本戒浄上人によりますと、

「 慧眼、法眼が開けた、三昧中に如来様を拝んだ。と申しましても、
温かい人間味の欠けた、
浮世の酸いも甘いも噛み分けないような三昧は雑念
であります。
弁栄上人は一生独身でいらっしゃいましたが、
夫婦の愛情の機微にも通じた
本当に人間味も豊かな大慈悲の聖者
でござんした。」
(笹本戒浄上人述 泉虎一記
『辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』)


また、杉田善孝上人は、
「弁栄聖者は、仲睦まじい夫婦関係の機微を、
大円鏡智によって、御存じでした。」

と、御教示されたことがありました。

なお、
(笹本戒浄上人述 泉虎一記
『辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』)は、
2018年(平成30年)9月に発刊
されました。

hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。
一冊二千円(送料別)。

この書は、「弁栄教学」の上からも極めて重要な書であり、
同じく極めて重要な書である
(『辨榮聖者 光明主義注解』)は、芦屋聖堂から発刊されていますが、
非常に高価で、とても重く、携帯には不向きです。


平澤伸一氏は、
笹本戒浄著『真実の自己』等の発刊者でもあります。
また、平澤氏は在家でありながら、自宅を解放され、
長年に渡り、定期的(毎月一回)に、念仏・勉強会を開催。
現在の光明会には幾つかの系譜がありますが、
平澤氏は、弁栄聖者→笹本戒浄上人→ 杉田善孝上人の系譜。

 
 2018100844.jpg 2018100845.jpg

同じく「蜜柑の産地」ということもありましょうか、
ふと、愛媛松山と似た風景を思い出しました。

この辺りの地域で、
徳本行者は、害虫退治のため、
また、古戦場の亡霊のための念仏廻向をされました。

もちろん、弁栄聖者も亡霊のための念仏廻向をされました。

なお、念仏廻向に関してですが、
田中木叉上人は、その働き方を、

〇 生者 → 死者
〇 生者 → 生者
〇 死者 → 生者
〇 死者 → 死者


と四通りに分けて御教示されています。


2018100846.jpg

 2018100847.jpg 2018100848.jpg

『徳本行者行場跡』

  2018100849.jpg

 2018100850.jpg


【徳本行者直筆之碑】
 2018100851.jpg

「修行中における魔境」について、
徳本行者は次の如く御述懐されています。

「勇猛につとむるころは内外に魔鏡きそひ起りて、
こわいなるかな宿業にかと
身の毛もよだつばかり覚ゆる事屢ばなり、
この時更に心を動ぜずして
深く三宝に護念をこひ奉りて
いよいよ専心に勤修おこたる事なければ、
魔境次第に消滅してやがて安穏の場に至るなり。

さればすべての事一際の越えがたく忍び難き処にいたる時、
みずから励しいよいよつとむれば、
後々は任運にすすむものなりとぞ語られける。」



弁栄聖者も徳本行者同様の御教示があり、

「魔事といひ業相といひ、
三昧修養の不調より惹起すべき心的現象なり。」

(「三昧と魔事」『弁栄聖者光明体系 無対光』)
( 書籍はこちらで、 PDF版はこちら)

と喝破されております。

徳本行者の同郷紀州の明恵上人にも、
同様の御教示があります。


杉田善孝上人は、
「修行における魔境について」
次の如く御教示されています。

「如来様のお慈悲にもたれかかる修行をすると、
業相に耐える力がついた後に業相が出る、
というようにさせて頂く。
そうでないと、はじめから業相が出る、
または修行成就しかかると
自分の弱点に業相が出て修行が止まる、
というように魔境が起こる。」
と。

 2018100852.jpg 2018100853.jpg

だいぶ長くなりましたが、
もうしばしお願いいたします。


或人が「口先ばかりにて唱える念仏は益なし」
と言ったのを耳にされた徳本行者は、

「そな言ひそ。
人間にても業障深きものは決して念仏は申されず、
今口先ばかりにても念仏の申さるる人は
宿縁開発の人なりとぞの玉ひける。」


〇 「口先であみだ仏々いへばよい
心なくして言はれるものか」(徳本行者)


弁栄聖者は、
「米粒名号」を善巧方便として授け
られました。

「口があっても念仏が口に唱えられない。
米粒に書かれた南無阿弥陀仏を読み、口に出す、
その一言が仏縁となって、如来様のお救いにあずかる」
と。

また、
徳本行者の粉挽唄の一部に、

「極楽に望みなくとも南無あみだ仏
うわの空でも申しておきやれ
弥陀の大悲で三途におちぬ
遂にけまんにみちびくぞ
けまんつくれば浄土に往生」


「三生果遂の願」。

「一心にお念仏しておれば、
三代生れ変る間に必ず親様のお世継になれます。
これは事実でございます。
私は決してうそは申しません。」
(笹本戒浄上人の御教示)



小金の東漸寺、檀林寺院の貫首宣契大和尚が、
徳本行者自身の日課念仏の数を尋ねたのに対し、
「念々不捨に念仏昼夜しばしも間断なければ
日課を定むることなし」
と。

「念々不捨とは申せども
一食の間もなお間断あり、
況んや上人は平生念仏の御いとま、
説法に力を用ひ給うことなれば、
無間修の名は如何にや」
と重ねて問うと、

徳本行者は居住まいをあらためられ、
「吾は四才の時より無間修の行者なり。
たとへ聖徳太子には及ばずとも
念仏説法の両途を一時に勤むるに
何の難きことかあらん。
大和尚には未だ念仏の数の足らぬより、
かかる疑ひの生じ給えるなり」
と。
大和尚はその時、
徳本行者が実地の修行者であることに感服


弁栄聖者は人に念仏を勧めるのに、
ご自身では念仏を熱心に称えているようには見えない
のを、
率直に意見した信者に対し、

「弁栄は、昔は一日十万遍、
血尿が混じるほど念仏を称えたが、
今の方がよほど念仏している。
・・・行住座伏、寝息に至るまで念仏となっていた。」


また、
徳本行者には、病気平癒の念仏「服薬名号」の授与といった、
現世利益的側面があったことも、
当時"生き仏"として崇められた要因として、見逃せない点。

もっとも、"現世利益"には、多種多様な意味合いがあります。

ただし、医学、科学が現代ほど発達、普及もしておらず、
また、自然災害の影響が現代以上に甚大であった、
という江戸時代の状況も考慮する必要があると思われます。

弁栄聖者は、
「念仏に現世利益があるのは、当然である。」

とご自身の念仏体験上から、
当たり前の事実として、身近の者に漏らされたことがありました。

「産気づいた妊婦が、弁栄聖者の米粒名号を呑んだ後、
しばらくしてから生まれてきた赤ちゃんが、
聖者の米粒名号を握って生まれてきた。」


これは、明治、大正期の話。
何とも不可思議な現象ですが、このようなことが結構あったそうです。


福田行誡編著『徳本行者伝』に記されている、

〇 「内心慢心をいだき、徳本行者を見下しながら、
会いに来た者の心中を見抜き、度肝を抜かしたこと。」


〇 「翌日会いに来る者とその者の未来を予告されたこと。」


弁栄聖者においても、
この種の話は、日常茶飯事でした。

特に印象的な弁栄聖者随行者による逸話を一つ。

「笹本戒浄上人と田中木叉上人のお二人は、
弁栄聖者に面談される時、聖者のお部屋に入られず、
次の間で聖者に礼拝され、何も言わずに帰られました。


不思議に思い、その理由を木叉上人に聞かれましたが、
笑ってお答えになりませんでした※ので、
(※ おそらく、その理由を言っても信じてもらえないからと推察されます)
戒浄上人にお尋ねになると、
「覚者は、口に出して質問をしなくとも、
相手の質問をちゃんと分かっている。
口に出して質問せねば相手の考えていることが分からぬようでは、
覚者とは言えぬ。」と。


弁栄聖者の
三身四智の仏眼に依る大円鏡智の働き。

ただし、ここで、留意すべき大事な点があり、

「仏の完全な大円鏡智は、
特別に意志を働かさなくても、
肉眼といつも同一時に活動している。
認識的一切智を実現していられる仏は
大円鏡智で宇宙の一切を任運自在に感じていられる。

ただし、「宇宙の一切のこと」と申しても、それは、

成仏の中心道を直進する上で核心となり急所となるもの、
自行化他の道において尊く価値のあるもの、
一切の衆生を中心道に導く対機説法で有効適切なもの、
お互いの心を明るく清く楽しく豊かにするもの。

もしも、そのような意義深いもの以外のものまでも
朗々と感じているのであれば、
それは、真実の仏の円満な認識的一切智ではない」と。

( 『笹本戒浄上人伝』)

更に、
徳本行者の母堂がご覧になられた徳本行者の奇端。

「母堂ののたまひけるは、
まず謝し申すべきは上人は
毎朝時も違はで
御十念授け給はる事のうれしさよ。


朝毎に光明の中に
師の十念の姿を拝みまいらすなり。」


徳本行者の奇端話として、
さらっと読み飛ばしがちの箇所かもしれませんが、

弁栄聖者にも同種の逸話があり、
仏眼を得た聖者の自内証に依らねば、
理解の糸口が掴み難いかと思われます。

仏眼を体得されていた、
笹本戒浄上人によりますと、

「仏眼に依る"分身利物"の働きである」と。

"分身利物"とは、
『妙法蓮華経 観世音菩薩普門品 第二十五』に、
「観世音菩薩が三十三身を自由自在に示現する」
ことを説かれていますが、

これは、おとぎ話の類ではなく、

仏眼にも浅深があり、

「自得し玉へるさまおのづから経論の至理に符合せる」は、
仏眼、大円鏡智に依る認識力ですが、

大ミオヤにより、更に、霊育を頂きますと、
意志的方面が更に深く開発され、
如来妙観察智が分相応に応用可能となり、
分身利物の働きが分相応にできるようになる。

戒浄上人は御教示されています。

また、
同じく仏眼を体得されていた、
田中木叉上人は、

「人に如来様やお浄土を見せてやれる能力を得た人が仏眼である。」とも。
(冨川茂筆記『田中木叉上人 御法話聴書』)


浄土教においては、
伝統的に、阿弥陀如来の慈悲を全面に説きますが、
真実浄土門においては、
"三身即一の大ミオヤ"の慈悲と智慧の両面を説きます。

「師の自得し玉へるさまおのづから経論の至理に符合せるを」
と『徳本行者伝』に記されているように、
徳本行者が、生涯に渡り、一文不知のままであったかは、
疑問が残ります。


弁栄聖者が、よく本を読まれていたのを
随行者の佐々木為興上人が不思議に思われ、

「聖者は三昧発得していらっしゃって
何でも分かっていられるから、
本など読まれなくてもよいでしょうに」

と聖者に尋ねになったところ、

「いや、それはいけぬ。やはり本を読まぬといけぬ」
と言われたので、
「どういう訳ですか」
と重ねてお尋ねになると、

「それは、お念仏していれば
大宇宙の事柄が一切分かるようになる。
分かるけれどそれは観念的に分かるのだ。
書物を読むと書物に書いてある事柄と
自分の観念として得ている事とぴったりと合う。
認識にしようとすると思うと本を読まねばならぬ。
本を読む事によって認識となるのだ」

と聖者はお答えになられました。

笹本戒浄上人と弁栄聖者との間にも同様の問答があり、

「私も観念としては得ておるが、
認識的一切智では釈迦さんに及ばない。
この世界で認識的一切智を得ておられたのは
釈迦さんばかりだ」


とは、弁栄聖者の戒浄上人への御教示。

「肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼が円かでありませんと
円満な仏とは申されません。
弁栄上人様がそのようにお勉強なさいましたのは
肉眼※を得られるためであります。」

※ 肉眼には、五感と理性を含む。

また、

「認識的一切智のことをよく誤解しておられるようでござんすな。
一切智の代わりに法則の意味の知を用いて
認識的一切知として考えるとよろしゅうござんす。」
(笹本戒浄上人述 泉虎一記
『辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』)


とは、戒浄上人の極めて貴重な御教示。

(笹本戒浄上人述 泉虎一記
『辨榮聖者 光明主義玄談 巻一』)
が、
2018年(平成30年)9月に発刊。

hirasawa@hanzomon-m-clinic.jp 宛にメールでも、注文可。
一冊二千円(送料別)。

また、
弁栄聖者は、
大ミオヤの「智慧と慈悲と威神」、
「神聖・正義・恩寵」を説かれていますが、

これも、従来の浄土教においてはあまり言わないことですが、
念仏による功徳として、自ずと具足されてくる威神力

徳本行者の念仏の姿を見て、
"剣の極意を悟った"剣豪白井亨の逸話も伝記に記されています。

これは、如来成所作智の働き。


如来四大智慧については、
三身四智の仏眼を体得された弁栄聖者の独自認識によるもので、
『弁栄聖者光明体系 無辺光』※に詳述されています。

(『弁栄聖者光明体系 無辺光』)。
( 書籍はこちらで、 PDF版はこちら)


「念仏に物憂き人は
無量の宝を失うべき人なり。
念仏にいさみある人は
無辺のさとりを開くべき人なり」(法然上人)



最後に、
徳本行者研究の必読書、福田行誡編著『徳本行者伝』についての留意点。

歴史書等一般に言えることですが、
それが書かれた動機、歴史的背景等の知識等の観点が不可欠。

「大基和尚略伝」(「浄土宗全書18」所収)によりますと、

同(文化)十一年の頃、
将軍文恭公日蓮宗を信し、浄風漸く振はす。
縁山典海大僧正深く之を憂ひ、
鸞洲上人に諮る。
上人答て曰、徳本行者盛徳非凡、今紀州に 在り。
宜しく當地に請して宗光の扇揚を図るへし」

典海による請待の背景には、
将軍家斉公の日蓮宗への傾倒があった
ようです。

なお、このことは、
福田行誡編著『徳本行者伝』には記されていません。

これは、
学術研究論考ともいうべきブログ

「徳本行者の生涯と思想」

に教えて頂きました。感謝いたします。

徳川政権の権力者の庇護下にあった浄土宗が、
"法然上人の純粋の精神のままに存続し得た"と考える方が無理があります。


なお、弾誓上人(1552~1613)と徳本行者(1758~1818)の
修行形態、権力者との関係等の違いには、
生まれ育った時代背景、すなわち、
江戸幕府による宗教政策等の影響も大きいと思われます。


弁栄聖者は、政治、伝統宗教の両権力を極力避けられました。

「信仰と宗教組織との関係」。

人類の永遠の課題かもしれません。


徳本行者の示寂後、200年経った現在においても、
徳本行者の信奉者がおられるのは、
弁栄聖者の場合も同様ですが、
念仏による"現当二世の利益"を民衆に感得せしめた、
念弥陀三昧力に依る奇端等が根幹にあることは確実です。

ただし、それだけではなく、
徳本行者においては、
「日課念仏の誓約」、「徳本名号札の授与」といった、
徳本行者ご自身との直接間接の関係があり、
「徳本講」という組織、
永年に朽ちることのない「徳本名号石」等も見落とせないと思われます。


長々とした拙文を最後までお読みいただき、
ありがとうございました。

この記事が、
徳本行者理解の一助になれば、ありがたく存じます。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-09-09

「法然上人以来、徳本行者ほど内感豊かな念仏者は無い」(弁栄聖者)


【誕生院】
2018090201.jpg

2018090202.jpg

2018090203.jpg 

この石碑は、
知恩院門主山下現有大僧正の揮毫。


和歌山県日高町にある「誕生院」

 2018090206.jpg  2018090207.jpg

徳川治宝公の書による扁額。

徳本行者は、1758年~1818年、
江戸期後期に活躍された”浄土宗捨世派”に属すると云われます。

弁栄聖者が、1859年~1920年ですら、
徳本行者は、聖者の100年程前にご生誕され、
聖者が御遷化される100年程前に御遷化された聖。
世寿が、奇しくもほぼ同年齢。

○ 「徳本行者のような悟りをお開きになったお方は古来ない。
その三昧は、深くして深かった。」


○ 「古来、三身四智の仏眼を体得」されていたのは、
釈尊→善導大師→法然上人→徳本行者である。」

とは、弁栄聖者の笹本戒浄上人へのご教示であり、
弁栄聖者の「徳本行者観」

ここで真に興味深いのは、
三身四智の仏眼を体得された聖方の内、
徳本行者だけが「学のある者ではなかった」
という点です。

此処に、”徳本行者御出世の因縁”
即ち、”大ミオヤの深意”
を強く感じます。

弁栄聖者は、「大乗非仏説」に対して、

「大乗経典とは、
三昧定中における、”永遠の生き通しの大乗釈尊”による、
出世間の三昧を開かれた聖方への直説法である。」


と喝破されています。

”その生き証人こそ、正に徳本行者であった”ということです。

悟りにも浅深があり、
悟りは、知・情・意・感覚全面に関わりますので、
知的面での認識力と、
意志的側面での実行力(法力)に、浅深が生じ
ます。

「悟りの浅深とは、
大ミオヤに依る霊育程度(霊化)の差(しゃ)別。」


念の為ですが、
弁栄聖者の(神)仏身観に依りますと、
”大ミオヤ”とは、「超在一神的汎神」であり、
聖者が提唱された「光明主義」とは、
「超在一神的汎神教」故、
その悟りの内容は、宗派諸宗教を包超しています。

徳本行者の行状を、
浄土宗乗の枠に捕われずに丹念に検証されれば、
自ずと頷かれると思われます。

なお、
法然浄土教は「易行道」と云われています。
徳本行者は、「浄土宗捨世派」と云われており、
激烈な苦行修行とも云い得る”浄土宗捨世派の念仏者”である、
称念、弾誓、澄禅、忍澂、無能、関通、法岸、法洲、法道、以八、学信、穏冏、徳本、徳住
の各上人に於いて、
反って、”法然上人の念仏精神が真に生かされている”という逆説は、
一考に値する
と思われます。

「徳本行者の真骨頂は、
行者の説法ではなく、
徳本行者の行状(行住坐臥)と
和歌にこそ顕現」
していると推察されます。

ここで、
この記事における表記について、
一言お断りしておきたいと思います。

この記事においては、
「徳本行者」との表記を主とし、
「徳本上人」との表記は特別の場合に限っています。

「徳本行者」との「行者表記」の方が、
相応しいとの感触
によるものです。

  2018090208.jpg

「木魚 伝 徳本所用」
徳本行者の念仏修行により、”叩き抜かれた木魚”

この画像では分りにくいですが、反対側も穴が開いています。
六ヶ年に及ぶ千津川落合谷での苦行の際のものと伝えられています。

弁栄聖者にも同様の”穴の開いた木魚”が、
千葉県松戸五香「善光寺」に残っていたと記憶しています。


また、「誕生院」には、『徳本上人絵伝』があります。


  2018090209.jpg  2018090210.jpg

「徳本上人念仏行場」

少年の頃、
友人に手伝ってもらい洞窟を造り、念仏行場としました。

  2018090211.jpg


  2018090212.jpg  2018090213.jpg

  2018090214.jpg

「徳本上人十念名号塔」
徳本行者の熱心な信奉者、兵庫の吉田喜平次氏達が建立。

  2018090215.jpg

 2018090204.jpg  2018090205.jpg

誕生院近くの徳本行者の御生家は、
現在残っていません。


【一行院】
 2018090216.jpg

東京都文京区千石にある「一行院」
徳本行者が示寂の地。

 2018090217.jpg

「徳本行者墓」

1818年10月6日、
「一行院」にて、御遷化。
世寿61齢。

なお、
「徳本行者異聞 八木季生」
(戸松啓真編代表『徳本行者全集第六巻』)
には、
徳本行者のお墓に関する代々の口伝が、初披露されています。

「徳本行者在世中、
自分の亡きあと百年以上経ったら
遺骨を掘り起こしてほしいということを、
秘に側近の弟子に言い残された」
と。

 2018090218.jpg

徳本行者に関する必読書としての筆頭に挙げられるのは、
福田行誡編著『徳本行者伝 上・中・下之巻
附録 法弟小伝総目』


福田行誡編著『徳本行者伝』の基となった、
小石川「一行院」に所蔵されていた徳本行者の伝記六十余巻を、
弁栄聖者は、この一行院で、お読みになっていたようです。

予期せぬ悲劇が起こりました。
蔵に入っていたにも関わらず、惜しくも、
昭和20年5月25日夜半の東京大空襲により焼失。

ところが、幸いなことに、その写本が、
愛知県岡崎の「荒井山九品院」に伝えられていました。
和歌山「無量光寺」にも同筆、同体裁の写本が現存。
また、九品院本を底本として昭和34年に書写されたのが、”大正大学本”
なお、この大正大学本の写本には、
椎尾弁匡増上寺法主のご尽力がありました。

昭和55年には、
戸松啓真大正大学教授を中心とする
『徳本行者全集 全六巻』がめでたく刊行され、
九品院所蔵『徳本行者伝』を含む大部の徳本行者に関する著作が収録されました。

詳細なる解説については、
田中祥雄「解題 徳本行者全集全五巻書誌解説」
(戸松啓真編集代表『徳本行者全集 第六巻』)

をご参照ください。

なお、この全集の第六巻は、研究編で、
大変興味深く示唆に富む論考が多数ありますが、
特に、”徳本行者の悟りの内容(深さ)”に関する論考としては、
○ 「徳本行者の禅的性格 藤吉慈海」
○ 「徳本行者の宗教体験と念仏思想 ー聖と俗の間ー 峰島旭雄」

の両論考を、特にお勧めいたします。


第六巻の「あとがき」に、戸松教授は、

昭和四十八年であったか南紀に調査に行った時、
不自由な体で案内の役をかっていたゞいた
松田良信氏も今は故人である。
手をにぎり「たのんます」といわれ、
合掌して別れた思い出は、
思い出としてだけではおさまらなかった。」


思わず目頭が熱くなりました。

松田良信氏は、
弁栄聖者の直弟子中井弁常居士とも親交のあった、
徳本行者の篤信者にして、
「徳本行者奉讃会」の中心人物。


  2018090242.jpg
【福田行誡上人(1809年~1888年)】

「徳本行者 伝 例言 九条」『徳本行者伝』によりますと、
行誡上人は、
小石川一行院にあった徳本行者の伝記六十余巻を基に、
三巻本として編著。

その際の編著方針がこの九条ですが、
”行誡上人により取捨選択がなされている”点は留意すべきです。

徳本行者の行状を具に検証するに於いて、
特に留意すべき事項としては、

○ 「事奇怪に互りて常人の疑を生ずべきものあり。 
かくの如きものはおほよそこれを省く。

ひそかにおもんみれば、師の一世の行履上中下の三等あり。
今の伝は其上と下とを省いて、しばらく中等に就てこれを記録す。
人の不信と軽謗を防がんがためなり。」
とあります。

おおよそこれを省く」とありますが、
行誡上人編著『徳本行者伝』にも、
現代人の眼には奇怪と思われるものが数多く含まれています。

徳本行者の伝記は、
何処が伝説で、何処が史実であるか、
現代人には、その判別が甚だ困難です。


また、行誡上人は、この例言九条の最後に、

○ 「・・・昔は仏世尊弟子のために神通を現ずることを呵し、
また異を顕し衆を惑はすことを誡め玉へり。
本伝をよまんものすべからくまづこれを知るべし。」

と釘を刺されています。

徳本行者の全貌を捉えるためには、
徳本行者のこの”奇怪さ”から眼を逸らしてはならず、

徳本行者の「行者性」、
その神秘性、不可解さ、怪しさを、如何に読み解くか

が、読者側に問われているように思われます。

「徳本行者の魅惑は、
その多くを「行者性」(神秘性、不可解さ、怪しさ)におっており、
徳本行者に接した者に、
念仏に依る”現当二世の利益(功徳)”の顕現(体現)を、
まざまざと感得せしめた点にあった。」


ここでは、
この心象だけを指摘するに留めます。

とはいえ、
福田行誡編著『徳本行者伝』は、
「三身四智の仏眼を体得」された徳本行者ならではの、
とても興味深く、同時に示唆に富む行状

が記されている箇所が幾つもあります。
その箇所を、是非記して置きたいのですが、
記事が長くなり過ぎますので、
今回は一点だけ記しておきます。

徳本行者は、
京都獅子谷「法然院」とはご縁が深く、
此の地で、それまでの行者風の”長髪長爪の異相”を改め、
江戸、小石川伝通院にて、宗戒両脈を相承。

上京の際には、ここ「法然院」に泊まられていました。

その頃典寿律師と云う優れた学僧がおられ、
或る時、徳本行者に、『華厳経』の大旨を講じられた時、

「律師の学解やや大菩薩の悟道にせまれり、
栂尾の明恵上人の再来にやなど、師ものたまえり。」


徳本行者は、学問が達者ではありませんでしたが、
難解な「華厳哲学」を理解されていました。
真に不可思議なことではありますが、
「念仏三昧発得」により、”大ミオヤの四大智慧”を頂かれていた
と考えるのが自然かと思われます。

ここで、、
鈴木大拙著『日本的霊性』における「妙好人」を、
思い浮かべる方が居られるかもしれません。

『華厳経』とは、
”仏眼を体得された大菩薩”がお説きになった「大乗経典」と云われています。

徳本行者は或る時、
難解な華厳哲学である”重々無尽の縁起”
目の前に流れる小川に即して、さらさらとお説きになったので、
徳本行者のご境涯(認識力)の深さに、
華厳の大学者が驚嘆されたことがありました。

杉田善孝上人が、この逸話を思い出されたからでしょうか、
数学者岡潔博士に、
「小川の流れを、数学的に説明できますか?」
と問うたところ、
「ハイ出来ます」
と数学的に見事に説いて下さったそうですが、
その内容は、残念ながら残っていないようです。

徳本行者は、
現代の「流体力学」の原理を御存じだったことになります。


さて、
田中木叉上人も『日本の光(弁栄上人伝)』における著述方針について、

なおちなみに記す。 
全篇にわたり各個人のうろ覚えの口述による資料は、
全国蒐集材料綜合判断上甲乙矛盾し、あるいは不確かなること往々あり。
史学研究法に準じて検討取捨の結果怪しきものは記載せず。
むしろ記載せざれざりし事により、
丁寧なる調査吟味を費したることをここに付記す。」
と。

この点に関して、
弁栄聖者の信奉者でもあった岡潔博士は、ご生前、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に関して、
「現代人の理性に配慮し過ぎている処がある。」
と洩らされたことがあったそうです。


ついでながら、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』の初版は、
昭和11年9月で、
木叉上人編纂の弁栄聖者の御遺稿『ミオヤの光』の発刊が、
昭和9年までかかったとはいえ、
弁栄聖者御遷化後、十五年程かかっています。
奇しくも、山本幹夫(空外)著『弁栄聖者の人格と宗教』の初版が、
同年昭和11年10月に発刊されています。
また、
この翌年、昭和12年7月には、
笹本戒浄上人がご遷化されています。


ここで、
福田行誡上人と弁栄聖者の関係について触れて置きたいと思います。

行誡上人と弁栄聖者の関係については、
田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』に数ヶ所記載されていますので、
「明治期の名僧として知られた福田行誡上人程の方は、
さすがに弁栄聖者の真価を御存じだったのだ」

という程度の認識でした。

ところが、
この記事を書くにあたり、
行誡上人編著『徳本行者伝』並びに行誡上人ご自身に関する伝記、
更には、徳本行者に関する論考等を拝読していた時、

「徳本行者→(福田行誡上人→)弁栄聖者」

の系譜がふと頭を過ぎりました。

行誡上人の強い信念であった、
八宗兼学の精神」、「僧侶の戒律復興」を、
弁栄聖者が生きられたからというだけでは、
大切な何かが抜け落ちているように思えてなりません。

「行誡上人にとって弁栄聖者とは、
幼き日に出逢った徳本行者の再来だった」
のではないか。

田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』には、

○ 「当時の増上寺法主は徳望古今に秀でたる行誡和上で、
疾(つと)にこの青年沙弥の比なき法器に嘱望し、
爾来ずっと推称しておかなかった。」


○ 「明治二十一年浄土門主行誡和上は遷化さるる前に、
知恩院よりわざわざ法門付属のお墨付きをそえて
二十五の大衣を上人に送られた。」


この箇所を読まれた読者の中には、
俄かには信じ難いと思われる方もおられると思いますが、
田中木叉上人の弁栄聖者の御伝記の記述は、
史実を調べれば調べるほど、
真実、事実であることが史料等から裏付けられ、
木叉上人の”冷静で淡々とした筆致”に、
かえって驚かされることが多い
という印象をいだきます。

逆に、徳本行者に関する学者の論考等に、
「徳本行者と弁栄聖者の関係の指摘、記述が皆無に等しい。」
この現象は、反って、訝しく、不思議
です。

管見するところ、
「徳本行者と弁栄聖者との関係」を明確に指摘されているのは、
東京芝増上寺ご法主、八木季生台下のみ。」
(参考:「徳本行者異聞 八木季生」(戸松啓真編代表『徳本行者全集第六巻』))

なお、八木台下は、「一行院」の前住職で、
「一行院」には、
徳本行者のお近くに、弁栄聖者のお墓
もあります。

2018090241.jpg

行誡上人と弁栄聖者に関する記述を続けます。

「行誡上人御遷化の前
二十五条の袈裟を弁栄上人に附属し
態々送りし事を目撃せしが今いづこに在るものか、

行誡上人はその遺法伝持の任が弁栄上人にあることをしめしものにて
御墨付きも附き居たりしものなり。」
(「行誡上人の袈裟附属 館林善導寺主 塚田英亮師談」
『ミオヤの光』縮小版三巻249頁)


※ 参考文献:「館林市善導寺調査報告 新発見光明資料 27 
ひかり編集室 金田照教」 『ひかり』2018年8月号


これは、
金田照教( 香阿昭教‏ @ganyosyoukyou)氏のご教示によるものですが、
史料発掘として、大変貴重な発見であり、ご指摘。

行誡上人が遷化に際し、
弱い三十歳に満たないまだ年若い青年僧山崎弁栄に、
わざわざ二十五条袈裟を贈られている事実は、
大方の『福田行誡上人伝』において、
殆んど看過されている史実

ただし、
この「行誡上人のその遺法伝持」には、
行誡上人の幼き心眼に焼付いた、

「威貌堂々士庶敬服す。
音声枯渇すれども響き林谷に徹す。
婆心丁重にして聴く人感涙するに至る。」

徳本行者の面影
が彷彿とされ、
青年沙弥山崎弁栄の将来像と徳本行者が重なって
おられたと推察いたします。

「徳本行者の自内証の真髄は、
弁栄聖者の研究を通してこそ信解可能である。」

とさえ云い得るように思われます。


【荒井山九品院】
 2018090219.jpg  2018090220.jpg

 2018090221.jpg

愛知県岡崎にある「荒井山九品院」。

徳本行者の高弟、徳住上人の開基。

先述の小石川「一行院」に所蔵されていた徳本行者の伝記六十余巻の写本、
「九品院本」を所蔵。

おそらく、
未公開の徳本行者に関する本を所蔵されている可能性は大きいと思われます。

 2018090222.jpg  2018090223.jpg

 2018090224.jpg

「徳住上人の墓」

 2018090225.jpg

 2018090226.jpg

本堂の裏手には、とても立派な、
「徳本上人の名号石」があります。

 2018090227.jpg


近くには、
松平(徳川)家ゆかりの寺「大樹寺」があります。


【無量光寺】
  2018090228.jpg

和歌山市内にある「無量光寺」

  2018090229.jpg  2018090230.jpg
 
  2018090231.jpg

先述の九品院本同様の写本を所蔵。

 2018090232.jpg

「無量光寺の名号塔」
平成九年 徳本行者百八十回忌記念の大きな青銅の名号塔。
側面には、徳本行者のお歌が彫られています。

【徳本行者 辞世の句】
「南無阿弥陀仏生死輪廻の根を断たば
身をも命もおしむべきかは」



 2018090235.jpg

「無量光寺の名号碑」

裏側には「仏子塚」とあります。
餓死者、病で亡くなった方々の遺骨がおさまっています。


【大雄寺】
  2018090236.jpg

 2018090237.jpg  2018090238.jpg

飛騨高山にある「大雄寺」

徳本行者の名号石は、日本各地に多数有りますが、
此処の名号石は、「日本一大きい」と云われ、
高さ4.5M(台座含むと6M)、幅1.3M。

徳本行者の筆跡は、とても独特ですが、
祐天上人の筆跡を模倣したものとも云われています。

昨年、2017年(平成29年)は、
徳本行者の200回忌(※1)でしたが、
祐天上人の300回忌(※2)でもありました。

また、祐天上人、徳本行者も、
江戸期に活躍され、当時の民衆は勿論、
将軍徳川家からの信もとても篤く、
正統的な浄土宗の枠内には収まり切らない不可思議さを持った御方。

なお、弁栄聖者は、
徳本行者は勿論、祐天上人とも不思議なご縁がありました。

「「出家したいなあ」とおもいながら、
棹をとってたちあがれば、
薄くらがりの水に浮ぶ一冊の本、
拾えば奇縁、それは祐天上人の伝記であった。」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)


(※1) 有田市郷土資料館特別展図録
『念仏行者徳本 ー200回忌記念ー』
発刊。

(※2) 祐天上人300回忌を記念して、
『祐天上人の名号石塔』を発刊。

 2018090239.jpg  2018090240.jpg


今回は取り上げませんでしたが、
和歌山県内で、徳本行者ゆかりの地は他にもまだあり、
主だった処を列挙しますと、

○ 「往生寺」:大円上人について得度。
○ 「月照寺」:大滝川、大良上人につき、本格的な念仏三昧修行に入る。
○ 「尊光寺」:六年の苦行地「千津川」落合谷」
○ 「西方寺」: 「岩室山」、有田市宮原町の修行地。


などがあります。

徳本行者に関する本は現在入手し難いかもしれませんが、
幾つかの参考文献を挙げておきますので、
徳本行者とのご縁の一助になれば真に幸いです。

○ 福田行誡編著『徳本行者伝』
○ 戸松啓真編集代表『徳本行者全集 全六巻』
○ 松田良信発行『徳本行者傳』
○ 松田良信編著『徳本行者 言葉の末』
○ 八木季生発行『徳本行者傳 全』
○ 岡本鳳堂著 『改訂再版 徳本行者』

○ 中野善英著『徳本行者』
○ 井上豊太郎著『念仏大行者徳本上人傳』
○ 塩路善澄著『徳本行者を慕いてー郷土での足跡』
○ 有田市郷土資料館特別展図録
『念仏行者徳本 ー200回忌記念ー』

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-08-06

「南葵光明会」創始者、中井弁常居士による弁栄聖者の御法話「聞き書き」等


前回は、
中井常次郎(弁常)居士による弁栄聖者の想い出、
弁常居士と「南葵光明会」及び「弘龍庵」等について書きました。

大正8年9月(※)に、
弁常居士は、弁栄聖者に出逢われ、
最晩年の聖者のお別時、御法話会等に可能な限り参加され、
その時の貴重な「聞き書き」、聖者の行状等を遺して下さいました。
※ 聖者の御遷化は、大正9年12月。

もちろん、聖者の御教え、行状等は、
田中木叉上人がご編纂された『弁栄聖者 光明体系』等、
木叉上人著『日本の光(弁栄上人伝)』等によって、
知ることができます。

中井弁常居士の記録は、
弁栄聖者の最晩年の御法話記録、行状等であり、
また、聖者にお逢いされた直接ご本人の記録であるだけに、
およそ百年前の出来事でありながら、
当時の出来事が、臨場感をもって感じることができるように思われます。

引用には、
引用者の境涯、思想・信条、理解力が如実に露呈
しますので、
畏れ多いことではありますが、
中井弁常居士の弁栄聖者に係る記録はとても貴重であり、
有益な点が多いと思われます。

そこで、今回は、
弁常居士著『乳房のひととせ(上巻)』(昭和三十六年刊)と、
弁常居士著『乳房のひととせ(下巻)』(昭和十八年行)に依り、
弁栄聖者の御法話記録、行状等で、
特に印象に残った箇所を記して置きたいと思います。

なお、本書の主要な記録が、
「一般財団法人 光明会」のHPにアップされています。

また、中井常次郎(弁常居士)著『如来光明礼拝儀講義』
(増補改訂第四版(初版は昭和16年6月))が、平成30年4月に出版されました。


 201808054.jpg
 【大正9年10月 弁栄聖者 61歳】
 (「勢至堂の念仏三昧会」、京都市知恩院勢至堂前石段の下にて)
 ※ 二列目、向かって右側の御婦人(藤堂クラ氏)に抱かれている子供は、藤堂恭俊師。


【「念仏」に係る弁栄聖者の御教示】

○ 「念仏三昧、見仏三昧の成就をめざして別時をつとめよ。」

○ 「如来は智慧であり、同時に姿である。
弥陀の身心は法界に遍満す。
・・・念仏すれば、如来は真正面に現はれ給ふ。
けれども或る衆生には、仏の在す事が解らぬ。
三昧の鍵を以て浄土の門を開け。」


○ 「活きてまします如来様が、
今、わが真正面に在す事を信ぜよ。
これを仰信と云う。」


○ 「初めは、肉眼で、まことの仏が拝まれぬから、
画像を掲げて、如来様を思ひ上げるのである。」


○ 「初めは、仏の御姿は拝めない。
それでよい。心に帰命の思ひが起ればよい。
南無阿弥陀仏と称へて、帰命すれば、
仏様は我が心に宿つて下さる。」


○ 「如来を尊く思へば、思ふほどよろしい。
無上の尊敬を献げる事によって、距りができ、
愛によつて、如来を離れぬ。
この二つが調和を得る事が大切である。」


○ 「仰信は初歩であつて終りである。
この中にねうちが有る。
ま受けすれば、十分なる力が与へられる。
仰信から解信、証信と進むのであるが、
証を得るのは一部分である。
一分の証を得てから初めて仰信に帰るのである。」


○ 「如来を愛するは、霊性より来る。
これは最高の愛である。」


○ 「聖徳太子の念仏法語に、
念仏は情に在りて、理に非ず。」

○ 「浄土教は、聖道のやうに、理屈は云はぬが、如来を慕はせる。
これは浅いやうに見えるけれども、
深く仏心に入り、徹底した、最も深い悟りを得る法である。

如来の相好は、慈悲の現れである。
仏のみ姿拝む者は、仏のみ心を見奉る。
如来を見奉れば、慈悲の心は自ら湧き出でる。」
※ 「大原談義に曰く
人をして欣慕(ごんも)せしむる法門は暫らく浅近に似たれども
自然悟道の密意は極めて是深奥なりと。」


○ 「我はただ仏にいつか葵草
心のつまにかけぬ日ぞなき(法然上人)

法に念仏と見仏と観仏と有るが、
此の歌は念仏を詠んだものである。
観仏は理性を鎮め、心を澄まして仏を映す法である。
念仏は感情的に如来を念(おも)ふて救はれる法である。
親子の情を進ませる処に念仏の温味(あたたかみ)がある。
理性を澄ます観仏には温味が無い。」


○ 「観音さまは念仏行者の模範である。
宝冠に阿弥陀如来を戴いているのは、
常に仏を念じて忘れぬことを示されているのである。」


○ 「見仏は帰命の信念に依るもので有つて、
観仏と違ふ。
口に称名するとも、乱想起らば徒ら事である。」


○ 「念仏三昧とは、仏思ひの心を常とし、
仏と自分とを一つにする事である。
口に仏名を称へても、心が仏を離れては念仏三昧でない。
念仏中に悪い思ひを起こせば、悪人になる。
良くない事を考へながら念仏のまねをしてはいけません。」


○ 「称名の音声に功徳あるのではない。
称名念仏とは、み名を称えて救いを求める事である。」


○ 「真宗では、南無阿弥陀仏の文字に功徳ありと云ふが、
そうではない。
如来は現に、ここに在して、
吾等がその御名を呼べば聞いて下さるから有難いのである。
善導大師は「衆生、行を起こして、
口に仏を称すれば、仏之を聞き給ひ
乃至意に仏を念ずれば、仏之を知り給ひ、
衆生仏を憶念すれば、仏も亦、衆生を憶念し給ふ」
と云つて居られる。
絶対なる法界は、時間、空間に障りなし。」


○ 「本当の仏壇は、各人の宮殿内に安置しておかねばなりません。
家の仏壇を金銀で飾りより、
心の宮を荘厳するように心がけねばなりません。」



  201808055.jpg
  【大正9年10月 弁栄聖者 61歳】
 (京都市知恩院勢至堂に於ける別時念仏三昧会の記念写真の拡大写真
  弁栄聖者のお写真としてよく知られる写真の原版は、この写真)


【「大ミオヤによる霊育過程」に係る弁栄聖者の御教示】

○ 「光明主義は南無の二面即ち
救我と度我の二つを完備して居る。
・・・真宗の欠点は、度我の願ひの少い事である。
度我に就ては、真宗は如来に任せ切りである。」


○ 「如来の世嗣となるには、
娑婆に在る間に、其の資格を作つて置かねばならぬ。
・・・娑婆では心が研け易い。
・・・念仏して、心が研けると、霊性が有る事が知れる。」


○ 「宗教の宗教目的は、人格の完成即ち成仏である。」

○ 「雑念を起こすまいとすれば、益々起こるものであるが、
それに捕われぬやうにせよ。
妄念が起こる度に、根気よく振り捨てて、
仏おもひの心を起こして居れば、
だんだんと妄念が薄らぎ、奥の心が現はれて来る。
太陽の光よりも強い光明を見る。
その光に因つて心は清められる。」


○ 「霊の実を結ぶ高等な信仰は、
米を作るやうに育てねばならぬ。」


○ 「急に心の花が咲くものでない。
常恒不断に念仏して、お育てを蒙らねばならぬ。」


○ 「闇消えて、日出づるに非ず。
太陽出でゝ闇去るのである。
・・・如来の光明に遇ふから、罪消えるのである。
病気を治してから入院すると云ふのは、まちがひである。
大病なる故に入院して治して貰ふのである。
これが光明主義である。」

※ (註) 田中木叉上人の御法話に、「念仏病院」とのご教示あり。

○ 「欲は必ずしも悪いものではない。
霊化とは有害なる欲を有益にする事である。」


○ 「習慣→必需→病的→悪弊症
これらの悪弊症を除くには、それに代はる良きものを与えるのがよい。
一心に念仏すれば、生まれつきの汚れが除かれて、
自然に善い性が現はれて来る。」


○ 「霊化の度が大きくなれば抜苦与楽の功徳も深くなり、
善行力も大きくなる。」


○ 「拝む如来は大きくとも、小さくとも、
絶対(宇宙精神)より現はれて下さるのであるから、
絶対に信頼すべきである。」


○ (弁常居士)
「「きよきみ国」のお歌に「日々に六度の花の雨」と有りますが」
(弁栄聖者)
「阿弥陀経に説かれてある浄土は真実である。
三昧が進むと、華の雨が降る。この世の花とは、少しちがふ。
三昧にはいれぬのは、心が汚れて居るからだ。
念仏により、心が浄化されると、浄土や仏様が見えて来る。
信仰の進むに連れて、如来は限りなく大きく現はれる。」

※ (註) 笹本戒浄上人の「お浄土の音楽」についてのご教示。
「お浄土の旋律は娑婆の音楽とは違う。
『聖意の現はれ』は、お浄土の旋律を表わしたものだ。」


○ 「光明主義は実感の上に立って居る。」

○ 「五(読拝・礼拝・観察・称名・讃嘆供養)正行
これは喚起、開発、体現に通ず。」



【「弥陀の本願」に係る弁栄聖者の御教示】

○ 「弥陀の本願とは、
宇宙現象の終局目的とする摂取の光明に、
吾等が照らされ育まるゝ本然の理を、
人格的に見、具体化して名付けたものである。
故に本願は四十八ヶ条に限つた事ではない。」


○ 「第十八願 如来の願は
衆生に親の如く円満なる徳を譲りたいと云ふ事である。」



  201808053.jpg
【大正9年7月(弁栄聖者 61歳)
 横浜市久賀医学博士宅にて(弁常居士撮影)】

※ この写真の裏に聖者の和歌あり
「誰もみな同じ地水のかり物を
など辨栄と名ずけたりけん」



【「戒律」に係る弁栄聖者の御教示】

○ 「最も重い罪は、己が仏性を殺す事である。
即ち成仏せぬのが最も大きな罪である。
吾々は仏性を育てるために生かされて居る事を知らねばならぬ。」


○ 「殺生戒は生物に限らず、
機械、器具の如き物までも生かして使ふ事である。
水でも無駄使ひをしてはならぬ。」


○ 「有漏とは肉の心、無漏とは聖き霊なる心である。」
※ (註) 「肉の心」とは、
弁栄聖者の笹本戒浄上人のみへのご教示と理解していましたが、
それは、誤解でした。

○ 「肉体に衣食住の必要ある様に、
心の上にも、これが必要である。
信仰の人となれば、如来より、
清浄無垢の衣、法喜禅悦の食、
光明心殿の住居が与へられる。」


○ 「「神通は難化の衆生を度すために使つて良いが、
徒に凡俗に示すのは沙門のすべき事ではない。
木鉢のために神通を現はし人々の歓心を買ふ如きは、
賤むべき事である」と(釈尊は)誡められた。」

※ (註) 弁常居士は科学者でもあったため、
「神通」なるものを、当初全くの空事と考えていましたが、
弁栄聖者の御遷化の後、しばらくして、自身の認識力の浅さを認められました。


【「仏身論」に係る弁栄聖者の御教示」】

○ 「十二光仏を研究すれば、宇宙は活ける霊体なる事が解る。
大乗仏教は釈尊が霊性によつて宇宙を見た実感を伝えたものである。」


○ 「経文の文字の解釈が解つただけでは、
その心が読めたとは云はれぬ。
宇宙全体が活きた経文である。
それを仏眼で見たまゝを書いたのが文字の経文である。」


○ 「西方極楽
西とは方向の義ではなく、終局といふ意である。
十萬億土とは、距りの遠さを云ふにあらずして、
佛と凡夫との差を意味する。」


○ 「キリスト教に新教と旧教とあるやうに、
仏教にも、之れと似た事がある。
法蔵仏、西方十萬億土を過ぎたる彼岸にある浄土等は旧教にて、
釈迦正覚、娑婆即寂光は新教である。
釈迦を肉眼で見れば人間であるが、
仏眼を以て見れば阿弥陀仏である。」


○ 「人間の身体は大み親の霊体に似て居るから、
人体を美の極みだと美術家は歎美する。
・・・仏身は生理的の身に非ずして、霊妙なる身である。」

※ (註) 「生物進化の結果、私共人間の姿も如来様の御姿に似てまいりました。」
と笹本戒浄上人は別時念仏の際に云われました。
戒浄上人は、弁常居士のこの本の此処の箇所を示して、
「これは如来様の事実です」とご教示下されました。
(参照: 「凡聖の巻」『弁栄聖者 光明主義注解』 )

○ 「ここの処(礼拝儀を指して)を
「摂化せられしをわり(終局)には」と書き替えよと仰せられた。
説法中にご注意下さったから、記しておく。」


大正9年3月 知恩院勢至堂別時中でのこと。
※ (註) 『如来光明礼拝儀』のこの「無対光」の箇所は、
改訂前は、『摂化せられし人は皆』となっていましたが、
誤解を起こさぬようにとのご配慮から、
弁栄聖者御遷化後に、
笹本戒浄上人の校訂の後、現形のものに改訂されました。
なお、
事情は分りませんが、
土屋観道上人創設の、
「観智院(真生同盟)」では、
この「無対光」の箇所が、改訂前の文言となっています。

○ 「往生浄土に二つの意味がある。
大原談義に往生に「かわる」と云ふ訓がある。
即ち往生とは弥陀の光明中に生れかわる事である。」


○ 「仏の本体は浄土に在つて、分身を娑婆に出す。」
※ (註) 「無余即無住処涅槃=成仏」即ち「往相還相」に関する弁栄聖者の真意」

○ 「今は、これを述べない。
(筆者が上人に「妙観察智が抜けました」
と申し上げたのに対し、上の如く、お答えになつた。
御遷化後、聞いた事であるが、
妙観察智は奥伝として、
一般人に説かぬ方針であつたそうである。)」



  201808052.jpg
 【大正9年6月 弁栄聖者61歳】
 (京都市恒村医院内、茶室の間にて
 中井夫妻、恒村夫妻、徳永あい子、谷安三、鈴木憲栄各氏と共に)


【弁栄聖者の行状】に係る中井常弁居士による逸話

○ 「弁栄上人のお話は、
聞いて居ると、もどかしい
けれども、
書き留めて味へば、慈味尽きず、齢と共に光を増す思ひがする。
その一言一言が、胸に響き、膽に滲み、
啓蒙、恐縮、驚嘆、信頼、帰依、敬慕の情が油然として湧いて来る。」

※ (註) 「伝道とは饒舌に喋ることではない。
心の内にはたらくものが相手にはたらくこと。
故に弁栄聖者は「伝燈」とも云われた。」(田中木叉上人)


○ 「私共が争ひやいたづらなどするのを見られても、
だまつて居られる事が多かった。
良くない事やまちがいを申上げても、
頭からしかつたり否定されず、「それでも宜しい」と云はれた。
それで私共は、この「でも」を頂けば「いけない」のだと心得て居た。」


弁栄聖者の御教えの解釈を巡って、
弁常居士柴武三氏が議論をしていましたが、
互いに自分の解釈の正しさを主張し譲らず、
その結着を弁栄聖者に仰がれた時のこと。

弁栄聖者は机の上の茶碗の中のお茶を呑み干して、二人の前に差出され、
「エーこの茶碗をコー出せば裏の糸底の方でしょう、エー、こう出せば上の方ですね、
同じ話を同じ人から伺っても糸底の方を差出した方はほんの少ししかいただけませんね。
上の方を御出しになった方は沢山いただきなさいますね。
同じ御話を伺っても
その受ける人に依って大変な差が生じます。
同じ器を差出していただくのに、
糸底の方でいただかないようにせねばいけませんね。」
と仰言ってホホホとお笑いになりました。


結局、その時の議論の結着はつかず、
二人は互に、君は糸底ばかり差出しているから
十二分に聖者の御真意をいただくのが少ないのだと、
笑って引き下がったことがありました。

○ 「仏とは自覚ある大常識者である。(弁栄聖者)」
(田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』)

当時、弁栄聖者が蓄えられたかなりのお金を使い込んでしまった者が、
なかなか非を認めようとしなかったので、
「その者を、警察に訴えるように。」
と、聖者が指示された
事件がありました。

聖者の信者達が、「聖者としてはあまりにも無慈悲である」と感じながらも、
その旨をその者に伝えると、
その者は涙を流して、反省の意を表したので、
かわいそうに思い、聖者の指示に反して、許してしまいました。

その者は、また同じ罪を続けたそうです。

後日、弁栄聖者は、
その者が、その時、涙を流して反省の意を表わしたのは、嘘ではないであろう。
しかし、意志弱く、また、同じ罪を犯してしまう。
自分の力では矯正できない者のために(本人に代わって)、
監獄があるのである。」

との弁栄聖者の透徹した「大常識」の一喝を受け、
信者達は、深く納得し、反省されたことがありました。

※ 以下は、この逸話に関連した、
示唆に富む別の逸話でありますので、併せて記します。

笹本戒浄上人に関するもの。

聖者同様に自分の財産を使用人に使い込まれた(盗まれた)戒浄上人の信奉者は、
その者を「警察に訴え」ようと、戒浄上人に相談されたところ、

予期に反し、戒浄上人は、「お止めない」と制止されました。

弁栄聖者のこの逸話をご存じであったその信者は、
はなはだ承服し難い面もちで、戒浄上人に、

「弁栄上人も、警察に訴えたではないですか」と反駁。

それに対し、戒浄上人が、一言。
「弁栄上人と貴方とでは、境地が違います」と仰った。

蛇足で恐縮ですが、
もちろん、戒浄上人は、この信者を貶しているのではありません。

聖者の行為は、一見無慈悲とみえながらも、「大慈悲の発露」
それに反し、この信者(一般に私達)の行為は、
聖者と表面上は似ていたとしても、通常、その発露は、「私憤」から

更に、もう一つ。

 弁栄聖者ご在世当時、
信者同志の間で、世間的にも非難される事態が起こりました。

その事態を知った信者が光明会の事を心配し、
田中木叉上人にその者に注意するように強く要請しました。

思い余った木叉上人は、
「注意をしたものでしょうか」と弁栄聖者にお尋ねになりました。
すると、
「注意をするな」と、聖者の意外なご指示

木叉上人は、こんなことは倫理的にも許されることではない。
弁栄聖者の真意が量り難いと思い、
念のために、聖者に再確認
されますと、

「いやそうではない。
如来様が付いていて下さるから、詣って念仏さえしておれば」


と、聖者から大説法をたまわったとのこと。

この件の後日談を記しますと、

しばらく後に、
「一日三千礼の懺悔念仏をして」、キッパリと互いに手を切ったそうです。

「もしも、自分が注意をしていたら、
その者はキッパリ来なくなり、(念仏とも会とも)縁が切れてしまう。
そうすると、このような事態でありうる最悪の事態を招いていたかもしれぬ。」

と木叉上人は反省されたそうです。

木叉上人が弁栄聖者に邂逅してまだ僅かの時でありましたが、
聖者の「衆生済度の力量」を印象付けられた事件であったそうです。

○ 「元気な若僧でも(弁栄上人の)お供をすると一週間は続かず、
逃げ口上を作つて逃避すると云ふ事である。
ほとうに、そうだと思つた。」

※ (註) 波多野諦道上人は、弁栄聖者を”不断光の権化”と云われました。


最後に、記して置きたい事が幾つかあります。

弁常居士が、
武者小路実篤氏を弁栄聖者に会せようとされたようですが、
タイミングが合わず、実現しませんでした。

中井弁常居士とご縁のあった、
同郷和歌山の松田良信氏は、
徳本行者奉賛会を主宰された、
徳本行者の篤信者として知られた御方。

「仏々相念」とでも云うのでしょうか、
弁栄聖者は、徳本行者を殊のほか尊敬され、
「法然上人以来、徳本行者ほど内感豊かな念仏者は無い」と。


  201808056.jpg
 【大正5年 弁栄聖者56歳】
 (聖者右側(向かって左側)の御夫人が、籠島咲子夫人。

中井弁常居士の信仰に大きな影響を与えられた御方で、
「生ける観音」とも云われ、
弁栄聖者から「妹 咲子」とさえ云われていた、
越後柏崎、極楽寺の籠島咲子夫人。

弁栄聖者は、大正9年12月に、その極楽寺で御遷化。
「うちに帰って、病つて良かった」
と咲子夫人に云われたとのこと。

咲子夫人は、大正2年に、弁栄聖者に邂逅され、
それ以来、折に触れ、聖者の御教化によって、
仏眼まで開かれたと云われた在家で、
聖者とは、心霊界で浅からぬ御因縁の在った御方。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

RSSリンクの表示
検索フォーム
カレンダー
11 | 2018/12 | 01
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
アクセスカウンター
プロフィール

syou_en

Author:syou_en
山崎弁栄(べんねい)聖者(1859~1920)に出遇って初めて、各宗派宗教で説かれている教義、宗教体験が、腑に落ちました。

比較宗教、比較思想に一貫して関心を持ち続けています。

宗教には関心はあるけど、特定の宗派に凝ることには躊躇する。
そういう方も結構いらっしゃるかと思います。

そのような方は是非、弁栄聖者にふれてみてください。


(注)ツイッター(@syou_en)もあります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
twitter
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR